児童文学クロニクル97
02

児童文学のタブー
「1本の棒」にあたるものは一体…

           
         
         
         
         
         
         
         
    
 児童文学は、多くのタブーに囲まれた文学である。もちろん、本物のタブーとちがって、違反したからといって処罰されるわけではないので、もののたとえにすぎない。が、子どもが読むのだと思うと、やはり、書きにくいこと触れたくないことがあるのである。
 ところが、児童文学では20年程前から、「タブーの崩壊」ということがいわれるようになった。たとえば、『日本児童文学』は、1978年5月号で「タブーの崩壊−性・自殺・家出・離婚」を特集した。このきっかけは、ワジム・フロロフの『愛について』や今江祥智の『優しさごっこ』などの出版だった。わたしは、こうしたテーマも書かれるようになったことは、表現の幅が広がったことだから、祝着至極と思ってきた。
 だが、最近、山内昶の『タブーの謎を解く』(ちくま新書)を読んで考え込んでしまった。タブーとはカオスからコスモスを成立させるために不可欠の存在である。たとえば、狩猟採集民が新しいキャンプを作るとき、草を払った土地の真中に1本の棒を置く。すると、棒の左右が男の領域と女の領域に分割されて、コスモスが立ち上がる。と同時に、この棒そのものは、いずれにも属さない境界としてタブー化されるのだという。あるいは、白と黒の分割をはっきりさせるために灰色の部分をタブー化するのだといってもよい。
 だとすれば、児童文学の「タブーの崩壊」も、もっと根本的な変化だったのかもしれない。性ならば性という灰色の部分を書いてしまったのだから。ほんとうは、児童文学は児童文学という同じ名前のままで既に別の文学になっているのに、本人が気づいていないだけなのではなかろうか。
 今日の、児童文学ではなくなった児童文学にとって、1本の棒にあたるものは、なんだろう? 文学という土地の真中にこの棒を置いた人は、いったいだれなのだろう? わたしは、そういう変な問いを考えてしまう。(石井直人)         
      (「図書新聞」第2333号,1997.3.8)