児童文学クロニクル97
07


聖者=賢治というイメージ

次々に刊行される宮沢賢治の本だが…


           
         
         
         
         
         
         
     
 宮沢賢治の本は、とどまるところを知らない。昨年は生誕 100年とのことで入門書やガイドブックがいくつも出版された。だが、 101年めの今年は重量級の本が次々に出ている。昨年末の小森陽一『最新宮沢賢治講義』(朝日新聞社)や、西成彦『森のゲリラ宮沢賢治』(岩波書店)、吉田司『宮澤賢治殺人事件』(太田出版)、天沢退二郎『《宮沢賢治》注』(筑摩書房)などだ。宮沢賢治は、文献学、テクスト論、クレオール文学論といった多種多様な文学論を食い尽くす、さながら雑食性の動物のようである。
 ただし、吉田司の一冊は、その他の本と一緒にはできない。これは、聖者=賢治という神話の徹底した破壊だからである。彼の「イーハトーブ」は、非農民であり金持ち階級の遊民のバーチャルランドにすぎない。彼の「羅須地人協会」は、東京モダンの芸術サロンにすぎない。彼の宗教は、法華経の精神ではなく田中智学のイデオロギーにすぎない……。こうした指摘は、宮沢賢治を歴史的なコンテクストに即して考える姿勢を貫いたことから生まれた。この一冊の読後、かつてのようにうっとりと『注文の多い料理店』の世界に浸ることはできそうにない。
 けれども、宮沢賢治の愛好者は、聖者=賢治というイメージを作り上げたことについて確信犯なのではないだろうか。事実を知っていて、わざと聖者とみなすことにしているような気がするのである。そもそも、メディアに登場した人物は、実在の人間であっても、バーチャルキャラクターと化すものだ。愛好者の愛しているのは、いつだってバーチャルキャラクターとしての作家なのである。だから、私たちが聖者の聖性に自己陶酔するという奇妙な習慣をやめない限り、賢治は、いつまでも聖者であるだろう。童話もまた、いつまでも自己陶酔であるだろう。かつて賢治にうっとりした経験のある者は、私こそその一人なのだが、どうしたらこの自己陶酔を離脱できるのか。(石井直人)                
(「図書新聞」第2351号,1997.7.26)