子どもの本を読む

新潟日報 1987.04.27

       
         
         
         
         
         
         
    
    
 前々から、子どもの本にもっと“時代小説”があっていいのではないかと思っていた。歴史小説ならある程度の作品はそろっているし、斎藤隆介の作品をはじめとする民話風創作はたくさんあって、子どもの本の“まげ物”を代表しているが、もっと楽しい、気楽に読める時代小説が欲しい。そして娯楽時代ものの代表格はやはり「捕物帳」である。
そうたいした作品とは思えない江戸川乱歩の怪人二十面相のシリーズが、いまだに子どもの本の世界で一、ニを争うベストセラーなのを見るにつけ、また男の子に読書の楽しさを知らせる上でも、捕物帳は格好の素材だと思うのだ。

 そんな折、去年の暮れからこの三月にかけ、那須正幹、筒井敬介という、いわば児童文学界きっての新旧のエンターテイナーが、その捕物帳を出した。那須の「お江戸の百太郎」、そして筒井の〈おいらお江戸の探偵団〉シリーズ三冊「まんじゅうをつかまえろ」「にげだした木馬」「猫がくった鯉のぼり」である。那須は〈ズッコケ三人組〉のシリーズで多くの読者を得ているが、この〈百太郎〉もシリーズ化するようだ。
 さて、捕物帳を現代の子どもたちに提供する場合、大きく二つの問題があると思う。
  小道具と舞台装置
 一つは、舞台装置や小道具の問題。東映時代劇やチャンバラごっこで育ったわれわれとは訳が違う。
 テレビで父親と捕物帳を見ている子ならともかく、そうでなければ例えば「十手」だってわかるかどうか。また、家老と足軽、旗本と大名、姫と奥方ぐらいの区別はつけてくれないと、チンプンカンプンだろう。その点、那須も筒井もそうした説明的部分をうまく本文に溶け込ませることに成功している。
  子どもの活躍の場
 もう一つの問題は、犯罪捜査という基本的に大人社会の出来事に、どう子どもをからませていくかという点である。「お江戸の百太郎」は、帯に「ズッコケおやじとシッカリむすこの痛快捕りもの帳」とあるように、大仏の千次というやや頼りない岡っ引きに、百太郎という「少年探偵団」の小林少年も真っ青な優秀な息子がいて父親の捜査を助けるという設定で、この問題をクリアしている。
 一方の〈おいらお江戸の探偵団〉の方は、「目明かしの『猫足の親分』と、その寺子屋の子どもたちがであう不思議な事件!?」と帯にあるように、目明かしが寺子屋の師匠兼業で(唐突だが、これはテレビの「ウルトラマン80」で、ウルトラマンのふだんの仕事が中学校の先生だったという設定を思い出させる)、この寺子屋の子どもたちが師匠=親分の事件にからんでいくという形で、子どもたちに活躍の場を与えている。
  外国の探偵もの
 「お江戸の百太郎」の方が、かどわかし・ゆうれい騒ぎ・お家騒動など、いかにも事件らしい事件の展開と、百太郎を中心としたなぞ解きのおもしろさで読ませるのに対して、〈おいらお江戸の探偵団〉の方は、事件をとりまく人間模様、親分と子どもたちをめぐる人情ばなしという趣である。いずれにせよ、子どもの本に出現した二つの捕物帳の誕生を喜びたい。
 探偵ものと言えば、他に「盲目の目撃者」と「スタンド・バイ・ミー」を読んだ。前者は現代インドの作品。後者はむしろ冒険ものというか、十二歳の四人の少年の死体捜しを追っている。同名の映画の原作だが、成長小説としても読める優れた作品である。(藤田のぼる

お江戸の百太郎(那須正幹:作 長野ヒデ子:画 岩崎書店)
おいらお江戸の探偵団 巻の一「まんじゅうをつかまえろ」巻のニ「にげだした木馬」巻の三「猫がくった鯉のぼり」(筒井敬介:作 井上洋介:絵 小峰書店)
盲目の目撃者(アルプ・クマル・ダッタ:作 鈴木千歳:訳 小澤重行:絵 佑学社)
スタンド・バイ・ミー(スティーブン・キング:作 山田順子:訳 新潮文庫)
テキストファイル化大澤ふみ