子どもの本を読む

山形新聞 1989.06.24

           
         
         
         
         
         
         
    
    


 子どもの本とは言い難いが、灰谷健次郎の「少女の器」を読んだ。主人公の絣(かすり)の中学三年から高校二年までを追った遺作である。版画家の父と大学で美術を教える母は離婚していて、絣は母と暮 らしながら、時折父を訪ねる、といった設定になっている。
 第一話は新たな同居人(つまりは母の”相手”)の出現、父の恋人との出会いといったことを背景に、「立派なパパでも憎むことができるし、駄目なママでも愛することができる」という絣の心憎いセリフで締めくくられるが、第二話以降この言葉の中身が深められず、絣の(確かに)鋭い批評眼にかなう人物ばかりが配されていったのは惜しい。
それと、第一義的な意味で、ともかく親は子ども を育て、子どもは親に育てられる存在であるという部分が描かれていない気がする。そこをおいて、親と子が形而上学的に向き合うのは苦し過ぎる。
「ざわめきやまない」(高田桂子)は、中学三年の里子の、母が去った後の三ヶ月を描いた物語である。父親の単身赴任、弟の病死といった背景の中で、母親はアルコールにおぼれるようになり、ついには「三ヶ月時間をください」という置き手紙を残して姿を消す。京都から駆け付けた祖母との生活が始まるが、つまりこれは母親不在(そしてその向こうに見える父親不在)の物語といえる。
だが、母の不在はいささか肌合いの違う祖母との対比も手伝って、これまで空気のようにまとわり付いていた母の日常のありよう(それは無意識的な育て方ということにもなるだろう)を、里子に意識させることになる。不在でも観念的な対話は可能だが、そうした皮膚感覚的なせめぎ合いは、無論つくり出 すことはできない。
いわば里子は原初的な地点から自身のアイデンティ ティーを再構築することを迫られるのだが、そこで キーになっているのは、里子が小さい時弟によく歌ってやった歌を思い出すプロセスである。そのシーン は里子にとって原風景ともいうべきもので、歌が次 第に明らかになるにつれ、小さい時の弟への思い、母への思いの内実が次第に明らかにされていく構成は見事だ。
 ただ、里子の思いに比べて、最後には戻ってくる 母親の側の思いは、”状況”という言葉以上には見えてこなかった点はもどかしい。それはまた別の物語ということなのだろうか。
 「わたしは、ユキ」(中川陽子)は、タイトルのトーンとは裏腹に、母の側の思いが物語世界の少なくとも半分は支配している。第一話の「遺影」では、おばの葬式に出るためにいそいそと喪服を着る”練習”をしている母の姿に娘のユキが反発を感じるところから話が始まる。「悲しくないの」と問うユキに、「同窓会みたいなもの」と応じる母。葬式から帰った母親は自分の”遺影”用の写真を特別に作り、ユキにこっそりと見せる。
 物語がややドラマ作りに堕するきらいもないではないが、この母親像にはなにかしらエロスがあり、僕はこれを肯定したいと思った。
 「おかあさんへ」(プレーガー)は、西ドイツのごく平均的と思われる家庭が舞台。勤めに出ようとする母親と、それを素直に受け入れられない娘との葛藤(かっとう)。その葛藤がとけていくプロセスには特別のドラマがあるわけではなく、いわば自然に、という感じなのだが、そこをそう描けるところがすごい。そして家族とはそういうものではないだ ろうか。(藤田 のぼる
「本のリスト」
少女の器(灰谷健次郎:作 新潮社)
ざわめきやまない(高田桂子:作 永井泰子:画 理論社)
わたしは、ユキ(中川陽子:作 斉藤薫代:画 けやき書房)
おかあさんへー母の日おめでとう(アヒム=プレーガー:作 浜田桂子:画 講談社)
テキストファイル化戸川明代