子どもの本を読む

山陰中央新報 1990.10.25

           
         
         
         
         
         
         
    
    
 今の子どもたちの金銭感覚ということについて時々考える。例えば毎日の小遣いは十円で、何かあると百円もらえ、お年玉で五百円といった僕らの子どもの時代と、金額が違うことは当然だが、それよりもそうした日常の中での同心円的な消費感覚といったものが失われていることの意味が大きいのではないか。かつては十円には十円分の、百円には百円分のリアリティーがあったのだけれど、今の子たちにとってそれはただの数字になっているように思える。
 「サマー・オブ・パールズ」は、このところ活躍の目覚ましい斎藤洋の、初めてのジュニア小説にしてラブストーリーだが、そのあたりの今の子の雰囲気を実によくとらえている。
 中学二年の進は、親友の剛と、クラスの女の子の恵子をめぐって張り合っている。九月一日の恵子の誕生日にプレゼントをしようと、剛はアルバイトを始めるが、進の方は毎日夏期講習でお金はたまりそうにない。ところが、進の叔父が株取引の仕事をしていて、進は成り行きでこの叔父さんから百万円借りることになる。そこで、進は叔父さんの下で働いている服部さんに頼んで株を買う。大学で証券研究会に入っている兄の勇から株の仕組みを聞いたことがあるのだ。
 こうした設定に始まり、ストーリーは、お金の話と、進が恵子ではなく、夏期講習で一緒の直美のほうに引かれていくプロセスを、巧みに絡ませて展開する。最後に、進が株でもうけた金で、十二万円の腕時計を抽選で当たったことにして直美にプレゼントし、十一万五千円の真珠の指輪をティッシュに包んで恵子にあげる(もらった方は、イミテーションと思っている)あたり、この世代の読者たちのひそかな喝さいを浴びるのではないか。
 「ぼくらの空きカン回収作戦」(かねこかずこ)は、対照的に、何百円のために汗を流す子たちが描かれる。勝也は、偶然知り合ったおばあさんが、交通事故で死んだ孫娘のために地蔵を建てたいと、古新聞を集めてお金をつくろうとしているのを見て、自分たちも手伝おうと、アルミ缶の回収を始める。やっとの思いで一万円になるが、地蔵は三十万円。しかし、おばあさんはお金がないのではなくて、自分の不注意で孫を死なせたその罪滅ぼしにと、あえてつらい古紙回収をやっていたのだ。
 ところが、地蔵を建てる許可は下りず、自分の家屋敷をつぶして子どもたちの遊び場にしたいというおばあさんの最後の願いも、相続税の問題などを持ち出してマンションを建てようとする息子に押し切られてしまう。ここでは、今の社会の中で、子どもたちの゛善意゛の届くところと届かないところがシビアに描き分けられている。
 「あした、億万長者」(ルイーズ・フィッツヒュー)は売れない作家の父親と二人暮しの少年が、離婚した母方の祖父の多大な遺産を受け取ることになる物語。お金や物のことしか頭にないような母親や叔母の容赦のない描き方は、日本の児童文学にはちょっとないものだ。
 「一万円札のたび」(加賀見遼)は、<お金のはたらきと私たちのくらし>の副題を持つ知識絵本。紙幣の実際のつくられ方や流通の仕組み、さらにはオンラインや為替レートのことなどが、分かりやすく説明されている。私たちが考えている以上に、これらは今の子たちにとって身近な問題だという気がする。(藤田のぼる
「本のリスト」
サマー・オブ・パールズ(斎藤洋:作 講談社)
ぼくらの空きカン回収作戦(かねこかずこ:作 末崎茂樹:絵 文研出版)
あした、億万長者(ルイーズ・フィッツヒュー:作 鴻巣友季子:訳 久住卓也:絵 講談社)
一万円札のたび(加賀見遼:作 鴇田幹:絵 岩崎書店)
テキストファイル化日巻 尚子