子どもの本を読む

京都新聞 1990.11.27

           
         
         
         
         
         
         
    
    
 ぼくらは皆゛物語゛の中で生きている。物語とは、僕らの周りにあるバラバラな事実やデータ、あるいはこれから予想され得る出来事などを関連づけ、そこに一本の線を通してしまう糸のようなものだ。
 例えば、いい学校に入り、いい会社に入り、マイホームを建てて・・・などというのは、そうした物語の最たるものだろう。それらは人を支え、励ましもするが、時にわれわれを束縛したり、支配したりもする。とりわけ、将来について選択の幅の大きい子どもたちにとっては、どんな物語によって武装するかは大きな意味を持つだろう。
 「東京セントラル小学校のなぞ」(小倉明)は、いじめ、パソコンといった今様の題材に絡めて、現代の子どもたちが自分たちを励ましてくれる物語を獲得しようとする姿を追っている。
 ひどいいじめられっ子だった芳郎は、転校していくときに、純太に不思議なことを言い残す。東京のどこかに、みんなが力を合わせて勉強していて、そこを卒業するとだれにも負けない不思議な力がつくという゛東京セントラル小学校゛があるという。
 今度は自分がいじめにあうことになった純太は、作り話だとばかり思っていた東京セントラル小学校のバッジを拾ったことで、なんとかこの学校を探し出そうと思う。そのパートナーになるのは、クラスメートの彩子と、そのいとこのコースケで、手掛かりの乏しい学校探しに、コースケのパソコンが威力を発揮する。ここから物語はややSF風な展開を見せながら、子どもたちの願いが次第に一つの形を帯びはじめるプロセスが描かれる。
 「砂漠の宝―あるいはサイードの物語―」(ジクリト・ホイク)は、北アフリカやアラビア半島を舞台にしたスケールの大きなファンタジーだが、物語の中で物語が語られるという二重の構造になっている。
 砂漠を進む隊商の中に初めて旅に加わった少年アブリがいる。ようやく旅も終わりにさしかかったころ、旅の語り部スレイマンが道連れとなる。彼はアブリたちが見聞きしたことや周りの事物を巧みに取り入れて物語を語りながら、物語とはどのようにして生み出されるものであるかをもアブリに語り聞かせる。
 このあたりの重ね方、タテ糸とヨコ糸を織りなしていく様は実に見事で、読者はスレイマンの語る砂漠の宝探しの物語に聞き入るアブリとほとんど一体となってしまう。「東京セントラル小学校のなぞ」にせよ、砂漠の宝にせよ、子ども読者は一見懸け離れたものに見える虚構と現実とが、実は背中合わせのものであることを学ぶだろう。
 「こころのかたちだせるかな」(かみやしん)は、画像によって一つの世界が形づくられていく原点をそのまま提出したとも言える実験的な絵本。ごくラフに描かれた絵筆を持つ人物と、それによって描かれた画像(といっても大胆な丸とか三角とかそのままだが)が交互に現れ、心を絵で表現することの楽しさが画面いっぱいに主張されている。小さな子たちに出合わせてみたい一冊だ。
 「つきよのかいじゅう」(長新太)は、ダイナミックな仕掛けと、とぼけたおかしさが奇妙にとけあった不思議な絵本だ。画面はほとんどが夜の湖で、そこでひたすらかいじゅうを待ち続ける男の姿は、なにやら自分のための物語を追い続ける人間の姿と見えなくもない。(藤田のぼる
「本のリスト」
東京セントラル小学校のなぞ(小倉明:作 赤星亮衛:絵 くもん出版)
砂漠の宝―あるいはサイードの物語―(ジクリト・ホイク:作 酒寄進一:訳 福武書店)
こころのかたちだせるかな(かみやしん:作 佼成出版社)
つきよのかいじゅう(長新太:作 佼成出版社)
テキストファイル化日巻 尚子