『現代日本児童文学への視点』(古田足日 理論社 1981)

4、少年倶楽部・宮沢賢治

 前記瀬田貞二の意見は、昭和三十五年に出た『子どもと文学』という本にのっている。石井桃子・瀬田貞二・いぬいとみこほか三人の共同研究による本で、その本の「はじめに」は次のような一節がある。「世界の児童文学のなかで、日本の児童文学は、まったく独得、異質のものです。世界的な児童文学の規範−−子どもの文学はおもしろく、はっきり、わかりやすく、ということはここでは通用しません。」
 つまり、この”世界的規準”から坪田童話は批判されたわけだが、坪田について、というより日本児童文学全体についての批判は別の方面からも出されている。
 映画評論家佐藤忠男は昭和三十四年、雑誌『思想の科学』に『少年の理想主義について−−少年倶楽部の再評価−−(注1)』という評論を書いた。
 彼は言う。「大正の末年から日華事変にかけて、事実上、日本の児童文学の主流は『少年倶楽部』にあった」。その理由はまず「『少年倶楽部』の百万近い発行部数」、したがってその「影響の大きさは測り知れない」ところにある。
 おとなの文学の場合、こうした考え方は成り立ちにくい。『宮本武蔵』が百万の読者を持ったにしろ、吉川英治を中心にして文学史を考えることはできない。だが児童文学の場合、佐藤の考えを成立させる根拠はあった。
 前に教育と児童文学は密接な関係があると書いたが、低い次元ではしつけ童話ということばがあるように、子どものいわゆる人間形成と読書とはかかわりあっている。よくいわれるように子どもは吸収紙みたいなもので、おとなとはくらべものにならないほど強く周囲の事柄から、ものごとを学びとっていく。
 だから、子どもの環境をよくしよう、俗悪な本から子どもを守ろうという声が出てくるのであり、その声は戦後の児童文学運動の一特徴となる。人間形成を軸として児童文学を見る考え方が戦後強力になったのであって、この立場からすれば質はとわず、量的なものも影響力の広がりという点で問題になる。
 さらに『少年倶楽部』は読者の数が多かったというだけではなく、強力なイデオロギーを持っており、子どもに来るべき人生、社会に対するひとつの態度を形成させる力を持っていた。佐藤は言う。
 現在の自分の能力ではとてもその全貌をつかむことの不可能なこの世界。その前に直面させられ、それを組み伏せようとして、この時代(小学校の上級から中学校の初級・古田)の子どもは強く観念的なものを求める。自分がこれから組みこまれていくところの世界を把握するに足る明確な手ごたえのあるイメージを模索する。(中略)イデオロギーの善悪はともかく、少年時代に特有のこうした不安定な心を、ムキになってぶっつけてゆくことのできるたしかな手ごたえが、これらの小説の中にはあったのだ。
  「これらの小説」というのは、昭和初年から日華事変のころまで『少年倶楽部』の全盛時代に同誌にけいさいされた小説のことで、作者としては佐藤紅緑、佐々木邦、高垣眸、山中峰太郎、池田宣政(南洋一郎)、平田晋策、海野十三などである。
 そして、佐藤の言うとおり、これらの小説にはたしかに「手ごたえ」があった。昭和の『少年倶楽部』にあらわれた講談社イデオロギーは初期には佐藤紅緑の立身出世主義、のちには山中峰太郎の国家主義に代表されると思うが、そうした主張を明確にうちだした作品をただの娯楽読物としてかたづけることはできない。
 『少年倶楽部』が日本の児童文学にむかって提出した問題のまず第一は、子どもを成長の過程にあるものとしてとらえたことである。佐藤の言うようにこれから生きていかねばならない、おとなの世界を模索している少年たちに、その世界のイメージと生き方が示されたのである。
 世界の全体像と生き方−−これは童話にはないものであった。しかもその世界では正義はつねに勝つ。その上、それが仮空のものとしてつくりあげられているのではなく、荒けずりだが強烈な現実感に支えられていた。『少年倶楽部』の作家・編集者たちはその世界像と生き方を疑わず、子どもがそのように生きることを要求したのである。
 世界像と生き方を『少年倶楽部』の第二特徴とすれば、この要求ということは第三の特徴となる。子どもの人間形成についての作家・編集者の強烈なよびかけがおこなわれたのであり、要求されるということは子どもが独立の人間として、あいてにされているということである。『少年倶楽部』では子どもはおとなに守られる存在ではなく、外界とたたかって生きていかなければならない人間としてあつかわれたのである。
 ただし、これは近代的な人間関係として子どもを、対等の人格と見たというわけではない。小学校や小学校高等科を出てすぐ働かなければならない子どもたちは現実に独立している人間なのであり、この現実肯定の上に立つとき子どもによせる同情や、観念的な社会批判は何の役にも立たない。この生存競争の社会を強く生きぬくこと、それが独立であった。
 もし昭和の少年の人間形成史とでもいうようなものをたどるなら、以上のような性格を持つ『少年倶楽部』はまさしくその主流に位置していると見ることもできる。しかし文学史は人間形成の歴史ではない。佐藤紅緑、山中峰太郎の教育的な信念はみごとなアジテーション的文体をつくりだした。しかし、それ以上のものではなく、現実感はあっても真実性はない。
 佐藤忠男が、『少年倶楽部』論を展開しているその理由の一つは、その少年時代「小川未明や坪田譲治にはほとんど退屈以外の何ものをも感じることが出来なかった」し、『少年倶楽部』には「血わき、肉おどる思い」をさせられたからである。だが、こうした少年時代の実感を一般化することはあやまりであり、おなじ実感に立つなら、少年時代のぼくは、小川未明の『金の輪』に人生の深淵をかいま見た感じを受けたし、『善太の四季』で善太が死ぬことに泣いた。ぼくは善太三平と共に佐藤紅緑や高垣眸を愛読したが、両方をなんとなく区別して読んでいた。前者には心の底にくいいる深さ、ことばには表現できないものがあり、後者には思いだしてもかみしめたくなるような深さはなかった。かわりに人生いかに生きるかは、たしかに佐藤紅緑から学んだのであった。
 だが、擬似的なものであれ、『少年倶楽部』には全体像と生き方があった。また山中峰太郎の『大東の鉄人』にしろ、海野十三のSF的なものにしろ、そこには想像力が働いていた。これは芸術的児童文学にはないものである。佐藤忠男は言う。
 我々は(中略)善意の児童文学が、子どもたちに、喜ばれないことを嘆く前に、日本にはかつて、一篇の『ハックルベリイ・フィンの冒険』も『十五少年漂流記』も『クオレ』も『飛ぶ教室』も創作されなかったことをこそ究明すべきだろう。
 これはまったくそのとおりである。だが、新しい創作が『少年倶楽部』の遺産の上に成り立つとはぼくには思えない。新しい児童文学は芸術的児童文学及び『少年倶楽部』双方への否定の上に立たなければ生まれてこないのではなかろうか。



 ところで、童話作家たちが同人雑誌にたてこもり、『少年倶楽部』が子どもの心をひきつけている時代、東北岩手では宮沢賢治が独自の空想世界を創造しつつあった。
 賢治の童話はいままで見てきた童話とは異質である。石井桃子たち『子どもと文学』グループは言う。
 「彼の文学は日本に珍しいファンタジーとなり、そのファンタジーもきわめて類のない独特なものであった、と思います。」
 ファンタジーは石井桃子たちによれば「わざわざ非現実をとり入れて、純粋化し、複雑化することによって、伝承文学の魔法の世界とはまたべつの、美しい世界をつくりだし」たものであり、「文学でも、子どもの文学のなかだけで、一ばん美しい花をさかせることのできる」ものである。よく知られた外国作品でいえば『ピーターパン』がその一例である。
 未明、広介などの童話と賢治童話がちがうのは、その空想の質である。未明、広介童話は現実と密着している。未明の作品は現実と作者の主観の童話的表現であり、広介は情緒で現実をいろどりながら願望のかなえられる世界を書く。が、その願望は現実世界のおとなの願いである。共に子どもののびのびとした空想ではない。
 子どもののびやかな空想に根をおろしたのが賢治童話であり、そこでは「人は一瞬にして氷雪の上に飛躍し大循環の風を従えて北に旅する事もあれば、赤い花杯の下を行く蟻と語ることも出来る(注2)」そして、「不思議な都会ベーリング市まで続く電柱の列」という賢治の心象、この心象は未明、広介のように現実にしばられたものではなく、想像力の翼に乗って現実をこえたものである。
 想像力はさらにフィクションの創造ともかかわりあう。賢治童話は本格的なフィクションであった。そして、その文体とイメージはいま読みかえしてみても新鮮である。
 賢治の童話はこうして今日、日本児童文学の一種の理想像として考えられている。賢治は自分の童話を「少年少女期の終り頃からアドレッセンス中葉に対する一つの文学としての形式(注3)」と述べ、「卑怯な成人達に畢竟不可解なだけである(注4)」と書いた。賢治童話は児童文学として完成することによって、文学となったのであった。賢治の創作活動は大正十年にはじまっているが、以後その死の昭和八年に至るまで、彼は文壇とも児童文学者の世界ともほとんど関係なく自分の作品を書きつづけた。しかし、賢治の孤立は当時よりも現在において問題である。賢治の死後すでに三十年、賢治童話の愛読者は多いが、賢治的な作品は生まれない。賢治の発想、文体はまだ日本児童文学全体のものとなっていないのである。


注1 のち単行本『少年の理想主義』に収録 明治図書
注2・3・4 『注文の多い料理店』宣伝文
テキストファイル化内海幸代