『現代日本児童文学への視点』(古田足日 理論社 1981)

日本児童文学・現在の問題点をさぐる
---- あとがきにかえて ----

 この評論集は本来七五年、おそくとも七〇年代後半には出しておかなければならなかったものである。この本におさめた評論のほとんどは七〇年代前半に書いたものなのだ。つまり七〇年代の中間報告として出しておかなければならなかったものを今ごろ出す、というぶざまさを胸に刻みつけたい。なにしろゲラが出てから二年半の月日がたっている。
 理論社編集部の後藤洋一氏とのあいだでも、後続のものを加え、書き足し、来年以降の本にするかという話も何度か出てきた。でも、書き足りないところが多すぎる。それを待っていたらまたまたおくれる。それ以前に現代日本の児童文学についてのぼくの考えを人々にしらせ、また批判してもらいたいと思ったので、やはり出させてもらうことにした。
 だが、長いあとがきをつけるということは、ゲラが出た七八年四月からの後藤さんとの約束でもあり、それにときどき読者からいわれることがある。「『児童文学の旗』(理論社)のように『七〇年代をふりかえり、八〇年代を展望する』というのは、いつ出るんですか」と。
 そのテーマについてのくわしいことは次の評論集にゆずることになるが、アウトラインとまではいかなくても、きれぎれの見取り図なり、柱の何本かをどこにどう立てるかはしるしておきたい。 
 以下、この数か月のあいだに評論を書いたり、講演に行ったり、友人、編集者と話したことを思い出しながら、今いったことを日記風にしるしておこう。「風に」というのは、ぼくには日記をつける習慣はないし、また日記そのものでもないからである。

六月 日
 机にむかう。テーマは「民話と文学」、『幼年時代』という雑誌からの依頼である。最初のしめきりからもう半年のばしている。といっても何もやらなかったわけでもない。枚数二十〜二十五枚というところ、二月に十八枚まで書いたが、かんじんのいいたいところへ手がとどかず、序論だけになってしまったので、しばらく放置することにしたものだ。
 三月末日に三年半つとめた山口女子大学をやめた。やめる前講演その他でいそがしく、四月中旬東京に帰ってきてからは腰痛と頭痛になやまされているが、さいそくがあったので机にむかったという次第。

六月 日
 「民話と文学」、先日書きはじめたものもやはり十八枚でストップ。構想を新しくしなければだめだ。三回めの構想を次のように立てる。
一.一九六七〜七二年にかけて、民話系諸作品(再話を含む)が現代日本児童文学の中に確乎たる位置を占める。六七年松谷みよ子『やまんばのにしき』(ポプラ社)、斎藤隆介『ベロ出しチョンマ』(理論社)六九年大川悦生『あほう村の九助』(ポプラ社)、七二年さねとうあきら『地べたっこさま』(理論社)等。以後堕落、この興隆期の遺産の食いつぶしになっていく。この遺産の食いつぶしは七〇年代の児童文学作品の質の低下の一環を形づくっている。七九年松谷みよ子『おにのめだま』(ポプラ社)には再話の新しい方向があるのではないか。
二.六七〜七二年に獲得したものは何か。それ自体に問題はありはしなかったか。民話信仰と民衆信仰への傾斜。これへのアンチテーゼが『地べたっこさま』だった。
三.民話そのものの限界。かつて吉沢和夫が民話は広い社会認識に欠けることを指摘していた。
四.民話風創作は作者の近代的自我の確立なしには生まれなかったのではないか。
五.民話的認識(とまで拡大できるかどうか?昔話的認識とでもしぼる方がよいか)とでもいう認識方法があるかどうか。これは昔話の方法・型式と密接不可分。これについての参考書、マックス・リューティ 小沢俊夫訳『ヨーロッパの昔話-その型式と本質』(岩崎美術社)、同野村滋訳『昔話の本質』(福音館書店)ほか小沢の編集書。河合隼雄『昔話の深層』(福音館書店)、ベッテルハイム 乾侑美子訳『昔話の魔力』(評論社)等。
六. できたら、ファージョン『銀のしぎ』(岩波書店)について。これは民話を材料にしたすぐれた創作だ、と思う。

六月 日
「民話と文学」、やっと書きあげる。新らしく書きはじめてからざっと一週間。三度めの挑戦でやっと何とかなった。二十七枚。「現代日本児童文学中の民話風創作を中心に」という副題をつける。副題どおりのものになったわけで、民話的認識・昔話的認識という、昔話の型式と深層心理の問題にはまるきり手がつかなかった。もっとも取り組んでみても、いとぐちさえみつけ出せなかったかもしれない。
 またこの「民話と文学」を書くバネになった、民話信仰・民衆信仰とでもいうものに対するぼくの不信の念、これもきちんと出せなかった。自民党衆参両院選挙大勝の中でつくづくそう思う。

七月 日
 今江祥智の全集(『今江祥智の本全22巻』理論社)の解説に取りかかって、もうざっと十日。『海の日曜日』をおさめた巻。好きな作品だ。だが、また時間と競争だ。
 今まで見えなかったものが見えてくるのは楽しいことだ。『海の日曜日』が死と再生の物語であることにはじめて気がついた。いや、これまでぼくは「しばしのやすらぎ」と読んでいたわけだが。
 もう一つ重要なことは、ぼくは最初にこの作品に「自由」への願望があると読んだが、その後ぼくの内での「自由」が自己増殖してしまっていた、そのことに気がついた。草原を駈ける自由、星空を駈ける自由としてこの作品に表現されている「自由」を、「原自由」と呼ぶことにした。ぼくのなかでこの「自由」はいわば"市民の自由"とでもいうものにふくれあがっていたのだった。
 そこから思う。現代日本児童文学の中で"貧困からの自由"の主張は強かったが、「自由」を一つの権利とする主張はほとんどなかったのではなかろうか。"貧困からの自由"を拡大して"圧制からの自由"を主張することはあった。しかし、「自由」獲得の積極的主張、それは「自由」の内実を追求し、その内実を持つ自己を形成する道すじをさぐることともほぼ等しいと思うが、その主張・追求がなかったのではないか。八〇年代の問題の一つかもしれぬ。

七月 日
『海の日曜日』解説の初校ゲラ出てくる。うしろ三分の一ほど、全面的に書き改める。ぼくといっしょに仕事をする編集者に対して、いつも申しわけないと思う。期日に原稿入れたためしなし、ぎりぎりになって原稿渡して---こんども編集部の日比野さん、この解説原稿のため五回はうちにきたろうか。途中まで渡し、次また数枚ということもあり----ゲラになってもまだ直している。
「再読『海の日曜日』」(という題名をつけた)、やはり二十七・八枚だろうか。取りかかって三週間近い。「民話と文学」も山口で書いていた時間は別にして、おなじく二・三週間か。資料を読んで構想を立てるのにその前一週間。三・四週間で二十七・八枚の評論というのが、ぼくのペースということになる。だいたい大づかみにわかっているものの場合だ。評論ではやはり食えない。

『海の日曜日』の結末をぼくは「母の胎内のイメージ」ととらえた。ここには根原への回帰がある。根原志向ということばをぼくは雑誌の座談会や講演で何度か使ってきた。七〇年代初頭の動きにはそれがあった。七二年にそれがきわだって目だつ。この年二月の『地べたっこさま』をはじめとして、斎藤惇夫『冒険者たち』(アリス館)、いぬいとみこ『くらやみの谷の小人たち』(福音館書店)、神沢利子『銀のほのおの国』(福音館書店)と続いていく。民話風創作の『地べたっこさま』はぼくたちの心の深層のどろどろとしたところをあかるみに出す。他の三作は神話にかかわりを持つ。『銀のほのおの国』は再生した神話そのものに近く、他の二作も神話に根ざしているところがある。
 この年の安藤美紀夫『でんでんむしの競馬』(偕成社)もやはり根原志向の一つだ。自分の出発点、少年時代の京都の路地への回帰である。このいわば個人の出発点への回帰という系列では、七一年関英雄の『小さな心の旅』(偕成社)、七三年今江祥智の『ぼんぼん』(理論社)があり、七九年の神沢利子『いないいないばあや』(岩波書店)に至る。前者の民話・神話の系列には七六年松谷みよ子の『死の国からのバトン』(偕成社)がはいるだろう。
 七〇年代をつらぬく動きとしてこの根原志向、自己の出発点の再確認というものを見ることができるかどうか、一つの仮説として考えてみたい。ぼくの『おしいれのぼうけん』(童心社)も根原への回帰、胎内での再生をあきらかに意図したものであった。『海の日曜日』は六〇年代と七〇年代のつなぎめに位置する作品で、六六年十二月刊、翌六七年がやはり根原志向につながる民話再話・民話風創作の出てくる年であった。

七月 日
 日本児童文学者協会の広島セミナーの準備で、本の読み返しをはじめる。ぼくが出るのは評論の分科会、テーマは「おとなの文学と子どもの文学」にきめて、次のようなレジメを出している。

一、井上ひさし『偽原始人』(朝日新聞社)、大石真『教室二〇五号』(実業之日本社)、古田足日『宿題ひきうけ株式会社』(理論社)の比較、なぜ一方はおとなの文学で、なぜ一方は児童文学なのか。
二、クレイグ・ライス『スイートホーム殺人事件』(ハヤカワミステリ文庫)をどう考えるか。ケストナー『二人のロッテ』(岩波書店)が比較作品たりうるだろう。
三、立原えりか『妖精たち』(角川文庫)の諸作品はどういう児童文学か。また斎藤隆介『ベロ出しチョンマ』も。
四、三浦哲郎『木馬の騎手』(新潮社)はなぜおとなの文学と見なされ、後藤竜二『故郷』(偕成社)はなぜ児童文学なのか。また川村たかし『新十津川物語』(偕成社)は。なお「子どもの論理」も問題になるだろうし、リンドグレーンも話題になるかもしれない。灰谷健次郎『兎の眼』(理論社)も。


おとなの文学と子どもの文学のちがいは七〇年代最大の問題の一つである。『木馬の騎手』の中の一編「鳥寄せ」はそのまま児童文学としても通じるのではないか。『故郷』の後半や『新十津川物語』の方がかえって読者対象は上なのではないか。
 もしも『偽原始人』がああいう本づくりではなく、子どもの本のつくりで出版されたらいったいどうだったろうか。やはり子どもは読む、と思う。では、子どもが読むものはすべて児童文学なのか。ちがう。ぼくは小学校四年の時、矢田挿雲の『太閤記』毎月の配本を待ちかねて読み、これが近視の原因となった。五年の時に古文の『太平記』、六年『南総里見八犬伝』等、父親の本のうち読めそうなのを手あたりしだい読んでいた。
 『偽原始人』を取りあげたのはもしかしたらまちがいかもしれない。パロディとしての深みなし。学識的批判にとどまる。ことしの那須正幹『ぼくらは海へ』(偕成社)には子どもへの接近の熱い態度があった。結末に不満が残るが、これはまさしく児童文学である。ただ『偽原始人』のように破目をはずすところが、現代日本の児童文学にはない。『ぼくらは海へ』で思い出したが、大人ものの藤原審爾『死にたがる子』(新日本出版社)、城山三郎『素直な戦士たち』(新潮社)、共に現代の家庭の荒廃とその中の子どもを書くが、どうも中途半端。やはり灰谷健次郎の正攻法、熱い態度がいい。ふっと山口裕一『長者スカの秘密』(アリス館)を思い出す。あまり評判にならなかったが、この方向をもっと推し進めたものが現代児童文学に必要だ、と思う。全体にかたすぎるが、まともに生きようとする子どもたちの姿を正面からとらえようとしている。
テキストファイル化小野寺紀子

next