十月 日
 隣接分野からの協力を望むにはこちらがしっかりしなければならぬ。つまり、ぼくにとっての仮説を提出することだ。譲治『お化けの世界』の結末には「久助君の話」に通じるものがあった。
 書きながら、これを書こうとするぼくのモチーフが次第にあきらかになっていくのを感じる。先日、『日本児童文学』の特集「幼年童話の危機」の座談会で砂田弘が、六〇年代の幼年童話には"子どもの発見"があったという、ぼくの説に対していった。「しかし、それは一面的なものでトータルなものではなかったでしょう」。そうなのだ。伝統的な児童文学批判にはじまった現代日本児童文学は、遺産の継承をおろそかにした側面を持つ。トータルな子どもをとらえるには譲治・南吉のやり残した仕事がある。いや、継承からはじまるのではなくて、トータルな子どもをとらえようとする動きのにぶかったことから問題ははじまるのだ。そして、トータルな子どもをとらえようとする時、その手続きの一つの中に過去の遺産の継承が出てくるのである。
 このトータルな子ども像という大きなモチーフとともに、ぼくの中には一人の子どもが自転車で走り、そのそばをもう一人の子どもが汗をふき、息を切らして走っていく情景が浮かんでいる。二人は小学二年生、市営プールに行く途中である。学区外へは自転車で行くこと禁止、プールは学区外にあり、一人の子どもは自転車を学区の境に止めて走っているのだ。これは実話である。
 この時、二人の子どもは何を思ったか。二人がプールに着いた時、それぞれの顔に何を見たか。それは久助君のようにおたがいに見知らぬ人間であったかもしれぬ。また南吉の「屁」の主人公の春吉君は、人に罪をかぶせて知らん顔をしていることもこの人生では許されるのだ、と思った。学校の規則をプールに行く一人は守り、一人は破って知らん顔をしている。春吉君の土着的文化への埋没を越えたところにある新しい道をぼくたちは見出さなければならぬ。春吉君の埋没が単純な埋没でないところに南吉継承の可能性がある。
 そして、南吉「小さい太郎の悲しみ」もぼくにはやはりプールへ行く二人の子どもの姿と重なりあう。南吉はこの作品で「泣いて消すことのできる悲しみ」と、「泣くことのできない悲しみ」との二つを取り出した。ぼくはその中間にもう一つつけ加えたい。"泣いて泣いてなお消すことのできない悲しみ"である。
 今の子どもの弱さについて一般的に指摘されているのは、この"泣いて泣いてなお消すことのできない悲しみ"を「こらえる」(佐藤からの借用)ことによって養われる力である。だが、実は「小さい太郎」のように「泣くことのできない悲しみ」を「こらえる」力こそが、より強いのではないか。そして、ぼくたちの世代はそのようにして育ったのではないか。その点、佐藤は、また浜野も久助君や春吉君、引いては南吉を特殊化してしまったのではないか。ぼくにとっては彼らは一般性を持つ存在なのだ。そう見る時に今日の児童文学の状況を変え得るいとぐちの一つがつかめるように思う。
 ぼくはこの二人に、ことに佐藤に感謝したい。ぼくは佐藤に導かれて、佐藤・浜野に異論を立てることができたのである。

十月 日
 「南吉の少年小説中の子ども像」十五枚を書きあげる。やはり三週間に近い。南吉が大作家ではないことを確認、だから、継承し発展さすことができる。以前ぼくが南吉論で"近代的自我"といったものには、無意識のうちに西欧的な近代的自我(と自分が思っている)の影が落ちていたのではないか、とも思う。もう一度、南吉作品の子ども像と現代の問題とを考えなければならぬ。

十月 日
 この本の校正をはじめる。まず注をつける必要があったと思うが、もうおそい。
 P6最終行『わたしたちの童話教室』はいつ、どこから出たか。一九五八年六月 宝文館。
 進藤純孝・高山毅両氏の発言の出所はどこか。この「児童文学的資質と自己表現」を書いたころ、ぼくはこうした出典を明記しておくことなど、考えも及ばなかった。あちこち探しまわり、高山氏のもの発見。雑誌『日本児童文学』別冊の「資料・戦後児童文学論集第二巻『革新と模索の時代』」に収録されていた。「児童文学時評」(『近代文学』昭33年8月号)である。文中『わたしたちの童話教室』という書名は氏は出していない。当時高山氏から聞いたか、あるいは前後の事情からこの本とぼくが推察したか、どちらかだ。読み返し、高山氏の霊に頭を下げる。氏はこの本の編集委員として、寄せられた作品を読んだ感想をしるす。「ザックバランにいって、愚作・駄作の多いのに驚いたのである。よくもまあ、活字になったものだと、あきれかえるような作品が相当にあった」。今、ここまでいう評論家はほとんどいなくなった。
 進藤氏の発言もこの資料集に一編収録されている。ぼくが引用したのと近いものだが、引用文そのものを含んではいないので、ついに出所不明。しかし、この資料集のおかげでたすかった。
 それにしても出典を明記していなかったため、何日も時間をとった。自己流で評論を書きはじめたためであろう。今後きちんとすべきだと思う一方、研究論文ではない評論はそんなものだという気がしないでもない。
 「児童文学的資質と自己表現」という題名、「童話的資質と自己表現」という方がよかったんだな、と思う。この評論末尾に「未発表『児童文学の本質』の一部」とあるのは、そのテーマの本を書こうと考えていたからである。
 P21から22にわたって、童話作家協会の『日本童話選集』について、「その後、毎年、その年度の代表作を集めて『日本童話選集』は刊行されていく」とある。
 見てあわてた。なんという文章だ、いつその年刊が終わったのか、しるしていない。もともと現物をきちんとたしかめていない。この第一集は鳥越信の書庫にあったのを利用したもので、欠本もありながら他に一・二冊見た記憶もあり、あとで鳥越に電話して聞いた覚えもある。それをたよりに「毎年(中略)刊行されていく」と書いたらしい。たしかめるため鳥越編『日本児童文学史年表II』(明治書院)を見る。
 一九二六年から三一年の第六集まで丸善株式会社から発行。刊行は毎年十二月(三一年は十一月)で、三二年は出なかったらしい。かわりに三三年一月に『草笛吹けば』『千鳥のおゆめ』が四条書房から出ている(やむを得なかったのだろうか、この年表、略字を使用しているのが残念)。現物未見だが、これが年刊にあたるはずで、三四年、三五年おなじく二冊、三六年は出なかったらしく、三七年二月に金の星社から『日本童話名作選』、十二月に『昭和十三年版日本童話名作選』、三八年十二月に『日本童話名作選 3』と発行され、四〇年一月『銃後童話集』となっているのが、おそらくこの年刊の推移であろう。この年十月、童話作家協会は「新体制に対応して発展的解消を決定」(『日本児童文学史年表II』)するのである。
 P35の「槇本楠郎が他のペンネームで教育雑誌に発表した『掃除当番』という作品」という表現もおかしい。これは発表誌『教育論叢』、ペンネーム小泉礼一。(『日本児童文学史年表II』による。やはり略字が気になる。礼→禮、当→當であったはずだ。)
 以上のような不正確な文章はまだほかにもあるだろう。この二つの文章を含む「昭和の児童文学」を書いた当時、『日本童話選集』の推移についてはまだそれほどはわかっていなかっただろう。しかし、その時ぼくが使った資料集の『日本児童文学大系』には『教育論叢』という誌名がしるされている。ともに、不明のものは不明とし、わかっているところまでははっきりと書くという態度が欠けていた。不覚。

 「昭和の児童文学」を書いたのは一九六五年の冬だった、と思う。それから今までざっと十五年、この間に日本児童文学の遺産の文献学的研究は驚くほど進んだ。当時は資料集も『日本児童文学大系』しかなかったことを思うと、まさしく隔世の感がする。しかし、評論の資料集は出ていないし、また同一作品でも異同あるはずの広介の全集もきちんとしていない。だが、研究といえばほとんどそうしたものだということはどうなのだろうか。たとえば児童文学にとって読者の研究は重要である。一人の子どもが児童文学の読者になるとは、その子がどういう状態になった時をいうのか。藤田のぼるは『日本児童文学』九月号の特集「子どもの遊び」の中で、佐々木邦『村の少年団』が子どもの遊びを喚起し、ぼくの『モグラ原っぱのなかまたち』(あかね書房)はかならずしもそのようには思えないという発言をしていたが、「思う」「思えない」は恣意的なものになりやすい。藤田の発言は読者の事実の調査抜きにして出てきている。そういう調査は行い得るのかどうか、行い得るとしたらその方法は、ということも含めて、読者論はほとんど未開拓の状態である。
 そして、読者論は一例にすぎず、児童文学のいわば文芸的研究というものはほとんど行われていない。


十月 日
 P22に「民話・伝説」ということばがある。この「民話」は「昔話」の意味だろう。いつからかははっきりしないが、現在のぼくは「民話」を昔話・伝説・世間話の総称として使っている。
 P46の「正統派児童文学」ということばを見て思う。ぼくは、『少年倶楽部』等の作品も児童文学だと考えていたはずだが、「正統派」ということばを使ったのは無意識的偏見なのか、それとも既成のことばをそのまま使ってしまったのか、「芸術的児童文学」と変えようかとも思ったが、これもかならずしも適当ではない。自分自身の記録としてそのまま残すことにする。
 「児童文学的資質と自己表現」と「昭和の児童文学」とでは宮沢賢治についての考え方がちがってきている。現在のぼくの考えは、前者を包みこんだ後者、ということになるだろう。
 P二三九の『おおきなきがほしい』(偕成社)についてのぼくの考え。『ぐりとぐら』(福音館書店)への発言にも通じるが、これは同時にぼく自身の問題である。あの絵本の最後の木を植えることの強さと限界というところに言及していない弱点とともに(木を植えるところにぼくはやはり惹かれる)、もう一つ、こうした作品を切る時はわが身に問題がはねかえる。
 「現代児童文学史への視点」中の「現代」の各時期の命名がこれでよかったか、と思う。この命名は同一基準によるものではない。「出発の時期」と「商品の時代」はおなじ基準だろう。しかし、「模索と混迷の時期」は異質の基準によっているのではないか。いや、「混迷」ということにぼくはその後留保を表明している。(「童話・小説の流れ その問題点」『児童文学の戦後史』〔東京書籍〕所収)が、「模索」なら「模索」とおなじレベルで「商品の時代」の特徴をとらえることができるのかどうか。

 以上、注をつけたかったおもなところである。

十一月 日
 もう八〇年代も二年めにはいろうとするが、七〇年代におこり、八〇年代の課題として取り組まなければならない問題を大づかみにしるしておこう。
 まずは出版の構造の問題がある。構造というのは絵本と幼年のための物語が、一般的には高学年にくらべてよく売れる(らしい)ことから、多くの社がそれをコンスタントに出していくという構造である。それは六七・八年に端を発し、七〇年代はその進行過程であり、その進行過程の中で品質の低下がおこった。
 その進行過程の特徴はいわば多品種生産である。ある作品の複製としての本を商品の一品種と考えれば、絵本・幼年の物語という大わくの中で多品種の本=商品がつくられた。これは現在の児童文学書・絵本生産の特徴でもある。大人の小説では大量生産・大量宣伝の方式があるが、児童文学書・絵本の場合にはそれはほとんどないといってよかろう。『兎の眼』、『太陽の子』の場合にそれに近いものがあったが、これとて作品にそれだけの内容がともなってのことである。またおなじ子どもの本でも児童文学書・絵本は漫画本の大量生産には程遠い。今のところ、児童文学書・絵本はその発行元が大出版社であっても大量生産はまだ可能になっていない。
 つまり、絵本・幼年の物語が大量生産されているということの内容は、その品種が高学年対象のものにくらべて多いということと、その合計部数がまた比較的多いということである。そして、経済の成長に基礎をおき、業界と個々の社の市場開拓や、読書運動その他の結果、七〇年代には小さいながら一応のマーケットは存在するようになった。各社がそのマーケットに進出し、さらに後発の社が加わった。そして、商品自体がまた消費者を開拓する。「商品の時代」の初期、各社の注文はあるレベルを持った作者群に集中していたが、多品種生産が軌道にのった時、もうその作者群では需要はまかないきれなくなり、新人が登場する。六〇年代とちがって市場需要による(それだけではないが、その要素が強い)新人の登場である。すでに既成の作者たちも新しい試みや、作品を練ることよりも注文をこなすことでせいいっぱいになっている。こうした結果、作品の質がレベルダウンしていく。
このベルトコンベア式多品種生産の方式がもたらすレベルダウンは高学年以上にも働いているだろうが、幼年対象にくらべてその規定の度合ははるかに弱い。出版の面からだけいえば、高学年はその需要から見て、それほど多品種を要求されているわけではない。ここではまだ手作りの要素が強い。そして、文学的な面からいえば、高学年物については作者・編集者ともに一つの規範を獲得していることが、レベルダウンをなかなかおこさない大きな理由だろう。
 幼年のための物語にはその規範がまだ成り立っていない。『日本児童文学』八〇年十一月号の特集は「幼年童話の危機」だったが、危機と感じている書き手・編集者がどのくらいいるのだろうか。この疑いがまちがっているなら幸である。危機を感じていないのが危機なのだから。
 八〇年代の課題の一つはあきらかに、多量に出版されている幼年のための物語を中心に児童文学全体の質的水準を高めることにある。
 では、それはどのようにして可能なのか。平凡なことだが、何よりも自分の内にある幼児・幼年を掘りおこしていくことだろう。その埋もれている幼児・幼年を掘りおこす媒介になるものはさまざまだが、なんといってもやはり子ども(この際は外がわの)がもっとも重要な働きをする。

十一月 日
 "児童文学とは何か"という問題について。
 "児童文学とは何か"という問題は児童文学にとって永遠の課題だが、それが問い直されるのはつねに児童文学に新しい動きが出てくる時である。つまり矛盾が蓄積され、従来の児童文学解釈、不定形ながら成立している通念がその矛盾に耐え切れなくなった時、またその通念に不信の念を持つ人々がふえた時、この問い直しが行われる。かつて大正期にそれがあり、また現代日本児童文学出発の時にそれがあった。この本の最初においた「児童文学的資質と自己表現」はその問い直しの一つである。
 ただ当時の問い直しは石井桃子たちの『子どもと文学』があるスケッチを示しただけで、他は部分的な問題提起におわり、あとは実作の波の中に解消されていった。もちろん実作も"児童文学とは何か"についての答だが、理論と実作はいわば相互作用的なものである。この理論の不成立が幼年の物語の多くが浅いものになってしまう、その一因ともなっている、と思う。
 そこへまた新しい波がおおいかぶさってきて(歴史や人生はつねにそういうものだろう)、今やふたたび"児童文学とは何か"を問い直さなければならない時がやってきた。
 ここでの課題は二つである。一つは今までのものをどう位置づけるかの整理であり、もう一つは問い直し――新しいものへの主張である。そして、その整理と問い直しはすでにはじまっている。中川正文編『児童文学を学ぶ人のために』(世界思想社)中の中川・上野瞭・今江祥智・奥田継夫の評論がそれであり、また今江・上野・谷川俊太郎・鶴見俊輔・灰谷健次郎・三宅興子編の『叢書児童文学』全五巻(世界思想社)中の評論・エッセイの多くもそうである。そしてその新しい主張はまた先にいった"新しい波"の一部――というより、むしろ中心となって"児童文学とは何か"の問い直しをさらに迫っているように、ぼくには思える。
 その主張は単純には「児童文学と文学の区別はあるのか」(今江「もう一つの青春」『叢書児童文学第4巻 子どもが生きる』所収)ということばに要約されるだろう。そして、七〇年代児童文学の歩みをそれにむかっての歩みととらえることもできるだろう。この歩みが、"新しい波"である。この根源的問い直しを核として"児童文学とは何か"の問題がある。それにむかってぼくはどのように接近していくのか、その出発点だけ書きとめておこう。
 ぼくはある人間をつき動かして、大人の文学ではなく児童文学(といわれる表現形態)を選び取らせたのは、その人間のうちにあるなにかだとずっと考えてきた。このなにかをぼくはぼくが児童文学へ出発したころ、「児童文学へのモチーフ」と名づけ、そのモチーフを深め、生かし切ることによってその表現は文学になると考えてきた。この考えは今なおかわらない。この作者の内的欲求、人を児童文学におもむかせるものにはどういうものがあるのか、それをもう一度考えるところからぼくは"児童文学とは何か"にむかって出発したい。
 つまり、夜と昼・冬と春のさかいははっきりしないが、それでもやはりちがいがあるようにぼくは児童文学と大人の文学にはちがいがあると考えている。ただ「児童文学的資質と自己表現」のころ、大人の文学と児童文学がまじわりあうところへは目がとどいていなかった。そして、"新しい波"はこの両者のまじわるところからおこったと思う。

 "児童文学とは何か"にかかわる七〇年代児童文学の特徴の一、二について。
 読者との関係から見た七〇年代児童文学・絵本の特徴は、大人・青年の読者の増加・拡大と、大人・青年の対児童文学・絵本意識の変化である。この現象は斎藤隆介『ベロ出しチョンマ』、絵本ではおなじく斎藤文・滝平二郎絵の『八郎』(福音館書店)によって顕在化し、七〇年代の主要な作品ほとんどを経て、後半の『兎の眼』『太陽の子』、高木敏子『ガラスのうさぎ』への反響で、よりあきらかになる。絵本では田島征三『ふきまんぶく』(偕成社)、長谷川集平『はせがわくんきらいや』(すばる書房)、安野光雅の諸作等がこの現象形成に大きくかかわった、と思う。
 青年の読者についてだが、ここでいう青年はほぼ十四・五歳以上、大学卒業の二十二・三歳までと考える。七〇年代、児童文学と絵本は年齢的には上と下にむかって伸びていき、一方では赤ちゃん絵本が生まれ、一方では青年が関心を持つ作品を生み出した。ここで今江祥智『ぼんぼん』がはたした役割は大きい。この二つの方向はそれぞれの発達段階への分化と見ることができる。しかし、青年読者については単に発達段階とだけはいえないだろう。
 ここには現代の社会のあり方が作用している。外国ものだが『アーノルドのはげしい夏』(岩波書店)はいわば青年のイニシエーションの物語である。彼は侵入者とのたたかいを経て自立する。この背景には現代社会で自立困難になっている青年の姿がありはしないか。『兎の眼』ではいうまでもなく新卒の先生の自立の過程が語られる。成人意識を持つこと困難な今日の青年たちは自立の物語を求め、また一方では現実と対面することにしばしモラトリアムをしいて、甘さとやさしさを持つある種の児童文学の中で楽しむ。今江祥智の諸作品にはこの自立と甘さとやさしさが同居している。七〇年代児童文学の特徴の一つは青年期文学、青少年文学とでもいうものが、はっきりと姿をみせてきたことである。赤木由子『夏草と銃声』(偕成社)もその一つであった。
 "対児童文学・絵本意識の変化"について。その"変化"の内容は、大人・青年が児童文学を読むその読み方がある距離をおいて児童文学を読むという読み方ではなく、自分のものとして、大人の文学を読むように児童文学を読むようになったということである。これは絵本についても同様である。もちろん児童文学を読むすべての大人の読み方が変化したのではなく、またすべての児童文学作品がそのように読まれるようになったわけではない。この条件つきで、もうすこし"変化"について考えよう。
 児童文学を自分のものとして読むという読み方は、たとえば大人の中に推理小説の読者層があるのと、ほぼ等質だと思う。かつて大衆文学は純文学より価値が低いと見られていた時期があったが、大衆文学のすぐれた作家たちはいわゆる純文学とは異質の、人間と社会に迫る作品を書いてきた。だから、時と共に一方を高いとする見方はかわった。一人の人間の中にはさまざまのレベルの感受性が重層化しており、それぞれのレベルにおいてその個人は伝奇のロマンを受けとめ、いわゆる純文学を受けとめる。児童文学ならたとえば宮沢賢治を受けとめるレベルがその個人の内に存在しているのである。
 大ざっぱにいえば"変化"はこうしたレベルが発動可能になったということで、児童文学(すべてではなく限定されているが)と大人とのこの関係は、児童文学が大人にとって推理小説なら推理小説と同等の存在文学の一ジャンルとして存在――している、ということになりはしないか。もっとも児童文学はその中にまたさまざまのジャンルを含むので、もっと複雑になるが。
 以上のことから引き出される問題の一つ。大人・青年が文学の一ジャンルとして読む児童文学の中に、小学生対象のものはどのくらいはいっているのだろうか。推測にすぎないが、これはどうも少ないのではないか。そうだとすると、大人・青年の対児童文学意識の変化は小学生段階の作品ではまだ実現の度合は低い、ということになる。今後の課題の一つであろう。
テキストファイル化竜野眞須美

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