『現代児童文学論』(古田足日 くろしお出版 1959)



戦後十年の軌跡

1 「さまよえる児童文学」の意味するもの

 一九五二年十月、朝日新聞の学芸欄は「さまよえる童話」という記事をのせた。五五年六月、NHKは「さまよえる児童文学」という放送をした。
 児童文学の戦後十年をふりかえる前、ぼくは、まず児童文学の現状をはっきりさせたいのだが、「さまよえる」というコトバは、鋭敏なジャーナリストの目に映った今日の児童文学の姿である。
 一時、悪書追放運動が全国に広がったが、このことき、いっぽう児童文学がほとんどこどもと縁のないことを示している。先日、荒川区のある小学校で読書傾向の調査を見せてもらったが、ふつう児童文学といわれるものを読んでいるこどもは、一学級にひとりかふたりにすぎない。こどもに読まれない児童文学の現状は、まず、こうした量の面からうかがえるが、つぎに質を問題にすれば、こどもたちは、日本創作児童文学より「ヴィーチャと学校友だち」というような外国児童文学に親近感をもつという教師の報告を聞いている。(「児童心理」一九五五・七月号・こどもたちは児童文学をどう理解しているか・七條美喜子)
 だが、こどもに読まれないからといって、現在生産されている作品の質が低いとは、ただちにいいきれない。そこで、おとなの目を問題にすれば、坪田穣治は「今の作家は努力が足りないのではなかろうか」といい、藤田圭雄は「ジャーナリズムがとりあげるに足る作品がない」という。(「朝日新聞」・さまよえる童話・一九五二)
 ところで、「児童文学」といったとき「ノンちゃん雲に乗る 」とか「二十四の瞳」とかを思いうかべるのが、常識であろうが、それよりも、何年生の童話集だとか、「おさるのゆうびんや」とかいう種類の単行本を考えていただきたい。児童文学者が、それによって衣食し、児童文学の中心となっているものが、こうした童話集だからである。
 これらの書物は、かつての未明、宏介、穣治の高さをもたず、ただ形式のわくの中で物語を作りあげる。「作者の名前をみんな消してしまっても、おそらく見分けがつかないであろう」(「日本文学」一九五四・十二月・児童文学の現状と問題点・鳥越信)という意見さえでてくるのである。これらの書物の中心モラルは小市民モラルだが、広介、穣治が、市民性を獲得し、また市民性に屈服していく戦いのきびしさを、その作品に盛りこんでいるのに反して、今の児童文学の多くは既成のモラルのうえにあぐらをくんでいるのである。
 近代童話は崩壊しつつあるというのが、ぼくの持論だが、この崩壊童話の生産者が現在の児童文学をになう中堅作家たちである。一九五三年四月、彼らは結集して、同人誌「長篇少年文学」をおこした。その成果は新潮社から出版されることになっていたが、今まで発行されたのは「少年の日」(坪田穣治)「夜あけ朝あけ」(住井すえ)「鉄の町の少年」(国分一太郎)の三作にすぎない。彼らの力の弱さを示したものであり、「さまよえる児童文学」といわれたところで、しかたがないのである。
 こうして、崩壊現象は、児童文学の現状の主要な側面だが、他の側面には、新しい児童文学が芽ばえようとしている。この芽ばえはふたつの場所から生まれている。
 「ビルマの竪琴」「ノンちゃん雲に乗る」「二十四の瞳」というように、戦後児童文学の秀作といわれるものは、大学教授、翻訳者、成人文学の作家というように、児童文学の専門家以外の人の手になった。いわゆる童話作家ではないという点で「鉄の町の少年」もやはりこのグループにはいるものであろう。児童文学者ではない人々が児童文学の傑作の生産者である。
 だが、これらの人々の数はかぎられている。何年生童話というもの、つまり成人文学の作家とちがって、児童文学者は、科学読み物、歴史読み物と、多くの仕事をやらなければならないのだが、こうしたものが文学的に高められるには、またほとんどの作品が成人文学と並んでひけをとらないものに発展するには、今、同人誌によっている人々の成長をまつよりほかはなかろう。
 昨年、同人誌「麦」に発表された「ながいながいペンギンの話」(いぬい・とみこ)は、近代主義の弱さをもちながら、私小説的童話のわくを一歩のりこえている。同人誌「小さい仲間」に連載中の「赤毛のポチ」は、今の日本の現実のなかで、労働者のこどもの成長を生き生きと描いている。
 「さまよえる児童文学」というのは、現状の主要側面ではあってもそれだけではないのである。五四年、あるジャーナリストは「胎動する児童文学」(「時事新報」・一九五四・十二月)という標題をかかげたのであった。

2 戦後児童文学の展望(1)

 さて、ここで、ぼくは、戦後児童文学の出発にたち帰ろう。戦後日本が平和と民主主義を願って出発したように、戦後児童文学の出発点も、まず平和と民主主義であった。
 小川未明の「兄の声」(一九四六)をはじめとして、平塚武二の「太陽よりも月よりも」(一九四七)、塚原健二郎の「風船は空に」(一九四七)などが、戦後児童文学の初期にあらわれた平和を願う作品であろうが、「ビルマの竪琴」(一九四七・三月―翌三月)は、このうち、もっとも問題を含んだ作品である。
 ぼくは、かつて「ビルマの竪琴」に新しい児童文学の芽ばえがあるといったことがあるが、それについて、竹内好氏は、「この作品の底には頽廃がある」と指摘された。(「文学」一九五四・十二月)その以前、塚原健二郎氏も「深いヒューマニズムと、ニヒリズムの織りなす一脈の哀愁は、希望のない少年の心をとらえたかも知れない」とのべている。(「日本児童文学大系」第五巻・児童の求める文学)
 ニヒリズム、タイハイとまではいかなかったが、すでに数年前、ぼくたち自身も、この作品の研究会で、一億総ざんげ的逃避の弱さを確認した。この作品が、こうした弱点をもっていることすべてを肯定したうえで、ぼくは、この作品に、日本児童文学の主流がもっていなかった異質のロマンを発見する。雪をいただく高山を予想させながら、しゃく熱の太陽のもとに展開する強烈な色彩と音楽に満ちたこの作品は、戦時中の重圧からのがれた感情解放の所産であり、感情解放を促進する働きをもっている。宗教へ逃げることによってざせつしながら、それは、赤とんぼの羽の美しさ、月光にぬれる露のしずくのきらめきを歌ってきた日本近代童話のもつ、ささやかな感情解放ではない。壮大なものであった。
 同じころ、坪田穣治は「サバクの虹」(一九五四)を書いているが、これは「さんたんたる心象風景」(「日本児童文学大系」第五巻・児童の求める文学)である。ひとりの人間も登場しないこの作品には、ただサバクの谷間が緑の野となり、ふたたびサバクと化していく変化が描かれる。
 当時、恐怖の感情は普遍的であったにちがいない。赤紙一枚で呼びだされていくという、どうしようもない恐怖は、まだのこっており、明日の食糧を思いわずらわなければならない苦しさが、それに重なりあう。この恐怖が「サバクの虹」では、泉のそばにいて、集まってくる虫をパクパク食うがまにあらわれる。「ビルマの竪琴」では、生きた感じのない壮麗な寺院に、幾千幾万の白骨に、この恐怖が描かれる。ヒューマニズムに根ざしながら、かえって恐怖の感情のほうが強い白骨描写には、まさしくタイハイの面が強くでているのだが、がまと白骨のスケールの差に、ぼくたちは注目してよかろう。
 舞台はビルマである。だが、このビルマは地理学上のビルマではない、竹山道雄の心に描かれたビルマである。「サバクの虹」と同じく、これも心象風景であった。メルヘンといわれるものは、心象風景にほかならないが、竹山道雄の心象は、一般の日本近代童話より、ひとまわり大きなスケールをもっていたのである。
 「赤いルビー」「赤いいんこ」という色彩が強烈なのは、黄色の僧衣とともに、ただ原色というにとどまらず、異国の風雨にさらされる親兄弟の白骨のゆくえという、日本児童文学はじめての大きい設定に媒介されたからである。そして、強烈な色彩は、つねに感情の豊富さとともに、タイハイの面ももっている。否定的側面も、そのままに、この作品は壮大さに結晶する。
 そして、全編を通じて、水島は能動的人物として描かれる。彼はあるいは、部隊の危機を救うため、包囲下の弾薬庫の上に立ってたてごとをかきならし、また孤立した他部隊に降服をすすめるため、サクレツする砲弾のなかで弦を射切られるまで楽器をかなでるのである。
 この作品のもつ矛盾した思想のふたつの側面とともに、その思想そのものが壮大なスケール・能動的人物の設定としてあらわれていることを認めなければならないと、ぼくは思う。過去の日本児童文学は「グスコーブドリの伝記」以外には、こうした能動性を、ほとんどもっていなかったのである。
 「ビルマの竪琴」に対する評価は、今なお定まっていない。これが、この作品をめぐる第一の問題点だが、それについて不思議なのは、竹内好氏が「児童文学のみならず、戦後文学のなかでも秀作」(「文学」一九五四・十二月・ビルマの竪琴)という評価をくだしながら、成人文学研究者が、この作品に言及しないのは、なぜなのだろうか。
 ところで、もしも、この作品のロマンチックな能動性を認めたばあい、つぎに生じる問題は、この作品の欠陥を克服したロマンチックなもの、革命的なロマンチシズムの作品とでもいうべきものがあらわれなかったことである。つまり能動的なロマンチシズムの芽ばえとして、この作品を取りあげなければならぬ理由である。
 また、ロマンの世界で描かれた能動的人物は、やがて現実の世界で描かれるのがつねであろうが、残念ながら「鉄の町の少年」たちのほかには、ほとんど能動的人物は描かれていないのであり、その「鉄の町の少年」たちも壮大なエネルギーは持っていない。

3 戦後児童文学の展望 (2)

 戦後の数年間、猪野省三によれば一九四八年末ごろまで、日本児童文学は隆盛の道をたどるかと見えた。いわゆる良心的児童雑誌が、多く発行されていたころである。この時期、民主主義を願う作品は数多い。岡本良雄の「イツモシズカニ」(一九四六)、「あすもおかしいか」(一九四七)などは、この時期のひとつの頂点を示すものと言えよう。
 無国籍童話は、この時期も終わりに近いころの一傾向である。どこの国とも知れず、どこの民族ともしれないカタカナ名まえの人々が登場するために、この名まえが生まれたか、その特徴とするところは、政治、社会への風刺であった。
 たとえば、有名な魔法使い「ウィザード博士」(平塚武二・一九四八)は「ジャッコンではない、ニッパンでもない」国へやってきていう。「アナタガタノオ国ノ汽車ハ、魔法ノ箱ヨリモスバラシイ。汽車ニノッテイルヨーナ気ガシマセン。窓カラオバアサンガトビコンデキタリ、赤ン坊ガアミダナノ上デ寝テイタリ、ズボンノポケットカラオ米ヲポロポロコボス人ガアルカトオモウト……。」そして彼が王様に会うと、王様はたちまち、何もかも「まっ赤だ。まっ赤だ」とさけび出すのである。
 政治、社会に対して目を開いたことの意義を、まず認めなければならぬ。これは無国籍童話にかぎられたものではない。いわゆる進歩的ではない奈街三郎も、たとえば「サル三びきの物語」(一九四八)で、見ざる、言わざる、聞かざるの態度を批判したのであり、秋田雨雀、小川未明以来、進歩派の多い児童文学者たちは、こぞって政治社会批判の作品を書いたのであった。同人雑誌による若い連中も、貧乏童話という名が生まれるほどに、そうした素材の作品を書きつづけた。
 だが一口に風刺といい、批判とはいうものの、その内容は、けっして深いとはいえない。「生物学者みたいなことをいう」王様がウィザード博士に会うと、空も雲も赤く見えだすということが、どれだけ人間と社会の前進に役立つであろうか。これは、いいかえにすぎないし、またそのいいかえがどれだけこどもに理解できようか。
 ここでは、政治、社会へ向けられた作家の目の広がりが、近代童話の崩壊と重なりあっている。原始的思考形式であるために、原始的生命力をもっていた「童話」が「象徴」の深さを失って、たんなる「代替」に転落しているのである。こどもの生命力のあらわれ、空想力が失われて、「生物学者みたい」という皮相な表現ぐらいしかできなくなってしまったとき、童心の輝きとしての童話は、生命をもつことは許されない。生活のにおいは消えて、蒸留水的なテクニックのさえだけが作品を作りあげたのである。
 こうした傍観者的社会批判の根底にあったのは小市民意識と考えられる。筒井敬介の「コルプス先生汽車へ乗る」(一九四七)では、資本家、役人というものが皮肉られながら、労働者は登場しないのであった。自己変革を考えず、自分を社会の外におき、政治、社会が悪いときめつける自己満足が、濃淡の差はあれ、当時の作品には共通している。
 もちろん例外はある。リアリスト与田準一は、外部からの批判では、どうにもならないことを知っていた。「王さまのハンケチにはロバのししゅうがしてある」(一九四九)という彼の当時の作品は、童心主義と天皇を批判しながら、その中から抜け出すことのできない自分を描いていたましい。
 童話という形式のいのちである象徴の深さを持ちつづけた作家として、与田とともに佐藤義美の名があげられようが、ふたりのもうひとつの共通点は、程度の差こそあれ、こどもにとって難解であるということである。岡本良雄たちが自分自身の追求を離れたとすれば、与田準一たちはこどもたちを離れたといえよう。
 ともに、こどもの生活、こどもの心は見失われたに近い。

4 児童雑誌の「廃刊」の問題

 朝鮮戦争が始まる前後、いわゆる良心的児童雑誌は、あいついで廃刊され、一九五一年十二月「少年少女」の廃刊により、こうした雑誌はすべて姿を消した。「良心的」に対する「俗悪」の攻勢の前につぶれたということになる。
 だが、おもしろくない児童文学を、どうしてこどもが読もうか。「おもしろくない」児童文学に対する反省の声が、やがてわきあがって現在にいたるのだが、その前に、いわゆる「俗悪読み物」の問題を考えてみよう。
 まんが、絵物語、冒険小説、少女小説、こうしたものが、いわゆる「俗悪読み物」であるが、ぼくは、これらを通俗読み物と呼んでいる。なぜかといえば、いわゆる良心的なもの、かならずしも良心的ではなく、いわゆる俗悪、かならずしも俗悪ではないと、ぼくは思うからである。
 たとえば、山川惣治は「少年ケニア」のなかで、主人公ワタルの父親を「村上」と、姓を書く、童話作家であれば、たいてい「おとうさん」である。ワタルを一人前に取り扱うとき、父親は、やはり「村上」であり、「おとうさん」と書くより、ずっとすつきりした印象をこどもに与えるのである。通俗読み物は、近代童話のもっていない面を多く含んでいる。
 原則的にいえば、近代童話は、一般に、上品であるとともに、ひよわな小市民性を軸とするが、通俗読み物は粗野であるとともにたくましい。人は、少女小説の感傷性を攻撃するが、よい子童話と少女小説にどれだけの違いがあろうか。
 児童文学が一部知識階級の子弟の財産となったとき、通俗児童読み物はこどもの多数を獲得した。いっぽうは、近代文学の一環として、弱いながらも完成するが、いっぽうは、文学にまで高められない。部分的にしか、真実のコトバを発見できないために、これは読み物であり、真実のコトバへの追求の弱さは時の権力に利用されやすい。ともに、文学を獲得しようとするこどもの要求の成果でありながら、いっぽうはその要求の方向をねじまげられて読み物となり、さらには、文学の敵としての位置さえもつようになる。
 この文学の敵に移り変わっていく傾向が、戦後は、ことにいちじるしい。「少年ケニア」は、俗悪の名にそむかない他の通俗作家のものにくらべて異色があるが、この作品さえも、山川惣治の一時期のもの「ノックアウトQ」にくらべると、質が低下している。「ノックアウトQ」は大正期の町工場に働く少年たちの喜び、悲しみ、そしてその少年たちが志を立て実現していく姿を、こまやかに描きだす。これは、日本資本主義発展の一時期の少年の姿を描いたものとして、通俗読み物中の傑作である。
 この作品を書いた山川惣治が、ケニアのなかで、たとえば大蛇ダーナの不気味な姿を表表紙として書くようになるのは、通俗読み物の俗悪化といえよう。読者のこどもは、強烈な刺激のなかで、基本的思考、感覚を失っていくのである。
 通俗読み物が俗悪化し、俗悪化した通俗読み物がこどもの心をとらえるのは、教育文化の問題とからんで、ついには政治のありかたの問題となる。朝鮮戦争を契機として、こうした読み物がふえてきたことを忘れてはならぬ。
 だが、政治の問題だとして、児童文学者が手をこまぬいていることはできない。良心的児童雑誌の廃刊とともに、全国各地に同人誌が生まれてきたが、通俗読み物にとってかわるだけの作品の必用を痛感したしたのは、まずこれら同人誌による若い世代であった。

5 新しい 児童文学への前進

 一九五三年七月は、朝鮮休戦協定が成立したときであったが、その年六月四日の日付で、同人誌「少年文学」は「少年文学の旗の下に」という宣言を出した。猪野省三のいう、戦後第三の時期、「民主的な芸術的な児童文学の一時停滞から新しい前進の道がひらけだした」時期のはじまりである。
 当時、中堅作家たちは「銀河」「少年少女」などの廃刊により発表の場を失ったことを社会の責任としたが、ぼくも含んで「少年文学」の連中は、かえつて中堅作家の弱さが、雑誌廃刊の理由のひとつになったと考えた。
 外国児童文学が、おとなの鑑賞にも耐えうることを、考えの基礎として、この宣言は「日本児童文学は近代文学としての位置を確立しえなかった」というコトバで、作家の弱さを指摘したのであった。ひと口にいえば、児童文学の文学姓を高めなければならぬとし、その文学性は「正しい認識」(「教育」一九五四・十二月・童話小説論争の問題点・鳥越信)のうえに築かれ、その認識は、「小説的方法」としてあらわれると、宣言はのべたのである。
 しかし、「小説的方法」というコトバは、非常にあいまいであり現在生産されている童話への攻撃のはげしさは、童話そのものを否定するものとして精算主義という批判を受けた。
 そういう傾向があったことも、ぼくは肯定する。問題は、二重に重なっていた。ひとつは現段階における児童文学の弱さへの不満であり、ひとつは、自己主張、自己形成を核とする小市民的日本近代児童文学に対する不満であった。これを近代童話の崩壊としてとらえたとき、近代に対する現代、近代の遺産を包含しながら、一段と飛躍発展した児童文学を願っていることがめいりょうとなる。問題は、童話や小説という形式にあるのではない。こどもと自分の幸福を守り育てる児童文学のありかたであった。
 しかし、新しい児童文学のりんかくを、かつて近代童話がもっていた「童心」というものにかわるべき核を、ぼくたちは、まだつかんでいない。ただ、近代童話の基礎となった小市民層は、今や、存在しない。そのために、児童文学はこどもから離れてしまっている。新しい基礎の開拓が今や必用である。そして、その基礎は、将来の日本をささえる改装でなければならぬ。
 基礎の開拓は、ふたつの面を持っていた。ひとつは、文学から遠ざけられているこどもたちを、できるだけ文学に近づけること。ひとつは、そのこどもたちの生活感情は、どのような芽ばえをもっていて、どのようにのばすべきであろうかということ。児童文学の解放と、解放の児童文学ということが重なりあい、文学運動への自覚が生まれる。文学運動はこうして児童文学の創造とともに普及に密接なつながりを持つ。
 だが、新しい基礎というとき、もっとも重要な層となるのは、生活綴り方運動のなかで育っているこどもたちである。このこどもたちは、書くこと、自分をみつめていく創造の苦しみを知っており、児童文学のもっとも良い読者となりうるこどもたちである。生活綴り方運動の教師と、手を結ぶことが、現在、いちばん必用なことではなかろうか。この点、地域と結びついた山形の同人誌「もんぺの子」の行きかたは注目すべきであろう。
 ところで、新しい基礎と、そのなかのこどもの姿を模索する動きは、ただその基礎だけを問題にしているのではない。さまざまのこどもたちの層のなかでの、典型的な層を求める動きである。だからこの動きを頂点として、できるだけ多くのこどもに文学が読まれるようにしたいという願いが、一般に広がっている。戦後児童文学に芽ばえた新しい方向として、能動性、社会批判とともに、多数のこどもと結びつこうとする動きを第三の特徴としてあげることができよう。
 無国籍童話にみられる風刺も、こどもの興味をとらえようとする一面をもっており、平塚武二の「ミスター・サルトビ」(一九四八)、関英雄の「ターザン東京にあらわる」(一九五〇)あるいは猪野省三の「ゆかいなクルクル先生」(一九五四)など、題名からだけでも、容易に興味性を盛りこもうとした努力がうかがわれる。
 だが、興味性というように抽象して、作品をおもしろくしようとしたところで、じつは、なんの意味ももたないのではなかろうか。少年期文学、長編小説の貧困とからんで、性格の明確な典型、事件と事件のかっとうを描くべきであるという主張が、京都の同人誌「馬車」や「小さい仲間」から提出された。しかし、かっとうといい、性格というコトバの内容についてはほとんど検討されていない。

6 「鉄の町の少年」と「二十四の瞳」

 主として、理論により、新しい児童文学のありかたを、同人誌による連中が模索しているころ、いっぽう、そうした芽ばえをもった作品もいくつか生みだされてくる。
 民族あるいは独立の問題が児童文学でとりあげられた最初の作品は、一九五一年七月、同人誌「びわの実」に発表された岡本良雄の「太陽と自転車」であった。だが、これもやはり、技法のさえはみせながら、また作者自身の怒りはありながら、こどもの心をとらえる点においては、どうしても弱いのである。以来、岡本良雄はこの問題にもっとも熱心に取りくんでいるが、多くの児童文学者は歴史児童読み物というような面でしか働きをみせない。何が現在の問題であるかということへの関心の薄さを示す現象である。
 五五年にはいっての、吉沢和夫の民話再話「八郎」は、やはり児童文学専門家以外の手になって、ただ民話の再話というだけにとどまらず、壮大なロマン、民族的な能動的人物への芽ばえを示している。衰弱した近代童話が生気をとりもどすには、もっと民話の再創造、研究が必要なのではなかろうか。日本近代童話は、他の多くの国でみられるように、民話の発展から出発しなかったという弱点をもっているのである。そして新しい基礎を求めている今日、民話の民族性と民衆性は、じつに重要な意味をもっている。だが、こうした問題を具体的に提起するには、「八郎」は弱すぎる作品である。おそらく伝承そのままであろう斎藤隆助の「八郎」(「人民文学」)のほうが、より生き生きとしているのである。もう一段の発展は、民話研究者と児童文学の新しいエネルギーをもった人々の協力のうえでなければならないのではなかろうか。
 民衆性といえば、「二十四の瞳」も「鉄の町の少年」も民衆性をもっている。「鉄の町の少年」には、しめっぽい叙情がほとんどない。人物はまったく単純化されている。形象性が弱いという批判がでたが、この批判には、ふたつの要求が混合されているようである。民主主義を描こうとしたと作者は語るが、その探偵的興味に傾斜して、労働組合の必用、その任務が、じゅうぶんとらえられなかったという不満とともに、人物の類型性が問題となる。
 だが、類型的であるという批判は、あんがい、こどもから離れた立場からでてきたのではなかろうか。思いきり単純化された人間のさわやかさに、いま、ぼくは、民話のなかの人物との共通性を感じている。無着成恭氏が「夜あけ朝あけ」と「鉄の町の少年」をこどもに読ませると、「鉄の町」は非常におもしろかったが、「夜あけ朝あけ」はおもしろくないというへんじがあったという。近代的な性格描写にとらわれすぎて、類型的で感動が弱いという批判がでたのではなかろうか。児童文学の領域で、はじめて工場、組織労働者の世界に足を踏み込んだというだけではなく、この作品は、将来の方法について、じゅうぶん検討されなければならない問題を含んでいる。
 「二十四の瞳」は「鉄の町の少年」とは逆に、強い叙情の線でつらぬかれている。国分一太郎は一行の自然描写もやらないが、壷井栄は瀬戸内海を背景に物語を展開する。時代の流れに押し流されていく大石先生の姿は「そっくりそのまま昨日につづく」海の色、山の姿にくらべられるとき、いっそうそのみじめさを発揮する。文部大臣も泣いた理由のひとつであり、児童文学としての限界も、ここにあるのではなかろうか。
 にもかかわらず、ここでもやはり、人物の単純化が、あるいは近代的意識をもたない単純な人物が設定される。児童文学とかぎらず、民衆のあいだに文学が浸透していくには、つねに単純さが必用なのではなかろうか。アンデルセンの単純さは、民衆性と、児童性と両面にわたっているのである。

7 おわりに

 能動的、社会批判―閉鎖的であった日本児童文学は、外へ向かって拡張する方向へ、戦後進んできた。多くのこども、多くの人々のなかへ浸透していこうてするのもとうぜんの帰結である。
 日本の成人文学を西欧の成人文学にくらべると、こどもの登場が少ない。トルストイ、ゴリキー、あるいはユーゴー、ディケンズ、モウパッサンのものは、生き生きとしたこどもが描かれるが、日本の作家の視野はせまく、こどもをとらえることが少ないのである。童心のうちにとじこもることによって孤立化した日本児童文学には、その対応物として、こどもをもたない成人文学が存在している。
 多くのこどもと結びつこうとする方向は、孤立化の克服ということであり、児童文学と成人文学というようにはっきりわかれたジャンルを、ひとつの文学のなかへ統合していこうとする方向ともなってあらわれる。
 少年文学という名まえがあらわれたことは、今までほとんど存在していなかった中学生むきの文学を作りあげようとする努力も意味している。新潮社、岩波書店が、絵本を発行したのも、この孤立化克服の一歩である。おとなから幼児にいたるまでの文学が、同じ文学という次元のなかで、年齢的に並べられようとしたのであった。
 原則的には、児童文学が成人文学より質が低いということはないわけだか、実情は、どうしても児童文学が二流の位置を占める。児童文学を高めようとして「少年文学の旗の下に」が発表され、その草案の筆者、鳥越信は「児童文学を国民文学運動の一環としてとらえたい」(「日本文学」一九五四・十二月)とのべる。孤立の克服は、文学として、児童文学を高めようとする努力と関連している。
 だが、以上は現象的な流れであり、戦争を経て来た児童文学者が書かねばならぬ作品は、意外に少ないのである。児童文学の戦後は、実は戦前の延長にすぎないのではなかろうか。
     (原題・児童文学の戦後十年・「日本文学」所収。一九五五・八月)
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