『児童文学の旗』(古田足日 理論社 1970)

L 児童文学研究の課題と方法
          ――――-『子どもと文学』を中心に


 世に評論といわれるものがあり、研究論文といわれるものがある。両者の境はかならずしもあきらかではないが、たしかにちがいはある。少なくとも研究論文には厳正な学問的手続きがあり、評論にはとらわれない自由な発想がある。
 だが、この両者は児童文学ではまだ分化していない。児童文学研究は未発達なのであり、さらにのちに述べるようにその研究課題はきわめて実践的なものである。一方に実践的課題をかかえこみ、その一方、児童文学史研究の文献資料的なものにかぎってみても、まるきり整備されていない(たとえば国会図書館でも児童図書館、雑誌は冷遇されている)状況では、研究もまた評論に接近する。資料不足の部分を仮説・想像力でおぎなうのであり、実践的であるためにはまた仮説・想像力が要求されます。
 そして、事実、戦後の児童文学研究はむしろ評論によって推し進められてきた。したがってぼくのこの文章では批評(そのあらわれとしての評論)と学問的研究、その両方を研究として取りあつかうことになる。

 まず実感からはじめよう。
 ぼくはときどき研究ということに疑問を感じる。その作品の初出は何年何月の何という雑誌であるとか、流布本と初出はどうちがうかというようなこと――こういう作業をぼく自身やらないわけではないが、ときとしてばかばかしいという気になる。その作家がいつどこで生まれようと、それが現在の児童文学を発展させるというしごとと、いったいどのようなかかわりあいがある?
 いや、かかわりあいがまったくないわけではなかろう。またぼくのあげた例は研究にともなうほんの一部の作業でしかないこともわかっている。
 しかし、そのかかわりあいは多くの場合、非常に?遠なものであるし、また研究にともなう作業が、ある目的の下に統一されているかといえばかならずしもそうではない。
 研究の?遠さを感じるのはぼくが研究者ではなく、時評屋兼子どものための読み物書きと自分を考えているせいであるかもしれぬ。だが、このあせりの中から今日もっとも必要な児童文学研究のあり方を考えてみることもできるように、ぼくは思う。
 ぼくの気持をもうすこしくわしくいうと、上野遼の『戦後児童文学論』(理論者)――これは最近のすぐれた児童文学論集だが、その中で上野は次のようにいっている。
 「たとえば、今江祥智のことばによれば、今日の児童文学の状況は、<作品が理論に先行している>ということである。少年文学宣言の出た時点では(昭28)、たしかに理論が作品に先行していた。しかし、今や多数の書きおろし作品が存在することによって、理論は、それに追尾しているというのだ。わたしは、この指摘に、いったい、これでいいのかと、尻を叩かれる思いをした。」
 ぼくの感じるのも上野とほぼ同様の思いである。いや、理論はいまやここ数年間の創作の動きを整理することさえできないでいる状態であり、上野がこの本の原稿をまとめたのちにも、今江祥智の『海の日曜日』ほか数冊の考えなければならない創作が出版されている。
 では、創作隆盛かといえばそうともいいきれず、おのおのはそっぽをむきあっていて、共通の児童文学理念がない。みんなかってなことをやっているというのが、現在の児童文学の状況である。
 だからこそ今後の方向を示す理論が必要なのだが、そのてんでばらばらの動きをあとづけ、整理する評論・研究さえ出ていないところで、創作に先行する理論が考えられるだろうか。
 にもかかわらず創作に先行する理論はなければならぬ。創作のあとを追い整理するだけの理論は、時評屋としてのぼくの誇りがゆるさぬ。では、創作に先行する理論はどのようにして可能なのか。

 さらにもう一つの出発点がある。去年の暮れに二冊のブックリストが出た。子どものためのすぐれた本を父母・教師にすいせんする解説つきのリストである。これを見ると、ぼくはいっそうあせりたくなる。
 その一冊は矢崎源九郎・神宮輝夫編著の『子供に読ませたい本』(社会思想社・現代教養文庫)であり、もう一冊は"子どもの本研究会"(石井桃子・鈴木晋一・瀬田貞二・渡辺茂男)の『私たちの選んだ子どもの本』である。
 この二冊にあげられている本の多くは外国児童文学である。ことに『私たちの選んだ……』方ではおよそ百九十点の本のうち、日本の創作児童文学はせいぜい二十点程度にしかすぎない。また一九六四年、無着成恭が選んだ『子どもの本二二〇選』(福音館書店)でもやはり外国児童文学が圧倒的多数をしめている。
 このようにブックリストにあげられる本のうち、多数が外国作品だということから、ぼくは二つのことを考えることになる。一つはその編者たちの評価の基準がはたして正しいのかということであり、もう一つは残念ながら日本の児童文学が未発達であることをみとめなければならないということである。もし現在、ぼくがブックリストをつくり、大はばに日本の児童文学作品をくりこむ方針をとったところで、やはり大半は外国作品がしめることになるだろう。
 このくやしさ――それがぼくにとって今日の研究の起点となる。ぼくはさらにこの立場に立つことを他人にむかっても要請したい。いわゆる研究者ではないぼくが、この『児童文学研究の課題と方法』という文をあえて書こうとしたのは、そのことをいいたいのである。
 そのこと、外国作品に頭を下げなければならないくやしさを客観化していえば、日本の子どもがまだなお自分自身の文学を持っていないということである。また書き手のがわからいえば、児童文学という独自の表現形態を完成させていないことである。
 今日の児童文学研究のもっとも根本的な、かつ急を要する課題は日本児童文学のあり方の追求であり、すべてはそこから出発する。


 とりあえず、日本児童文学のあり方といった。この抽象的ないい方では問題はまだあきらかにならない。ただ一ついえるのか、これは創作に先行する理論という面を持って、非常に実践的な課題だということである。
 この課題は何も最近ブックリストが出たために、にわかに生まれてきたものではない。さきに引いた上野瞭のことばの中にあった「少年文学宣言」のころからの問題である。
 ここでその問題の歴史的発展をふりかえると、少年文学宣言以前、すでに日本の児童文学はある種の完成を見せていた。その時期はおそらく戦中、昭和十七、八年のころ、平塚武二・新見南吉・岡本良雄・関英雄たちの童話集が刊行されたときである。
 少年文学宣言は小川未明から岡本良雄に至るまでの日本児童文学の流れと達成に対する挑戦の宣言であった。だがこの流れと達成に対する疑問は少年文学宣言の参加者たち(鳥越信や神宮輝夫や山中恒やぼくなど)だけが持っていたわけではない。
 昭和三十四年(一九五九)を今日の児童文学の転回点とする主張を神宮輝夫・鳥越信及びぼくは持っていて、その翌年安保改正の年によって児童文学史を区分しようとする菅忠道説と対立しているが、その三十五年四月、石井桃子たちの『子どもと文学』が出ている。
 この『子どもと文学』には五人の作家論が並んでいて、その最初は小川未明論である。その論旨をひと口にいえば未明はここでは否定された。前年九月に出たぼく自身の『現代児童文学論』中の最初の論もまた『さよなら未明』の副題を持っていた。
 おなじく『子どもと文学』では坪田譲治も否定された。そして、三十四年三月『思想の科学』誌上に発表された佐藤忠男の『少年の理想主義について』は『少年倶楽部』再評価を中心に、いわゆる芸術的児童文学の代表として、やはり坪田譲治を取り上げ、否定する。
 こうして三十四年から五年にかけて、伝統否定の輪が三種発表されたのだが、その中もっとも影響力が大きかったのは『子どもと文学』であった。
 戦後、おそらくこれほど実践的な児童文学論と、それを実現させていく能力を持った提唱者たちはほかにはなかったのだろう。その主張はおおよそ次のような発言にあらわれている。
  「世界の児童文学のなかで、日本の児童文学は、まったく独特・異質なものです。世界的な児童文学の基準――子どもの文学はおもしろく、はっきりわかりやすくということは、ここでは通用しません。」
  「また、時代によって価値のかわるイデオロギーは――例えば日本では、プロレタリア児童文学などというジャンルも、ある時代に生まれましたが――それをテーマにとりあげること自体、作品の古典的価値(時代の変遷にかかわらずかわらぬ価値)をそこなうと同時に、人生経験の薄い子どもたちにとって意味のないことです。」
 思想性を抜きにして、「おもしろく、はっきりわかりさすくということ」が主張されたのであり、この「おもしろく、はっきりわかりやすく」は児童文学作品の構造から、細部の技術に至るところまで論じられた。
 要約すれば、ストーリー性が主張され、その手本として昔話があげられる。「昔話では、一口にいえば、モノレール(単軌条)を走る電車のように、一本の線の上を話の筋が運ばれていきます。(中略)このモノレールは、一つの話の中の、時の流れと考えればよいでしょう。(中略)だいたいの昔話は、どれをとりあげても、はじまりの部分、展開の部分、しめくくりの部分と、三つの部分に分かれています。」
 この後半の、昔話にははじまりがあり、しめくくりがあるという分析は、これだけの引用では、自明のことの主張としてしか受けとられないかもしれない。
 しかし、ことはそれほど単純ではなく、鳥越信の次のことばには、この『子どもと文学』の主張の影響がはっきりと見られる。「プロットの巧みなことや、ストーリィ性の重要なことは従来もしばしばいわれてきたが、物語の完結性、とくに要求の充足という点は、児童文学にとってことに重要な点だと思う。これもまた子どもの独自の心理的要求から発したことがらであるが、完全な充足感をもって終わることなくしては、とうてい児童文学としては成立しがたい。」
 この鳥越信発言についてのぼくの意見はあとまわしにして『子どもと文学』にかえると、その細部には次のような分析もあった。「目にうつる具体性ということは、子どもの文学で、非常にたいせつなことです。どんなにやさしいことばで表現してあっても、それが、目に見える具体性に欠けるものであった場合は、わかりやすいとはいえないのです。すなわち子どもたちの心の目に、はっきりとした絵となってうつらなければなりません。」
 とりあえずこの主張を作品の細部における技術、と考えておこう。
 そして、昔話モノレール説はただ昔話の技術的分析として報告されたのではない。昔話こそ児童文学の手本であり、時の流れにそっての展開、満足感あふれる結末、というように、それこそ目にうつるような、きわめて具体性のある、児童文学の形態・構造のモデルを『子どもと文学』は提出したのであった。
 すでに昭和二十五年、岩波少年文庫の発刊以来、外国児童文学の方が日本の作品よりも文学性高く、また子どもにも歓迎されることがわかっていた。それを背景として『子どもと文学』は「世界的な児童文学の規準」を「向日性」という理念と、それよりはるかに具体的な、児童文学の形態・構造とで示したのである。
 「規準」は実践的には二つの意味を持つ。一つは現在に至って、当時の『子どもと文学』の主要メンバーが「子どもの本研究会」としてブックリストを刊行したことに見られるように、良書選択―すぐれた作品の選択に通じる―の基準であり、もうひとつは創作の基準である。
 この実践の展開はおもに翻訳及び絵本、幼児・幼年の文学の領域で展開された。前にいったように『子どもと文学』は思想性を抜きにする。幼児・幼年の文学では思想は思想として読みとれるほど、はっきりしたかたちをとってはあらわれない。それが『子どもの文学』理論が幼児・幼年文学の世界で実践化されていく大きな理由のひとつであったろう。
 『子どもと文学』以前、いぬいとみこはすでに幼年童話の傑作『ながいながいペンギンの話』を発表していたが、『子どもと文学』理論の提出を契機にして日本の幼年童話の技術は飛躍的に高まったといってよい。幼児の文学の新しい作家中川李枝子もその動きの中から誕生する。
 しかし、『子どもと文学』の筆者たちと同様、すぐれた外国児童文学者である神宮輝夫は当時、『子どもと文学』のイデオロギー不要説にふれて、こういった。
「筆者は古典的価値を時代の変遷にかかわらずかわらぬ価値と注釈しているが、これには作品の生まれる時代の政治、社会情勢からの離脱が感じられる。これは前の部の作家論で、だれも具体的になにを書くべきか、どういう思想をわれわれは持つかなどを明確にしなかったところから生まれる感じである。
 日本の児童文学がひとつの型にはまってからすでに久しいが、この本にあらわれた児童文学論がまた新しいステロタイプを生まなければよいと思う。」(『新しいステロタイプのおそれ』昭35『日本児童文学』7月号)
 この神宮輝夫の予想は適中した。『子どもと文学』理論実践の中心となった福音館書店の雑誌『母の友』の今日の短編童話の多くは技術的にみごとであるとともに、それが文学として成立するもっとも根本的なものを失っている。
 ただし、それは『子どもと文学』の責任だけでなく、今日の日本の社会状況の中で人間が平均化されていくところに根本的な原因があるのだが、その技術的等質性はまさしくステロタイプというほかない。
 一方、『子どもと文学』が翻訳の世界でひきおこした波紋は、今日では幼児・幼年の文学から上にのびて、小学校低学年・中級を読者対象とする出版に及んでいる(つけくわえておくが、『子どもと文学』の文学運動―と、ぼくは考える―はこの本出版のときにはじまったのではなく、それ以前から進められており、この本出版を契機として、いっそう拡大した)。


 ところで、先に引用した鳥越信の「物語の完結性」「要求の充足」ということばは『児童文学とは何か』(『児童文学への招待』所収・くろしお出版)という題名の論の中で述べられている。
 この「児童文学は何か」ということは、『子どもと文学』論が出る出ないとにかかわらず、かつて少年文学宣言に参加した鳥越やぼくがかならずどこかでつきあたる課題であった。ぼくたちは伝統にあきたらず、伝統を破かいしようとした。それに続くものは新しい児童文学のあり方を提出することであった。
 それは実践的なものであり、またそれまでの日本児童文学の原理とはちがう理論の上にうち立てられねばならないものであった。「児童文学とは何か」ということばは実践的なものと、学問的なものと、この両者の統一体であった。だが、当時のぼくたちはそれが両者の統一体であることをぼんやりとしか自覚していなかった。
 そのころのぼくたちの模索は、ぼく自身の『異質の児童文学を』(昭33『新日本文学』2月号)及び鳥越信の『児童文学界の動向』(昭33『文学』10月号)に出ているが、ぼくたちが有効な理論をうち出せないでいるままに、『子どもと文学』はそれについて児童文学の形態・構造という面から明瞭な答えを出したのである。
 しかも、それは「規準」として提出された。では、この形態・構造論ははたして基準となり得るのか。とりあえずそれを実践的な面にかぎって考えれば、この「規準」はなぜ小学校高学年以上の創作にははねかえってはこなかったのか。
 そこで最初にかえるが、ぼくは日本の子どもはまだなお子ども自身の文学を持っていないといった。また書き手のがわからいえば、児童文学という表現形態を完成させていないといった。
 この完成ということばは異様であるかもしれない。文学は永遠に未完成のものであると考えられるからである。だが、ぼくのいおうとするのはそういうことではなく、発達の段階なのである。
 子どものための物語を書きながら、ぼくたち(あえて複数でいうが)はまだ児童文学という表現を自由に駆使するに至っていない。一方、外国の児童文学古典にぼくはその作者の個性や、その背後にある民族や、時代、社会の精神のもっとも高度な発揚を受けとる。しかもそれは天才的なひとりの作家の所産ではなく、複数の作家の活動なのである。
 つまり、ある民族、社会、時代が統一体として児童文学という表現を獲得する時期がある。日本はまだなおその表現を獲得していないのであり、そこにむかって今日の児童文学は進もうとしている。ここで「児童文学とは何か」という原理的、?遠な課題が実践的な課題に転化する。
 神宮はこの日本児童文学の進路について次のようにいう。
「日本の児童文学は、十九世紀的な安定した生活環境と精神の所産である欧米諸国の児童文学と等質であろうとするのではなく、国づくりにはげむ、世界の振興諸国家群の児童文学と基礎を同じくしなくてはならないと考える。振興諸国家群(AA諸国や社会主義国家)は国の将来に対する、政治の将来に対する、そして子どもの将来に対するビジョンをもっている。」(『日本児童文学の現状』昭39『日本児童文学』7月号)
 すでに歴史がちがい、社会がちがう。欧米諸国はその市民社会においての児童文学の統一的表現を獲得したが、そのコースをわが国は追随しているわけではない。このいわば日本をわすれたところで『子どもと文学』の形態・構造論は成立した。そのもっとも明瞭なあらわれとして、のちにくわしく述べるが、『子どもと文学』では作者の主体というものが無視されている。作者こそ表現を決定する原動力であるにもかかわらす、だ。
 こうして『子どもと文学』の形態・構造論は高学年を対象とする創作では実践的となり得なかった。そして、作品の選択基準としてもぼくはそれにさんせいできない。いま例をあげないが、その日本わすれの基準のため、「子どもの本の研究会」のブックリストは外国作品偏重ということになったのである。
 では、『子どもと文学』の主張は日本の高学年創作にとっては何の意味も持たなかったのか。といえば、それはけっしてそうではない。むしろその役割は今後においてあらわれるだろう。形態・構造論というかたちにしろ、日本の児童文学が世界的なものと対面させられたのである。
 もともと形態・構造論は「児童文学とは何か」という問に対する答の一部分である。それは、作者の主体についての考察が抜けていることに見られるように、「児童文学とは何か」についての全面的な答ではない。ただそれが重要な位置をしめるのは、児童文学が子どもを読者とする文学である、いや、子どもをのぞいては児童文学は考えられない、という児童文学の特質によっている。
 たとえば幼児の文学は幼児の心理と生活、それに適した形態・構造をとることになる。そして、外国の子どもも日本の子どもも同様に子どもであるため、子どもに共通の論理がある。世界的基準の形態・構造論成立の根拠がここにあり、その世界的なものとかかわりあいながら、日本における日本児童文学の成立が予想されるのである。
 こういうはねかえりを自覚させる作用を『子どもと文学』ははたした。しかし、それがもっと自覚的になるためには、研究は『子どもと文学』の段階にとどまっていてはならぬ。
 ここに「児童文学は何か」ということが学問的研究として独立していかねばならない理由がある。世界的基準における児童文学をもっと深く追求して、その照明を日本の創作にあてるために、である。


『子どもの文学』の形態・構造論は「児童文学とは何か」の学問的側面に対する答でもあった。
 菅忠道のこの本に対する評価はきびしく、その大著『増補改訂・日本の児童文学』の中で『子どもと文学』の作家論は「恣意的に取り出したような論旨の進め方」であり、「作家・作品の思想性が捨象されているということは、没歴史的な論理主義」と批判する。しかし、その菅も「第二部は、欧米の児童文学のあり方を理論化したかなり要領のよい〈児童文芸学概論〉の試みで、教えられることも少なくはなかった」と述べているのである。
 だが、『子どもと文学』以後七年、その形態・構造論はそれ以上の進歩をとげていない。
 形態・構造論には児童文芸学の芽生えもあったわけだが、同時にそれはそれ自身、その芽生えをつむ結果にもなっている。
 モノレールの上に、はじまりがあり、終わりのある話が展開する。この分析は第U部『子どもの文学とは?』のところで出てくるが、その第T部『日本の児童文学をかえりみて』の中で小川未明論を書いた、いぬいとみこは未明の幼年童話『なんでもはいります』について次のようにいう。「もし、この同じテーマをつかって、子どももお話を作るとしたら、主人公の子どもが、ポケットに何でも入ります。という〈発見〉をしたところから、何か事件がはじまるべきなのです。」
『なんでもはいります』は幼児の生活描写とでもいった作品で、子どもがポケットに石ころやキャラメルやみかんを入れる話であった。それについてのいぬい発言とモノレール説を結びつけて考えると、非常に重要な主張がなされている。
『なんでもはいります』は大きなみかんはポケットにはいるまいと思ったが、子どもはみかんをむいてもらい、いくつにもわけて入れたというところで終わる。
 いぬいはここから出発せよといっているので、モノレールの起点はそこなのである。もしポケットになんでもはいるなら象もはいるだろう、ビルディングもはいるだろうと考えられるのである、象がはいれば必然的に物語は展開する。
 従来の生活童話、あるいは地をはうリアリズムの作品に対して強烈なフィクションの主張がなされているのであり、現実とは一度切れた別世界を構築せよという主張に展開するはずのものであった。そう考えればモノレールは時の流れではない。作品を一つの世界として成立させる作品内部の緊張そのもののことである。もちろん昔話の技術的分析としてはけっしてあやまりではないどころか、すぐれている。しかし、『子どもと文学』はここで基礎理論を見失った。
 同様に「絵となってうつる」というのも正確ではない。それは音や、香りや、はだざわりさえもともなうイメージと、そのイメージ間の相関関係のことなのだが、『子どもと文学』はその正確さを切りすてた。基礎理論と正確さをすて、技術論にはいったことが、『子どもと文学』が多数の人びとの支持を得た理由のひとつであったと、ぼくは思う。それは多数の人びとの支持を得たかわりに、学問としての発展と、より強烈な創作への主張と、ふたつの芽をつんだのだ。
 ここでまたぼくは学問の必要を感じる。児童文芸学の理論がうち立てられねばならないのである。
 そして、『子どもと文学』以後、それに近づこうとしたのは鳥越信だが、彼の場合にも、まだ不十分さが目につく。前に引いた鳥越の「物語の完結性」「要求の充足」という説についていうと、鳥越はたとえば物語が悲劇に終わるということについてどう考えているのだろうか。鳥越は「古典的児童文学を見わたして共通してわかることは、どの作品も必ず、主人公の要求が完全にみたされる迄の過程が書かれているという点である。
 ここでは物語の完結性は作品世界の構築ではなく、すじの完結性としてとらえられている要求の充足というのも主人公の要求の充足ではなく、読者がたしかにその仮構の人生を生きたという充足感であるはずではないのか。
 ここにもやはり基礎理論の弱さがある、とぼくは思う。
 同時にここには方法的なあやまりもある。鳥越も『子どもと文学』とおなじく欧米の十九世紀的児童文学をモデルとして、ある基準を抽出してくるのである。世界的基準で考えると同時に現在進行中の日本児童文学の実験を見るべきではなかろうか。いわゆる充足では終わらない作品も日本では生まれつつあるのだ。
 鳥越についての方法論的な疑問を続けると、彼は児童文学は「表現性よりは伝達性の強いものである」と述べ、その証明として「事実、過去の古典的児童文学には、ある特定の子どもにあてた伝達性の強い作品が多い」という。
 こういう抽出の意味がぼくにはわからない。ぼくに必要なのは伝達と表現との相関関係が児童文学作品ではどういう構造になっているかということであり、過去の作品群にはこういう特徴があるということでない。
 何を抽出してくるのか、その抽出そのものに視点と基準があるはずで、その視点と基準はそれらの作品群がなぜ児童文学となり得たか、ということだとぼくは思う。日本にかえせば、それは作者の主体の問題である。


作者の主体ということは『子どもと文学』にかぎらず、ほとんどの児童文学論で無視されてきた。たとえば作品論・作家論では、その作品・作家がすでに児童文学作品・児童文学者であることが前提となって思想や、方法が論じられる。児童文学史研究でもそうであり、発表媒体である雑誌の変遷や、児童文学全体の動向や、作品・作家のはたした役割はしるされても、その作家、時代がなぜその児童文学表現を獲得したか、ということはしるされない。児童文学史は児童文学表現の歴史であるはずだが、少なくともそれが中心になるはずだとぼくは思うが、そういう日本児童文学史はまだなお存在していない。
作家無視は文学的研究の面ではいっそういちじるしい。児童文学の定義や条件はそれが子どもを読者とするものであるという一側面からしか考えられていない。
だが、児童文学はおとなである作家の表現であり、認識である。そして、ひとりの作家の背後にはその作家と同様なかたち・方法で社会、人間をとらえようとする数十人、数百人のおとながおり、さきにいった児童文学の統一的表現の発展段階では、このおとなたちの量は飛躍的にふえているはずである。児童文学は単に子どもの文学であるだけでなく、国民的表現の一環となるはずのものである。
児童文学が八歳から八十歳までの文学であるということにぼくは以上のような意味をふくませたいが、考えてみればおとなが子どものことば、子どものイメージ、子どもの論理で表現し、認識を深めていくということは実にふしぎなことだ。
このふしぎなしごとにわれわれをかり立てていくものは何なのか。この作者の内部にひそむ児童文学的主体というものを考えないところに、『子どもと文学』の形態・構造論の最大のあやまりがあった。
基準を立てて作者を外から強制することはできぬ。表現形態を決定する原動力は作者の内部にある。ぼくはさきに『子どもの文学』の「目にうつるように書く」を細部の技術、または不正確な分析といったが、そこからは一面、過去のムード的な日本の童話に対する、明確なイメージの創造という主張を読みとることができる。ムードとイメージ――それぞれの児童文学的主体には異質のものがあったのではなかろうか。
さらに日本の場合、戦中・戦後体験を経て成長した今日の書き手たちと、過去の児童文学者とでは主体においてちがいがある。児童文学が人間社会の原理・原型をもっとも単純なかたちでとらえる文学だという考えは徐々にひろがりつつあり、それについての自覚が表現をかえる。
そして、ことばはもともとコミュニケーションの手段であるために、読者である子どもへの伝達ができないときには、その表現を制禦し、また発展させる。こういう主体の構造に立ち入っての、児童文学的主体についての研究が推進されなければならない。とぼくは思う。
その主体追求の手がかりは作品そのものにしかない。世の中には錯覚が多く、子どもを愛する人が児童文学を書くと思いこむ人がいる。だが、けっしてそうではなく児童文学的主体はむしろ児童文学という表現の魅力にとりつかれたところから生まれてくる。そしてその表現の魅力は作者本人にもわかっていない場合が多い。
主体と、表現の魅力、そのことの解明の上に、いや解明と共に新しい創作の理論もうち立てられるであろう。日本の児童文学はその歴史と社会とに癒着している。いぬいとみこが、ポケットには「なんでもはいります」の発見から作品ははじまるというとき、彼女はこの癒着状態と絶縁することを考えていたのである。その絶縁によって、日本の社会と子ども――ひいてはおとなは新しい照明をあびることになる。
だが、その絶縁の上にうち立てられる表現の形態は、世界的基準のものでありながら日本独自のものであるはずだ。こうして基礎理論とその上に立つ創作の理論とが要請されるのだ。
(最後におことわりしておきたい。編集委員会から与えられたテーマは「研究方法」であった。それをぼくはかってに「課題」とつけくわえた。それがあきらかにならないかぎり、「方法」にはついにはいりこめなかった。ただ今日の児童文学研究の課題をいくらかえも読みとっていただければ幸いである。) (『日本文学』一九六七年五月号)
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