『児童文学の思想』(古田足日 牧書店 1969)

氈@伝統

小川未明の永遠

 未明のなかにアジアがある、といえば、人はこけおどしと思うかもしれない。『月夜とめがね』で夢に胡蝶と化した荘子を思い出したといえば、ただの思いつきといわれるかもしれない。
 だが、かつて坪田譲治は未明童話を「宇宙の生命」といい「人類の意志」といった。その「宇宙の生命」のもつ具体的な型は、アジア的だとぼくは思う。「近代小説というものは、私の考えでは、あらゆるものを相手にしていいけれども、とにかく『永遠』というやつだけは、直接、相手にしないという約束の上に成立しているものだ」(インドで考えたこと)と、堀田善衛はいうのだが、未明の相手は、じつにこの「永遠」ではなかったか。

 『山の上の木と雲の話』は、一度めぐりあった雲を待ちつくす一本の木の話である。作品としては、すぐれたものとはいえないが、「永遠」にとりくもうとする未明の姿が描かれている。
 『川水の話』は次のとおり。流れる川水の上にバナナの皮とアンマの杖とが落ちてくる。川水は彼らを運び、彼らが土手の岸にあげてくれと頼んでも、町の岸につけてくれと頼んでも、ふりむきもせず流れていく。杖は川水にたずねた。
 「これから私たちはどこまで行くのでしょうか」
 「それをどうしておれが知るものか」
 ここには非情な「永遠」がある。
 未明は社会悪とたたかったといわれるが、たとえば『赤いろうそくと人魚』はただ物欲に目のくらんだ連中へのたたかいなのか。いや、そうではない。菅忠道は、大正期の捨て子、少年労働、人身売買などが反映されており、作品の主題には人間性の追求という近代的な視点がすえられている(日本の児童文学)というが、それは、そのとおりにしても、外がわから見すぎる解釈であることは菅自身も認めるところであろう。この作品のもっとも迫力ある場面はその最後、暴風のために船は沈み、町はほろび、暗い波の上を赤いろうそくの灯がちらちらするところだが、ここにも、非情の「永遠」がある。この作品のテーマは「永遠」である。
 『金の輪』の太郎は死んだのではなく、金の輪をまわす少年とふたりで、赤い夕やけ空のなかにはいってしまう。死という「永遠」とのたたかいがはっきり見られるのだが、ここでは「永遠」は「輪廻」として描かれている。『赤いろうそくと人魚』の暴風を、超自然力による解決として未明の限界を示したものだという説もあり、ぼくもそのようにいったことがあるが、これもやはりあまりにも外がわからの解釈にすぎ、単純に割り切りすぎる。暴風雨も、「輪廻」のひとつの相と見るべきものと思う。

 「永遠」はやっかいなもので、その相は雲のようにうつりかわる。
 『気まぐれの人形師』は、しあわせとふしあわせと、ふたつの人形をつくるのだが、「永遠」は気まぐれなのだ。同じ非情さにしても、川水は冷酷、暴風は俗にいえば正義の発現である。そして「永遠」を時には正義をあらわし、時には冷酷という形でとらえる時、「永遠」は人間を支配する力を失っている。この「永遠」のとらえ方は、宿命観や諦観という考え方とはまったく異質のものなのだ。
 ふつうには人間が支配されがちな「永遠」を、このようにとらえていくには、「永遠」と同じ立場に立たねばならぬ。未明自身のうちに「永遠」があったのだ。
 雲の如く高く
 くものごとく かがやき
 雲のごとく とらわれず
 未明詩碑にきざまれたことばだが、これは現代人の心ではない。行雲流水というような枯淡な心情でもない。おおらかな原始心性なのだ。

 一木一草に永遠の生命を感じる原始心性が『月夜とめがね』の幻想を作り出す。指を傷つけた少女は、おばあさんのめがねを通してこちょうになる。おばあさんは、このこちょうのむすめを裏の花園に案内していく。この作品には明るい生命力があふれている。そして、この生命力は、他の、暗いかげのある作品にも共通の生命力である。
 くりかえすようになるが、『赤いろうそくと人魚』を、絶望――出口のない現実に立っての、あてもないあこがれと見ることは、あやまりであろう。輪廻転生のオプティミズム、がこの作品の底には流れているからだ。
 しかし、未明が「永遠」をあいてにしたということは、今日の児童文学にとって、どのような意味をもつのだろうかという疑いも、当然なことと思う。その疑いを抱く方は、ハンス・バウマンの傑作『草原の子ら』(岩波少年文庫)を読んでいただきたい。ここにはアジアが描かれているのだ。だが、ぼくたちは日本を描き、アジアを描いた作品をどれだけ持っているのだろうか。ぼくのいいたいのは、永遠に対して原始心性で取り組んでいったところに未明童話が生まれ、そのテーマはアジアを描くものに発展する可能性を持っていたにもかかわらず、未明の思想を抜きにした近代童話の形式的発展はテーマもスタイルも共に十分にはのばし得なかったということである。 (図書新聞1958・2・16)
テキストファイル化塩野裕子