『児童文学の思想』(古田足日 牧書店 1969)

児童大衆芸術

           〈1〉

 子ども大衆芸術,あるいは児童大衆芸術,どちらにしたところで,このことばはまだ世間には耳なれないものであろう。ぼくは,この熟していないことばを使いたくはないのだが,とりあえずテレビ・ラジオの子どもむけ番組・雑誌・単行本の漫画などを,児童大衆芸術ということばでしめくくっておく。児童大衆芸術という,まにあわせのことばは,たぶん大衆芸術と児童芸術とをくっつけて生まれたものであろう。ところが,児童芸術ということばもまた耳なれていないことばなのではなかろうか。
 児童大衆芸術ということばが耳なれていないのは,テレビやラジオなど,マス・メディアの急速な発展によっている。その発展の大きさのために,いまどうしてもその内容を考えなければならない。が,その発展の急速さのため,批評・研究というものが追っつかない。いや,追っつかないというより,いまやっと必要にせまられて動きだしたぐらいのところだ。ことばがまだ熟していない,あるいは適当なことばが生まれていないのは,この間の事情を示している。
 しかし,児童大衆芸術は戦前にもあった。『のらくろ』の漫画,佐藤紅緑から山中峰太郎・高垣眸などの少年小説は,やはり大衆芸術のなかに属するものだ。にもかかわらず,児童芸術ということばも耳なれていないのは,なぜなのだろうか。
 だいたい,児童ということばが頭にくっつくことばはめんどくさい。児童文学はおとなが子どものために書いた文学だが,児童詩は子どもがつくった詩のことである。児童画は子どもがかいた絵であり,童画となって,おとなが子どものためにかいた絵となる。横道にそれるが,このあたりなんとかならないものだろうか。漢語を使った日本語はまったくむずかしいものだ。
 とにかく,児童芸術というものは,おとなが子どものためにつくった芸術のことだ。こう考えると,その内容を示すことばは,べつに存在していた。全体,同じかどうかはっきりはしないが,児童文化ということばだ。
 今日でももちろん児童文化ということばは生きている。そして,文化のほうが芸術より広いらしいのだが,俗悪児童文化とか退廃的マスコミなどという言い方になってくると,児童大衆芸術ということばが指している内容に,はじめから批判を加えたことばになっている。俗悪児童文化という言い方では,文化も芸術もそのことばが指す対象には,たいしてかわりがないらしい。
 つまり,ぼくがこの小論のなかで考える対象となっているものは,いままでは多く,児童文化として考えられてきた。それを,いま芸術ということばのなかにふくませるということになる。
 なぜ,そういうめんどくさいいいかえをしなければならないのか。ここで,ぼくはひとつ仮説をたてておこう。児童文化というのは教育や社会学の方から出てきたことばのように,ぼくは思う。芸術というのは,つくり手のがわに中心をおいているのではないか。文化と芸術という,ことばのいいかえのなかには,同じ対象をあつかいながら,そのあつかいの力点の移動がみとめられるのではなかろうか。
 数年前,悪書追放運動というのがあり,本を集めて焼いた人たちがいた。俗悪児童文化の名のもとに,漫画は蔑視されていた。赤銅鈴之助,月光仮面は良心的な母親のひんしゅくを買った。漫画やラジオドラマは芸術あつかいを受けなかった。それが,今日,ちゃんとした芸術ジャンルのひとつであると考えられるようになってきて(もっとも児童文学ほどの市民権は持っていないが),児童大衆芸術ということばが出てくるようになったのではなかろうか。
 つまり,児童大衆芸術ということばそのものが,ひとつの態度を示している。漫画やテレビの教育的影響力よりも,芸術としての漫画・テレビを考える立場が,児童大衆芸術ということばのなかにふくまれている。

          〈2〉

 しかし,内容,というより思想を問題としないで,芸術を考えることはできない。一九六〇年十二月現在,週刊誌『少年マガジン』に「怪傑ハリマオ」とう漫画が連載されている。『少年クラブ』には「少年ハリマオ」。第二次大戦中,「マライのハリマオ」という映画があった。歌もあった。記憶はたしかではないが,マライのボスみたいになっていた日本人の話であった。事実にもとづいたものであった。
 そのハリマオがよみがえっている。「少年ハリマオ」の方だが,マライ半島の沖合,ルパット島に戦争中,三人の技術将校がいた。そのひとり野村大尉が熱線銃を完成する。だが,その弾丸となるウラトウム(ウラニウムではない)を鉱石からとりだすことはむずかしい。鉱石を東京へ送り,野村大尉の父親に研究してもらっているあいだに,英軍はルパット島に上陸し,野村大尉も熱線銃の設計図も防空壕の岩のなかに埋まってしまう。
 その野村大尉がマライ人と結婚して,現地に残した混血児が少年ハリマオ,彼を助けて悪の集団モロモロ団と戦うのが,ルパット島ただひとりの生き残り甲賀大尉という設定である。
 この作者,堀江卓はこういう設定が好きらしい。同じ作者の『ブルー・ジェット』では第二次大戦中,アフリカで戦ったドイツのロンメル将軍の秘密をねらうタイガーラックに対して,日本人少年ブルー・ジェットが活躍する。彼もまた日本軍人の遺児であり,父の旧部下たちがアフリカ海岸で潜水艦を持っていたりする。
 この設定に,ぼくはふたつの意味でひっかかりを感じた。ひとつは,第二次大戦のなかの日本の位置に対する無批判な態度が,この設定を可能にしているということだ。第二次大戦はいたましい戦争としてはとらえられない。無謀な戦争,ぼくたちの父母兄弟のいのちを奪った戦争としては出てこない。
 もちろん,第二次大戦を簡単に日本の侵略戦争と見ることはできない。その見方は人によってさまざまである。では,堀江卓は積極的にこの戦争の意義をみとめているのかといえば,そうでもないらしい。積極的にみとめるなら,この戦争批判に対する批判が出てくるはずである。彼にはそれがない。
 つまり,彼は無批判なのである。そして,無批判ということは,第二次大戦を肯定することになる。少年ハリマオという名には,かつての日本帝国への郷愁が感じられる。おそらく無意識に『少年ハリマオ』の底を流れている第二次大戦肯定の思想は,今後どのように成長していくものか。
 これは一例にすぎない。児童雑誌や貸本屋の店さきの単行本漫画には,第二次大戦に取材したものが意外なほど多いのだが,そのほとんどが戦争に対して無批判である。
 よく言われる残虐とか暴力礼賛とかも,この戦争の無意識肯定と同じ次元の問題であろう。いわば,芸術以前の問題を,今日の児童大衆芸術は,事実としてその内容にふくんでいるし,またそこだけが,拡大されて,社会問題にされていく。
 一冊の少女雑誌をひらいてみるとする。そして,その漫画・読物の主人公たちの職業を見る。すると,生産的な職業についている人間がほとんど出てこないことがわかる。スター・歌手・運動選手など,そして消費的なムードが一冊をつらぬいている。
 だが,たとえば次のような漫画はどうだろう。題は「恐怖のつばさ」(『少年サンデー』一九六〇年十二月二十日号)。第二次大戦中五人のなかまが0−13飛行隊にはいる。そこに井上という男がいる。井上はO航空会社の社長のむすこで,戦争がおわれば軍に貸した飛行機を返してもらう証明書を持っている。五人のなかまは敵機をむかえうったある日,井上機も打ちおとしてしまう。そして,証明書を自分たちのものとする。
 戦後,彼らのひとりがKジェット機の性能テストのために飛び,「ゼロだ」とうことばを残して,機体とともに空中に散る。つづいてまたひとり,またひとり,さいごの雷雨の日,ひとり残った社長の前に着陸したのは,旧日本軍のゼロ戦であった。その操縦者は人間ではなく白骨である。社長はその白骨の操縦するゼロ戦に乗って,空に消えていった。
 戦争を利用してもうけた者への怨恨が,この漫画には出ているのではないか。もちろん,ここには戦争そのものに対する否定はないし,その戦闘場面はかえって子どもに戦争の興味をよびおこすものだろう。
 しかし,白骨の操縦するゼロ戦―ここには残虐さとともに死んでも死に切れないうらみが表現されているのではないか。成仏できず空をさまようまぼろしのつばさということになるのである。
 日本のゆうれいの伝統がここに生きていると,ぼくは思う。しかも,それがアクチュアリティを持ってあらわれている。

         〈3〉

 ふりかえってみれば,児童芸術の諸ジャンルの発展は,はなはだ不均衡であった。メディアの発展が最近のことだから,不均衡もやむをえないということもいえるが,ぼくのいう不均衡は,その内容の不均衡のことでもある。
 児童芸術のなかで,もっとも早く発展したのは児童文学であろう。だが,日本の児童文学のなかで,冒険や好奇心が美徳とされたことはあったのだろうか。ひと口にいえば,たくましさが,日本児童文学には欠けていた。『赤い鳥』などと平行して出てきた,通俗的な少年小説には,そのたくましさが満ちていた。 
 これらの少年小説では,子ども及び主人公は常にあらゆる抵抗と戦う存在である。一方,児童文学のなかの子どもたちは,たいてい親に保護されていた。
 子どもを向日的な存在と見る見方,これはまた石井桃子,瀬田貞二,いぬい・とみこたち,欧米児童文学をお手本にしようとする人たちの見方でもある。たとえば,新美南吉の『疣』は,信頼していたものにうらぎられた子どものやりきれなさを書いた作品である。これについて彼らは言う。「こういう作品が必要かという疑問もあります。(中略)この『疣』で描いている子どもの空虚感といったものは,児童文学作品の中心主題とすべきものでしょうか」と。
 だが,この人たち,外国児童文学をモデルにしようとする人たちの考える,子どもの向日性と,紅緑・山中峰太郎などの向日性は全然,質がちがう。そして,伝統と,日本の現代ということを考えにいれた場合,ぼくはやはり紅緑や漫画の方にひかれていく。
 ぼくたちに眠っている,もっとも無意識的なもの,これが大衆芸術を支えているものだ。吉川英治の宮本武蔵が持つ求道的性格と,『赤銅鈴之助』の剣の修行とは,共通の基礎の上に立っている。『月光仮面』はイコール祝十郎であったが,仮面に身をかくす祝十郎には,一人二役のおもしろさが生きている。『怪傑黒頭巾』はヘボ易者の天源堂であり,おいぼれじじい実は天下の副将軍水戸黄門という伝統が,月光仮面につながっている。
 この一人二役のおもしろさは無力なものの願望のあらわれだろうし,『まぼろし探偵』のように,父に心配かけまいとするのは,いうまでもなく修身である。
 こうした伝統のプラス・マイナスを簡単に否定したり,肯定したりすることはできない。そして,さきにあげた『少年ハリマオ』の設定,日本軍人の遺児がアジア・アフリカの各地にいるということ,これはそういう事実もたしかにあるということだけでなく,ある爽快さを,ぼくたちに与えるのではないか。すくなくともぼくはそう感じた。
 この爽快さの理由をぼくは説明することができない。考えられることは,『少年ハリマオ』が戦争に対して無批判だという,さきの論旨と矛盾するかもしれないが,ぼくの心のなかにある大戦を無意味なものとしきれないものが存在しているということである。
 ナショナリズムはぼくの世代を最後にして消えたかもしれぬ。しかし民族と戦争の問題はやはり生きている。白骨が操縦するゼロ戦ほどの迫力は持たないが,アジア・アフリカにのこる日本軍人の遺児という設定もまた現代的なのではないか。ぼくは大江健三郎を思いだす。『われらの時代』には,アラブの革命に参加しようとして,挫折していく青年がえがかれた。
 この青年の代償的存在として,ぼくたちは『少年ハリマオ』を考えることができる。ぼくの感じる爽快さは,ぼくの心に生きるナショナリズムとともに,この現在のやりきれなさからの脱出である。 
 子どもはぼくとは同じではない。しかし,消極的なムードにとりかこまれた子どもは,やはりやりきれなさを感じているのではないか。山口二矢が浅沼稲次郎を刺殺したのち,子どもの遊びに演壇ごっこというのがあらわれたという。演壇に立っている子どもに,テロリストがぶつかっていく遊びであり,この際,殺す方が遊びの主役となる。
 これをテレビや漫画の暴力礼賛の結果だと,きめつけることはできない。浅沼刺殺事件について,ある高校生たちもまた爽快さを感じたというような感想を出して,問題になった。その犯罪の悪をみとめながらである。
 現在は一種の時代閉塞の時代である。いらだちの時代である。この閉塞の状況に対して,スピードやスリルが提供される。時代とマッチしないものは,大衆芸術の世界では,すぐ消えていく。伝統の古さとともにもっとも現在的なのが児童大衆芸術の特徴である。

         〈4〉

 ここでいわゆる「良書」のことを考えてみよう。マス・コミの「悪い」に対する「よい」という観念は,具体的には「良書」にあらわれているからである。そして,良書は児童文学作品に代表される。
 ある教育研究集会で発表された子どもの感想文をあげてみよう。

 私が読みたい本は,かわいそうな事が書いてあり,その間に笑いたくなるようなおもしろい本です。
 それと反対に,読みたくない本はかわいそうでもなく,おもしろくもない本です。たとえば,前によんだ『一房のぶどう』などがそうです。
 また,私のよみたい本は,推理小説です。こういう本を読んでいると,自分がやっているようで,ハラハラします。このハラハラするところがすきなのです。(小六・女)

 そして,この感想文をとりあげた教師は,『一房のぶどう』をおもしろがるように教育しなければならないと結んだ。
 だが,今日『一ふさのぶどう』にそれほどの古典的価値があるだろうか。この感想文では痛快なまでに『一ふさのぶどう』が批判されていると見てよい。同時に,子どもはちゃめっ気の多い人間にあこがれるという調査結果も,この日の報告のなかにあったが,ここにも子どものいままでの日本児童文学に対する批判がある。ユーモアこそ日本の児童文学に欠けている最大の要素なのである。
 『月光仮面』のひとつの功績は,子どもに新しい遊びを提供した点にある。ふろしきをせなかにしょうという扮装,これはひとつの発見である。子どもがせなかのふろしきを風にふくらませ,自転車で坂をかけおりる風景は「悪影響」とはいえない。そして,いわゆる良心的な児童文学が,子どもの生活と直接かかわりあう,このような遊びを与えたことがあったろうか。
 拳銃を射ちあい,あるいはなぐりあう漫画・テレビに対する憂慮―殺伐・人命の軽視という非難には当然根拠がある。まったくうんざりするほど暴力場面は連続する。だが,これを裏返してみて,日本の児童文学を考えれば,ここには戦いはなく,善意の人が満ちている。もちろん,一遍一遍の作品には差があり,克明に見ていくと異色の作品も発見できる。しかし,巨視的に全体を見るとき,善意と平和のムードが日本の児童文学をおおっている。
 この善意と平和のムードから,児童大衆芸術を見るとき,悪影響うんぬんという批判が出てくるばかりか,芸術としてそれらをみとめがたいという結果が出てくる。
 だから,公共放送であるNHKの十時や二時の子どもむけラジオ番組の多くは,おもしろくない。善意が過剰である。そして,このラジオ番組の基礎にあるものは,いままでの児童文学である。つまり,ここにはラジオとしても独自性はなく,耳できく児童文学という要素の方が強いのだ。
 一九六〇年の子どもむけラジオドラマのもっともすぐれたものは,関谷ひさし原作・佐野美津男脚色の『じゃじゃ馬くん』であろう。投げてはピッチャー,打っては四番のじゃじゃ馬くんを中心に子どもの生活がとらえられている。生活童話風,綴方的なものではなく,現象の奥にあるものをこの番組はつかみだす。
 この脚色は原作とはなれてしまっている。だが,まだ原作者の漫画作家の名をとどめざるをえないのは,まだラジオ・テレビの多くの番組を支えているものが,漫画であることを意味している。
 人気漫画からテレビ・ラジオへというかたちは,しだいにくずれつつある。『怪傑ハリマオ』にしろ,『白馬童子』にしろ,これは逆にテレビから漫画になった。だが,『まぼろし城』(戦前の少年倶楽部にのった高垣眸の作品)がいまなお,テレビや漫画になっているように,多くの児童大衆芸術の基礎となっているものは,かつての通俗少年小説から今日のストーリィに至る系列である。
 これは原作がどうこういうことではない。その発想と方法の問題である。そして,『じゃじゃ馬くん』の方法は,漫画でもなく,児童文学でもないもの,いわば記録によっている。まさしくラジオでなければならないものが,生まれてこようとしているのではないか。
 一九六〇年の漫画で,ぼくがもっともすぐれたものと思うのは,手塚治虫『O(ゼロ)マン』である。
児童文学には,人類絶滅の危機をかいたものはないが,『0マン』はそれをかく。
 しかし,手塚治虫をもっともすぐれたものとしなければならないのは,逆に漫画が停滞を示していることにもなる。手塚はいうまでもなく,戦後のストーリィ漫画を切り開いてきた人である。その手塚にかわる新風はまだあらわれてこないということになる。
 寺田ヒロオは『スポーツマン金太郎』で講談社の児童漫画賞を受けた。『スポーツマン金太郎』は,まったく健全・良心的な漫画である。これは家庭的・道徳的であって,善意・平和のムードが漫画のなかにはいりこんでできたことをあらわしている。衛生無害というこどばがあるが,この漫画はたしかに衛生無害なのだ。
 上田とし子も『フイチンさん』で賞を受けた。この漫画で出てくる中国人に対する認識のずれとともに,寺田ヒロオの受賞は漫画停滞を示す何よりの証拠である。
 こうして,児童大衆芸術の世界も玉石混淆,漫画でいえば『よたろうくん』(山根赤鬼),『ロボット三等兵』(前谷惟光)の確固たる業績があるかと思えば,『少年ハリマオ』その他もろもろの,まさしく俗悪の名に値するものが共存している。これでは,まったくこまるのだ。

          〈5〉

 以上,児童大衆芸術の概観である。ここで,もう一度,児童大衆芸術ということばにかえれば,このことばは矛盾しているのではなかろうか。純文学と大衆文学というものの垣根はしだいに取り払われているようだが,児童大衆芸術ということばは,他に児童芸術が存在するような感じを持たせる。
 メディアと機械,国民生活の発展は,やがて子どものひとりひとりがトランジスター・ラジオを持つようになるかもしれぬことを予想させる。テレビは家族で見るもの,ラジオはひとりできくものという傾向はすでに出てきているのだが,この際,ラジオドラマは児童芸術でテレビドラマは自動大衆芸術ということになるだろうか。けっして,そうではあるまい。
 児童芸術は児童大衆芸術にならなければならないのだが,このとき,児童文学はいったいどういうものにならなければならないのか。また,そこへいく過程として,児童文学はどういう道をたどっていくべきなのか。
 ただ,いずれにしても,児童文学が質的転換をせまられていること,さらには教師や父母の文学・芸術の概念も転換をせまられていることは,事実としてみとめなければなるまい。たとえば,文学が感情のうったえる,情緒性をはぐくむ,というような考え方はまだ残っているが,これで行くから非情緒的な漫画やラジオドラマが俗悪としか考えられないのである。
 芸術の諸ジャンルは常に浸透しあう。そして活字より音,音より映像と,それを組みたてていく材料が具体的になってゆくにつれ,また社会が機械化してゆくにつれ,芸術は原始的なものにかえろうとして,人間全体をゆさぶるものになっていくのである。
 だから,文学も,たとえば松本清張の作品が多くの人に読まれるのは,人間の日常生活の奥にひそむものをゆすぶるからではないか。人間全体といっても,このゆすぶり方はトルストイなどのゆすぶり方とはちがう。ここには全人的な人間はなく,ぼくたちが受けるおもしろさは,いわばショックに似たおもしろさではないか。
 そして,ショックを与える材料として強力なのは,活字よりも,音であり,映像である。つまり,清張には,他の芸術ジャンルの方法の浸透が見られる。彼がショックー擬似的ショックだがーを音や映像よりも強く,活字で作りあげるところに,その作品の強みがあるのではないか。
 だから,ジャンルの綜合化と純粋化,これがまた児童文学にも必要となってくる。おとなの芸術の場合,音や映像の背後にあるものの多くは,やはり文学である。だが,児童芸術の場合,そうではなく,通俗小説であり,漫画であった。児童文学と児童文学者がマスコミに抵抗しがちなのは,ここにひとつの理由があろう。
 だが,良心的ということばに名をかりて古いものの存在を主張することは,かえってこの没落を早めるにすぎないだろう。児童文学の再生をはかるとすれば,児童文学は一日も早く,活字でなければ表現できない"現代"をつかまなければなるまい。ここでの質的転換は,外国児童文学をモデルにするような転換とは,また異質のものである。
 そして,それには編集者との協力が必要である。ラジオ・テレビいずれにしろ,これはもう個人の作業ではない。プロデューサー・俳優との協力によって,すぐれたものが生まれてくる。『じゃじゃ馬くん』などは,出演の子どもたちをぬきにして考えることはできないのだ。手工業的な文学とは事情はちがうが,社会の機構はそのように動いてきているのではなかろうか。
(親と教師のための児童文化講座第五巻,一九六一・四月)
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