『児童文学の思想』(古田足日 牧書店 1969)

マンガとことば
       ──きょうのことばの破壊 明日のことばの獲得──

〈1〉
 ある教師に週刊誌『少年マガジン』のマンガ「パトロールQ」を見せたことがあった。その教師はぱらぱらと頁をくり、「ちょっと見ただけではわからないなあ」と言った。聞くと、彼は最近のマンガはほとんど見たことがないそうである。わからないのもむりはない。いつも言っていることだが、近ごろのマンガはむかしのマンガとちがう。映画的手法がその根本になっている。その上、映画のひとコマの大きさはかわりないが、マンガのコマは一頁を八つに切ったかと思うと、次の見開き二頁は上半分を一コマに使うなど、変化に富んでいる。むかしのマンガはどこかにユーモラスなふんい気がただよっていたが、いまのマンガは物語を活字のかわりに絵で進めていくものになっている。
 ところで、石川淳に『鷹』という小説がある。専売公社をレッド・パージになった国助という男がいる。彼の前にKという男が現われ、しごとをせわしてくれる。国助はKに教えられた通り、運河のそばの家をたずねていく。その家にはタバコがたくさん置いてある。そのタバコの香りをかいで、国助はくらくらした。すばらしく上等のタバコである。
 しかし、そのタバコの箱に印刷してある文字はいままで見たこともない字である。国産のタバコでもなし、現在輸入されている外国製品でもない。そのタバコを町のタバコ屋に配達していくのが国助のしごとである。この正体のはっきりしないタバコがどうしてタバコ屋の店先で売れるのかと国助はふしぎに思う。すると、彼が運んできたタバコを店員が袋からガラス壜のなかに移しているのが見えた。見るとどうしたことか、それはピースにかわっている。国助はそのピースを買った。
 しごとをすませた国助が喫茶店にいると、Kが現われ、本をくれる。明日語読本と明日語文法という本である。それは、タバコの箱に印刷してあった文字の本であった。国助がそのタバコの名を辞書で調べると、なんのことはない、それはピースという意味である。
 国助は運河のそばの家に寝ることになるが、彼の部屋の窓ガラスは破れて新聞紙がはってある。その新聞紙には明日語のアルファベットがちらばっているが、乱雑で、単語にも文章にもなっていない。
 夜、空に月光があたる。アルファベットは動きだして、単語を作り、文章を作る。空白であった四角い部分には政治家の写真が出た。その写真の下の記事を辞書を引きながら拾い読みすると、きょう午後二時三十五分、政治家変死、自動車事故、原因不明、あるいは暗殺か、背後関係捜査中、思想犯……というあらましがわかる。 
 その翌日、しごとの帰りのバスのなかで人びとが夕刊を見て興奮している。何ごとかとのぞきこむと政治家変死、自動車事故……という活字が見えた。なんだ、いまごろ驚いて、おれはきのう知っていたぞと考えて、国助はびっくりした。夕刊はきょうの夕刊である。国助がそれを知ったのはきのうの夜、あのえたいのしれないアルファベットで書かれた新聞はあすの新聞であっのだ。
 国助はここで運河のそばの家に住む人びとのことを考える。「自分がこの事件を昨夜すでに知ったくらいだから、かの家のひとびとはもちろん知っている。もしかすると昨夜よりも早く知っていたのではないか。自分のとぼしい語の力では例の新聞に於て、わずかに明日の記事の断片しか読みえなかったが、かれらの肥えた目はもっと遠くを、明後日を、そのまたさきまで深く読んでいるのかも知れない。明日のことばを解し、明日の事件を知っているというのは、今日の秩序にとって、あきらかに治安を破壊するものである。思想犯、おもえば、ことばは思想であった。」
 国助には最初明日語はわからなかった。わからないということの本質がここで的確に示される。わからないということは、つまりことばを知らないことである。
 最初に言った教師のことばだが、マンガの内容がわからないということは、彼の持つことばとは異質のことばがマンガにあるということになろう。あるいは、そのマンガの内容を彼自身のことばの体系のなかにくりこむことが不可能であったということになる。
 認識とか理解とかいうものの根本はことばである。事物及び事物の関係を人間はことばによって認識する。マンガや映画は具体的であり、ことばは抽象的であると言ったところで、犬や猫がマンガ映画を理解することはできない。彼らにはことばがないからである。

          〈2〉
 重要なことは、ある教師が持っていたことばとは異質のことばがマンガにあるのではないかということである。創造を可能にしたものもまたことばであった。マンガなり映画なりの根本には、これらを作りあげたことばの体系がひそんでいる。 
 一般にことばとマンガの関係を考える時、ともすればぼくたちは吹き出しといわれるもの(登場人物が何かをしゃべるとその人物のことばが線にかこまれたなかにはいっているもの)を問題にしやすいようである。ぼくが子どもの時、「トホホ」ということばがあった。マンガが、しまったという時、あきれかえったという時に使ったことばと記憶するが、ぼくや友だちもこのような時に使ったものだ。「ギョッ」ということばもあった。
 このような間投詞的文句からはじまって、「いのちばかりは、おたおた」とか「しばらくねむってもらおう」「ふふふ、こぞうたち気がついたか」ということばがマンガ、読物から子どものことばになっていく。すると、悪いことばをマンガから覚えたと言い出す人もふえてくるようになる。
 だが、こういうことは枝葉末節の問題にすぎない。認識はことばによって行なわれる。そのことばがきょうのことばであるか、あすのことばであるか、それとも過ぎ去った日のことばであるかということが問題なのである。
 そして、ことばは固定化しやすい一面を持っており、教育は過去の遺産を子どもに伝えるために保守的になりがちな面を持っているようである。一般に草は緑であり、空は青いことをまず子どもは知らなければならぬ。というよりも、草の色を緑といい、空の色を青と呼ぶことを教えるというほうが、いくらか正確であろうか。そして、それが固定した時に、春風は常にそよそよと吹き、夕日は常に赤いという認識ができあがる。ことばはここでは認識の発展をさまたげるのである。きょうのことばの体系のなかに住んでいる時、国助はあすのピースという字が読めなかったのだ。
 成長とは新しいことばの獲得にほかならないが、それは同時にきょうのことばの破壊という作業をいろいろそなえていなければならぬ。そして、人は理解しがたい現象にぶつかった時、その現象を究明しようとして全力をあげる。自分のことばの体系のなかに取り入れようとする。
 マンガがわからなかった教師は、その意味を理解することに力をつくしたにちがいない。これを数度くりかえした時、マンガはその教師のことばのなかにくりこまれる。
そのくりこまれ方だが、古いことばが強力に働くと、彼のことばは変化しない。マンガは一般に排撃されるが、その理由は殺ばつとが残ぎゃくとか非論理的だとかいう以上に出ない。ぼくは理論として成立しているマンガ排撃論に出あったことがないのである。だが、断片的で根強いマンガ排撃の声にそれが断片的であるからこそ正当さと共に、古いことばの存在を見ることができる。
 つまり、殺ばつ、残ぎゃくという読み方はその内容に即している。マンガという表現は考えられず、内容を直接的にことばに翻訳したものだけが問題とされている。この読み方は非論理的という言い方と深くつながっている。リアリズムの底には合理的なものの見方があった。この合理的なものでマンガを見ると、恐竜と空飛ぶ円盤が同時に存在するのは不合理だということになるらしい。
 マンガ排撃の根本はこの小説を読むのと同様な読み方に原因があるように、ぼくは思う。つまり文学的な理解にかたよりすぎている。マンガを排撃する人はたいてい良心的な児童文学が子どもに読まれないことを一方でなげいているのである。
 ぼくはマンガがあすのことばだと言おうとしているのではない。現在のマンガは批判というより以前に、排撃されなければならない点を非常に多く持っている。だが、問題はマンガが文学、ことにリアリズムとは異質の言語体系によって構成されているということである。異質のものがぶつかりあう時、火花が散る。現在のマンガには問題が多すぎるが、そこに見られる文学・リアリズムとの対比をぼくたちは生かさなければなるまい。

          〈3〉
 だが、文学的言語あるいはリアリズムといえば実生活に関係がないように思われる。そうかもしれない。しかし、今日の作文の文体は『赤い鳥』や教科書、その教科書の向こうにある日本の小説の文体から形成されたものだ。これは文学的言語である。そして、この文体は現実観察を基礎としていて、現実のあとを追っかけるかっこうになっていると、ぼくは思っている。
 そして、前に言ったマンガから直接的な内容をだけ読む読み方は、現実のあとを追っかける書き方と対応している。リアリズムのことばは常にものを限定した。ひとつのことばはひとつのもののことをしか表現しない。このリアリズムの衰弱がマンガの直線的な読み方の原因のひとつになっているのではないかと、ぼくは思う。
 このような状態のなかでマンガがはたす、あるいははたさなければならない役割は、このリアリズムによる文学的言語の破壊である。この任務はマンガよりも主として映像が負わなければならないものであろう。だが、マンガもまた弱いなりにリアリズムの言語体系に対抗する性質を持っている。週刊誌『少年サンデー』に「快球Xあらわる」(摩周貴案・益子かつみ画)というマンガがある。遠い星から来た快球Xと親友になったボン太郎はXの力をかりて、クイズをあてたり、ホームラン王になったり、ギャングをつかまえたりする。ボン太郎にXがついていることを知らない友だちは、これには何かわけがあるにちがいないと考え、とうとうXを発見する。そこでボン太郎がこの快球は神さまの使いだとうそをついたため、彼は生き神さまに祭りあげられる。
 三月六日号はこのボン太郎生き神さまの巻である。しめなわが張られ、祭壇に燈明が立ち、神主のような服装をしたボン太郎は積み重ねたざぶとんの上にすわらされる。遊びにいきたいボン太郎が飛びだそうとすると、「いき神さまがおあそびにいくなんてとんでもない」ととめられる。「よーし、そんならみんながあきれるようにふるまってやる」とボン太郎は供えられたまんじゅうをパクパクたべる。すると、「おお、ありがたいことだ。かみさまがたべてくださった」というわけで、まんじゅう屋のおやじは「きょうから、うちのまんじゅうをボン太郎まんじゅうとなまえをつけよう」と言う。
 このマンガがドタバタ調であることはいうまでもない。絵も俗悪である。だが、これをドタバタといってだけすませることがいいかどうか。ボン太郎まんじゅうと名をつけるところでぼくたちは笑うのだが、ここに意外に人間の真実が出ているともいえる。壁にはられた「ボン太郎いき神さまおうかがい一覧表」には「試験はどこがでるか おうかがい料千円。 すもうはだれが優勝するか おうかがい料五百円。 宝くじはなんばんがあたるか おうかがい料二千円」などの項目が並んでいる。現代をこのおうかがい表に見ることも可能であろう。
 そして、もし範囲を拡大すれば、この雑誌の巻頭には手塚治虫「マン」がのっている。この科学空想マンガと新興宗教ボン太郎の併存する今日を考えることもできる。だが、こうしたことは子どもの読みっ放しではむりなことかもしれない。教師の指導は時にマンガの読み方に及んでいいのではないか。
 また「よたろうくん」(やまねあかおに『少年クラブ』連載)は三月号では学芸会の話である。何をやりたいかという先生の問いに答えて「正田さん」がシンデレラの劇をやりたいと言う。よたろうくんはあいて役の王子にすいせんされるが、せりふを知らない。先生が幕のうしろから教えてくれることになる。当日、めんどうくさくなったよたろうくんは「ついでにここへでてきてぜんぶいってくださいな」と、先生を幕のうしろからひっぱりだす。「ああ、めちゃくちゃだわ」と頭をかかえる正田さん。これは皇太子結婚のころに出るべきもので時期を失してはいるが、いまでもまだいのちはあろう。よたろうくんは正田さんの夢を破壊したのである。
 『冒険王』に「卜伝くん」(一峰大二)というマンガがある。東京中の古武道の先生たちが、つぎつぎにチョンマゲ姿の一味にさらわれていく。卜伝くんの父もさらわれる。卜伝くんはチョンマゲ一味のあとをつけ、山の中で古い日本の城を発見する。この城にこもる一味の目的は「いまの日本をむかしのふるきよき時代にかえすこと」である。
 だから、彼らはチョンマゲ姿の人物として登場してくるのであろう。「快球Xあらわる」は喜劇に通じるものがあり、マンガ独自の発想とはいえない。「よたろうくん」のユーモアは戦前のもののようでもある。「卜伝くん」にぼくたちはマンガの発展の方向を見ることができる。古い人間がチョンマゲ姿をしている。これは当然のことなのだ。外形を超えて内容がつかまれようとしている。
 もっとも、これは作者にそれだけの意志があってのことではなく、目先をかえるやり方として出てきたものにちがいない。そして、絵がこの発想にふさわしいものではないのが致命的な欠点だが、しかし、外がわを突き破って内面を取りだすことばがこのマンガの底には働いているようである。
 そして、もうひとつ、『少年マガジン』の「マッハ三四郎」(久米みのる作・九里一平画)を例に取ろう。このマンガは映画的手法によるストーリィマンガの極限に近い。内容は少年カミナリ族マンガということになろうか、すばらしいスピードのオートバイに乗った少年三四郎が主人公。彼は魔のキャデラックを追跡する。キャデラックに迫ったオートバイ、その車輪は地上を離れている。そして、ヘルメットの下で口を結んだ三四郎の顔、キャデラックを運転する黒めがねの悪漢の顔、ちゅうがえりしてキャデラックの前にとびだすオートバイ。
 以上四つのコマ絵が構成するスピード感はすごい。このマンガの主題はスピードの快感であり、このスピードの全的肯定は刺激的にすぎる。有害という部類に属するものかもしれないが、このスピード感はことばによっては出せないものだ。ことばが持つ刺激よりもはるかに生理的、衝撃的な刺激をこのマンガは人に与える。まだことばになっていないものの存在をぼくたちは知らされるのだ。
 二種のマンガが存在する。ひとつは「よたろうくん」のように諷刺的なものであり、ひとつは「マッハ三四郎」のように映画的なものである。そして、このふたつともリアリズムの言語体系とは対立的なものを持っている。つまり、マンガがその独自性を発揮しようとすれば、いままでの言語体系によっていてはだめなのだ。
 これを逆にすれば、マンガとことばの教育との関係が出てくる。「よたろうくん」的なものにせよ、「マッハ三四郎」的なものにせよ、一般に現実と見えているものを崩していく役割をはたしていく。その現実とはリアリズムの体系によることばの世界なのだ。そして、マンガがまた現実の表皮を形作っていくこともいうまでもない。
 マンガの機能を発揮させ、マンガがまた現実の表皮となって停滞していくことを防ぐためには、自由な連想を養うことが必要であろう。「卜伝くん」では古いものの内容は示されない。その古いものを現実と結びつけていく態度が必要なのだ。極端に言えば、マンガはでたらめの産物である。それを生かすには、読むほうもでたらめに徹するべきである。その時、新しい現実が姿を見せてくる。ことばは認識と直結している。ぼくたちは現実を認識するということばを使うが、現実というものはすでに一度ことばによって構成された世界である。現実があり、それに対応してことばがあるという考えは機械的、一方的である。ことばと現実は複雑に入り組んでおり、ことばの変化によって現実も変化する。
 これはおそらくことばの性質を学ぶ時の第一課であろう。そして、この問題を考える時、ぼくたちはどうしてもことば、認識の体系そのものを考えざるを得なくなる。ことばへの自覚と関心の第一歩はここにあるのではなかろうか。(教育科学国語教育一九六〇・五月)
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