『児童文学の思想』(古田足日 牧書店 1969)

”状況認識の文学教育”おぼえがき
     ───児童文学と現在性───

<1>
 うかつなことだが、ぼくが”状況認識の文学教育”という言葉を知ったのは、去年の5月ごろであった。『教師のための国語『日文教編・河出書房刊』に大河原忠蔵執筆した項ではじめて知ったということになる。
 あとで、雑誌『日本文学』をしらべてみると、もう数年前から大河原は”状況認識の文学教育”のことを書いている。知ることがおそかったのをぼくは後悔した。いや、さきに知っていたら、ぼくはぎゃくにこまったかもしれない。
 私ごとになって恐縮なのだが、ぼくは61年と62年にそれぞれ1冊ずつ少年小説を書いた。それを書くときにぼくは一方で状況を書き、他の1冊で人間の生き方を書こうと考えた。
 このわけ方は機械的だという批判をうけるだろう。だが、機械的であって、大いにけっこうだと、ぼくは思った。ぼくは後世にのこすような名作を書こうとは思わない。現在での効果をねらう。人間と状況を一度にとらえることはぼくの手にあまるし、またそうすることは19世紀小説へのぎゃくもどりなのではないか。もしも現在を書こうとすれば、人間がつねに小説の主人公になるとはかぎらない。機械や状況の方が主人公となる場合も出てくる。
 ぼくは状況を主題としたものとして『ぬすまれた町』を書き、生き方を主題としたものとして『うずしおまるの少年たち』を書いた。
 このように二つにわけて考えた本が出たのち、ぼくは”状況認識の文学教育”を読んで、おどろいた。ぼくと似た考えがここに示されていると思ったからだ。
 もちろん、似ているということはおなじだということではないし”状況”というなかみの複雑なことばを使うとき、おのおのがそのことばにふくませる意味はちがってくるだろう。ぼくは”状況認識”に対して”主体を高める文学教育”ということばを使うことにはさんせいしかねるので、ある論のなかでは”人間性一般を高める文学教育”と呼んだ。
 だが、その差はさておき、状況と人間とにわけて考える、大河原の考え方にぼくは拍手をおくりたい。
 ただし、大河原論は”状況認識”を強調するあまり”人間性を高める”方を少しもかまわないと誤解される面を持っているようだ。その後の発展について、ぼくは知らないが、両方とも必要だと、ぼくは考える。
 
 そこで、去年8月、東北民教研(正式には東北民間教育団体研究会?とでもいうものか)の「文学と教育」の分科会にまねかれたのを機会に、その分科会のテーマとして”状況認識の文学教育”をとりあげさせてもらった。
 だが、そのとき隘路となったのは、”状況認識”的な作品が少ないことである。大河原のいうように文学教育は文学作品教育ではないが、しかし文学作品教育は文学教育の一部ではある。
 そして、大河原の報告を雑誌『日本文学』の旧号で見なおしたところ、高校生・准看護婦など、その年齢の高いところで彼の教育はおこなわれている。
 ぼくが東北民教研に出したテーマの一部は小・中学校において状況認識の文学教育は可能であるかということであった。この際、ぼくはじつのところ、小・中学校だけ考えていたのではない。幼稚園から可能であるかということも考えなければならないと、ぼくは思っている。
 このとき、東北民教研では現代詩のことも話題になった。小・中学校の教科書に現代詩といえるものがほとんどないということである。
 ただし、これは教科書に現代詩がないから、現代詩を、ということではない。小・中学校の子どもに現代詩が必要かどうかということの方が先行する。
 これにもまだ答は出ていない。しかし、現代詩の問題は”状況認識の文学教育”とふれあうところがあるはずだ。
 東北民教研の結果はつぎのように報告されている。
 
 「文学教育は文学作品教育ではなく、文学的認識を育てる教育だということが共通に理解された。文学的認識の内容としては、人間性一般を高めること、現実認識を育てること(これについては後に述べる・古田)状況認識を育てることがあり、それぞれが支えあうことによって、文学的認識が豊かになり高まるのだということが、最終結論となった。(中略)現実認識とは、外がわの現実をとらえることであり、状況認識とは、状況を突破する認識であり、世の中を変え、自分も変え主体を回復し現実を動かしていく認識であるということがはっきりした。」(「東北の教育第11回東北民間教育研究団体合同集会記録」のうち「文学と教育」の項・筆者田村正巳)
 だが、ぼくはこの文章中にある「はっきりした」ということばにうたがいを持っている。ぼくの印象では、東北民研「文学と教育」分科会はみんな手さぐりしているようなところで終始している。
 もちろん、成果ゼロとは思わない。”現代詩、状況認識”両方にまたがる討論のなかではっきりしたことは、現在性のあるものを子どもに与える必要があるということだ。
 だが、それにしてもみのりがすくなかった。その責任の大半はぼくにある。その意味で、この小論は東北民研の人々に対する、ぼくの2度目の報告でもある。
 
 <2>
 幼稚園(保育園)・小・中学校から状況認識の文学教育は可能であるかという問いは、児童文学のあり方をたずねていることにもなる。
 ぼくのこの小論はおそらく大河原の”状況認識文学教育”論とは直接にはかかわりをもたないであろう。ただ、大河原の考えていることと近い(らしい)ことが、児童文学のなかでも考えられているということを述べたいと思っている。
 
 実際に創作(その結果が創作とか文学とかいう名に値するかどうかということは別にして)する者の立場に立てば、彼らはつねにその作品が読者に読まれることを望んでいる。
 この単純な理由からまず、ぼくは”状況認識文学教育”論を支持したい。評価のさだまっている過去の作品にだけたよって文学教育がおこなわれるのでは、現在創作にたずさわっている者のうかぶ瀬がないのだ。それとも文学教育を考える人たちは、文学教育は古典や近代文学の作品は文学教育の中にくりこむことができるが、現在の作品は学校とは無縁であると考えているのだろうか。
 自分の作品が読者に読まれることを望む際、ぼくはいつも古典のことを考える。自作と古典とを比較してみるとき、その優劣はいうまでもない。はるかにすぐれた古典が存在しているのに、自分は自作が(も)読まれることを願っている。
 自作が読まれてしかるべき理由──価値というものを、ぼくは考えざるをえない。もちろん現在生産されている作品のうち、幾編かはやがて古典としてのこっていくかもしれない。だが、うずもれ、消えていくぼう大な量の作品群は、いったいどういう役割をはたしていくのか。また、はたすべきなのか。
 古典とくらべてみて、文学的価値においておとる自分の作品がもっている価値は、たひとつ、現在性という点でしかない。
 ある児童文学講座の席上で、ひとりの保母が言った。『ちびくろ・さんぼ』は何度読んでも子どもはあきない。こうした作品を児童文学者は書くべきだと。
 こうした作品だけを望むなら、古典を文学教育の路線の上に再編成して、子どもに読ませればよい。しかし、『ちびくろ・さんぼ』や『クマのプー』や『あしながおじさん』だとか、古典をどうならべようと、そこからは現在性は出てこない。
 ぎゃくに古典として読みとるためにも、一方では現在性のある作品を読んでいなければならない、古典のうちにある現在性を引きだすことは、古典だけを読んでいては不可能、あるいは大きな限界がある。
 もっとも現在性のあるものイコール状況認識的作品ではない。ただ状況認識的なものは現在性の上に根をおろしている。
 そして、児童文学のなかで”状況認識”を考えるとき、状況認識以前にぶつかるのが、現在性一般の問題である。
 児童文学と現在性の問題は、しばしば児童文学とイデオロギーというかたちで出てくる。つぎのような考え方がある。
 「時代によって価値のかわるイデオロギーは──例えば日本ではプロレタリア児童文学などというジャンルも、ある時代に生まれましたが──それをテーマにとりあげること自体、作品の古典的価値(時代の変遷にかかわらずかわらぬ価値)をそこなうと同時に、人生経験の浅い子どもたちにとって意味のないことです。」(石井桃子他著『子どもと文学』)
 児童文学は一面からいえば、いわば保守的な文学だと、ぼくは思っている。人間がいままでに獲得した精神的内容を子どもに伝えるという面を持っているからだ。
 そして、その面だけが強調されて、道徳的内容と結びついた際、現在公認の道徳ならゆるされるが、古いものに反抗する考え方は拒否される。
 だが、人間性というものは原始から今日に至るまでのあいだに発見され、深められてきたものだ。前時代のものプラスアルファ、あるいは前時代に反対の考え方が出てくることで、人間はまた進歩する。
 つまり古典的価値を獲得するためには、新しいものを生み出さねばならぬ。それが古典になるかどうかは後世に至る読者たちが決めてくれることで、作者としては現在を考えるよりほか、道がないのである。
 そして、子どもたちもまた”現在”に生きる。”現在”の表現、”現在”の意味、”現在”をこえていくことなど、こうしたことに価値があるのでないか。
 作者と子どもが同時代に生きていることが、作品の不完全さをおぎなう。だから、不完全でもよいということにはならないが、やがてうずもれ、消えていく群小の作品群にも、時代を動かす力はあるのだ。
 作者と読者に共通のものとして、児童文学の場合も、やはり”現在”の表現は求められている。
 だが、現在を肯定しても、状況認識的な作品と児童文学の関係には、まだもうひとつ残されている問題がある。それは、子どもの人生経験が浅いということにつながって、子どもがしだいにおとなになっていく存在だという、特殊性から出てくる問題である。
 国分一太郎は児童文学としての年齢的段階を考える際、児童文学を三つにわけた。
 (1) それぞれの心身の発達段階にある子どもたちの精神内容をゆたかにする、充実させる、拡充させるという面に力を入れた作品。
 (2) それぞれの年齢に応じながらも、今日以後の人類の仲間、今日以後の日本国民のひとりとして持たなければならない新しい意識・思想・感情・モラルなどを育てる作品。
 (3) 以上の(1)と(2)をともにかねそなえた作品(『文学教育基礎講座』第1巻「児童文学とはどんなものか」)。このうち(1)は前述『子どもと文学』の意見に相当するものである。(2)は国分自身の解説で「今日以後の新しい生き方を積極的に示唆する」作品といわれる。(3)は綜合だから、とりたてていうことはない。
 そして、国分はつぎのようにいう。
 「(1)は主として、子どもたちの現在認識の”ゆたかさ”をのばしていく役割をする作品であり、(2)は今後の生き方の”変革””新しさ”を示唆していく作品であり、これが、どんな年齢の子にも、ともに必要なのか、それとも、幼児や低学年の場合には、まず認識をゆたかにし正しくしていく作品を与え、高学年や中学などでは、おとなの間にまじって古い意識にひきずられやすい子どもたちには、新しい改革の意識を育てなければならないのではないか、といった疑問がうかびあがってくる。」 低学年では認識をゆたかにするもの、高学年になって変革的なものという考え方が多いことを、国分は言っているのである。そしてそれに対する答として国分は「この考え方をきわめて機械主義的に受けとってはならないであろう」という。
 意識の変革ということで、国分は現在性を肯定している。そしてそれとおなじ本のなかで、国分は言っている。「子どもの文学の場合には、シュール・リアリズムとかアヴァンギャルドの芸術の創造とかは、その精神の発達からいって、とうてい考えられないことである。」
 現在性を肯定しても、”状況認識”はここでまた壁にぶつかるのである。大河原があげる作品はアヴァンギャルド、あるいはアヴァンギャルドに近いものではないか。現代詩を文学教育のなかでどうとりあつかうか、また子どものための現代詩という考えも、国分説をさけて通ることはできない。
 
 <3>
 東北民研でぼくは状況認識の作品をあげよと問われて、木島始の『考えろ丹太』とぼく自身の『ぬすまれた町』(ともに理論社刊・対象小学上級・中学)をあげた。いまここでは、あらためて『考えろ丹太』を保留にし、別に2作品を追加したい。『ほしからきたうま』(小沢正)と、『はしれロボット』(山元護久ともに小峰書店刊)である。この2作品はともに小学校1・2年。
 『ぬすまれた町』は鳥越信によれば「シュール・リアリズムの作品」である。ぼく自身はシュールといわれることに不満であるが、鳥越のシュールということばは厳密な意味で使われていない。その方法が非リアリズムであり、そうかといってファンタジイ(空想物語)でもないというところからきている。
 『ぬすまれた町』は子どもがテレビの野球放送を見ているところからはじまる。とちゅうでりんじニュースがはいり、子どもがユーカイされたという。その子どもが自分とおなじ学校の子だというので、子どもがきき耳をたてると、アナウンサーは現在テレビを見ているその子ども自身の名をいった。そして、ユーカイされたときの状況は現在の自分とおなじ状況である。ただ日づけが10日のちのことになっている。そして、10日のち、その子はユーカイされた。
 自分がユーカイされる、自分自身がぬすまれるということが、この作品のテーマになっている。『ほしからきたうま』では、自分がうちに帰ると、もうひとりの自分がちゃんとうちにいる。このにせものの自分はくびにねじがあり、じつは機械で動くおもちゃなのだ。『ぬすまれた町』では主人公たちが実体のない”影”になっているところが出てくる。
 自分自身が非人間化されており、その自身をとりかえすということが、”状況認識”の要求のひとつになっていると、ぼくは思う。その方法がシュールに近くなるのは、その内容からの当然の帰結でもあり、またこうした認識方法によって固定した見方をやぶりたいということでもある。
 大河原のいう「評価のさだまっていない現代文学」というのは、現代文学だから評価がはっきりしていない、ということではない。ここには固定した世界観に対する疑いがある。周囲の暗黒を既成のことばでとらえてはだめだということなのだ(と、ぼくは考える)。
 そして、現在性と既成のことばというものを考えるとき、ぼくあらためて国分一太郎のはたした役割の大きさにおどろく。
 ぼくは文学教育を三つにわけて考える。ひとつは”人間性一般を高めるもの”で、前にいった大河原のいう”主体性を高めるもの”である。ひとつは社会認識、または社会構造認識とでもいおうか(これを東北民研では”現実認識”とよんだ)、もうひとつが”状況認識”である。
 社会認識というのを考えるのは、あいてが子どもであるという特殊性から出てくるかもしれない。そして、文学教育連盟の教師たちのしごとをふりかえってみると、彼らがもっとも力を入れたのはこの社会認識をねらう文学教育にほかならない。
 理論的には前述国分分類の(2)がこの文学教育の背後にある。そして、あつかわれる作品の典型的なものは、国分の『鉄の町の少年』だ。
 1955年、『鉄の町の少年』が生まれたとき、この作品は内容的にも方法的にもまったく孤立した作品であった。だが、今日、これを頂点とする作品はぞくぞくと生み出されて、少年小説の一ジャンルがつくられたといってもよいほどだ。
 『少年の海』(吉田とし)『北風の子ら』(鈴木喜代春)『山が泣いてる』(鈴木実ほか共同創作)など、これらの少年小説群に共通の特色は現在の社会のしくみをえがき、それを批判している点である。
 また、それらの変型として『あすの山歌』(高橋健)や『一本道』(近藤健)がある。『鉄の町の少年』を代表とする作品群と、いま変型とよんだ作品群の差は、階級意識の有無である。しかし、古いものと新しいものとのたたかいが社会的な事件のなかで、あるいは社会的事件を背景にして展開することは同様だ。
 そして、『鉄の町の少年』が戦後児童文学の古典になるにつれ、これら社会小説的作品群は類型化してきた。
 その機能の低下を示す一例をあげると、『ドブネズミ色の街』(木暮正夫)という少年小説がある。読者対象は中学1・2年。この1節に、だがし屋にモンジャやき(おこのみやきのようなものと考えればよい)にきた少女たちの会話がある。
 「あのスカート高いのよォ」
 「あの子には似あわないわよね。だいたい、ぜいたくだわ」
というところからはじまって、つぎのようになる。
 「おとうさんに、お二号さんがいるんだってね。てんで評判らしいわよ」
 「いやあね、おとなって。お金がないとふてくされるし、あるとそんなことしか考えないし、女はお化粧して、ネックレスや金時計をはめて、PTAの役員になりたがるし、男はおめかけさんをつくったり、キャバレー遊びでしょう。なっちゃないわ」
 「資本主義のわるい点よ。いっそのこと、お金もちもびんぼう人もいない社会にしてしまったらいいのよ。なんでも平等にしちゃうのよ。でも、ムシのいい考えね」
 「そうよ、それになんでもかんでも平等にしてしまったら、働く意欲をなくす人が多いでしょう。日本の人口は1億。その人間がおなじ考えをもつってこと、むりね」
そして、さいごは、
 「ほんとに国民のためを思う政治家って、いるかしら」
 「疑問ねえ」
となる。
 以上の会話は「モンジャ焼きにくる女の子は、ここを社交場とこころえているらしく、まったくにぎやかだった」ことの一例だ。むかし、井戸ばた会議といわれたものの少女版だ。
 社会主義は悪いらしい、いい政治家はいないようだ。こういうことが少年少女の常識になっていることを、以上の会話は示している。
 こうした常識というよりムードがそのまま力になるとは考えられない。吉田としが『巨人の風車』で作品の展開する場所をポルトガルにうつし、ガルバン大尉の客船のっとり事件を書いたのは、理由のあることなので、現在の日本では、そうした行為が実現されないという考えが背後にかくされていると、見てもよいのである。
 『鉄の町の少年』の発想は今日ではみられない。これほど単純化され、これほどいきいきした社会少年小説は、ここしばらくは生まれないだろう。
 そして、現代はことばのはんらんの時代である。いま引用した少女たちの会話はほとんどが概念的なことばである。さまざまのマス・メディアによることばの洪水が、人間を、少年少女をつつんでいる。
 そのマスコミのことばも社会批判をはなれることはできない。交通事故やガス爆発を個人の責任に還元することはできなくなっている。
 ここに出てくる疑似批判──その既成のことばをうちくだき、既成のことばのとりこになっていることを読者自身に思いしらせ、そこから抜け出る道を考えさせることが必要になる。
 
 <4>
 ひとつの迷信がある。作品内容がそのまま読者につたわるという迷信。社会を批判的に書けば、読者は社会に対して批判的になるという考え。おおまかなところ、それはたぶんそのとおりだろう。だから、作者は作品というひとつの世界をきずきあげることに専念し、教師はテーマを深く正確に読みとらせようとする。
 だが、読者の反応のしかたは複雑な上、批判はそのままでは力にならない。しかも、疑似批判ははんらんしている。もしも作品を力のあるものにしようとするなら、効果を考えなければならない。読後、読者の中に何がのこるかを考えなければならない。
 つまり、さきにいった、既成のことばから抜け出る道のことなのだが、これはいわゆる問題意識ではない。効果を考えるということは作品が正確には読者につたわらないということから出発した。だから、テーマは拒否されているに近い。一方、問題意識とはテーマの延長、それぞれの読者によるテーマの個人化ということではないのか。
 じつは、抜け出る道というほど、はっきりしたものではない。はっきりした道というなら、社会批判的作品がその大道を示してくれる。それと支えあいながら、”状況認識”は子どもに主体的なものを見、考えさせようとする態度をおこさせる。
 ”状況認識”の背後にある思想はこれなのだ。自分自身が疎外されていることに目をひらかせる、その疎外の状況のまっただなかに読者自身を立たせてみるということなのだ。
 大河原は少年と自動車の関係で、現在の子どもたちは流行車に意識のはばをあわせるといったが、この際、子どもは流行車のおばけである。『ほしからきたうま』でもうひとりの自分がおもちゃであることを考えあわせてみれば、”状況認識”の内容の一部が出てくる。
 『ぬすまれた町』も『ほしからきたうま』も人間の機械化・部品化を書いているのである。
 そして、それを外がわから書くことだけで、ぼくは満足しきれない。読者がそこに書かれているのが自分自身だとうけとらざるをえないようにしむけなければならない。流行車のおばけである少年を書く場合、外がわからせまっていくいままでの方法があるとともに流行車のなかみと少年の外形をもった存在を同時にとらえる方法があるはずだ。
 この場合、もしも前者をえらんだとしても、それは社会認識小説的に、いままでのリアリズムではない。現実の表皮を1枚1枚はがしていくような方法と文体をもったものになるはずだ。大河原のあげる小説や作文の例はそれである。そして、この方法は擬似的なものかもしれないが、松本清張の推理小説の骨組になっている。
 『はしれロボット』はファンタジイの構造のなかで、この方法を用いている。主人公の子どもはロボットを買ったため、チョコレート工場やガム工場しゅうげきの犯人にされてしまう。
 そして、この事件がおこったのは「へんてこな日」、おかあさんが50円玉を指ではじきとばして主人公にくれた日からはじまるのだ。いままで金なんか持たせてくれなかった母親がだ。
 日常性が破かいされたとき、その裏がわの現実が顔を見せる。ネコがスポーツカーを運転する。この世界のなかで、追われた主人公は1けんの家にかくまわれる。
 この家のなかではもけい機関車が貨車をひっぱって走り、貨車にはニワトリのまるやきや、パンやタマゴやジュースなどがつまれていて、鉄橋をわたると、主人公の前でとまる。
 おさない子どもが胸をおどらせるこの装置のある家の主人が、じつは犯罪の張本人だ。社会批判的小説の中心がおもに貧困であるのに対して、ここにあげた3作品は繁栄のなかの人間喪失を書くのだがそれはさておき『はしれロボット』の作者はこの作品をつぎのようにむすんだ。
 「ずっとずっとむかし、このまえのきんよう日は、まったくへんてこな日でした。へんてこなことがおこりました。おかあさんがゆびさきでぽーんと50円だまをはじきとばしたときから、まったくへんてこなことがおこりました。ためしにやってみませんか」
 この「ためしにやってみませんか」ということばは、この事件が異常なできごとではないことを示している。50円玉をはじきとばせば、ただちにこの事件がおこるのだ。
 ここに出てくる偶然性もまた”状況認識”の一部を構成する要素である。その意味でぼくは、『考えろ丹太』を”状況認識”の作品のなかにいれようとした。
 しかし、丹太の偶然性は、日常性のなかで進行している腐敗をあきらかにするものではない。交通事故の背後にあり、清張小説に書かれる社会の深層が出てこなければ”状況認識”とはいえないだろう。だから、ぼくは丹太を保留にしておきたい。
 偶然性が重要なのは、50円玉をはじきとばす、そのささやかなできごとが日常性をくずしていく端緒となるからなのだ。日常、つねに深淵が足もとにあるという認識(知識として知るというのではなく)これが人間を主体的に行動させる。
 ぼくは”主体を高める文学教育”といういい方にさんせいできないといった。その理由はいままでのべたことであきらかになっていると思う。つまり”状況認識”は読者をもっとも主体的にさせる働きを持とうとするからである。
 だが、主体の構造はいったいどうなっているのか。状況認識は受け身に近い。自分自身がいつのまにかぬすまれていることにガクゼンとしたということだけでは、”状況認識”は完成しない。ことに児童文学の場合にはそうである。
 そして、ぼくはいままでにあげた3作品がかならずしも成功しているとは思わない。主体の構造をふくめて、”状況認識”は進行中である。
 ただ山中亘は『とべたら本こ』の主人公をきわめて動物的な立場からとらえた。父も母も教師も信用しない、この小説の主人公の生き方の原則は自分の生存という1点にしぼられる。
 この生き方を否定するとこと、このなかから主体の構造の一部をひきだすこととはそれぞれ別の次元のしごとになる。また『キューポラのある街』のタカユキの生き方も『とべたら本こ』のカズオに類似するものだ。
 こうした作品が文学教育に用いられるかどうかは、もう論外のことである。もうじっさいに教室のなかにもちこまれている。白樺的ヒューマニズムが文学教育の中心であったというのは、中学校、高校のことであり、また日文教のことではないのか。さきにもいったように、児童文学の社会認識的小説群は多くの教師たちに利用されてきたのだ。
 だからこそ”状況認識”の思想の方法はもっと検討されなければならない。たとえば『アカハタ』(62年10月24日号)に「”疎外”ということばの流行」(野村喬)という論がある。ここでは安部公房たちが否定されているのだが、大河原は安部公房をしばしばひきあいに出すのである。また『ぬすまれた町』の発想も安部公房におうところが多い。だが”状況認識”の文学教育はけっして「小市民層のなかに動揺あるいはざ折感をあおりたて」るものではない。ぎゃくに、主体的な連帯をつくりあげる方向を持とうとしている。
 もちろん”状況認識”は実存主義につながり、さらに”現代っ子論”につながる面も持っている。
 だから、この思想の検討には安保以後のことをもう一度考えなければならない。その他”人間性一般を高める文学教育””社会認識的文学教育”との相互関係、また”状況認識の文学教育”はどのようにして可能なのか等、書きたいと予定していたことはいくつもあったが、これらについては稿をあらためよう。
(日本文学・1963・4月)
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