大人になること

ブックトーク・新刊Review(くもん出版)
2001.01

           
         
         
         
         
         
         
    
 昨年は十七歳が問題を起こした年だった。そのためか十八歳で奉仕活動をという提案もあった。ことの良し悪しはともかく、いずれもちょっと遅すぎやしない? 十七歳、十八歳ってもう少し大人ではないかしら? まがりなりにも中学で義務教育はおしまい。あとは学ばせてもらうか働くで、そこにはもちろん責任がかかってくる。その自分のご飯は自分で稼ぐという、動物でもあたりまえのことがどんどん薄れてしまっている。
 十三歳が子どもと大人の境界、そのカギは社会の共同意志としての「法」をとらえられるかどうかであるということをあらゆる角度から検討してきた村瀬学の新書『なぜ大人になれないのか』(洋泉社)は、さらに最近の事件や現象を通して大人になるというのはどういうことかを深めている。副題は<「狼になること」と「人間になること」>。狼ということばをマイナスイメージだけでとらえず、この年になれば誰でも「狼になること」と「人になること」を体験するようになる。例えば自分のいる共同体(仲間)の意志(考え)によって、別の共同体の人々を無意識に「人でないもの」とみなしたりする。だから逆に、「人である」ことはどういうことなのかと考える。また、子どもたちが大変な消費者でありながら、契約は二十歳過ぎないとできないことの意味など、具体例を通して思考し提案していく。
 大人になる通過点の思春期は自己の存在を問う過程でもあると痛感したのが『ブループリント』(シャルロッテ・ケルナー作、鈴木仁子訳、講談社)。何しろクローン人間として生まれた少女が主人公だというからショッキングな話だ。不治の病に冒された天才ピアニストが自分の才能を永遠のものにするためにクローン人間を産む。生まれた少女はもちろんピアノはうまいし、考え方もそっくりという順風満帆の成長のうちはいいけれど、ずっとそのままというわけにはいかない。「わたしは目の前にいるあなたなの? それともあなたはわたしなの?」というなんとも恐ろしい問いがまわり、アイデンティティを求める旅がはじまる。近未来小説というのにいつのまにかわが身を重ねてしまった。注目のヤングアダルト小説。
 思春期前期の小学校五年生のときにかけがえのない母親を亡くした少女を描いた絵本『街のいのち』(立松和平文、横松桃子絵、くもん出版社)は少女のひたむきな姿がしっとりと演出され、必死に生きようとするせつなさに打たれる。この絵本の命は、屏風のような錦織を連想する日本画調の絵。ともかく美しく、祈りを感じる。画集として楽しめる。
 大人っぽい本が続いたが、小学校中学年の子どもたちが楽しめる手ごろな本がこのところたくさん出ていて、元気が出る。『おふろのなかからモンスター』(ディック・キング・スミス作、金原瑞人訳、はたこうしろう絵、講談社)はそのむかしネス湖で恐竜が発見されたというニュースにかけたもの。大嵐の次の朝、海辺で拾ったおかしなものをお風呂に入れておいたらそれは恐竜の卵だった。もちろん孵って恐竜に。はじめは小さかった恐竜はたちまち大きくなり、お風呂はもちろん、家の池も小さくなって、さてどこに隠そう……、というドタバタ劇。親子三代一家のやりとりが痛快。絵もゆかい。
 『ラビーニアとおかしな魔法のお話』(ビアンカ・ピッツォルノ作、エマヌエーラ・ブッソラーティ絵、長野徹訳、小峰書店)の主人公ラビーニアはマッチ売りの少女というから笑える。もちろん、とびきり貧しい。でも不思議な妖精から魔法の指輪をもらったところで、くだんのマッチ売りの少女はおしまい。ラビーニアがもらった指輪はなんとどんなものでも「ウンチ」に変えるというからなんともはや。ラビーニアはこの指輪のおかげで衣食住を手に入れてしまう。いばったり、弱いとみると冷淡になる大人たちをぎゃふんと言わせてしまうから拍手喝采、胸がすく。「ウン談」大好きな子どもたちには大いにうける話。からりとしているのがいい。
 その他にも不治の病に冒された強く大きな犬、キングに死ぬ前に好きなことを全部させようと企てる『キングの最高の日』(ウルフ・スタルク作、遠藤美紀訳、偕成社)や、元シンデレラのカボチャを馬車にしたとき、召使になったネズミが召使のまま現われたトンチンカンな話『ぼく、ネズミだったの!』(フィリップ・プルマン作、西田紀子訳、偕成社)もおもしろい。(平湯克子)