批評の修業

リレー連載◎批評の現場から6
斎藤次郎
日本児童文学1993/09

           
         
         
         
         
         
         
     
  批評の現場は自分
 子どもの本の批評の大半は、子ども相手に書いたものではない。批評に足るほどのものなら、読者は子どもとは限らないのだから構わないのだ、と言ってしまえばそれまでである。しかし、批評の仕事のひとつが、作り手と受け手のつながりを強めていくことであるとすれば、やはり、ちょっと考えてみた方がいいのではないだろうか。
 別に、読書指導の一助にお節介をやこうというのではない。『トム・ソーヤー』でも、『ズッコケ三人組』の一冊でも、小学生向きに批評しろといわれれば、だれでもちょっとはたじろぐ。文庫本の解説ふうの逃げ方はあることはあるけれど、本気になって作品への思いいれを子どもたちに語ろうとすれば、四苦八苦するのは間違いない。これは修業になる、と思うのだ。子どもと子どもの本に対する自らの考え方の基本を、見つめなおすことにもなるだろう。
 もちろん、これは自戒であって人さまに提案するようなことではない。でも「批評の現場」というのは、ぼくにとってはぼくの心だから、このことを書くしかないのである。

  漫画の解説体験
 もう十五、六年もまえのこと、新書版や文庫版の漫画に「解説」をつけるのが流行って、ぼくも二、三〇冊分書かせてもらったが、それは「漫画評論家」には、とてもありがたい仕事だった。原稿料がよかったこともあるが、漫画を読んでいる人に向かって書けるのが、何より嬉しかった。あらすじなんか書かずにすむのでその分作品の深いところまで書きこむことができる。四〇〇字詰で五、六枚のスペースしかないのに、けっこう気ばって書いた記憶がある。
 特に、萩尾望都さんとか大島弓子さんの作品になると、力が入りすぎてカラ回りした。大島弓子ファンの少女に、大島弓子がどんなにすばらしいかを語るのだから、なにを書いても許されるようなものだが、こっちの気持ちでは滅多なことは書けないぞ、というプレッシャーになるのだ。
 だから、女子高校生から「解説者」としてファン・レターをもらったときは、本当に嬉しかった。「私がぼんやり思っていたことが、はっきり文字で書いてあったので、びっくりした」とか、「私と同じように大島先生の作品を読んでくれた人がいるとわかって嬉しかった」とか、赤柄の便箋でお手紙が来るので、やったあという気分をちょっと味わった。
 でもまあ、そういう読者はかなりかわった人で、ほとんどの少女は「えっ、解説なんてあったっけ」か、「うるさいのよね、ああいうの」かなのである。漫画の解説やレコードのライナー・ノート(いまはCDだけど)は、ストリップ小屋に出るお笑いタレントみたいな辛い立場にある。
 少女漫画の解説はまだ中・高校生が相手だからなんとかなるけれど、児童文学ではむずかしさはひとしおである。でも、ぼくは子ども相手に自分の読みの確かさをはかってみたい、という気もしないわけではない。むろん反対にこちらの浅はかさを思い知らされることも十分あると覚悟した上でのことだ。

  子ども批評は必要か
 もっとも、子どもに批評が必要なのかどうかは、よくわからない。プラモを作るときさえ設計図を見たがらず、そのせいで手順を間違って文句言っているところを見ると、わきからごちゃごちゃ言われるのは、好きなはずはない。ましてや、解説というかたちで作品を教材にして正しい読み方などおしつけられたら、たまらないだろう。
 批評どころか、案内さえいらないのではないか、と思うことがある。このごろは、図書館の出す情報にしても、ブック・トークなどとよばれるパフォーマンスにしても、かなり手がこんできたし、丁寧になった。それはそれでよいことなのだろうが、子どもにとっては無数にある情報チャンネルのひとつにすぎない。
 だから、子どもに批評的コミュニケーションをしむけるとすれば、解説や紹介や案内もふくめて、相手の迷惑も考えて、慎重にしなければなるまい。けれど、その慎重をふみはずしてしまうような作品に、ぶちあたることがある。矢玉四郎さんの『はれときどきぶた』を読んだときがそうだった。長崎夏海さんの『A DAY』を読んだときも、ネストリンガーの『かべにプリンをうちつけろ』のときも、胸が騒いでならなかった。
 それらの作品に触発されて、いま自分の中でことばになりつつある思いを、うんと年下の人たちに語りたい。子どもたちの口真似をすれば、「ねぇ、聞いて聞いて!」である。いくつか文章を書いてみたり、話してみたりしたが、あまりうまくいかなかった。
「あ、『はれぶた』ね、読んだよ」とある子は言った。「おじさんも読んだの、もの好きだねえ」とも言った。ぼくのもの好きを歓迎してくれているのは笑顔でわかったが、それだけの話だった。もうそれ以上話すことなんかなにもない、という感じに、ぼくも黙るしかなかった。
 触発されるものというのにもいろいろあるが、ぼくは書き手の一生懸命さに弱い。表現上の工夫もさることながら、その工夫になみなみならぬ苦心を払わずにはいられない「いまこれが書きたいんだ」という真剣さに打たれてしまう。メッセージ性が稀薄な作品ほど完成度が高いと思うのは一種の錯覚で、作家のメッセージの質は、そうかんたんに薄めたり濃くしたりはできないものだ。稀薄としか読めないのは、その程度の作品なのだ。自分が受けたと感じるそのメッセージを、丸ごととはいわないまでも、多くの読者と共有したい。そういう批評衝動がぼくにはある。

  なんとかしなくっちゃ
 いま、児童文学という枠組が崩れてきて、おとなの本と子どもの本との境界線があいまいになってきた。だから、子どもだって「子どもの本」以外にも当然目を向けるようになる。多様な年齢層がいりくんだ読者構成になれば、批評の方にだって、読者層を無原則にひろげていく道がひらかれるかも知れない。江國香織の『温かい食卓』もおもしろかったが、これなどは中学生、小学校高学年の女の子にも読んでもらえるような、ほのかな希望もある。
「漫画とはちょっと違うんだよね」という気分を共有するところから始まって、描かれている登場人物のドラマの背後にいる作家のある面を、若い読者に開示してみせるところへ進めそうな気がする。そして、それはそのままのかたちでおとなの読者にも読まれて困ることはない。
 児童文学の枠がはずれることを喜ぶのはいいけれど、それは興味の多様化、分散化といった一般的動向のなせるわざで、批評の側から意図的にしかけて流動化というわけではない。ぼくは、出版状況の動きのシリウマに乗るかたちでもいいから、批評というチャンネルをとおして、いっそうの流動化をはかるのもおもしろいのではないか、と思っている。
 『ウルトラマン研究序説』以来の解読人類学(?)の試みや大塚英志の仕事には、ぼくとは趣味が異なるが、新しく若い読者を獲得するデイスクールがほの見えるような気もする。そしてファミコンの攻略本というお手本(あるいはライバル)もある。なんかはじまってもおかしくはない。
 先日、旅先で会った中学生に、「あ、読んだよ。おじさんの手塚治虫がどうとかっていう本」と言われた。なんとかしなくっちゃ。
テキストファイル化 中川里美