『童話への招待』(日本放送出版協会 1970)

昔話の驚異と恐怖


 グリムその他に見られる昔話の素朴さは、単に原始的なもの、野卑なもの、未整理なものというだけではなく、もっと奥深く幅広いものであるように考えられる。
 『ヘンゼルとグレーテル』は、きこり夫婦である父母に、森の中にすてられるとき、兄のヘンゼルは、妹のグレーテルに、
 「安心しておいで、いいから心配しずにおねよ。神さまは、ぼくたちをお捨てになりゃしないさ。」(前出、金田鬼一訳、(一)巻一五六ページ)と、かたく神を信じて、結果は信じていたとおりになる。シンデレラ(灰かぶり)も、たのむのはなき母の霊であり、その背後にある神である。昔話の背後には、正邪善悪の最終的な審判者である神への素朴で絶対的な信仰がある。この素朴な信仰を生活の基礎にして、昔話のつくり手たちは、周囲のものに対した。
 グリム童話には、森がじつによく出てくる。中部ヨーロッパの大森林は、くらしに欠くことのできないものを与えてくれるとともにおそれと神秘の源泉でもあったろう。
 真冬、紙のきものを着せられて、いちごをとりに森へ行かされた女の子は、三人の小人に出会い、彼らのたすけでいちごばかりか、美と幸運をわけてもらう。(『森の中の三人一寸ぼうし』グリム)
 森の中で強盗に会い、主人をころされてひとりになった下女は、小さな白バトに黄金のかぎをわたされ、木々の錠をあけて、たべものやベッドをみつける。(『森の中のおばあさん』グリム)

 王侯、貴族でもない昔話のつくり手たち=民衆は、無学な故に、想像力をはたらかせて、恐怖やあこがれや好奇心を、すばらしいふしぎの世界に結晶させた。グリム童話は、脅威と神秘にみちた世界であり、それがこの昔話集大成の大きな魅力の一つである。
 無学無知といやしめられた民衆は、だから直接の生活の中から、ものごとを判断する尺度をきずきあげ、それを昔話に表現した。
 『白雪姫』のまま母は、白雪姫が自分より美しいのをねたんで、猟師にころさせようとする。猟師の計略で、白雪姫がたすかり、はるか遠くの山の中の七人の小人の家にいることを知ると、そこまで出かけて、白雪姫の服のひもをきつく結んでやって窒息させる。それが失敗すると、つぎは毒のくし、つぎは毒リンゴと、手をかえ品をかえて、なんとか自分より美しいものの息の根をとめようとする。あげくの果てに、まっかにやかれた鉄の靴をはかされ、おどりくるって死んでしまう。
 『森の中の三人一寸ぼうし』のまま母は、ままむすめが王妃になって王子を生むと、それがねたましくてたまらず、みにくい実の子と共謀して川へ落としてしまう。そして、それがばれると、くぎをたくさんうちこんだ樽につめられ、山から川へと落とされるのである。
 グリムをはじめ、各国の昔話には、残酷なしうちや残酷な刑罰がよく見られる。しかし、やけた鉄の靴をはかされるまま母は、四度も白雪姫を殺そうとしている。くぎをうった樽につめられたまま母は、冬のさ中に、ままむすめに紙のきものを着せて、雪の戸外に追いやったり、氷のはった川で麻糸を洗わせたりしている。残酷な刑罰はいわば当然なのである。
 だが、これは単に、目には目をといった正義の主張と考えることはできない。自分から足を切り、ハトに目をえぐりとられる灰かぶりの二人の義姉は、さんざん灰かぶりをいたぶったあげく、灰かぶりの幸運をくやしがり、最後には、ずうずうしくも幸運のおすそ分けにあずかろうとさえしている。この嫉妬、強欲、腹黒は業に似たすさまじさを感じさせる。
 昔話の残酷さは、このような人間洞察の結果あらわれてくる。そして、それをこれほどあからさまにえがけるところに、昔話の断然たるつよみがある。多数の人間の長期にわたる創造だからできるのであって、特定個人の精神は、ほとんどこのような真実の表現にたえられない。無署名の昔話が読者に送ってくれる最高のものの一つが、このきびしい人間洞察である。
 昔話の素朴さは、だから、名もない民衆が全生活の中からみがきあげたすべてを含んでいるものであって、これをすて去ることは、昔話の魅力の大半をすてることになる。その意味で昔話のあつかいはひじょうにむずかしい。残酷な部分を、子どもへの配慮から切りとることは、昔話の正しい姿をゆがめることである。と同時に、脅威の世界だけを強調することも、その土台になるものを落とすことになる。そしてまた、たしかに昔話にこめられている民衆のねがいだけを強調することもセンチメンタルなことである。昔話の素朴さが含むすべてを、あるがままにたくみに表現しているものが、もっとものぞましい。

昔話の形式

 ペローやグリムの昔話は、いつもたいていが、「むかし、ある国に、王さまと王妃さまがいらっしゃいました」とか、「むかし、あるところに」とか、「むかし、むかし、三人の兄弟がありました」とかいう言葉ではじまっている。そうでない場合でも、「粉ひきの男が、息子を三人、水車を一つ、ロバを一つ、それから牡猫を一匹もっていました」といったあいまいな表現ではじまっている。つまり昔話は、時代と空間をこえたものなのである。そして、この、いつともどこともわからない世界には、人間だけでなく、超自然な力をもつものが住み、われわれの常識では考えられないことがおこる。動物は口をきき、小人や巨人があらわれ、ひとまたぎではるか遠くにいけるくつが重要な役目を果たす。超自然な力をもたない人間も、ときには、信じられないほどの勇気の持ち主であったり、とほうもない馬鹿であったりする。
 こうした魔法の世界の中で、昔話の主人公たちは生きている。そして、彼らには、きわだった一つの特徴がある。それは、いっさい写実的な描写がなされていないということである。
 むかし、王さまがいて、たくさんのお姫さまをもっている。
 「お姫さまがたは、どれもこれも、うつくしかったのですが、そのなかでも、いちばんすえのかたは、きわだってうつくしく、お日さまなどは、そういうのをたくさん見なれていらっしゃるのに、このお姫さまばかりは、顔をお照らしになるたんびに、どうしてこんなにうつくしいのかと、ふしぎにおぼしめすほどでした。」(『グリム童話集』第一冊、岩波文庫、一七ページ)
 末姫の美しさは、ただこれだけでおわってしまい、えくぼがあるとか、金髪であるとか、そうした細かい描写はいっさいない。そして、このお姫さまは、カエルとの約束を忘れ、王さまにいわれてしぶしぶ約束を守り、結果は人なつっこい美しい目をした王子としあわせな結婚をする(『蛙の王さま』)のだが、彼女の性格も、きたないカエルと一緒に食事をしたり、ベッドにカエルをのせてやるのをいやがったりすることで、ごくふつうな少女だと想像できるだけである。つまり、これは、お姫様という身分で、美しいとされているひとりの人間がいるにすぎない。概観と内面の総合体としてえがかれ、その行動と感情と理智によって、物語の発展にかかわる近代小説の主人公とはまったくちがう。相沢博氏は『メルヘンの世界』(講談社、現代新書)の中で、
 「メルヘンの人物は、すべて個性的ではなく類型であるから、筋も性格劇のように個々の性格から発展するのではなく、逆にそれぞれの類型は筋を発展させるために存在するのだ。メルヘンで何よりも重要なのは筋であって、筋を制約する性格の展開などはない。」(一二二ページ)
と指摘している。
 この一種符号のような、そして、読者の想像力によって無限にひろがりうる主人公たちは、親に死にわかれて世の中に出たり、幸運をさがして旅をしたり、長いつとめをおえて、無一文で世の中にほうり出されたりしたところから、冒険をはじめる。多くの場合、彼らには、援助者がいる。それは、仙女だったり、小人だったり、または、以前主人公にたすけられた動物だったりする。彼らのたすけや自らの才覚によって、主人公たちは、かならず身にふりかかる災難を切りぬけて、幸福をつかむのである。
 相沢博氏の本からの引用にすでに出た言葉だが、グリムをはじめとする昔話を、ドイツではメルヘン(marchen)という。これは、かんたんには定義できないらしいが、例えば、『白雪姫』や『ヘンゼルとグレーテル』のような代表的なメルヘンは「詩人の空想で作り出された物語、殊に魔ものの世界の物語であって、現実世界の諸条件に拘束させられない驚異的な事件を語り、人は老若貴賤の別なく、それが信用のできない話とは知りつつも、おもしろがって聴くもの」(岩波文庫『グリム童話集』序より、金田鬼一氏)と定義されている。
 メルヘンには、他国にない独自なものがある。厳密には、イギリスのフェアリー・テイルズ(fairy tales)やフランスのコント・ド・フェ(conte de fees)などとまとめてしまうことはできないだろう。だが、昔話として考えるなら、ペローやグリム、その後につづいたアファナーシェフ(一八二六〜一八七一)の『ロシア民話集』(一八五五〜一八六三)、アスビョルンゼン(一八一二〜一八八五)とヨルゲン・モウ(一八一三〜一八八二)共編の『ノルウェー民話集』(一八四五)などは、共通したものを、子どもの文学に与えている。それは、くりかえしになるけれども主人公が、ふしぎな出来事がおこり、ふしぎな力をもつ生きものの住む世界で、自在に活躍して幸運をつかむという、整然とした物語の中で、人間の知・情・意のすぐれた所産が語られる話の型である。そして、その遺産をもっとも効果的に受けついだのがアンデルセンであった。
テキストファイル化鍋田真理