『童話への招待』(日本放送出版協会 1970)

いっさいがうらがえしの世界

 『ふしぎの国のアリス』は、一八六五年、オックスフォード大学の数学・論理学の教授チャールズ・ラットウィッジ・ドジソン(一八三二〜一八九三)によってかかれ、出版された。
 ナンセンス nonsense というジャンルの代表的な作品であるこの物語は、ウサギ穴におちた少女アリスが、地下の奇妙な国で出あう奇妙な出来事や人物たちとのやりとりをかいたものとでもいう以外、あらすじはほとんど意味がない。
 わたしたちは、常識と反対なことに腹をたてるか笑うかする。あまり常識とかけはなれていると、おかしさが腹立たしさに先行するだろう。常識と正反対だったら、どうなるか。「アリス」はその正反対を頂点とするいわばおかしさの世界である。「アリス」のおかしさには、いくつかのタイプがある。きわだったものをすこしあげてみよう。
(1) 思いつきによるもの
 アリスが花園にはいっていくと、大きなバラの木があって、トランプカードの二や五や七が、白バラにせっせと色をぬっている。アリスがなぜかとたずねると、赤いバラでなくてはいけなかったのに、まちがえたからというこたえがかえってくる。それよりすこし前、アリスが森の中でニヤニヤ猫 Cheshire Cat に出会った場面も、この種のおかしさにはいるだろう。ニヤニヤ猫が、あらわれたり消えたり、あまり目まぐるしいので、アリスが「そんなに急に消えたりあらわれたりしないでちょうだい。目まいがしてしまうわ」というと、猫は「わかった」といって、しっぽの先から、ひどくゆっくりと消えていく。そして、姿がすっかり消えた後に、ニヤニヤ笑いだけがのこっている。
(2) 言葉をつかったもの
 これはひじょうに多くて、イギリスのナンセンスは英語の上に成り立つとまでいう人もいる。物語のはじめの部分で、アリスはネズミやドドなどに出会うのだが、そのとき、ネズミがみんなに身上話をしてきかせる。ネズミは「わたしの身上話(英語で tale(テイル))は長くて悲しい物語です!」すると、アリスは「たしかに長いしっぽ(tail(テイル))ねえ。でも、なぜ悲しいっていうの?」とたずねてしまう。
 アリスは、あちこちうろついて、公爵夫人の家にはいりこみ、公爵夫人と変な会話をはじめる。
  公爵「みんなが自分のことに気をつけていたら、世の中は今よりもっとはやく回転するだろうに。」
  アリス「そうなったら、あまりいいことありませんわ。考えてごらんなさいよ。昼と夜がどうなってしまうでしょう。地球は軸(axis(アクシス))を中心に二十四時間で一回転するでしょ。」
  公爵「斧(axes(アクシーズ))ね、よし、あいつの首をちょんぎってしまえ!」(筆者訳)
 アリスの中には、いたるところにかえ歌が出てくる。有名なジェイン・テイラーの「きらきら星」も、Twinkle, twinkle, little star が、Twinkle, twinkle, little bat と、星がコウモリにかわっただけで、「きらきら星よ」の美しい世界が「きらきら、コウモリよ」といった奇妙な歌にかわってしまう。アリスが翻訳のむずかしい本だといわれるのは、おかしさの多くが、言葉に依存しているためである。しかし、そうであったとしても、翻訳されたものを、子どもたちはよろこぶだろう。アリスのおかしさは、言葉にだけ依存していないからである。
(3) 立場のちがいによるもの
 この笑いの好例は、アリスがイモムシに会う場面であろう。アリスは、イモムシに会う前に、体が大きくなったり小さくなったりしてしまう。だから、イモムシに「おまえはだれだ?」ときかれると、返答に窮してしまう。
  「あの、あの、今ちょっとわからないんです。けさおきたときは、わたしがだれだか、わかっていたんです。でも、そのときから今までに、何回か変わってしまったにちがいないんです。」
  「それは、どういう意味だ?」
 と、イモムシはきびしい声でいいました。
  「おまえのことだ、説明してみろ。」
  「わたしのことが説明できないんです。」
 と、アリスはいいました。
  「わたし、自分が自分じゃないんですもの、わかるでしょ。」
  「わからない。」
 と、イモムシはいいました。
  「これ以上はっきりとはいえないとおもいますわ。」
 と、アリスはとてもていねいに答えました。
  「まず、わたし自身にも、わかっていないんですもの。そして、一日のうちに、大きさが何度も変わってしまったら、あたまがもうごちゃごちゃになってしまいますわ。」
  「ならない。」
 と、イモムシがいいました。
  「でも、あなたには、まだわからないのではないかしら。」
 と、アリスはいいました。
  「でも、サナギに変わるときがきたら――ほら、あなた、いつかは変わるんでしょ――そして、チョウに変わりますわね。そしたら、あなたもちょっとは変な気持ちになると思いますわ。」
  「ぜんぜん。」と、イモムシはいいました。(筆者訳)

 また、アリスの首がニュッと長くなり、木の上のハトにへびだと思われたとき、「おまえは、たまごをたべるだろう。」といわれ、「たべます。」と答える場面なども、この種のおかしさに属すると思われる。
(4) 順序や位置などが逆になったおかしさ
 これは、『ふしぎの国のアリス』の続編である『かがみの国のアリス』全体がそうなのだが、アリスとチェスの女王が裁判について話すところが、もっともよい。女王はいう。
  「すぎたことにしかはなたらかない記憶など貧弱なものだもの。」
  「あなたは、なにをいちばんよく、おぼえていらっしゃいますか?」
 と、アリスは思いきってきいてみました。
  「ああ、再来週おこることじゃよ。」
 と、女王は気がるに答えました。
  「よいか、たとえばじゃ……王の使い番がおる。これは今罰を受けてろうやにはいっておるのじゃ。裁判は来週の水曜日にひらかれる。そして、もちろん、罪をおかすのは、いちばんあとじゃ。」(筆者訳)
 くわしくしらべれば、まだあるだろう。しかし、小さなおかしさをふくめて、アリスの世界は、対比の世界なのである。アリスの物語には、今も生き生きとはたらく風刺や批評があるという。これは当然である。一つの立場をとる人から見れば、対立する立場をとる人間はあやまりをおかしていることになる。アリスにとって、変身はとほうもないことであるが、イモムシにはそれが常識なのである。
 わたしたちが当然と考える順序が逆になったら、それはまちがいである。しかし、わたしたちの当然がもしまちがいであったら、逆が正しい。人をまず捕らえてから罪をつくりあげることが正しい世の中では、その逆はまちがいとなる。
 イギリスの作家チェスタートンは、ナンセンスの文学を、世の中が混沌であることを知らせる文学と評している。混沌をあらゆるものが雑然と無秩序にある世界としてではなく、あらゆるものを生みだす根元の世界と考えれば、アリスの世界は、まさにそれである。アリスの世界は、二者択一、二律背反、自己反省、多様性、誤びゅう訂正の世界なのである。
 アリスの奇妙な対比の世界は、もはや、フェアリー・テイルズの世界とはいえない。そして、アリスという主人公も、白雪姫やシンデレラではない。彼女は、いささか重くるしそうなヴィクトリア時代の洋服をきてあらわれる。そして、穴へおちて、大きくなったりちぢんだりすると
 「まったく、きょうって、なにもかも変だわ!きのうは、いつもとすこしも変りがなかったのに。わたし、夜の間に変ってしまったのかしら?待ってよ。けさ、おきたとき、わたし、いつもと変っていなかったかしら?なんだかちょっとちがった感じがしたように思うわ。でも、わたしがいつもとおなじでないとしたら、今度は、『いったい、わたしはだれかしら』ってことよ。ああ、こまったわ、こまったわ!」(筆者訳)
と一生けんめいに考えるし、イモムシに、「おまえはだれだ?」とつっけんどんにきかれると、「はじめに、あなたが、だれだかおっしゃるべきですわ」と、むっとしていいかえす。公爵夫人との話の中で、「からしは鉱物です」とまちがったりもする。ふつうのしつけと教育をされているヴィクトリア時代の中産階級の少女らしさがいっぱいである。彼女は、自分で考え、好奇心をもやして行動する。彼女の行動と出来事のかかわりあいから、物語は進んでいる。その点、アリスは単に物語を進めるための、記号とおなじ名をもった昔話の主人公たちとは、まったくちがっている。アリスで、はじめて生きた子どもが生まれたという意見があるのも当然である。
しかし、厳密にいって、アリスは、リアリズムの文学の中にあらわれる子どもたちとおなじではない。アリスは、物語中、いくつかの場面で感情におぼれかかる。ところが、この子は、泣いてもすぐに「さあ、さあ、ないたって、なんにもならないわよ。すぐにやめなさい!」と、自分で自分をしかりつける。気の狂ったお茶の会で、お茶など出してもらえないのに「どうぞ、もっとおのみください」といわれてむっとするが、それ以上争わないで、勝手にお茶をのんだりする。要するにアリスは、たえず考えているのである。これは、アリスが、物語中では十九世紀後半のイギリスの常識を代表しているからである。アリスは、一種の象徴なのであって、オリバー・ツイストやデイビド・カッパーフィールドとはちがっている。彼女はたしかに生き生きとえがかれてはいるが、後にのべる、二十世紀の空想的な物語の主人公たちとはちがい、どちらかといえば、本質的には、昔話の主人公に近い存在と考えてよい。
 とにかく『ふしぎの国のアリス』は、グリムやアンデルセンとは、異質な子どもの文学であることは、たしかである。イギリスの児童図書研究家パーシイ・ミュアは、
 「ルイス・キャロルの物語は、あらゆるフェアリー・テイルズの中で、最高のものと考えられる。そして、(イギリスの―筆者)子どもの間の人気はゆるぎないものである。しかし、彼の作品は、それだけで一つの分野である。厳密にいえば、根本的には一般的なフェアリー・テイルの分野とはちがったものである。フェアリー・テイルの本質は(フランスの―筆者)コント(conte)の型である。ほんとうは、フェアリー・テイルというものは、短くなくてはならない。サッカレー、ラスキン、マクドナルドなどは、フェアリー・テイルの質を高めることには失敗したけれども、本質にもとづいて作品をかいた。キャロルとケネス・グレアムとバリーは、長さのために除外され、キップリングが境界線にある。」(English Children's Books. 1954. 一〇七ページ)
といっている。
 フェアリー・テイルズとよべない「アリス」のような空想の物語は、一般にファンタシーとよばれている。そして「アリス」がファンタシーの事実上の開祖といわれているが、これはナンセンスという特殊な作品であって、ファンタシーを説明する例としてふさわしくない。
 だから、ここでは、とにかく、「アリス」によって、メルヘンあるいはフェアリー・テイルズとはちがった空想の物語が生まれたことだけを確認しておくことにしよう。子どものための空想的な物語は、英語ではフェアリー・テイルズとよばれるものを、大人の世界から受けとり、つづいて、アンデルセンに代表されるリテラリイ・フェアリー・テイルズを生み、つづいて、十九世紀後半になって、またべつな種類の作品を生みだしたのである。わたしは、童話という言葉がいちばんぴったりあてはまるのは、リテラリイ・フェアリー・テイルズまでではないだろうかと考えている。
テキストファイル化田代翠