『現代日本の児童文学』(神宮輝夫 評論社 1974)

今日的問題は必要なのか

 年長の子どもたちに向けてかかれた作品の多くには、現世界の緊急の課題が生硬な形で盛り込まれている。そして、それは、今、幼年期の文学の中でも、声を大にして語られている。かつて、幼年向きの文学といえば夢と詩を連想させたものであったが、今は世界的に、そのパターンがくずれつつあるらしい。作品を挙げることは、単にわずらわしさを増すだけなので、トーベ・ヤンソンの講演とブリタニカからの引用で、実情をかいま見てみよう。ヤンソンは日本講演の一つ「本を読む子ども」の中で、つぎのように語った。
 「最近では子どもに情報を提供し、打明け、警告しようとするあまり、物語ることを忘れてしまった作家が多すぎるように思います。これらの作家たちは、子どもをあまりに早くに大人の世界に引っぱりこみます。世の中の汚さ、戦争や人種差別、階級差別、性差別におこる口論等について語り、地球、大気、海や川の汚染についても書くのです。
 われわれが泥沼を歩いているのは本当かもしれませんし、真実は冷酷であることもわたしはよく知っております。社会の哀歓についても充分、わたしは顧慮しています。
 しかしながら、人生の初めには、不安や責任におかされなくてもいい時期があってもよいのではないでしょうか。人間はだれしもほんの短期間ではありますが、にじの橋を渡れることを信じる権利があるのです。にじは確かにあるのです。それは嘘でも詐欺でもありません。にじの橋を渡ったことのない人がいるとしたら、わたしはどんなことでもいたしましょう。ヨーロッパには、残忍でばからしい内容の子どもの本があふれているのです。」(ピヤネール・多美子氏訳による)
 
 また、ブリタニカに児童文学の項を執筆したクリストフ・ファデマンは、児童文学の特徴の一つとして、
「子どもの文学は、その年長のきょうだいよりもおそくあらわれて、ゆっくりとそだっている。通り道が十分にあきらかになってはじめて、子どもの文学は、文章面でも、挿絵の面でもあたらしい手法を使う。内容については、子どもの文学は、第二次大戦後ようやく、人権、階級、戦争、性といった、すくなくとも一八五〇年代以来一般文学の一部となっているものに目を向け、リアリスティックなテーマや姿勢をきりひらいた。このおくれは、子ども本来の保守性によるものかもしれないし、ふつう、子どもというものは、実験的なものを、両手をあげてむかえないものである。」
とのべている。

 以上二つの引用ではっきりわかることは、現在西欧権では、公害告発、青少年非行、戦争批判、人権問題などが、児童文学の素材として、また主題として大きく浮かびあがってきている点である。本筋からはずれるが、こうした主題を扱う問題は、日本ではすでに、戦後児童文学初期以来主流となっている。だが、それ故に、日本が、現在の西欧的現象の先進国であったと誤解してはならないだろう。西欧のそれは教会、国家権力、社会的因習から想像力の自由を戦いとり、その過程で子どもを発見し、子ども像を現在に至るまで負いつづけた末にたどりついたものである。日本のそれは、かなりちがう。階級差別、戦争、政治悪等々の弾劾の書が、子どもの理解・関心を二の次にして、代弁者と称する大人たちのおしつけの善意によって子どもたちに与えられつづけてきた。戦後しばらく子ども不在が問題になったが、子ども発見を基盤とする 創作態度が完全に根付かないうちに、今日の世界的な課題に直面することになったのである。
 いずれにしても、十九三〇年頃まで、西欧の大人は自らの問題を子どもの世界に持ちこまずに、あるいは大人の世界の影響を直接受けざるをえない子どもたちを切りすてることによって、子どもの文学に子ども独自の世界を維持することができたのだが、戦後は、それがますますむずかしくなっている。それはほとんど大人の責任だが、戦争、公害等の犯罪は、大人の弱い防壁をふみつぶし、直接子どもたちに影響を及ぼしている。多くの大人は、人類の将来に絶望の影を見、希望の幻想にしがみつくことさえできないでいる。誠実な個人にとって希望を維持し、絶望におちいらないための努力は、おそらく死ぬような苦しみであろう。現在、大人は、希望を語ろうとするとき、子どもをも巻き込んで、救いのある未来を模索しなくてはならない。今、世界的に多くなりつつある児童文学のリアリズムの底辺には、そうした大人の一種追いつめられた立場があると思う。そして、真に未来への確信をもつための努力をつくした作家たちは、『若草物語』や『ハック』の時代より、ケストナーやランサムの時代より、さらに進んだ子どもを発見し、えがいてきている。多くのすぐれた作家が、一般文学との教会に位置する作品に努力を集中しているのも、子どもにもっとも正直に自己の問題を語れるからであろう。それだけに、低・中学年の作品が、なにか白々しく見えるのは、しかたのないことかもしれない。だから、現在の日本の作家たちが、無私と寛容の偉大さを牧歌の世界に表現した『もちやくけむりとおじぞうさま』(佐々木たづ、実業之日本車、千九六九)や、信じることの強さと美しさを仏教説話風にえがいた『きつねとかねの音』(今西裕行、実業之日本社、一九七〇)などに満足できない場合、公害告発に走りたくなるのもうなずけないことではない。だが、年齢の低い読者の物語に、現実の問題の伝達と解説は必要ないといってもさしつかえない。例をあげよう。
 『宇平くんの大発明』(北川幸比古、岩崎書店、一九六八)という作品がある。宇平君という天才少年が、なんでも長持ちさせるフメツという機械を発明する。ところが、大企業は買いにこない。物が長持ちしてはもうからないからである。そこですばらしい夢が見られる薬、ホームを発明すると、政府が買いあげ、国民は何も考えずよい夢ばかり見るようになる。宇平君は不安になり、昼は正常にものを考えて、はたらけるように、薬を改良すると逮捕されてしまう。
 大企業の利潤追求のからくりや、自民党政府の支配のからくりの実態などを知らなくてはならないのは大人の方であり、幼い子どもたちが知っても、彼らには、現在、変革の力がない。知って悪いことはないが、彼らが現実を動かせる立場にたったとき、幼時に伝達された現象は、多くが変化してしまっているだろう。一方ただの物語として読もうとすると、宇平君の発明には特に奇想がないし、情感にうったえて感動をよぶ性質のものではなく、フラットな説明に収支していて、つまらない。
 
 結局、空想的な幼年の文学に、戦争、公害、差別問題などを持込むことは、自己満足に堕しがちなことであり、作者の一人合点だといえる。幼年、小学低・中学年のための、イマジナティヴな分野に、超自然力を利用しての安易な公害防止や、政治・社会悪の摘発などがあらわれる作品を、進歩的で必要な文学と見なすことは、ひじょうに危険である。作者の善意とある程度の役割は認めなくてはならないが、子どものためにほんとうに進歩的で必要な作品はこのたぐいのものではない。
テキストファイル化原田 由佳