『世界児童文学案内』( 神宮輝夫 理論社 1963)

■十九世紀■
十九世紀前半で、教訓とはげしくたたかった子どもの本は、後半にいたってついに勝利をおさめ、空想や冒険の物語に、続々とすぐれた作品が出て地位を確立した。真の子どもの本が生まれたのである。

たのしさのあけぼの
ブレイク
テイラー
ラム

 道徳物語が一世を風靡していた時にも、時流をよそに、子どもによろこびをあたえようとする人たちもいた。
 詩人ウィリアム・ブレイク(1757〜1827)は、「無垢の歌」(1789)によって、万物の根元を慈悲、あわれみ、愛、平和の精神と考え、太陽にも丘にもひつじにもむじゃきな子どもにもよろこびを感じてそれを表現した。この詩は子どものためにかかれたものではなかったし、一八世紀末頃のイギリス人たちは、詩を韻律と考えて、子どもにはわからないものとしていたので、ブレイクの仕事はほとんどかえりみられなかったが、子どもの魅力と心のよろこびをゆたかに表現したこの詩集は、後の子どもの詩に大きな影響を与えた。
 ブレイクほどきわだった天才ではないが、子どもを詩に近づける上に大きな功績をはたしたのが、アン・テイラー(1782〜1866)とジェイン・テイラー(1783〜1824)のきょうだいだった。ふたりの詩集は「子どものための詩」(1804)「子ども部屋の歌」(1806)「子どものための賛美歌」(1810)などで、物語詩は教訓物語の単なる韻文化にすぎなかったが、子どもの日常生活をうたったものは、イギリス中産階級の生活があたたかくえがかれていた。きょうだいは、もちろん、教訓のためにかいたのだが、教訓そのものがどぎつくなく、人間味の失せないたのしい作品となった。「きらきら星よ」は、今もなお世界中でうたわれている。
 メアリ・ラム(1764〜1847)とチャールズ・ラム(1775〜1834)のようだいも、やはり教訓物語の時代に活躍したが、この二人が時流に対してにがにがしい気持ちをもっていたことは、チャールズ・ラムがコールリッジにあてた手紙で名高い。彼はその手紙の中で、
  <くつ二つに物語>はほとんど絶版になっています。バーボールド夫人の作品は子ども部屋の古典を全部消してしまいました。大人ばかりでなく、子どもの小さな歩みの中でも科学が詩にとってかわりました。もしあなたが子ども時代に、民話やむかしがたりのたとえ話でそだてられず、地理や博物学をつめこまれていたらどんな人間になっていたと思いますか?>
とのべている。しかし、やはり流行には妥協的になったのだろうか?このきょうだいも、教訓物語「レスター先生」(1809)を書いた。サラ・フィールディングの「女教師」と同じく、女学校の生徒がひとりひとり体験を語る形式の物語だが、恐怖を通じて敬神の念をおしつけだり、日常的なよろこびを禁じて道徳や知識をおしつけたりせず、子どもの心から自然にあらわれる反省を教訓としたところに、大方の教訓主義とちがうところをもっていた。彼らはまた古典の子ども向き再話にも手を染め、「シェイクスピア物語」(1806)と「オデッセーの冒険」(1808)を合作した。前者は複雑な原作のあらすじを追わず、原作の精神をつかもうとしてエリザベス朝時代の精神を子どもにつたえることに成功し、後者はホメロスのなめらかさと簡潔さをつたえて、教訓主義・知識第一主義の時代に詩の精神を守った。
 同じ頃、ウィリアム・ロスコー(1753〜1831)という植物学者が「ちょうちょうの舞踏会」という物語詩をむすこの誕生日にかいてやったところが、その詩が1806年に、ある雑誌にのり、翌年ジョン・ハリスという本屋から出版された。子どもがちょうちょうの舞踏会へいってみると、カブト虫、カタツムリ、クモ、バッタなどがきていて、それぞれ特徴あるふるまいをする。そのさまをかいた特別高い内容のものではないが、軽快なリズムをもち、教訓がかけらもない点が新鮮だったらしく、たくさんの模倣が生まれた。
 また、「現代のたしなみ、または知力の増進」(1836)などという教訓物語をかいたキャザリン・シンクレア(1800〜1864)は、一方「たのしい家」(1839)で、はじめてふざけちらすことのたのしさをえがき、ナンセンス文学の先駆的役割をはたした。
 こうして、モラルの怪物たちが横行している中でも、真の子どもの文学をめざす努力はすこしずつすすんでいた。しかし、想像力の重要さ、空想の正しさが確立されるまでには、モラルだけでなく、知識偏重という障害があった。この傾向がもっともはっきりあらわれたのはアメリカのサミュエル・グリスウォルド・グッドリッチ、筆名ピーター・パーレーの活躍だった。
 ピーター・パーレー(1793〜1860)は保守的雰囲気のコネティカットで生まれ、幼い頃
「赤ずきん」を読んでショックを受け、それがつくり話だと知ってさらにおどろき、長ずるにお
よんで、世の中の罪悪の多くはこのようなひどい本に責任があると考えるようになっ
たという。とにかく彼は「ピーター・パーレーのアメリカ物語」(1827)をはじめとして、年に五、六冊ずつためになる知識の本を出した。彼の本はアメリカだけでなくイギリスでも大変に流行したが、1840年代になると、サー・ヘンリー・コール(筆名フェリックス・サマリー)が「フエリックス・サマリー家庭宝典」でピーター・パーレー主義に反対ののろしをあげ、おとぎ話やバラッドなどの価値をといた。この二人のたたかいは結局読者がサマリーの方をえらんだことによっておわったが、想像力がこうしたためになる知識や道徳とのたたかいで決定的な勝利をおさめたのは、グリムとアンデルセンの出現によってであった。

おとぎ話の復活
グリム他
 おとぎ話が復活し、二度とふたたび、子どもの文学の表面から姿をけさなくなるのに、大きな役割を果したのは、一八世紀末からヨーロッパでおこったロマン主義運動だった。文学・芸術上からいえば、ロマン主義は古典主義の没個性的な調和と完全に反対で、作者の個性やあこがれやのぞみをえがき、精神の神秘を表現しようとした運動であった。しかしこの運動がおこる土台には政治経済的な大変化があることはもちろんであった。
 ドイツでも一八世紀にはたくさんの教訓主義的作品が横行したが、一八世紀末に哲学者ヘルデルがルソーの影響をうけて自然や人間の根元に思いをいたし、民族意識がたかまり、それがナポレオン戦争にまけたことから祖国の統一と自由をもとめる気運を生んだ。グリム兄弟がドイツ語辞典を編集し、民話をあつめたのもこの動きの一つにほかならなかった。
 グリム兄弟の兄アーコプ・グリム(1785〜1863)は、はじめマールブルグで法律をつづいて歴史と哲学を研究し、ウエストファリアやカッセルで図書館の仕事をしたが、1830年から37年まではゲッチンゲンで教授兼図書館長をつとめ、文学、言語学、古代立法を講義した。しかし六人の教授とともに、ハノーバー王、エルンスト・アウグストの憲法を無視した即位に抗議して職を追われ、1841年にプロシャのフレデリック・ウィリアム四世にまねかれてベルリンに行き、教授をつとめ、また科学アカデミー会員となった。
 弟のヴィルヘルム・カール・グリム(1786〜1859)は大学とゲッチンゲンで兄とともに研究し、1830年に哲学教授となったが、やはりハノーバー王への抗議に参加して兄とともにベルリンに行った。たくさんのドイツ語教科書を編集したことも有名である。
 この二人は協力して、ドイツの民間に伝わる民話を集め、それを1812年から「子どもと家庭のための童話」として発表しはじめた。民話が完全に保存されている場合には方言をそのままのこしながら、なお文学的香気を失わない文章のたくみさ、民話の精神のたしかな把握は兄弟の不滅の功績であるが、「グリム童話」の魅力の本質は民話の魅力そのものにほかならない。単純直截な人間描写、人物の行動性、くりかえしによる緊張感と事件の連続などで子どもの心をとらえながら、その背後に深い人類の知恵をもりこんでいる。「白雪姫」「ラプンツェル」「オオカミと七匹の子ヤギ」「ヘンゼルとグレーテル」「ブレーメンのおかかえ楽隊」その他たくさんの子どものすきな物語は、どれもこれも、人間のほんとうの姿、幸福論、人生観、世界観、処世の知恵などにうらうちされている。だから、グリムの童話はさまざまな形の抄訳や再話にたえて、文字とおり世界の子どもたちの愛読書となり、想像力をやしなう上に、そして、人間理解の上に大きな役割をはたしている。
 ルートヴィヒ・ベヒシュタイン(1801〜1860)はグリム兄弟が収集しのこした民話や同系統の民話を「ドイツ童話の本」(1840)「新ドイツ童話の本」(1856)にまとめて発表した。グリムと同じくこの本も民話のもつ魅力と作者の個性ある筆によって今日もひろく読まれている。
 クレメンス・ブレンターノ(1778〜1842)はアルニム(1781〜1831)とともにドイツの民謡や童謡をあつめた「少年の魔笛」を出して児童詩に先鞭をつけたほか「ゴッケル物語」や「料理女プロケリナ」「フリスキイ・ウィスキイ物語」などのこっけいな話を含むたくさんの童話をつくった。
 ティーク(1773〜1853)は「金髪のエックベルト」(1796)で幻想的な雰囲気の中に深い思想を結晶させ、シャーミッソー(1781〜1838)は祖国をもたぬ人間の象徴ではないかといわれる怪奇な着想の「影をなくした男」をつくった。
 E・T・A・ホフマン(1776〜1822)は夢と現実があやしく入りまじった「クルミわりとネズミの王さま」(1819)を書いた。豊かな色彩と神秘感にあふれるこの物語は子どもの空想にぴったりしたものをもっていて今もよろこばれているが、チャイコフスキーの音楽でも名高い。
 以上のように、ドイツ・ロマン派には童話作家が数多くいるが、グリムとともに忘れられないのは、なんといってもヴィルヘルム・ハウフ(1802〜1827)である。
 ハウフはホフマンの作品などに影響を受けわずか二十五年のみじかい生涯の間に「隊商」「アレッサンドリアの長老とどれいたち」「シュペッサルトの宿屋」の三作をのこした。三作とも長い物語の中にいくつかのみじかい話をはめこむ形をとっているが、短い話の中では「コウノトリになったカリフ」「小人のハナスケ」などが特によく知られている。ハウフの童話は異国趣味や中世趣味のほとばしりと見られるアラビアン・ナイト的色彩や中世的神秘感にあふれながら、明快な筋によって人間の悲劇的行為をえがいたものが多く、豊かなはなやかな雰囲気にかげりと重みがくわわって、一種独特な美の世界をきずいている。
 ロシアは民話の宝庫だった。その理由はさまざまだろうが、一つはっきりといえることは、1917年まで国民の大部分が文盲だったため、民話の伝達手段が口づたえだったことである
。この豊かな民話を収集し文学にまで高めたのは詩人アレクサンドル・プーシキン(1799〜1827)だった。
 プーシキン以前のロシア文学はだいたい西欧文学のまねであった。ところがナポレオンの侵入を契機に政治批判がおこり、国民的自覚がたかまると、文学の面でも現実批判とロシア独特のものが強調されはじめた。そうした傾向の中で、プーシキンはイギリスのロマン派詩人バイロンの影響をうけ、ロシア民謡を素材とした長詩「ルスランとリュミドラ」(1820)をはじめ、「サルタン王の物語」(1831)「漁師と魚」(1833)「死んだ王女と七人の勇士」(1834)などを書いた。「ルスランとリュミドラ」は、当時の民衆がつかっていた日常語を大胆にとりいれた、やさしくてしかも美しい詩で、ロシアの近代文学の基をきずいた先駆的作品だったが、英雄詩のもつ勇渾なひびきをつたえ、もともと子どものために書かれたものでなかったにもかかわらず、現在世界の子どもの文学で古典の地位をえている。
 プーシキンよりやや古い詩人のクルイーロフ(1769〜1844)はイソップやラ・フォンテーヌの寓話の影響を受けて、彼独特の寓話を二百編ばかりのこした。彼の寓話は、その政治的思想を反映してイソップなどよりはるかに強い諷刺性をもち、どちらかといえばより暗いかげりと苦味をもっているが、イソップやラ・フォンテーヌより現代的である。
 ピョートル・パーヴロヴィッチ・エルショーフ(1815〜1869)は民話をもとに「せむしの子馬」をかいたが波乱に富むストーリーと背後にある寓意がたくみに統一されたこの物語はこの時期の傑作の一つといえる。
 しかし、ロシアの民話を集大成し、それを、世界の子どもの財産にした最大の功労者は、アファナーシェフ(1826〜1871)だった。彼はモスクワ大学で法律を学び、外務省につとめたが、ロシアの昔に強い興味をもち、グリムの業績などを研究してロシア民話をはじめて科学的に収集した。また、スラブ民族の神話にも最初の科学的メスを入れ、「自然についてのスラブ人の詩的概念」(1866)という論文も出した。「ロシア民話集」八巻は1855年から63年にかけて発表された。
 北欧のノルウェーでも、やはりこの時期は世界的に有名な民話集が出た。ノルウェーでは、サガの時代の古いノルウェー語が中世に至ってつかわれなくなり、デンマーク語が文学用語になっていた。1814年にデンマークとノルウェーの統合がくずれてから、新しい文体がうまれたが、そのきっかけをつくったのは、ペーテル・クリステン・アスビョルンセン(1812〜1885)とヨルゲン・モウ(1813〜1882)の二人によって収集され、子どものために出版された「ノルウェー民話集」(1845)であった。この本は1850年頃、現在知られている形でもう一度出版され、それ以来世界のものとなった。ノルウェーの民話の源は他のヨーロッパ民話と同じく、インド・ヨーロッパ語族のものだが他の国々のものにくらべて残酷さがなく、やわらかな雰囲気にみち、独特な超自然存在をもっている。また「太陽の東・月の西」といったような独特な言いまわしもひじょうにおもしろく、日本でも以前から親しまれている。
テキストファイル化田中麻衣子