『世界児童文学案内』( 神宮輝夫 理論社 1963)

アンデルセン童話集
 民話の収集と子ども向き再話という動きから、民話の形をかりながら、新しい時代精神をもりこもうとする作品が生まれた。その代表者がデンマークのハンス・クリスチャン・アンデルセン(一八〇五〜一八七五)である。
 オーデンセの貧しい靴屋の子としてうまれたアンデルセンは独学でバイブルを読み、デンマークのモリエールといわれるホルベルグの戯曲を息子に読んできかせる父親と、無学だが愛情深い母親にそだてられ、幼くして豊かな想像力をやしなわれた。一八一九年に俳優を志して首都コペンハーゲンに出たが、目的を達することができなかった。しかしその熱意は徐々に人びとを動かし、フリードリヒ四世が公費で学校に送ってくれた。
 一八二九年、彼は「ホルメンズ・カナルからアムゲル東端への徒歩旅行」という空想的な物語を発表して好評を得、一九三〇年には「詩集」を出した。一九三三年に国王の援助でドイツ、フランス、イタリアに旅し、その印象を語った「即興詩人」(一八三五)で一躍有名になった。同じ年に彼は、子どもの時にきいた昔話の元気はつらつとした素朴な語り口をつかって「火うち箱」「大クラスと小クラス」「おひさまとえんどう豆」「イーダちゃんの花」を小冊子で発行し、それが子どもによろこばれるのを見て第二集「おやゆびひめ」「いたずらっ子」「旅は道づれ」以下を年々続々と発行した。アンデルセンのいわゆる「子どものためのふしぎな物語」がデンマークの国境をこえてたちまち世界中にひろまったことは、一八四六年にメアリー・ホウイッツがイギリス訳を出していることでも知られる。
 アンデルセンの一五〇におよぶ童話の中にはたとえば「白鳥」「火うち箱」「大クラウスと小クラウス」「皇帝のあたらしい着物」のように、彼が子どもの時にきいた民話をほとんどもとのままつかったものもあるが、「しっかりもののスズの兵隊」や「おやゆびひめ」のように、彼の想像力の所産であるものが多い。
 ポール・アザールが「本・子ども・大人」で「物語という小さなわくの中に宇宙のあらゆる舞台をとりいれた」とのべているとおり彼のたくさんの物語はその題材がゆたかな変化にみちている。そしてさまざまな物語の底には、長い間の民衆のねがいであり、同時にアンデルセンのねがいもあったこと、彼自身の若い頃の苦しい経験からわりだした幸福論、人間観、世界観などが語られ、子どもにはそれと知らずいつのまにか心にしみこみ一生を通じて影響をあたえる力をもっている。中でも、もっとも感動的なのは、世の中の不正に対するいかり、おろかしいことへの諷刺、貧しいものへのかぎりない同情であろう。アンデルセンの童話は「よりよい未来を夢みる強い信仰がにじみでている。これが、アンデルセンの魂と、子どもの魂をじかに触れあわせるのだ。こうしてアンデルセンは、子どもたちの心の底にひそむ願いを聞きとどけ、彼らの使命に協力するのである。彼は、子どもたちとともに、また子どもたちの力によって、人類の滅亡を防ぎ、人類を導くあの理想の光をしっかりと守りつづけてゆく*」。
 アンデルセン童話集の出現をきっかけとして、空想的な物語は世界の児童文学に正当な市民権を確立し、民話や伝説の再話を発展させたばかりでなく、作家の想像力の所産である新しい空想の物語群を生んだ。
 そしてその動きは、特にイギリスにおいていちじるしかった。
* ポール・アザール「本・子ども・大人」矢崎源九郎訳、一五五ページ、紀伊国屋書店。

ビクトリア時代のイギリス児童文学
 グリムやアンデルセンが紹介されても、「アリス」の物語がイギリスに生まれるまでには相当な準備期間が必要であった。その期間、つまり十九世紀前半の一般情勢を、ハーヴェイ・ダートンはつぎのようにのべている。

 グリムはたちまちにして広くゆきわたったが、おとぎ話が、そしてそれにともなってロマンスやファンタジー全般が大手をふってあらわれるのは、じっさいは二十年ほど後になってからだった。(その当時は)奇妙に想像力がまひし刺戟にとぼしかった。子どもの本に関しては、ウォーターローのたたかいからビクトリア女王即位までの間のイギリス人は、(ディケンズの作中人物)ミセス・ギャムプのように見えた。気絶しそうになりながら歩いているようなものだった。自分たちの周囲で世の中が活発にうごくことに気がつき、それにしたがって行動しながら、古いことを回想しつつ、きまりきったコースだけをあゆんでいた。継続的なしごとの中以外では、あたらしいインスピレーションを生んだり、ほんとうにめざめるような見込みなどすこしも見せなかった。この固いわくにはまった精神を外界の物事のうごき――焼き打ち、改正騒動、機械の破壊、きびしい刑法、戦後の失業、飢え、などが原因だとすることはむずかしい。この時期の中産階級がまったく凡庸であった、つまり、貧しすぎず、豊かすぎず、政治面では、恐れる側にしても怒る側にしても先鋭的な立場になかったことが原因かもしれない。わたしは子どもの文学をもともと中産階級のつくりだしたものと主張しているが、これが正しいとするなら、中産階級のこうした軟弱な状態が、この時期の子どもの文学の単調さを説明すると思う。とにかく、このような状態の社会がつくった子ども用の本の中には、理想もインスピレーションも全然見られなかった。しかし、このように断定しては、子どもの本について、大人の心の中に生まれはじめていたことを無視してしまう。大人の心に生まれはじめていたのは、子どもとは大人とちがうものであり、男女の区別があり、五才の子と十四才の子はちがうという考えだった。……しかし、その時まで、幼い読者たちははっきり分けて考えられたことなどなかった。彼らはただ<子ども>だった。それは、アルファベットも満足にいえない赤ん坊から青年ほどに成長した若い男の子女の子までをさすことばだった。子どもの数だけをとっても、もはや細分化はさけられない状態だった。人口の増加によって子どもの数がふえる一方、改革の気運が子どもたちにより一層注意を向けさせた」(前出書二二一ページ)。

 ダートンは十九世紀前半の子どもの文学の一時的停滞を直接的に政治社会状況とむすびつけることをさけているが、グリム、アンデルセンの翻訳の時期から「アリス」にいたる中間期の作品であるジョン・ラスキン(一八一九〜一九〇〇)の「黄金の川の王さま」(一八五一)やチャールズ・キングズリ(一八一九〜一八七五)の「水の子」(一八六三)、そして児童文学の一つの頂点である「アリス」などを見ると、子どもの文学がやはり時代の産物にほかならないことがわかる。
 ラスキンが小さな女の子にせがまれて、出版する気持などまったくなしに書いた「黄金の川の王さま」は、ゲルマン民族の伝説にあるような神秘感と単純明快なストーリーと美しい自然描写などで、今も子どもたちをよろこばしているが、我利我欲をいましめ、愛のとうとさを強調する教訓は、ビクトリア時代初期の中産階級の思想であった功利主義に対するきびしい批判でもあった。
 一八六二年のある日、イギリスの牧師チャールズ・キングズリは、妻が「ローズもモーリスもメアリも自分たちの本をもっている。だから赤ちゃんも自分の本をもつべきです」というのをきいて書斎に入り、まもなく「小さなトムの物語」をもって出てきた。これが「水の子・陸の赤ちゃんのためのおとぎ話」のはじめだといわれている。物語は、はじめはひどく現実的である。
 煙突掃除小僧トムは仕事中まちがっておやしきのおじょうさんの部屋に入ってしまい、どろぼうとまちがえられて追われ、川に落ちておぼれ死に、そのまま水の子となる。水の子となったトムは、川の中で、エビ、カワウソ、サケなどと会い、自分と同じような水の子が海にいることをきいて川を下っていく。彼が一匹のエビをたすけてやったとたん今まで見えなかった水の子がたくさんあれわれ、たのしい生活がはじまる。トムははじめのうち、しまってあったお菓子をぬすんだり、さかなをいじめたりして体にとげがはえるような罰をくうが、だんだんよい子になっていく。そしてある日のこと水の子の学校へ入学し、若い女の先生が毎日帰っていくところへ自分も行きたいと思い、世界の果てのまた向こうまでも旅していく。
 キングズリは一九世紀前半のイギリスをおそった社会不安をキリスト教を精神的支柱とする一種の社会主義的社会をつくることですくおうとした社会改良家だった。物語の前半のトムの悲惨は、そうした作者の批判のあらわれであった。また牧師であった彼は、当時発表されて大きな影響をおよぼしはじめたダーウィンの進化論を、自分の信ずる神学的宇宙観と結合させることに心をくだき、新しい科学的真理は神の存在を否定するものではなく、逆に神の存在のあきらかな証拠であることを子どもたちに知らせようとした。人間とさかなの中間物のような<水の子>という着想は、おそらく彼のこうした思想から生まれたものにちがいない。この独創的な着想で物語を進めることに専心し、自分の思想を性急に語ることをしなかったら、「水の子」はもっとおもしろいものになったと思う。しかし、キングズリは最後まで職務に忠実であり、作品中でも、

 トムはまちがっていました。イギリスで礼拝中、教会のとびらはいつまでもあいているのです。国教徒であろうと非国教徒であろうと、いや、トルコ人であろうと異教徒であろうと、はいってきた人のためにはいつもとびらはあいています。そして、中に入った人がしずかにしているかぎり、もしだれかがその人を追いだそうとすれば、りっぱなイギリスの古い法律は、万人のためにある神の家から、おとなしい人間を追いだそうとした男を罰します。

といったお説教を、あちこちでやっている。「水の子」はキングズリが自分の思想全部をもりこんで、今や古めかしくなってしまったが、民話伝統にたたない空想物語を最初に生みだした点は高くかわれてよいと思う。

「ふしぎの国のアリス」
「水の子」が出てから二年たった一八六五年に「ふしぎの国のアリス」が出て、空想の勝利が確立した。
「アリス」の作者、ルイス・キャロルは本名をチャールズ・ラトウィジ・ドジソン(一八三二〜一八九三)といい、オックスフォードのクライスト・チャーチ・カレッジで数学を教え、一生を独身で通した地味な人だった。ドジソンは少女がすきで、よくいっしょにあそんだが、一八六二年七月四日に知り合いのリデル家の少女三人とともにボートで川をさかのぼって遠足をした。そしてその時に話してやった物語を、せがまれるままに「アリスの地下の冒険」という題で筆写してやった。
 この筆写本は一八六三年にリデル家をおとずれた小説家ヘンリー・キングズリの目にとまり、一気に読んだキングズリはリデル夫人にむかって、この物語を出版するよう作者を説けと力説した。しかし、ドジソンは確信をもてず、友人のダックワースに相談した。コピーを読んだダックワースは、すぐれたさし絵画家さえつかめれば成功まちがいなしといい、パンチ誌に動物漫画をかいていたジョン・テニエルをすすめた。だが、ドジソンは、物語そのものが特別な三人の少女の身近な経験に基礎をおくものであるから、ほかの子どもにもおもしろいかどうかに疑問をもち、もう一人の友人ジョージ・マクドナルドに最終的な鑑定をたのんだ。マルドナルドの妻が子どもたちに読んでやると、子どもたちが夢中になってきいたので、ドジソンもようやく出版という冒険にのりだしたという。
 ドジソンは出版の決心をすると、はじのうちはさし絵も自分でかこうとしたが、彼のさし絵を見た人たちは、その意志をかえるように彼を説いた(彼のさし絵は現存しているがテニエルにおとることはるかなものがある)。そこで彼はダックワースのすすめどおり、テニエルにたのんで承諾をえた。彼は自分でさし絵がかけなかったかわりに、自分の心にあるイメージをテニエルが十分に表現してくれることを要求し、画料を自分ではらい、テニエルをこきつかったといわれている。テニエルは「鏡の国のアリス」(一八七一)のさし絵をたのまれた時、「ルイス・キャロルにはがまんがならない」といって一度はことわったほど、それはひどかったらしい。しかし、作家と画家とのこのはげしいぶつかり合いが不朽のさし絵を生んだわけである。「ふしぎの国のアリス」は一八六五年にマクミラン社から出版されたが、最初の刷り上りに対してテニエルが不満の意をあらわしたため、ドジソンはそれをひっこめてもう一度刷りなおした。
 以上のような「アリス」誕生のうら話からわたしたちはいくつか興味ある事実をひきだすことができる。一つは子どもの本の作家の階級が高くなったということである。ドジソンは大学教授、キングズリはカーライルとともに社会運動をした宗教家だった。当然彼らは教養も経験も豊かな人たちであり、文章もあやしげな十八世紀のチャップ・ブックの作家たちとはちがっていた。これは子どもの文学をたずさえて登場した中産階級が十九世紀後半になって、支配的地位をしめたことをも意味している。もう一つは、子どもたちにたのしい本を読ませることがあたりまえになっていたことである。つまり、教訓のおしうりをしないで子どもによろこびを与える、文章も絵もすばらしい児童文学は中産階級の安定の上にはじめて生みだされたことがわかるのである。
 いろいろな苦労の末に世に出た「アリス」は、しかしはじめのうちはけっして爆発的人気をよばず、批判もさまざまだった。だが、十九世紀のおわりまでには「シンデレラ」や「長ぐつをはいたネコ」同様に子どもがそらでおぼえるほどの人気を獲得していた。
 懐中時計をチョッキのポケットから出して「おや! おや! おくれっちまう!」といいながらいそいでいくウサギを見て、アリスがウサギ穴にとびこんだ時からはじまる「ふしぎの国のアリス」と、鏡の向こうの部屋に入りこんだ時からはじまる「鏡の国のアリス」の物語は、すべてが非常識の連続である。芋虫はアリスに向かって「おまえはいったい誰なんだ?」とたずねる。アリスは「まずあなたが誰だかおっしゃるべきだと思います」と答える。すると芋虫がまた「なぜ?」ときく。
 公爵夫人の家では、料理女が料理しながら、公爵夫人と赤ん坊に手あたり次第にものをぶっつけている。キ印ぞろいのお茶の会では、帽子屋が時間でなく日付を見るために時計を出し、「二日ちがってる! だからバタは機械に合わないといったんだのに!」とおこる。すると三月ウサギはその時計を紅茶茶碗につけてみる。
 アリスは白の女王に向かってたずねる。「どんなことを一番よく思い出しますか?」すると女王は「そうじゃな、再来週起こったことじゃね。たとえばじゃ、王さまの使者がおるのじゃが、今ろうやで罰をうけているところじゃ。その裁判は来週の水曜日までは始まりもせぬのじゃ。むろん、彼が罪を犯すのは、一番あとのことじゃ」という。アリスは、びっくりしてたずねる。「もしもその罪を犯さないとしたら?」「ますます結構ではないか」。
 空想に一切の制約がないこの一見めちゃくちゃな世界をキャロルが創造したうらには、チェスタートンが指摘するように、数学と論理学の教授で副牧師の資格をもつ地味でかたくるしい現実生活からの「逃避」がたしかにあったにちがいない*。そして、その逃避は、当時横行した理性主義、実証主義、体面を重んじつつしみぶかくくらそうとする風潮、ユーモアや空想に欠けていたことなどに対する解毒剤でもあったにちがいない。イギリスの子どもの文学にファンタジーが多いことの一つの原因はこんなところにあると思う。
 マザー・グースや、キャザリン・シンクレアの「たのしい家」や、エドアード・リアの「ナンセンスの本」(一八四六)などを先駆者として生まれたキャロルの非常識=ナンセンスの世界は、常識がいつのまにか非常識にかわってしまい、読むものの今までの価値判断を転倒させてしまう。すると、王さまの使者をまずろうやにぶちこんでから、後になって罰をきめる話や、ハートのジャックの裁判の場面などがおそろしい諷刺性をもつ。また、チェスタートンのいうように、この物語の世界は常識の幕にかくされた世界の驚異に目をひらかせる力をもつ**。
 子どもたちは、もちろん、この作品のうらにある意味などすぐにわかりはしないだろう。彼らは、自分たちのわくのない空想と同じものが正々堂々と大手をふってまかりとおっている世界に入りこんでたのしむ。しかし「アリス」ほど子どもの成長に大きな貢献をする本は数少ないだろう。ただナンセンスの世界はことばと密接な関係をもつ世界なので、翻訳ではそのおもしろさが半減してしまうことは、日本の子どもたちにとって残念である。
 とにかく、「アリス」は、子どもの物語を長い間しばってきた教訓を完全にとりはずし空想を自由にしたまったくあたらしい作品であった。アリスの洋服がどんなに流行おくれになっても、物語はいつも新鮮であるといわれるのも当然である。
 キャロルによって道をつけられた空想の物語は、その後続々と生まれてきた。
 中でも、もっとも特徴あるすぐれた作品を書いたのは「アリス」の出版にも直接的な関係をもったジョージ・マクドナルド(一八二四〜一九〇五)だった。詩人で小説家で雑誌編集者であった彼は、子どものための作品として「北風のうしろの国」(一八七一)「おひめさまと鬼」(一八七二)「おひめさまとカーディ少年」(一八八二)の長編のほかに八つの創作おとぎ話を集めた「妖精とのおつきあい」(一八六七)を発表した。
 彼の作品はアンデルセン童話と同じような架空の国、別世界の驚異に満ちているが、アンデルセンのそれが民話にささえられているのにくらべ、マクドナルドのそれがまったくの創作であったところに新しさがあった。また彼の作品には「水の子」と同じように、若い人たちを改善しようとする意識的な目的がもりこまれているが、細部を忘れてしまうほど年月がたった後も心の中に余韻がのこるようなふしぎな魅力のため、その目的がどぎつく感じられない。
 クレイク夫人(一八二六〜一八八六)は、スコットランド民話の伝統をひく「妖精ブローニーの冒険」(一八七二)や、ドラー王子の不幸と魔法の着物の冒険を語った「びっこの王子」(一八七五)を出し、また、グリム、ペロー、オーノワ夫人らの話を再話した「妖精の本」(一八六三)もつくった。
 ジーン・インジロー(一八二〇〜一八九七)の作品の中でいちばん有名なのは「妖精モプサ」(一八六九)であろう。牧草地であそんでいてにわか雨にあったジャックが、にげこんだ木のうろにいた妖精をポケットに入れ、目が赤とみどりに輝くアホウドリにのって妖精の国をおとずれるこの物語は、妖精との出会いや話のすすめ方がいかにも自然で、読者を信服させる力をもっている。「アリス」ほどの人気はないが今も多くの子どもたちによまれている。
 文豪ディケンズ(一八一二〜一八七〇)もこの分野への貢献者だった。「ホリディ・ロマンス」(一八六八)は、現実の子どもの生活をかいた第一章、現実と空想の入りまじった第二章、海賊物語の第三章、教訓物語をもじった第四章にわかれていて、小説と現実のちがいを知った子どもたちが大人のための教訓物語をかくというのが全体のすじである。第二章が「魔法のさかなのほね」でこれがいちばんよく読まれているが、出来のよいのは第三章だといわれている。だが、子どもたちにとって、ディケンズは「クリスマス・カロル」(一八四三)の作者としての方がよく知られている。通俗的との批評はあるけれども守銭奴スクルージが、過去、現在、未来の精霊の手引きでクリスマスの意義を知り、慈善家に変わっていく過程には、貧しい人びとにかぎりない同情をそそぎ社会悪とたたかいつづけたディケンズの精神がつよくながれている。この作品もまた、時代風潮を如実に反映したものであった。
 モルスワース夫人(一八三九〜一九二一)は「ハト時計」(一八七七)や「壁かけの部屋」(一八七九)で、ふしぎの国への入り口を、ごく日常的な環境の中につくって見せた。マクドナルドほど豊かな想像力をもたないが、物語の展開のさせ方、人物のえがき方などにすぐれているこの作家は、ラブ・ロマンスの作家に適していたといわれ、今はほとんど忘れられてしまっているが、日常生活の中でのまほうという手法は後にのべるネスビットにうけつがれ、二十世紀の空想物語のもとになっている。
 アンドルー・ラング(一八四四〜一九一二)は詩人、批評家、狂文作者、歴史学者、人類学者、翻訳家などとして多方面に活躍した人だったが、小さい時から妖精に興味をもち、大人になってからはドイツのマクス・ミュラーの民話論に反対して、世界民話の共通性について論文をかいたりした。そして、豊かな神話、民話、伝説の造詣をもとに物語をかきはじめた。「フェアニリーの黄金」(一八八八)は、イングランドとスコットランド境界地方の伝説に材をとった伝説的ロマンスで伝説のもつ力強い直截な語り口と魅力をそなえている。「プリジオ王子」(一八八九)と「リカード王子」(一八九三)はサッカレーの「バラとゆびわ」(一八五四)の軽妙さ、あかるさ、諷刺性をもっている。彼はまた、世界民話や創作おとぎ話を集大成した色別童話集を「青色の童話集」(一八八九)から出しはじめ、おとぎ話をこのむ子どもたちの要求をみたした。
 ラングの子ども向き作品は百科辞典的教養がじゃましたためか、他に類を見ない独創性をもつにはいたらなかったが、世界民話を集大成して空想物語の発展を力づけたことや冒険小説を愛好し、スチーブンソンやライダー・ハッガードをはげましつづけたことなど、子どもの文学には大きな功績をはたしている。
 イギリス耽美主義のチャンピオンとして十九世紀末に一瞬の光をはなったオスカー・ワイルド(一八五四〜一九〇〇)も「幸福な王子」(一八八八)と「ザクロの家」(一八九一)の二冊を子どもにおくった。頽廃的な文学者としてのワイルドににあわず、この二つの童話集は功利主義、物質主義への批判をひめ、愛の尊さを美しい文体で語っている。
* G. K. Chesterton "Stories, Essays & Poems"(Everymans Library)中にある "Defense of Nonsense"
* * 前掲書に同じ。
テキストファイル化天川佳代子