『世界児童文学案内』( 神宮輝夫 理論社 1963)

冒険、生活、職業の物語

 二十世紀のイギリス冒険物語は十九世紀がきずいた精神と型をうけつぎながら、新しい時代の動きを反映して、さまざまな展開をみせ、複雑な様相を呈している。最初の十年間はビクトリア時代の延長として、十九世紀の巨人たちの作品があいかわらず読まれ、それに加えてキップリングの「キム」、H・G・ウェルズ(一八六六〜一九四六)の「月世界最初の人」(一九一七)、ジョン・バッカン(一八七五〜一九四〇)の「プレスター・ジョン」(一九一〇)など、大人向きにかかれた作品がよまれた。そして、子どものためにかかれたものは、バランタインやヘンティの型をそのまま受けついだものが多く、新鮮さを失うと同時に、読者の興味をつなぐため、アクションがどぎつさをまし、筋の不自然さもめだって、堕落していった。やがて第一次世界大戦がはじまると、当然戦場を素材にした冒険物が多くなった。E・S・プリアトンの「フランダースのヘーグのもとで」(一九一七)「同盟軍とライン川へ」(一九一九)やハーバート・ストラングの「ジャイロ・カーの旅」(一九一九)、それにパーシー・ウエスターマンの諸作品などがそれだったが、少女の読物にもアンジェラ・ブラジルの「愛国少女」(一九一八)といったたぐいのものが多くなった。この傾向は戦後の二十年代にも尾をひき、スパイ小説、斥候小説など、人間の描き方も類型的で、文章もまずい、刺激的事件をならべただけのものが続出した。だが、三十年代に入ると、冒険を含めて子どもをリアルにえがいた物語群に大変化がおこった。
 一九三二年にパトリック・セアが最初の児童図書館活動の本「児童図書館手びき」をつくり、一九三六年には図書館協会が児童文学賞であるカーネギー賞を創設し、また児童図書紹介書評専門誌「ジュニア・ブックシェルフ」がつくられ、一九三七年には学校図書館部門がつくられるなど、三十年代は児童文学についての関心がひじょうに高まった時期であった。政治社会的には、スペイン内乱、ナチスの台頭、満州事変など、世界はまた爆発の危険にさらされ、国内的には失業と社会不安がうずまいていた。それが影響して、子どもの文学も現実的になり、空想物語もその底にきびしさをひそめていた。
 この時期をもっとも特徴的にあらわした作家はジェフリー・トリーズ、アーサー・ランタム、イーブ・ガーネットなどであろう。
 ジェフリー・トリーズは、冒険物語の堕落におどろいた実験精神おう盛な出版社、ベイジルブラックウェルのはじめた「アクションの物語」シリーズから生まれた作家で、その最初の作品「騎士たちに向ける矢」(一九三四)はロビン・フッドを圧制への反乱者としてとらえた、いわゆる左翼的文学で、現在あまりに傾向的であるとの批判もあるが、これがひろく読まれたことは一九四八年の新版の序に著者自身がかいている。

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この物語ははじめ一九三四年にかかれました。わたしはノッチンガムに生まれ、今も<森>とよばれている公園で弓矢をもってあそびましたので、いつもロビン・フッドを大好きな英雄と考えていました。しかし、大きくなって人生についてたくさんのことを知るようになると、ロビン・フッドの話のいくつかはどうもほんとうらしくないと感じるようになりました。<たのしい無法者>たちが、物事をそれほど楽しく思うはずはなかったのです。そして、ロビン・フッドほどの男が、話にあるほどやすやすと王さまの前にひざまづくこともなかったでしょう。そこで、わたしは、もっとほんとうに近い、新しいシャーウッドの森の絵を作りだそうとしました。この新しい絵はみんながすきになってはくれませんでした。
 もちろんこれはただの物語にすぎません。しかし、ロビン・フッドの話は全部がただの物語です。なにしろ、歴史の中では、ロビンについてのたしかな事実はなにもないからです。
 けれども、この物語はいかにもありそうなことばかりです。ロビンが大反乱を指導するという思いつきも、一三八一年に、このようなことがじっさいにおこっているのです。じっさい、イギリスの歴史を通じて、たくさんの人がロビンをそうした人物と考えています。一六〇三年ウォルター・ローリーが裁判されたとき、彼は<今わたしがロビン・フッドかワット・タイラーかジャック・ケイトのような人間になったとしてもすこしもおかしくないだろう>とさけんでいます。
 ロビンをのぞいた二人は、ほんとうにイギリス大反乱を指導した人たちでした。ローリーはロビン・フッドを同じような指導者と考えていたのです。幸運にも、この本をよろこんでむかえてくれた人たちもたくさんいました。世界の各国から少年少女諸君が、わたしにたよりをよせてくれました。アイスランド語にすら訳されました。そして、ある友人はスペイン内乱でたたかっている間に、バルセロナでこの物語のドイツ語訳をみつけましたが、それがロシアで発行されたものでした!」

 彼はその後の作品「灰色の冒険家」(一九四二)「憲章の同志たち」(一九三四)「反乱へのいとぐち」(一九四〇)などでも一貫して民衆の側にたって歴史物語をかき、歴史を動かす原因に子どもの目をむけようとした。彼ほど明確に階級性をもった作品を生みだした作家はイギリスではまれだが、また彼ほど時代の影響を明瞭にうつしだした人もいない。トリーズは三十年代のイギリスのもっとも特徴的な存在であった。
 トリーズが確立した現代的な歴史小説は、その後何人かのすぐれた作家にひきつがれた。デボンの小学校の校長で、歴史学の専門家ロナルドウェルシュは、第一回の十字軍の成功後、イエルサレムにたてられたヨーロッパ人の小国の運命に材をとり、二つの大きなたたかいを含むアクションにみちた物語を簡潔な筆で展開させ、東方のゆたかな文化と西方の野蛮未開を対比させた「十字軍の騎士」(一九五四)でカーネギー賞を受賞した。
 シンシア・ハーネットは、バラ戦争直後のイギリスを舞台にとり、羊毛業者のごたごたをミステリーめいた筋にしたてて話を進めながら当時の民衆の生活と感情をきめこまかにえがいた「羊毛の梱」(一九五一)でやはカーネギー賞を受けた。
 そして、最近のもっとも偉大な作家はローズマリ・サトクリフである。彼女は「エリザベス女王物語」(一九五〇)でセンチメンタルに堕しかねないおだやかであまい話をかいたが、「シモン」(一九五三)「第九軍団のタカ」(一九五四)「盾の輪」(一九五六)「緋色の戦士」(一九五八)とかきすすむうちセンチメンタリティを完全にぬぐい去って「ランタン・ベアラーズ」(一九五九)でカーネギー賞を受けた。彼女の強みは、今日数少ないストーリー・テラーの才能であり、この才能を駆使して、えがく時代を感覚的に再現してみせる。時代を感じとって表現できた作家はキップリングと彼女だけでありこの二人が群をぬく所以でもある。サトクリフは二十世紀後半が生んだ大作家の一人である。一九三〇年に出版されたアーサー・ランサムの「ツバメ号とアマゾン号」は子どもの本に一つの新しい分野をひらいものだった。少年時代によくおとずれた湖沼地帯を舞台に二組の少年少女が展開する夏休みの生活は、どこをとっても不自然さのない真実味をもちながら、キャンプ生活、ヨット帆走、海戦ごっこ、宝さがしなどを通じて「宝島」以来のロマンス愛好精神を十分に満足させて、当時横行した三文冒険小説と段ちがいの新鮮さを見せた。ランサムはその創作態度を「子どものために書くのではなく、自分のために書くのです。運よく、作者の楽しんでいるものを子どもがたのしんでくれたら、その作者は、子どもの本の作者なのです*」とのべて、スチーブンソンと同じ根をもつ児童文学観を見せた。彼はその後、「ツバメの谷」(一九三一)「ハト便」(訳名「ツバメ号の伝書バト」一九三六)「海へでるつもりじゃなかった」(一九三七)「シロクマ号となぞの鳥」(一九四七)など全部で十二冊の作品を出したが、大自然の中へとびこんでいく冒険心やあこがれの気持は、直接的な休暇物語や航海物語を出したほか、スポーツ物語、人間と動物の(特に馬)物語、都会からの逃亡の物語など、多方面のあたらしい型を生みだした。
 一方、ランサムとは別種の型の冒険小説が外国作品から生まれた。それはドイツのケストナーの「エーミールと探偵たち」(一九二八)や、ハンガリアのモルナールの作品「バール街の少年たち」(一九〇七)によってつくられた都会の少年集団の物語である。この系列の作品にはスイスのマンフレート・ミハエルのかいた「子どもだけの町ティムペティル」(一九三七)、フランスのポール・ぺルナのかいた「首なし馬」などすぐれたものがいくつかあるが、イギリスでは、大学教授であり推理小説作家であるC・D・ルイスの「オタバリの少年探偵たち」(一九四八)が生まれている。にせ金つくりを相手に、一人の子どもなどは頭をわられながらも、多くの子どもたちが棒きれと石でわたりあう景気のよいアクションの物語で、子どもたちの会話と行動を通して群像が書きわけられ、町が、大人が、家庭が、時代がえがかれている。さらに、血わき肉おどるこの冒険小説にはすこしも無理がない。悪漢を追跡する途上で大人に応援をもとめなかったのは、そんなことをしても大人が信じないからだというような合理性につらぬかれている。この作品は、終戦時のイギリスからすこしもはみだすことなく、子どもの行動力、好奇心、勇気などをえがいた真にすぐれた冒険小説である。
 詩人リチャード・チャーチの「地下の洞穴」(一九五三)はランサム的要素とケストナー的要素をあわせもった作品だが、洞穴の中でのいくつかの危機を通じて四人の子どものかくれた本質があきらかにされていくこの物語は、単なる冒険物語というより、人生の劇とよぶにふさわしい。続編「川を下る」はふつうの冒険小説だが、十分読みごたえがある。
 一九三七年にイーブ・ガーネットが発表した「ふくろ小路一番地」(カーネギー賞受賞)は階級的断絶の意識なしに下層階級がえがけたイギリス唯一の作品であり、中産階級意識が未だにぬけないイギリス児童文学にあって特異な地位を占めている。
 自然主義的な三十年代が生んだもう一つの流れに職業小説がある。これは生活する努力に冒険小説に流れる精神と同室のものをみとめ、少年少女が職業知識を体得する過程をえがいたものであるが、少年向きには海洋物が、少女向きには歌手や映画関係などが多い。
 自身が女優だったノエル・ストリートフィールドは、バレリーナになる少女を「バレーシューズ」(一九三六)で、映画の子役になる話を「絵にかいた庭」(一九四九)で、サーカスの子どもたちを「サーカスがやってくる」(一九三八・カーネギー賞受賞)でというように、たくさんの職業小説をかいたが、着想が奇抜で、ストーリーやプロットがたくみなので、どれもおもしろくよめる。
 ノエル・ストリートフィールドの義妹にあたるキティ・バーンも王立音楽学校にまなんで、その専門的知識を「彼女に音楽を勉強させよう」(一九三八)や「音楽の栄誉」(一九三九)「音楽一家」(一九三九)などの物語に生かした。彼女の作品はストリートフィールドほどに奇抜でもなく、物語性もややうすいが、子どもたちが分別をもち、批判性があり、自分自身のことについてすこしもロマンチックでないことを知っている彼女の、子どもへの深い理解を基礎に、職業を身につける過程の子どもの努力がたんねんにえがかれ、ひじょうな迫真力をもっている。彼女はそのほかに、第二次大戦中の疎開問題をあつかって人物描写に卓抜した力をみせた「ロンドンからきたひとたち」(1940・カーネギー賞受賞)や、ナチス占領下のノルウェーからイギリスへ脱出する十五才の少女の冒険をえがいた「イギリスであいましょう」(一九四三)などをも発表している。
 パリ、ライプチッヒ、ロンドンなどで音楽をまなび、後、音楽教師になったエルフィリダ・ヴィボンも「朝のひばり」(一九四八)「とびたつひばり」(一九五〇・カーネギー賞受賞)で、一人の少女がうずもれていた才能をめざめさせ、すぐれた歌手になる過程を、また第三作「わが春来る」(一九五七)では前二作の主人公の姪が演劇の才能を発揮する話をかいた。三作とも定型的なストーリーでありながら、みずみずしい雰囲気をもち、深く読者の心にしみとおるものをもっているのは、少女の内面に対する理解の深さとともに作者が子どもの精神的向上にたえず留意しているためと考えられる。彼女はその後「花咲く春」(一九六〇)かいたほか、チャールズ・ヴィポーンのペンネームで「その男をたお
せ」というような、荒々しい海洋冒険小説もかいていて、才能の豊かさをみせている。
 少年向きの職業小説の第一人者は、リチャード・アームストロングであろう。アームストロングは、少年時代、鉄工場ではたらき、十六才で船員になり、その後十七年間船にのっていた。その少年時代の経験から生まれたのが、「鉄工場のサボタージュ」(一九四六)「海に育つ」(原名「海の変化」一九四八)「ウィンストンの廃坑」(一九五一)「危険な岩」(一九五五)「ぬすまれた船」(一九五六)などである。他の作家と同じように、彼の作品も、主人公が職業を身につけていく過程で肉体的にも精神的にも成長するという一定の型をふんではいるが、例えば「海に育つ」では、船火事、放棄された船の救出などの、命がけの冒険にみちていて読者をあかせない上に、成長する人間が確実にえがかれている。アームストロングの最近の作品「タンカーにさくひまはない」(一九五七)や「もえるタンカー」(一九五九)にも、あいかわらず、船の構造やはたらきがくわしくかかれてはいるがアクションやスリルやサスペンスがふんだんにある冒険小説という感じの方がつよい。作者の力量の円熟を示すのであろう。
*"Chosen for Children" Published by The library
Association (London) 1957,p 6.

テキストファイル化山児 明代