がき本の現在
子どもと本の交差点

(7)
甲木善久

           
         
         
         
         
         
         
    
 本屋さんに行き、あちこちブラついていると、ジャンルごとに売り場の雰囲気が違っていて楽しいものである。きっと、同じような読者を想定し、同じような価格設定で本を作っているために、必然的に似たような感じのものができ上がってしまうのだろう。が、しかし、それも度が過ぎると、なんだかそこだけブラックホールみたいで、門外漢には近づきがたい雰囲気の場所となる。たとえば、オジさんにとって、コバル卜系少女小説の文庫売り場など、一冊一冊の作品の見分けなどつけようもない異空間であろうし、反対に、女子高生にとってみれば、ピジネス本コーナーや、「なんとか殺人事件」のひしめき合うノべルスのコーナーは、別世界に違いない。
 そうした中にあり、がき本のコーナーといえば、これもかなりのブラックホール状態だといわねばなるまい。いつの頃からか、がき本には、特有のブラックデザインというものが存在するようになってしまった。ケス卜ナーの全集や「ドリ卜ル先生シリーズ」でおなじみの岩波書店のハードカバーに代表される、あの丈夫な造本は、十九世紀のフランスで、ジュール・べルヌを世に送り出した編集者が「子どもの本はかくあるべし」と提唱して始めたものだと何かで読んだ記憶あるが、しかし、まあそれにしても、現在のがき本のひとし並みであることよ。

 棚を占めているのは、グリムやアンデルセン、日本昔話のお手軽なタイジェス卜版で、よくよく見れば金髪の白雪姫があったりして、なんだかわけがわからない。キャラクター物もシリーズでドーンと揃ってはいるが、一冊選ぶとなるとどれから買っていいのかちょと判断つきかねる。創作物の棚はといえば、白地に蛍光色の背文字が並び、「×年生は○○の△△」なんていう露骨に読者ターゲッ卜を絞ったものもあれば、ミョーに子ども子どもした甘ったるい夕イトルものもあり、これまた、どれがおもしろいのか皆目見当がつかないありさまである。しかも、がき本は、だいたいどれも、ダサイ。


 これでは、ちょっと通りかかった人がふと目についた本を手に取ってみる、なんてことは夢のまた夢、フェアーかなにかで特に別なところに置いてない限り、がき本に手を伸ばすなんてことはない。子供のために何か買おうと思ってそのコーナーに足を運んでも、みんな同じに見えるから選びようがない。よっぽど好きな人なら、作家の名前で選ぶこともできるだろう。あるいは、偶然、子供の頃に自分が読んだ本が置いてあったなら、それを買うこともできるかもしれない。しかし、実際はそうでないことの方が多いもんである。
 では、子どもの本を買ってみたが、どうすればいいのかわからないという方のために、おもしろいがき本を見分けるとっておきの方法をお数えしよう。

 見た目で選んで何が悪いの!!

 これ、である。瀬戸朝香のこの名セリフは、使い捨てカメラに限らず、最近の「がき本」を選ぶときにも、けっこう使える。
 なんとなく同じよーな本ではなく、個性を出した本を作るには、製作の過程で、作家本人か、あるいは担当編集者がガンバルしかない。現在のがき本業界では、実績がなければ、タイトルひとつ作家の自由にさせてはくれない。これは、悲しい現実である。お仕着せのタイ卜ルが嫌で出版社を替えた作家を何人も知っている。そんなせこい風潮の中で、本の内容に合う画家を頼み、デザイナーをつけ、オシャレに本を仕上げようとすれば、当然、作家と担当が頑張るしか方法がないのである。作品にかける熱い想いがあればこそ、頑張ることもできようというものだ。
 だから、見た目のいい本は、ひとまず信用できるのである。新刊書評を書くためにせっせとがき本を読んでいる僕の経験からすれば、見た目で選んでよかったじゃん、といことしばしばである。
 近年、そういう本は少しずつ増えてきた。そして、その中から一冊選べといわれたら、僕は迷わず、にしざきしげるの『海にむかう少年』 (講談社)を選ぶ。死を通過する事件によって少年が大人へと足を踏み入れていくという正統派の物語だが、個性的なタッチのマンガ家、松本大洋のイラストを効果的に用いた本の作りが、実に実にオシャレなのだ。
 こういうセンスの本がもっと増えれば、児童書コーナーのブラックホール化は緩和されるはずだ。そうすれば、がき本は必ず変わる。変わるはずなのである。
西日本新聞1996,03,28