コドモの切り札


(7)

骨抜きのツケ

甲木善久
           
         
         
         
         
         
         
         
    
 大人と「子どもの話」をするのはメンドーだ。というのは、このコラムの最初に書いたことだけど、実にやっぱり、そうだった!
 というのも、第二回に書いた『永遠の卜ララ』(花形みつる作 河出書房新社)についての原縞で、僕は当紙の担当者から「悪ガキ」という表現を改めるように申し渡されたのである。あー、つまりは、新聞という公共性の高いメディアで、「ガキ」という言葉は不穏当であると…。で、さんざん考えた末、改めました。だってその主張の正当もわからないではないもの。とはいえ、できるだけ作品の印象を残すべく、無い知恵を絞って、いくぶんの愛着を込めた言い方である「ワル坊」なる九州弁(筑後弁?)を思い出して使ったわけなのだが。
 さて、ところが、十月十八日付の産経新聞の書評欄を見て驚いた。というよりむしろ、悔しかった。同書の書評を評論家の野上暁氏が書いているのだが、キッチリ二回も「悪ガキ」という表現を用いて語っているではないか。
 各新聞社がそれぞれの判断の下で言論を展開するのはいい。それはとても健全なことだと思う。
 けれど大人の「子ども」に対する思い入れの強さが、知らず知らずのうちに、子どもに向かう言葉や文化を規制し始めるのは、どうだろう。子どもののどに骨が刺さるのが怖いからといって、いつまでも骨を取り除いてあげるわけにはいかない。ならば、大人にできるのは、魚には骨があることを伝え、上手に食べる方法を見せ、万が一刺さったときの対処法を教えるだけなのだ。
 後は…、自分でやる。
西日本新聞1996,11,17