コドモの切り札

(52)
おチンチンと児童文学

甲木 善久
           
         
         
         
         
         
         
     
 近代教育の目的は「野蛮」なコドモを「理性」的な大人へと導くことにある。だから、そこでは「努力」が貴ばれ、「自立」が促され、「成長」を善とし、「平等」が前提される。
 で、そうした近代教育と仲良くお手々つないでやってきた子どもの本(大人が子どもに読ませようとする本)には、当然、幾つかの暗黙のタブーが発生する。それらはすべて前述の近代的テーゼに背くとされるものだが、例えば、努力しないで成功する話は好まれないし、もちろん、SEXの話題など御法度である。
 だが、そうした状況にありながら、果敢にもそこに斬り込んでいった作品が、ひこ・田中『ごめん』(偕成社)である。この作品、十二歳前後の少年の頭の中で「おチンチン」がどのように気にされだし、どのように増殖していくか、ということが克明に描かれる。しかも、それがウダウダと説明的になされるのではなく、「おチンチン、おチンチン…」と物語のそこかしこに書きまくるという単刀直入・単純明快な表現によっており、そのわかりやすさに思わず笑ってしまう。
 森鴎外を初めとして、イタ・セクスアリスというのは、自己認識・自己確立を描く近代文学の中のひとつの表現形式になっているが、これはつまり、「理性」的に自我を見詰めるのみならず、自らのセクシュアリティも含めて、アイデンティティを確認するということなのだと思う。
 とするなら、この『ごめん』、我が国の児童文学(子ども向けの本)の中で初めて、少年のアイデンティティについて正面から取り組んだ記念すべき作品ということになる。
 『ごめん』の主人公の年齢層が、次に自分のセクシュアリティとどう付き合って行くことになるのかは、もちろん、先週の『河よりも長くゆるやかに』を読んでもらえばわかるのだが、その辺のことを児童文学がフォローするのは、やっぱりムリなのかなァ?
西日本新聞1997.08.28