一 明治二五年一月と九月における言説編成

 1「立身出世」という問題

 それでは、最初に「立身出世」が開示する歴史性を確認しておこう。たとえば、前田愛は「立身出世をめざす青年達を取り上げた小説は明治十七年の『世路日記』から、明治二三年の『帰省』にいたって一つのサイクルを終えた」(9)と指摘している。このサイクルとは「『学問のすゝめ』『西国立志編』が刊行された明治三〜九年を基準にとるならば、兄達とは此の時点ですでに青年期に達していた世代であり、弟達とは明治五年の新学制を通過した最初の世代」(前田、注9)に到る期間を指す。畠山は前田に依拠し、小波を「弟達の世代」であると指摘している。その一方で、前田自身が「『頴才新誌』の世代の成長とほぼ歩みをともにし」たと言う「弟達の世代」に、明治一O年代の「勉強立身」の時代を見、後の「学歴主義」の前史として論じるのは竹内洋である(10)。彼によれば「勉強立身」は「学問は身を立てるの財本ともいふべきもの」という「被仰出書」(明治五年)を理念とし、士族以外の階層には不透明なものであった。裏を返せば、前田などが言う「立身出世主義」は士族階級以外には内面化されていなかった。なお、「初等教育が行きわたり、士族以外の人たち―「平民」た ちも教育の価値に気づくようにな」るのは明治三O年代である(天野)。よって、明治二三年前後に「一つのサイクルを終えた」立身出世主義は、その後の就学率の上昇や「受験生の誕生」(竹内)を考慮すれば、消滅したのではなく、より広範な層に内面化される後期段階へと断続的に移行したと言えよう。
 よって、問われるべきは、特権階層のみならず、そのような条件を満たさない階層が「主体的」にかかわっていく後期への「移行」そのものが孕む問題である。少なくとも明治二七年の日清戦争を経験するまでは「日本国家」という地理的形象ないし「日本国民」という形象は十全には規範として内面化されていなかった(11)。即ち、明治二五年の言説空間とは、「日本国民」として自らを「主体的」に「日本国家」に直結させるような「立身出世」というコードの前期から後期への断続的な形成途上にあり、臣民/国民というネーションの形成が学童/児童として実現され始めていく時代であった。

 2 小学校祝日大祭日儀式・御真影の小学校への下付
 佐藤秀夫によれば、「明治一O年代を通じて、生徒の参加を義務づける学校行事としての祝祭日儀式は、まだ一般に施行されていなかった」(12)。それが初代文相森有礼の内命により、教育勅語発布直前の明治二三年一O月七日に小学校令が公布、翌年六月一七日省令第四号にて「小学校祝日大祭日儀式規定」が制定される。その基本型は「御真影拝礼、両陛下の万歳奉祝、勅語奉読、校長訓話、式歌斉唱」で、「一月一日には御真影拝礼・万歳奉祝、式歌斉唱を、それぞれ行なうこと」と規定されていた(佐藤)。『当世少年気質』を代表する「人は外形より内心」では、まさしく明治二五年元旦の祝日大祭日儀式が言表化されていることは注目に値する。
 このように組み合わされた身体技法に政治の技術を指摘するのは、牧原憲夫である。「聴覚・身体感覚・視覚を直接にとらえる<君が代・万歳・御真影>の三点セットが熱狂的な祝祭空間のなかで一挙に出現し、多くの民衆がその体験を共有し」「共感による想像の共同体」が現出するというのだ(13)。身体技法というミクロなレベルで、ネーション・ステイトが形成される問題は、『暑中休暇』の「校長の演説」に如実に示されている。
 そのような身体技法の中でも特に「視覚」に関する政治技術は、「御真影」というシステムに顕著だ。多木浩二によれば(14)、「巡幸は明治十年代中には行われるが、二十年代にはいると、もう行われていない。そのかわりに、ちょうど二十年代のはじめから「御真影」が全国の小学校へ下付されはじめ」る。それまで民衆の目に触れることのなかった天皇の巡幸という事態は、民衆が「日本国」を心象風景として領有する契機であり、天皇を「日本国」という「想像の共同体」(アンダーソン)の代表として表象することを可能とした。しかし、この段階では民衆は所詮、見つめられるobjectに過ぎず、「主体的」に近代国家日本に寄与する「国民」とは言い難い。そこで登場したのが「御真影」である。

  充分な時間をかけた巡幸の儀式が全国的に地ならしをした結果、天皇が現前するかし  ないかにかかわらず、儀礼的視線が中心に集まる空間関係だけは社会に残った。だからその不在の中心に天皇の写真があれば、写真は生ま身の天皇同様に機能するようになる。もはや天皇自身が見える権力としてその場に現前している必要はなくなった。                                (多木、八三頁)
 
 御真影の小学校への下付を通じて、天皇は「不在の中心」として民衆を掌握する超越者Subjectとなり、御真影を「見つめる」民衆は、能動的な主体subjectである「国民」として自らを画定すると同時に、遍在化した御真影=天皇Subjectに「平等」に「見られ」従属する「臣民」subjectとなっていった。「従属する主体」という臣民/国民こそが「《人間》とよばれる先験的=経験的二重体」(フーコー、三三八頁)に他ならない(15)。
 以上の点は、御真影の下付手続きにも指摘できる。それは、強制でなく、民衆の自発的な申請に対して優等と「認可」した小学校のみに恩賜するものであった。この「自発的な申請」に優等と「認可」するシステムは、学校間の序列化をもたらす。やがて、民衆からの「要望」により、政府は、明治二五年五月と六月以降、地方長官の許可を得た限りではあるが、「複写」を認めざるを得なくなるのである(佐藤)。 
 これまでの論点をまとめておこう。祝日大祭日儀式が全国の小学校で義務付けられるのが明治二四年六月一七日、よって『当世少年気質』刊行の明治二五年一月は、小学校祝日大祭日儀式規定制定後、初の新年であった。また、教育勅語が比較的速やかに浸透したのに対し、小学校祝日大祭日儀式に欠かすことのできない御真影の拝礼が全国レベルで浸透を見せるのは、その複写が認められた明治二五年六月以降である。御真影は教育勅語の様な強制でなく、民衆自らの自発的な申請に対する認可の形式をとった。よって『当世少年気質』から『暑中休暇』までの間に、身体技法のレベルにまで及ぶ権力の網の目が急速に浸透していくのみならず、被支配者たる民衆自らが「主体的」に関与していく基盤が形成されつつあったと言える。教育勅語が臣民政策の重大な指標であることは確かだが、体制の抑圧性のみに着目することは、民衆自らが「主体的」にミクロなレベルにおいて関与していく権力のメカニズムを隠蔽してしまう危険性がある。「立身出世」というコードにおいても同様で、士族階級の従来のそれを受皿にしつつ、新たに形成ないし編成されつつあったネーションの形成過程として理解されな くてはならないだろう。

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