「善悪の彼岸」に対する共振が示す欲望について議論する前に、作中で「善悪の彼岸」がどのように位置付けられているのかを明らかにしておこう。われわれは、「自分の中の暗闇の部分で、現実原則とは違ったところで自我を支えるしかない」[柳1998c]という発言に着目する。「善悪の彼岸」が「現実原則とは違ったところで自我を支える」とは、一体どういうことなのだろうか。
 柳は『読書人』のインタヴューで、「父親殺しというのは、少年の心の闇を作り出したものが、社会であって、家族や学校いろいろなものであるわけだから、その象徴として父親を据えたということです」と述べている。「父親」とは、あくまで家父長制社会の象徴であることが窺える。次に「日本刀」であるが、大塚英志[1998:278p]によれば、「ナイフ」は少年にとっての「移行対象」(ウイニコット)であるらしい。大塚[1999:314p]は次のように説明している。「心理学の領域では「移行対象」は幼児のみの現象だが、評論家であるぼくはこれを拡大解釈して、人が社会化の過程で内的現実と外的現実を関連させるための媒介物といった意味に用い」、「神戸連続児童殺傷事件の犯人とされる十四歳の少年の創り出した「バモイドオキ神」もまた「移行対象」の一例として理解できる」とする。大塚の主張からは逸脱するが、一般に枕や人形などの「親密なもの」に仮託されることが多い「移行対象」が「バタフライナイフ」や「バモイドオキ神」のような「不気味なもの」として立ち現れるところに、家父長制社会の機能不全を指摘することも可能だろう。近代において家父長制社会は資本主義と して実現された訳だが、『ゴールドラッシュ』の父親が殺害されたのは、彼が資本主義の権化でありながら家父長的ではなかった点に求められることになる。たとえば、父親が姉を叱責する場面では、次のように評されている。「殴るなり蹴るなりして決着させればいいのに、と少年はあくびを噛み殺した。暴力に華を添えるためにしゃべっているとしたらやはりこの男はバカだ、もしひとことも口をきかずに殴りつけて地下に引きかえせばすこしは尊敬できたかもしれない。いったい言葉になんの価値があるのか」[65p]。しかし、上記の独白が後期資本主義社会における社会化のための父性モデルの不在を意味するだけならば、「移行対象」が「不気味なもの」として立ち現れてくる事態がいまいち理解できない。むしろ、着目すべきは「いったい言葉になんの価値があるのか」という一文である。そうでないと、柳が共振して見せた「善悪の彼岸」の正確な位相が看過されてしまうだろう。
 ところで、皮肉なことに、少年は父親を殺害することで、逆説的な事態に直面する。殺害後の少年は、パチンコ店の経営や父親の愛人とのセックスなど、それこそ父親の行動をそのままに反復している。必ずしも殺害の動機にはならないにせよ、あれほど軽蔑していた父親の行動を反復するのは何故なのか。告白の直前、少年は地下室で響子をレイプしている最中、「床下であおむけになっている死体が自分を見上げている気がする」[279p]。「首をひねるとあの男がベッドの端に座り、熟し切ったトマトのような赤いかたまりと化した顔のかつては口だった穴からごぼごぼと肉汁のような、プランクトンが異常繁殖した海水のような液体をあふれださせている」[279p]といった幻想を体験していたことは興味深い。そして少年は、「死せる父」から逃れようと必死で響子に挿入する。以下は、殺害を告白した直後の場面である。

 鞘から抜いた瞬間刃に閃光が走り、少年は悪霊に向かって刀をかまえた。(略)挑発するように現れては消える怨霊に刀をふりおろすと、床下からなにかが煮えたぎる音が這い上がってきた。[284―285p]

 これは、罪責感に由来する幻想体験として理解されるかも知れない。「床下からなにかが煮えたぎる音」とは、「死せる父」の声であろう。その声は、「かつては口だった穴から」噴出し続ける。ここで留意されたいのは、溢れ出る死者の声を塞ぐために、「ペニス」および「刀」が用いられている点である。柳[1998b:208p]は、「女子生徒たちはやろうという気にさえなれば年上の男たちと簡単にセックス出来る。しかし中学生男子はどのようにして性衝動をコントロールすればいいか途方に暮れているのではないか。ナイフがペニスを代行しているなどと言うつもりはないが、警官を殺してまでピストルを奪いたかったと言う中学生の意識下にどれほどの性衝動があったのかを考えてみるべきだ」と、(消極的にだが)「ナイフ」が「ペニス」を代行している可能性を指摘していた。
 「ペニス」の象徴性に着目すれば、「ペニス」とは社会化するにあたって内面化が不可欠な「法」の象徴表現として理解されるかも知れない。「法」の体現者としての「父」(必ずしも父親であるとは限らない)との関係性の形成に躓いたために、少年は思春期になって遅ればせながら去勢不安に陥り、「ペニス」の代理物としての「刀」で「父親殺し」を遂行してしまった…。少年が父親の行動を強迫的なまでに反復するのは、実現されることがなかった父親との関係性に固着してしまっているからであろう。しかし、少年の自我形成を超自我との関係のみで解釈するだけでは、移行対象が「善悪の彼岸」から「不気味なもの」として立ち現れてくる理由をうまく説明できない。そこで考慮されるべきは、フロイトの第二局所論における「超自我」の位相である。曰く、「超自我はつねにエスに近い場所にあり、自我に対してエスの代理人として行動することができる」[フロイト1923=1996:257p]。「エスEs」(英語のItに相当)は、第一局所論に言う「無意識」にほぼ相当する。超自我がエスの代理人として振る舞うというのは、超自我が自我を崩壊させる程に過剰に道徳的だからであり(自殺するメラ ンコリー患者の例などを見よ)、無道徳なエスを源泉としているものと見做されたからである(詳しくは、石澤誠一[1996,367―433p]参照)。柳は時折、「自分の中の暗闇の部分で、現実原則とは違ったところで自我を支えるしかない」のように、「現実原則」というフロイトの用語を使っていた。「現実原則」とは、不快な事態に直面した際に、「快感原則」の最終的な達成のために、迂回されて代行される二次的な機制である。しかし、快感原則では、(事後的に生きられた)心的外傷の想起を強迫的なまでに反復するような事態を説明することができない。そこでフロイトは、「快感原則の彼岸」[1920=1996]を設定せざるを得なくなり、先に指摘した第二局所論を提示することになった。いずれにせよ、超自我がエスに備給されるという第二局所論は、『ゴールドラッシュ』を解釈する枠組として最適であるように思われる。先に引用した箇所等で、少年が執拗に死者の声(響き)に悩まされるのは、「法」に律せられた言語的秩序に、エスの過剰なエネルギーが超自我として再来して「穴」から噴出してきたからである。父親は死ぬことで、「猥褻な超自我の声」として少年に現れたのだと言える。 そこで少年は、言語的秩序に穿たれた「穴」から噴出してくる「死せる父」(猥褻な超自我の声)を塞ぐために、「ペニス」および「刀」を使用したことは先に見た通りだ。
 このように考えれば、少年が一度ならず二度にわたって、「父」(父親と「死せる父」)を殺さなければならなかった理由が理解できる(酒鬼薔薇の犯行声明文の末尾に記された「ボクには一人の人間を二度殺す能力が備わっている」という一文が連想される)。一度目の殺害は、彼の目的(猥褻な超自我の声を塞ぐこと)からすればアクシデントないしは誤解から生じたものであるからだ。たとえば、猥褻な超自我の声は、父親を殺す前から少年には聞こえていた。泥酔して眠り込んだ父親の歯ぎしりを聞く場面がそれである。

 少年は幸樹とは異なる意味で音に敏感だった。異常な音は凶事の予言か福音のように 響きわたる。言葉が意味を奪われれば音だけが残り、音は言葉を奪いかえそうとしてきしむのだ、少年の鼓膜は常にきしむ音でふるえていた。[78p]

 先に引用した「言葉になんの価値があるのか」という台詞に立ち戻ろう。これは、言葉の「意味」に対する単なる嫌悪感ではない。むしろ、言葉の残響に共振するが故の結果である。「意味」は常に「響き」に対して遅延するので、言葉の「意味」以上に「響き」に共振してしまう少年にとって、「意味」は二次的な問題でしかない。たとえば、宮台[1997:241―255p]は、酒鬼薔薇のコミュニケーションの仕方には、「言葉の意味」に反応するというよりも、言語的事象を物理音あるいはコンテキストに還元する傾向があることを指摘した。その限りで、『ゴールドラッシュ』の少年との類似性が指摘されるかも知れないが、宮台においてはそれが防衛機制として処理されている点には注意が要される。先述したように『ゴールドラッシュ』の少年にとっては、「響き」に共振しないようにすることこそが防衛機制であったからである(「穴」は「ペニス」で塞がれねばならない)。
 また、告白する場面で、問い詰める響子に少年は殺意を抱いたが、それは響子が父親と同じく、「意味」に執着していたからであるのは言うまでもない。したがって、少年は自分が父親を殺した理由あるいは言い訳を響子に伝えることはできない。 

 自分が発しようとしている言葉の内実ははっきりとしているのに言葉そのものが浮か ばないことがもどかしく、少年はいやいやをする幼児のように首をふりつづけた。言葉を思い出そうとして、ほら、わかるだろ、おれがいいたいこと、なんだっけ、ほら、とあせればあせるほど言葉は遠のいていく。[308p]

 自分自身にとってでさえ、言葉は「意味」以前の「響き」でしかないのである。たしかに、少年は「あぁぁ しんしる あああ しんしるよ」[310p]という「うめき声」を発した。「「信じるの?」響子が顔を両手ではさむと、顎をわずかに引いた少年の目から涙があふれた」[310p]。しかし、前者は後者に還元され尽くされるものではない。柳もまた、「結末部の少年と響子との対話で、「信じる」ではなくて、「しんしる」と少年が呻いたのは、響子を信じ切ったのではないという気がしています。自首したシーンは書いてないわけですから、実際自首したかどうかもはっきりはわからないんですよ」[柳1999:182p]と発言している。最後まで、少年が言語的秩序の世界においてコミュニケーションができなかった点は強調されてよい。しかし一方で、先の場面では、「歯ぎしり」というノイズに意味を読み取ろうとしていた(「なにかをしたいのではなく歯ぎしりの意味を知りたかったのだ」[78p])。つまり、少年の困難とは、エスの代理人たる猥褻な超自我に対する共振を抑圧できないがための、(自己了解を含めた)コミュニケーションの不可能性に由来したのである。「善悪の彼岸」とは 、言語的秩序を剰余するエスが「猥褻な超自我の声」として立ち現れてくる地平(「穴」)に他ならない。そこで次に議論されるのは、コミュニケーションの不可能性の問題である。

1 2 3 4 5