じどうぶんがくひょうろん

2000/05/25


           
         
     
【絵本】

『マフィン・ピクドゥームの冒険1・マフィンと金庫番』(ポール・ウォーレン 新井雅代:訳 ぶんけい 1996/1999)
「はるかかなた、海をへだて、沼地と砂漠、切り立った山やまをこえたところに『三つの里』とよばれる、忘れられたゆたかな土地がひろがっている。
 そこには、冷酷な独裁者マルシバー卿の迫害をのがれてきた妖精、ギブリンたちが平和にくらしている。ギブリンたちの、ただちほつのなやみの種は、欲ばりでらんぼうもののウルグたちだった。
 ある日、ギブリンの少年マフィン・ピクドゥームの家に、ウルグたちがおしかけてきた・・・。」
 はい、表紙に書かれていたあらすじをそのまま引用しました。それは、この物語がいかにもこれからひろがる大きな冒険に胸躍らせるものであるかをうまく伝えているからです。
 RPGファンなら、お約束通りのスタートでしょう。
 しかし、この絵本、確かに胸躍らせてしまう質の高さがあります。キャラクターデザインがしっかりしているし、今回のような小さな冒険(エピソード1ですね)にも主人公の機転と勇気がちゃんと描かれている。
 続編が楽しみです。

『おばけがこわい とこちゃん』(田中清代 ビリケン出版 2000)
 おばけが怖くて、夜トイレにいけず、おねしょが治らないことちゃん。
 ある日、おばけの縫いぐるみを拾って、そいつが大好きになる。
 さて、とこちゃんは、夜トイレにいけるようになるでしょうか?
 なんですが、もちろん、オチはご想像の通り。でも、絵の力も手伝ってか、そんなに脱力感ない仕上がり。
 ただ、気になるのは、トイレにはやっぱりおばけがいて、そいつを追い出すことで解決する点。これを読む、夜のトイレが怖い子どもたちは、ますます怖くなってしまうのではなかろうか?
 余計な心配ですかね。

『カストールのたのしいまいにち・まめをそだてよう!』(ラーシュ・クリンティング:作 とやま まり:訳 偕成社 1997/2000)
 シリーズ第5作。今回はタイトル通り、ビーバーのカストールが豆を育てる過程が描かれていきます。といってもこのシリーズ、別に科学絵本ではありません。あくまでカストールの日常生活の一側面という方法で、それを伝えるのです。そこがいい。
 窓辺の花が枯れてしまってがっかりのカストール。今度はどんな花を・・・、と帰ってきたフリッペの買い物袋からまめが転がり落ちる。
「そうだ! これだって、そだつんだ!」。
 決してユニークではないけれど、シンプルで切れのいい絵は、豆を育てるための材料を表示した画面も、カストールたちのドラマ部分の画面も均等に描けていて、安定感があります。好きだな。

『白い月の笑う夜』(仁科幸子 ぶんけい 1999)
 小さな火山島。赤、青、黒、黄、白と五色のキツネが住んでいます。なぜか彼らは山の頂上から流れる五つの川でさえぎられていて行き来も大変。満月の夜だけ五組のキツネは頂上に集まって五日五晩、交流をする。さて、今回も五組のキツネは集まって・・・。
 ストーリーそのものにさして新しさも驚きもありません。軽い民話風に収まるところに収まっています。それよりも楽しむべきは、仁科の勢いのあるペン使いと彩色の妙。この画家の挿絵を欲しい作家は多いことでしょう。でも、それに負けない物語が必要ですけどね。
 この絵本の場合も仁科の物語は仁科の絵に負けています。

『あくび』(中川ひろたか:文 飯野和弘:絵 ぶんけい 1999)
 もう、いきなり表紙のあくびが素晴らしい! それが好きであろうと嫌いであろうと、「な、なんだ」と一瞬のけぞり、その後、嫌いな方は逃げ出し、はまった人は表紙を繰るでしょう。
 ストーリーはしごくシンプル。「はじめに かばが あくびをしたよ」から始まり、次々とあくびの連鎖。中川は飯野が表現するであろう絵に賭けて、または信じて、よけいな言葉はさしはさまない。終盤、連鎖はうまくある地点に落ちていく。

『飛びアンリー』(儀間比呂志 海風社 2000)
 南島叢書の81巻目として出版されたこの絵本は、ライト兄弟より100年も前に空を飛んだ少年がいたという沖縄の言い伝えを描いています。
 でも、ライト兄弟より100年も前に空を飛んだ、という点への誇りをあんまり強調しないほうがいいと思う。
 それより、アンリーの飛ぶことへの限りない情熱・欲望を楽しむほうがいい。その上で、さっきの誇りも感じることができればいい。
 その意味で、儀間の絵は安定し過ぎている。これは間違いなく優れた木版画家儀間の絵なのだけれど、ストーリーと絵が火花を散らしてはいず、かといってどちらながどちらかをうまく補完しているわけでもない。

【創作】
『きっと、鳥日和1970』(小沢真理子:作 ぶんけい 2000)
 96年に「ぶんけい創作児童文学賞」を受賞した作品。
 タイトル通り70年の少女の物語。文房具店の娘繭子6年生。店に、ハルオさんが雇われる。字もあまり書けない、計算もできない(それは学校に行けなかったからなのだけど)、ドンくさいハルオさんになじめない繭子。同級生で親友の志保はまもなく引っ越していくという。なにやら、つまらない日々。
 物語は、時代を背景に描きつつ、12才の女の子の気分を書き留めていきます。何故70年かといえば、やはりそれは、作者の年齢からくるのでしょう。自分の核をまず物語にしてみる。もちろん自伝的にではなく、あくまでフィクションとして。過不足なく、なめらかに語りは進んでいっています。うまい。ただ、それが何故、今書かれたのかの辺り、もう少し書き込んでもよかった気がします。例えばもっとその時代に密着することで、今の子ども読者にインパクトある物語になる可能性。ちょうど一世代前ですからね。親の物語。
 挿し絵が宇野さんなのも、雰囲気的によし。

『時間だよ、アンドルー』(メアリー・ダウンニング・ハーン:作 田中薫子:訳 徳間書店 1994/2000)
 両親が仕事で海外に行くので、親戚の家に預けられたドルー。そこにはへんくつなおじいさんもいて、ドルーを観たとたん怒り出す。まだいたのかと。何のことか解らないドルーはある時、自分とそっくりのアンドルーの写真を発見。彼は1910年に死んだ遠い親戚。屋根裏で遊んでいたドルーはアンドルーと出会う。瀕死の彼は、でも現代の医学なら助けることができる!
 こうしてアンドルーを救うべく、ドルーは彼と入れ替わり、1910年の飛ぶのだが・・・。
 タイムトラベラーものですが、それがとんでもない昔や未来ならともかく、この物語のような設定では、その時代の人がまだ生きている可能性は当然あり、そこにどうせつなさを描くかもポイント。
 現代から戻りたくないアンドルーと、現代の戻りたいドルー。ドラマ展開がテンポ良く、読むという楽しみを満足させてくれます。

『カッパのぬけがら』(なかがわちひろ 理論社 2000)
 『ぼくにはしっぽがあったらしい』に続く、中川の「認識」絵物語。などと書くと難しい話みたいですが、そうでなく、「ぼく」が自分に気づいていく物語。
 夏の日、ナマズの大王を釣ろうとしていたゲンタはカッパの網に捕まってしまう。捕まえたカッパはなにやら、家来と殿様になって一人芝居を始めます。かれはもうこの池最後の一匹なのです。そこで、ゲンタはカッパの抜け殻を着せられ、臨時カッパとなることに。
 こうして友達になったゲンタとカッパ。二人の夏の日々。
 次の年、ゲンタはまたカッパと遊ぼうと・・・。
 ホノボノボケとでもいいたいような、中川ワールドの新しい側面。
「私も、カッパの抜け殻が欲しい!」とメールしたら、中川さんの返事は、「え、ひこさんて、すでに前にカッパじゃなかったんだっけ?」
 はい、カッパでした。すんません。

『遠い約束』(ひろはたえりこ 小峰書店 1999)
 暴走族上がりの男と結婚した娘。孫ができても会おうとしなかったこと。
 取り返すことのできない時間。を、バーバの心は時間をさかのぼり、埋めていこうとします。
 この物語では、二つの時間が平行して流れていますが、不思議と不自然感はありません。
 悔いを抱えたバーバと、それを吹っ切っているバーバ。二人のバーバが登場するわけですが、そこに違和感はなし。
 それがどうしてかは、まだわからないのですが。ちょっと気になります。

『車のいろは空のいろ3・星のタクシー』(あまんきみこ:作 北田卓史:絵 ポプラ社 2000)
 もうなーんにも言う必要なし。あの空いろのタクシーの運転手松井さんが帰ってきました。
 今だときっと癒しの物語系に入れられるんでしょうが、ここにあるのは、フシギへの愛おしさ。
 私は好きです。

『海と風のマーチ』(堀直子 小峰書店 1999)
 母親が再婚した麻子。お相手にもみずきという女の子がいて、麻子はお姉さんが出来たと喜ぶ。しかし、みずきは、父が再婚したことはともかく、麻子やその母親と自分は関係がないと思っている。母親が取材のため中国に長期にでかけた夏休み。「他人」の義父と冷たい義姉に耐えきれず、麻子は母方の祖父母はいる長崎に家出同然に向かうのだが・・。
 物語は、母、義父、義姉、そして麻子、それぞれの事情と想いを絡めながら、母親の青春時代の悲しいエピソードの源でもある、「海戦」(これは読んでね)の再開というラストに向かって突き進む。
 『海と風のマーチ』とのタイトルはちとどうかと思いますが、物語自体の出来はいい。