156

       
【絵本】
『ほんなんてだいきらい!』(バーバラ・ボットナー:ぶん マイケル・エンバリー:え さんべりつこ:やく 主婦の友社 2011)
 まず、「としょしつのせんせい」が学校にいるのがうらやましい。
 そのせんせいのブルックスさんは、本の虫。本を読むのにコスプレまでしちゃうくらいにね。
 あたしは、本は嫌いだし、そんなせんせいもちょっとうざい。
 なのに、読書週間ってことで、本を読むことに。
 最悪だあ!
 と、子どもの気持ちを正直に描いていてすてきです。
 幸いあたしは、お気に入りの本を見つけることができますが、できない子がいてもいいのです。
 本好きの人、本おたくの人は、基本的に「本」が好きなので、その最低条件の上に、お気に入りの本を探します。でも、「本」を嫌いな子もいます。その場合のアプローチはおのずと違ってくるはずです。
 司書の場合は、自分が本を好きだというのは、他から見れば奇妙であり、ましてやそのことを仕事にしているのは、とんでもない変なことなのを意識しておきたいですね。
 そこもこの絵本はうまく描いていますよ。(ひこ・田中)

『しんとしずかな、ほん』(デボラ・アンダーウッド:文 レナータ・リウスカ:絵 江國香織:訳 光村教育図書 2011)
 しずかさには色々なシーンがあります。
 満たされたしずかさ、不安なしずかさ、待ち受けるしずかさ、ためらいのしずかさ、落ち着きのしずかさ。
 子どもも大人も経験したことのあるしずかさがいっぱいです。
 この絵本はしずかさに焦点を当てて、日常世界を奥深く描いていきます。
 そうすることで、世界の手触りを確かなものにしてくれるのです。
 レナータ・リウスカはそれを、しずかな色合いで、穏やかに伝えています。(ひこ・田中)

『わたし、ぜんぜん かわいくない』(クリード・K・ヂュボア:作・絵 小川糸:訳 ポプラ社 2011)
 タイトル通りに思い込んでいる女の子のお話です。
 その心の細かな動きを、デュボアは丁寧に、丁寧に描いていきます。
 ほんとうに、優しく、包み込みながら。
 外見がかわいいかかわいくないか、美しいかうつくしくないか。もちろんその基準は時代や文化によって変わりますが、いつの時代であっても、かわいいや美しいの方が有利であるのは間違いありません。
 かわいいや美しいの方が持てるのです。
 それを、いくら内面が大事だと言っても、実際それで落ち込んでいる子どもには説得力がありません。嘘ではないにしろ事実ではありませんから。
 その辺りもこの作品は描いています。
 まあ、落ち着くところに落ち着きはしますが、それは彼女が父親を信頼しているからなんですね。
 そこ外さないように読みたいです。(ひこ・田中)

『キスの時間』(アントワーヌ・ギロペ:作 落合恵子:訳 クレヨンハウス 2011)
 ああ、いいタイトルだ。
 親子や恋人や友達や、色んな生き物たちがキスしています。
 もちろんだからそれは、親子や男女の性愛だけを称揚してなんかいません。キスができるすべての生き物にキス。
 もちろんだからそれは、キスが恥ずかしいならそっと指先が触れるだけでもいいのです。
 もちろんだからそれは、心の通い合いが持続するかなんて、それはあとの話。
もちろんだからそれは、この瞬間のキスの心地よさをどうぞってことですよ。(ひこ・田中)

『プルガサリ』(キム・ジュンチョル:再話 イ・ヒョンジン:絵 ピョン・キジャ:訳 岩崎書店 2011)
 おばあさんの体のアカを丸めたら、プルガサリという鉄を食べる怪物に。そいつは鍋に釜に、鍬に鎌に、鐘に、何でも食べてどんどん大きくなっていく。
 これでは生きていけませぬ。
役人が火で焼き殺そうとするが、プルガサリはどんどん大きくなっていく。
眠っていたおばあさん、目が覚め事態を知って、自分のアカを叱りつけまする。
色んな寓意を読み取れるでしょうが、そんなことはいいや。愉快な話と、力強い絵があれば。
ちなみに北朝鮮に拉致された韓国の申相玉監督は金正日プロデュースで撮った『プルガサリ~伝説の大怪獣』というのもございます。(ひこ・田中)

『ちいさいおきゃくさん』(石井礼子 「こどものとも年少版」2011・02 福音館書店)
 リスが家にはいってきて、猫がそれを探して家の中を巡っていく。
 という設定で石井は、部屋たちの「お客様用」ではない本当に日常の素顔を描いていきます。懐かしい時代の部屋たちですから、今の子どもにはファンタジーかもしれません。
 モノクロを採用して、読者に色つけを任せた石井の姿に共感します。(ひこ・田中)

『クリスマスツリーの12か月』(エレン・ブライアン・オベット:文 アン・ハンター:絵 湯本香樹実:訳 講談社 2010)
 思わず、あ、と気づかされた絵本。そうですよね。クリスマスツリーにも一年はある。
 ツリー農園での12か月の風景を描いています。
 こういう見方を知ることで、視野の拡がりの大切さがわかります。(ひこ・田中)

『いのちのおくりもの バクランジャンのうた』(こんどうなつみ リーブル 2010)
 ギニアのマリンケ族のコロは子どもを授かりたい。子どもを届けるという川に住む鳥、バクランジャンに祈るのだけれど、なかなか叶わず数年が過ぎる。ある日バクランジャンが現れお告げが。ヤギの皮で太鼓を作れと言う。
 さっそく、一匹のヤギを殺して皮をなめし太鼓を作ると・・・・・・。
 こんどうの創作ですが昔話的力強さがあり見事です。
 切り絵に、こんどうが作った様々な渋めの柄の紙を、マンガのスクリーントーンのように貼り込んで、深味と落ち着きをだしています。すてき。(ひこ・田中)

『とらはらパーティー』(シン・トングン:作・絵 ユン・ヘジョン:訳 岩崎書店 2011)
 ある日男が歩いていたら大きな洞窟が迫ってきて、中へ。実は大きな、大きなトラの腹の中。困っていると、次から次へと色んな土地の人が入ってくる。
 さてどうしよう。その前におなかがすいたってんで、胃壁を切り取ります。トラだからトラの形にね。
 それで火をおこして焼いて食べると、おいしいの。
 だから今度は牛がいいから、牛の形。次は羊と、人間の欲望というやつは・・・。
 たまらなくなって大きなトラは思わずおしりから彼らを放りだし死んでしまいましたとさ。
 話もいいけど、枠を自由にアレンジした絵も愉快、愉快。力があります。(ひこ・田中)

『あらうよバシャザブーン』(K.チュコフスキー:作 G.アレクサンドロヴァ:絵 田中潔:訳 偕成社 2011)
 男の子の部屋から突然、色んなものが逃げ出します。
 毛布、シーツ、お皿に、服。クッキーまで!
 なんで、なんで。
 そこに現れた洗面台バシャザブーン大王様。おまえが汚いからだとのお叱りです。
 洗面台から歯ブラシまでが、男の子を追いかけます。
 もちろん男の子は逃げる、逃げる。
 チュコフスキーの物語による、しつけ絵本ということにはなるのでしょうが、アレクサンドロヴァの愉快な絵と相まって、楽しい仕上がり。
 逃げ切って欲しいなあと思ってしまうけど、それはやっぱり無理みたいね。(ひこ・田中)

『もぐらくんとテレビ』(ハナ・ドスコチロヴァー:作 ズデネック・ミレル:絵 木村有子:訳 偕成社 2011)
 もぐらくんは、1957年から親しまれている、チェコアニメの国民的キャラクター。『クルテク もぐらくんと森の仲間たち』というシリーズが日本でもDVDで出ています。
今作では、カタツムリくんがテレビを持ってきて、みんながそれに夢中になってしまうというお話。みんなの仲に太陽や月まで入っていておもしろいです。
TVはだめというのではなく、見過ぎはだめよ、ですから良い案配です。(ひこ・田中)

『どれどれどこどこ』(中村牧江:ぶん 林建造:え ひさかたチャイルド 2010)
 様々な姿の人の切り絵が色んな入りで置かれている見開き。その中にたった一つだけ同じ姿があって、それを探す趣向。
 とても単純なので、これでは見開き一枚で十分で、それ以上は飽きるかと思えばさにあらず。
 まず、色が違うと同じ姿形でもこんなに見つけにくいとは。
 人間の過認識の罠(だまし絵に嵌るとか)に気づかされ、意地になっていきます。
 しかもだんだん人の数が増えていくので、もう夢中。(ひこ・田中)

『ようこそおばけパーティーへ』(おぼまこと:作・絵 ひさかたチャイルド 2010)
 人間に嫌われ、怖がられるおばけたち。
 でも一人の男の子を、勇気を出して接触したおばけが。と、彼は簡単に仲良くなってくれます。
 おばけたちは大喜び。彼のおパーティーに招かれますが、親にはきっとうけいれてもらえない。どうしよう?
 すると、男の子は・・・・・・。
 幸せな結末。(ひこ・田中)

『はるがきた』(ジーン・オン:文 マーガレット・ブロイ・グレアム:絵 こみやゆう:訳 主婦の友社 2011)
『どろんこハリー』のコンビによる55年前の絵本。
なかなか春が来ないので、子どもが春を町中に描く提案。市長も賛成して、みんなでペンキで町中に春を描きます。
4色でとてもすてきな春のできあがり!
子どもの願いが大人に通じるという(幻想)時代の作品ですが、それはやはり心地良い。
最後には雨がすべてを流し、本当の春が訪れます。
 仮想から現実への受け渡しが見事ですね。(ひこ・田中)

『こざる10ぴきがんばる!』(マイケル・グレイニエツ ポプラ社 2010)
 マイケル・グレイニエツによる、縦開き絵本です。
 上から吊されたようなバナナ。一匹では取れない。だから二匹、でも、取れない。
 という風にどんどん増えていきます。そして最後は!
 でも、このバナナ、なぜ上にあるのか結局わかりません。
 わからないところもおもしろい。(ひこ・田中)

『どうぶつどうしてどんどんどんと』(マイケル・フォアマン:さく アーサー・ビナード:やく 岩崎書店 2011)
 夜、子どもが窓から外を覗いていると、キリン、パンダ、トナカイ、パンダ、色んな動物が次々やってきて大行進。
 子どももいっしょに連れて行ってくれる。
 公園で水遊び。
 でも、世界では動物たちの居場所がどんどんなくなっている。こんなに楽しい仲間なのに!
 といった、環境問題も訴える絵本。
 ただ、ケストナーの『動物会議』のような擬人化ではありませんから、様々な地域の動物が一緒にいる風景そのものが、環境に反したイメージを喚起してしまいます。
 こんなに欲張らずに描いた方が良かったのでは?
 訳文は、タイトルに象徴されるように、日本語のリズムに固執気味なので、心地良く読めるとしても頭の中を通り過ぎてしまいます。こうした内容の物語の場合は引っかかる言葉の方が良いと思うのですが。(ひこ・田中)

『ころんだのだあれ?』(垣内磯子:作 田中清代:絵 すずき出版 2010)
 今日はゆず湯。子どもにゆっくり浸かってほしいと、だるまさんがころんだを一〇回言ってもらうことにします。
 でも、だるまだけじゃあ退屈なので、子どもは、色んなものが転んだことにします。海坊主、テングさん・・・。
 そんなとき、彼らは子どもの言うとおり転んでしまってさあ大変。
 ここには不思議な安らぎがあります。それは、既成のだるまさんがころんだが、ずれていくおかしさと、それ以上に実現してしまってみんな転ぶきっみょうさ。
 もちろんこれは絵がないといけません。
 田中清代の相変わらずノスタルジックでありながら大胆な色使いが、すてきです。(ひこ・田中)

『いっしょならもっといい』(ルイス・スロボドキン:作 木坂涼:訳 偕成社 2011)
 1956年作。
「ぼく」は一人でも遊べるし、楽しいけれど、二人の方がもっと楽しい。
 という、シンプルなメッセージが、様々な遊びで展開されていきます。
 スロボドキンの描く子どものなんと幸せそうなこと!(ひこ・田中)

『もものこさん』(あまんきみこ:さく かのめかよこ:え 「こどものとも」三月 福音館書店)
 なかよしのげんちゃんが、わたしの人形の服を汚してしまった。しょんぼり帰って行くげんちゃん。いいよって、やっぱりいえないわたし。
 やり場のない思い。
 幸い人形の服は洗濯できれいになります。
 でも、げんちゃん・・・・・・。
 ここから、あまんは初春の幻想世界を用意し、わたしの心の痛みと、げんちゃんのそれを解くための魔法をかけていきます。
 それは決して妥協でも、甘い嘘でもなく、強い願いと祈りです。
 この辺り、やはりあまんにはとてもかなわない。(ひこ・田中)

『ティリーとおともだちブック かみつきドゥードゥル』(ポリー・ダンバー:さく・え もとしたいずみ:やく フレーベル館 2010)
 人間の女の子ティリーと、様々な動物の子どもたちのお話。というか、小さな子どもの色んな行状をそれぞれの動物に分割することで、見えやすく、親しみやすくする工夫。
 たとえば今作だと、なんでも噛んじゃうことをワニくんドゥードゥルとして表現します。それをティリーがうまく納めるという段取りは、子ども自らがそれを納めていく様子を示すのです。
 他にはウサギのティップは寝ない子ですし、隠れたがりはゾウのタンプティといった具合です。
 ポリー・ダンバーの絵は、彼らがみんな本当に楽しそうで、このしつけごっこを楽しんでいます。(ひこ・田中)

『うどんやのたあちゃん』(鍋田敬子:作 「こどものとも年中向き」三月 福音館書店)
 稲荷神社近くの商店街、うどん屋さんの娘たあちゃん。今日もお手伝い。とそこに男の子が現れ名前はコンタくん。おなかが減ってそうだったのでたあちゃん、おごります。お礼に連れて行ってくれた先は?
 下町商店街の雰囲気が鍋田の動的な画のタッチでよく出ています。(ひこ・田中)

『のびるのび〜る』(深見春夫 教育画劇 2011)
 公園の木に大きな実がなって、それをゴンドラにして乗ると、枝がどんどん伸びていって、町を過ぎ、山を越え、と。
 こうした切断されずにどこまでも続いていく出来事を子どもたちは好きです。それは、最初の状態を維持したまま替わっていけるからなんですが、もちろん現実にはそんなことはありません。
 だからこの物語も最後は宇宙までいってしまって、それを親たちが回収する展開となります。
 どこまでも伸びる快感を味わえるのはフィクション故。(ひこ・田中)

『とこやにいったライオン』(サトシン:作 おくはらゆめ:絵 教育画劇 2010)
 なんだかたてがみが伸びて、伸びて、もうどこが顔かわからなくなったライオンさんは、ついに床屋へ。
 カエルの床屋さんが髪を切ってくれます。でもライオンさんが眠っているうちにハサミが滑って、あらら、えらいことに。
 なやんだ床屋さんがライオンさんにしたことは!?
 んなアホな、で笑えます。
 おくはらの絵が活き活きと楽しいです。(ひこ・田中)

『むかしばなしめいろ』(せべまさゆき ほるぷ出版 2011)
 『めいろ・めいろ・めいろ』でユニークな迷路物を開発したせべの新作迷路物。
 今度は昔話が迷路になっています。
 考えはったなあ。
 だからとっても楽しい迷路です。一つ一つの絵(登場人物など)が気になってつい見てしまいますから、迷路も見かけより難しくなりますよ。(ひこ・田中)

『つきよのゆめ』(いしいつとむ ポプラ社 2011)
サーカスの動物たち。毎日仕事に充実はしています。でも、移動の途中、森を通るとクマのクッキーは懐かしさがこみ上げるのでした。彼は子どもの頃、森でとらえられたのです。
みんなの協力で、クッキーはサーカスを抜け出し、森での楽しい生活が始まります。
ある日、サーカスの音楽が聞こえ・・・・・・。
それぞれがそれぞれの居場所を大切にする物語。
いしいの幻想的な絵が、物語と合っています。(ひこ・田中)

『ふでばこのなかのキルル』(松成真理子 白泉社 2010)
 「ぼく」はトカゲか龍か、不思議な生き物を見つけキルルと名付けます。
 キルルは「ぼく」の仲良しになるけれど、どこから来たのかまるでわかりません。
 おじいちゃんに聞いても知らないという。
 でも、ある日、おじいちゃんが思い出しました。若い頃のキルルとの約束を。
 おじいちゃんがキルルと出会うエピソードが少し弱いですが、キルルを通して「ぼく」とおじいちゃんが通じていく物語は暖かいです。(ひこ・田中)

『まじかるきのこさん』(本秀康 イースト・プレス 2011)
 きのしたきのこさんはきのこの研究者。明日の研究発表に備えて、新種のきのこを発見しようともりに出かけます。
 変わったきのこ発見! きのこさんは小さくなったり大きくなったり、空を飛んだりして追いかけるのですが・・・・・・。
 といった物語そのものはさしたることもなく心優しい展開です。作者は物語には興味がないのかもしれません。
 この絵本は本秀康のイラストを好きかどうかだけで勝負が決まってしまうでしょう。アンディ・ウォホールから批評を漂白し、幼児化したような画は、確かにどこか懐かしく、と同時にどうしてもそれが批評たりえない今の雰囲気を伝えています。
 もっとも、この安全きわまりなく見える画は、最近の多くのジャパニメやサブカル作品が提示する「リアル」とは対立していて、その点が新しい批評であり得る可能性は含んでいます。(ひこ・田中)

『野菜忍列伝 其の四 怪僧タマネギ坊』(川端誠 BL出版 2010)
 坊さんの格好をしているが実は忍者のタマネギ坊。漁村では、大タコ、大イカ、大カレイに困っています。そこでタマネギ坊が退治することに。
 水中での戦いは実に迫力があります。コテコテの大立ち回りで楽しいぞ。(ひこ・田中)

『パンツのはきかた』(岸田今日子:さく 佐野洋子:え 福音館書店 2011)
 「こどものとも年少版」からの単行本化。
 ぶたさんが、パンツのはきかたを伝授いたします。
 岸田の、まるで絵描き歌のようにリズム良い言葉に、とぼけた佐野のぶたさん。
 でも、あくまでまじめにパンツをはいていきます。
 そうです、パンツはちゃんとはかないとね。
 すてき。(ひこ・田中)

『さくら』(今井眞利子:文・絵 「たくさんのふしぎ」三月号 福音館書店)
 今井がこれまで描きためた、ボタニカルアートの植物画から、さくらを集め、その解説を含めたエッセーとで構成されています。
 ボタニカルアートとボタニカルイラストレーションの違いなど、詳しく知らなかったことも教えていただけて、うれしい。
 江戸時代に日本中に拡がったソメイヨシノですが、それだけじゃあ、やっぱりつまらない。私はソメイヨシノをもっと減らして、色んなさくらがある方が、さくらにとっても安全だと考えていますが、この絵本を見ていると、ますますそう思います。
 私たちが自動的に考えてしまうさくらのイメージがいかに狭いかを思い知らされます。そして、豊かな気持ちになります。
 幸い大阪には造幣局に様々なさくらがあって、楽しめますが、人が多すぎる。っても多すぎる原因を私も作っているわけですけれど。(ひこ・田中)

『ちびくまくん、おにいちゃんになる』(エマ・チチェスター・クラーク:作 たなかあきこ:訳 徳間書店 2011)
『ちびくまくん』シリーズ二作目。今回は、お兄ちゃん物。
ちびくまくんに妹のちいちゃんが生まれます。ママの関心はどうしても赤ちゃんへ。
こんな赤ちゃんはいらない、なんて思うちびくまくんですが・・・。
お約束通りの展開をしますから、安心絵本といえるでしょうね。
最近、兄物、姉物が多いのは、少子化対策かしらん?(ひこ・田中)

『たっくんのおしろ』(土屋富士夫 ひさかたチャイルド 2010)
土屋は子どものどこまでも伸びていく想像力を内面としてではなく外部へと巧く転化して私たちに前に可視化してくれるのですが、今作では、ごっこ遊びという、子ども自らが始めから可視化している想像力を描く試みをしています。そのために、想像力の産物ではない飼い猫を王国の侵入者にして、読者の視点を主人公ではなく、主人公とネコを見ている、つまりは語り手(土屋ではありません)の位置に立たせます。
従って、この想像力の破綻、または終末もまた、想像力の外部からなされる(母親の侵入)というわけです。
良いです。(ひこ・田中)

『ぼくはぼくのえをかくよ』(荒井良二 学研 2011)
 一本の線からイメージを広げていく荒井の手腕は相変わらず。
ただ、創造の自由度のみならず、想像の自由度まで作者が消費してしまっている感じがしてしまうのが、チト辛い。
タイトルの「ぼく」はもちろん作者自身ではないのですが・・・・・・。(ひこ・田中)

『やさいいろいろかくれんぼ』(いしかわこうじ ポプラ社 2011)
 かたぬきえほんシリーズ七冊目。
 まず色があり、プージを繰って型抜きで形が現れると、それが何かがわかるというシンプルな仕掛けなので、あきません。
 どんどん続けてください。(ひこ・田中)

『うさぎうさぎ こんにちは』(松本典子:さく 「こどものとも012」三月 福音館書店 2011)
 顔からおしりまで、うさぎさんをアップで撮った写真絵本です。
 撮っただけ、というのがみそ。
 本物のうさぎとイラストのうさぎを紐付けて認知することが、論理の発芽の最初の一歩ですが、この絵本ではひたすら、本物のうさぎを撮った写真を見せていくことで、まず本物への興味を抱かせます。
 本物が認知できている環境ではブルーナーのうさこちゃんとの紐付けがなされるわけですが、今の時代、まずこの作業が必要なのかもしれません。(ひこ・田中)

『ゆきやまたんけん』(松岡たつひで 福音館書店 2010)
 カエルのケロロとケロコさん。人間が捨てたペットボトルを使って移動式の家を作りました。
 さっそここいつで、雪の中を探検します。
 冬も活動する生き物、隠れている生き物と出会って行くのが楽しいです。
 でも、あんまり慣れていない雪中なもので・・・・・・。
 なるほど、こういう暖かなオチですか。(ひこ・田中)

『しめかざり』(森須磨子:文・絵 福音館書店 2010)
 「たくさんのふしぎ」からの単行本化。
 しめかざりが出来るまでを、歴史・文化も含めつつ描いていきます。
 ゴボウジメの綯い方が縄と反対の左綯い(非日常だから)だというのは知りませんでした。
 様々なしめ縄の形も面白い。
 知らなくてもいいことと言えば怒られそうですが、それでも知っていれば正月の楽しさが確実に大きくなります。
知らなくてもいいことを知っていることは気持ちの余裕につながります。(ひこ・田中)

『ぐるぐるわわわ』(越智典子:ぶん 平野恵理子:え 「ちいさなかがくのとも」03月 福音館書店)
 一本の線でできているぐるぐると、直径の違う輪の集合体わわわの違いを見せていく絵本。
 似て非なるものをとてもわかりやすく示してくれます。
 やられたなって感じです。(ひこ・田中)

『ぼく、仮面ライダーになる! オーズ編』(のぶみ 講談社 2011)
 ぼくは仮面ライダーが大好きでフギュアも持っている。でも妹がすぐに取ってしまう。
 妹はママも取るし。
 そんな妹がこうもり男に襲われた!
 仮面ライダーに変身しなくちゃ。でも、なれない。妹をちょっと嫌っているから・・・・・・。
 あとの展開は想像通りでしょう。
 ただ気になるのは、最新ライダーのオーズが大好きということになっているのですが、あまりオーズを知っているとは思えないこと。オーズにこうもり男は出てこないし、もちろんショッカーもね。元々コンセプトが元祖仮面ライダーとは違いますから、映画の特別編ならともかく、これは無理があります。(ひこ・田中)

【解説本】
『本で調べてほうこくしよう』(赤木かん子:著 mitty:絵 ポプラ社 2011)
 本来、調べるという作業は探し集めた情報を的確に取捨選択し、整理し見えやすくするものですから、これが面白くないなんてことはあり得ないのです。だって、ゲームだもん。
 世に中には研究者という生き物がたくさんおりますが、あれはこのゲームのコツをつかんで、そのおもしろさにはまってしまった人のことです。
 世の中の人が全部、たった一つのゲームにはまっては収拾がつきませんから、本格的な研究は彼らおたくにまかせておくとして、様々なゲームを、適時するスキルは持っておいて方が、毎日が楽しくなる。
 実は、いや本当は、かな。本当は学習というのはこのゲームの練習です。「世界」は「社会」は、これだけ楽しいんや! というのを知るスキルのね。
 もしそれが退屈だったり、苦痛だったりするとすればそれは、練習方法がまずい。
 ということで、この本は、「調べるって、」「たのしい!」、「おもしろい!」、「かんたん!」という、非常に怪しげなキャッチの元、上手な練習方法を具体的に伝授しています。「ほうこくしよう」ってのがツボですよ。伝わらないとゲームは成立しませんから。
 現場の大人の皆様も、ここからどんどんぱくって、それをより発展させて、子どもたちに、このゲームの楽しさをぜひ教えてあげてくださいね。(ひこ・田中)

『大解説! のりもの図鑑DX4 新幹線』(小賀野実:監修・写真 ポプラ社 2011)
 のりもの図鑑シリーズ、今作は新幹線。
 おお、「はやぶさ」だ! かっこいいぞ。三月から東北新幹線で走るそうです。
 E6系、秋田新幹線用、真っ赤な顔がかわいいぞ!
 三月から九州で走る「みずほ」って、ガンダムか?
 なんだか興奮している私です。(ひこ・田中)

『きせつの手づくり図鑑 春』(峯村良子:作・絵 偕成社 2011)
 『夏』も同時発売。もちろん今後『秋』と『冬』も出ます。
 手作りそのものは好きな人は好きだし、そうでない人にはそうでないだけのことです(私は興味がありません)が、こんな風にして時間を過ごすのが好きな人にとってはとても充実感があり、楽しいだろうなというのがよく伝わってくるので、良い図鑑です。
 ただし、「母の日」にエプロンといった発想は考えがなさすぎて、やはりまずいでしょう。(ひこ・田中)

【絵本 ノンフィクション】
『本と図書館の歴史』(モーリーン・サワ:文 ビル・スレイヴィン:絵 宮木陽子・小谷正子:訳 西村書店 2010)
 紀元前のアレキサンドリア図書館から電子図書館まで、「本」と「図書館」を巡る歴史が挿絵と共に簡潔に語られて行きます。
 情報が手軽に手に入るようになっていく歴史ともいえます。
 情報へのアクセス方法もまた、どんどんと簡単になっていきますが、そうであるからこそ、司書とは何か、その役目の重要さをちゃんと考える時でしょう。(ひこ・田中)

『わすれたくない海のこと 辺野古・大浦湾の山・川・海』(中村卓哉 偕成社 2011)
 辺野古・大浦湾ですから、海の写真絵本といってもそこに別の想いが当然ながら被ってきます。
 でも、まずそのまま見たい。山から流れる川、マングローブの森、そして海。海の豊かな生き物たち。
 しかし、まだまだ知らない生き物がいるなあ。あたりまえか。
 中村は、訴えかけるためにダイナミックな画面を作るのではなく、まるでスナップ写真のように山を、川を、海を、生き物を切り取っていきます。なんかみんな普通にいるの。
 だから、アマモの写真を見ていると、ジュゴンに来て欲しくなる。
 最後のページにだけ、撮影した生き物たちの生息する場所のイラスト地図っていうのも良いですね。(ひこ・田中)

『絵本 東海道其の二』(おちあいけいこ ポトス出版 2010)
 江尻から御油まで。
 それぞれの宿場の風景と多数の人物が精密に描かれていますが、なんといってもすばらしいのが、歴史を超えたものが一つの画面に収まっていること。たとえば府中では、駕籠屋、自転車の紙芝居、新幹線が、溶け込んでいます。
 歴史というものがこんなにうまく一つの画面に置かれるとは!(ひこ・田中)

『世界中のこどもたちが』(篠木眞:写真 新沢としひこ:詞 ポプラ社 2011)
 笑い、涙、好奇心、世界中、様々な子どもの表情を集めた写真絵本。
 多くの大人が、子どもの表情に何故笑顔を浮かべてしまうのかを、改めて考え直せるでしょう。
 モノクロなのがいいね。(ひこ・田中)

【連載】
一〇月 子どもって? ひこ・田中
以前、非常勤の授業で大学生に、「あなたは子どもか大人か?」ってアンケートをしていました。大学では必修科目以外の受講は自分で選択します。自分のことは自分で責任を持つわけです。だから大人と思う人は多いのですが、その数は年々減ってくる傾向にあり、「子どもだと思う」や「子どものままでいたい」が増えてきました。何故? と聞くと、子どもの方が楽だし、大人に魅力を感じないとのこと。う〜ん、そうかあ。魅力ないか。なら、今までとは違う新しい大人、君たちが考える魅力的な大人になっていくしかないねと答えていましたが、私自身が魅力のない大人では、あまり説得力はなかったかもしれません。
YAは、まさにその問いのど真ん中です。とても抽象的なのはわかっていますが、子どものままがいいか、大人がいいか、その理由も含めて、ゆっくり考えてみてもおもしろいと思いますよ。
『トム・ソーヤーの冒険』(マーク・トウェイン:作 大久保康雄:訳 新潮文庫)は一世紀以上前の作品ですが共感するところはわりと見つかるのじゃないかな。彼は、自分が子どもであることをよく自覚している少年です。子どもは学校に行かなければならないし、大人の庇護の元で生きていくしかない。だからトムは自分に有利な状況を作るために大人を出す抜くことを常に考えます。そのためには軽い嘘をつくことも厭いません。ね、古くないでしょ。
『夜行バスにのって』(ウルフ・スタルク:作 遠藤美紀:訳 偕成社)。こちらは現代の子どもシクステン。彼の父親は離婚してから気力をなくして息子にべったり。悪気がないのはわかっていますが、「だれかの、たった一つのものでいることは、そんなにかんたんなことではありません」。そこでシクステンは父親のために新しい恋人を探すことに! 親に子離れを促す物語です。ね、新しいでしょ。(読売新聞 2010)

----------------------------------------------
子どもの物語(02) ひこ・田中

国際ペン東京大会2010のテーマは「環境と文学」でした。「子どもの本委員会」もいくつかのイベントとシンポジウムを行いましたがその中の一つ「環境・文学・子ども」では、ジャクリーン・ウイルソン、イ・オクベ、上橋菜穂子(発言順)三氏をお招きしました。一般的なジャンル分けではリアリズム、絵本、ファンタジーと表現方法がまったく違い、しかも扱われる題材もかなりかけ離れているお三方ですから、話し合うテーマをあらかじめ「自然環境を子どもたちにどう伝えるか」といったものに絞るやり方もあったのですが、委員会ではそうした方法をとらないことにしました。というのは、子どもにとっての環境とは大人が作ったありとあらゆるものだからです。家庭も学校も社会もそして自然も。そこでお三方への依頼は、「あなたの作品と環境の関係について、ご自由にお話しください」といった内容のものでした。「環境と文学」がテーマの大会に招かれることを最初は不思議に思われていたようでしたが、みなさん快くお引き受けくださいました。
それぞれの最初の発言は次のようなものでした。ウイルソンさんは自然環境を描いた児童書にどのようなものがあるかをこの機会に調べ、その感想を述べながら、親の離婚に遭遇した子どもや孤児を描いた自作も、子どもの環境を描いたといえるのではないかとやや遠慮がちに述べられました。イさんは、日本でも来春出版される『非武装地帯に春が来て』の朗読を交え、子どもの責任ではない事態を、それでも子どもに伝えていく大切さを語られました。上橋さんは自分が何故物語りたいのかを、若き頃の絶望感からの脱却に物語が重要であったといった具体的な話から始め、物語は子どもに、彼らの環境を伝える強力な道具であると強調されました。
一見ばらばらな話であり、とまどった方もいらっしゃるとは思いますが、このばらばらさこそが、子どもと環境がいかに幅の広い問題かをよく示しています。
その後の展開は、互いのスピーチの違いに興味と共感を表しながら進み、終えた後に観客のお一人が、「まとまらないと思われた三人の話が、魔法のように繋がっていった瞬間に立ち会えた」とおっしゃっていたのが印象的でした。
その場を実り豊かにしようと、友好的に意見を交わされるお三方に、感動しつつ、私は次のようなことを考えていました。
エンターテイメントであろうと問題小説であろうと、リアリズムであろうとファンタジーであろうと、家族小説であろうと冒険小説であろうと、すべての子どもの物語は「環境」という視線を使えば、同じ地平から眺められるのではないか。もしそうできれば、作家はもう少し自由に発想できるのではないか。編集部はもう少し柔軟に企画を立てられるのではないか。書店はもう少しフレキシブルな棚揃えを考えられるのではないか。
たとえば、環境という視線で眺めれば、『トレイシー・ビーカー物語』(ジャクリーン・ウイルソン)のトレイシーとカムは、『精霊の守り人』(上橋菜穂子)のチャグムとバルサの関係と実によく似ているのに気づきます。トレイシーもチャグムも親に捨てられた子どもです。物語の当初、彼らは子ども時代を無事に生き延びることができるかどうかわかりません。一方彼らの守護者となるカムとバルサはどうでしょう? 二人は子どもたちを導く強い大人でしょうか? カムは売れない作家で社会的地位は低く頼りない。バルサは確かに戦闘は強いですがそれは、強くならなければ生き延びることができなかったからで、子ども時代のすべてをそのために使ってしまっています。つまり、カムもバルサも、トレイシーやチャグムの子ども時代を守る大人でありつつ、この子どもと一緒に過ごすことで自信を得たり、欠落を埋めたりしているのです。
親に捨てられるという過酷な環境を生きる子どもをサポートできるのは完璧に強い大人ではなく共に育ちたい大人の方がいいのだと、全く違うジャンルの全く違うテーマに見える二つの作品は声をそろえて言っているかのようです。
『非武装地帯に春が来て』(イ・オクベ)と『バイバイわたしのおうち』(ジャクリーン・ウイルソン)はどうでしょうか? 前者は朝鮮戦争の傷跡を描いています。北と南に祖国を分断する非武装地帯。皮肉なことに、そうであるが故に、この地帯は人間の開発の手が伸びず、野生動物たちにとって理想的な自然が守られています。人が起こした愚かな戦争(日本も関わっています)の象徴である場所を美しく描くイの画は、見る者に迫ります。一方、後者は、両親が離婚したため、それぞれの新しい家を一週間ごとに行き来している子どものアンディーの物語です。戦争と離婚、全く違った作品のようですが、環境という視線を使えばそうでもありません。
アンディーにとって理想の場所は、両親と共に暮らしていた家です。三人一緒にもう一度そこに戻りたいと彼女は願っています。『ふたりのロッテ』の時代ならともかく、現代の物語では、そんな夢はまず叶わないのですが…。
両親、それぞれの新しい家を、分断された北と南に。アンディーの理想の場所を非武装地帯に重ねてみてください。
二つの作品は、大人の行動によって不安定になってしまった子どもの環境を描いていることがわかるでしょう。
このようにして、環境という視線を使うことで、作家が意識しているかはともかく(今回のシンポジウムでは意識されたと思います)、実は互いに手を結びながら、子どもに向けて物語っている姿が想像できます。
とすれば、書店の棚は本を並べ替えられるのでは? 出版社の企画会議は広い視野を持てるのでは? 作家は自分が孤独ではないのがわかるのでは?
私は、そんなことを考えていました。

『男子って犬みたい!』(レスリー・マーゴリス:作 代田亜香子:訳 PHP研究所)は典型的なガールズ小説ですが、母親が新しい恋人とお試し同居をするために引越しをし、なにもかも環境が変わってしまったアナベルの物語。仲の良い友達のいた女子校を去り、見知らぬ共学校へ通い始めてアナベルが知ったのは、ガールズ小説に出てくるのとは大違いの、ただ粗暴でいじわるな男子たちの姿でした。男子たちにとっては単なる悪ふざけでも、アナベルにとってはいじめでしかない出来事の日々。家に帰れば母親の恋人が気に入らない。しかもアナベルの気をもり立てようと両親が手に入れてくれた子犬ときたら、言うことをちっともきいてくれません。でも、子犬のしつけ方の本を読んでいてアナベルは気づきます。「子犬」って言葉を「男子」に変えれば、これって男子のしつけ方の本になるんじゃないかと。そして、それは本当だったのです!(やれやれ、男子)
 やや大げさな味付けをしたエンタメですが、そのおかげで、男子の行状とそれへの対処方法が、女子読者に非常にわかりやすく描かれています。それだけではなく、犬としてしつけただけじゃあ、本当の関係は生まれないことにもさりげなく触れています。
 一方『ピーティ』(ベン・マイケルセン:作 千葉茂樹:訳 すずき出版)は、二十世紀初め、脳性マヒによる言語困難から知的障害とみなされ、精神病施設で幼児の頃から生きてきたピーティの物語を第一部に、引越ししたてで友達のいない少年トレバーが、今は別の施設で一見おだやかに暮らすピーティ老人と出会うことで変わっていく姿を第二部にした作品です。第一部は、第二部を感動的に仕上げるために、ピーティの造形が天使のように優し過ぎるのは取材不足(社会への「怒り」を処理できないために、それをあきらめ、「あきらめ」を「優しさ」に見せかけることで、周りの人からも「優しさ」を生じさせ、それで自分の気持ちをなんとか保っている人も多いのです。でもプライドは傷ついています)だとは思いますが、それでも障害者が置かれている環境問題(設備だけではなく視線も)へ感心をむけてもらう力は十分に持っています。第二部はうわべだけの親子関係にうんざりしているトレバーが本物の家族を見つけていく物語ですが、トレバーとピーティに、チャグムとバルサを重ねることは可能でしょう。
 自然環境を中心に据えた作品が『スキャット』(カール・ハイアセン:作 千葉茂樹:訳 理論社)です。ニックは、イラク戦争で右腕を失った父親を強く理解しようと、右腕を背後に縛ったまま生活を続けるような感受性を持つ中学生。学校で一番怖いスターチ先生の授業のとき、何かと問題を起こすドゥエーンと先生がついに激突。次の日、湿地帯での実地授業をドゥエーンは休み、ニックたちはスターチに引率されて現地へ向かいます。そこは絶滅危惧種のパンサーがいるとも言われているところです。火事が起こり、生徒たちを安全に待避させたスターチ先生ですが、その後消えてしまいます。かつて放火をしたことのあるドウエーンも街から姿を消します。火事の犯人はドゥエーンか? スターチ先生の行方は? ニックは捜索を始めます。
おもしろいのは、物語が進展するにつれ、まったくかみ合わないはずであったニックとドゥエーンとスターチ先生が必然的に繋がっていくところです。彼らを結ぶ紐帯が、パンサーであり、自然保護思想ということになりますが、そこは読んでのお楽しみとしましょう。

 シンポジュウムの後、メールやtwetter、ブログ、電話などで様々な方の感想を伺っていると、『非武装地帯に春が来て』を伝えたいというものが多かったです。それだけの力をこの絵本は持っている。けれど、少なくとも物語を届ける側は、子どもにとって、祖国分断の傷みも、家族の崩壊も、いじめも、同じ重さを持っていることも忘れないようにしたいものです。(「子どもの本」2010.12 日本児童図書出版協会)