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【宣伝】
映画版『ごめん』シナリオの電子書籍版が発売されました。よろしくお願いいたします。
浪漫堂シナリオ文庫
http://www.roumandou-scenario.com

【児童書】
『迷子のアリたち』(ジェニー・ヴェレンタイン 田中亜希子:訳 小学館 2011)
 サムは家出しロンドンの安アパートに住み始めます。いったい何をしたのかは分かりません。
 アパートには貧しくてヘンだけど人の良い連中が住んでいます。サムになつくのが少女ボヘミアン。彼女は母親と暮らしているのですが、恋人とアルコールにおぼれているので、ほぼ児童遺棄状態です。それでもボーは母親が好きだし、人と付き合いたがらないサムにまとわりつきます。あまりに立ち入ってくるボーに切れたサム。次の日ボーがアパートから消えてしまいました……。
 何故サムが家出したか? ボーの親子関係はどうなるのか?
 最後は急ぎ気味の展開ですが、それもまるで、サムとボーのための祝祭のようで心地よし。
表紙もいいですよ。

『<天才フレディ>と幽霊の旅』(シド・フライシュマン:作 野沢佳織:訳 徳間書店 2011)
 フライシュマン、亡くなっていたんだ。知らなかった。合掌。
 ユダヤ系アメリカ人であるフライシュマンが、やっと描く覚悟ができたというユダヤ人虐殺をテーマとした作品です。
 戦後もパリに残ったアメリカ兵フレディは腹話術師として生きていますが、あまり巧くなく、ユーモアのセンスもなく人気はありません。そんなとき彼の前に現れたのは、ユダヤ人少年の幽霊。SSによって殺害された彼は、フレディに取り憑きますます。そして、彼が人形の言葉を話すわけです。これなら、フレディは完全に口を閉じ、なんなら水を飲みながらでも人形が話を出来るのです。
 たちまちフレディは人気腹話術師に。
 少年の交換条件は一つ。彼と妹を殺害し、戦後ユダヤ人に化けて逃走したSSを探し出すこと。
 こうして奇妙なコンビのショーが続いていきます。
 悲惨で残酷な出来事と、ユダヤ人的ユーモアを融合して、重いテーマに迫って行く物語です。

『きみに出会うとき』(レベッカ・ステッド:作 ないとうふみこ:訳 東京創元社 2011)
 切なく心温まるタイムファンタジー。
 ミランダの母親はテレビの賞金獲得番組の出場権を得ます。大喜びなのですが、実はミランダは事前にそれを知っていました。というのは謎の人物から送られてくるメモに書かれていたからです。
時代設定は七十年代。ミランダによって、過去の出来事が語られています。
ある日幼なじみの少年サルが、見知らぬ少年に路上で突然殴られます。気の弱いサルは反撃もできないまま。その出来事に遭遇したからか、その後サルはミランダを避けるようになってしまう。
ミランダは仲間たちと学校の昼休みにサンドイッチ店でバイトを始め(バイト代は昼食のサンドイッチ)ますが、そこでの出来事も「あなた」から送られてくる通りです。
なにより怖いのは人の命の生き死に関しての予告が書かれているメモが送られてきていること。その意味は? どうすればいい?
 読み終えてから、作者の仕掛けを楽しむための再読もいけます。

『スタンプに来た手紙』(エミリー・ロッダ:作 さくまゆみこ:訳 たしろちさと:絵 あすなろ書房 2011)
 「チュウチュウ通り10番地」シリーズ最終巻。
 今回は10番地、郵便配達人のスタンプのお話です。
 みんなに手紙を届けているのに、ぼくには一度も手紙がきたことがない。
 さみしいスタンプは名前を伏せて新聞にペンフレンド募集を載せるのですが、山のように来てしまい、返事を書くのもままならず、郵便局長もご機嫌斜め……。
 最終巻にふさわしい幕切れ。さすがロッダ。

【絵本】
『名前をうばわれた なかまたち』(タシエス:作 横湯園子:訳 さ・え・ら書房 2011)
 顔がリンゴに描かれた少年。彼は学校でいじめられ、存在を奪われています。
 けれど、顔がリンゴなのは彼だけではなく、いじめている子どもたちも同じです。そこに作者のメッセージが強く表れています。
 自殺まで追い詰められる少年。でも、
 暗さの中に独自のユーモアが漂う画も印象的な絵本です。

『ハスの花の精リアン』(チェン・ジャンホン:作・絵 平岡敦:訳 徳間書店 2011)
 現在もっとも注目されている作家であるジャンホンの新訳です。
 貧しくも心優しい漁師のロー。ある日助けたおばあさんにもらった蓮の種を育てた中から生まれたリアンは、様々な物を豪華に変えてくれます。その噂を聞いた王はリアンをミリやり連れて帰り、あらゆる物を金に返させるのですが……。
 今作は物語がおとなしめですが、画のパワーには相変わらず圧倒されます。幸せ。
堪能してください。

『まちのいぬといなかのかえる』(モー・ウィレムズ:文 ジョン・J・ミュース:絵 さくまゆみこ:訳 岩波書店 2011)
 完璧な絵本です。
 春。
町の犬が田舎へやってきて、田舎のカエルと友達になります。田舎のカエルは田舎の遊び(といってもカエルのですが)を犬に教えます。
夏。
今度は町の犬が町の遊び(といっても犬のですが)をカエルに教えます。
秋。
今度はどんな遊びをしようとワクワクな犬。でもカエルはもうちょっと疲れている。春と夏の思い出を二匹で語ります。
冬。
町の犬は勇んでカエルがいたいつもの岩へ。でも、もうカエルはいません。
そして、次の春。
しょんぼりしている犬に、リスが声をかけ……。
出会い、好きになるということ、別れ、そしてそれでも巡る季節が、たった一冊の中に、丸ごと語られています。
ジョン・J・ミュースの絵は、季節を強調することなく、季節に溶け込んで見事。

『カエルの目だま』(日高敏隆:文 大野八生:絵 福音館 2011)
 日高は『チョウはなぜとぶか』や訳書の『ソロモンの指輪』など、若い頃読者としてお世話になったけれど、そうした生物学の専門領域だけではなく、子どもの教育に関しても何よりも自由度を愛し、塾だ受験だ、厳しくだのとわめく人々と鋭く対立し、子どもの側に常に立っている姿勢からも多くを学んだ。森毅さんに、紹介してよと頼んでいたけれど、とうとうお二人とも会えなくなった。
 そんな日高が子ども向けの小さな物語を書いていたのは知らなかった。今回大野の画で絵本として刊行されたのは喜ばしい。
 「歌ものがたり」とあるように、名エッセイストでもあった日高が、言葉のリズムも軽やかに、カエルとトンボとミズスマシの目だま自慢を描きながら、生き物には、それぞれの環境によってさまざまな目だまがあることを伝えます。
 もちろん主眼は、そんな目だまの比較にあるのではなく、違ってたってたいしたことないんだよという、日高の一貫した教育観にあります。
 こんな作品があるのを教えてくれた福音館に感謝!

『ぼくとサンショウウオのへや』(アン・メイザー:さく スティーブ・ジョンソン&ルー・ファンチャー:え にしかわかんと:やく 福音館書店 2011)
 「ぼく」は森でサンショウウオを発見。家の中で飼うことに。でも、そのための餌や、餌のために引き起こされる問題を解決するために何をすればいいかなど、次々と問いかけがなされ、「ぼく」の空想の中で「ぼく」の部屋は結局、サンショウウオがいた元の環境になってしまいます。
 つまりは、自然の生き物は自然の中が一番というシンプルで大切なメッセージが、絵本ならではの作法で伝えられていきます。
 ただ、研究者である訳者あとがきによると、このサンショウウオを「ぼく」が発見する場所から、その生態までいくつかのことが間違っています。
 これをどう考えるか? 「ぼく」の無知による空想と見なすか、作者と絵描きの無知とみなすか?
 サンショウウオを発見するシーンはさすがに訂正した方がいいでしょうね。あとは間違っていても、「ぼく」の空想ですから、テーマをそれほど損ねるわけではありません。
 ん〜ん、でも、読者は間違って覚えてしまうか。

『にぎやかなほん!』(デボラ・アンダーウッド:文 レナータ・リウスカ:絵 江國香織:訳 光村教育図書 2011)
 『しんと しずかな、ほん』と対になる絵本です。歌声、げっぷ、たきぎのはぜる音。さまざまな音が、擬人化された動物の子どもたちが遊ぶ日常の中で表現されていきます。
マーガレット・ワイズ・ブラウンにも色々音にまつわる絵本(こちらも江國さんの訳)がありますけれど、そちらは、日常を音で知っていくタイプなのですが、こちらは音のある日常を描いています。

『はるねこ』(かんのゆうこ:文 松成真理子:絵 講談社 2011)
 はっきり言って、ずるい企画の、四季の猫さんシリーズ春編です。『ふゆねこ』でへろへろになった私たちの前に、今度は若草色の春猫の登場だ!
 かんのさん、ずるい。
 今年の春はどうも遅い。そんなことを考えていると春猫がやってきて、春の種をなくしたという。それは大変だ!
 幸せな結末の決まっているでしょ。
 ずる、いや、いいなあ。

『へんたこさん せんちょうになる』(いとうひろし 偕成社 2011)
 新シリーズ。
 へんなたこのへんたこさんは、船長になりたくて、なりたくて。
 今回は始まりですから、彼がたこの特性を活かして活躍し、やっと船長になれるまでの描きます。
 たこを船長にするのですから、展開は少しモタモタしていますが、船長になってしまえばもう、こっちのもの。
 次作から、いとうワールドが堪能できるでしょう。

『ケーキちゃん』(さとうめぐみ 教育画劇 2011)
 イチゴのショートケーキ、ケーキちゃん。おいしそうにデコレートされて、もう幸せ一杯、ごきげんさん。
 他のデザートたちと会いにおかしの森へ出かけます。
 おかしの森って発想が、いいなあ。
 それはともかく、やってきたケーキちゃんをみて、ババロアやクレープたちは自分のデコレートの貧相さに落ち込みます。
 心優しいケーキちゃんは自分のデコレートを彼らにあげます。イチゴでしょ、間に挟まれたイチゴ入りの生クリームでしょ。
 みんなは大喜びで、ケーキちゃんもうれしいが、今やその姿はただのスポンジ生地。
 そこに超豪華なデコレートのプリンアラモードやパフェがやってきて……、
 さとうの会心作ですよ。

『焼きつくされた町と人びと』(早乙女勝元:監修 新日本出版社 2011)
 「語り伝える東京大空襲」シリーズ四作目。
 震災の後では、イメージが被ってしまうこともあると思います。
 でもこれは天災ではなく(原発事故は人災ですが)人災。人間はこれだけのことが起こせてしまうのです。
 まだちゃんと戦争時代のことを教わっていた世代には新しくない写真と資料でしょうけれど、繰り返し、繰り返し、伝えていく義務があります。ただし、被害だけでなく加害も。

『ぼくひこうき』(ひがしちから ゴブリン書房 2001)
 幼稚園。みんなで紙飛行機を作っています。
 できるだけ、できれば、一番遠くへ飛ばしたい「ぼく」。
 さあ、一斉に飛ばします。
 ここからが少し奇妙なタイトル「ぼくひこうき」の真骨頂。
 「ぼく」の紙飛行機なのか「ぼくひこうき」なのか、それはぐんぐん上昇し、どこまでも飛んでいきます。飛んでいき過ぎなほどですよ。
 そして、さあ、幼稚園に無事戻れるかな?
 「ぼく」の空想と欲望のあわいを巧く描いています。画は好き嫌いが分かれやすいでしょうね。

『さよならようちえん』(さこももみ 講談社 2011)
 タイトル通り、幼稚園を卒園する子どもたちのこれまでの思い出を回想する絵本。
 色んなコトがありましたね。
 とてもかわいい幼稚園の思い出絵本ですけれど、これは子どものためというより、親のための思い出絵本。ごほうび絵本かな。
 これを卒園する子どものための絵本だと勘違いすると、子ども向け絵本への視線そのものも勘違いしてしまいますのでご用心。

『カイくんのランドセル』(おかしゅうぞう:さく ふじたひおこ:え 佼成出版社 2011)
 小学校に入学する男の子が祖父母にランドセルを買ってもらう話。
 なのですが、祖父母がえらく年寄りに描かれているなあ。と思ったら、敗戦後、まだランドセルなんてなかった頃のエピソードが主眼なのでした。ですから祖父母は七十二歳ほど。
 もちろん七十二歳で六歳児の孫がいても不思議ではありませんけれど、なんだか少し作られた感じに読めてしまいます。
 ここは素直に、初めてのランドセルを喜ぶ(喜ばない)子どもの話で良かったのでは?

『タンポポたいへん!』(シャーロット・ミドルトン:作・絵 アーサー・ビナード:訳 すずき出版 2011)
 タンポポが大好きなモルモットさんたち。でもでも、開発や、みんなが食べ過ぎで、なくなってしまう。
 たった一本、家の裏に残っていたタンポポをクリストファーはたべないで大切に育て、綿毛が空に飛んでいく。
 そして、管理して育てることも始めます。
 食糧危機絵本です。

『だれが きめるの? やんちゃっ子の絵本2』(スティーナ・ヴィルセン:さく ヘレンハルメ美穂:やく クレヨンハウス 2011)
 ヴィルセンの描く輪郭は安定感を求める人にはとても不穏で不快に感じられるかもしれません。
 それは、たとえばいわさきちひろ画のような大人から子どもへの願望(欲望)に満ちた幻想画と対局にあるからなのですが、このシリーズの物語そのものが子どもの欲望側にビシッ!と寄り添っていることと、この不穏な輪郭は見事に呼応しています。
 やんちゃ絵本はたくさんありますが、その中でもこのシリーズは注目して良いでしょう。

『ちびころおにぎり』(おおいじゅんこ:作・絵 教育画劇 2011)
 みんなおいしいおにぎりになりました。色んな具材が入っています。
 でも、ちびころちゃんにはなんにも入っていないから、落ち込んでいます。
 それで、みんなは、入れる物を色々考えてくれるのですが、なんだか妙なものばかり。
 どうしましょう?
 小さな子どもの不安をおにぎりで表現しています。ノリがパンツみたい。

『みんなであなたをまっていた』(ジリアン・シールズ:文 アンナ・カリー:絵 松井るり子:訳 ほるぷ出版 2011)
 うさぎの家族。生まれてきたあかちゃんに、いかに家族があなたと出会えるのを待っていたかを伝える絵本。
 つまり、「あなた」の存在意味を伝える絵本です。
 これは、「あなた」が世界を信じるために必要な作業ですが、絵本として読み聞かせをする年齢にとっては、読み聞かせるより実感させる方が良く、自分で読める年齢にとっては、親の思いを知らせる機能を持ちますが、実際の親との差異を子どもがどう考えるかはわかりません。
 従って、こうした絵本が一番効果的に機能するのは、子どもより親です。親にとって気持ちがいい。
私が少子化対策絵本と呼ぶ所以です。
気持ちがよいのは悪いことではありません。が、そこに現実の子どもと、子ども側からの視点が隠されてしまう可能性も忘れないようにしたいですね。

『古井戸に落ちたロバ』(北山耕平:再話 絵と文:Oba じゃこめてい出版 2011)
 ネイティブアメリカンの愉快な昔話。
 老いたロバが深い穴に落ちてしまいます。
 なんとか救い出そうとする飼い主。でも、無理。
 このまま飢えて死ぬのは忍びない。
 そこで男は村人に頼んで、穴に砂を入れてロバを埋めようとします。
 悲しい。
 ところが、かなりの土を入れた後、ロバの声が!
 愉快で暖かな物語は、ロバの話でも人間の知恵の話です。

『ぼくもおにいちゃんになりたいな』(アストリッド・リンドグレーン:文 イロン・ヴィークランド:絵 石井登志子:訳 徳間書店 2011)
 1954年のリンドグレーン短編の絵本。
 おにいちゃん物です。
 こうして五十五年後に読むと、パターンがいかに変化していないかがわかりますね。
 それは、普遍的だからか、変わらないと思い込んでいるのか?
 考えてみたいですね。

『さいこうのおたんじょうび』(カール・ノラック:ぶん クロード・K・ヂュボア:え 河野万里子:訳 ほるぷ出版 2011)
 ベストセラー絵本シリーズ八作目。
 モルモットの子どもロラ、初めてのお誕生日パーティー。もうワクワク待ちきれません。
 パーティーまでの時間がなかなか過ぎないことにも落ち込み気味なほどの期待度大。
 やってきた友達たちは色んなプレゼントを渡しますが、そこは幼子。ロラへのプレゼントなのに、自分が欲しい物を取ってしまいます。へこむロラですけど……。
 きれい事じゃない展開がすてき。もちろん最後は幸せな結末ですけどね。

『みんなおおきくなるんだよ』(アン・ロックウェル:さく ホリー・ケラー:え くろさわゆうこ:やく 福音館書店 2011)
  なんとまあ、普通に普通のことを伝えてくれる絵本でしょう!
 小さな沼のある野原で少年が遊んでいます。
 そしてたとえば画面に白い花が描かれ、ページを繰ると木イチゴに。小さな卵はコマドリニと、どんなものでも大きくなり姿を変えていくことが、ただ、ただ示されていきます。
 ホリー・ケラーの絵は個性豊かではありませんが、物語性を出来るだけ排除するには良い選択です。

『うちゅうじんは パンツがだいすき』(クレア・フリードマン:文 ベン・コート:絵 中川ひろたか:訳 講談社 2011)
 子どもがおもしろがるに決まっている設定のシリーズ絵本第一作。
 中身はタイトル通りで、宇宙人たちは下着泥棒して、履きまくって、遊んでおりまする。
宇宙人と言うことと、女性下着だけが好きというわけではないので、なんとなく、いいかあって思ってしまいますが、「なんとなく、いいかあって思ってしま」うことが問題かもしれませんね。
でも、パンツ練習絵本(つまり、宇宙人は幼児)として考えればいい出来。
『パンツマン』(徳間書店)シリーズも併せてどうぞ。

『たんごむしの ダディ ダンダン』(おの りえん:作 沢野ひとし:絵 福音館書店 2011)
 1999年「こどものとも年少版」からの単行本化。
 ふだんは子どもをほったらかしのだんごむしのとうさん、ダンダン。でもカメが襲ってきたときは戦うのだ。
 大活躍と、ふにゃふにゃ具合がよろしいね。
 沢野の描き殴り風の画面もお話にピタリと寄り添っていますし、子ども大好きなタッチです。
 沢野は本当にわかっていましたね。

『あめのひ くろくま』(たかいよしかず くもん出版 2011)
 キャラであるくろくま。それをいかにキャラのままで物語展開させていくか?
 今作は梅雨時に併せたお話、基本カラーは紫です。
 くろくまくん、雨なので一杯てるてる坊主を作りますが効果なし。
 傘をさしてお散歩です。と、てるてる坊主たちがいっしょに付いてくる。もうなんだかてるてるたちのパーティ状態。この先いったいどうなってしまうのでしょうか?

『おたんじょうびがやってくる』(安江リエ:さく 池谷陽子:え 「こどものとも年中向き」6月号 福音館書店)
 あなぐまの子どもたんとのお誕生日まではあと三日。おばあちゃんはたんとの姿のクッキーが一つ入った三つのクッキーで出来た首飾りをプレゼント。寝る前に一つずつ食べて、最後の一つ、たんとの姿のクッキー一つになったら、おたんじょうびを見に行こう!
 おたんじょうびを見に行こうなんて、すてきなことを思いつく作者がすてき。
 誕生日は、本人のアイデンティティを確認する(あなたはみんなに愛されている)指標ですが、それだけに、あまり大げさにすると実は本人の負担にもなります。親はうれしいので大層にやりがちですが、ほどほどに。

『エネルギー』(池内了:文 スズキコージ:絵 「たくさんのふしぎ」六月号 福音館書店)
 とても説明が難しい事物を池内が巧みに語り、天才スズキが画で見えるようにしてしまうという力業シリーズ。
 今回のお題は、たまたま時期物になりましたが「エネルギー」。
 池内はコツコツと誠実に、子どもにも分かるように説明し、スズキは自分のイメージを勝手に爆発させてしまう。
 絶妙のコンビですね。

『わらってわにさん』(水野翠:さく 「こどものとも」六月号 福音館書店)
 わにはいつも友達のにわとりやりすと遊んでいます。
 ある日、にわとりは、川から上がったわにさんが泣いているの見てしまい、友達みんなで色々慰めます。ところが……。
 シンプルな友達物ですが、わにさんが泣くってインパクトが読者をつかみます。

『ぺろぺろりん』(小野寺悦子:文 林なつこ:絵 「こどものとも012」六月号 福音館書店)
 繰り返し物です。ブタがやってきて、次のページでジャムをぺろぺろりん。クマがやってきて、次のページでハチミツをぺろぺろりん。最後は犬がやってきて、さあ何を食べるのだろうと思ったら小さな男の子をぺろぺろりんで、読み聞かせとして聞き手参加になる仕掛け。

『一ねんせいになったら』(まど・みちお:詞 かべやふよう:絵 ポプラ社 2011)
 ご入学絵本として、まど(+作曲:山本直純)のよく知られている歌を絵本化。
 やはり見せ場は「ともだちひゃくにん」の部分で、かべやふようは百人の子どもを、どどーんと描きます。
 家に一人でいる入学までのドキドキ感と、百人のとてつもないワクワク感。この落差の間に現実があるわけですが、そんなことは入学してからの話。
 ほとんど誰もが迎える時期を、まどはまるでファンタジーにしてしまいます。やはりすごい人だ。

『おれたちはパンダじゃない』(サトシン:さく すがわらけいこ:え アリス館 2011)
 パンダだけが何故もてる!
 ということで、パンダ柄にしたくまさん。と、そこにもう一匹なにやら怪しげなパンダが。
 でも、みんなはパンダだと無事に誤解してくれて、たくさんのごちそうをプレゼントしてくれます。
 でも、笹なんて食えねえ! もう一匹もそう言ってますよ。
 という、おかしい展開です。
 ただ、パンダ人気にあやかろうと動物園の動物たちがパンダ柄になる『パンダがナンダ』(あべはじめ)が先行してあるので、そこはいかがなものか?
 また、『パンダがナンダ』の出だしは、ライオンが散髪屋でたてがみを間違って刈られてしまうところから始まりますが、サトシンの前作は、『とこやにいったライオン』で、やはり間違って刈られてしまいます。
つまり、サトシンの新作二作の素材は、『パンダがナンダ』一冊と重なります。おそらく同じような発想が同時進行していたからだとは思うのですが、『パンダがナンダ』が先行して出たわけですから、もう少しひねってみても良かったのでは?

【連載・YAの世界 読売新聞】
第八回 昔と今(2010.11)
近頃の若者は困ったものだといった嘆きは、私がYAの頃にも聞きましたし、きっともっと昔からそうだと思います。これは大人の口癖なのです。でも、大人はYA時代を経験しているはずなので、「どうせ、言っても無駄」って決めつけるのは損。「どうして大人はYA時代を忘れたふりをするの?」と問うのがいいと思います。とはいえ、時代が違っていますから簡単には通じないかも。そこで、昔のYAを描いた物語と、今のそれとを読み比べて、違いを探ってみては、いかがでしょうか?
『アウトサイダーズ』(S.E. ヒントン:作 唐沢則幸:訳 あすなろ書房)は、四〇年以上前に書かれたYA小説。ポニーは一四歳になったばかり。下町の悪ガキグループ、グリーサーの新人。対するは富裕層の悪ガキグループ、ソッシュ。両者の抗争を軸に、YAが抱えている不満や不安を描いています。「黒い目をして、自分の影におびえ」「世の中に憎しみを抱いた少年たち」「そんなやつらに、世界はまだまだ捨てたもんじゃないなんていっても信じやしないだろう」「だれかが助けてやらなきゃ。手遅れになる前に」。言葉が熱いでしょ。恥ずかしい? でも作者は当時一七歳ですから、生のYAの言葉ですよ。
 現代作品『バターサンドの夜』(河合二湖 講談社)の主人公は、クラスメイトと適度な距離を置いて生きている女子中学生、明音。見知らぬ女に、自分が作った服のモデルになってくれないかと声をかけられ、怪しすぎるので断ります。が、アニメの登場人物になりたいと思っている彼女は、リアルなコスプレ衣装を作ってもらう交換条件にモデルを引き受ける。生の自分にリアルを感じない女子中学生と、売れっ子デザイナーを夢見る子どもっぽい大人の物語。
 熱い時代のYAと、冷めた時代のYA。ものすごく違います。でも、誰かと繋がりたい想いは案外変わらない?

第九回 恋(2010.12)
 恋は自分以外の誰かを優しく思いやり、丸ごと受け入れ、支えたくなる感情です。ところが夢中になってしまうと、思いやるどころか相手の気持ちが見えなくなり、自分の都合のいいように解釈してしまう逆転現象が起こりやすいのも恋です。結構やっかいで困難なのが恋。ですから面倒臭いなら、しない方が賢明です。友達も恋をしているし、しないで子どもと思われたらいやだと考えて、あせる必要は全くありません。恋を知らなくても充実した生活は送れます。でも、恋をしてしまった時は、せっかくだからこの扱いにくい感情に立ち向かってみてはいかが? ますは昔の恋物語でレッスンワン。
『あしながおじさん』(ジーン・ウェブスター:作 谷口有美子:訳 岩波少年文庫)。一九一二年作。孤児のジュディは、謎の人物の援助で大学に進学します。条件は、大学生活を手紙に書いて報告すること。なんとか返事をもらおうと、ジュディは自分の考えを積極的に述べるのですが、そこには恋の悩みも含まれます。つまり恋の感情を言葉にしていくのです。日記と違って、手紙は誰かが読む前提で書きますので、彼女は自分の恋を客観的に説明できるようになります。
『青い麦』(コレット:作 河野万里子:訳 光文社文庫)は一九二三年作。幼なじみのフィリップとヴァンカは毎夏、ブルターニュを訪れて無邪気に遊びます。でも、今年の二人は一六歳と一五歳。もう性に目覚めていますから去年までとは違ってぎこちない。フィリップはヴァンカを大好きなのですが、彼女の表情や仕草を見ても心が巧くつかめません。
細かな心理描写が多いので文章を読み取るには少し読書力がいります。もし頭に入ってこなければ無理をせず本を閉じ、いつか読む候補に入れておいてください。
結末は、どちらも内緒。
 一つだけアドバイス。運命の人なんていません。探すのは時間の無駄です。目の前の恋を大切に。

第十回 教養(2011.01)
人は誰でも、どんな服が好きだといった趣味から生き方まで、自分自身の考えを持っています。でも、その考えが本当に自分自身のものかどうかは案外不確かです。たとえばグループのリーダー格が何かをクールだと言ったとき。あなたはそう思っていなくても、逆らうのも怖いので同調するかもしれません。するといつの間にかそれがクールに思えてくる。その場合、押しつけられたと思うとプライドが傷つくので、自分自身の考えだと信じようとします。特に周りから一人前だと認められたい欲求が強いYA時期には、そうしたことが起こりがちです。
『ヒトラー・ユーゲントの若者たち』(S.C.バートレティ:作 林田康一:訳 あすなろ書房)。ヒトラー・ユーゲントはナチスの下部組織です。最初それは特権的地位だったので、入隊を許された若者たちは、独裁国家に忠誠を誓ったのは自分の考えだと思い込み、親をも密告するようになります。より若い人たちは彼らに憧れ、入隊希望者が増え、ナチズムはまたたくまにドイツ全土に拡がっていくのです。そうした歴史を、当時のYA自身の証言で再現したドキュメント。
『かべ--鉄のカーテンのむこうに育って』(ピータ・シス:作 福本友美子:訳 BL出版)。共産党一党支配時代のチェコに生まれ育った作家の自伝絵本です。彼は、家では好きに絵を描けましたが、学校では言われた通りに描いていました。やがて、自分自身で戦車や戦争の絵を描くようになります。「教わったことに、何も疑問をもたなかった」のです。十歳の日記には、「ぼくたちは親の不正をみつけたら報告をしなければならない、と教わる」と書かれています。
 人には考える自由があります。とはいえ、その自由を確保するには自分を客観的に見つめる余裕が必要です。それはどのようにして得られるのか? 私は古い人間なので、古い言葉を使います。
教養を身につけてください。

第十一回 世界(2011.02)
 これはYAだけではないのですが、日本人は以前ほど他の国に興味を持っていないように見えます。翻訳本の売れ行きは芳しくなく、海外留学者数は激減し、外国映画は日本語吹き替え版が好まれ、洋楽も悲惨です。この現状にYAはもっと危機感を持っていいと思います。
私たちは周りの人を判断するとき、自分の持っている経験や知識を使うしかありません。ですから自国のことしか知らないと、誰もが自分と似た価値基準を持っていると思い込んでしまいがちです。すると、少しでも違う行動をしたり、考え方を持っていたりする人を理解しにくくなり、排除したくなりかねません。もちろん自分が排除される側に回る可能性も高くなります。でも、他の国の文化や歴史を知っていれば判断材料は多くなり、そういう人が増えれば増えるほど、互いに寛容になってきますから、結果的にリスクも少なくなるのです。
『消えたヴァイオリン』(スザンヌ・ダンラップ:作 西本かおる:訳 小学館)。ヴァイオリニストの父親を殺された少女テレジアが事件解決に向かって突き進む! 舞台はオースチリアのウィーン。時代は一八世紀。作者は音楽史の研究者なので、当時のウィーンの政治から町並み、女性の衣装まで詳細に描かれていて歴史と文化、二つのジャンルへの好奇心が刺激されます。
『ボーイ・キルズ・マン』(マット・ワイマン:作 長友恵子:訳 すずき出版)。義父の暴力から逃げ出すために十二歳のソニーが選んだ道は、麻薬マフィアの殺し屋になること。子どもなら敵が油断するので都合がいいのです。「ありえねえ!」ですって? ええ、日本ならその通り。でも舞台は南米コロンビア。YA向けの物語として書かれるほど、あり得る話なのです。子どもだから使えたソニーもやがて大きくなっていきます。つまりYAに。マフィアの役に立たなくなった彼を待ち受けている運命は?

第十二回 震災(2011.04)
 地震が起こりました。直接被害を受けたYAも、そうでないYAもいると思います。
落ち着け! とか、がんばれ! なんて言いません。そんなの無理です。だけど6週間が過ぎ、震災前と今の自分を比較はできるかもしれません。
変わりましたか? 変わってしまいましたか? 答えは色々でしょうが、身の回りのことだけではなく、社会全体を考えるようになった方も多いと思います。一見大人になったようですが、普通ならゆっくりと進むはずの心の変化が、また準備もできていないのに加速され、あなたの許容範囲を超えている可能性があります。アスリートのように徐々にクールダウンして、日常に戻してください。
今日ご紹介する物語は実話に基づいた『青いイルカの島』(スコット・オデル:作 藤原英司:訳 理論社)。ある事情で住民全員が島を去る。ところが弟が乗り遅れた十二歳のカラーナは船から海へ飛び込みます。結局弟は野犬に殺されてしまい、彼女は大人の保護がないまま、一人で生きていきます。漁も狩りも自分で考え工夫し、誇りを失わず、淡々と毎日を生き延びていく姿はとても美しいです。
学校から歌やファッションまで、社会はYAが大人になるために必要なものを提供していますが、しばらくは充実できないと思います。
あなたがYAの時、東日本大震災が起こったのは偶然です。言い方を変えればYAとして体験したのはあなたです。いつか話せる日が来たら、下の世代のYAにその記憶を伝えてください。そのとき、あなたはもう大人です。だって、下の世代に過去の歴史を受け渡すのは、大人の大切な役目ですからね。