2002.09.25日号

       

【絵本】
『テディベアに そだてられた おとこのこ』(ジャニー・ウイルス:ぶん スーザン・バーレイ:え 河野万里子:訳 2001/2002)
 これは、公園で見つけた乳母車の中にいた赤ん坊を、てっきり親がいないものと思いこんだ3匹のテディベアが連れて帰って3年間育て上げるという絵本。
 テディベアだから、なんだかほのぼの系ですが、自分はテディベアだと思って育つ男の子って、結構すごい話。
 お母さんがやっと探し当て、でもボクはテディベアだと主張する男の子。
 結局、テディベアたちはテディベアとして、子ども部屋に収まることで閉じられますが、子ども部屋が、こういう迂回路を取ってから初めて立ち現れてくるところが面白い。(hico)
 
『オオカミくんのホットケーキ』(ジャン・フィアンリー:さく まつかわまゆみ:やく 評論社 1990/2002)
 ま、既成の昔話をひっくり返しただけっていえば、だけなんです。
 パンケーキを作る手伝いをちっともしてくれなかった、昔話の中で日頃オオカミをやっつける面々。でも、できたとたん、やってきて食べる手伝いをしてあげる、だと。
 で、オオカミ、彼らみんなをたいらげる。
 画はいい。物語のテンポもいい。
 でもこれで衝撃(おもしろい!)うける人って、パロられる元ネタを知っている必要あり。
 みんな食べてしまうのは、それで全然いいと思うけどね。(hico)

『わたしの おいわいのとき』(バード・ベイラー:文 ピーター・パーナル:絵 田嶋さき子:訳 偕成社 1986/2002)
 さばくに暮らす「わたし」は、たいくつではないかとか、さみしくないかと訊かれる。そんなことはない。ここには様々な出来事がある。それを観、聴きする力があるなら。
 この絵本は、「私」が出会ったすてきなこと(彼女はそのたびにおいわいをするのだが)の一部が語られている。現実の出来事もあるし、「私」にだけ見えたこともある。
 自然とリンクした心の出来事とでも言ったらいいか。
 が、画がどうも合っていない。
 描きすぎ、強調しすぎている。ベタ絵ではありません。むしろ背景が抜けています。が、だからこそ、描かれた部分が大事なんだけど・・・・。(hico)

『みんな とくべつ』(ジャン・ファーンリー:さく まつかわまゆみ:やく 評論社 2000/2002)
 ネズミの母子。
 家に帰る途中に、鳥やうさぎや、きつねなど、色んな親子をみます。
 飛べたり、穴を掘れたり、速く走ったり、それぞれの親は得意があるのに、ぼくのママはそんなことできない。
 と、がっかりの子どもに、母ネズミは、悪いことをしたらちゃんと叱るし、それでもお前をずーっと愛しているといいます。
 ネズミの母子を読者である人間の母子に見立てての話ですから、それもありなのでしょうが、ちょっと説得力ないな〜。(hico)

『クワガタムシ カブトムシ・超はっけん大図鑑1』(監修:海野和男 ポプラ社 2002)
 歴史的にいえば、なんで図鑑なんてものがあるかというと、それは、世界のあらゆるものを「支配」したい欲望によって作られたからなのですが(例えば荒俣さんの著作を参照)、「支配」はともかく、今は「把握」の仕方、見せ方にバランスはあります。
 この出版社は、その点でのスキルは高いでしょう。
 この図鑑1もマンガ絵の使い方などに文句はありますが、「クワガタムシ カブトムシ」好きの子どもには、いいお調べ本です。(hico)

『サバンナのともだち』(キャロライン・ピッチャー:文 ジャッキー・モリス:絵 さくまゆみこ:訳 光村教育図書 1998/2002)
 この作品は、二重にファンタジックだ。
 一つは、こんなことがあるはずもないで、もう一つは、でもここには確かに成立している。
 アフリカ、サバンナ。ライオンのほえ声。
 ライオンに会いたい。
 そう思うジョゼフ。
 やかて彼は出会い、友だちとなる。
 アフリカの危険から守ってくれる、ライオン。
 でも密漁動物の仲買人がやってきて、父親に申し込んだ。
 ライオンの子を良い値で買うと・・・。
 ライオンと出会うとは、アフリカの大地をそのまま受け入れること。一つ一つの命の意味を大切に思うこと。大人になることです。(hico)

『クジラがくれた力』(小島 曠太郎&えがみともこ写真・文 ポプラ社 2002)
『クジラがとれた日』に続く第2弾。
 獲れたクジラを干し肉にして、山の民のもとへ。トウモロコシなどと交換です。
 海と暮らす人々と山で暮らす人々。お互いの足りない分を補っています。
 今回もいい写真と、簡潔な文。
 厳しい暮らしがむしろ暖かく見えてきます。(hico)

『ぜっこう』(柴田愛子・文 伊藤秀男・絵 ポプラ社 2002)
 『けんかのきもち』第2弾。
 こんどは「ぜっこう」のお話。
 仲良しのはずのがくはしゅんたろうにぜっこう宣言。まわりの子も同意。
 なんでしゅんたろうは、ぜっこうされたの?
 しゅんたろうのよくないところをみんながつぎつぎと指摘。
 それらは許せるのか?
 仲裁に入った大人のアイコにがくたちの鋭い質問が飛びます。
 子どもの絵本というより、子どもと向かい合う大人の絵本。(hico)

【創作】
『海辺のカフカ』 (村上春樹 新潮社 2002年9月)
 無力を痛感するゆえに、自分を鍛え、強くあろうと努力している15歳の僕。ひとつの区切りである誕生日に、自分が「損なわれ、奪われていた」家を捨て、二度と戻らない旅に出る。母に捨てられたことによる自己否定と新たな再生の経験、父のかけた呪いからの解放、他者との対話の中に自己を見出していく手順などの物語の縦糸は、子どもの文学ととても親しい。 
 また、細い流れが幾筋も集まり、符号が重なって、複層的な物語が響いていく作法、「カラスと呼ばれる少年」が語る心の声、彼岸と此岸のあわいの世界の通過と帰還も、子どもの文学というカテゴリに含まれる多くの物語と通じ合うのではないか。
 作品は、符号しあいながらも混沌として、私たちが今生きている現実そのもののようにいろいろなものを飲み込んでいる。ラストで、私の心には「希望」という言葉が自然に浮かび、この物語が子どもの文学が元来持ち合わせているものと呼応しているようで、わくわくした。この作品も、子どもの文学も、私たちが生きている世界にコミットしようとする、真摯さを持つ。
 本流の渦の中で静かに大胆に役割を果たしていく人々が印象的である。子ども時代、おそらくは暴力の内側に閉じ込められていたという点で僕とリンクしていくナカタさんの中にある無限。ユーモラスな星野青年の背中には、グッド・ラックと言わずにはいられない。すばらしい援け手である大島さんにも奥行きが感じられて、様々に想像をめぐらせてしまう。
 道をともにし、あるいは互いにその存在すら知らずにひそやかに成された大事件。15歳の少年の、抱え続けてきた傷を越えた新たな出発は、こんなにも大きな歯車をひとまわりさせるだけの価値があるという見方もまた、私の好きな文学の立脚点に近い。
 もちろん、村上春樹の他の作品とも二重三重に呼応しているし、音楽や哲学や古典の引用も贅沢である。(鈴木宏枝)

『難民少年』(ベンジャミン・ゼファニア:作 金原瑞人・小川美紀:共訳 講談社 2001/2002)
アレムの出来が良すぎるけど、そのことが鼻につかないのがすごいね。というか、
あの状況の中で書き手が彼に視点を外していないからかな。
ラストはうまく行きすぎとの意見もあろうが、前が描かれているので、YAの一
つの終わり方として、これもアリやと思う。こういうのもないと。
それと、政治情勢の説明が、アレムと父親、母親を使って、巧くなされている。
どうしようもない情勢の翻弄されること。本当は、難民でなくても、特に子ども
はそういう情勢の中にいる。ロバートやルースが動いたのも何もアレムのためだ
けじゃない。ってところまで、伝わればいいね。(hico)

『マイ・ベスト・フレンド』(ジャクリーン・ウィルソン:作 小竹由美子:訳 偕成社1996)
 マンディーはとっと冴えない女の子。遅くに産まれた一人っ子だから、母親の甘やかし振りは大変。マンディもそれにうんざりはしているけど、母親の気持ちも分かるから・・・。
 イジメっ子たちは、両親のことで彼女をからかう。
 そんなマンディに友人が出来る。孤児で隣の家に預けられているターニャ。オレンジ色の髪の毛、自由な振る舞い。万引きさえしなければ、最高なんだけど。
 この作品、軽いタッチで、重い問題を活写してます。そこがすごい。
 ラストもピタリ決まってます。
 目から鱗とか、全く新しい物語を読めたとかではないですが、いい物語に時間を費やさせていただきました。おおきに。(hico)

『ケルトとローマの息子』(ローズマリー・サトクリフ:作 灰島かり:訳 ほるぷ出版 1955/2002)
 これは、様々な過酷な運命により、人間として生きることを放棄しようとまで思った主人公が再生するもでを描いてます。
 サトクリフですから当然歴史小説。
 ベリックはケルト人の戦士だが、実はローマ人。昔海難事故で両親が亡くなり、奇跡的に生き残った彼を、子どもを死なせたばかりの夫婦がそだててくれたのだ。
 が、村に災いが続いた時、村人はローマ人を受け入れたせいだといい、ベリックは追放される。
 「ワシ」(ローマの軍団)に入ろうと街に出るも、だまされて奴隷に売られる。その家の長男に疎まれたベリックは、その息子が父親から彼をもらい受けた日、逃亡奴隷となる。
 運良く彼をかくまってくれた元逃亡奴隷の女。が、ここでは泥棒一味と間違えられ捕まる。真実を明かせば奴隷に逆戻り。それはさけたい。だが、泥棒なら、死刑かガレー船のこぎ手として一生を言えることに。
 結局ベリックはガレー船に乗り組み、鎖で繋がれたまま櫂をこぐ日々・・・。
 という具合です。
 もう、希望のひとかけらもなく物語は進んでいきます。サトクリフは決して甘い作家ではありませんが、ここまでの過酷さは珍しい。
 もちろん、「幸せな結末」が用意されているのは50年代の物語です。
 しかしサトクリフ作品がさかんに訳されていた70年前後にこれを読んでいたら、おそらくとまどったのですが、今読むと、己の居場所を失った若者の姿にはとてもよくシンクロできます。(hico)

『うちの屋台にきてみんしゃい』(大塚菜生:作 藤田ひおこ:絵 岩崎書店 2002)
 博多といえばもう屋台なんですが、この作品は両親が屋台を営む娘貴夏の心に沿って描かれています。
 博多の屋台とはどんなものか? を知らない方にもオススメです。
 でも、そういうことではなく、児童文学として、読みます(しつこいけど、博多の屋台はいいよ。なごむ)。
 貴夏なる名前は、両親の屋台の店名でもあります。
 そうすることで、大塚は、貴夏のアイデンティティを顕在化します。屋台と私が同じ価値? との「?」と、彼女から観れば両親は人間の貴夏より、屋台のそれのほうに気がいっている。
 物語は、父親が事故で怪我をし、貴夏が屋台を手伝う、つまり、自分とバティングする屋台をサポートすることで、動き出します。
 屋台を営むという特殊といえば特殊な家族を設定することで、大塚は、親と子のぶっちゃけた関係をすくい取っています。
 絵はベタ過ぎ。編集者のもう一工夫が必要でしょう。(hico)

『オタマジャクシのうんどうかい』(阿部夏丸:作 村上康成:絵 講談社 2002)
 村上の画に関しては、もう成立しているので、触れる必要はないでしょう。
 これは「ドーナツいけ」シリーズの3作目。
 「うんどうかい」ですから、「競争」です。
 で、一匹のオタマジャクシはシッポは半分に切れていて、いつもいつもビリ。
 だから、先生も含めたみんなは、彼と平等にするにはどうすればいいか、を考えるのね。
 いいアイデアが産まれる。
 けど、シッポ半分オタマジャクシの気持ちとしては・・・。
 平等的差別をうまくえがいています。
 いいよ。(hico)