2003.03.25日号

       
【絵本】
3月児童文学批評

やっと会えたね。ダン・ヤッカリーノの絵本
 出版社に勤めていた時、レイン・スミスのあとに来るのは、ダン・ヤッカリーノだ!と絵本を集めて検討していたけれど、そのうち辞めてしまったので、そのままになっていました。ちょっとへんてこな設定やだまし絵っぽい発想、ふしぎな感性が気になってしょうがありませんでした。アメリカでの活躍を見るにつけ、日本ではいつ紹介されるかなと心待ちにしていたら、やっと『たこのぼうやがついてきた』(小峰書店)で初翻訳。そのあとが続かないなあと心配していたら、ちょっぴりシンプルでかわいくなってまた、会えました。『ハロー オズワルド あたらしいともだち』(青山 南訳 小峰書店 2003.3)がそうです。これはもともとアメリカの幼児雑誌のコママンガに最初に登場したキャラクター。あれよあれよと人気者になったタコのオズワルドくん。アニメーションにもなって、キャラクターグッズもでてきて、最後に絵本での日本上陸。原書はふたまわりくらい大きな判型で、のんびりゆったりしたオズワルドくんの雰囲気にあっていたんだけど、日本版はちょっときゅうくつそうかな。おはなしもビックシティに引っ越してきたという設定なので、これから活躍する登場人物(ペンギン、雪だるま、お花、ふたごのゆでたまご……と奇妙な友達ばかりなんだけど)が順々にでてくるだけのシンプルなものですが、ヤッカリーノですから、これからひねってくるのではと期待したいところ。日本ではどういうふうにオズワルドくんをキャラクター展開していくのかは知りませんが、この機会にヤッカリーノの絵本がたくさん紹介されるようになれば良いなあと思います。初期の作品はなかなか幻想的で、ワイズ・ブラウンやケビン・ヘンクスと組んだ意欲作もあるし、赤ちゃん絵本も楽しく工夫をこらして作っています。ピーター・シスが『マットくんのトラック トラック トラック』(BL出版)でかわいく新境地を開拓したように、ヤッカリーノもオズワルドくんで自分の居場所を広げたようです。(ほそえ)

絵本
『あっちむいて ほいぞう』(矢玉四郎作 ポプラ社 2003.2)
 「あっちむいて ほい」と象の鼻が動くと、それに合わせ動物たちの顔も動くという絵本。余りの単純さに何かオチがあるのではないかと終わりまで読みすすめると、後ろを向いておしまい。『まえむき、よこむき、うしろむき』(鈴木まもる 金の星社)を思い出させる構成だが、もっとおまぬけ。コンピューターで描かれたと思われるぶよぶよの線やグラデーションの塗りは好みが別れるところ。(ほそえ)

『ジャッキーのパンやさん』(絵あだちなみ 文あいはらひろゆき ブロンズ新社 2003.2)
 くまのがっこうシリーズの2作目。12匹のくまの子がパンを作って、売ろうとするのだけれど、売れずにじぶんたちでたべちゃいましたってお話。う〜ん。<6 おくろっく。>なんて表記がかわいいと思っちゃう人にはかわいい絵本なんだろうな。絵はかわいい。イラストの構成も凝っている。けれど、このお話じゃあ、かなしすぎる。バンダイキャラクター研究所は絵本からキャラクターを立ち上げようといろいろと動いているのですが、ふつうの雑貨キャラクターになにかしらの魅力をプラスアルファするためだけに絵本を使おうというのは、ちょっとむしが良すぎるというもの。(ほそえ)

『うえへまいりまあす』(長谷川義史 PHP研究所 2003.2)
 長谷川義史の絵本は過剰さがうりだ。『おじいちゃんのおじいちゃんのおじいちゃん』(BL出版)での描き文字、画面いっぱいに描かれるもの。その過剰さを全面に出したのが絵本。デパートにお買い物にいった家族が最初はおとなしく(?)水着やパンツやおもちゃを買っていたのに、なぜかデパートの上階でおすもうさんや忍者や地獄や神様を買ってしまう。なんで、こんなものが売ってるの?とびっくりさせて、オチもきれいについているのだが、ぶっ飛び方がちょっとパターンにはまってしまったような。でも、ハッピービリケンさんは買ってみたいぞ。(ほそえ)

『森のおひめさま』(ジビュレ・フォン・オルファース作 秦 理絵子訳 平凡社 2003.2)
 ほぼ100年近く版を変え読みつがれてきたオルファースの絵本のひさしぶりの刊行です。以前、福武書店で『ねっこぼっこ』『ちょうちょのくにへ』が刊行されていました。オルファースは4月にあと2冊刊行される
ので、来月まとめて紹介します。(ほそえ)

『ともだちからともだちへ』(アンソニー・フランスさく  ティファニー・ビーク絵 木坂 涼訳 理論社 2003.3)何にもする気になれなくてパジャマのままで家の中でぼんやりするだけのクマネズミに差出人のわからない手紙が届きます。「……きみはたいせつなたいせつなともだち それをつたえたくて てがみをかきました。またね!」なんて素敵な手紙。書いてくれた人にお礼に行かなくちゃ。でも、だれかしら?ひさしぶりにともだちの家を訪ね、いろいろと動き始めるクマネズミ。自分ひとり、と思ってばかりの日々からみんなの中へ入っていくちょっとしたきっかけ。それを次へとつなげていくところがいい。作家も画家も日本初紹介。のびやかな筆づかいの水彩に大きな空や野原が広がってとても気持ちの良い絵。テキストの書体がちょっと絵にまけて読みにくいページがあるが、表紙のデザインも、シールの扱いも絵の雰囲気によくあっている。この画家は気になる絵本がいくつもあるので要チェック。もっと翻訳が出るといい。(ほそえ)

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『セレステイーヌの おいたち』(ガブエル・バンサン:さく もり ひさし:やく BL出版 2001/2003.01)
 『くまのアーネストおじさん』シリーズ最終話。バンサン自身の最後の作品でもあります。
 決心して、ついにセレ・スティーヌはアーネストに自分がどうして彼に育てられているかを尋ねます。
 ごみばこにすてられていたことなど、いつかは話さなければいけない事実をアーネストは語ります。
 それは悲しい出来事ですが、今二人が強く結ばれている限り、乗り越えられる。それを信じて、いつも繊細な画を提供してくれるこの作者は、そしてそれを読者も信じられるように描いていきます。
 その暖かさといったら!(hico)

『岸辺のふたり』(マイケル・ヂュドク・ドゥ・ヴィット:作 うちだ ややこ:訳 くもん出版 2002/2003.03)
 2001年アカデミー賞最優秀アミメーション短編賞受賞のアニメを、絵本化したもの。
 父親と自転車に乗り、岸辺へ。自分だけボートに乗り込む父。見送る娘。そうして彼女の日々が始まる。父を待つ彼女も大きくなり恋をし、結婚をし、子どももでき、やがて年老いて・・・・。
 静かな世界、トーンが低めの画、過ぎゆく人生。ちょうどいい温度の作品。
 小学校中学年からになってますが、大人向けでしょうね。(hico)

『やったね! ぼく おにいちゃんだ』(こわせたまみ・さく 秋里信子・え PHP 2003.01)
 今度赤ん坊が生まれる男の子の不安を、描いた絵本。よくある設定ですね。
 赤ん坊を楽しみにしている「ぼく」に、ネコのミオは、赤ん坊が生まれたら、もう、おかあさんに甘えられないとか、えほんを読んでもらえないなんて言います。
 翌朝、赤ん坊がベッドに。あやす「ぼく」ですが、泣きやまないので、ほおって遊びに出かけます。赤ん坊の泣き声が聞こえなくなって、不安になった「ぼく」は・・・。
 ストーリーはもう少しシンプルにしたほうが良かった。けれど、物語が、迂回路をたどりながら、かろうじて進んで行くいまどきの風景が、この絵本にもあるのかもしれません。(hico)

『カーロ、せかいを よむ』(ジェシカ・スパニョール:作 アーサー・ビナード:訳 フレーベル館 2001/2002.12)
「あさ めが さめると カーロは じぶんの へやを よみます」
 カーロはキリンね。「じぶんの へやを よみます」は部屋の中にある様々な物の名前を読むこと。絵の中では、それらの物に付箋がついていて「ほん」とか書いてあります。
 そうして、カーロは家を出て、世界を読んでいくわけです。
 なるほど、私たちは日々、世界を読んでいます。そう認識しないだけで。
 この絵本はそこを顕在化させることで、生き物からブツまで、それぞれの固有性をいったんフラットにして、改めて確認させてくれます。
 非常に単純な発想ですが、やられてしまうと、うなってしまう。(hico)

『こわがりハーブ えほんのオオカミにきをつけて』(ローレン・チャイルド:さく なかがわちひろ:やく フレーベル館 2000/2003.01)
 『ぜったい たべないからね』のローレン・チャイルド2000年の作品。
 めっちゃ恐がりのハーブ。絵本の中のオオカミももちろん怖い。で、おかあさんがいないとき、絵本から2匹のオオカミが飛び出してきて・・・。から、お姫様も魔女も妖精もどんどん絵本からでてきて、お話はハチャメチャに展開していきます。最後に置かれる静けさもまたよし。この作家のユーモアは一級品。(hico)

『旅するベッド』(ジョン・バーミンガム:作 長田弘:訳 ほるぷ出版 2003.2003.01)
 ベッドが小さくなったので父親と新しいのを買いにでかけるジョージ。でも買ったのは古道具。だって、どこにでも自由にいけるベッドらしいから。ただし自分だけの魔法の言葉を唱えれば。
 こうしてバーミンガムはジョージに毎夜ワクワクドキドキな体験を用意します。ジョージがどんな言葉を見つけたのか、これは単なる彼の夢なのか、なんてことをもちろん、作者は明らかにしません。このある意味で不安定なラストは、近頃のファンタジーにみられる「行ちゃったきり物語」と共鳴しとります。(hico)

『スモウマン』(中川ひろたか:ぶん 長谷川義史:え 講談社 2002.12)
 スーパーマンならぬスモウマンというわけ。
 おもしろさはそこでつきてしまうのですが、長谷川の画面構成の勢いが、ページを繰らせます。
 ハハハ、と若い飛ばして、忘れてオッケイです。(hico)

『ねむる』(長新太:作 文渓堂 2002)
 長さんによれば、ミルクでもハジャマでも、なんでも眠るそうなんだ。
 そうか。そうなのか。
 そりゃそうだ、一日中起きてたらミルクも疲れるわな。(hico)

『ねんねだよ、ちびかいじゅう!』(マリオ・ラモ:絵・文 原光枝:訳 平凡社 1996/2003)
 いくら眠る時間だといっても、何かといって寝たがらないちびかいじゅう。父親は人間で、子どもはかいじゅうです。
 だだこねて、眠るまでがおもしろおかしく展開し、楽しい。
 オチもよし。(hico)

『ぼく とびたくないんだ』(のらり&くらり アスラン書房 2003.01)
 そろそろ巣立ちのエナガ。たった一羽が飛びたくない。親鳥だけでなく、色んな鳥もやってきて、説得するのですが・・・。
 「安心」がキーワード。小さな子のね。
 画はしっかりと的確。でもその分、勢いはありません。「安心」だからいいのかな?(hico)

『大空の下で』(監修:オノ・ヨーコ 絵と文:テレヴォア・ロメイン 訳:斉藤早苗 主婦の友社 1993/2003)
 8歳から絵本を書き始め、17冊出版。40冊が進行中とのこと。
 オノ・ヨーコが余分。
 老人に、宝物をあげるかわりに、人生の秘密を探してきなさいと言われ、世界中を旅する少年の物語。
 癒し系のオチ。大空の下こそ宝物だ、と。だから愛と平和なんですね。(hico)

『やねうらべやの おにんぎょうさん』(柳生まち子 福音館 2003.01)
 屋根裏に自分の名前も忘れたおにんぎょうがいます。
 さみしい彼女に、ネズミとことりと知り合い、楽しい日々、なんですが、やっぱり寂しい・・・・。
 もちろん、最後に幸せが待っています。
 柳生の優しい画によって、おにんぎょうの空虚さがよりクリアになります。
 丁寧なつくりの絵本です。(hico)

『おねがいだから なかよくしてね』(キャスリン・ホワイト:ぶん クリヅ・ライト:え 山口文生:やく 評論社 2000/2003.01)
 パパとママのけんかに、不安定になる、子どもの心が、かなり強烈に深く描かれています。人間ではなくアナグマで描いてますから、生々しさも救われるのですが。
 画も活き活き。
 でも、これって、誰のための絵本なんだろう?
 けんかしたら子どもによくないよか? んなアホな。
 「なかよくしてね」っていう子どもの気持は判るけど。(hico)

【創作】
『デルフィニア戦記 放浪の戦士1』(茅田砂胡 中央公論新社 2003)
「デルフィニア戦記」(全18巻)の中公文庫版第一弾。
 夢から目覚めたリィは、戦闘に巻き込まれ、偶然から孤立無援の戦士に助太刀する。リィが助けたのは、デルフィニア国王のウォルという男であった。デルフィニアは大陸有数の強国で、ウォルは内乱によって国外に脱出することを余儀なくされていた。しかしながら、育ての親の伯爵が軟禁されていることを知ったウォルは、単身で救出に向かう。先の戦闘は、その矢先での事件であった。一方、ウォルを助太刀したリィは、外見は十二、三歳の美少女でありながら、剣豪のウォルに劣らない戦闘力を有している、正体不明の戦士である。目が覚めたら、見ず知らずの土地に放り出されていただけでなく、性別まで男から女に変わってしまっていたことから、リィはウォルの相棒として救出作戦を手伝うことになる…。
 知る人ぞ知るティーンズノベルの有名シリーズがノベルズから装いを新たに、一般向けの文庫版として刊行されたこと自体が興味深い。小野不由美の「十二国記」シリーズが講談社文庫版で刊行された時にも痛感したのだが、「ティーンズノベル」はもはや「ティーンズ」だけのものではないということでしょう。感無量です。(meguro)

『キーリ』(壁井ユカコ:作 電撃文庫 2003)
 第9回電撃ゲーム小説大賞受賞作品です。
 キーリ、教会寄宿舎学校の学生。14歳。
 他の生徒はみんな相部屋なんですが、彼女だけは一人。というのは彼女の部屋には元その部屋で生活していたベッカという霊がいて、何故かキーリは彼女の存在を感受できてしまう。
 そんなわけで、当然のように周りからは敬遠され、孤独を生きています。ま、でも、ベッカがいるからさみしくはないのですが(そーゆーところがまた、敬遠される原因)。
 ある日キーリは不死人ハーヴェイと出会います。彼が携えているラジオにも「兵長」と呼ばれる霊が住み着いていて、キーリはそれも判ります。そうした特殊能力が彼女を疎外するのですが、だからこそ、キーリはハーヴェイに興味を持ちます。「兵長」をラジオから、彼の墓場まで届ける旅をハーヴェイはしていて、キーリは学校の休みを利用して(孤児で友達なしの、彼女は休みは孤独です)、宿題のレポートを書くのを口実に、彼らに同行する。
 そうして始まる奇妙な4人の列車の旅。
 実は不死人とは80年前の世界戦争の時作られた、再生能力を持つ兵で、今は見つけ次第殺してしまうことになっていて、危険な影が、ストーリーの緊張度を高めます。
 それぞれの孤独が寄り添った物語を、甘く切なくなるギリギリの辺りで止める作者の腕は買い。
 やっぱり「今」の物語です。(hico)

『かいけつゾロリのじごくりょこう』(原ゆたか・さく・え ポプラ社 2003)
 前作で地獄へいってしまったゾロリたちが、どうして帰還するか? が設定。作者のサービス精神は表紙や帯に至るまで、これでもかこれでもかで満ちあふれています。大人になってしまっている私はそのパワーに、食傷気味なのですが、たいしたもんです。
 これで子どもが喜ばないわけはない。(hico)

『非暴力で平和をもとめる人たち・戦争と平和の絵本4』(目良誠二郎:文 石井勉:絵 大月書店 2003)
 シリーズも4冊もを迎え、具体性を帯びてきました。「テロに対する正義の戦争」に下院でただ一人ノーに投票した、バーバラ・リー。高校生のケイティ・シエラから始まって、たくさんの平和への闘いをした人々。事例がこの一冊には収まりきれないほど多く、幅広く書かれているので、窮屈さは否めません。が、出来るだけ沢山の平和の心を伝えたい気持は伝わります。最後に挙げられている『世界がもし100人の村だったら』は逆に問題を見えなくしてしまう本だと思うけど。
 参考文献の他に、参考にしたHPも載せているのは、情報として、いいですね。(hico)

『どこにでもある青い空』(杉本りえ ポプラ社 2003)
 同じ県営団地に住む、彩、航、太一。5年生。それぞれに事情を抱えています。両親の離婚で都会から母方の祖父母のいる団地に転校してきた航は、学力が落ちてしまうことが不安でクラスにとけ込めず、勉強ばっかり。世話好きの太一と衝突してしまう。
 彩は、別れたパパを嫌いではないが、決められた父と過ごす時間を疎ましく思う自分を責めています。太一は、高校生になってから変わってしまった姉のために家族がギクシャクしていること、そして航とうまく行かない事に悩んでいます。
 それらを3人がクリアしていくわけです。
 モノローグで気持を語りすぎているのが気にかかりますが、彼らの心がほぐれていく様は同じ年頃の子どもには心地いいでしょう。
 タイトルはも少し工夫が欲しい。(hico)

『ミカ×ミカ!』(伊藤たかみ 理論社 2003.02)
 『ミカ』の続編です。前作のオトトイに変わって、今回は青いインコで、シアワセと名付けられたから幸せの青い鳥になろうと決心しているインコが出てきます。こいつ、「ぼく」の耳元で、話すのね。色々と。で、それが不思議でも何でもないのは、[ミカ」でのお約束。
 さて今回はオトコオンナのミカが恋をして振られ、「女らしさ」に目覚めようなんてジテバタからスタートし、「ぼく」の恋と、「ミカ」の恋の成り行きが語られます。
 っても、初恋物語でもなんでもなく、コテコテの大阪弁で、中学生のダラダラした日常をダラダラと描いてます。それがいいんですよ。
 でもミカはオトコオンナを降りないでね。(hico)

『バビロン・ゲーム』(キャサリン・ロバーツ:作 米山裕子:訳 集英社 2002/2002.11)
 集英社もファンタジーに参入。『アースヘイブン物語』の作者の新訳。世界7不思議ファンタジー・シリーズです。ってことはあと6冊か〜。
 紀元前6世紀のバビロンで物語は始まります。
 王家の指輪を偶然見つけたティアマット。そこに刻まれた言葉には重要な意味が隠されているけれど、彼女はまだ知らない。トゥエンティ・スクエアなるゲームのチームに入りたい彼女はその理由を伝えようと親友のシミオンを連れ出す。二重の城壁の中には、ドラゴンたちが囚われていた。それを救うために決勝戦が王宮で行われるゲームのメンバーになりたいわけ。ドラゴンはある儀式のために生け贄とされる。食事も与えられていない彼らにティアマットは餌を与えるのだが、そのとき舌で右の親指をなめられる。ドラゴンの毒によって死ぬはずが、そうではなく、彼女をトゥエンティ・スクエアの名手をする。
 ってあたりから、話は動き始め、王国の存亡に関わる秘密にかれらは関わっていくこととなる。
 そんな大きな物語と、ティアマットを憎む、同じチームの少年との闘いの物語などがほどよくブレンドされ、読ませます。(hico)

『もっと! そばかすイェシ』(ミリヤム・プレスラー・作 齋藤尚子・訳 山西ゲンイチ・絵 徳間書店 2000/2003.01)
 イェシがかえってきました。
 今回は兄のアヒムが交通事故で重傷となり、沈みがちな彼女ですが、お兄ちゃんにプレゼントするためのお金集めに奮闘。これが、可愛くっていいですよ。(hico)

『ジョニー・ディクソン-ミイラと遺書と地下聖堂』(ジョン・ベレアーズ・作 林啓恵・訳 集英社 1983/2003.01)
 サブタイトルがもう、ベタに内容を語っております。
 大富豪グロムヒは遺書を残さないまま無くなったのですが、実は存在し、そのヒントが彼の大邸宅に隠されている。グロムヒ夫人はその遺書を見つけてくれたものには1000ドルの報酬を与えると発表。
 ある理由で、お金がいることとなったジョニーは、遺書探しを決意。はてさて、そいつはどこに?
 この謎解きと陰謀で物語はスピード上げて進んで行きます。
 テーマだの関係なく、おもしろさだけを求めて書かれた物語。ひとときこの世界に浸って、忘れ去る。それでいいし、それが読書の楽しみの一つ。(hico)

『大きなおなべのレストラン』(竹下文子:文 秋里信子:絵 国土社 2003.02)
 うさぎおばあちゃんの子どもたちは田舎をでてしまい、一人暮らし。子どもたちが小さかったときよく使っていた大きなおなべはもう、役目を終えています。でもなかなか捨てられないうさぎおばあちゃん。
 ある日大雪で、彼女の元に足止めになってしまったタヌキの母と子どもたち。うさぎおばあちゃんは、久しぶりに大きなおなべを出して、おいしいシチューをつくります。そして、
 さして意外な展開はありません。でも読んでホカホカ暖かくなるのは確かでしょう。読み聞かせの方がいいのかな?(hico)

【評論】
『キャラクター小説の作り方』(大塚英志 講談社 2003)
 講談社現代新書。
 編集者・評論家・小説家(マンガ原作も含む)の大塚による小説講座。大塚によれば、「キャラクター小説」とは「スニーカー文庫のような小説」のことで、「スニーカー文庫のような小説」とは「まんがやアニメやゲームといった「フィクション」を模倣した小説」を指し、これこそが「「現実」を模倣することで始まった近代の日本文学との決定的な違い」であると言う。「十二国記」(小野不由美)や「デルフィニア戦記」(茅田砂胡)が一般向けの文庫として刊行されるようになったことを考えるに、「キャラクター小説」の時代が到来しているのかも知れず、その意味で本書の登場は非常にアクチュアルである。ちなみに、『日本児童文学』2003年3・4月号の特集がまさしく「キャラクターを読む」。多くの論考が「キャラクター」における表象の強度の問題に言及できておらず、「登場人物」論でしかないのが残念だが、このような問題意識が共有されようになったことは注目に値する。
もちろん、小説の作り方のノウハウがプラクティカルに提示されているので、創作志望の方にも満足いただけると思う。(meguro)

『子どもはどのように絵本を読むのか』(ヴィクター・ワトソン&モラグ・スタイルズ編 谷本誠剛監訳 柏書房 2002.11)
 絵本が子どものどのように読まれているかをこんなふうに地道に解きあかそうとする姿勢を見たのは初めてだ。実によく絵を読んでいる子、言葉にとらわれている子、絵本からいろんな声を聞き分ける子、さまざまな読み方を丹念に文字に定着させようと教師は工夫をこらす。バーニンガムの『おじいちゃん』を子どもたちが読みとく第6章、家族の声色を絵本の中に発見することで本の内容を理解しようとする女の子を書いた第8章がことにおもしろかった。「こどもの読み手はすごいけれど、本当にすごい大人の読み手にはかなわない。でも、そういう大人はほんのわずか……」(byいとうひろし「母の友」2000.1幼年童話から子どもが見えてくる)それが、この本を読むとよくわかる。絵本の読者論としてひとつの大きな試みがまとめらた本。(ほそえ)

『みんなで話そう、本のこと〜子どもの読書を変える新しい試み』(エイダン・チェインバーズ著 こだまともこ訳 柏書房 2003.2)
朝の10分読書運動にも、子どもの学校に週1時間ある読書の時間にも、どうにかなんないもんかと思ってしまう親のわたしは、ひさびさにおっと身を乗り出したくなる読書運動(なんて古い言葉…)の本だった。語ることによって、その本のことをよく知るようになる〜というこのチェインバーズの試み<ブック・トーク>(日本で使われる、ブックトークとは違って、読んだ本そのものについて話すということ)はなるほど、その通りと思わざるを得ない。毎月、こんなふうに感想を記録している身にとっては。
 子どもから本についての言葉をひきだしてしまうテクニック、本についての知識、子どもに対しての態度、どれも教師としてどの教科を担当しても必要な要素をそのまま読書にも当てはめていると言えなくもない。子どもと何かを一緒にしようという人なら誰でも必要になる要素だ。実際はとてもむずかしく、わたしも親の立場でどんなにひどい言葉掛けを子どもにしてきたか、振り返ってみて辛くなる。
 本をどういう風に楽しむか、大勢と一緒に本を楽しむことが可能なんだとわかるだけでもすてきな1冊。わたし個人としてはアニマシオンよりも好きな方法だったなあ。コミュニケートする手段として本を使うのではなく、本を語ることで自然とコミュニケートできるようになるというのがいい。(ほそえ) 

『くまのプーさん 英国文学の想像力』 安達まみ 光文社新書 2002年11月
 
 『ぼくたちがとてもちいさかったころ』(1924)『くまのプーさん』(1926)『さあぼくたちは6歳』(1927)『プー横丁にたった家』(1928)を取り上げ、丁寧に掘り下げた研究書。
 作家ミルンの生い立ちを丹念に追うことから始まり、英文学から見た側面や、息子クリストファーの複雑な思い(クリストファー自身が、”プーさんのクリストファー”であることを憎んでいたというのは、よく知られた事実である)など、正攻法で多角的に迫っている。
 ミルンの英語にあるリズムや韻などの技法や、卓越した軽みのおもしろさなど、今まで色々なところで見聞きしてきた情報をまとめて、分かりやすく道筋をつけてもらえた。プーさんだけではなく、前後の詩集とのかかわりからも論じられ、作品同士の相乗作用や、ひとつの作品が生まれる過程でのエピソードもとても興味深く、英文学から読み解くプーさんになっている。
 ミルン自身が「キャノン(正典)」や正統性に縛られて、プーさんシリーズの作者である自分を受け入れきることができず、次々に手を出したその後の文学では、逆に、プーさんの「絶妙な軽さ」を表現できなかったという指摘(p.245)。
 プーさんにすべてを奪われ、父に子ども時代を利用されたという意識から抜け切れなかったクリストファーが、やっと父から離れたところで自分の道を得て立てた話(p.260)。
 また、プーさんが生まれる前に、『ぼくたちがとてもちいさかったころ』に登場する小さなくまのぬいぐるみがあった。そのおもちゃのテディが、命を吹き込まれる瞬間と、元のモノに戻る瞬間の反転とが鮮やかに捉えられていると解説される詩「テディ・ベア」(p.51)もおもしろい。
 原文に忠実に、「コブタ」ではなく「ピグレット」、「トラー」ではなく「ティガー」という表記になっているのだが、ついついディズニーが浮かんできてしまい、悔しかった。なんだか間抜けな声をした赤シャツのクマと、ミルンの『クマのプーさん』は、可笑しさも、住んでいる世界の成り立ちも、登場人物どうしの関係も、まったく性質が違うものなのに。(鈴木宏枝)

『絵本のためのBOOK END ブックエンド創刊号』 発行・絵本学会 発売・フィルムアート社 2002年12月

 絵本学会の機関誌だが、普通の書店でも手に入る。プレ創刊号につづく創刊号。巻頭の3本の記事が、やはり読み応えがある。
 神宮輝夫氏の<新しい絵本の可能性>は、「ナンセンスとユーモア」という子どもの文学のキーワードを用いながら、絵本について楽しく語っている。ナンセンスな文学は「心の柔軟さ、思考の多様さ」を刺激するものであるという指摘(p.18)。
 石井直人氏と澤田精一氏の対談<90年代で絵本は変わった>は、「作り手自身が、絵本というメディアの可能性を狭めていないか?」というハテナから広がっていく。子どもの文学の作品だけでなく、批評の側も、成長物語を崩していくのだという石井氏の論から、絵本の読み解き方の今後も、(私たち自身で)考えていきたい。
 竹迫祐子氏の<新しい絵本表現を追って>は、「質の良さの循環」を願っている。「絵本の方が絵本を取り巻く社会より少し先に行った」という意見は、なるほど。だから、絵本はおもしろい。
 絵本と絵本を取り巻く全体的な世界のおもしろさ、絵本を好きな人を増やしていくために、現場で関わる人がチャレンジしていきたい様々の提案など、優しくも説得力のあるお話である。
 書評もいい。特に、『児童文学最終講義』を読む、最首悟氏。(鈴木宏枝)

『L文学完全読本』斎藤美奈子編著 マガジンハウス 2002年12月

 20代から30代の女性がよく読む気分の本をL文学としてまとめ、巷で人気の本の数々を、気持ちよく拾い上げている。女性作家が書いて、女性が支持し、多分に少女時代の読書体験と密接に絡んでくるリアリスティックな小説やエッセイが、「L文学」。私自身も、年齢でいえば読者層にすっぽり入ってしまうことになる。
 個人的に、『赤毛のアン』をはじめとする少女小説も、もはやブランドである山田詠美や江國香織も、恋愛や結婚、出産の本音エッセイも好きなのだが、林真理子は読んだことがないし、中高時代にはコバルトにはまることもなかった。アナタが好きなのはL文学よ、といわれてしまうと、天邪鬼になってしまう部分もある。
 とはいえ、これは、L<文学>というより、本もノベライゼーションも漫画もひっくるめたL<ブックス>のようなカテゴライズである。一応の大枠ではあるけれども、「ワタシ文学」の総体がL文学とすると、そのゆるやかさはしたたかな力でもあり、作品の性格ではなく読者が選択することによって生まれていく文学がある、という主張には共感する。
 そこからいえば、女性が書いて女性が読んで女性が元気になる、斎藤美奈子の文芸批評も、ひとつのL文学なのである。
 これは、子どもの文学にも、当然通じていく。ひとつには、子どもが選んでいく本、その重なり合っていく総体が、子どもの文学である、という考え方。子どもの文学とされている本が、(L)文学でもあるという越境性は、よく見られることであるし、ここに挙げられたL文学の多くを、おもしろく読むティーンエイジャー(やはり、女の子が多いだろうか?)はいるだろう。
 カテゴリーとして文学/子どもの文学に限らず、ひとりの子どもの本棚のバリエーションの分だけ「子どもの文学」は存在するのだという指摘は、『子ども性のしるし』(ホリンデイル/柏書房/2002年)にもあった。そこには、本の側ではなく、読者の側の重きをおいた視点がある。
 もうひとつは、子どもの文学らしさについて。
 子どもが読み、子どもが励まされる作品が子どもの文学であるという宣言だってできるだろう。ゲームの中にも、漫画の中にも、映像の中にも、たとえば、今、よく歌われている『世界に一つだけの花』(槙原敬之作詞・作曲)のような歌の中にも、語られる言葉がある。そして、「世界を生きやすくする助けとなる力」という、子どもの文学のひとつの性格が含まれている。そんな風に援用してみたい。(鈴木宏枝)