2005.10.25

       
【絵本】
児童文学書評2005.10月

○フランソワーズというひと
「ありがとうのえほん」1947
「おおきくなったら なにになる?」1957
「わたしのすきなもの」1960(以上、なかがわちひろ訳 偕成社 2005)

 アメリカでの最近のフランソワーズの絵本の復刊にはびっくりさせられる。まりーちゃんシリーズが全巻まとめて復刊された。日本では小さい判型で二冊まとめられてしまっている岩波子どもの本や福音館書店で翻訳されている絵本がロングセラーを続けていたのに、アメリカでは古書店で手に入れるしかなかったのだ。今なお手元においておきたいと思う人が多いのだろう。ただ、この復刊本の印刷のあまりのひどさにはびっくりしてしまう。もうすこしもとの本への愛着を形で見せてほしかったと思うのだけれど。最近では「まりーちゃんとおまつり」が徳間書店で翻訳され、あと翻訳されていない「まりーちゃんパリに行く」「まりーちゃん、今何時?」が日本語になるのも時間の問題ではないかしら?
 日本でもまりーちゃんシリーズ以外のお話絵本がほとんど刊行された。あと翻訳されていないのは「ねこのミノン」くらいでしょう。フランスで刊行されたいくつかの絵本については、まだ翻訳されていないと思う。
 今回、3冊刊行された絵本はフランソワーズの絵本のなかでもちょっと変わった位置付けにある絵本。アメリカで絵本を出版するようになって初めての仕事は、マザーグースとABCの絵本だった。そのあと、まり−ちゃんというキャラクターが生まれてくるのだけれど、そのまえにこの「ありがとうのえほん」をかいている。この絵本は初期のフランソワーズの絵の特徴のざっくりとした模様編みのセーターみたいなあたたかみのある太いラインでふちどられ、あまり細かく書き込まれていない。それからまりーちゃんシリーズやいくつかのお話し絵本を描いた後、また、「おおきくなったらなにになる?」をかき、亡くなる前年に「わたしのすきなもの」を刊行している。この3冊はだれか主人公がお話しを引っ張ってくれる物語絵本になってはおらず、作者が直接、読者に語りかけるようなスタイルの絵本になっている。こういう語りかけ絵本は、このころ、わりと描かれていたようだ。スロボトキンが物語絵本を作る合間に「ひとりもいいけど、ふたりもね」(1957)とか「いっぱい いっぱい いっぱーい!」(1955)なんかかいているのもちょうど同じような時期と言えるだろう。単純なコンセプトブック、もしくはメッセージブックとしての絵本の話法がある程度、認知されていたし、その語りかけにきちんとのっかってくれる子どもという存在が確固として存在しているとみんなが思っていたから、よく作られていたのだろうと思う。10年以上もの間に描かれた3冊だが、ならべてみると、一貫したフランソワーズの思いが受け取れる。それは、この世界はうれしいことやたのしいこと、すきなものがたくさんあるということだ。それをあたたかな絵とシンプルなことばで伝えている。きらいなことないやなこともあるはずだけれど、でも、やっぱり、自分の好きなものをたくさんあげたり、素敵な大人の姿をたくさんみせたあと、「あなたはなにがすき?」「おおきくなったら なにになりたい?」とフランソワーズは子どもに聞くのだ。それは、真に大人の姿だと思う。

○その他の絵本、読み物
「こねずみのミコの ママ、おきてあそぼうよ!」「おふろなんか、いやだもん!」ブリギッテ・ベニンガ−文 シュテファニー・ローエ絵 (BL出版 2004/2005,9)
おかあさんとねずみのミコの日常を描いた絵本。かわいらしくて、なんてことなくよめるのだけれど、このおかあさん、なかなかのひと(ねずみ)である。このよごれも、あのよごれも、ぼくが一生懸命遊んだ証拠だから、わすれたくないから、手を洗わない、お風呂にも入らないとだだをこねるミコ。おかあさんはそのままベッドに入るのは困るからと、ゆかにタオルケットをしいて、ここでならねてもいいわよという。そのうちに、ミコはチクチク、かゆかゆになってしまい、自分からお風呂に入ることに……。子どもの思いと親のつごう、どちらにも理由があって、どう折り合いをつけるか、それをあたたかく見守っている。

「ダフネちゃんとオパールちゃん」ホリー・ホビー作 二宮由紀子訳 (BL出版 2004/2005,9)
人気の<トゥートとパドル>シリーズの八巻目。今回、登場するのはプリマドンナがかったダフネちゃん。この女の子にみんなふりまわされます。でも、オパールちゃんの態度にダフネちゃんも一目置くようになり……。それぞれ、みんなちがういいところがあるんだよ、とお話しをとおして、伝えてくれる。それがなじみのキャラクターで語られるところが、このシリーズの人気の秘けつかな。

「ミステリー おいしい博物館盗難事件」アーサー・ガイサート作 久美沙織訳 (BL出版2003/2005.9)
ブタのエッチングでシリーズ化されている、ガイサートの新作。今回は博物館の絵の一部が切り取られ、にせものがはめ込まれてある事件です。それを解決したのが小さなコブタ。その推理を一緒に進めていくのがたのしいだろう。細かにえがれたエッチングが事件の雰囲気を盛り上げてくれる。

「もぐもぐもぐ」「ぴょんぴょんぴょん」メラニー・ウォルシュ作(主婦の友社 2005/2005)
シンプルな絵で小さな子に人気のウォルシュのフラップ絵本。「うさぎが もぐもぐ たべているのは?」とよんで、フラップをめくると、「にんじん」というふうに絵とこたえがかいてある。よんでもらいながら、めくって、楽しむ絵本。かわらしくて、なじみのある動物たちが出ているので、親しみやすいのだが、訳文が小さな子どものものになっていないのが残念。ちょっとした語順をかえるだけで、もっとたのしく心地よい日本語になるところや、耳にしてちゃんと意味のとれる日本語にしてほしいところなど。単純だからこそ、工夫しがいのあるものなのだが。

「イボイボガエル ヒキガエル」三輪一雄作 (偕成社 2005,10)
「がんばれ!まけるな!ナメクジくん」で気持ち悪いとか変なやつと思われがちな生き物を堂々と主人公に描いた作者が次の選んだのはヒキガエル。アマガエルみたいにきれいな色をしていないし、トノサマガエルみたいに良い声で鳴かないし、なんかどてっとしていてかっこわる〜い。ヒキガエルが他のカエルたちとどのように違うか、どうして違うようになったのか。関西弁の愉快な語り口にのって読んでいくうちに、生き続けるってことの重さを感じさせてくれるのがいいなあ。見返しのガマガマ新聞も楽しい。

「もぐらのホリーともぐらいも」あさみいくよ (2005.9 偕成社)
絵本作家のデビュー作。もぐらのモリーは芋畑で出会ったさつまいもにもぐらいもと名前をつけて、家に招いてお茶を飲んだり、いっしょに地下水の池で遊んだり、トンネルの滑り台であそんだり……。お日さまにあたるところに行きたいわ、といわれたモリーは、もぐらいもを地面の浅いところにうめる。その1年後、トンネル掘りの途中でもぐらいもに再会すると、たくさんの子いもに囲まれていましたという展開。イラストも丁寧でオーソドックスな優しい感じ。もぐらの造形も自然の描き方もきちんとしている。お話しも良くまとめられている。でも、本当にもぐらが好きなのかなあ。本当にこのお話が描きたかったのかなあ。デビュー作というのは、その作家の思いや好みが存分に出て、まとまりのつかないくらいのほうが、楽しみなものなのだが。きれいにまとまりすぎているのが、ちょっとひっかかる。

「マックスとたんじょうびケーキ」ローズマリー・ウェルズ作 さくまゆみこ訳(1997/2005,9 光村教育図書)
ルビーとマックスはうさぎの姉弟。ふたりはおばあちゃんのためにケーキをつくります。ルビーが着々と作業をすすめるのに、マックスはじゃましてばかり。たりないものを買いに行くお手伝いをさせられます。字がかけないマックスは、自分のケーキのためにぴりぴり味のマシュマロがほしくて、メモに書くのだけれど、店のおじいさんには伝わりません。何回も行くうちに……。幼児の心の動きを描かせたら天下一品のウェルズ。今までなかなか日本に紹介されなかったのはなぜかしら? ラストのおばあちゃんの姿も楽しく、子どもの心に寄り添った展開。

「おばけとしょかん」デイヴィット・メリングさく 山口文生やく(2004/2005.9  評論社)
おばけたちがおはなしを集めたくて、本を盗みにきたのだが、本と一緒に、よんでいた少女も盗んでしまったところからへんてこなことに。からっぽの図書館に連れてこられた少女は、おばけたちに今読んでいる本をお話してあげる。少女がお話を読むページは文字なしの絵のみで描かれ、絵を一こま一こま読むことで内容がわかるという仕掛け。見ることと読むことが等しくなっているのがおもしろい。

「レイチェル 海と自然を愛したレイチェル・カーソンの物語」エイミ−・エアリク文 ウェンデル・マイナー絵 池本佐恵子訳 (BL出版 2004/2005.8)
「センス・オブ・ワンダー」(新潮社)で良く知られている自然科学者であり作家であるカ−ソンの生涯のトピックスを見開きごとの展開でつづっていった絵本。端正な絵とよくまとめられた文章でカ−ソンの人となりや思い、思想の深化がわかるようになっている。地味だけれど、環境に思いを寄せられる年齢の子どもに出会わせたい絵本だ。

「さんぽうた」ねじめ正一さく 市居みかえ ポプラ社(2005.9)
ねじめくんが散歩しながら見たものを詩にしてノートに書いていく、という体裁で、詩がまとめられているのが、おもしろい。詩と詩の間をつないでいくイラストが楽しいし、散歩しながら視点が動いていった先を詩にするという行為が、子どもには不思議におもしろく感じられるかもしれない。詩ができてくる様を実感して、詩を書くということに親しみを持ってくれると良いな。

「ちきゅうは みんなのいえ」リンダ・グレイザー文 エリサ・クレヴェン絵 加島葵訳(2000/2005/9 くもん出版)
あめ、たいよう、水、土、空気、かぜ、そら、よる、つき……わたしたちを包むこれらのものひとつひとつをあげて、シンプルなことばでまとめている。エリサ・クレヴェンの細やかな温かみのある絵がいい。ページをめくるたびに、いきとしいけるものをはぐぐむ大きな地球に思いがよせられ、みんなのいえ、というリフレインを深く心に刻み込む。

「ふようどのふよこちゃん」飯野和好作 (理論社 2005.10)
ふようど?ときいて腐葉土とすぐ出てきた人はえらい。茶色い真ん丸顔のどんぐりのおばけみたいなふよこちゃん。里山の雑木林のなかに家族と一緒に住んでいます。ふよこちゃんのおかあさんは里山にいた人の暮しを話してくれます。それがいまではかわってしまい、かわらないのはふようどのくらしだけだわって。作家の親しんできたくらしが大きく変わって、にがい思いを噛み締める時も多かっただろうに、こんなに優しい良いにおいのする絵本になって、手渡されました。よかった。

「きはなんにもいわないの」片山健 (学研2005.10)
お父さんと近所の公園にいったすーくん。お父さんに木になって、といいます。木なの? えっと読者のわたしは思うのだけれど、お父さんはすうっとだまって、木になりました。それがほんとに自然なの。すーくんは木に(おとうさんに?)のぼりたいのだけれど、うまくいかなくて「どうやってのぼるの?」ときくと、おとうさんは声に出さないで、(きはなんにもいわないの)というのです。すーくんはひとりでやってみます。すーくんは木のうえで何かに出会うとすぐお父さんに聞くけれど、いつもおとうさんは(きはなんにもいわないの)と声に出さないでいうばかり。そのくりかえしが心地よく、たのもしく、いい感じ。あわあわとした秋色の風景のなか、木のお父さんと男の子と女の子のいる見開きの絵のしあわせそうなこと。お父さんという存在のまるごとをすとんと見せてくれたような気がする。何度でも開きたくなる絵本。

「123インドのかずのえほん」アヌシュカ・ラビシャンカール&シリシュ・ラオ文 デュンガ・バイ絵 石津ちひろ訳 (アートン 2003/2005.10)
インドの民画であるゴンド画を描く画家と現代インドを代表する児童文学者であり、詩人でもある作家とが組んだ魅力的なカウンティング・ブック。ページをめくるごとに数の増えた動物たちが木に登っていく。どこにいるのか、探して、指差し、数えたくなる。刺繍の模様みたいだけれど、妙に気にかかる、インパクトのある絵だ。文は調子良く、でもときどき、ん?と不思議に思うところがあっておもしろい。今まで紹介されたことのなかったタイプのインドの絵本。

「わたしはとべる」ルース・クラウス文 マリー・ブレア絵 谷川俊太郎訳 (講談社 1951/2005,9)
「しあわせのちいさいたまご」や「あなはほるもの おっこちるところ」「はなをくんくん」で知られているルース・クラウスの人気絵本。今まで翻訳されなかったのが不思議。特にこの絵本の絵を描いているマリー・ブレアはディズニーのアニメーションやイッツ・ア・スモールワールドのデザインをしたことで有名だったから。彼女の担当したアニメーション映画は「シンデレラ」「アリス」「ピーター・パン」など。この時期のディズニーではプロベンセン夫妻も働いていたし、この絵本を刊行していたゴールデンブックスではディズニーのアニメーターに絵を描かせた絵本も多かった。独特なゴールデンブックス調のイラストのトーンにみんなはまっているため、良く似た印象のものが多いが、なかでもブレアは、かわいらしく、明るいタッチで、様式化されたデザインの勝った絵ではあったけれど、人気が高かったという。他にも男の子を主人公にした絵本「ぼくのいえ」や反対言葉の絵本「たかいとひくい うえとした」などを作っている。ブレアの伝記やアートをまとめた画集も出ており、それを見ると、広告、パッケージデザインなど多岐に渡った仕事の様子を知ることができる。
この絵本の朗らかさはブレアの絵によるものも大きいが、クラウスのシンプルで絵と言葉が対等に切り結んだページ構成の確かさも一役買っている。わたしはなんにでもなれるのだという子どものイマジネーションの豊かな輝きと自信を、全きものとして肯定する、クラウスの一貫する姿勢がこの絵本からも良くわかる。

「ありんこ方式」市川宣子作 高畠那生絵(フレーベル館 2005、9)
ほのぼのとした「おばけのおーちゃん」や「まりこちゃんのぼうし」など、やさしくあたたかく子どもに寄り添うお話しを得意とする作家の新作とおもっていたら、今までの童話とずいぶんトーンが違っている。それは本の作りを見ただけでもすぐわかるのだけれど。六つの小さなお話が野原の1年を切り取ってみせてくれる。それはやってきたありんこ軍団を見ている動物たちのやり取りから、おのずと浮かび上がってくるのだが、命のサイクルと自然のサイクルをつなげるものとして、ありんこ軍団のありんこ方式があるのだ。ラストの黄色い福寿草の花のにおいをかぐ、うしといのししのすがたに「はなをくんくん」ヘのオマージュを感じ、あの絵本が描かなかった残りの11ヵ月を見つめていたら、こういう生き物たちの姿があっただろうな、と思ったのだった。(以上ほそえ)

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『123 インドのかずのえほん』(アヌシャカ・ラビシャンカール&シリシュ・ラオ:ぶん デュンガ・バイ:え 石津ちひろ:やく アートン 2003/2005.10 1500円)
 数年前から韓国発の絵本の力強さに圧倒されている人も多いと思いますが、インドのこれも見逃すわけにはいきません。
 1は一匹のあり。木に登ります。2は二匹のとかげ、木に登ります。という具合に、数に合わせた様々な動物が次から次へと一本の木に登っていき、木は生き物で花盛り、という趣向なのですが、この、次第に木が満開になっていく様が、非常に奇妙で、見たことがない図で、思わず眺めてしまいます。
 10まで55匹でいっぱいになった木に、10で終わらず20羽の鳥が止まりに来る辺りが、インドですな〜。(hico)

『私家版 アンデルセン・絵のない絵本』(佐々木マキ メディアリンクス・ジャパン 2005 3300円)
 38年前、二十歳の佐々木マキがスケッチブックに描いた『えのないえほんのためのえ』を復刻した絵本。元々私家版ですから、誰かに見せるために描かれたものではありません(一人の友人を除いて)。つまりは、佐々木の心に向かって描かれたものです。それもオリジナルの物語ではなく、角川文庫版(河崎芳隆:訳)のアンデルセンの物語に刺激されて描かれていますから、かえって佐々木の画風というか作風というか触覚というか輪郭というか、それが飾ることなく露わになっています。
 そこが何よりおもしろい。「佐々木マキ」っぽい画もあれば、そうでないのもあります。読者にとって良い意味で油断した佐々木がそこにいます。
 初々しい、ではなく、生々しいでもなく、愛おしいライブ。(hico)

『いすがにげた』(森山京:作 スズキコージ:絵 ポプラ社 2005.08 1300円)
 何年も何年も愛用してきた、お世話になったいすが、逃げていく。それを追いかけるおばあさん。いったい何故逃げ出した?
 無国籍な物語ですが、それは、この物語が世界の垣根を越えているからでしょう。スズキコージの画とのコラボも文句なし。確かに人を選ぶ、好き嫌いの分かれる絵本でしょうが、
 私には傑作です。(hico)

『きみの家にも牛がいる』(小森香折:作 中川洋典:絵 エルくらぶ 2005 2000円)
 肉から、皮、爪にいたるまで、牛の部位がいかに家の中で使われているかを、ユーモラスに事細かく教えてくれる絵本。
 もちろん、その背後を読んで欲しいのですが、知識ってのはこうでなくっちゃ。(hico)

『ビルはたいくつ』(リズ・ピーション:ぶん・え ほむらひろし:やく くもん出版 2005.10 1400円)
 完全にダレダレの犬、ビルくん。ひょんなことから宇宙に飛んでいき、出会った宇宙人たちがとてつもなく退屈なので・・・・。
 「たいくつ」がいかにたいくつかを、ビルの表情がよく伝えています。そこを強調して読めば、子どもは大拍手でしょう。
 飼い主とのダレた関係が、活き活きしたものに変わる辺り、犬好きにはうらやましいところ。(hico)

『こんなおつかいはじめてさ』(オームラトモコ:作 講談社 2005.09 1300円)
 自転車に乗っておばあちゃんにリンゴを届けるまでが描かれています。と書いても何のこともないようなのですが、そのたどり着くまでの「出来事」が楽しい。というか、何事があってもただひたすらおばあちゃんの家へと進む自転車の姿が、ページを繰れば繰るほど冒険めいてきて、絵本ならではの幸せがあります。(hico)

『おばさんは いつ空をとぶの』(長谷川知子 ポプラ社 2005.09 1200円)
 引越し、新しい赤ちゃん・・・・、のんちゃんはなんだか両親から疎外されているよーな気分になっていて・・・。そんなとき、優しい近所のおばさんと知りあって、優しいおばさんを魔法つかいだと思うのんちゃん。
 といったドラマが展開していきます。
 それは何ほどもない展開なのですが、割烹着を着たおばさんが、風に乗ってはたはたと飛んでいくイメージの伸びやかなこと。(hico)

『おーい みえるかい』(五味太郎 教育画劇 2005.09 1000円)
 ここにいるよ。みえるかい?
 画はページを繰るごとにどんどん、ズームアップし、最も近づいた後ズームアウトという趣向。
 決して目新しいアイデアではありませんが、絵本をどういじくるかへの五味のエネルギーは健在です。(hico)

『四谷怪談』(さねとうあきら:文 岡田嘉夫:絵 ポプラ社 2005.08 1200円)
 日本の物語絵本シリーズもこれで14巻目。なかなかいいボリュームになってきました。やっぱりこれくらい揃ってくると、固まりとして眺める楽しさがあります。その中から一冊を抜き出すドキドキとでもいいましょうか。
 今作、この題材にこの絵師でしょ、ガツンと怖がってくださいな、子どもたち。眠れない怖さってのも美味しいですよ。(hico)

『子供の十字軍』(ベルトルト・ブレヒト 長谷川四郎:訳 高頭祥八:絵 パロル舎 2005.09 1500円)
 86年リブロポートから出ていたものの復刊です。
 1939年、ドイツ軍のポーランド侵攻に抗議してブレヒトが書いた詩を長谷川四郎が訳し、それに高頭祥八が画を付けました。
 子供読者にはチト難しい詩ですが、画の力に押し切られて、分からないところがあるままに読んでも印象強く残るでしょう。
 でも、やっぱり、大人向けかな。クオリティはとても高いので、読ませます、見せます。(hico)

『どろんこ』(アラン・メッツ:さく いしづちひろ:やく パロル舎 2005.10 1500円)
 黄色を背景にした、どろんこ色の物語展開がまず素晴らしい。
 おおかみの子どもとブタの子どものどろんこ遊び、はちゃめちゃを大いに楽しんで欲しい。
 そして、大人のフォローの巧さも。
 でもやっぱり、画のすばらしさが一番好きかな。(hico)

『しきしきむらのあき』『しきしきむらのふゆ』(木坂涼:文 山村浩二:絵 岩波書店 2005.10 900円)
 言葉がリズムを作る、リズムが言葉を生む、どっちでもあることが、この絵本の文は、とても分かりやすく教えてくれます。
 目から鱗も、驚愕も、感嘆もあるわけではありません。そんなことを期待すると、なんだこれ? となるでしょう。
 そうではなく、あるのは適度な心地よさなのです。
 「言葉って楽しいな」です。
 それって結構すごい。(hico)

『タンポポ タヌキ、もりのタネ。』(しもだ ともみ作・絵 教育画劇 2005.9 1980円)
 タイトルはチト散漫かな? と思って見始めると、まあ、様々な生き物と、タネのドラマが地面の中、上、展開すること展開すること。時々収まりきれなくてパノラマになっていたり(いえ、作者はちゃんと考えてそうしているのですが、こう考えた方が楽しい)、ワクワクのカーニバルです。
 『むしむしレストラン』からパワーアップ!です。(hico)

【創作】
『四月の痛み』(フランク・ターナー・ホロン著 金原瑞人・大谷真弓訳 原書房 2005.09 1470円)
 老人ホームで暮らす、元弁護士の86歳の男の物語。作者が26歳なのに、こんなに老人の心をリアルに! といった評価もありますが、そんなことは物語には関係ありません。女の子のこと書く男の作家だっているしぃ。
 そうではなく、死というものを意識しながら、物事を見ていく、考えていく主人公の姿が、けっこう新鮮なのです。
 ここには様々な、なるほどと思わせる「言葉」たちがあります。そしてそれをリアルに置くために86歳の老人が設定されています。
 これって、子どもに設定する児童文学と似ていますよね。だからおもしろかった。(hico)

『友だちになろうよ、バウマンおじさん』(ピート・スミス作 佐々木 田鶴子訳 フェルトハウス絵 あかね書房 \1,365 2005.10)
 ホームレスのおじさんとヤンの交流を描いた物語。
 寒い日、ヤンはこのおじさんの躓いてしまう。家を出た父親と面影が似ている彼のことを、もっと知りたい。
 ヤンとの出会いによって、このおじさんは、生きる意欲を甦らせていきます。
 ホームレス状態の人は個々に事情を抱えていますから、こんな風にうまく行くことはめったにないでしょうし、また、ホームレスのまま生きたい人もいるでしょう。
 けれど、それぞれに事情があるのだということを、この物語は教えてくれます。(hico)

『ごきげんぶくろ』(赤羽じゅんこ:作 岡本順:絵 あかね書房 2005.10 900円)
 かなは、友達の家に遊びにいったけれど、大げんかをしてしまいます。帰り道、不思議なお店に。
 不機嫌なかなに、店のおばあさんは、「ごきげんぶくろ」を見せて、そこに不機嫌をはき出せという。かなは思いっきり、不機嫌を・・・・。
 たまったイライラは言葉にしてはき出すと、結構スウーっとするもの。そこを、少しのファンタジーをふりかけることで、分かりやすく子ども読者に示しています。
 小さな物語ですが、出会った子どもには、結構印象を残すタイプの物語です。(hico)

『めぐりめぐる月』(シャロン・クリーチ:作 もきかずこ:訳 偕成社 1994/2005 1800円)は出版社を変え、『朝はだんだん見えてくる』(岩瀬成子 理論社 1500円)は新装版でお目見えです。どっちも定番なので、また読めるようになってうれしい。未読の方はこの機会にぜひぜひ。(hico)
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 中学三年生のカズが所属するソフトボール部は、頑張って練習することもなく、のんびりと過ごすオアシスとなっています。別名ハチミツドロップス。ところが、勝ちたい新入生たちの入部で、そんな雰囲気はなくなり、居場所を失った旧部員たちの関係が徐々に変わって行きます。
 『ハチミツドロップス』(草野たき 講談社)は、表面上の優しさだけで「友情」を通わせていたカズたちが、新たな関係を築きあげていく物語です。
 カズにとってハチミツドロップスが心地良かったのは、そこでは相手が期待するカズらしさを演じていれば、そのキャラクターからはみ出しさえしなければ安全だったからです。お互いが「らしい自分」を演じていることで、優しくなれる場所。
 「らしい自分」のままでいいなら、とても楽ちん。なぜって、自分自身と向き合わなくていいですから。でも演技ばっかりしていたら、いつのまにか自分がどんな人間か判らなくなってしまう。同時に相手のことも判らなくなる。
 これはとてもつらいし、怖いです。
 カズたちは、時に傷付け合うことにもなるけれど、少しずつ少しずつ本当の心を見せていきます。読んでいてこっちも心が痛くなる程ですが、大丈夫。その先には強い信頼感が生まれてきますから。
 もっとも、時には息抜きに、ハチミツドロップスもあっていいけどね。読売新聞2005.10.17(hico)
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『黄金の羅針盤』(フィリップ・プルマン:作 大久保寛:訳 新潮社)
 ファンタジー小説の設定パターンはだいたい三つ。異世界だけを描く、日常世界に不思議が入り込む、日常と異世界を行き来する。例えば一つめは『ゲド戦記』、二つめは『ふくろう模様の皿』、三つめは『ハリーポッター』や『ナルニア』のシリーズでしょうか。
 『黄金の羅針盤』は巻頭に「第一巻の舞台は、われわれの世界と似た世界であるが、多くの点で異なる。第二巻の舞台は、われわれの知っている世界である。第三巻は、各世界を移動する」とあります。つまり、各巻がこの三つの設定に対応しているのです。
 『黄金の羅針盤』は異世界を描いているのですが、それは「われわれの世界と似た世界」でもあります。全くの異世界だと、作者が構築したその世界に身を任せられますが、『黄金の羅針盤』はそう簡単にはいきません。物語は現実世界にも存在する英国のオックスフォードから始まるのです。同じオックスフォードなのに、知らない世界が繰り広げられていく。主人公のライラを含め人間達は誰にでも見えるダイモン(守護精霊)を携えています。ペットみたいな物かと思うとそうではなく、心理的にも本人とは切り離されることなく強く結びついていますし、子ども時代はその姿は固定していなくて、時々の状況で色々と変わります。彼らにとってそれは当たり前のことなのですが、私たちの世界から見ると異様に見えます。異世界とはいえ「われわれの世界と似た世界」であるだけに、その違いが際だちます。ライラの母親が、「思春期と呼ばれる年ごろになるとダイモンは、ありとあらゆるやっかいな考えや感情を子どもにもたらすの」と言って子どもたちとダイモンを切り離す実験をしていると知ったとき、読者はこれが全くの異世界として描かれている時以上に、強い痛みと怒りを感じるでしょう。異世界に生きる子どもを、われわれの世界の子どもと同じ姿形にしようとする欲望のように思えてしまうからです。そしてそれが、われわれの世界で時として大人が子どもを、自分達のイメージする「理想の子ども像」に当てはめようとする欲望と重なって見えてくるからです。
 ライラの両親は、それぞれ別の目的で、オーロラから降り注ぐ謎の物質ダストについて調べています。一致しているのは、それがダイモンに影響を与えているという考え。だから母親は子どもからダイモンを切り離そうとし、父親はダストがやってくる異世界(私たちの世界です)へ行こうとします。それを眺めながらライラのダイモンであるパンタライモンはこう言います。もし大人がみんな「ダストが悪いものだと思っているなら、それはいいものにちがいない」。この異世界から発せられた大人への不信感は、われわれにも届くでしょう。真相を確かめるために両親を追ってライラも旅立ちます。そして、「第二巻の舞台は、われわれの知っている世界である」。徳間書店2005.10(hico)