【絵本】
2006年2月
○詩人と絵本
「ワイズ・ブラウンの詩の絵本」マーガレット・ワイズ・ブラウン詩 レナ−ド・ワイスガード絵 (1959/2006.2 フレーベル館)「焼かれた魚」小熊秀雄文 アーサー・ビナード英訳 市川曜子画 (1924/2006.2 パロル舎)

 詩人と絵本というのはなかなかに相性のいいものだ。絵本のテキストライターとして知られる英米の作家の1/3くらいは詩集も出す詩人であることが多い。「はなをくんくん」のルース・クラウス、「雨っていいきもち」のカーラ・ラスキンなど……。アメリカ屈指の絵本のテキストライターで編集者でもあったマーガレット・ワイズ・ブラウンもれっきとした詩人だった。絵本のテキストには流れと飛躍がつきもの。詩が一行ごとに連続と飛躍を選択しながら、詩人の意識の有り様を形作っていくのと同様に、絵本もページをめくるごとにぴょんぴょんとジャンプで到達した地点をみせていくようなスリリングな展開がある。それがワイズ・ブラウンはとてつもなくうまい作家だった。詩人の目は寄り添いつつ、光を降り注ぐ彼方の視線をも合わせ持つ。目の前のものに同化し、その中に入り込もうとする想像の力の強さ。その強さが子どもに向けられたとき、ワイズ・ブラウンにとって子どもは、小さな大人ではなく、一個の小さなぴちぴちした動物として、別の視点や感覚を持つものとしてとらえられたのではないかしら。そうして出来たのがあのたくさんの絵本なのだろう。
 今回の詩の絵本は虫を、魚を、動物たちを身近な自然のなかで、見つめ直した時に聞こえてきたことばを、ころころとノートに置いていったみたいな詩がたくさんある。声に出すと本当に楽しい。いろんな声や音がするから。ひとつの詩を読むとそれが一冊の絵本のように頭の中で見えてくるものもある。ワイスガードの絵もいい。墨と深緑の濃淡。色数の少なさが、自然の中で生きるものたちの静謐さとすがすがしさを伝えてくれる。ラストの詩である「し」の奥深さ。沈黙の奥に聞こえる言葉の音楽、言葉の歌という定義は、いつもたくさんの絵本のテキストをトランクに入れて、何回も何回も取り出しては読み返し、手を入れて、言葉の降りてくる時を待っていたというワイズ・ブラウンの創作の姿勢を思い起こさせる。原本で手に入れて、大好きになったこの詩画集は翻訳されることはないだろうと思っていた。日本では翻訳の詩集の絵本はあまり紹介されることがないから。でも、ワイズ・ブラウンらしい平明ですっきりとした日本語と原書の佇まいを活かした造本で手にすることができて、本当にうれしい。たくさんの人に手にとってほしい絵本だ。
 小熊秀雄の詩と童話を教えてくれたのは、木島始先生だった。新人の編集者だった私に、小熊の詩と童話「焼かれた魚」とその英訳をした人の話をしてくれたのだった。詩人で、絵を描き、童話もかいた人。紹介された詩を読んで、プロレタリア詩人という括りからどうにもはみ出てしまう読後感に、落ち着かない感じがした。練馬区美術館で開かれていた小熊と池袋モンパルナスの画家たちの展覧会を見逃してしまったのが悔やまれる。改めて絵本化されたこの童話「焼かれた魚」を読むと、詩人の共感能力の高さと淡々としたユーモアに心ひかれた。くり返されるやり取り、体がどんどん変わっていく様へのおどろき、あるべきところにおさまる得心の行く結末。どれも童話の定石を押さえたものなのだが、かわいそうだともうれしそうだともいえそうな不思議な味わいは、独自のものだ。画家の絵は(エッチングだろうか)そのうすらおかしいような展開を押さえた色味で具体化し、秋刀魚にまとわりつく空気を描くような感じがあって、おもしろかった。(ほそえ)

○その他の絵本、読み物
「嵐のティピー」ポール・ゴーブル作 千葉茂樹訳 (2001/2006.1 光村教育図書)
一貫してネイティブ・アメリカンの物語を描いている作家の絵本。久しぶりの翻訳と言える。ティピーというのはテントのこと。その作り方や模型作りの勧めまでのっている。本編はこのティピーに描かれる模様の元になった物語。ブリザードの主ストーム・メーカーが一族の長をひきよせ、印と予言を与え、その先々の幸運と過ごし方を語った。「のうまになったむすめ」などの以前のゴーブルの絵本と違うのは、伝承をそのままで1冊とはせず、伝承が現在のネイティブアメリカンの暮しにつながっていることを写真などで示すようになったところだろうか。それが、この絵本の場合はHOW TOのページとリンクして意味をなしているのだと思う。(ほそえ)

「ずっと ママといっしょがいいの!」ヒド・ファン・ヘネヒテン作 のさかえつこ訳(2005/2006.3 主婦の友社)カンガルーのママのお腹の中にいるのが大好きで、大きくなったのに外へ出ていこうとしない女の子。ママは大きくなったのだから、外に出てごらん、楽しいよ、といろんな動物たちの様子を見せては誘うのですが……。結局、自分と同じ年格好のカンガルーの子と出会うことで、外へ出たくなってしまうというラストは小さな子の日常にもあてはまる、なるほどなあという結末。子どもはママと一緒がいいとごねる主人公を笑いながらも、ちらっと自分を振り返って、ママにすりすりと寄ってくるような感じかな。元気のいいイラストと親しみやすい訳でたのしい。(ほそえ)

「雪窓」安房直子作 山本孝絵 (2006.1 偕成社)
今の季節にぴったりなお話絵本。夜の雪山の木立がこんなにきれいに描かれているのを見るだけで、このお話の世界にストンとはいってしまう。人情(?)に厚いたぬきとなんとも人のよいおでんやの主人。ひとりぼっちの主人には辛い別れがあったのだけど、それがゆるゆるとほどけていく様がやわらかなファンタジーで描かれる。たぬきや天狗、小鬼たちなどの異形のものを得意とする画家が、うつくしいこの物語の静けさをいかに描くかが絵本化の胆だっただろう。人の描き方の癖を人間味としてとることができればよし、そうでない安房ファンは手にとりにくいかも。でも、この描き方だからこそ、手にとれる層もいるわけで、安房ファンタジーの読者の裾野を広げることになると思う。(ほそえ)

「さとうねずみのケーキ」ジーン・ジオン文 マーガレット・ブロイ・グレアム絵 わたなべしげお訳 (1964/2006.1 アリス館) 
絵本というよりも絵童話といったほうがいいようなボリュームを持つおはなし。「どろんこハリー」でよく知られるコンビが描いている。とるに足りない者とこき使われる見習いコックのトムと小さなハツカネズミが協力して、王様主催のケーキコンテストで優勝するという他愛のないお話なのだけれど、はらはらするシーンやどうしましょうとうなだれてしまうシーンもあって、起伏にとんだ物語となっている。ラストは安心のめでたしめでたし。ここはさらさらと描かれたようなグレアムのかわいらしいイラストを愛でましょう。(ほそえ)

「うさぎのルーピースー」どいかや (2006.2 小学館)
朝起きると机の下でうさぎが死んでいました……という最初の一文と目を閉じ、固まっているような小さなうさぎのイラストにはっとします。だれがこんなことをしたの?という問いに、動物たちがこたえます。なきがらを外に持っていこうとした時、お日さまの光をあびて、うさぎの毛色が明るい鹿皮色(ルーピースー)に。その変化が、私の心をうごかします。生きていた時の姿がふわっと見えてくるような、いのちの躍動があらわれるような、そんな色。絵にしながら、土に埋めながら考えるいのちの行く末。それをうらやましいといいきる<わたし>の強さに、また、はっとしました。(ほそえ)

「わたしたち 手で話します」 フランツ=ヨーゼフ・ファイニク作 フェレーナ・バルハウス絵 ささきたづこ訳 (2005/2006.1 あかね書房)「わたしの足は車いす」「みえなくってもだいじょうぶ」と続いてきた障害を持つ人や子どもを主人公にした絵本の3作目。今回は聴覚障害のある女の子が両親が聴覚障害を持っているうちの子と知り合うことで、ほかの健常の子とも接点が出来ていく様子から描いているのが興味深かった。どんな感じなのか、女の子の手話を翻訳してもらい、追体験する健常の子どもたち。音の聞こえない世界から音というものをイメージすることの豊かさをつたえ、双方の感覚を共有していくのが素敵だと思った。そこの所が、いわゆる手話のHOW TO 絵本などと本シリーズの大きな違いだと思う。(ほそえ)

「はらぺこライオン〜インド民話」ギタ・ウルフ文 インドラプラミット・ロイ絵 酒井公子訳(1995/2005.11 アートン)
なまけもののライオンが楽をして獲物をとらえられないかと策を練るのだが、すずめやひつじや鹿などに丸め込まれてしまうというインド民話を、ワルリー画というインド民衆画の手法で描いた絵本。見慣れないイラストに吃驚する人もいるかもしれないが、線画と色面のバランスもよく、ページの展開も考えられて描かれている。それもそのはず、ロンドンの大学で美術を修めた画家が、物語に合わせて、ワルリー画の手法を選んで書き下ろしたのだという。お話の楽しさにインパクトのある絵があっていて、なるほどインドの村とはこのような感じだろうか、と想像が広がっていく。(ほそえ)

「ここってインドかな?」アヌシュカ・ラビシャンカール文 アニータ・ロイトヴィラー絵 角田光代訳(2001/2005.12 アートン)
世界的に活躍するキルト作家がインドに旅した時に集めた布をふんだんに使ってキルトを作った。それを見たインドの児童文学作家がお話を後からつけたもの。インド旅行から帰ってきたアンナおばさんは、このキルト作家のことではないかしら? アンナおばさんの作ってくれたキルトにくるまって眠ると、あらら、青ねずみちゃんになってキルトの中に入ってしまったの……。ラビシャンカールはナンセンスな詩が得意で、本作でも入れ代わり立ち代わり登場する者たちに、不思議なことばかり言わせている。それが、妙に人生というものを言い当てていたりするのがおもしろい。インドではナンセンスでありながら、哲学的だと評価が高かった絵本。(ほそえ)

「ながいながいかみのおひめさま」コーミラー・ラーオーテ文 ヴァンダナー・ビシュト絵 木坂涼訳(1998/2006.2  アートン)
いかにもインド、という装束を身につけたかみのながいお姫さま。表1から表4へと波打つ黒髪に圧倒される。おはなしはすこし仏教説話めいた展開で、入り用な人たちに自分の黒髪を全てやってしまい、頭を丸めた格好でそのまま山へ登ってしまったお姫さま。お姫さまの通った後には緑が芽吹き、川が流れ、雲が渦巻く。一種の精霊のようになって消えてしまうラストに清々しい感じがするのは、この白地の多いイラストのせいかしら。残された王や女王もまた、風に乗って聞こえる姫の歌声に少しは安堵するかしら。(ほそえ)

「はなのこどもたち」「かわいいひかりのこたち」イーダ・ボハッタ作 松居スーザン、永嶋恵子訳 (2001/2005、12 童心社)
1900年生まれのオーストリアの絵本作家のシリーズ。およそ60、70年前の作品になると思われる。この頃ドイツにはいってきた、ビアトリクス・ポターやフラワー・フェアリーで知られるシシリー・メアリー・バーカーの影響を受けた絵本たちと言えよう。版型といい、韻文でそろえられたテキストいい、擬人化された花々の様子はベスコフの絵本も思わせる。多数の作品を残し、多彩なキャラクターのお話も作りつづけたボハッタのなかでもこの2冊は、詩画集として、見開きごとに詩とイラストで完結する、小さな春の花の詩や光り溢れる季節の詩で構成されている。外国では詩を楽しむということが日常であるのだが、日本ではそれはなかなかにむずかしいような。ひとつひとつの詩はお茶目でかわいらしい。(ほそえ)

「ねどこ どこかな?」ジュディ・ヒンドレイ作 ト−ル・フリーマン絵 谷川俊太郎×覚 和歌子訳 (2006/2006.2 小学館)
おやすみなさいの絵本はたくさんあるけれど、これもまた愛らしく、気持ち良さそうな絵本だ。セピア色した鉛筆の線と淡く色づけされたいろんなベッド。お花や泥に埋まって、亀の甲らにのっかって……。いろんな動物たちの寝かたをまねっこしてみるのは定番だけれど、人間だっていろんな寝床がありますよ。タイトルからもわかるように、リズミカルでくりかえしや語り掛けが楽しくて、いい。(ほそえ)

「ながいよるのおつきさま」シンシア・ライラント文 マーク・シーゲル絵 渡辺 葉訳 (2004/2006.1 講談社)
シンシア・ライラントがネイティブ・アメリカンが満月につけた名前を折り込んだ詩をかいた。それを幻想的なイラストで包んだのがこの絵本。農場のあずまやで赤ちゃんを抱いて月を見上げる若い母親。タイトルのながいよるのおつきさまは12月の満月を呼ぶ名前。この子の1年をことほぐような静かな祈りに満ちた絵本。このお月様はお前の友だちだといってと見上げるのは、この子が12月に生まれたからだろうか? 月々の夜の鮮やかさは何だろう。月の光は一色でないことをはっきりと知ることができる。(ほそえ)

「ぼくだって できるさ!」エドアルド・ペチシカ作 ヘレナ・ズマトリーコバー絵w むらかみけんた訳 (1977/2005.12 冨山房インターナショナル)
絵本の形をしているが、東欧によくある、小さなお話がいくつも入った幼年童話。クルテクとして有名になってしまった「もぐらとずぼん」のテキストをかいたペチシカとチェコを代表する絵本画家ズマトリーコバーのコンビ。マルチーネクはまだ学校にいけないくらいの年だから5、6才かしら。自分がまだ何でもできると思いきっている子どもの思い込みやつまずきなどをおじいさん、おばあさんがやさしく見守っていたり、おねえちゃんがちょっとイライラして見ていたり、おかあさんがどんと頼もしく見ていたりするのが、おもしろい、オーソドックスな生活童話。小さな子の思考のパターンがよく表現されていて、さすがだなあと思う。イラストと文章があっていないところがあって、読んだ時、小さな子にはわかりにくかったところもあった。(ほそえ)

「エドワルド せかいでいちばんおぞましいおとこのこ」ジョン・バーニンガム作 千葉茂樹訳 (2006/2006.2 ほるぷ出版)
バーニンガム70歳の新作。ほにょほにょとした線や塗りむらも、ある種の味としてしまうのがバーニンガムの絵のすごいところ。今回のおはなしはらんぼうで、やかましくて、いじわるで、やばんで……という男の子エドワルドがまわりの大人の一言で悪いふうにも良いふうにも変わっていくのがおもしろい。でも、ほんとうは、てきとうにらんぼうで、やかましくて、いじわる……なんだけど、素敵な男の子なのさ、という安心の結末。小さい頃、なかなか学校生活に馴染めなかったというバーニンガムが「男の子ってこんなものさ。がたがたいいなさんな」といって、にやりと笑う顔が目に見えるようだ。今回もまた、子どもに厳しすぎるヒステリックな大人が出てくるが、なんともいいかげんによいではないの、と引き上げる大人もいて(必ずしもちゃんと一部始終を見ているわけではないのだけれど)バランスはとれている。ようはバランスなのよね、とわかっているけど、つい目の前のことにがたがたガミガミ言ってしまうかあちゃんとしては、耳の痛い絵本でもありました。(ほそえ)

「チータカ・スーイ」西村繁男作(2006.1 福音館書店)
チータカ・スーイ ウォー ガオーと楽隊や龍や虎や獅子が練り歩く。子どもたちが夏の昼間に歩いていくのだ。その姿は大人には見えないらしい。みんな自分のことで精一杯で、よそ見をする余裕がないらしい。通りを歩く、子どもや公園で遊んでいる子には、この隊列が良く見えているのだ。それが不思議な空気を絵本の中にかもしだす。通っていく町並みは昭和の30年代くらいだろうか。スーパーマーケットなんかない商店街を子どもたちは練り歩く。こまごまと描かれるお店の様子が楽しい。ポスターにしても、看板にしてもそれぞれに雰囲気があり、どれも角が丸くなった感じがする。チータカ スーイという音に身をゆだねながら、目はしっかりと皆の生活を追っていく。ラストはドドーンと派手ににぎやか。もどる隊列に祭りの後の物悲しさがある。(ほそえ)

○その他の読み物
「ジュディ・モード 地球をすくう」メーガン・マクドナルド作 ピーター・レイノルズ絵 宮坂宏美訳(2002/2005.12 小峰書店)
エコプロジェクトもジュディが関わるとこんなにおもしろい。優等生ではないけれど、思い込みと実行力はあるジュディだから、ツボにはまった時は、すごい威力を発揮する。それが本作では良くわかる。テンポよく小学生の日常を物語化しているのだが、今回は日本の学校も熱心なエコなお話なので、興味を持つ子も多いのではないかしら。あとがきはいつも親切で、いろんな情報をのせ、この本を読んで自分でもやってみようと思う子どもの意欲をきちんとすくいあげている。(ほそえ)

「真夜中のまほう」フィリス・アークル文 エクルズ・ウィリアムズ絵 飯田佳奈絵訳 (1967/2006.2 BL出版)
看板の中に描いてある動物の絵が真夜中の鐘の音が鳴るあいだに動きだし、一番鶏が鳴くあいだに元にもどるという魔法。昔話にありそうな設定だけれど、出てくる看板の中の動物たちがとてもおっとりと親切で、ラストの事件の解決もうまく、なかなかに素敵な童話。今の作家はこういうメルヘンめいたふっくらとしたお話が書けないと思う。昔話ほど、構成や設定が決まり切っていない、このようなタイプのお話は、ふしぎをそのままに受けとめられる年頃に読んであげるといいかも。(ほそえ)

「虎よ、立ちあがれ」ケイト・ディカミロ作 はら るい訳 ささめや ゆき絵 (2001/2005.12 小峰書店)
小さな、でも心に残る物語。母親の死を受けとめ切れていない父と男の子。父母の別れをあきらめきれない女の子。しけた町。ぼろいモーテル。そこで働く黒人の女性。頭の悪そうなモーテルの持ち主。ひどい、みじめな気持ちに変化をもたらしたのは、一頭の虎だった。モーテルの持ち主が借金の方にもらった虎。その世話を始めることになって男の子と女の子は変わっていく。
詩的な表現が多く、そのたびに、しんとした心持ちになった。こういう設定は子どもの本では多いけれど、これはうまいと思う。(ほそえ)
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【児童文学時評】
せりざわ・2005年発行のノンフィクションより

<ノンフィクション>
『み〜んなそろって学校へ行きたい!』(井上夕香著、晶文社。2005年2月)
サブタイトルは"「医療ケア」が必要な子どもたちの願い"。気管切開をしたために、日常的に経管栄養やたん吸引など「ケア」が必要な子どもたちをめぐるルポ。お母さんは合計六キロもの荷物をせおって学校へ同行する。でも、声がでなくても手話で合唱ができるなど、子どもたちの姿は明るく輝いている。生活の「豊かさ」ということ、そのために社会の側で必要な「ケア」とは何かを考えさせられる。

『三河のエジソン』 (今関信子著、佼成出版社。2005年4月)
サブタイトルは"障害を克服する自助具の発明家・加藤源重"。繊維工場の機械に巻き込まれて、右手の指と手のひらの半分を失った加藤さんに取材。最初は自分のために、茶碗をもつ、スパゲティをフォークに巻きつけるなど、手の働きを助ける器具を開発。のちには、リウマチで家事がしにくい女性のために、手の力が要らない片手用洗濯ばさみなども。ひとりひとり違う「不便さ」に応じてその人に合った自助具を開発する加藤さんは、「障害者ではなく生活チャレンジャーと呼んでほしい」という。"手の働き"という、とても具体的なことから障害/福祉を考えさせる一冊。

『ゴリラに会いに行こう』(阿部ちさと著、国土社。2005年6月)
ゴリラを追いかけ、ゴリラばかりを描いている画家がいちばんすきなのは、イギリスのハウレッツ野生動物園。日本では無名の動物園ながら、ここでは「わらいながら走りまわるゴリラ」に出会えるというのだ。ふつう動物園でみるゴリラは、一等か二頭でつまらなそうにしているのに、ここは家族で暮らしていて、とても表情豊か。この違いはなに?というわけで、1990年から毎年のように通いつめた。それぞれ個性的な赤ちゃんの髪型や若いオスたちの顔つき。動きが早すぎて、絵を描く手が追いつかないくらいの彼らを描いたスケッチも楽しい。

『ヒロシマ、遺された九冊の日記帳』 (大野允子著、ポプラ社。2005年7月)
広島県立第一高女一年生のおおかたは即死。生徒日誌のコピーを頼りに一年上級の著者が探しあてたのは、9冊の日記帳。
「県女」の誇りをもって入学した1945年4月は、沖縄戦のあと。B29がたびたび来襲し、空襲警報のあいまをぬって授業。授業で縫うのはモンペ。飛行機の燃料にするため、ヒマの種を家に持ち帰って栽培する。「建物疎開」として取り壊された街区の道路清掃などの「勤労奉仕」。
そんな「戦時」のなかで、くたくたになりながら懸命に「お国のため」つとめる十三歳の少女たちは、先生の冗談に笑ったこと、家族との心の交流などを日記帳に書いていく。
夏の制服が白では敵機にねらわれやすいから「国防色」か「ねずみ色」になっても、各自の夏服を縫うのが楽しくて、着るのがまちどおしくてならない。「柄も色もとりどりなので学校でまとめて、濃い目のブルーグレーに染めなおしました。それでも、少女たちにはやっぱりにあわない戦争の色です。」と著者は書く。
いまの日記とは違って、先生に提出し、ときに「字を丁寧に」などとチェックが入るもの。日曜は「家庭修練日」。九人の少女それぞれの「その日」の朝の情景を、13歳の目になって著者が振り返り、そしてその後のできごとの証言者たちの今までをたどっていくのが圧巻。

『ダイヤモンドより平和がほしい 子ども兵士ムリアの告白』(後藤健二著、汐文社。2005年7月)
長く内戦の続くシエラレオネ。そこでは子どもたちが反政府軍に拉致されて兵士となっていた。軍を脱走するなどして保護された彼らを収容する施設で、ジャーナリストの著者がであった十五歳のムリアが、表紙写真の少年だ。強いまなざしの下にうすく三日月形の傷がみえるが、これは覚醒剤を摺りこんだ跡。殺し殺される恐怖と痛みの過酷な体験からようやく逃れ、日常へ、そして未来へ向かおうとする元子ども兵士たちに寄りそうような取材で、その心の軌跡をたどる。

『戦争が終わっても ぼくの出会ったリベリアの子どもたち』(高橋邦典・写真・文、ポプラ社。2005年7月)
あるいは施設で、あるいは仕事を得て、「日常」への復帰を図る元・少年兵たち。家族を失い、あるいは右手をなくしても、きらきら笑顔をなくさない子どもの美しい表情だけでなく、所在無げにたむろする、心の行き場をなくした姿も。戦争が残した影は、子どもだからこそ濃い。

『あなたのたいせつなものはなんですか…カンボジアより』(山本敏晴・写真・文、小学館。2005年7月)
医師でもある写真家の問いに、子どもたちが描いてくれた絵は、「家族」「牛」「戦争のないくらし」など。動物やおとなのしぐさやようすをよく見て描いているなあ、線を三角定規で引いているのか、などなど、子どもたちの絵に興味が尽きない。

『私の大好きな国アフガニスタン』 (安井浩美著、あかね書房。2005年7月)
1994年生まれ、いま9歳の元気で希望に満ちた女の子サブジナ。でも、彼女の生まれた地は、大仏破壊で知られることとなったバーミヤン。学校教師の両親といっしょに幾度もすんでのところで戦禍を逃れてきた。一家のこれまで、そして現在の暮らしぶりをとおして、遠い国の現実を伝える。最初は遊牧民に憧れてアフガニスタンを訪ねたという著者は、現地で学校を設立・運営するジャーナリスト。

『走れ! やすほ にっぽん縦断地雷教室』(上泰歩著・ピースボート編、国土社。2005年12月)
NGOの地球一周クルーズで訪ねたカンボジア。地雷原を歩き、被害者の話を聞き、ショックを受けた十九歳は考えた。「じゃあ私に何ができるんだろう?」そこから始まったのが「にっぽん縦断地雷教室」。自転車に寝袋や地雷(もちろん爆薬は入っていない)を積んで北海道からスタート、各地で自分の見聞きしたことを聞いてもらう。ときに普通の十代にできることの限界に涙しながら、でも「できることをやる」ことからしか始まらないこと、共感の輪を広げられる喜びをつかんでいく。
以上、芹沢清実「日本児童文学」(2006年5、6月号)

【映画】
映画『スティーヴィー』
<家族愛を問うドキュメンタリー>
 
『スティーヴィー』は、アメリカの素顔を記録した映画だ。カントリーとロック、ゴスペルをバックミュージックに、キリスト教に支えられた米国社会の良心がのぞいてみえる。
母親から虐待を受け、見放され、祖父母のもとで育てられたスティーヴィー。プアホワイトの典型ともいえる彼の一家は、イリノイ州の小さな田舎の村で暮らしている。監督スティーヴ・ジェイムスは大学在学中、そんな少年の「ビッグ・ブラザー」となり、兄の役目を引き受けた。十年後、監督は二十四歳になったスティーヴィーに再会しようとイリノイ州を訪れる。連絡の取れなかった年月を悔い、その年月を「理解」するために映画を撮りたいと考えて。問題の多い子どもだったスティーヴィーは、想像通り、地元で様々な軽犯罪を繰り返していた。祖母や妹、婚約者のトーニャを大切にするいっぽうで、母親を憎悪し、激しい怒りを爆発させることもあった。
そんな彼に、少女に対する性的虐待の疑いがかけられる。初めは傍観者として関わっていた監督が、その時点からスティーヴィーの人生に深く巻き込まれていく。はたして無罪なのか有罪なのか。有罪なら、なぜ素直に罪を認めないのか。不誠実なスティーヴィーの対応に監督は苛立つ。悩みつつ、ときに嫌悪をおぼえつつ、監督はスティーヴィーを撮り続け、ついに判決の日がやってくる。
私は、スティーヴィーの表情から目がはなせなかった。それが虚構ではなく、「記録」されていることに驚きを覚えた。周囲の人びと、たとえば祖母、妹、婚約者、児童養護施設の里親の肉声を聞くと、スティーヴィーの奥底にあるものを愛し、今の姿を受け入れようとしているのがわかる。自分の行為をかたくなに認めなかった母親でさえ、終盤、不器用ながら、スティーヴィーに対して心を開きはじめるのだ。いっぽうで、なにより自分の生活を守るため、厄介者のスティーヴィーと距離をとり始める人たちもいる。監督だって、できれば、そうしたかっただろう。だが、できなかった。それはなぜか。スティーヴィーを信じられるか――人は、人の何を信じたら良いのか?――この重い問いかけは、監督を通じて、映画を観る私達全員に向けられる。 
彼の出所を待ってみるという、障害を持つ婚約者トーニャの言葉が最後までユーモラスで暖かい。(野坂悦子)

2002年アメリカ映画
監督 スティーヴ・ジェイムス
出演 スティーヴィー・フィールディング他
2006年2月18日(土)〜
ポレポレ東中野にて封切り後、全国順次ロードショー
       ―子どもの文化研究所発行「子どもの文化」2006年2月号より転載―