2006.05.29
No.101

       

児童文学書評2006.5月(ほそえ)
○イラン、モンゴル、インド、台湾、中国……アジアの絵本
「絵本 西遊記」唐亜明文 于 大武絵(2006.3 偕成社)
「ぼくのうちはゲル」バーサンスレン・ポロルマー作 長野ヒデ子訳 (2006,4 石風社)
「フルーツちゃん」ハミード・トラーブリー作 ジャアファル・エブラーヒーミー文 愛甲恵子訳 
(2006,4 ブルース・インターアクションズ)
「ごきぶりねえさん、どこいくの?」M・アーザード再話 モルテザー・ザーヘディ絵 愛甲恵子訳 (2002/2006,5 ブルース・インターアクションズ)
「マンゴーとバナナ〜まめじかカンチルのおはなし」ネイサン・クマール・スコット文 T.バラジ絵 なかがわちひろ訳 (2006/2006,4 アートン)
「きみのうち、ぼくのうち」ヤン・ホアン文 ホアン・シャオイェン絵 中 由美子訳 (2005/2006.5 岩崎書店)
 この数カ月の間にアジアの絵本がこんなに刊行された。なかでも珍しいのが、初めて見るのがイランの絵本だ。トラーブリーは、以前、福音館の「こどものとも」で同じように果物や野菜でできた人形をもとに絵本を作っていた。が、本作では詩人とコラボレーションしている。「ごきぶりねえさん、どこいくの?」では気鋭の画家の軽やかなイラストレーションに魅了される。鉛筆の線、グラフィカルな色面……。このチャーミングなごきぶりは、一見の価値有り。お話は昔話の再話らしく、繰り返しのセリフやうたが挟み込まれ、調子よく進んでいく。ごきぶりねえさんは自分の居場所を見つけ、働き、皆で仲良く暮しましたという目出たし目出たしの結末。絵本の作りとしてはどちらも、欧米の現代絵本とはちょっとちがい、カラーのイラストのついた童話、詩集といった感じか。まだまだ、イランの絵本の刊行は続くので、期待をして絵本を待ちたい。
 詩人の絵本といえば、台湾の「きみのうち、ぼくのうち」。夭折の台湾児童詩の先駆者・楊喚の詩をそのまま絵本に展開したという。一編の詩と絵本のテキストはとても近いところがあるので、本作はその良いところがうまくとらえられていると思う。画家の親しみやすい水彩画が、虫や鳥や風や雲にまで同じようなあたたかなまなざしを注いでいた詩人の心を表現し、子ども時代のアニミズム的な大らかな心象を丸ごとの絵本にしている。
 変わり種といえばインドの絵本「マンゴーとバナナ」だろう。インドネシア民話のトリックスター的な存在であるまめじかカンチルのおはなしを、インド更紗の職人が手書きし、染めあげて作った原画をもとにして作られている。よく見ると布目や色の滲み、線のかすれも印刷に残っている。木に登れないカンチルがどんな智恵を働かせて、マンゴーを手に入れるのかは読んでからのおたのしみ。絵は古典的だが、テキストはテンポよく、カンチルとさるのモニェの掛け合いがおもしろい。なぜ、インド更紗でインドネシア民話の絵本を作るのかしら?と思うが、巻末の解説にあるように更紗という染色技術の伝播やアジアの交易、文化をもう一度、統合して考えてみるというのは、とてもおもしろい視点だと思われる。それは日本だと江戸の研究者である田中優子の最近の視点とも重なり、国をこえた交流の有り様を丁寧にたどったあと、それぞれの国や文化へ目を戻すと、違った見え方になるのだろう。このインドの絵本を刊行している原出版社の刊行物を見るとそれがよくわかる。ここの絵本の作り方は、絵本という欧米でできた表現様式で、もう一度自国の文化を見直すというやり方だからだ。日本でも、それは個々の作家レベルで行われてきたことなのだと思う。戦後、日本の創作絵本を作ってきた過程をよく見ると、その流れが見えてくるから。欧米でできた絵本という形式もまた、日本や他の文化圏からのアプローチを取り入れることで、その流れを大きく深くして生き延びることができるようになったのだとも言える。
 モンゴルのポロルマーの二作目は、男の子の誕生から1歳までの成長を遊牧民の1年の暮しと重ねることで描き出している。本作は昨年の野間国際絵本原画コンクールのグランプリを受賞している。野間賞はまだ出版されていない絵本の原画も応募できるため、絵本の刊行が難しい国から多くの出品があり、ここでの受賞が刊行のきっかけとなることもあるという。「ぼくのうちはゲル」もまず、日本で刊行されている。前作同様、モンゴルの伝統的な衣服や住まいなどを丁寧に描きこんだ絵がおもしろい。横長の版型がひろがる草原の地平線に合っていて、ラストの「ジルの四ばんめのまあるいうちは このだいち」というテキストが生きてくる。最初のうちは、かあさんのまあるいお腹、二ばんめはまあるいゆりかご、三ばんめはまあるいゲル……と、ジルの成長に合わせ、世界が広がっていく様をとてもうまく印象づけている。1作目よりも、場面構成も巧みになり、自分なりの絵本の文法を確立したなと思わせる。
 「絵本 西遊記」は1994年に刊行されたものに絵を加え、再構成し直したもの。デザイン処理もみごとで、新刊とみてもいいような。様々に描かれる西遊記だが、伝統的な画法に現代的なセンスを加えて刊行された中国の作家によるものは、あまり見たことがない。沙悟浄が河童の姿でなく、山伏のような感じだし、雲の形もちょっと違う。それがおもしろい。
 絵はものの見方を端的に表わす。それはただ、形や意匠や色によってあらわれるものばかりではく、ものやことの解釈として、その文化の感触を伝えてくれる。だからこそ、様々な文化背景を持つ画家の描く絵本をもっともっとみたい。トルコのキルティングでできた絵本もあるし、ブラジルの葉っぱのプリントでできた絵本もある。まだまだ日本で翻訳されていない絵本はたーくさんある。(ほそえ)

○その他の絵本、読み物
「あっ、われちゃった!」「わくわく、おたんじょうびだよ」ブリギッテ・ベニンガー文 シュテファニー・ローエ絵 二宮由紀子訳 (2005/2006.3 BL出版)
こねずみのミコシリーズの3、4作目。おかあさんのお気に入りの花瓶をボール遊びをしていて壊してしまったミコ。どんなふうにおかあさんに切り出そうか、いろいろなやみます。なかよしのぬいぐるみミミキに助けてもらって、最後はきちんとおかあさんにごめんなさい。そのときのおかあさんのせりふがいい。「おこっていないけれど、だいすきなかびんがこわれてしまって、かなしいの」といわれて、ミコが始めたことは……。あやまった後の行動をきちんと描くところが、この作家の特徴。「おたんじょうび」でもたくさんのプレゼントをもらってニコニコのミコと誰からもプレゼントをもらえなかったミミキのがっかりした様子を対比させ、さて、どうする?と展開させる。子どもの心の動きの収まり方を丁寧に描くのがこのシリーズの良いところ。(ほそえ)

「こぶたのブルトン はるはおはなみ」中川ひろたか作 市居みか絵 (2006.3 アリス館)
こぶたのブルトンシリーズ、3作目は、おはなみ。あいかわらずハイテンションのだるまのたかさきさんと斜に構えたいたちのアンドレ、お気楽なこぶたのブルトンと、登場人物の性格を把握して、ここではどんなことをしでかしてくれるのかなあと楽しめるのがシリーズ作品を読むおもしろさ。おいしいそうなごちそうと楽しげなおどり、そして、ありゃりゃの展開。見開きを自在に使った絵が、お話の楽しさを盛り上げます。(ほそえ)

「トトトのトナカイさん」長谷川義史 (2006.2 ブロンズ新社)
寒い冬の日以外は暇なトナカイさん。あんまり暇なので一人でしりとりを始めました……すると、動物たちがやってきて……。ページをめくると、つぎつぎ動物が出てくるだけ、という展開なのだが、この画家ならではのとぼけておかしな登場で1冊もってしまう。(ほそえ)

「へんてこりんなおるすばん」角野栄子作 かわかみたかこ絵 (2006.3 教育画劇)
お話を楽しむ絵童話という雰囲気の絵本。初めて、おるすばんをするランちゃんには、いつものおうちが違って見えます。蛇口から滴る音が「ぽっちん ぽっちん ひとりぽっちん」とうたっていたり、時計の音も「がっつん こっつん こいつめ ごっつん」ときこえたり……。こういう音や歌の入ったお話が小さな人にはすうっと入り込んでいくものなのだ。そこがこの作家はとてもうまい。お話は目がしばしばになって、こほんこほんと咳まで出てきてしまったランちゃんをおうちの食器棚さんやはたきせんせいやホースさんなどが助けてくれたり、楽しく過ごせるようにしてくれます。にぎやかに描かれたイラストが楽しく、心細かった最初のシーンも、怖くなりすぎず、安心して読めます。このお話にここまでイラストがついていると、ちょっと説明しすぎかなあと思ったり、今の子はここまで視覚化しないと読めないのかなあと思ったり……。(ほそえ)

「さかなだ さかなだ」長野ヒデ子 (偕成社2006.4)
大きな魚が丸まる一匹、りんごの木こどもクラブにやってきた!絵に描いたり、触って、一緒に遊んだり……最後はもちろん、お料理してすっかり食べる。骨になっても、子どもたちに大人気。5感全部を使って、格闘する子どもたちの生き生きと楽しそうなこと。こんな時間を持てるのは本当に幸せ。

「たかいたかい」ジェズ・オールバラ作・絵 (2005/2006.3徳間書店)
「ぎゅっ」で一躍人気になったおさるのボボを主人公にした二作目。いろんな動物たちに順々に「たかいたかい」してもらうボボ。ちゃんとママも登場して、安心のラスト。明るく、表情豊かな動物たちの絵は、小さな子がいかにも好みそう。こどもが「たかいたかい」してもらった時のケラケラと喜ぶ様子が思い出される。(ほそえ)

「おかあさん げんきですか。」後藤竜二作 武田美穂絵 (2006.4 ポプラ社)
学校でおかあさんに手紙を書いて、感謝をのべましょう、といわれて、書きはじめたぼく。この際だから、日頃いいたかったことを思いきって書いた作文が絵本になっている。口うるさくいわないで、部屋を勝手に掃除しないで、すごく大事だった思い出の品を捨てないで……。心配しないでぼくに任せてね。最後におまけに綴られた、あんまりがんばらないでください、というところで、実際のおかあさんはほろっときちゃうだろうな。ラストにほんとのかっこいいおかあさんの姿が描かれるのが、画家の工夫でうまくいっている。

「どうぶつさいばん タンチョウは悪代官か?」竹田津 実作 あべ弘士絵 (2006.4 偕成社)
「どうぶつさいばん ライオンのしごと」に続く、第二作目。本作では北海道の湿原に住む動物たちの裁判。天然記念物として保護され、増え続けるタンチョウが湿原に住むヤチウグイを食べつくしてしまう、という訴えをどう裁くか。それぞれにヒグマやカワウソなどの弁護士を立て、オジロワシやキタサンショウウオなどを証人に呼ぶ。それは湿原を半分に減らし、かわいそうだから、と冬だけ給餌をしていた人間の問題なのではないか、と裁判官のワタリガラスがいうのだ。前作でも、エッセイ集でも著者はおなじことを言いつづけている。自然界はバランスが大事。それをゆがめてしまう人間の行いを顧みよと。(ほそえ)

「クマさんのド−ナツ」みやざきひろかず (2006.3 ひかりのくに)
ドーナツが食べたくて、出かけたはずのクマさんが、歩いていくうちに忘れてしまって、毎回違ったものを食べてしまう。ドロップだったり、まあるいピザだったり、ホットケーキだったり。おとや形の特徴からお話を展開させていくのは幼児ものの定番だが、親しみやすいかわいらしい絵ととぼけたおかしさがいい。さいご、クマさんはドーナツを食べないで寝てしまうのだけれど、もうひとつオチがついてもよかったかと。

「春の主役 桜」ゆのきようこ文 早川司寿乃絵 (20006,3 理論社)
「日本の材木 杉」ゆのきようこ文 阿部伸二絵 (2006,2 理論社)
<気になる日本の木>シリーズの第3、4冊目。季節に合わせ、このシリーズの絵本ももう4冊となった。杉は近年、花粉症の元凶と分が悪いが、いかに有用な木で、日本に古くから天然にはえていた木であったか、本書でよくわかった。杉をめぐる旅は、時代を遡り、様々な土地をたどって語られる。
桜はソメイヨシノを中心に、桜前線のなぞや各地で愛でられている固有の桜たちの紹介などあでやかに綴られている。本シリーズは植物の知識のみならず、暮しや歴史にまで目を向けさせて、いかに木と共に人は過ごしてきたかを伝えてくれるところがよい。杉では手入れをしなくなった杉山の災害などにも触れ、これからの付き合いを示唆している。(ほそえ)

「おしばいにいこう! 〜こどもえんげき入門」ヌリア・ロカ文 ロサ・マリア・クルト絵 鴻上尚史訳 (2004/2006.3 ブロンズ新社)
実際にお芝居をしてみようという子ども向けの演劇の絵本は、今までそうはなかった。(むかしドイツの
フックスフーバーの「げきをしようよ」というえほんが翻訳されていたが……)とくにHOW TO絵本としては、本書は初めてではないかしら。 いろんな顔をしてみよう、形をしてみよう、音をだそう、声を出してみよう、役になったり、おけしょうをしたり、大道具を作ってみたり、指人形を作ってみたり……。見開きごとに展開する項目は、わあ、おもしろそう、ちょっとやってみたいと思わせるものだが、もう少し、詳しく説明してくれても良いのになあと思うところもある。そこを訳者であり、演出家でもある鴻上尚史が、あとがきで補足してくれているのがいい。お芝居の楽しさが、キャラクター(役)にのってする心の旅であること、変身や、いろいろ試してみる過程にあることをはっきり言ってくれている。学芸会での劇の発表だけでなく、国語の学習などでも演劇的な方法が子どもたちに受け入れられている現在、この手の絵本はもっとあっても良いと思う。(ほそえ)

「いのくまさん」猪熊弦一郎絵 谷川俊太郎文 杉浦範茂構成(2006.3 小学館)
猪熊弦一郎の絵をまとめ、そこに文を置いて、作られた絵本。子どもの頃に描いた絵、自画像ばかり集めたページ、顔ばかり集めたページ、鳥や猫、おもちゃ、かたち……ページにたくさんの絵がおさめられ、そこに文が邪魔をしないように、目を誘うように、置いてある。美術館の壁にある動物たちの絵の下で、手をつなぐ子どもたち。いのくまさんをスケッチした子どもたちの絵。この美術館のスタッフがどうして、この絵本を作りたかったのかがよくわかる。絵本という形を使って、美術へ誘い込みたいという意図がはっきりしていて、気持ちがいい。(ほそえ)

「せかいでいちばんおかねもちのすずめ」エドアルド・ペチシカ文 ズデネック・ミレル絵 きむらゆうこ訳
(2006.3 プチグラ・パブリッシング)
もぐらのクルテクのアニメーションや「もぐらくんのずぼん」などで人気のミレルの絵本。チェコではずいぶん前に刊行されていた、古典として有名な絵本。アニメのクルテクを絵本化したものでは、絵の動きで楽しませるアニメとはちがって、どうしてもお話が単調になってしまい、本で読むとなかなかおもしろさが伝わらないなあと残念に思っていた。本書はテキストライターが別にいるので、オーソドックスではあるが、お話がきちんとできていて、そこにミレルのかわいらしいイラストがついている。たくさんのムギの粒をひとりじめしても、仲間と一緒でないと楽しくない……ひとりぼっちのぼさぼさくんは友だちと一緒にけし粒を分け合って食べる毎日の方を選んだということです。(ほそえ)

「とんでもないおいかけっこ」クレメント・ハード作 江國香織訳 (1941,2005/2006.5 BL出版)
1941年の初版の絵本が昨年、アメリカで復刊され、ついに日本で翻訳された。ワイズブラウンの「おやすみなさい、おつきさま」で有名な画家だが、自作もあるし、夫人のサッチャーとの共作絵本も多い。見ると、人の描き方など、なるほど古い、と思うところもあるが、絵とテキストの相乗作用をきちんと意識してページを構成していて、見事。(ほそえ)

「たからもの」ユリ・シュルヴィッツ作 安藤紀子訳 (1978/2006.5 偕成社)
1980年コルデコット・オナー受賞作。哲学的で内省的。それがシュルヴィッツの絵本のイメージ。そのままの絵本が本作だ。夢のお告げをまにうけて、遠い遠い都の宮殿の橋へと旅をする。捜しまわっても何も見つからない。そこでふと洩らされる夢のお告げ。また男はそれをきいて、遠い遠い道を戻って我が家のかまどの下を掘り、宝物を手に入れるのだ。この寓話のラストに男が書き残す真実は、この絵本を読む人の真実になるものと、作家は信じている。多分、この男は作家でもあるのだろう。(ほそえ)

「ボヨンボヨンだいおうのおはなし」ヘルメ・ハイネ作 ふしみみさを訳 (1986/2006.4 朔北社)
以前、佑学社で刊行されていた絵本の新訳復刊。「ともだち」などの明るい水彩画で知られる作家だが、本作はコラージュによるイラスト。山のような仕事をして、国のいろんな問題が気になって眠れない王様が見つけた、ストレス解消法が、ベッドにとびおりてボヨーンバヨーンと飛び跳ねることでした。それまでも禁止された王様は病気になってしまい……。ベッドで弾む楽しさは、誰にでも記憶にあるちょっとした思い出につながる。そういう他愛のない行動をぽんっとお話の核に持ってくるところがハイネらしい。(ほそえ)

「おにいちゃんには はちみつケーキ」ジル・ローべル文 セバスチャン・ブラウン絵 なかがわちひろ訳 (2005/2006.5 主婦の友社)
弟や妹ができて、家での立場が変わってしまう小さなこどもを主人公にした絵本や物語はたくさんある。小さな子にとってはそれまでの人生が変わってしまうほどの大きな事件だし、そこにいろんなドラマを感じる作家もおおいから。本作では、お兄ちゃんの自分ではどうしようもない疎外感をゆったりと受け止めるママの姿が印象的。かわいらしく温かみのあるイラストと素直にお兄ちゃんの立場へといざなうテキストの流れがうまい。(ほそえ)

「すなばで ばあ」中川ひろたか文 山本祐司絵 (2006.6 主婦の友社)
「どらいぶぶっぶー」に続く遊び絵本の第二弾。砂場で山を作って遊んでいたら、不思議な音がして、新幹線がひゅーっと登場。その後にできた道に、水を流したら川になって、どんどん水が増えていって、とうとう海へ。遊びや空想が広がっていく様を、シンプルに見せて、楽しい。(ほそえ)

「とんとんとん あそぼ」さかいきみこ作(2006.6 主婦の友社)
とんとんとん あそぼ、とうさぎさんがお家のドアをたたくと、順々に動物たちが出てきて……というシンプルな赤ちゃん絵本。ふつうに絵本を読んで、出てくる動物さんをあてっこするだけでも楽しいが、巻末にある手遊びを一緒にしながら遊んでもいい。絵本丸ごとがそのまま手遊びになっているものは、めずらしいのでは? 赤ちゃんと絵本を読んだり、遊んだりするのに慣れていない大人は、まず、こういう絵本で遊び歌や絵本に親しんで、一緒に楽しんでもらえたらと思う。
赤ちゃんに絵本を、との声が大きく、皆、関心も持っているようだが、実は絵本を読むということが目的ではないのだと知ってほしい。絵本を間に介すると、あかちゃんともっと簡単に一緒に遊べることができますよ、一緒に楽しく時間を過ごせば、もっともっとかわいく思えるでしょ、という大人サイドのことなんだけれど。うたったり、さんぽしたり、という毎日があってこその絵本で、「赤ちゃん絵本をよんであげたけれど、家の子はおもしろがらなかった」といって二か月の子どもの反応を憂えるのはまちがっている。そういう場合は絵本を読む前にもっと一緒にできることがあるだろう。一生懸命絵本を読んであげなきゃといって、きりきりするママがふえるのは本意ではないのだ。おもちゃで一緒に遊んだりするのが、あんまり得意じゃない人には、絵本というものはとってもありがたいもの。だっこして、一緒に見て、取りあえず、いろんな反応を得ることができ、それに対応することで、すこしコミュニケーションが取れたかのように、大人が感じられ、うれしくなる。そういうもののひとつに過ぎない。赤ちゃんの反応をしっかりと受け止めて、それを面白がれる人ならば、絵本だけでなく、新聞紙でも、ボールでも、せんたくばさみでも、いっしょに遊べるものだし、何もしなくとも、赤ちゃんの存在そのものがおもしろく、見ていて飽きないのだけれど。(ほそえ)

○読み物
「菜緒のふしぎ物語」竹内もと代作 こみね ゆら絵 (2006.3 アリス館)
150年も前にたてられたという茅葺き屋根のおじいちゃんの家。そこへ遊びにいって、曾おばあちゃんからいろんな不思議なお話をきく菜緒がであった様々をおっとりとした絵とオーソドックスな展開で描いた物語。家に住んでいるというやしきぼうずや、庭で踊り遊ぶお雛様たち、海のかっぱだというみすず、庭ぼっこなど、どこかできいたことのあるような、形なきものたちの姿を、ひいおばあちゃんと心やさしい女の子である菜緒とのやりとりのなかで、くっきりと浮かびあがらせる描写はなかなか。丁寧に暮す日々に、ちらりと姿を見せてくれる不思議が人の心を暖かくしてくれる。(ほそえ)

「オホーツクの十二か月〜森の獣医のナチュラリスト日記」竹田津 実著 (2006.3 福音館書店)
オホーツクの地で、自然を見たり、動物を看たりしてきた四十年という月日を、4月から3月までの季節の並びにそって、書きつづったエッセイ集。四十年もの間に変わってきた土地の様子、動物たちの生態……。変わらないのはなにか、変わることで変わってきてことはなにか。自然と人間とのかかわりの変化を互いに豊かにできる方向はないかと考え、活動する日常も綴られている。本書を読むと人間も大きな自然のゲームの中の駒のひとつにすぎないのだとわかる。ギリギリの所で生きているのは動物ばかりではないのだということも。それゆえに本書に出てくる人たちは心やさしい。現代の自然環境保護の在り方、自然を愛でる人たちの行動の在り方、よかれと思って行われることの裏側にあることを、しっかりと見つめ、言葉にしている。それが生き生きと撮られた写真のあいだから、この姿を追いやるのは人間なのだとよく響く声で伝えている。(ほそえ)


「さくら、ひかる。」小森香折作 木内達朗絵 (2006.3 BL出版)
現実の物語と異世界の物語が重なりあい、引かれながら進行していくファンタジーを描くのは、この作家の得意とするところ。本作でもまた、夢の中で、木の精のまもる土地の力をおびやかそうとするあやかしのいる世界に入り込んでしまう少女と、現実のこの少女の生きる現代の中学生生活とか交互にえがかれ、その中で少女は自らの姿を発見し、見失い、乗り越えていく。木を守るというエコロジカルな空気をまといながら、それぞれの人生のしこりをとかし、居場所を見つけていく人の物語としてしっかり書かれている。自分の声を取り戻す過程で、夢の世界が現実の世界を支えてくれる様が人の不思議を教えてくれる。(ほそえ)


「七つの季節に」斉藤洋 (2006.3 講談社)
少し大人っぽいテイストの短編集。語り手の私の小学校に入る前の話だったり、勤め人になったばかりの話だったり、動物をめぐる、不思議なオチのあるものばかりが集まっている。出てくるのは金色の毛並みのアラビアハツカネズミだったり、自分の名前をなのる九官鳥であったり、大きな淡水魚であったりするのだが、ドのお話もなんとも低体温で、それでいて、妙なおかしみがあり、おだやかな懐かしい雰囲気がして、心に残る。(ほそえ)

児童文学書評 2006.5
○写真絵本いろいろ
「TUNAMIをこえて〜スマトラ沖地震とアチェの人びと」アチェ・フォトジャーナリストクラブ写真 藤谷健文(2006.2 ポプラ社)
」平野伸明文 野沢耕治写真 (2006.4 福音館書店)
「おじいちゃんは水のにおいがした」今森光彦 (2006,4 偕成社)
「ずらーり マメ ならべてみると……」深石隆司写真 高岡昌江文 (2006,4 アリス館)
「おとうとは 青がすき〜アフリカの色のお話〜」イフェオマ・オニェフル作、写真 さくまゆみこ訳(1997/2006.6 偕成社)

 この春、いろんなタイプの写真絵本が刊行されたので、まとめてみた。写真絵本というと自然科学ものが大半なのだが、この5冊はそれぞれに特徴的で、今刊行されている写真絵本の方向を示しているように思う。「TUNAMIをこえて」は2004年12月に起こった大地震と津波の被害を克明に記録する。ただ、この本の視点としてインドネシアからの独立運動をしている武装ゲリラとの戦いから書き起こされているのが、単なる災害の本と括るわけにはいかないものをもっている。災害の前からの写真や津波の最中の緊迫した写真、災害の後の混乱や悲嘆、1年後の様子まで、地元の新聞社、通信社などで活躍する報道写真家だからこそ、撮ることのできた写真で人びとの暮しが綴られる。災害と政治的な決着と文化的な誇りとが、この小さな地域でどう折り合いをつけ、人びとが暮しつづけていくか。たった1年、本書でたどっただけでも、知らずにいたことの多さに、胸が潰れる。地震の後、二年たって、日本でその記憶が薄れないうちに、このようなしっかりした本ができたことがうれしい。
「ずらーりマメ」はならべてみると……という観点で作られた新感覚図鑑の4弾目。4弾目にして初めて植物がテーマになった。この図鑑は並べて、よく見てみると、同じようでもいろいろ違うよ。と、視点を与えてくれる作りになっているのが特徴。「ずらーりタネ」だと、違いが目立ちすぎて、大きなくくりが難しく、マメというのは、なかなかよい素材であるのだなあとわかった。豆は種であり、同じようでありながら、色や形、大きさなど、ヴァラエティに富んでいて、その差異を見つけだしやすいもの。マメのおへそさがしの後は、芽や花や実(さや)の違いを観察し、さいごはまたマメにもどる構成が、なるほど植物なのねと思う。
「ブナの森は宝の山」「おじいちゃんは水のにおいがした」はどちらも自然環境を題材にし、1年を丹念にたどったもの。「ブナの森」は森が育む木や植物、動物などの多様性を見開きごとのテーマでたくさんの写真とともに解説し、その情報の多さに圧倒される。それだけ豊かな場であることを写真で証明していく構成になっている。「おじいちゃん」は琵琶湖のほとりで漁をするひとりのおじいちゃんに焦点を合わせ、彼の生活を追うことで、まわりの暮し方や仕事を見せていく。見開きにわたる大きな写真と、カット的にあしらわれた説明的な写真の組み合わせで、ゆったりとした水の流れのように、四季の移り変わりが見られるようになっている。この作りは映像作品がもとになっているからかもしれない。テーマで切る図鑑的な手法でなく、写真家の目と語りでつづられたノンフクションの物語であるから。「やあ、出会えたね! ダンゴムシ」のあたりから今村光彦は、写真とともに自分の目で感じ、考えたことを文章で表現していき、それによって、撮る(撮りたい)写真が変化していく様を本の形で見せてくれるようになった。それは写真の本としてみると、とても新しい形のように思え、読んでいてスリリングであった。
「おとうとは青がすき」はナイジェリア人の写真家による写真絵本の3冊目になる。アルファベット、数のつぎは色で、アフリカの文化や暮しを切り取ってみせてくれる。弟にいろんな色を教えてあげようと、お姉さんが暮しのなかで見つけた色を見せていく構成。赤は長老の帽子の色、緑はやしの葉っぱの色……というように、紹介されていく。食べ物だったり、花の色だったり、遊びや祈りであったりする様々な色。その切り取り方は子どもの目線に近しいもので、日本の暮しとも比較して、想像したり考えたりしやすいものになっている。ラストのまとめ方もうまく、お話としても楽しめるのがうれしい。(ほそえ)

○その他の絵本
「こねこのミヌー」フランソワーズ作 きしだえりこ訳 (1962/2006,5 のら書店)
今年に入っても、フランソワーズの人気は衰えない。パリのセーヌの川岸を舞台にいなくなった子猫を探す女の子の話「MINOU」も翻訳された。後、残っているのは、まりーちゃんシリーズの二冊と、フランスで出された数冊くらいではないかしら。このお話もまた、パリの暮しの様子がレストランや喫茶店、本屋にパン屋に美容室……をめぐって、女の子が子猫を探すことで、町で働く人たちの様子が紹介される。橋の下に暮すルンペンのようなおじさんも出てくるところが、大らかな時代を感じさせる。他のお話、例えばまりーちゃんシリーズなどは、問題がすっかり解決されて、よかったよかったというラストになるのだけれど、本作では、子猫は女の子の腕のなかに戻るところまでは描いていない。船に乗っていったと聞いて、川をいく船に姿を探す女の子のそばに、こねこが歩いてくるシーンがラストになっている。読者には安心のラストが見えている、という作りなのだ。なかなか気の効いた構成だが、表4にでも、子猫を抱いた女の子のイラストがあればなあとちょこっと思う。(フランソワーズが描いていないのだからしょうがないのだけれど。)巻末の訳者あとがきは丁寧でフランソワーズの絵本の芯をとらえ、この絵本をより慈しめるように、となっている。(ほそえ)

「リベックじいさんのなしの木」テオドール・フォンターネ文 ナニー・ホグロギアン絵 藤本朝巳訳 (1969,2005/2006.5 岩波書店)
ホグロギアンがウッドカットの絵本を書いているとは、初めて知った。コルデコット賞の受賞作は1度目は細いペン画に彩色したもの、2度目の「きょうはよいてんき」はぽかぽかとした明るいカラーのイラスト。本作は1969年に制作された絵本という。この年代はたくさんのウッドカットの素敵な絵本が刊行されている。時代の好みというものがあったのかもしれない。リベックじいさんは気の良い、穏やかなおじいさんだったが、自分が天国に召される時に、お墓に、なしの実をひとつ、入れておくれ、と言い置いていった。その通りにすると、何年も経って、おじいさんの墓のそばには、立派ななしの木が育ち、ふたたび見事な恵みを子どもたちに与えているという。飾らぬおじいさんの人柄が、あたたかみのあるこの手法でよく表現され、風に揺れる葉やなしの実の輝きが、印象深く象徴的に感じられるのはウッドカットだからこそなのだろう。(ほそえ)

「バスラの図書館員〜イラクで本当にあった話〜」ジャネット・ウィンター絵と文 長田弘訳 (2005/2006,4 晶文社)
ジョージア・オキーフの伝記を絵本にした絵本作家が、イラク戦争の爆撃から守るために、図書館の本を自宅や友人宅へ移動させた図書館員の実話を絵本化した。このイラク侵攻を行ったアメリカの作家が、イラクの図書館員の勇気ある行動に賛同して、本を作り、その収益の一部を焼け落ちた図書館の再建のために使うとは……。そういう視点や力がアメリカにはあるのだなあと感心してしまう。本が至る所に詰め込まれている場面のイラストにはクスクス笑ってしまうが、本を守ることは、未来への、平和への希望を捨てないことなのだ、という作者の声には姿勢を正さずにはいられない。(ほそえ)

「ナツメグとまほうのスプーン」デイヴィッド・ルーカス作 なかがわちひろ訳 (2005/2006,6 偕成社)
処女作「カクレンボ・ジャクソン」でチャーミングなキャラクターをかわいらしいお話にのせて、連れて来てくれた作家の二作目。荒涼としたがらくたばかりが散らばる茶褐色の世界に、ぽつんと小さな女の子が座っているところから始まります。おじさんやいとこと食べるごはんがいつも、段ボールやひもやおがくずだなんて、びっくり。ナツメグは散歩に出かけた波打ち際で小さなびんを見つけます。なかには不思議な大男がいて、ねがいを3つかなえようというのです。このまま、読んだことのあるようなおとぎ話の世界にはいっていくのかしらと思っていると、奇妙な展開で、どういうこと?と叫んでしまいそう。なんとも奇想天外なお話ですが、よくよく絵を見るとその緻密な構成にびっくりします。ああ、ここはロスト・ワールドだったのだなあ。そこにちょっとした勇気ときっかけが出会って、新天地へとすすむのか。甘いなかにもちょっぴり苦味のあるナツメグは、たくさん食べると毒になってしまうものでしたね。さじ加減が良いようで、作家の魔法にかかったみたいな気分。(ほそえ)

「スーザンのかくれんぼ」ルイス・スロボトキン作 やまぬしとしこ訳 (1961/1970,2006.6 偕成社)
以前、読み物の形で刊行されていたものが、もともとの絵本の形に戻って復刊された。スロボトキンの絵本はお話がしっかりしているものが多く、絵本の形で翻訳すると、字が多くなってしまいがち。本作では、少し小さめの活字ですっきりと読みやすくなっているのがうれしい。お兄ちゃんから隠れる良い場所を探すスーザン。でも、隠れてみると、誰かに見つかってしまい……という展開で、ドキドキします。でもとっても良い場所を自分で見つけたスーザン、よかったね。子どもが一人でいる場所の大切さをよく知っている人のお話。子どもが生まれてから、その様子を見ながら絵本を作りつづけた作家ならではの観察眼。スロボトキンには、たくさんのお話絵本があり、夫妻で作った絵本も多く、どれも子どものいる家庭なら、ああ、こんなことあったなあとにんまりしてしまうお話も多い。翻訳されていないものも多いので、これを機会に刊行されるといいのに。他愛のないふりをして真実を語るのがうまい作家なので、今読んでも、それは生きていると思う。(ほそえ)

「モグラはかせの地震たんけん」松岡達英作・絵 松村由美子構成 溝上 恵監修 (2006.3 ポプラ社)
新潟中越地震を経験した絵本作家が、地震のなぜ?を絵解きしてみせてくれる。マグニチュードや震度という言葉を実際のものにあてはめて説明してみたり、マントルの対流がプレートを動かすという大きな話もモグラ博士に絵解きされると、とてもわかりやすい。地震のためにひどい被害を受けたり、困ったことになったりするという面だけでなく、地球から眺めると、豊かな自然環境を育くむ大きな力になっていると伝えるところが、他の災害ものと一線を画す。(ほそえ)


「ごはんのうた〜ちいさなうたえほん3」いまむらあしこ作 いちかわなつこ絵 (2006.5 ポプラ社)
歌うように読んであげたい調子のよいテキストと温かみのある生活感にあふれた絵で作られた小さめの絵本第3弾。作を重ねることで、主人公の動きや動物たちの暮しぶりもより生き生きとしてきた。今回はごはんがテーマになっている。前作同様、動物たちのそれぞれの暮しの様子を見せながら、人も動物も同じ地平で生きて暮しているのを絵本に展開していく。暮しのなかの大事な要素であるごはんに願いを込めて書かれたテキストが、親しみやすい動物さんたちの姿を通して、ストンと小さな子の胸におさまるだろう。(ほそえ)

「ねこのせんちょう」マドレーヌ・フロイド作 木坂涼訳 (2003/2006.4 セーラー出版)
表紙の猫の顔のふてぶてしい感じがかわいい。この表紙だけで、猫の好きな人はどうしようもなく、この絵本を手にとてしまうのではないかしら。端正に描かれる猫のくらし。なめたり、食べたり、眠ったりする毎日。でも夜になると、船長の名にふさわしく、ボートを操り、出かけるのだ。なんてことのない展開なのだけれど、この絵とすっきりとした言葉があまりに似合っているので、印象深い。(ほそえ)

「マッチ売りの少女」ハンス・クリスチャン・アンデルセン文 クヴィエタ・パツォウスカー絵 掛川恭子訳 (2005/2006.5  ほるぷ出版)
アンデルセン生誕200年を記念して作られたものなのだろう。銀の箔押し印刷のまじった贅沢な作りの絵本。パツォウスカーの絵本は型押し、型抜き、めくりなどを駆使した半立体的な構造を持った仕掛け絵本が多い。本作では、そのような仕掛けはなく、よく知られた少女の物語に、大きな見開きの絵や片ページの絵を付け加えた、通常の絵本の形にのっとっている。けれども、そのイラストの、場面の切り取り方は、彼女独自のもの。見返しに描かれる大きな色とりどりのマッチ。見開きで展開される少女の見たすばらしいものたち。その画面構成は今までの画風そのままに、物語とどう結ばれて見ていけば良いのかは、読者にゆだねられている。画集ではなく、たしかにこれは「マッチ売りの少女」の絵本だといえる。(ほそえ)

「アンジェロ」デビット・マコーレイ作 千葉茂樹訳 (2002/2006.5 ほるぷ出版)
緻密な建築や断面図の絵本で定評のある絵本作家の物語り絵本。俯瞰で描かれる町やアンジェロの修復している教会の様子など、今までの絵本で見慣れた構図も織り込まれ、でも、人と鳩の物語であるところが違う。物言わず、ただ親身に見守る鳩。最初の出会いではこれほどまでの関係になるとは互いに思わなかっただろう。老いることの重さとそれでも自分を律して仕事を続けられる喜びと誇り。心通わせ、後を心配する関係の豊かさ。アンジェロもまた、ひとつのことを全うし、暮す人のかけがえのなさを教えてくれる。(ほそえ)

「ねこのなまえ」いとうひろし作 (2006.5 徳間書店)
こぶりの小さな絵本だが、読んだ後、心が遠くの人へと広がっていく絵本だ。春の眠たいような午後、のらねこに名前をつけてくれないかと声をかけられるところから始まる。猫に話しかけられてもびっくりもせず、反対に興味を持ってしまう女の子。そのやりとりが、この作家らしいユーモアと軽みでとんとんと進んでいくのだが、「もし自分になまえがなかったら、自分は誰なんだろう」と思ってしまうところから、深みのある展開に入っていく。お話だけを聞いても、それは納得するものなのだけれど、ほあほあとしたやさしい色合いのかわいらしい絵ともに読んでいくことで、この幸せな物語の持つたくさんの広がりを感じることができる。公園で遊ぶ少年や家族たちの佇まい。町の人それぞれにあるなまえ。たくさんのなまえとそれをつけた人たちへ目がいく時、この物語の大きさに気づく。シンプルだけれど、心を広げてくれる。(ほそえ)

「犬のラプダとまあるい花」バーリンド・アーグネシュ文 レイク・カーロイ絵 うちかわかずみ訳 (2002/2006.4 冨山房インターナショナル)
ハンガリーの国民的児童文学作家と挿絵画家のコンビによる絵童話。初邦訳となる。ハンガリーには絵本の形をしていながら、お話の分量の多いものがあり、本作も1冊のなかに9話のお話が入った形になっている。ハンガリーの児童向けラジオやテレビの仕事が多かった人らしく、語り口調がやさしく、お話も小さな子ども達が動物と一緒に遊んだり暮したりする様子が描かれている。ごあいさつをさせたり、眠たい子どもを起こすのに奮闘したりと、良い子になってほしいなあという大人の願望も少しまぜてかかれた物語はひとつひとつは短く他愛無いので、夜寝る前などにひとつづつ読んでもらうと楽しいだろう。遊びのなかで空想を楽しめる年頃の子どもにはぴったりのお話の世界。このような良質な幼年童話を5、6歳にたくさん読んでもらってほしい。この時期でなければ面白がれない要素というものもあるし、それをしっかり味わうことで、心の機微やまわりとの関係を学ぶことが多いと思うから。(ほそえ)

○読み物
「スミレ色のリボン」シャルレ・バイアーズ=モランヴィル文 アンナ・オールター絵 三原泉訳 (2003/2006.4 BL出版)
オールカラーの挿絵が美しく愛らしい童話。野ネズミのスプリングの家にだいだい伝わるスミレ色のリボン。それを見つけた少女時代のスプリング。おかあさんになって、古い自動車のなかで子どもを産み、育てる毎日。とうとう、自分の本当の家、おばあさんと暮していた家に、子どもを連れて戻るまでを、小さな動物の目で綴っている。子どもが生まれてからは、子どものたちの活躍がおもしろく、最後は、おばあさんが言っていた<スミレ色のリボンのリレー>御先祖様の思い出のリレーに、スプリングも加わって、次に渡していくのだということの意味が幼い読者にもしっかりと伝わるようになっている。オーソドックスな造りで、読んでもらったら楽しいだろう。(ほそえ)

「見習い職人フラピッチの旅」イワナ・ブルリッチ=マジュラニッチ作 山本郁子訳 (1913/2006.4 小峰書店)
クロアチアのアンデルセンと賞され、二度もノーベル賞の候補にあがったという女流作家の代表作だという。見習い職人のフラビッチが靴職人の親方の所から逃げ出して、旅をする最中にいろんな人に出会ったり、助けたりする様子が物語になっている。古い形の物語なので、作家が地の文から顔をだし、読者に声をかけたり、先回りして説明したり、現代の物語とはまた違った雰囲気ではあるが、遍歴し、自分の居場所を見つけるまでを語るというスタイルは、子どものための物語の王道でもあるし、いなくなった子どもがもとの家族を見つけるという<家なき子>スタイルは現代でも形を変えて語られている。メルヘンと同様に、こういう世界にすっとはいれさえすれば、わくわく最後まで読めることだろう。挿絵も物語の雰囲気に合っていて、少し昔の暮しの雰囲気に親しみやすい。(ほそえ)

「ウソがいっぱい」丘修三作 ささめやゆき絵 (2006.4 くもん出版)
中学や高校生が主人公の児童文学は、今や児童の冠をとっぱらって、文学としての本流をになりそうな勢いなのだけれど、小学校の3、4、5、6年生だと、マンガみたいな設定でしかかけないか、どっぷり昔風の児童文学しかお目にかからなかったような気がする。久しぶりに、この作家の物語を手にして、ああ、こういう子どもの見方はこの人独自のものだなあ、なるほどなあと感じた。小学校5年生のリュウがウソというものから、親や世間やクラスの友だちへの見方を変化させていく様を、丁寧に実際の子どもでもついて来れるような形でつづっている。先生や友だちはわかりやすくカリカチュアされ、いじめられる子も学校の外では元気で健気な子という設定。そこがちょっと古いかも、と思わせるが、彼女の学校にいるあいだ全部がウソで、実際を見ようともしないクラスのみんなや先生を反対に無視し、わらっているんだ、とリュウが思うところは、ひとつの見識を子どもに差し出している。オカマのバブちゃんやおかあさんなどの大人をきちんと描いているところがいい。こういう本が子どもの手近なところにそっと置かれているクラスだったら、風通しもよかろうに。(ほそえ)

「ケイゾウさんは四月がきらいです」市川宣子さく さとうあや絵 (2006.4 福音館書店)
幼稚園でかわれているにわとりのケイゾウさんが主人公。子どもや先生たちも、みんなケイゾウさんの目線から描かれている。幼稚園や保育園などに暮す動物は、なかなかに大変だ。子どもたちがちっとも頓着せずに、自分の思いばかりぶつけてきて、ほんとに迷惑と思っているに違いない。そうおもうからこそ、ケイゾウさんやうさぎのミミコのせりふにわらってしまう。これはファンタジーではないから、子どもとケイゾウさんやミミコはおしゃべりができない。こどもがかってにおしゃべりしている。そこに「コケ、コケ」」などと間の手を入れるだけ。けれども、読者にはケイゾウさんとミミコのおしゃべりはきちんと聞こえるようになっているから、よけいにおもしろいのだ。毎月の園での暮しにあわせ、お話がすすむので、読み切りの短編集みたい。一話ずつ読んであげるのによい分量。6、7歳の子と一緒にたのしみたい。大人は先生と子どもの両方の目線で読めるので、ちょっと得した気分。(ほそえ)

「天使のすむ町」アンジェラ・ジョンソン作 冨永 星訳 (1998/2006.5  小峰書店)
ヘヴンという町に住む14歳のマ−リー。ママとパパと弟とこの小さな、木や子どもでいっぱいの、川べりの小学校がある町に12年前に住みはじめた。マ−リーの目で見たそこでのくらしを詩的な文章で綴っている。繊細で自意識過剰な友だちやベビーシッター先の若いパパと赤ちゃん。いろんなところから届くジャックの手紙。思春期のけだるさがこのまま続くのかと思っていたら、マ−リーが実はジャックの子で、14年間家族として生きてきた3人は、そうじゃなかったということを知ることになる。自分がぐらぐらになってしまうような心地から再生し、家族の絆を結び直せそう、というところでラスト・シーン。ここに南部の教会焼き討ち事件や自傷癖のある友だちの問題などが重なり、暗いものを察するのだけれど、嘆き、大声で叫ぶマ−リーののびのびとした姿にほっとするのだ。この子はこんなにも愛されているではないかと。そして、それを彼女の奥底は充分わかっているのだと。(ほそえ)

「きもちってなに?」「よいこととわるいことって、なに?」オスカー・ブルニフィエ文 西宮かおり訳 重松清日本語監修(2004/2006.6 朝日出版社)
こども哲学というシリーズの1、2巻。全7巻のシリーズになるという。フランス発の問いかけ絵本とでも言おうか。実際、フランスの絵本には、質問して、それに答えると言う形式の絵本が多い。本書は絵本を読む子たちよりも、もう少し、考え言語化することに意識的な年齢を対象としているのだろう。これは読むと言うよりも、質問に自分なりに答え、さらに付け加えられた質問(つっこみ)に対し、答えることで、最初の答えよりも、広く深く質問に取り組んでいけるというワークショップ的な本なのだ。だから、やってみること。子どもに読ませようと言う前に、大人が自分でやってみること。そうして出した自分の答えを持った上で、他の人にすすめよう。センスのよいイラストが楽しく、哲学(考えること)に親しんでほしいという著者のもくろみは成功している。巻末に入っている小さなお話は、重松清の書き下ろし。お話仕立てになっているので、ストーリーに寄り添うことで、心や善悪へのアプローチの仕方を少し、今までよりずらして見られるようになるという利点はある。質問形式に疲れる人にはいいのかも。子どもが自分から見つけだして手に取るような本ではないな、たぶん。大人が読んだ後、家のなかにポイッと置いてあったら、ぺらぺら見てふーんとおもうぐらいかしら。学校でひとつだけワークショップに使ってから、あとはじぶんでよめるようにクラスにおいてあったら、おもしろがる子もいるかもしれない。(ほそえ)

「現代絵本の父 ランドルフ・コルデコットの生涯と作品」ジョン・バクストン著 吉田新一訳・解説(2004/2006.5 絵本の家)
アメリカ絵本の大きな賞に名を残すコルデコットの生涯と作品について、コンパクトにまとめられた評伝。今までまとまったものは出ていなかった。あんなに躍動的なイラストを描いていたのに、自身は病弱で、39才という若さで旅先のアメリカで亡くなっているのだとはこの本を読むまで知らなかった。子どもの本のイラストレーションを手掛ける前までは、銀行勤めのあいまに雑誌のイラストを描いていたり、なかなか筆一本で暮らせるような目が出なかったことなども。原書のままだとブックレットのような内容だったが、適任の解説者を得たことで、いろんな図版をもとに絵が語るという意味を実証してみせたり、コルデコットの流れをくむレズリー・ブルックやビアトリクス・ポターと並べて比較したりという章を読めることは幸せだ。コルデコットのなかに<物語るイラスト>をもつイギリス絵本の伝統を見い出すまとめの部分は、現代の絵本の大きな流れの大本をてらしている。コルデコットの始めた子どもの本のイラストレーションは、どんどん複雑に繊細になっているが、テキスト以上に、ストーリーの展開に添い、サブストーリーまでイラストで作り上げた彼の方法論は、しなやかに生き続けているのだとわかった。(ほそえ)

「池袋モンパルナスの童画家たち」上笙一郎、尾崎眞人監修 池袋モンパルナスの会 (2006、4 明石書店)
ブックレットの形ながら、図版やプロフィールなどもそろっていて、現代の日本の絵本の始まりを担う形の画家たちの戦前の動きがわかりやすくまとめられていて、おもしろい。東長崎から池袋、目白一帯を池袋モンパルナスと称しているのだが、自由学園、学習院、立教、川村、城西などの大正期の児童文化運動を牽引してきた学校の近くであったためか、多くの画家が暮し、活動していたことは知らなかった。村山知義や武井武雄、初山滋に北川民次や安泰、丸木俊など。戦後の創作絵本を担っていく画家もこの地域に住んでいたのだという。大正期の子ども雑誌文化に育てられた力は、戦後、全く切れてしまっていたわけでなく、現代の創作絵本の創世期に確かな技量として流れ込んできているのだな。そういうことが、いろいろ想像できてよかった。カラーのイラストが多く掲載されているのがうれしい。(ほそえ)