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2007.03.25

       
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 こんにちは。令丈ヒロ子です。
 前回、関西弁つながりで本を紹介したら、すごくおもしろかった(書いてるわたしが、ですが)ので、またテーマを作って本を選んでみました。
 今回は「個性的な幽霊」つながりです。
 児童書で、印象的な幽霊が出てくるものは、ものすごくたくさんあります。
 わたしが知らない名作や、一回読んだものの、忘れているものもかなりあると思います。
 あんまり多いので、今回は「とりあえず、目に付いたこの五冊」という状態。
 また、そのうち「×××な幽霊」テーマでやるかもしれません。
 では、始めます。

 ・「ゆうれいは魔術師」S.フライシュマン作、渡邉了介訳、あかね書房、1994年3月刊。
 こんなにかっこいい、ゆうれいはなかなかいないと思いました。なにせ、初出が、走っている馬車の上に黒光りする革のロングブーツですくっと立っている。で、御者に楽しげに声をかける。
 誇り高くて正義の味方でユーモアがあっておしゃれで、魔術がつかえる。おまけに、ここがツボなんですが大きな家に一人暮らしです。(幽霊なのに間借りじゃなくて、持ち家があるなんて!とおどろくのは日本人的感覚すぎるのか?)
 ただでさえ、町の人から愛されていて、尊敬されているグレート・シャッファローは、また文句なしのかっこいいやりかたで、主人公を助け、悪者をやっつけるのです。
 「児童書に出てくる幽霊部門・抱かれたい男」のアンケートがあったら、そうとう上位にはいるのではないでしょうか。児童書関係の女性(大人限定)にそのへんの意見を聞いてみたいところです。…かっこいい幽霊にちょっと浮かれました。下品になり過ぎないうちに次に行きます。
 
・「クリスマスの幽霊」ロバート・ウエストール作、坂崎麻子・光野多惠子訳、徳間書店、2005年9月刊。
 この話に出てくる幽霊は、今にも死にそうな苦しげな姿で出てきます。大勢の命にかかわるとても重要なこと、彼が幽霊になっても死ぬに死ねないようなたいへんなメッセージを、主人公の少年に伝えて力尽きます。そのとき主人公の少年は「彼がほんとうに死にはじめた」のを見ます。
 幽霊になってから、やっと死ねた人の描写で、こんなに堂々としていてわかりやすく、ずしんとくる熱いものは初めて読みました。
 またこの話に出てくる主人公の父親は、見事な大人の男性として描かれています。
 だれもが不吉な象徴としておそれる幽霊オットーについて、敬意と思いやりをもって、彼が語るところは、じんときます。
 それから、オットーからのメッセージを受け取り、みなに伝える役目を果たした主人公は、大勢の人に感謝され、その勇気をほめたたえられます。下手したらその後、町の天使みたいに扱われるかもしれないところを、
「たとえ世の中をよくするような奇跡があるとしても、小さな子どもがそこで役にたつなんてことは、ぜったいにありえないんだ」
 と、主人公に言い切るところが、また、見事。
 大人として、父親としての厳しさと愛情の寛さ、深さがすばらしい。この存在感は普通ではない…と、思ったら、この父親はロバート・ウエストールのお父さんがモデルなんだそうです。あとがきに代えて、ウエストールが子ども時代のことを語ったエッセイが収録されていますが、これも、とてもおもしろかったです。

・ 「小さなコックさん」八木田宣子作、講談社、2004年6月刊。
 コック志望の少年、シゲオは料理の勉強に熱心な五年生。いろんな店の料理を食べて研究しています。子どもゆえに、一流レストランは敷居が高くて、お金もかかるし、なかなか入れないのが悩みです。
 ある日見つけた張り紙には、小学生だけのためのレストランを開店すると書いてあります。しかも「おいしいよう。あなたのお小ずかいで食べられます」と書いてある。
 そのお店のコックさんは、子どものように背が低く、顔も子どものようで、素足に下駄をはき、コック帽をつけた、一風変わった人です。しかしこのコックさん、ただ者ではない。一目見るなり、その子どものほしいものがわかり、すぐさま、その子のお小ずかいの範囲で、すばらしい料理を作ってくれるのです。
 なにがすごいといって、このコックさんの作ったメニュー。厚さ5.3センチもある手書きメニュー。フランス料理、イタリア料理、中国料理などの国別にまとめられた世界各国の料理だけでも、かなりすごいのに、日本各地の郷土料理までが、県別に書かれているのです!
 この店にはだんだんたくさんの子どもが集まるようになってきましたが、やがて別れがやってきます。
 別れを彩るパーティは、八月十三日。そして…。
 読後、胸がしんとなって、清らかな水がつーんとしみいるようないいお話でした。
 わたしが読んだ本の中で、一番料理の腕のいい、そしてちゃんとゆめをかなえたユーレイが出てくるお話です。

・「草之丞の話」江國香織作、「つめたいよるに」、新潮文庫、1996年5月刊収録。
 わたしはこのお話は、1989年理論社刊の「つめたいよるに」で読みました。柳生まち子さんの挿絵が、すごくきれいで、絵と見比べてうっとりと読んだ記憶があります。
 自分のお父さんが実は幽霊だったら、どうしますか?しかも侍って。
 そういう、おもしろエピソードがいっぱい作れそうないい設定だと、ついつい涙あり笑いありの長編とかシリーズものにしないともったいない、などと思う自分が恥ずかしくなりました。
 大胆な設定なんだけど、それがなにか?と作者や登場人物に聞き返されるているような、するするっと読める品のいいあっさり話です。
 草之丞の、かっこいいというより、ついつい、幽霊なのにかばってあげたくなるようなこの感じ…。強い存在感と強いフェロモン…。当時はそういう言葉はなかったけれど、今で言うとヘタレ萌えの系列でしょうか。
 別れのとき、死んだらいっしょにくらしましょうと言うお母さん(天然系美女・女優)。こんなに幸せ感でいっぱいで、先の見込みのある男女の別れのシーンは、あまりないのではないでしょうか。しかしこういう場合、本当に「死んだらいっしょに」くらせるのかなあ?二人のことが今でも心配です。
 
・ 「祈祷師の娘」中脇初枝作、福音館書店、2004年9月刊。
 ここに出てくるのは、児童書でおなじみの、子どもの味方や子どもの友達になってくれるような「ユーレイ」ではありません。主人公春永の家、祈祷師の住むその家では、それは「サワリ」と呼ばれています。生きている人にとりついて、自分の苦しみをこれでもかとばかりに与える、恐ろしくて扱いがむずかしく、どうしようもないものとして描かれています。
 春永は、サワリに苦しむ「ひかるちゃん」をなんとか助けたいと思うものの、自分だけが祈祷師の家の中で、なんの力も持っていないと思い知ります。
 一方、姉の和花には「おしらし」が来ます。この家で、神様からのお告げであるおしらしを受けたものは、祈祷師となって人助けをしなければ、「死んだほうがましだ」と思うような苦しみを味わいます。また、サワリを祓う以上、自分がたかられないように、一生修行をしなくてはいけない上、力を失ったときは死ぬとき、という、過酷な運命が待っています。母のあとを継いで、祈祷師として生きることに覚悟を決めた和花を見て、春永は「この家に自分はもういらない」と思い、生みの母親に会いに行くのですが…。
 自分に出来ること、自分にあたえられた役目、自分がやりたいこと、やりたかったこと、それらと戦って、中一の春永が見つけた答えには、読んでいるこちらの頭が下がってしまうようなすがすがしい美しさがあります。
 また、お母さんだけでなく、お父さん、おばあちゃん、それぞれのサワリとの付き合い方、受け入れ方には胸がうたれました。サワリは単なる怖いものでも、絶対の悪でもなく、すべては人の心から発したもの。ここで描かれる修行は、お祓いの修行というだけではなく、結局は、人の心というつかみどころのない、いつなにに変化するかもわからない怪しいものを受け入れる修行なのでしょうか。
 
・「妖怪アパートの幽雅な日常1−6」香月日輪作、講談社、6巻2007年3月刊。
 妖怪と人間と幽霊が、とーっても楽しそうに暮らしているこのアパート。
 ここに住んでいる幽霊は、確かに個性的です。ものすごいナイスバディなのに、死んで久しいので女としての恥じらいも忘れはて、すっぱだかで男どもと混浴(このアパートには地下温泉や滝があるのです)する、中身オッサンのまり子さん。絶品料理を作るのが生きがい、みなに料理をほめられると恥ずかしそうに指をからませもじもじする、手首だけのユーレイ、るり子さん。そして、このシリーズのファンに大人気キャラの一人が、子どもの幽霊クリです。
 クリは母親に虐待されて殺された子どもです。クリはアパートにひきとられてからも、だれにも心を開かなかったのですが、アパートの住人である、人間くさーい妖怪や、妖怪よりも妖怪っぽい人間たちにかわいがられているうちに、だんだん心が養われ、見た目はかわらないけど(ま、幽霊だしね)心と魂は成長していきます。
 それを心から喜ぶ住人たち。このへんのまっとうさは、あまりに人として正しくて目頭が熱くなります。6巻では「このままうまくいけば(心と魂が成長して、魂に力がつけば)クリは自分の力で成仏できるようになるかもしれない」
 という話まで出てきます。しかし主人公の心やさしき夕士(人間)は、クリが成仏したらそれは喜ばしいことなんだけれど、切なくさびしくなって思わず
「俺が生きている間は、成仏は待ってくれよ!?」
 と、わがままと知りつつ言ってしまいます。
 そのシーンの、夕士のピュアさとかわいらしさに、うぐっとまた泣ける…。
 このシリーズは、見た目や経歴は行状はともかく、魅力的で心のまっとうな登場人物がたくさん出てきます。が、そうでないひとも目白押し。とんでもなく恐ろしいことを自覚なく平気でする人、自分ほどピュアな人はいないと信じる危険人物(たとえば、クリの母親は死んでなお、クリを殺したいという妄念だけが残り、クリの成仏を妨げ続けています)などが、くっきり描かれております。人の心の白部分と黒部分の対比が、毎回いろんな創意と工夫で、きれーに描かれているのもこのシリーズの魅力ですね。

 ではまた!(令丈ヒロ子)
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三辺律子

『したかみ村の牧師さん』(ロアルド・ダール作 クェンティン・ブレイク絵 柳瀬尚紀訳 評論社 2007年1月)
 モツレジター村のロバート・ノリス牧師は、着任早々やっかいな病に悩まされる。話すときに言葉や文句をあちこち入れ替えてしゃべってしまうのだ。それも無意識なので、本人は気づかないから、さあ大変。村の有力者「アン・ダラホーさん」は「アホンダラーさん」、「新任の牧師」は「親睦の死人」、自分の名前まで「スリのロバート」といった具合。ところが、最初は仰天した村の信者たちも、ひそかにおふざけ言葉の礼拝をおもしろがるようになってきて・・・・・・。

『一年中わくわくしてた』(ロアルド・ダール作 クェンティン・ブレイク絵 柳瀬尚紀訳 評論社 2007年3月)
 ダールが人生の最後の年に書いたという本書。サウス・ウェールズで過ごした子ども時代や、パブリック・スクールでの日々、ロンドンで勤めていたころの出来事などを、一月から十二月まで季節ごとに綴っている。全編を通してダールの自然への愛、子ども時代への郷愁にあふれ、その鮮明な記憶に驚かされる。
 ダールというひとをよく表していると感じたエピソードを抜粋して紹介したい。

 職場へ戻る途中、いつも、必ずいつも、二ペンスのカドベリー酪農ミルクチョコレートを一枚買う。戻ったときにはチョコレートを食べ終わっているが、銀紙は捨てない。最初の日、それを丸めて小さな球にしてデスクに置いた。二日目、二枚目の銀紙を最初の球に丸めてかぶせる。それから毎日、小さな球に一枚一枚、銀紙をかぶせていった。球はだんだん大きくなる。
 一年たつと、テニスボールほどの大きさになり、同じようにまん丸くなった。ずっしり重くなった。手にとると、鉛のかたまりみたいだった。ほぼ五十年前になるこの当時、チョコレートをくるむ銀紙は今よりずっと厚くて、質もずっとよかったからだろう。
 このチョコレート銀紙の球を手放したことはない。物書きになって以来、今でも、書き物をする椅子のそばの古い松の木のテーブルにのっかっている。
(7ページ)

 大人になってから子どもっぽい遊びに熱中しているところも、一年かけて育てあげた銀紙の球に達成感を持ち、いかにも誇らしげなところも、それをずっと大切に持っているところも―――本書を読んで、すっかりダールが好きになってしまった。どうしてダールが子どもたちを心底喜ばせる物語を描けたのか、わかる気がする。
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 イギリス人が選ぶ「20世紀の100冊」でいちばん多く作品が挙がった作家はだれだ? 先日、質問されて、その答えに驚いた。ジョイスでもない、フォスターでもない、ロアルド・ダールだったからだ(ウォーターストーンというチェーンの書店が1997年に行ったアンケート結果。ちなみに、100冊のうち1位に輝いたのはトールキンの『指輪物語』)。
 ダールは、児童文学の批評の世界では長く無視されてきた。著名な批評家タウンゼントなどは、ダールの代表作『チョコレート工場の秘密』を「文字どおり吐き気を催すようなファンタジーで・・・(中略)・・・あきれかえるような無神経」と酷評している(『子どもの本の歴史』)。
 一方で、子どもたちのあいだで絶大な人気を誇ってきたのも事実だ。2005年には『チョコレート工場の秘密』が映画化され、それと同時に日本でも柳瀬尚紀氏による新訳が出版された。以来、評論社の『ロアルド・ダール コレクション』は柳瀬氏をはじめとした数名の訳者による新訳を続々と世に送り出している。
 柳瀬氏といえば、あのジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』の訳者として有名だ。もちろんダールの作品でも、柳瀬氏の日本語に対する愛情を存分に感じることができる。柳瀬氏の訳を通して、ダールが原文にちりばめた言葉遊びを、日本の、それも子どもの読者が、じゅうぶんに楽しめるようになったのだ。
 ・・・・・・と書きつつ、「柳瀬氏の日本語に対する愛情を存分に感じる」なんてあまりにエラそうで顔から火が出そうなのだけど(一応翻訳をしている身なので・・・)、柳瀬氏の『日本語は天才である』(新潮社2007年2月)を読むと、どうしてもそう書かずにはいられない。「高校生にも読めるように―――できれば中学生にも読めるように」(まえがきより)という趣旨で書かれた本書は、万葉仮名と漢字の話から、敬語はもちろん、ルビや回文、罵倒語などという項目もあって、非常に興味深い。でもなによりも圧倒されたのは、全文を通して惜しみなく提供されている言葉遊びの数々。柳瀬氏はダール・コレクションのあとがきでもしょっちゅう言葉遊びを披露していて、本文を翻訳したあと、さらにあとがきでも「遊べる」柳瀬氏にダールとの共通点を見出してしまう。
 『日本語は天才である』では、柳瀬氏の「遊ぶ」ための苦労をうかがい知ることができる。ふさわしい訳語を探すため、「昼は電車の中でつぶやき、夜は寝言にとなえる。これを二、三日続けて訳語の芽生えるのを待つ」(25ページ)。
 英語の言葉遊びや脚韻を日本語に置きかえるのは難しいし、無理に翻訳すると、そこだけ浮いてしまって読者を立ち止まらせたり、違和感を与えてしまうこともある―――実は、わたしはそう考えていた。その考えが改まったのは、ある小学生が『長くつ下のピッピ』を読みながら、ピッピが「かけ算の九九」を「竹さんのくつ」と言いまちがえる場面に大うけしているのを見たとき(「ピピって超おもしろい! 笑えるじゃん、こいつ!」)。子どもが本のどういうところに面白みを感じるかなんて、大人には決められないのだとつくづく思った。柳瀬氏は、日本語では脚韻を踏むことは無理という発言に対し、「戯れ歌なら・・・・・・無理ではないのではないでしょうか」と「恐る恐る意義を唱えた」(187ページ)と書いているが、やはり特に児童書では「遊ぶための苦労」を惜しんではいけないのだと思う(・・・・・・自分の首を締めています)。
 少々話が飛ぶが、前々回、四六判のソフトカバーのシリーズを取りあげたのも、知り合いの小学生が「『いたずら魔女のノシーとマーム』の最終巻が出たんだけど、もう終わりだと思うともったいなくて読めなくて、毎晩抱いて寝てるの」と言ったのがきっかけだった。そんなふうに"生の"子どもたちは、大人の目線になりがちなわたしに、児童書というのは子どもが読む本だという単純な事実を改めて思い出させてくれる。

 まさに子どもたちのための本、『ロアルド・ダール コレクション』をぜひぜひ読んでみてほしい。(三辺)

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絵本読みのつれづれ(16):はいりこんで読むということ(鈴木宏枝)
(Tさん:4歳9ヶ月 Mくん:2歳1ヶ月)

 年末のことを書きたいと思いながら、早3ヶ月。もうすぐ新年度である。書きとめておかないと忘れてしまう大切な絵本のことは、やっぱり書いておきたい。

 2007年を迎える年末年始、主人の実家に帰省し、いつか行ってみたいと思っていた恵文社一乗寺店に行けた。大晦日で、Tさんは親と買い物よりも祖父母とお留守番を選び、私と主人とMくんで出かけた先では、私は、素敵な本と雑貨の品揃えにうっとりと、1時間以上楽しむことができた。このとき、たまたま店内でやっていた古書市で、なんとなく手に取った『とことこちゃんのおかいもの』(なかそねまりこ、佼成出版社、2006年8月)。私の友人の子にプレゼントしてもいいかなあと買い求めたのだが、その後、店を出て、昼食になったとき、レストランで食事が出てくるまでの待ち時間。退屈しはじめてしまったので、間を持たせるために、古書だし贈らなくてもいいか、と思って、結局、包みから出し、Mくんを私のひざに乗せて読み聞かせてしまった。

 今日はとことこちゃんのお誕生日。とことこちゃんはウサギちゃんと一緒に、ケーキ屋さんやジュース屋さんに行き、「くださいな」「これ!」と好きなものを選ぶ。だが、そのたびに店の人に「ごめんなさい、へいてんです」といわれてしまう。へこみながら次の店にトライしてはすべて断られたあと、サプライズがあって、お店の動物たちが、「とことこちゃん、おたんじょうびおめでとう」の大きなケーキを用意し、それまでにとことこちゃんの選んだおもちゃやケーキやジュースを、すべて「はい、プレゼント」と手渡す。
 少しレトロがかった和調の深みのある色彩と愛らしい絵柄で、そばかすの表情豊かなとことこちゃんを、私もなかなか気に入ったのだが、Mくんの飛びつきようといったらなかった。すごかった。『くらし』(オクセンバリー、文化出版局、1981年12月)で、絵本を読んでもらう行為そのものの楽しさに目覚めたとするなら、『とことこちゃんのおかいもの』は、彼のもう一段階上の何かの絵本スイッチを入れたようだ。初めて読んだこのときは、まわりに気を使う状況だったので、なるべくMくんが楽しむよう、「おかいもの、おかいもの、とことこと」のとことこで人差し指と中指を足に見立ててMくんの腕を歩かせたり、「きつねさん、こんにちは」のところで、「こーんにちはっ」「くぅださいなー」少々大げさに読んだりしたせいもあったのかもしれない。とにかく、Mくんには超ど真ん中のストライクで、すっかりとことこちゃん好きになってしまった。

 「きつねさん、こんにちは。パンをくださいな。どれにしようかな……」
 「これ!」
 「ごめんなさい、もう へいてんです」

 繰り返しのやりとりを、Mくんはあっという間に覚えた。「こんにちは」で「ワー」、「くださいな」で「ナー」、「これ!」で「エッ!」、「ごめんなさい」で「チャイ」、「へいてんです」で「チュー」と、すぐに自分もまねをする。「チャイ」のところではおじぎをし、「(どれにしようか)ナー」のところでは首をかしげる。東京に戻ってきてからも、しばらくブームは続き、クライマックスの「はい プレゼント!」のところでも「アイ、ットッ!」と覚え、Tさんの影響で「ハッパーデイ!」(Happy Birthday)と合いの手を入れるようになった。

 やがて、絵を見る中で、森のお店のそれぞれの場面に、お気に入りのアイテムも出てきた。きつねのパン屋さんではやや先細りのフランスパンを見て「アナナ!アナナ!(バナナ)」、もぐらのおもちゃ屋さんのプラレールのようなおもちゃを見て「シャ!(電車)」。リンゴの絵を見て「カン!カン!(みかん)」といい、「りんごでしょ」と訂正されるのを、お約束であえて待つ。ちなみに、プラレールは最初は認識していなかったが、読んでもらった大人に「電車のガタコンがあるね」などと話しかけられているうちに、おもちゃと分かるようになったらしい。

どの子にも、親が何千回と読み聞かせる1冊があるというが、Mくんの場合は、そのさきがけが『とことこちゃんのおかいもの』だったことは間違いない。本当にいつでもどこでも、目に留まるやうれしそうに抱えて持ってきて、しまいには私のほうがうんざりした。ブームは2ヶ月ほど続いたが、『とことこちゃんのおかいもの』をきっかけに、次の絵本にもどんどん手が伸びるようになって、キャパが広がったような気がする。
 
 今、Mくんが「ママ、アッコ」とよじのぼってきたので、ためしに、机の上の『とことこちゃんのおかいもの』を渡し、「おねえちゃんにこれを読んでもらったら?」と水を向けてみた。アッコを降りて、Mくんはとことことお姉ちゃんのところに行く。一方、Tさんは、Mくんがとことこちゃんラブなのは重々承知しているが、お手紙書きに夢中なので「なに?とことこちゃん? ちょっとまっててね」とつれない返事だ。Mくんは、自分でめくって「コレ メンチャーイ ハイ チャッ オ ジ マイ」となんとなく読んで閉じ、もう、今は、書棚から違う絵本を持ってきてめくって見ている。

 だが、Tさんは、お手紙書きが終わると、「とことこちゃん、おまたせー」と、Mくんも自分も見られるようにソファの背に絵本をもたせかけて、一緒に読みはじめた。「おかいもの おかいもの とことことこ(本当は「とことこと」)」と微妙な読み間違いもあるが、そのぶん、テクストはオーラルの勢いを獲得する。Mくんはにこにこと聞いていて、「コエッ」「アイッ」と一緒に読んでいる。Tさんの読み方は、この絵本に限っていえば、淡々とではなく、私がよくやっていたようにややオーバーな演劇調になることに今気がついた。子どもは、読んでもらったとおりに模倣するものなのか、と改めて思う。途中で「ゴ!」「そう、いちご」「ゴ?」「いちごのごよ」という会話が入ったりや、「へいてんです あーあ」「エイテンデチュ アー」とシンクロした声の響きを聞くのも、なかなか楽しい。

 姉の影響もあってか、Mくんも、絵本を当たり前に楽しむようになってきた。読んでほしい絵本があると「ハイ ドウジョ」と持ってくる。Mくんが差し出す絵本を読む。最近は、寝る前の1冊も、自分で持ってくるようになった。少し前までは、Tさんが持ってくるのをまねして自分も何か1冊抱えてきても、Tさんのチョイスの絵本を読んだあとは、電気を消して寝てしまっていたのだが、今では、自分の番が来るのを待っている。この前は、Tさんが『メルくんようちえんへいく』でMくんが『わたしのおひめさま』。Mくんの方が長いお話だった。

 Tさんは、もうすっかり自分で絵本を読む。最近は子ども向けの図鑑なども読んで、「おかあさん、たなばたは7がつでしょ。おりひめは おりものをぬうひとで、ひこぼしははたけを たがやすんだけど、はたらかなかったんだって。それで あまがわのこっちとあっちにいってしまえーって。だから たなばたにあえますようにっておねがいするんだね。Tちゃん、たなばたに あまがわみたいなあ」名称も解釈もかなりオリジナルだが、大発見のように言いにくるのがおもしろい。あるいは、おおまじめな顔で、「秋」のページをくりながら、「どんぐりはね、いろんなしゅるいがあるでしょう。Tちゃんは、コナラシイとカシは知ってるよ」とか。

 自分で本を読めるようになることは、Tさんを自由にする。たまたま別件で借りてきた『うさぎのおうち』(こうだのりこ/なかのひろたか、福音館書店、1994年5月)を、Tさんは自分で見つけて読みふけり、読み終わったあと、「お母さん、このうさぎちゃんのほん、すごーくおもしろかったよ」と教えに来てくれた。友だちの家に遊びに行ったとき、木馬にまたがって遊びながら、その目線の先に何かおもしろそうな本を見つけると、手を伸ばし、木馬にまたがったまま、本の世界に入りこんでいってしまっていた(『からすのパンやさん』だった)。

 1月の終わりごろに、家族で銀座に行った折、教文館ナルニア国でましませつこさんの『こよみともだち』(わたりむつこ/ましませつこ、福音館書店、2006年12月)の原画展をやっていた。最初、気のない風にギャラリーに入ったTさんは、何やらすっかり魅せられた様子で、「Tちゃん、このこよみのえほんがほしいの!」と珍しく断固として言った。ばらばらに過ごしていた12の月たちが、1月から順番に「とんとんとん あそぼじゃないか」と隣の家に住む隣の月のところに行って、だんだん数を増やしながら、2月は節分、3月はひな祭りと楽しい時間をみんなで過ごしていく。最後だけは軽いしかけになっていて、集合住宅風に暮らすことになった12の月が、それぞれの窓をあけると顔を出す。原画展での出会いというのは幸せなものだなあと思いながら、もちろん買い求めて、私も「とんとんとん」の繰り返しを楽しんだ。

 仕事関係で積んでおいたいくつかの絵本も、Tさんは読んでもらいたがった。『こんとあき』(林明子、福音館書店、1989年6月)は、しみじみ聞いて、表紙を見ながら「こっちのきつねさんがこんちゃんで、こっちがあきちゃんね」と納得。『14ひきのあさごはん』(いわむらかずお、童心社、1983年7月)には魅了されたように絵に入り込み、いっくん、にっくん、さっちゃんらの10人きょうだいを確認し、特に、実在のお友だちである「ナツちゃん」と同じ「なっちゃん」を発見して大変に興奮していた。14ひきのシリーズのテクストは「〜はだれ?」と問いかける文が多いので、それを受けて、「この子、だれだろう?」と表紙・裏表紙をいちいち確認して納得する。絵の中で何かを探す楽しみというのも絵本では大きいだろう。つい最近は、『ミッケ!』(ウォルター・ウィック/ジーン・マルゾーロ/キャロル・D・カーソン、糸井重里訳、小学館、1992/1992年8月)にもはまっていた(半分くらいは分からないのだが)。
 それから、私がすっかり気に入ってしまった『わたしのおふねマギーB』(アイリーン・ハース、うちだりさこ訳、福音館書店、1975/1976年8月)。古典だけど、初めて読んだときにはあまりの素敵さに感動して、Tさんを机のそばに呼び寄せ、立たせたまま、その場で読み聞かせてあげた。マーガレット・バーンステイブルのいさぎよさ、かわいらしさ、そして何より「いいおねえちゃんであること」。マギーBに乗ったマギーの「ゆめがかなったおはなし」は、冒険心と安心感という相反する二つの強い欲求を同時に満たしてなおすばらしい広がりのある絵本だと、じーんとした1冊だった――これは、私の絵本読みの話だが。

 子どもたちは、何度でも絵本に出会う。たくさんでなくてもいい。じっくり入り込んでほしいと思う。昼間は自分で様々な絵本や本を読むTさんだが、夜はじっくり同じものを読むのが好きらしい。

3月
1日『たんじょうび』
2日『わたしのおふねマギーB』
3日『わたしのおふねマギーB』
4日『わたしのおひめさま』
5日『わたしのおひめさま』
6日『たんじょうび』
7日『かぜはどこへいくの』 
8日『かぜはどこへいくの』
9日『えんふねにのって』
10日『あやちゃんのうまれたひ』
11日『あやちゃんのうまれたひ』
12日『わんぱくだんのかくれんぼ』
13日『十二支のはじまり』
14日『たんじょうび』
15日『14ひきのかぼちゃ』
18日『もりのおひめさま』
19日『たんじょうび』
20日『ミッケ!』
21日『いってらしゃーい いってきまーす』
22日『ブレーメンのおんがくたい』
24日『メルくんようちえんへいく』
 
手当たりしだいな昼間の絵本読みと違う、寝入る寸前の特別な絵本読みの時間の妙かもしれない。今夜は、何を持ってくるだろう。

鈴木宏枝
(http://homepage2.nifty.com/home_sweet_home/)

PR:
『子どもの本と<食>―物語の新しい食べ方』(川端有子・西村醇子編、玉川大学出版部、2007年1月)
 白百合女子大学児童文化研究センターのプロジェクトから、一般読者も楽しめる論文集を出しました。子どもの本と食べ物や食との関係は、ふかーいつながりがありながら、これまであまりしっかり論じられてきませんでした。絵本、幼年童話、ファンタジー、古典、YAなど様々な作品を通じて、<食>から子どもの本を論じ、子どもの本の本質の一端を明らかにします。鈴木は、ゲド戦記を<食>で考えてみました。どうぞよろしく!
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【絵本】
『としょかんライオン』(ミシェル・ヌードセン:さく ケビン・ホークス:え 福本友美子:やく 岩崎書店 2006/2007.04 1600円)
 図書館にライオンが入ってきます。
 ライオンが入館してはいけない規則はありません。
 こうしてライオンは毎日図書館にやってくるようになります。
 ストーリー展開は「幸せな結末」。オーソドックスです。でも、人種や男女への現代的目配りもさりげなくされているのがいいです。
 心がホクホクする絵本です。(ひこ)

『池ー水辺の自然』(ゴードン・モリソン:作 越智典子:訳 ほるぷ出版 2002/2007.01 1400円)
 『カシの木』で、豊かな自然の一年を描き出したモリソンが、今度は水辺を舞台に自然の美しさを届けてくれました。
 子育てをする水鳥たち。水辺の草花。命たちの一年が丁寧に活き活きと描かれていて、眺める側も活き活きとした気分に誘ってくれます。
 町中の自然を描いた『まち・身近な自然』もよいですよ。(ひこ)

『家缶』(早川純子:作 ほるぷ出版 2007.02 1300円)
 早川のペーパークラフト絵本最新作。
 空き缶を家にしているねずみさんの物語。というか、そういうねずみさんの物語にして、家缶を描きます。空き缶ですから、コロコロころがるので、もう家としては大変。でも、ねずみさんたちには愛しの我が家。
 さてそれはどんな家か?
 自分で作ってみましょう。
 楽しいぞ。(ひこ)

『セーラーとペッカ、町へいく』『いったいどうした? セーラーとペッカ』(ヨックム・ノードストリューム 菱木晃子:訳 偕成社 21933/2007.04 1300円)
 スエーデン発、元水夫のセーラーと愛犬ペックの物語。
 『町へいく』では、セーターの見つからないセーラーが町に買いに行く。ペッカは散髪をしに、セーラーと一緒に出かける。
 行って帰るまでの様々な小さな出来事たち。それがなんだか楽しい。たぶんそれは、セーラーとペッカには、生活のリズムやスタイルがあって、それがまっすぐに伝わってくるからだと思う。
 画面構成もとてもおしゃれ。(ひこ)

『男の子とおおきなさかな』(マックス・ベルジュイス:作 野坂悦子:訳 ほるぷ出版 1994/2007.02 1400円)
 男の子が魚を釣る。持って帰って風呂桶で飼おうとする。でも魚はそんなの幸せじゃない。男の子は魚を湖に返す。
 ただそれだけのお話が、ただそれだけ語られます。でも、ここには、いろんな思いがあるでしょう。家族と自分の関係だとか、所有と自由とか。
 ベルジュイスの画のなんと人を惹きつける素朴さよ!(ひこ)

『ごろん ごろん』(まつおか たつひで ポプラ社 2007.01 780円)
 かえるが犬が、ごろんごろんところがります。はじめて絵本として、リズムの楽しさがいいです。間でごろんとはころがれないカメなんかを入れてちゃんとリズムを壊しているところが技。(ひこ)

『たのしいおでかけ』(あずみ虫 ポプラ社 2006.11 950円)
 物と言葉を認知する幼児絵本。
 動物園の画面があって、たくさんの動物が描かれていて、次のページでは、一匹ずつに名前が添えられている。で、前の画面にどの動物がいたかを思い出す。
 ページを繰って、戻っての往還の内に、物と言葉の関係を認知していく。というのは良いのですが、言葉に英語が添えられているのは疑問です。このおかげで、物と言葉の関係にもう一つ、他言語という要素が入ってきて、リズムが乱れてしまいます。
 気持ちはわかるのですが・・・。(ひこ)

『アンナちゃん、なにがみえた?』(インゲル・サンドリペ:さく ラッセ・サンドリペ:え きむらゆりこ:やく ポプラ社 2006.12 1100円)
 これ、いいな。
 大きな男の人の頭に乗っけてもらったアンナちゃん。高いところから見えるのは、鳥、どこかからの煙、屋根、家、とだんだん視線が降りてきて、そこは自分の家で、おとうさんやおかあさんがいて、という段取りで、自分の家や家族をもう一度認知していきます。
 認知なんて言わなくても、まるごと好きなのを再確認でいいのですが。(ひこ)

『ママ ほんとうにあったはなし』(ジャネット・ウィンター:作 福本友美子:訳 小学館 2006/2007.03 1200円)
 津波によって流されたカバの子ども。遠く離れた地で助かり、動物園に。親を求める子カバはゾウガメを親と思ってなついていく。
 実話です。実話だからってことでもなく、幼い命は、本当の親でなくても、寄り添うものを欲しいって辺りが、リアルですね。(ひこ)

『けんかのなかよしさん』(あまんきみこ:作 長野ヒデ子:絵 あかね書房 2007.02 1200円)
 幼稚園、いつもけんかをするゴンとテツ。仲が悪い? いえいえそんなことはありませんよ。
 あまんの視線は、子どもたちにとても暖かく降り注いでいます。長野の絵は、子どもの躍動感に満ちています。
 やっぱ、安定してるわあ。(ひこ)

『みんなにあげる』(みやもとただお 草炎社 2006.12 1200円)
 オリンちゃんは、病院にいるおばあちゃんに、庭のひめりんごを届けにきます。でも今年はたった一個しか実らなくて・・・。
 オリンちゃんとおばあちゃんは、残りのひめりんごを誰にあげたかに関してごっこ遊びを始めます。
 実らなかったひめりんごを介して、二人の心の交流が見えてくる。労り合う心、です。(ひこ)

『おはようからおやすみまでの 12のわらべうたえほん』(小林衛己子:編 おおいじゅんこ:絵 ハッピィーオウル社 2006.12 1200円)
 「わらべうたえほん」シリーズです。
 ごく短い童歌を、それにまつわるエピソードや、遊び方などを丁寧に説明しています。ファーストブックにもなるかな。
 こういうことも、絵本にして伝えていなかいと残っていかない時代なんですね。保育所現場でも必要な絵本になるでしょう。
 それはいいんだけど、解説が「お母さん方へ」であったり、母性愛がどしたらこしたらとあるのは、今時疑問。母親に子育てを閉じこめないでくださいな。こうした本だからこそ、「両親」へと積極的に子育てを勧めていって欲しい。(ひこ)

『タキワロ』(岩崎千夏:作 長崎出版 2006.11 1500円)
 萩にある見島に伝わる伝説を元にした創作民話。タキワロとは滝童とも言われている。
 魂送り(死んだ者の名前を書いた石を祭る儀式)のため石塚へ通じる橋の番をするタキワロは誰の目にも見えない存在。ある日、愛する人を失った悲しみが深く、魂送りができない青年の姿に心打たれたタキワロは、掟を破って、青年と恋人を会わせることに。自分に与えられて永遠の命が失われると知りながら。
 伝説の力を活かした力強い仕上がりの作品です。(ひこ)

『牧場のいのち』(立松和平:文 山中桃子:絵 KUMON 2007.03 1200円)
 立松親子による、「いのち」シリーズ最新刊。
 今回は、仔牛が生まれるまでの物語なので、これまでよりずっと具体的で、「いのち」がわかりやすく描かれていました。
 文が多いので工夫は必要ですが、もうすこし絵と文が解け合った方が絵本としてのインパクトはあると思います。(ひこ)

【創作】
『ビッグTと呼んでくれ』(K.L.ゴーイング:作 浅尾敦則:訳 徳間書店 2003/2007.03 1500円)
 130キロを超えるデブのトロイは、みんなに笑われる日々だし、もう自殺しようかと思っている。そんなとき出会ったのが、カート。義父とうまくいかず今はホームレスをしているが、実は伝説のパンク・ギタリスト。なぜかカートはトロイにバンドを組むことを申し入れる。マジ? なぜ? 冗談?
 相手を必要としているのは、トロイ? カート? どっちだ。どちらも?
 熱い熱い友情物語ですが、臭くはありません。汗臭くはありますけれどね。
 トロイの物語であるかのようでカートの物語であるのが、いいのです。(ひこ)

『チョコレート・ラヴァー』(M.E.ラブ:作 西田佳子:訳 大滝まみ:イラストレーション 理論社 2006/12 1400円)
 『ローズ・クイーン』の続編です。良心を亡くし、義母の謀略(シンデレラですよ)から逃れるためにIDを変えて失踪した姉妹、ソフィーとサム。ニューヨーク出身をひたすら隠し、田舎町で暮らしています。ひょんなことから探偵になってしまい大活躍。
 今回は、マフィアだの、ナチスにかつて奪われた絵画の真相究明だのとパワーアップしています。と同時に、本当の自分を明かせない苦悩も増していくので、楽しいエンタメでありつつ、リアルさもちゃんと確保されています。(ひこ)

『その角を曲がれば』(濱野京子 講談社 2007.02 1300円)
 友情だとか、青春だとかをまっとうに描くのはとても困難な時代です。それは、なんのためらいもなく信じることができる時代が終わったからなのですが、この物語は、かなり直球で、そこを描いていて、感心させられました。
 杏、樹里、美香の三人は仲良しなんですが、関係は微妙です。樹里は甘えん坊の美香を妹のように思っているけれど、美香は杏に惹かれています。そして、樹里は実のところ杏のことを快く思ってはいない。そして杏はクラスでも浮いている真由子と本を通じて親しくなっていく。そのことを杏は美香に言うことができない。
 大きなストーリーがあるわけではなく、三人の気持ちが、章ごとに視点を変えて、丁寧に描かれていきます。
「甘くてほろ苦い」なんて、ちょっと恥ずかしい言い方ですが、そうした表現がぴったりの、物語です。(ひこ)

『あかりちゃん』(あまんきみこ:作 本庄ひさ子:絵 文研出版 2007.02 1200円)
 かぐやさんの隅っこに置いてあった小さなももいろのいす。あかりちゃんが見つけて、両親に買ってもらいます。大事な大事なお気に入りのいす。でも、あかりちゃんが大きくなって、今はぬいぐるみのくまのいす。
 という風に展開する物語は、子どもの成長をゆっくりと見つめています。
 大事ないすともやがてお別れしなければなりません。そこをどう描いていくか。
 あまんワールドは健在です。(ひこ)

『龍のすむ森』(竹内もと代 小峰書店 2006.12 1600円)
 父親がいなくなってしまった智は、母親と二人で父親のふるさと清瀬村へと引っ越してくる。
 村には、飛龍川の石を拾って、龍神社に奉る神事が伝わっていて、智の家がそれを執り行っていたという。そう言われても、何も知らない智は困ってしまう。彼は、見知らぬ少女と出会うのだが、彼女は、龍の化身だった・・・。
 龍神伝説を絡ませながら、父が消えた理由など、家族にまつわる出来事がしだいに明らかになってきます。というか、絡ませることで語ることができていく。そこになるほどと思った。
 現代を描く物語は都市部を舞台にすることが多いけれど、じゃあ村に現代はないのかといえばそんなことはなく、村であることで生まれる現代の物語は? と考えてしまった。
 もっともこの物語は、都市部から村へと移動することで「出来事」を生じさせているわけですから、ちょっと違うのですけれど。(ひこ)

『ナディアおばさんの予言』(マリー・デプルシャン:作 末松氷海子:訳 文研出版 1997/2007.03 1300円)
 フランスを舞台に移民の子どもサミールの日々を描いた物語。
 といっても、移民問題が取り上げられているわけではなく、サミールの成長ぶりが作者の実に優しい視線で描かれていきます。
 気が弱く、何の取り柄もないと自分でも思いこんでいるサミールが、大人の友人たちを得て、心を開いていく様は、大人と子どものコミュニケーションがうまくとれていることを示しているわけで、読んでいてほっとさせられます。(ひこ)

『クッキーのおうさまえんそくにいく』(竹下文子:作 いちかわなつこ:絵 あかね書房 2007.03 900円)
 人気シリーズ3作目。
 りさちゃんが遠足に行くと聞いた、クッキーのおうさま。わしも行くぞとばかりに、お供をつれて出かけた先は?
 幼稚園児の守備範囲で、ちゃんと冒険が成立しています。その辺りの視線の確かさはさすが。
 いちかわの絵によるクッキーのおうさま、すっかりキャラとして、頭に残ってしまっているぞ。(ひこ)

『みつき キラキラ、シテイタクテ』(久保田里花 ポプラ社 2006.12 980円)
 主人公の名前は光輝、みつき。名前負けしているって言われるし、自分でもそう思う。学校でいつのまにか、いじめられる側に・・・。そんなとき、父親が会社を辞めて、鹿児島のおばさんがしている花屋を手伝うことに決める。自分が本当にしたい仕事だというのだ。相談もなく勝手に決められた母親は怒って、妹を連れて実家へ帰る。みつきは父親と鹿児島へ移る。煮詰まった学校生活からの決別。
 そこで、みつきは偶然英雄扱いされてしまう。だから新しい学校では、クラスのみんなは大歓迎。でも、そんなの本当の自分ではない・・・。
 みつきと父親が自分の居場所を見つける物語です。
 サブタイトルはいかがなものか?(ひこ)

『タイムカプセル』(折原一 理論社 2007・03 1400円)
 理論社YAミステリーシリーズ。第一回配本。
 海外YAソフトカバーシリーズでいい仕事をしている理論社の国内編といったところ。
 中学卒業から一〇年。主人公たちは、それぞれ社会人として生き始めているわけですが、彼らに怪しげな手紙が届けられる。卒業の時に校庭に埋めたタイムカプセルを掘り出す日にみんな集まろうといった内容だが、そこには明らかに悪意が感じられます。誰が出したものかもわからないそれに、動揺する主人公たち。自分たちの一〇年をルポして作品にまとめようとしていた駆け出し写真家石原彩香は、元クラスメイトたちに会っていくのだが・・・・。
 ラスト、謎解きの部分のページが封じられている遊びは楽しいけれど、物語そのものはもう少しひねってほしかった。
 今の二五歳、十年前の十五歳よりも、みんなもっと古い人に見えてしまいました。(ひこ)

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【絵本】
○ヴァージニア・カールを知っていますか?
『公爵夫人のふわふわケーキ』ヴァージニア・カール作 灰島かり訳 (1955,1983/2007.2 平凡社)
 中太の線でするすると描かれた絵を見て、50数年前のイラストとは思えませんでした。上手ではありません。かといって、悪い絵でもないのです。赤い頭巾やエプロンドレス。墨の線にちょこちょこと色を塗っているのが、子どもの塗り絵みたい。下手だけれど、表情豊かで、見ているうちに、心がほわっとしてきます。不思議だなあと思って、手にとって読むと、お話も韻を踏んで楽しく、オチもなかなか見事に決まっていました。
 いろんなものをどんどん入れて焼いたケーキが、入道雲のようにふくらんでしまうなんて。そのうえ、そのケーキの上に人が乗って、空へ浮かんでしまうなんて、おもしろすぎ。ちびちゃんの一言で、「そうだ、もともとケーキなんだから、食べればいいんじゃん」と一斉に、ふくらみすぎた大きなケーキを食べはじめるというオチも笑っちゃう。こんな大らかなお話、ひさしぶり……。
 この絵本を描いたのは、どういう人かしらと、調べてみると、光吉夏弥先生が書かれている『絵本図書館』(ブックグローブ社)に載っていました。絵本のあとがきにもありますが、カールは図書館司書として仕事をする傍ら、絵本の制作をしてきたとのこと。アメリカの絵本の黄金時代はたくさんの作家を輩出した時代でありましたが、それは優れた図書館司書や編集者によって、さまざまな絵本が豊かに読まれ、手渡されてきた時代でもあります。カールはその最前線に身を置いていたと言えるのではないでしょうか。現代でも優れた図書館司書で、ストーリーテラーであり、書き手であるという方は何人もいらっしゃいます。でも、カールのおもしろいところは絵も自分で描いたところでしょう。美術学校を出ているので素人ではないのだけれど、カトゥーン的な線で描かれる絵は、小さな子どもがすぐまねできそうな、簡単な感じ。お話は耳で聞いてわくわくできるように、リズムやテンポに工夫をこらし、お話の展開には驚きと日常からのちょっとした飛躍があります。どうして、この作家のものが今まで翻訳されなかったのかなあ。昔話風の、絵本にしては長い文章が、60年代、70年代の日本の絵本界では、絵本らしくないと思われてしまったのか。それとも、この下手かわいい絵がつたないものと思われてしまったか。でも、テーマのしっかり出過ぎているわかりやすい絵本やイラストレーションの力技で持っている絵本が人目を惹きがちな今だからこそ、こののんびりとした公爵夫人のお話や絵ののどかさを存分に子どもに楽しんでもらいたいなと思うのです。(ほそえ)

○その他の絵本
『ぽんぽんポコポコ』長谷川義史 (2007.1 金の星社)
表紙にお腹をだしたあかちゃん。ページをめくると、いろんな動物のお腹が出てきて「ぽんぽん」、次のページには全身が出てきて、ねこやら、たぬきやらゴリラやらがお腹をたたきながら「ぽんぽん ポコポコ ぽんぽん ポコポコ」とうたいます。その表情と音に読んでもらう子はにっこり。動物がいろいろわかるような子であれば、「にゃんにゃねえ」「たんたんねえ」とお話が弾むことでしょう。最後はお父さんが赤ちゃんのお腹をぽんぽん。お母さんが、「ないない」といってお腹をしまっておしまいです。なにげないけれども、こういう遊びが、赤ちゃんと親しくなるはじめの一歩と良く知っている作家の1冊。(ほそえ)

『あかちゃんのおと』みやにしたつや (2007.1 金の星社)
赤ちゃんがおもしろがってする行動を音という切り口で見せてくれる絵本。赤ちゃん絵本の王道は音だということを意識して作られているように思います。がらがらをふる姿、ぬいぐるみをなめる姿、ごろんごろんころがったり、ぴりぴりかみをやぶったり……。自分で動けるようになれば、絵本の絵と音の組み合わせが、自分の生活をぴったり重なり、より楽しく絵本を楽しめるかも。
先の『ぽんぽんポコポコ』と同じ「はじめての絵本たいむ」シリーズ。このシリーズは語りかけ、ふれあい、親子で一緒に共感できる内容を持った絵本をと企画されたものとか。(ほそえ)

『はるにうまれるこども』にしむらかえ作 (2007.2 絵本館)
表紙を開くと、小さな女の子を抱いたおじいちゃんがセピア色の地球儀を見せている姿が。小さな窓から、世界の人びとのかけがえのない生活の一こまを切り取ったかのような絵と言葉で構成される。それぞれの窓はそれぞれの確かな幸せを映し、春という言葉へと収斂していく、祈りに満ちた絵本。ゴフスタインのような緻密な構成や言葉はないけれど、伝えたい思いは受けとめたい。(ほそえ)

『どろんこそうべえ』たじまゆきひこ作 (2007.1 童心社)
軽業師のそうべえが綱から落ちたところを助けたのが医者のちくあん、歯抜き師のしかい、山伏のふっかい。助けてもらったお礼と皆に酒をふるまって、大酒飲んで良い気持ちで寝ていると地面に吸い込まれてしまう。地面をもぐるごとに子どもになってしまいました。みみずの結婚式にでかけたり、もぐらをつかまえたり、オケラが数を数えてくれたおかげで、またもとの年に戻ったそうべえたち。この地面をもぐっていくうちに、年が若返り、子どもになっていき、地上へ戻るために掻き上がっていくと年を重ね、元の年齢に戻るという仕掛けが、このお話に真実を与えていると思う。3ヶ月もかえらないそうべいの代わりに、息子が軽業を。そこへ戻ってきたそうべえが、同じ綱の上で、はっしと見栄をきるラストシーンが、親たるものの面目を示しているようでおかしい。型染めのにじみが、そうべいたちの自在な様子と合っていて、読んでいてのびのびする。(ほそえ)

『母からの伝言〜刺しゅう画に込めた思い〜』エスター・二センタール・クリニッツ バニース・スタインハート作 片岡しのぶ訳(2005/2007.1 光村教育図書)
ホロコーストをいきぬいた母が書き留めた記憶とそれを36点の刺繍画にして残したものを子どもがまとめたもの。ポーランドでの普段の美しいのどかな暮し、ナチスがきてから、どんどん変わっていく村、家族から離れて逃げたエスターと妹の流転の有り様をくっきりとした刺繍画で描く。淡々としたエスターの書き留められた文章が現実の悲惨さを伝え、心がしんとする。一針一針手を動かしながら、この現実と向き合って、形にしていった時間は、エスターにとってどういうものであったろう。その姿を見ている娘にとっても、本という形にしなければ、収まりがつかないようなエネルギーが放出されていたのではないかしら。(ほそえ)

『ハエくん』グスティ作 木坂涼訳 (2004/2007.1 フレーベル館) 
メキシコ生まれの画家の絵本。コラージュで描かれたハエくんはチャーミングで、表情豊か。今日、いよいよ泳ぎに行くハエくんは、日焼け止めクリームにビーチマット、ビーチボールまで持ち込んで、うきうき。うかれていると、急にくらくなって、大雨がふり、おそろしいものまで落ちてきて、大津波に巻き込まれ……。「ママ、でたよー」という声で、あらまっ、ぐふふふっと笑いが込み上げてくるオチ。受難のハエくんには申し訳ないのだけれど、ゆかい。こまごまと描かれるイラストも楽しい。(ほそえ)

『はくちょう』北の国からの動物記 竹田津 実文、写真 (2007.2 アリス館)
北海道の動物たちを見つめつづけた獣医師であり、ナチュラリストである人の写真絵本。写真集ではなく、テキストと写真が有機的に結びつき、ハクチョウが春にシベリアへ渡っていくまでを綴った絵本。長年の観察から発見された事例やハクチョウを気にかけ、さりげなく見守る人の暮しも描くところが、この作家らしい。生き物と人と自然のつながりを親しく見続けることの大切さをこのシリーズでもっと伝えてくれるだろう。(ほそえ)

『青葉の笛』あまんきみこ文 村上 豊絵 (2007,1 ポプラ社)
平家物語のなかでも有名な「敦盛の最後」を1冊の絵本としたもの。このエピソードは源平盛衰記や謡曲、浄瑠璃等になって、語りつづけられてきた。小学高学年くらいの子どもたちに読み聞かせれば、古典の雰囲気を充分伝えられる。はじめて日本の歴史を学ぶ時期に、このような形で古典に触れられる絵本があるのは頼もしい。(ほそえ)

『おたすけこびと』なかがわちひろ文 ヨコセ・ジュンジ絵 (2007,2 徳間書店)
ショベルカーやクレーン車、ブルトーザーやミキサー車があつまって、ケーキ作りをするというなんとも大仰な展開。でもそれゆえに楽しく、車たちや小人たちの勤勉な仕事ぶりにニコニコしてしまう。この絵本を読んでもらったあとは、子どもはきっと、どこからか小人がやってきて自分の持っているミニカーを動かして、大好きなケーキを作ってくれたら……とわくわくするだろう。少しレトロな雰囲気がするイラストは、このお話の持つ、子どもの実際に直に結びついた願いの素朴さに似合っている。(ほそえ)

『ニューワと九とうの水牛』小野かおる 文・絵 (2007.1 福音館書店)
中国桂林の伝説を元に作られた絵本。どこからかやってきた男の子にニューワと名付け、育てて仕事を与えた村人たち。水牛の世話をすることになったニューワ。ある年、ひでりで水牛の草もなくなってしまった時、淵の中州に緑の草を見つける。竜王に願って淵を渡る手立てを得る不思議。それからニューワは不思議な力に導かれて、竜王の娘を結婚し、昼間は九頭の水牛とすごし、夜は竜宮で過ごすように。淵の中に大きな山が九つそびえている奇景と心やさしき村の幸せヘの願いがこのような物語をつむぎだしたのだろう。シンプルで過不足なく描かれる異国の人びとと風景から大いなる力への畏敬の念が伝わる。(ほそえ)

『グリンピースのいえ』及川賢治、竹内繭子 作、絵(2006,11 教育画劇)
グリンピースはカエルの名前。グリンピースの缶詰が玄関になったのお家に住んでいます。グリンピースのお家にはおもしろいものがいっぱい。ポロンと音のするソファ、黒い丸いおふろ……。絵を見て、「これってピアノだよ」「タイヤだねえ」とかえるくんの見立てをおもしろがり、ラストの地面の様子にちょっとびっくり。絵本のアイデアとしては良くあるパターンだけれど、このゆる〜いかわいらしさが今風か。(ほそえ)

『ふってきました』もとしたいづみ文 石井聖岳絵 (2007.1 講談社)
今にもふってきそうな空です……とはじまって、ふってきたのが、動物! わにやらぞうやらパンダやらしまうまやらが、どずずん、どかし〜んとふってきました。さいごにふってきたのは……。みんな礼儀正しく、「びっくりさせてごめんね」とあやまるところがかわいいです。いかにも、こいつならこんな表情でふってくるだろうなあと、納得のイラストレーションが、この絵本の魅力。ナンセンスは、センスをひっくり返すもの。そのひっくり返したあとに見えるものが、この絵本には感じられないのがちょっと残念。(ほそえ)

『ハーニャの庭で』どいかや (2007.4 偕成社)
ハーニャの庭は裏山と斜面にはさまれた小さな庭。そこには小さな池と畑があります。1月から12月までの一年を、人のくらしと動物たちの営みを重ね合わせ、空気の色がみえるような、細やかなふうわりとしたタッチで描いた絵本。作家の丁寧な毎日の暮しの中で見つめられた事柄が、印象深く絵本の中に綴じられています。人間が切り開いて宅地にしてきたところが、実は、昔からたくさんの生き物の暮す場であったこと、渡りという旅の通り道であったこと……人の暮しもまた、その土地を借りて居着かせてもらっているだけなのだとしみじみわかります。(ほそえ)

『ごびらっふの独白』草野心平詩 いちかわなつこ絵 齋藤孝編(2007,3 ほるぷ出版)
草野心平のかえる語の詩が絵本になった。もともと詩は絵本になりやすいものなのだが、この詩を持ってくるところが、さすが、「声にだすことばえほん」たるところ。不思議な魔術的でもあるこの詩の音の連なりは、声にだすと陶然としてきて、おもしろい。この詩の内容をそのまま絵にするのではなく、絵で読み取れるようなサブストーリーを構成することで、この音と拮抗しようとしている。詩のごびらっふは孤独を幸福に過ごしているが、絵のごびらっふは、一晩かけて、想い人(かえる)に花を届け、一緒に虹を見る。にじんだような水彩画がかえる世界ののびのびとした時間を上手く描いている。それは幸せそうな世界に見える。(ほそえ)

『まちー身近な自然』『池ー水辺の自然』ゴードン・モリソン作 越智典子訳 (2004,2002/2007.1,2007.2 ほるぷ出版)
『カシの木』で美しく生態系の見事さを描いたナチュラリストのシリーズ絵本二冊。このシリーズは、一つの場所の1年の姿の変化をお話仕立てにして大きな物語として描き、そこで目にする生き物たちのそれぞれの様子をモノクロのイラストと、簡潔な文章で説明するという二段構えの造りになっている。それが、とてもいい。『池』では鳥、動物、虫、植物のみならず、プランクトンや池の出来方、水と氷までも説明してくれる。『まち』は遠くの山や海に行かなくても、自然は今、自分達の住んでいるところにもたくさんあると見せてくれる。町のどこでどんなものを見つけたのかを、町の俯瞰の図で指し示し、学校のまわりや住宅街に、いかにいろいろな生き物が生息しているかを目の当たりにさせる。どこかに自然というものがあるのではなく、毎日の暮しのそばで、同じように生き物たちが暮しているということを知るだろう。この絵本をみて、自分の身の回りをいろいろ観察してみたくなる。
海外の自然ものの絵本や読み物の翻訳は、どうしても、描かれる動物相や植物相が日本と違ってしまうため、子どもに読むと、なじみのない動物や植物が目についたり、同じようなのにちょっと様子が違ったり、というのが、気になってしまいがちだ。でも、このシリーズの場合は、大きな物語がカラーでしっかりと、自然というものの見方、観察する視点等を語り、感じることができるため、少々の違いは気にしなくてもいいように思われる。気になる方は、日本のナチュラリストが描いている本や写真集をならべて、紹介する等すれば良いだろう。(ほそえ)

『シモンのおとしもの』バーバラ・マクリントック作 福本友美子訳 (2006/2007.3 あすなろ書房)
『ダニエルのふしぎな絵』でそのクラシカルな画風が目をひいたマクリントックの新作。20世紀はじめのパリを舞台にしたさがし絵絵本。うっかりもののシモンが学校からうちにかえる途中で、いろんなものをなくしてしまいます。そのつど、お姉さんと探すのだけれど、みつかりません。読者がそれをかわりに細かく描かれた町の風景の中から見つけてあげるのです。パリの有名どころをまわりつつ、お家にかえると、シモンの落とし物を持った人たちが次々やってきて……よかったね、というお話。巻末に有名どころの説明書きがあり、観光案内のよう。アイデアと雰囲気のよさが、おもしろい。(ほそえ)

『男の子とおおきなさかな』マックス・ベルジュイス作 野坂悦子訳 (1969.1994/2007.2 ほるぷ出版)
国際アンデルセン賞受賞画家であり、「かえるくん」シリーズや「かいじゅうくん」シリーズ等で良く知られるベルジュイスの初めての作、絵の絵本。湖でおおきなさかなをつった男の子が、家にもちかえり、おふろの中で飼うという。さかなが幸せであるように、本を読んでやったり、具合が悪そうだと医者に連れていったり……。みずうみにもどりたい、おふろのなかではしあわせになれないの、というさかなを、またみずうみに戻してやる男の子。男の子のピント外れな好意に笑ったり、見開きにドーンと描かれるカラフルで素朴な絵にしみじみしたり。相手の幸せを全うさせることで、自分も深く幸せを感じるというラストに、ベルジュイスの伝えたい思いをみました。(ほそえ)

『家缶』早川純子作(2007,2 ほるぷ出版)
ヒックリーとカエルーの二匹合わせて、ひっくりかえるのネズミたち。二匹の家は缶詰めの缶。缶の中には四つの部屋があり、用がある度にまん中の芯にあたるところを転がして、位置を変えて、部屋を使っていたのです。缶の家は、猫のおもちゃになったり、ころころころがって、スーパーマーケットの缶詰め売り場に置かれてしまったり。縦に置かれてしまうと部屋が使えないのよ〜と困ったり、危ない目に会ったりした二匹ですが、家缶とともに、ころころころがっていくのでした……。缶の中に四つの部屋を作ったところがアイデア。クラフトも缶の外側が外れて、中のお部屋が見えるようになっていたり、出入りするはしごがついていたり、と楽しい。(ほそえ)

『くじらのうた』デイヴィッド・ルーカス作 なかがわちひろ訳 (2006/2007.3 偕成社)
『カクレンボ・ジャクソン』で目を見張らせた新人ルーカスのはや3作目。細かに描きこまれる装飾的な画風はそのままに、本作では大きなくじらと町の人びとの邂逅を描きます。海辺の町に住むジョーは、ドドーン!という音で目がさめ、容易ならざる事態に直面します。クジラが町に打ち上げられていたのです。どうすれば、くじらを海に戻すことができるのか、ふくろうから、風、太陽、星までまきこんで、考えます。それでわかったのは、歌を歌って雨をふらせればいいということ。満天の星の夜、大いなる智恵をさずかるまで、じっと待つ人びととくじら。いつの間にか心合わせて歌を歌う人びととくじら。雨がふって、くじらは海に無事戻れたのですが……。2度も大いなる歌の力によって危機を脱するところが、祈りを思わせて、印象的ですが、画面はとてもチャーミング。見返しからすでにお話は始まっていて、後ろ見返しでは、ジョーとくじらとふくろうはのんびり海上散歩を楽しんでいます。ルーカスのこういうところがすき。(ほそえ)

『ジェイミー・オルークとおばけイモ〜アイルランドのむかしばなし』トミー・デ・パオラ再話、絵 福本友美子訳 (1992/2007,2 光村教育図書)
なまけもので全く働こうとしないジェイミー。とうとうおかみさんが寝込んでしまい、食べ物がなくなってしまったらどうしようと心配になったジェイミーは、教会へ相談に行く途中、妖精に出会います。そこで、妖精から金貨のつまった壷を貰う代わりに、世界一大きなジャガイモになるという小さなたねイモを貰います。植えてみると、おばけイモは一日で大きくなり、村中大騒ぎ。結局、みんなでわけるはめになったのだけれど、とうとう村人たちがイモを食べ飽きてしまい、ジェイミーにおばけイモ作らせないようにと、毎日ごちそうを届けることになったんだって。なまけものが幸せをつかむという大ぼら話。ちゃっかりしている妖精もおっかしいし、迷惑かけてもしょうがないなあと許されてしまうジェイミーの人の良さが、パオラの絵からにじみでている。(ほそえ)

『アローハンと羊〜モンゴルの雲の物語』興安作 蓮見治雄文、解説(2007,2 こぐま社)
モンゴルに生まれ、日本で日本画を専攻した作家が初めて手がけた絵本。日本で刊行されたもの。放牧して暮すモンゴルの草原の人びとの様子に材をとった絵本。アローハンという女性の人生を追いながら、暮し方や仕事、厳しい自然を物語に溶かしこんで綴っている。小さい頃からアローハンと一緒に過ごしてきた羊のホンゴルとの日々と別れ。羊は空の雲から生まれたというモンゴルの言い伝えのように、ホンゴルが雲になっていつでも見守っていると思えるようになる姿にほっと安堵します。横長の版型は、地平線と大きな空を描くのに良く合っていて、しっかりと情感豊かに描かれる絵を存分に生かしている。(ほそえ)

『シャンプーなんて、だいきらい』アンバー・スチュアート文 ローラ・ランキン絵 おおつかのりこ訳 (2006/2007,1 徳間書店)
耳をシャンプーするとぞわっとするし、くしゃみもでちゃう。ぜったい、いや!といいはるうさぎのポップ。ママがどんなにいろんなおもしろそうな作戦でシャンプーしようとしても、耳を隠して、どうしても洗わせません。そんな時、いとこのボンボンにいちゃんがやってきて、ひとりでさっさとシャンプーするのを見て……。憧れの気持ちが、子どもの背中をポンッと押すことって、あったなあ。丁寧に描かれるポップの毎日に、ぼくと一緒だと安心したり、まだ、こんなことしてらあと笑ってしまったり、親しみやすいイラストや展開が子どもにやさしい絵本。実際はこんなに上手くは行かないことが多いのだけれど、こういう絵本もちょっとしたきっかけになるものだから。(ほそえ)

『おじさんのブッシュタクシー』クリスチャン・エパンニャ作 さくまゆみこ訳 (2005/2007,4アートン)
セネガルに住むぼくとおじさんの物語。ブッシュタクシーというのは乗り合いバスみたいなもので、同じ方向に行く人たちが一緒のタクシーに乗り、行き先ざきまで乗せてもらうというシステム。セネガルの町の風景や人びとの暮しぶり、洋服など、力強いタッチで、ユーモラスに色鮮やかに描かれていて、楽しい。おじさんがブッシュタクシーに乗せるのは、人ばかりではなく、喪の心や誕生の喜びなどもあるのが、作家の視点として興味深い。まさに、生活に密着している乗り物と伝えたかったのだろう。このシリーズではアフリカは大きな一つの固まりではなく、様々な文化や暮しを尊重しあい、特色を持った現在を生きていることを教えてくれる。絵本の舞台となった国や絵本で説明の足りなかった部分の解説が必ず巻末についていて、わかりやすい。(ほそえ)

『よだれダラダラ・ベイビー』ポーラ・ダンジガー文 G.ブライアン・カラス絵 石津ちひろ訳(2004/2007.1 BL出版)
下の子ができて、お兄ちゃんやお姉ちゃんになっちゃった子どもの気持ちを代弁してくれるような絵本はいろいろある。この絵本はけっこう年が離れた兄弟ですな。赤ちゃんを見て、いちいち、よだれダラダラ・ベイビーとか、おならプスプス・ベイビーとか、うんちブリブリ・ベイビーとか、ちゃんとことばに出来るから、これ読んで、笑いながら、そうだそうだ!と思う小さい子も多いだろうな。お兄ちゃんっていう役回りは、まわりからいわれてなるのではなく、やっぱり自分で引き受けたところからお兄ちゃんになるものなのかもしれないな。その微妙な心持ちを、ユーモラスに描いているのが○。(ほそえ)

『あっぱれ アスパラ郎』川端 誠 (2007.2 BL出版)
前作『忍者にんにく丸』に続くシリーズ2作目に登場するのはアスパラ。舞台はお食事処皿多屋。看板娘の玉子ちゃんにちょっかいをだす、嫌われもののじゃがいも一家をかる〜くさばいたのがアスパラ郎。そこで、じゃが一家を敵にまわすことになってしまった。今回は、必殺技のアスパラ・ガスを吐き続けると、身体の葉緑素が抜けてホワイトアスパラになってしまうくだりが、ばかばかしくおかしくて素敵。温泉につかり、お日さまを浴びれば、また緑に戻るというのが、安心。おいしいメニューは玉子ちゃん直伝のマヨネーズの作り方。(ほそえ)

『トリッポンのこねこ』『トリッポンのおばけ』『トリッポンと王様』萩尾望都作 こみねゆら絵(2007.2 教育画劇)
トリッポンという男の子が主人公の連作を1話づつ絵本化したもの。作者を見て、えっ、あの漫画家の萩尾望都?と、びっくりしたのだが、1976年にオリオン出版から刊行された『月夜のバイオリン〜萩尾望都童話の世界』にはいっていた童話だった。手元にある本で見たところ、漢字がかなになっているだけで、ほとんどそのままじゃないかしら。『トリッポンのこねこ』は『トリッポンとかえる』というタイトルから変更されているのだけれど。これは、変えた方がお話の普遍性が良く伝わると思う。SFっぽかったり、ミステリアスだったりする、短いメルヘンが17話入った本なのだが、なかでこのトリッポン・シリーズは一番絵本になりやすい要素があり、それが画家の雰囲気にも合っていて、なかなかおもしろい企画。お話の気分を高めるような造本や装丁が凝っているし、本文のレイアウトもきれい。絵本好きな若い女性をターゲットにしっかり作った絵本に思える。森の中の小さな家に暮すトリッポンにはちゃんと両親がいるのだけれど、お話には出てこないし、いつもひとりでいるところに不思議がやってくる。ねこの国にはいっていったり、耳の大きなおばけと星つりをしたり、森をさんぽしてるとこびとの王様にであったり。ひとりでいる空気が絵によく出ている。それが絵本になって良かったなと思うところ。(ほそえ)

『紙しばい屋さん』アレン・セイ(2005/2007.3 ほるぷ出版)
『おじいさんの旅』でコルデコット賞を受けたアレン・セイが幼少の時、横浜で紙芝居を楽しんだ思い出から生まれた物語。ずいぶん長い間、山からおりて紙芝居をしに行かなかったおじいさん。ある日、もう一度出かけてみようと思います。町はすっかり姿を変えしまっていて、いつもの仕事場だった木の茂っていた公園は殺風景な空き地になっています。そこで拍子木をうちならすうち、おじいさんは昔の様子を思い出していました。子どもがいっぱい集まっていた日から、テレビが出てきて、誰も紙芝居を見にこなくなってしまった日、たったひとり、おじいさんの語るお話がすき、と紙芝居を見ずに、おじいさんの口元ばかり見ていた男の子。それが紙芝居をした最後の日だったなあと思い起こしたその時、いつの間にか、おじいさんの前には人だかりが出来ていて、先ほどから話を聞いていた中から、お話好きの元、男の子が名乗り上げたのです……。時代の変化にそれでいいのかと静かに問いかけ、それでも人の心の奥底には、今でも紙芝居やさんを大事に思う気持ちが残っているはずと信じている、絵本です。(ほそえ)

『ほーらね できたよ』片山令子作 はたこうしろう絵 (2007.2 主婦の友社)
小さなくまの子が何でも自分でやりたいの!と、着替えから食事、すべりだいなど自分でやろうと奮闘する姿と「ほーらね できたよ」と得意そうに笑っている姿をセットで展開していく。毎日の暮しの中で、あるあるこんなこと、こんな表情するよなあと共感を呼ぶ絵本となるでしょう。ここにでてくるおかあさんもおとうさんも、「さっさと しなさい」とか「まだ、むりよ。やってあげる」とか決していわない。でも、子どもといる毎日はこのせりふでいっぱいだ。だから、絵本の中のお母さん、お父さんだけでも、しっかり、はらはらしながら子どもを見ていてほしい。それを子どもと一緒に読むことで、実際の親もまた、自分の姿をふりかえることができるのだから。(ほそえ)

『ちいさなあかちゃん、こんにちは!〜未熟児ってなあに』
リヒャル・デ・レーウ、マーイケ・シーガル作 ディック・ブルーナ絵 野坂悦子訳 (1989/2007.3 講談社)
ブルーナは今までも、車椅子に乗った女の子の絵本や肌の色の違ううさぎのことミッフィーの絵本等、ハンディキャップや差別や偏見を小さな子どもにも手に取りやすく、実際的なお話に仕立て、作ってきました。本作は18年も前に描かれた絵本ですが、赤ちゃんを迎えるお兄ちゃん、お姉ちゃんの視点、心情にそって描かれているので、古いという感じはしません。最初は誕生に大喜びで早く会いたいと心待ちにするのですが、保育器の中に入れられて、そばによることもできないし、だっこしたり触ったりできないことに少しイライラしたり……と子どもの心情の変化もきちんと肯定して、書かれているのが、長年家族を見てきたお医者さんらしいなと感心しました。近年、日本でも未熟児で生まれてくる赤ちゃんが増えているそう。この小さな絵本で少しでも実際を知って、安心するお母さんや子どもたちがいるといいな。(ほそえ)

『ワニになにが おこったか』M.マスクビナー原作 田中 潔文 V.オリシヴァング絵 (2007.2 偕成社)
ワニのガーパが自分の卵だと信じ、いつも見守っていたものから顔をだしたのは、小さなヒナでした。あまりのことに固まってしまったガーパに、ワニばあさんは「何も生まれなかったことにしちまいな、パクリと飲み込んじまうのさ」とそそのかします。でも、「パパ」とほおを擦り付けてくるヒナをガーパは食べることが出来ませんでした……。ガーパは仲間から嘲笑されても、子どもの成長に一切を捧げ、飛ぶことまで教えようと奮闘します。そのドタバタがおもしろく、しみじみさせるところなのだが、この異類親子譚の幸せなラストにはガーパの思いが報われたような気がした。動きのある線で生き生きと描かれる動物たち、褐色の土ぼこりの舞うような色使いなど、イラストレーションも印象深い。(ほそえ)

『としょかんライオン』ミシェル・ヌードセン作 ケビン・ホークス絵 福本友美子訳 (2006/2007.4 岩崎書店)
ライオンが図書館にはいってきて、お話を読んでもらうのが好きだなんて……。とっぴょうしもなくお話は始まるのだが、ライオンが図書館にいる以外は、(館長さんがけがをするまでは)まったく通常のおだやかな図書館の風景がつづられる。マクビ−さんを呼んできて、と館長さんに頼まれ、廊下を走ったり、大声を出したりしたせいで、図書館にいられなくなったライオン。彼が再び戻るまでの、マクビーさんや館長さん等の心の動きなどがしっかりと描かれる。ライオンのお手伝いの様子一つをとっても、絵でもお話でも、丁寧に、なるほどねえと思わせるような描き方。その穏やかでユーモアに満ちた作者の目が、本と子どものいる場所をこんなにも豊かであたたかな世界として見ているということが、うれしい。(ほそえ)

<読み物>
○幼年童話の力
角野栄子のちいさなどうわたち1〜6 角野栄子作 佐々木洋子、長崎訓子、垂石眞子、西川おさむ、とよたかずひこ、西巻茅子絵 (2007.3 ポプラ社)
『パピロちゃんとはるのおみせ』片山令子作 久本直子絵 (2007.2 ポプラ社)
『番犬屋マル』きたやまようこ (2007.3 メディア・ファクトリー)

 近年、絵本ばかりもてはやされているようだけれど、幼年童話という分野こそ、子ども(10歳以下の)の目、思考、感情に、輝きを見、その大切な幼心の有り様を物語ですくいとろうとする、本物の大人の作家でないとかけない子どもの文学だと思う。子どもの目線を自らに取り込むことで、もう一度世界と素に関わるという作業。それでいて、その行為の中で発見される真実を、平易で美しく、楽しい日本語にして、子どもに返していく、という高度な技術。読んでもらう子どもに、そうそう、こういうことを前思っていたのと感じさせたり、自分のことばのようにするりと身体の中に入れさせたりする。それが、幼年童話なのだと思う。単に、字の大きい、絵本から読み物への移行期に読まれる本、という総称ではないのだ。
 そういうふうに、世界に対する素の感覚と自らの言葉の力で、幼い子どもに物語を語り続けてきた作家に角野栄子がいる。作家自選の童話集が六冊シリーズで刊行された。どれも、絵本や単行本では手に入りにくい物語がまとまっているのがうれしい。豊富に入った挿絵が楽しく、子どもが自ら手にとって読みやすい本文デザインになっているのもいい。以前、刊行された『佐藤さとる自選童話集』(ゴブリン書房)はとてもよい本なのだけれど、小さな子にはとっつきにくところもあり、もっぱら読んでもらう本となっていたことを思い出す。『ちいさなどうわたち』を見ると、いかに言葉たちが楽しく、物語の中で遊んでいるか、改めて、幼い子どもに対する<うた>の重要性を感じた。読んであげる時に、ついつい節をつけて、うたってしまうほど、調子よく愉快に展開する言葉、音、つらなり。その勢いが物語のテンポも作っていき、ラストの幕切れまですとんとおさまっていく。それが読む方も、聞く方にも心地よい。物語は毎日の生活をしっかりと描いて、親しみやすく、また、そこに置き去りにされがちな思いをきちんとすくいとって、解決を与えてくれるのも、子どもにとって安心なところだ。悪口をしまっちゃう箱が出てきたり、らくがきしたり、うそついちゃったり……いいよ、いいよと慰めるのではなく、その気持ちをぽーんと吐き出して、えいっと次のエネルギーにしてしまうような展開がすてき。
 子ども時代こそ、ひとりの時間をたっぷりと存分に楽しむことができるはずなのに、現代はそれを許してくれない。片山令子の物語はひとりの時間の豊かな輝きをいつも描いている。幼年童話の体裁をもつ『パピロちゃんとはるのおみせ』でも、ひとりでスキップの練習をしていたパピロちゃんが、春というものをつかむさまをファンタジーの形式で描き、ひとりの時間が、本当はひとりぼっちではなく、いろんなものとの交歓で満たされていることがわかる。光、風、色、温度……どれも、少女に話しかけ、ひとりの時間を様々に彩ってくれる。それが、妖精という形をもって、目の前に現れることをファンタジーといっているのかもしれない。
 『番犬屋マル』では得意なことが何にもないという犬のマルが番犬屋という商売を思いついたところから、物語が始まる。きたやまようこの作品では、仕事、商売というものが良く出てくる。それは、世界と関係しようとする時の一つのきっかけになるものだ。犬や猫や虫などが主人公になるのも、人間ではない目で(幼い子どものような目で)もう一度、世界を見直すという作業としているからだと思う。マルは頼まれたり、頼まれなかったりしながらも、大切なものをおまもりするという番犬屋稼業を1日やりとげ、満足して眠りにつく。しっぱいしたり、ありがとうをいわれたり、でもやって良かったなと思うのだ。幼い子どもの毎日というのはこういうものではないかしら。「しっぱいしてもだいじょうぶ、やってみることがだいじ」とどこかの国の偉い目玉焼きがいっているように。
 幼年童話は作家にとっては厳しく、読者にとっては楽しいものだ。もっとちゃんと子どもの手や耳に届けたい。(ほそえ)

○その他の読み物たち
『天山の巫女ソニン2 海の孔雀』菅野雪虫 (2007.2 講談社)
落ちこぼれ巫女ソニンの物語2作目です。イウォル王子の侍女として付き従うソニンが王子と一緒に、隣国
江南のクワン王子の元へ出かけることになりました。華やかな王宮のくらしと庶民の生活の落差に驚き、クワン王子の置かれている王国での位置に戸惑うソニン。この国でもソニンを利用しようとする力に屈せず、どのように自分の力を使うことが、周囲の幸せになることかを一生懸命考えます。ソニンを江南に連れて来たいがためにイウォル王子を招いたクワン王子。それを自分の友情への裏切りだと傷つくイウォル王子。いろいろな思惑がかけめぐり、それに巻き込まれながらも、自分を見つめ直すソニンとイウォル王子。ふたりがそれぞれに、見えなかったものや見ようとしなかったものを視野に納め、そこから考えていく様が本当に真摯で、1巻目より、さらに洞察を深めている。見事。(ほそえ)

『黒ばらさんの魔法の旅立ち』末吉暁子作 牧野鈴子絵 (2007.3 偕成社)
「黒ばらさんと七つの魔法』から15年の年月を経て、続編が書かれた。前作で魔法学校に入学させた男の子の消息をつかみに行くことが大きな柱になっている。物語世界でも同じように15年の年月が経っているのがおもしろい。黒ばらさんは占いや人生相談やらで売れっ子になっているのですが、少々魔法の力が鈍ってきたというのも年月の為せるわざでしょうか。ドイツに向かった黒ばらさんが、ヨーロッパの妖精や魔法使いの力をかりながら、無事、旅の目的を果たすまでを描いています。中に、自分が生んで人間に託してしまった女の子の死やわが子を探す魔法使いの思いなどをかかえこむことで、ばたばたと陽気に進む黒ばらさん一行の物語の輪郭をくっきりさせ、黒ばらさん自身を見つめ直す旅ともなっていたのだなあと思いました。魔法学校で変身術をおさらいして、また黒ばらさんが活躍する姿が見たいもの。(ほそえ)

『月あかりのおはなし集』アリソン・アトリー作 こだまともこ訳 いたやさとし絵 (1945/2007.3 小学館)
妖精や小さな虫たちが出てくるお話が六話入った童話集。アトリーらしい描写の行き届いたお話で、妖精が悪戯したり、かげがひとりで飛び出していったり、虫たちがしゃべったりしても、決して絵空事で何でもありという訳ではない。暮しというものはこういうことなのだという作者の思いにのっとって、登場するものたちが行動する。だからこそ、読み終わったあと、その結末に納得し、安堵するのだ。ひとつひとつ、寝る前に読んで聞かせていて、お話のもつ真実にはっとさせられた。(ほそえ)

『なまえをみてちょうだい』あまんきみこ作 西巻茅子絵 (2007,1 フレーベル館)
「なまえをみてちょうだい」「ひなまつり」「あたしもいれて」「みんなおいで」の4編がはいった童話集。小さなえっちゃんの毎日から、ポロリとこぼれ落ちた不思議なお話ばかり。何者とも話のできる幼い子どもの心象に似合ったお話は、自分で読むよりも、読んでもらう方がすんなり心を添わせることができるのではないかしら。赤い素敵な帽子を風に飛ばされてしまって、えっちゃんがさがしにいくと、赤い帽子をかぶったキツネや牛に出会う。「なまえをみてちょうだい。わたしのなまえがかいてあるはずだから」というと、みんな帽子をかぶっていたものたちの名前が書いてある。くり返されるセリフとポーンと飛ばされたお話の意外性がうまいバランスでこの小さなお話をかたちづけている。掌編のあざやかさ。(ほそえ)

『ぼくらは「コウモリ穴」をぬけて』広瀬寿子作 ささめやゆき絵(2007.1 あかね書房)
1ヶ月前にお母さんを亡くしたいとこが家にやってきた。お父さんの仕事がひと段落するまで、一緒に暮すことになったから。気を使ってしまうぼくだが、いとこのつーくんは伸び伸びとしているような気がして、どう接していいかわからない。ぼくはつーくんに秘密にしてきた洞くつの基地を見せてあげた。そこでは、コウモリが赤ちゃんを育てていたのだ……。余りにも大きな喪失をどのように受けとめていいのかわからない時、人は自分だけの物語を欲するのだろう。その有り様をさりげなく、真摯に描こうとした物語。(ほそえ)

『子ネズミチヨロの冒険』さくらいともか作、絵 (2007.2 偕成社)
子ネズミチヨロはおつかいの途中、物言う棒(魔法の杖)と出会い、襲ってきたへびから無事、逃げおおせたのだが、へびに頼まれて、腹の中で刺さってしまった杖を取り除くために、本当の魔法使いのところに行く……という冒険話。絵の入り方に工夫があり、読みやすく、楽しい本の造りになっている。お話自体は新味のあるものではないが、丁寧な語り口と安定感のある物語の運びで、物語を読みなれていない子にも手をのばしやすいものになっていると思う。(ほそえ)

『みどパン協走曲』黒田六彦作 長谷川義史絵 (2007.1 BL出版)
お寺の子どもでみどパンとよばれている椎葉瞬平太が一緒に暮すことになる目の見えない少年、小野原拓斗。事故で目が見えなくなって自分の部屋から出てこなくなったのを、寺の和尚さんである父さんが家に連れてきたんだ。サッカーの選手だったという拓斗の伴走をしてロードレース大会にでるまでのふたりの葛藤や家族の支えを描く。ネグレクトや現代のお寺事情など、一生懸命、現代を映そうとしているところ、好感が持てる。主人公をはじめ、みんな良い子で、拓斗との関わり方もわかりやすい。それがこの物語の素直な良さでもあり、すこうし物足りないところでもある。(ほそえ)