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 こんにちは、令丈ヒロ子です。
 ふと思い出したことがありまして。
 前に、池袋の某大きい本屋さんから「おすすめ本3冊選んでください」と言われて、選んだ3冊があるのです。
 そのときは、特になにかテーマがあったわけではなかったのですが、なんとなく選んだものが3冊とも「子どもがなにか職業のプロとなり大人顔負けの活躍をする」という内容でした。
 私自身が、そういうテーマが大好きで、デビュー作に近いものからそれをやり続けております。自分の作品の中で、小学生に大人のシェフもびっくりの料理をさせ、外科医にもなってもらい(主人公に心置きなく手術をしてもらうために、無理から国認可のスペシャルな医師免許まで作った)、最近では旅館のおかみ、歌手、漫才師、マンガ家、実にいろんな仕事をしてもらっています。
 そのとき選んだ3冊は、わたしが「ああ!こういうのが描きたかった!でも、こんなにうまく描けないよ!」と、かなしい思いをした3冊でもあります。

 ではその1冊目。
「歯みがきつくって億万長者」ジーン・メリル作、岡本さゆり訳、偕成社1997年5月刊。
 これは特に思い入れがある作品です。実はわたしはデビュー直後、この話とそっくりの(あらすじがね)話を考え、実際書いたのです。
 わたしの考えた案では、近所のばあさんの育てているヘンなサボテン風植物に抜群の洗浄力があることに気がついた少年が、それを混ぜた洗剤を作ります。この手作り家庭用洗剤が爆発的にヒットするというものでしたが、この「歯みがき作って億万長者」では、タイトルから見てわかるように、それが格安歯みがきです。
 主人公の少年がそれでどんどん会社を大きくしていき、ついには…。というところも同じだったんですが、わたしの頭脳と筆力と心がけが、この本の作者のジーン・メレルさんとはちがいすぎました。わたしの話はモロモロに崩壊。
 まず経済の仕組みがわかってないと、描けなかった。(あたりまえか)
 決定的にちがうのが主人公の性格です。わたしの書いた話の主人公は儲かったら即、堕落したんですが、こっちはちがう。
 主人公のルーファス・メイフラワーという黒人少年が、爽やかで前向きで、アイデアマン、しかもピンチに強くてかっこいいんですよ!どんな状況も楽しんで乗り越えられる柔軟な精神が、すてきなんです。しかも、ちゃーんと原価と利益の計算もできてね。
 ルーファスは、自分の作った歯みがき大ヒットの影響で、他社の歯みがきが価格破壊をおこしたり、ビジネス界でのいろんなトラブルにまきこまれます。それも、彼は笑顔でやりすごしているように見えたのですが…。
 ルーファスは、ある日、こういいます。
「金もうけなんて、だれだってできるよ。ほんのちょっとした常識さえあればね。でも、ぼくは金もうけじたいには、それほど興味ないんだ。ただ、なにとなにをまぜて歯みがきをつくろうとか、値だんを安くしながら利益をあげるには、どうしたらいいだろうかとか、そんなことを考えるのは楽しくてたまらないけどね。どうも、それをやりつくしちゃうと、あとは毎日おんなじことのくりかえしみたいな気がするんだ。」
 そして、ルーファスが選んだ自分のむかう道は?
 ここに書かないけど、結末がたまらなくかっこいい!いやー、真の社長さんになる器の人ってこうなんだなと、しみじみ思いました。
 将来社長になりたい、起業家になりたい少年はこれを読むといいと思います。


「ナタリーはひみつの作家」アンドリュー・クレメンツ作、田中奈津子訳、講談社2003年2月刊。
 こちらは12才の女の子、ナタリーが作家デビューする話。まあ日本でも現実にない話ではないんだけど、プロ作家としての扱いは、なかなか12才では難しいですよね。
 このお話はアメリカの話ですから、エージェントが確立しています。エージェントのことを、このお話で、出版社につとめているナタリーのお母さんが次のように説明しています。

「エージェント?」ナタリーはきき返しました。「FBIのエージェントみたいなもの?」
 お母さんはわらいました。
「まさか、出版業界の代理店みたいなものよ。作家や画家の代理人として、出版社との仲介をするの。エージェントが、いいと思った作品を出版社に持ちこむ。出版社がその作品を買いとれば、作家や画家は利益の一部をエージェントに支払う。うちの会社で新しく出版する本の多くは、エージェントから紹介されたものなのよ。」

 で、ナタリーの親友、ゾーイは、本も好きならナタリーの書いた話も好き、でも書くより、人と話すのが大得意という少女です。この頼もしい友人が、ナタリーの本を絶対の絶対に出版したいと思います。
 ただし、編集者であるナタリーのお母さんには、それが自分の娘のものだとは気づかせないで、原稿を見てもらいたいという、ナタリーの気持ちも大事にします。その原稿を書いたのが12才の女の子であるとか、自分の娘であるとか、そういうことぬきに、一人の作家として、原稿のよしあしを見て欲しい。それが作家ナタリーの気持ちです。
 ゾーイはそれで、自分がナタリーのエージェントになるのだ、と心を決めます。エージェントの持ち込みであれば、作家の素性はあかさなくてもだいじょうぶです。(もちろん作品はペンネームで書かれています。)
 ゾーイとナタリーは、前からナタリーの文才を認めていたクレイトン先生を選んで強引に相談役になってもらいます。(ここの章のタイトルが「選ばれた大人」と言います。うまいなあ。)
 このあたり、ゾーイの「交渉」と「かけひき」のうまさが冴えわたります。
 エージェントとして、社会的に問題のないように会社を作り、オフィス・サービスを受けるのは、どうしても大人の協力が必要だからです。
 気のいいクレイトン先生が、ひそかにあこがれている、ハンサムで人気者の先生の名前まで出して、うんと言わせるゾーイのその技には感心してしまいます。弁護士であるゾーイのお父さんが本を出版するには「ブルドッグのようにかみついたら放さない代理人、相手にいやとはいわせないようなエージェント」が必要だと、教えたことが、実践されています。
 この後も、よりよい出版がかかったエージェントと、ナタリーのお母さんの上司であるリーサ編集長(これがすごくヤなやつ!)とのかけひき、しばいがかった大ばくち交渉などが、続き、このあたり読んでいて手に汗握ります。下手なホラーよりよっぽどこわい!
 で、出版契約にこぎつけますが、ここで弁護士であるゾーイのお父さんが活躍。未成年が云々とか、今まで出版社に12才と言う年齢を言わなかったことに関して、おこりそうな法律上の問題は、すぱすぱっとクリアされます。このへんのリアリティが素晴らしい。
 法律のことはむずかしことはわからなくても、こういう章があることで、読者は「大船に乗った気持ち」で、安心して話を楽しむことが出来ます。
 そして本が出版される日がきます。
 すばらしくスカッとしたアメリカンな大団円、自分がサクセスしたような爽快感が味わえます。
 アンドリュー・クレメンツは、少女がよりよい学校新聞を作ろうと格闘するお話、「こちら『ランドリー新聞』編集部」講談社、2005年2月刊、も書いています。こっちは新聞記者・編集者志望の子どもが読んだら、実にためになりそうです。

 そして3冊目。
「そらまめうでてさてそこで」
 今江祥智作、文渓堂1994年8月刊。
 この話が収録されている、おはなしメリーゴーランドというシリーズはすべて故・長新太先生のイラストで、それもすてきでした。表紙のそら豆の絵がふくよかで魅力的です。
 お話のほうは…。
 これがもう、たまらなくおいしいお話なのです。
 わたしはとにかく食べものが出てくるお話が好きで、「おいしそうなお話」には無条件に飛びついてしまうのですが、この話は、出てくる料理が「粋で大人」なんです。
 自戒をこめて言いますが、子供向けの本に出てくる料理って、いかにも「子ども受け」しそうなメニューのことが多いんですが、この本はいくら料理の描写を読んでも胸焼けしない。
 しかもちょんまげ時代のお話で、天才料理少女は六歳。
 この六歳の少女、舞の一番の魅力は、「人格」です。
 きりっとしていて、芯が強くて、出すぎず、ものごとをわきまえていて、賢くて、辛抱強くて、努力家。自分の才能もちゃんと自覚していて、料理への情熱は深い。自分の生き方に筋を通すその気持ちのまっとうさ。弟子にしてもらいたいです。
 この舞が「うずまきゆり」という料理を食べるとき、すいっとおとなの女性の顔と所作になり、その店の料理人と通な会話をするところが、もうたまらなくかっこいい。
 その舞の様子にただならぬものを感じとる、おじいさま庄左衛門様もすごい。
 この、おじいさまが、「料理などおんなにまかせればよいもの」という時代に、しかもお侍なのに、本気で料理を学び、お店を開きたいと考えるところも、なんともすばらしい。
 このおじいさまと舞のコンビの取り合わせが、たがいに助け合い、修業して「まい」という名のお店を始めます。
 いや、もう、こんなに空気が澄んでいて、あたたかくてしゃっきりした小料理屋が近くにあったら毎日行きます。

 これで終ろうかと思ったのですが、気になった本があるので、もう一冊紹介します。
「12歳で100万ためました!−本当のお金持ちになった女の子のお話」
キム・ソンヒ作、株式会社インフォバーン2004年10月刊。
 こっちは、タイトルがあまりに印象的すぎて、つい買ってしまったのですが、これは小説でなく、じっさいお金と真剣にむきあった韓国の少女のお話です。実録ではなく童話風の作りになっていますので、主人公ホン・エダミさんが幼稚園児のときに、捨てられた赤い兎の貯金箱との出会いが、メルヘンチックに描かれています。
 からっぽになった兎の貯金箱の寂しさ、悲しさをなぐさめるため、貯金箱に小銭を溜めていくことから、エダミさんの「お金とのかかわり」がはじまります。
 貯金箱いっぱいになったお金を、「ノートを買うお金を忘れて困っているから、お金ちょうだい、あ、そういや、えんぴつもいるな。もっとちょうだい!」とぬけぬけという「ちょうだい少年」や、「目が見えないくて生活できません。お恵みください」といいながら、ちゃんとエダミさんのことが見えてるおじさんに、みんなにあげてしまいます。
「人を助けることはいいことだ」と有頂天になっているエダミさんはお母さんに、そのまちがいを叱られます。
「一時間そこにすわって、お金とは何かを考えなさい」
 と言われてもエダミにはその意味がわかりません。お母さんはお金のなりたちを説明します。
 そして、
「エダミが朝、みんなによく考えないでお金をあげてしまったことは、お金との約束を守っていないことになるの。お金をお金として使ったのではなく、ただの金属のかたまりとして使ったことになる。」
 と言われ、エダミは恥ずかしくなります。
 それからエダミは、真面目に自分の貯金通帳におこづかいをためていきます。だんだんお金がたまってきてうれしくなったエダミは、お母さんに
「エダミはどうしてお金持ちになりたいのかしら」
 聞かれます。
 したいことができるから、食べたいものが食べられるから…と答えるエダミにお母さんは、エダミがお金持ちになったらうれしいけど、お金の大切さがわかるお金持ちになってほしい、欲しいものを好きなだけ買えるからお金持ちになりたいというのは、いい考えとはおもわない、と言います。
(この辺、きれいごとといえばきれいごとなんですが、しかし、本気のきれいごとというのは実に大事なものなんだな…と後で考えてしまいました。)
 その後、エダミはお金の大切さがわかるお金持ちになると決意します。
 両親と約束したお手伝いをきちんとして報酬をもらう。銀行の利子について学ぶ。インターネットのフリーマーケットで、人が要らないといったものを、要る人に売る。そのことで派生してくる、人間関係のトラブル。
 お金が儲かってくると、今度は借金を申し込まれます。人にお金を貸すことの難しさ。契約書の大事さ。
 このあたりのヘビーでシビアな内容は、「現実に即した大事な問題」にまっこうから取り組んでいて、お金のもつ魔力と戦い理想をつらぬく厳しさがきちんと描かれています。
 それだけでなく、事情があり仕事をせず、お金をかせいでない父親、それを助ける母親に、自分のお金でパパとママを助けたいの!と言ったあと、ひどく父親を傷つけたことに気がついた、エダミの気持ちの描写は、胸が痛みます。
 お金と真っ向勝負をすることは、本当に難しいことです。
 お金は本当に難しい。
 お金とうまく距離感をもって、それにふりまわされずつきあえる人間は、この世にどれだけいるでしょうか?
 笑うこと、芸術に価値を認めること、生きがいを追い求めること、娯楽を必要とすること、悟ること、寿命をのばそうとすること、変わらぬ愛を求めることなど。人間の世界にしかない、他の生き物の世界ではおそらく必要でない、やっかいなことがこの世にはたくさんありますが、お金のそのやっかい度は横綱クラスでしょう。

 この本は韓国で大きな話題になり、エダミさんは有名人になったそうです。
 子どもに金もうけをさせるなんて、と、エダミさんの両親はかなり批判にさらされたそうです。
 わたしも正直、避けられない事情のものはともかく、お金の心労と言うのは、心労界の中でもかなり特殊で、クリアするのは強い精神力がいるので、人格形成途上の人がわざわざするのはあまりよくないのではとも思います。しかし、この本は、そういういろいろなことを考えさせてくれる、貴重な本だとも思います。かんじんなところだけ、ぬるいきれいごとの「子供向け経済入門」的な本とは、伝わってくるものがちがう。
 
 「お金持ちになりたければ、まずお金を好きになってみてください。だけどきれいなお金を好きにならなくてはいけません」
 と言う言葉が、エダミさんの言葉としてでてきますが、本気でお金と取り組んだ人でないと言えないせりふかもな、と思いました。

 ではまた!(令丈ヒロ子)

【絵本】
『わたしの おばあちゃん』(ヴェロニク・ヴァン・デン・アベール:文 クロード・K・デュボア:絵 野坂悦子:訳 KUMON 2006/2007.03 1300円)
 アルツハイマーをテーマにした絵本。
 といっても、まずその前に、孫のマリーがどんなのおばあちゃんを好きだったかが、様々なエピソードで語られていきます。何を聞いてもちゃんと答えてくれること、子ども時代の話をしてくれること、「プチュッ」とキスを交わすこと。そのなにもかもが、おばあちゃん。
 ですから、病気になっていろんなことが判らなくなっていった、それも大好きなおばあちゃん、なのです。(ひこ)

『タツノオトシゴのかくれんぼ』(ステラ・ブラックストーン:文 クレア・ビートン:絵 藤田千枝:訳 光村教育図書 2004/2007・03 1500円)
 フェルトを使った、とても暖かな風合いの絵本の2作目が登場です。
 今回は、海の中。画面のどこかに、タツノオトシゴがかくれています。といっても、探し絵本ではなく、あくまで風合いを楽しむのが第一。すると、こっそりと隠れているタツノオトシゴがすごくかわいくなってきます。(ひこ)

『おつきさまにぼうしを』(シュールト・コイパー:作 ヤン・ユッテ:絵 野坂悦子:訳 ぶんけい 2003/2007.03 1300円)
 お月様が寒そうだなと思ったワニとサルとメンドリは、暖かなマフラーとてぶくろと帽子をあげようとしますが、空は遠くて・・・。
 ちょっとオトボケキャラたちが、一生懸命がんばります。そこがとても愉快。
 最後は、なるぼど、そう落としますか。
 空には届かなかったけれど、これなら、ほっとしますね。(ひこ)

『きみだれ?』(松橋利光 アリス館 2007.04 1400円)
 様々な生き物たちが、ほんの少しだけ姿を見せて、だから「きみだれ?」。
 ページを繰ると、正体を現します。
 ただそれだけの写真絵本。
 でも、たくさんの生き物がいて、様々な表情を浮かべて、世界はそうして存在していることが伝わってきますよ。いいな〜。(ひこ)

『ちいさなあかちゃん、こんにちは!』(リヒャルト・デ・レーウ (著), マーイケ・シーガル (著), ディック・ブルーナ (イラスト) 野坂悦子:訳 講談社 1989/2007.03 1300円 )
 未熟児を描いた絵本です。未熟児について描いた絵本かな。
 よけいな感動シーンはなく、ブルーナの絵が、シンプルさを際だたせていて、淡々と伝えていくのが良いです。だからといって、解説書ではなく、迎え入れる側の喜びがあります。
 こういう絵本もありなんだなあ。絵本、すごい。(ひこ)

『あさるのかくれんぼ』(いとうひろし 講談社 2007.04 1500円)
 シリーズ9巻目。いつも、ほっこりとさせてくれる「おさる」ですが、今回はちと怖い。
 かくれんぼはおにになったときが楽しい。もういいかいと目を開けたとき、誰もいない森・・・。でも、みーつけたで、段々元の森にかえっていく。そこが楽しい。
 これは、かくれんぼが持つ怖さに「おさる」が反応しているわけですね。
 楽しいの前に怖いがある。そこをちゃんと見せているのがさすがです。(ひこ)

『とびきりおいしいスープができた!』(ヘレン・クーパー:さく かわだあゆこ:やく アスラン書房 2006/2007.04 1600円)
 来ました、かぼちゃスープの3作目です。
 なんと今回は、かぼちゃがない! どうする、ねこ、りす、あひる?
 大丈夫、おいしいスープができますよ。何かは秘密です。
 脇キャラの虫たちも大活躍だあ!(ひこ)

『ハンダのめんどりさがし』(アイリーン・ブラウン 福本友美子:訳 2002/2007.04 1400円)
 『ハンダのびっくりプレゼント』に続く2作目。
 大切なめんどりが見えなくなって、ハンダは友達のアケヨと一緒に探しに出かけます。チョウ、トカゲ、カエル、様々な生き物と巡り会いますが、肝心のめんどりはどこ?
 めんどり一羽、蝶は二匹、たかげが三匹と新しい生き物と出会うごとにその数が増えていきそれがリズムになっています。でもそうだと、さいごにめんどりをみつけたとき、また一羽に戻ってしまうのでは? どうする?
 最後の数は10。どうする?
 そこに幸せな結末が用意されています。(ひこ)

『パセリともみの木』(ルドウィッヒ・ベーメルマンス:さく ふしみみさお:訳 あすなろ書房 1953/2007.04 1600円)
 『マドレーヌ』シリーズのベーメルマンス作品です。
 パセリが大好きで、森のみんなにパセリを食することをすすめて、パセリと呼ばれているしかの物語。
 まず、ベーメルマンスは、人間の木材となる真っ直ぐな木たちの話から始めて、真っ直ぐではないために切られず残っているもみの木へと視線を誘っていきます。これが非常に巧いです。そして、人間にねらわれる生き物たち。ベーメルマンスは動物たちの側に立って、物語を進めていきます。つまり人間には厳しい目線です。(ひこ)

『さかさのこもりこんとおおもり』(あきやまただし 教育画劇 2007.02 1000円)
 『さかさのこもりくん』の続編です。
 さかさ言葉で会話するこうもりの親子。
「あっちに いきなさい!」は「こっちにおいで」であり、「ずっとこのままでいなさい」が「はやくおおきくなりなさい」というわけで、そこに面白味が醸し出される仕掛けです。小さな子どもは、このレベルで良く笑うでしょう。というか、そうした焦点の絞り方は悪くありません。
 そのことよりおもしろいと思ったのは、それが逆さ言葉であると同時に結構親の本音言葉に聞こえる点ですね。「ずっとこのままでいなさい」が「はやくおおきくなりなさい」であると同時に、心のどこかでは「ずっとこのままでいなさい」でもあることです。(ひこ)

『ラポラポラ』(ふくだゆきひろ 草炎社 2007.03 1300円)
 アイヌ語ではなたくの意味。そんな名前の妖精が森のどこかにいる。そういう設定で、ふくだは森のそこここに住む生き物たちを切り取っていく。
 どこかにラポラポラがいると思うことで、生き物たちも表情がより活き活き見えてきます。巧い仕掛け。ドキドキ。(ひこ)

『みんなのせて』(あべ弘士 講談社 2007.04 1200円)
 今月末にJRの旭山動物園号ってのが運行されるのですが、その車体のイラストを描いているのが、もうこの人しかないあべ弘士。で、それにあわせて出たのがこの絵本です。
 何ほどのこともないといったらない絵本ですが、『えほんねぶた』の時のように、あべがとても楽しんで描いているのが伝わって来て、それはつまりは、列車や動物を大好きな子どもの喜びとにていて、幸せな気持ちにしてくれるのです。(ひこ)

『鳥のくちばし図鑑』(国松俊英:文 水谷高英:絵 岩崎書店 2007.03 1400円)
 「ちしきのぽけっと」シリーズ4巻目。
 ま、タイトル通りの絵本ですが、くちばしがテーマだからか、鳥たちに表情があって、そうすると、印象深くて、鳥の名前を覚えやすいでしょう。
 この国にいる鳥の名前はかろうじて知っていたのでほっとしました。(ひこ)

『はるにあえたよ』(原京子:文 はたこうしろう:絵 ポプラ社 2007.03 1300円)
 2匹の子グマが「はる」を探しに行きます。「はる」がなにかはよくわかっていない。あちこち訪ねて、出会ったのが緑の服に赤い靴、黄色いかごを抱えた女の子。良い匂い。これが「はる」? お菓子をもらってうれしそうに帰って行く。
 モノトーンの画面にあざやかな色合いの女の子の登場。絵本ならではの効果です。(ひこ)

『いぬかって!』(のぶみ 岩崎書店 2006.11 1300円)
 いぬを飼いたいけど、小鳥のピッピを飼っているからだめだと言われてしまうかんちゃん。だから、ピッピが死ねばと思うと、本当に死んでしまいます。自分のせいだと思うかんちゃん。
 かなりきついテーマですが、のぶみの絵の穏やかさがそれに耐えさせてくれます。
 こういうきつい事態を絵本を通して表現していこうというのぶみに一票。ただし、このラストに至るには、もう少し手続きが必要なのではないかな?(ひこ)

『ゆかいないす』(桑原伸之 あすなろ書房 2007.05 950円)
 黄色いいすの前に色々な動物がやってきて、座らせて!
 いすは、それぞれに合わせた形にヘンシン!
 いすはちいさな子どもにとって最初のクリアすべき山であり、同時に「休む」ことのできるアイテムであり、そして多くは食事の時に使うものです。その意味で、いすは大きなイメージをもつブツの一つです。
 自分の姿に合わせてくれるいすなどないのですが、いやむしろ姿勢を正すことのほうが多いのですが、それでも、こんな風に描かれると、親しみが増します。これからずっとつきあっていくのが、いすなのですから、これは良い誘いですね。(ひこ)

『にゃんのてがみ わんのてがみ』(いもとようこ 岩崎書店 2007.03 1300円)
 字を覚え始めた子ども。飼っている仲良しの犬と猫から手紙をもらって、お返事を書いて、段々字を覚えるのが好きになる。
 もちろんそれは本当に犬や猫が書いた訳ではないのですが、という辺りを考えてしまうのか、それとも、ひょっとして本当に書いたのかなと思えてしまうのかで、楽しさの中身はだいぶ変わってくるでしょう。そこは読者におまかせ。(ひこ)

『ちいさなそうじき トルトル1号』(おだしんいちろう:作 こばようこ:絵 2007.03 1200円)
 最新型そうじきのトルトル1号くん。ゴミ見つけたら自分で吸い込みに行きます。でも優秀すぎて、止まらない! ついに町中にも飛び出して、お腹いっぱい詰め込みすぎて・・・。
 楽しいお話です。考えてみりゃあ、そうじきは大変ですね。(ひこ)

『知のビジュアル百科 アステカ・マヤ・インカ文明事典』(エリザベス・バケーダーノ 日本語版監修:川成洋 あすなろ書房 1993/2007.04 2500円)
 いよいよ8期に入りました。40巻です。このままどんどん行ってください。(ひこ)

【創作】
『空からおちてきた男』ジェラルディン・マコックラン作 金原瑞人訳 佐竹美保絵 偕成社 2007年4月

 日本にも次々作品が紹介されているマコックランの連作短編集。日本では、ヤングアダルト向けのファンタジーのイメージの強いマコックランだが、本作は小学校低学年から楽しめる内容で、佐竹美保さんの絵が魅力を添えている。
 飛行機の故障で砂漠に墜落したカメラマンのフラッシュは、「原始的な」種族の幼い姉弟に助けられ「原始的な」村で暮らすことになる。持っているのは、十枚のフィルムの入ったインスタントカメラ一台だけ。
外界から隔絶された村の人々にとって、カメラはまさに魔法の道具だった。事実、初めて命の恩人の姉弟を写真にとったとき、姉弟の母親はふたりが四角い紙にとじこめられてしまったと思い、恐怖の悲鳴をあげたほどだ。しかし、ようやくカメラのなんたるかを理解した村人たちは、残りの九枚を使って村の大切なものを魔法で残すことにしようと決める。さて、村人たちとフラッシュはなにを選ぶのか?
 もちろんここで被写体に選ばれたものを明かすわけにはいかないが、笑いあり、驚きあり、涙あり、感動や畏怖の念を呼び起こすものもあり、さすがマコックランと感嘆するのはまちがいなしだ。
どうやらマコックランはどうしても物語の最後にひとひねり加えずにはいられない性質なのではと疑っているのだが、今回もその"癖"は健在だ。個人的にはたまに首をひねってしまうこともあるこの"癖"だが、今回はぴたりとはまっている。味わいのあるちょっとふしぎな話をぜひ。(三辺)

『ストーンハート』チャーリー・フレッチャー作 大嶌双恵訳 理論社 2007年4月

 ロンドンのパラレルワールドを舞台にした大型ファンタジーの登場だ。
 過去、さまざまなファンタジーでロンドンのパラレルワールドは描かれてきた。しかし、今度の「もうひとつのロンドン」は彫像たちが命を持ち、自在に町を動きまわるかつてない異世界だ。
 十二歳のジョージは家庭や学校に悩みを抱えているものの、ごく平凡な少年だった。だが、ふとしたきっかけで博物館の石の飾りのドラゴンを壊してしまったために、タイムリミット24時間の息もつかせぬ冒険に放りこまれる。
 屋根の上のガーゴイル、建物を飾る異形の神話の生き物たち、広場を見下ろす英雄や名もない兵士たち・・・ロンドンはあらゆる彫像にあふれている。しかし、普通の人間には石やブロンズにしか見えないこうした彫像が動きまわる「もうひとつのロンドン」が、ふいにジョージの前に立ちあがってきたのだ。
いったいどうすれば、元の平凡なロンドンへ戻れるのか? やがてその鍵は、ストーンハートと呼ばれるものにあることがわかってくる。ただし、ジョージに残された時間はきっかり24時間。それを過ぎれば、「過酷な道」が待っているという。ストーンハートがなにかもわからないまま、やはり「もうひとつのロンドン」が見える天涯孤独の少女イーディと、ブロンズ像の砲兵ガナーとともに、ジョージの探求の旅が始まる。

 三部作が予定されている本書は、ここ最近の長編ファンタジーのスタイルを踏襲している。彫像たちにはスピット(人間の彫像)とタイント(異形の生き物たちの彫像)がいること、それぞれに明確な性格づけがなされていることなど、第二世界が一定のルールのもと構築されている点や、ロンドンに実際にある彫像が動きまわるパラレルワールドという着想の新奇さ、謎が謎を呼ぶ展開、個性的かつ印象的なキャラクター(本作の場合は、がさつで荒っぽいが実は「たよれる兄貴」風のガナーがその代表だろう)など、物語を面白くする条件に事欠かない。
事実、キャッチフレーズ通り、読みだしたら「もう眠れない」。その一番の原動力となっているのは、本書の場合アクションだろう。大都会の真ん中で展開する、ドラマ「24」を髣髴させる設定は、派手なアクションを呼びこみ、竜や魔法の登場するファンタジーとは一味ちがう雰囲気を創りだしている。
***
 トールキンの『指輪物語』に端を発したファンタジーブームを第一次ファンタジーブームとすれば、エンデのときが第二次、そして『ハリー・ポッター』シリーズに始まった今のブームは第三次ファンタジーブームと言える。次々謎を提示したり、登場人物の友情や恋愛に焦点をあてるなど、読みやすい作品が増え、読者はどんどん厚い本にも手を伸ばした。そして、いわゆる「王道」のファンタジーが一種の飽和状態に達した後、今度はさまざまな「支流」が生まれてきたように思う。ミステリー要素を強調したもの、ホラー要素の強いもの、SF風ファンタジーや、キャラクター小説風、『ストーンハート』のようなアクション型。それぞれの流れがどこに行きつくのかわからないけれど、袋小路に迷い込み、本流にあった味や香りが抜け落ちてしまうのは残念な気がする。一方で、そうした支流から新たな本流が生まれるかもしれない。映画やゲームによる映像化の影響も見逃せない。ファンタジーの今後を見守りたい。(三辺)

『ルーンの魔法のことば』(ブライアン・フラウド:絵 アリ・バーク:文 神戸万知:訳 原書房 2003/2007.03 2400円)
 創作ではなく資料に分けた方がよいのかもしれませんが、ルーン文字を巡ってその知識と情報と想像力が自由に駆使されて、文字の持つ文化の高さ、いや深さが伝えられていくのでここでご紹介。好きな人は、ばっちりはまれます。(ひこ)

『シドニーの選択』(マイケル・ド・ガスマン:作 来住道子:訳 草炎社 2002/2007.03 1300円)
 両親が離婚し、再婚した母親と暮らしているシドニーですが、義父ともうまくいかず、彼の暴力にも我慢している母親にもうんざりし、かといって実父は頼りないことこの上なし。
 両親に失望しているシドニーはロスの実父のところからの帰り、一人ニューヨークを目指すことに。500キロの旅。別に当てがあるわけでも目的があるわけでもなく、ただ、今の状況から逃れるためです。
 物語は、バスでの旅路を描きます。果たしてシドニーの帰る場所はあるのか。
 親が親として機能していない家族の風景です。(ひこ)

『サリーおばさんとの一週間』(ポリー・ホーヴァス:作 北條文緒:訳 偕成社 1999/2007.04 1400円)
 両親が留守の間、子どもたちは父親の姉であるサリーおばさんが面倒を見ることに。しかし、何故か父親はこの姉と近づきたくないよう。どうして?
 やってきたおばさんは、子どもたちにとってとても魅力的。一家の前の世代の本当か嘘か判らないおもしろい話で夢中にさせてくれる。
 この物語は、サリーおばさんの語る話のおもしろさによって読ませてくれるのですが、そこにあるのは、ただただ楽しいってものではなく、痛みも伴っています。その辺りにサリーおばさんと父親の間にあるぎくしゃくしたものも隠されています。つまり、人生の真実のようなものがかいま見えてくる。そうしたことも子ども(ここではアンダンソン一家の3姉弟であり、そして読者)へと伝えていこうとする作者の誠実さが好きです。ただ、物語構造と名前がややこしいので、読み慣れていない子どもには辛いかな。(ひこ)

『マルガリータとかいぞく船』(工藤ノリコ あかね書房 2006.12 1200円)
 マルガリータの海辺のレストラン。かいぞくがやってき大切な厨房機器を奪ってしまう。
 それじゃあ困るので、海賊を追って行きますが、一度奪ったものはかいぞくのおきてで返せないとのことで、海賊船に同乗することに。
 ちょっととぼけたかいぞくたちとの、ちょっと変なぼうけん物語。シリーズ化できるかな。
 幼年童話の場合、文と画のバランスが難しいのですが、こちらはほどよく。
 カラーとモノクロの絵が交互に出てきますが、これがリズムとなっています。(ひこ)

『14歳。焼身自殺日記』(ブレント・ラニアン:著 小川美紀:訳 小学館)
 自傷行為を繰り返していた著者は14歳の時、学校でのトラブルを引き金に、焼身自殺を図る。この本は当時の様々な思いを語ったノンフィクション。全身の85%にやけどを負い、その治療過程も綿密に綴られているから、読んでいてかなり痛い。でもその痛さ以上に伝わってくるのは、彼がしだい心を開いていく様子の暖かさだ。
 「感情は徹底的に詰め込める。そして詰め込んだら、その感情について心配する必要はもうない」。そう思っていた彼は、家族とのコミュニケーションもあまりうまくできていなかった。ところが、ベッドに身を横たえ、あるがままの自分をさらすしかない入院生活の中で、感情をはき出す勇気をしだいに得ていく。自宅に戻ったブレントは、湯気で曇ったバスルームの鏡に指でこう書く。「おふくろ、親父、大好きだ」。こんなこと、なかなか書けないよね。
 最後にブレントはこう思う。「人生ってのはいいもんだ」。
 うん、そうだよ。(ひこ 読売新聞 2007.03)

『チューリップ・タッチ』(アン・ファイン作 灰島かり訳 評論社 1500円)
 引っ越し先でナタリーは、中学生の新しい友達を見つけます。名前はチューリップ。友達ができることはとてもうれしいこと。でもチューリップは、誰にでもわかる嘘を平気でつきます。だから、学校に友達はいません。ナタリーは、チューリップの家に行ってみて「まるで別人のようだった。まるで本人はどこかに抜け出してしまって、代わりに、びくびくした奇妙な抜け殻のようなものがいるみたい」だと思います。チューリップは父親から精神的にも肉体的にも暴力を受けていたのです。「おまえの毛をひっつかんで、丸ハゲになるまで、ぶんまわしてやるからな」。そう言ってチューリップを追いつめるのが、父親のやり方です。チューリップがよく嘘をつくのは、こうした現実から逃れるためなのでしょう。そして、口に出してしまえば、それが本当のことになると思っているかのように、嘘を信じこむことで、現実の方を嘘にしてしまいたいかのように。
 チューリップは残酷なことも、人を傷つけるようなことも平気でします。そういうコミュニケーションの仕方しか学んでこなかったからです。相手を支配したり、うろたえる顔を見たりすることでやっと、自分の存在を確かめられるのでしょう。
 大人たちはチューリップが置かれているこうした状況をに薄々気付いています。ナタリーの父親は、「きみはチューリップの家には行ってはいけない」と言います。しかし、だからといって、チューリップを排除したり、彼女のために何かをしようとはしません。排除するのは良心がとがめるし、かといって彼女をその環境から救い出すのは大変だからです。
 ナタリーとチューリップが友達になったのは、ナタリーがチューリップにとって御しやすい相手だからですが、ナタリーがチューリップを必要としていたせいでもあります。ナタリーは、母親の関心が弟にばかりあるのを知っています。自分は良い子でいさえすればいいのです。どんな風に思っているか、感じているかは関係なく、良い子であることだけを求められる子ども。ナタリーもある意味で、チューリップと同じく捨てられた存在なのです。それに反発することもできないナタリーにとって、チューリップは自身の影のような存在です。つまり、お互いがお互いを必要としていたと言えるでしょう。
 もちろんそれは、生産的な関係ではありません。ナタリーはなんとかそこから抜け出そうとします。「あたしが思い出したこと、それは、あたし自身の力であり、自分で自分のことを決めるという感覚だった」。とはいえ、その泥沼のような関係の中から、チューリップも一緒に助け出すことはできません。ナタリーは自身を救うことで精一杯なのです。
 ナタリーの周りの大人たちは、チューリップが抱えている問題を、同じ子どもだからなんとかできるだろうとでもいうように、ナタリーに押しつけていますが、本当は大人の助けが必要なのです。
 ナタリーはチューリップを忘れないでしょう。あなたも忘れないで! 作者はそう呼びかけているようです。(ひこ 徳間書店 2007.03)