【絵本】
『チャンスがあれば…―ストリートチルドレンの夢 』(チャンスの会:訳 岩崎書店 2007.05 1995円)
 アジア開発銀行が「チャンスがあれば…」というテーマで行ったストリートチルドレン・アートコンテスト応募作品の絵画と彼らのメーセージが収められています。
 子どもの絵は、上手い下手とはかかわりなく(上手い下手はあります)、気持やメッセージがこぼれ落ちてくることが多いので、その正直さや、正直な屈折の前で、襟を正しながらほほえんでしまうものですが、この本にはそんな場面が溢れています。
 これだけたくさんの、これだけ様々な夢と向き合っていると、めまいがしそうですよ。
 後半には、日本の読者向けに、各国と日本の現状比較がわかりやすくなされています。(ひこ)

『ウェン王子とトラ』(チェン・ジャンホン:作・絵 平岡敦:訳 徳間書店 2005/2007.06 1900円)
 王子を育てた雌トラの物語。まるで神話のような力強く安定した物語運びと、美しい水墨画的画面。
 すごい作家がまだまだいるものです。
 一度読めば忘れられなくなる作品ですよこれは。(ひこ)

『ぼくのこともわすれないでよ』(シャーロット・ミドルトン:作 三辺律子:訳 ほるぷ出版 2002/2007.06 1400円)
 イヌのダドリーは、アンナと仲良し。いつも一緒にいるのが幸せ。でも、カメレオンのペキートがやってきて、みんなの興味はペキートに移ってしまいます。
 この辺りのさみしさ、イヌ好きの人ならダドリーの気持になって切ないかな。
 弟や妹ができた子どもの気持とも一緒。
 でも、もちろん最後は大丈夫。アンナの膝に乗っかる幸せ。
 もちろん、膝に乗せるアンナも幸せ。(ひこ)

『なにしてるの、サム?』(メアリー=ルイーズ・ゲイ:作 江國香織:訳 光村教育図書 2006/2007.06 1400円)
 お〜、ステラとサムが久しぶりの登場だあ。
 今回サムくんは、愛犬のフレッドをお風呂に入れたり、一緒に隠れん坊をしたりするのですが、そこにステラが色々ちゃちゃを入れます。
 いい姉弟コンビの呼吸がぴったりあって、なんとも仲良く、だから、仲良いことはどれだけ心地がいいもんだかが、本当に巧く伝わってきて、幸せ気分になれるのですよ。
 弟の姉って、ジェンダーバイアスがかかってしまうと、抑圧されたきつい姉役割を演じなければならないのですが、もちろん、んなことはないステラ。
本当にいいお姉ちゃんになったなあ。(ひこ)

『モーツァルトくん、あ・そ・ぼ』(ピーター・シス:作・絵 きむらみか:訳 徳間書店 2006/2007.06 1500円)
 なにやら怪しげな目線のモーツァルトくん。シスですねえ。
 ここには、モーツァルトくんが、いかに音楽を大好きかが、いかにもシスらしい奔放な画面構成で、どんどん描かれていきます。
 モーツァルトではなく、ちゃんとモーツァルトくんになってるのがシスだなあ。(ひこ)

『ディック・ウイッティントンとねこ』(マーシャ・ブラウン まつおかきょうこ:訳 アリス館 1950/2007.06 1300円)
 イギリスの昔話絵本です。
 いや〜、マーシャ・ブラウンの絵がよいですよ。そんなに主張することなく、昔話によりそって、でも、マーシャ・ブラウンの絵なんですよ。当たり前のこと言ってますね。すみません。(ひこ)

『しんかんくん うちにくる』(のぶみ あかね書房 2007.06 1300円)
 新幹線のしんかんくんはかんたろうくんが大好きなのね。それは、かんたろうくんが休みの日にいつも会いに来てくれるから。
 で、地場楽来なくなった。会いたくて会いたくて、しんかんくんはかんたろうくんの家に行こうとするけれど、なにしろ新幹線なもんだから移動もままならず・・・。
 ものすごい発想ですが、それをものすごいと感じさせず、かんたろうくんを想うしんかんくんを愛おしく感じさせるのぶみの絵と筋運びを楽しみます。(ひこ)

『まちのコウモリ』(中川雄三:写真・文 ポプラ社 2007.05 1200円)
 そうか、町中にいるあのコウモリは、アブラコウモリっていうんだ。
 懐かしいです。子どもの頃、長屋のゴミ箱の隙間とか、良くいました。夕方、空に一杯飛んでました。手のひらにのせたこともあります。結構かわいかったです。
 もちろん、今も飛んでます。近所の心斎橋の橋の辺りにもいますいます。
 でも、こんなの丁寧にアブラコウモリを見たことはありませんでした。
 ちょっとだけ、子どもに戻れました。
 中川さん、ありがとうございます。(ひこ)

『どこにいるの シャクトリムシ』(新開孝:写真・文 ポプラ社 2007.06 1200円)
 新開さんの昆虫物は、本当にいいなあ。
 昆虫に表情があるんだよね。
 どっちかっていうと昆虫が苦手な私も、新開さんの写真の中にいる昆虫はかわいい。
 この写真絵本だと、4〜5ページで、シャクトリミシが伸びたり縮んだりする様を、小さな画面を並べて、まるでコマ落としの映画みたいに見せてくれる。
 枝と間違えて、ダンゴムシが背中を通過する連続写真なんかもう最高です。
 『まちのコウモリ』もそうなんですが、小さな子どもが食い入るように眺める写真絵本ですよこれは。
 って、私が、そんな感じで眺めているんですが・・・。(ひこ)

『アパトサウルス』(小田隆 ポプラ社 200.6 1500円)
 かみなり竜の生活を描いた科学絵本です。
 その誕生から成獣となるまでを、物語化することなく、丁寧に描いています。最後の方に、そこまで描かれてきた画を小さなコマにして、解説を加えるやり方も、わかりやすくていいです。
 なにより、Gとは別の肌触りをお楽しみくださいな。(ひこ)

『いろいろたまご』『いろいろごはん』(山岡ひかる くもん出版 2007.07 800円)
 たまごの色々な調理、ごはんの色々な食べ方を貼り絵を使って描いています。
 リズム感溢れる、シンプルな言葉によって、つぎつぎと顔を変えていくたまごとごはんです。小さい子にとっては、そりゃあ楽しいでしょう。
 たまごかけごはんの絵が最高です。(ひこ)

『こねずみチッチの ひとりでおつかい』(末崎茂樹:作・絵 フレーベル館 2007.05 1000円)
 タイトル通りに言いますと、こねずみのチッチが一人で初めてのお使いをします。
 でね、ず〜っと野道を歩いていくのですが、それがず〜っとページが繋がっていて、なが〜いなが〜いページとなって、やっとこさたどり着くわけです。これがすごく楽しい。
 ただそれだけなのですが、道の長さが、チッチの心細さでもあるわけで、そこを読者は一緒に歩むわけで、それがなんだか、チッチがんばれって気持になって、良いのです。(ひこ)

『カメレオンはいく』(本信公久:さく・え くもん出版 2007.05 1200円)
 森、花畑、砂漠、雪、様々な場面をカメレオンが通り過ぎる。当然色を変えていく。
 ただそれだけの設定から生じる面白さは、やはりグラフィックならでは。
 ページを繰るごとに変わっていく色をながめていると、それは私たちが共有しているカメレオン的特性そのもので、あ、変わった、と楽しいのですが、最後のページに至って、めまいのような鮮やかさに、気持がわあ〜っとはじけるのです。(ひこ)

『ほーらね できたよ』(片山令子:作 はたこうしろう:絵 主婦の友社 2007.03 900円)
 「はじめてのブックシリーズ」、赤ちゃん絵本です。主人公は子グマ。
 タイトル通りの内容なのですが、本人は一生懸命やって、できたつもりでも、ちょっとできてなくて、でも本人は幸せで、だから親も幸せでって感じが良く出ています。
 はたの絵も、あんましかわいく描こうとしていないので、身近です。
 ジェンダーも気遣って描いています。(ひこ)

『パブロのてんらんかい』(きたむらさとし 小峰書店 2005/2007.05 1400円)
 アートクラブの展覧会。ゾウのパブロはなかなかいい絵が描けません。悩んでます。きれいな景色を見て、描き始めたのは良いのですが、眠ってしまいます。 次々動物がやってきて、絵に書き入れていきます。いい絵になったかな?
 起き出したパブロ、勢いよく描き始めます。
 オチが決まってます。(ひこ)

『うみのポストくん』(山下明生:文 村上康成:絵 教育画劇)
 ダイバー用に、実際に海の中にポストがあるのは知りませんでした。
 そこから作者は物語を広げていきます。赤いポストはタコの子どもの安全な隠れ家になり、でも、扉が開かなくなり、さあそれを海のみんながどう開けるのか・・・。
 物語は無理なく進んでいきます。
 海の物語は山下明生、絵は村上康成、うん、これは決まりでしょう。(ひこ)

『給食番長』(よしながこうたく 長崎出版 2007.06 1500円)
 なかなか給食を食べない子どもたち。給食番長がリードして、そうなってしまっているのだ。
 なげいた給食の「あばちゃん」たちは、ストを決行!
 給食が出ない!
 さあどうする、給食番長!
 濃い濃い濃いイラストで、給食を巡る大戦争が活きよく描かれています。
 ラストがちょっと、浪花節なのが残念。もっとはじけても良かった。(ひこ)

------------------------------------------------------------------
2007.6 児童文学書評 えほん
◎おさるとあそび、子どものあそび
『おさるのかくれんぼ』いとうひろし (2007.4 講談社)
『おさるのおいかけっこ』(2007.6)
『おさるのまねっこ』(2007.7)

幼年童話で人気のおさるシリーズの絵本。くまの子ウ−フやてんぐちゃんなど、童話としてかかれたものが(オールカラーでボリュームのある挿し絵の)絵本の形になって登場することはこれまでもあったけれど、童話の雰囲気を壊さず、けれども絵本と言う形式でないと表現できないものを形にしたのは、みたことがない。絵も文も手掛ける作家ならではのお仕事。
舞台は南の小さな島。おさるはいつものようにみんなで遊んでいます。はじまりは「ぼくは おさるです。みなみのしまに すんでいます。」と童話と同じで、イラストが横長のカラーになってにぎやかになったなあと思って、ページをめくっていくと、すっきりシンプルな画面になり、あそびが展開されます。『かくれんぼ』は鬼になって、みんなが隠れてしまい、ちょっぴり怖いような気持ちになるところがメインの場面。目をかくして鬼になった場面、ぱあっと目をあけた時のだれもいないようにみえる森、小さな後ろ姿、ちょっと困ったような顔をしている鬼のおさると、木のかげに隠れてニコニコしているみんなの姿、鬼が一歩踏み出した小さな後ろ姿、ちょこっと顔を出すみんな……。ページをめくるごとに、鬼、みんな、鬼と視点が変わり、かくれんぼのスリリングさを双方の視点でえがいて、どちらのドキドキも味あわせてくれます。今まで、かくれんぼをモチーフにすると、鬼か隠れる方かどちらかに視点をおいた書き方になり、あそびそのものというよりも、描かれる子どもの心象にそってドキドキする、という本が多かったような気がします。本作では、ページをめくる動作で自然と視点の切り替えができる絵本と言う形式だからこそ、ああ、かくれんぼって、こんなあそびだったんだ、とあそびそのものの持つダイナミズムをシンプルに感じることが出来たのだと思う。すこうし暗い森という大きな胎内でかくれんぼするおさるたちは、これから生まれてくるような赤ちゃんのような顔で「みつかっちゃった」と出てきて、またいつもの森でいつものように遊ぶのがうれしい。
『おいかけっこ』はただおさるたちがめのまえのおさるに追いつこうと走るだけのお話。追いかけている自分が追いかけられている自分になってしまう。
この双方性が眼目。自他がなくなってしまうような不思議な平安さは「おさる」シリーズの特徴の一つだが、この絵本では、それが動きによって興奮となり、ぼっこーんと解放される様が描かれることで、おいかけっこのエクスタシーが完結する。狂ったように笑いながら追いかけっこしていた幼い子どもの姿を思い出す。そのハアハアいう息と近づいてくる足音、捕まった時の身体の痛み……。絵本の中ではおさるがいつものような笑顔でとことこ走っているだけなのだけれど、えんえんと走るみんなを見ているうちに、自分の身体が覚えていた感覚がうずうずと出てくる。出てくる。それもぽっこーんと解消されるのだけれど。あまりに単純なお話をシンプルなまま、それでいて身体感覚まで思いおこさせるように描いているのがおもしろい。
『まねっこ』は、おさるたちがカエルやカニやタコのまねっこをして、ありゃりゃ、こんな姿になってしまうなんて、といちいち指差して笑ってしまうような絵がてんこもり。動物のまねっこ遊びはよくするけれど、木や山や石にまでなりきっているおさるもいて笑えます。みんながまねっこ遊びをしているといつまでたっても終らないので、「さいごは おさるはおさるのまねっこ。」「おかあさんはおかあさんおさる」「おじいちゃんはおじいちゃんおさる」「ともだちはともだちおさる」「ぼくがぼくにもどるころまねっこあそびもおわります。」と収束するのがちょっと不思議な感じ。ぼくっていうのも、おかあさんていうのも取り替え可能なまねっこの型のような……。いまのところ、おかあさんおさるなのよね、別の場面では違ってたりして、という自在な空気が感じられるのが、「おさる」シリーズ他、いとうひろしの作品らしいところ。まねっこするというのは、形をまねようとすることで、心まで添わせてなったつもりになる、共感していくということでしょう。形に共鳴して想像していくことは、幼い子どもには親しみやすい心の動き。何にでもなれて、いつでも戻ってこられる自分を存分に楽しむ、このおさるたちは幼い子どもそのものです。このおさる絵本が遊びをテーマにして描かれたことは必然であり、遊びの自在さにこそ子どもの存在があるのだと伝えてくれるような気がします。子どもが子どものままでいられない、子ども時間を楽しませてもらえない時代になっているからこそ、あこがれではなく、現在のものとしてこの絵本たちが読まれてほしいなと思います。夏休みの旅行もお出かけも、お家での工作もお料理も、なんでも評価の対象となり、経験値としてみなされてしまう子どもと親。ただただ没入する時間がある、それこそが子ども時間だということを感じてほしいな。(ほそえ)

◎その他の絵本

『まだですか?』柳生まち子 (2007.5 福音館書店)
ちいさなまおちゃんに鳥さんが教えます。うさぎのおばさんちにも、おさるさんちにも、ぶたさんちにも、もうすぐいいことあるんだって。まおちゃんはいいことってまだですか?とみんなのお家に尋ねに行きます。その繰り返しのあいだに変化する絵をよみとって、やっぱりー!がうれしい絵本。(ほそえ)

『がたごとばんたん』パット・ハッチンス作絵 いつじあけみ訳(2007/2007.4 福音館書店)
たわわに実った表紙から楽しい感じ。みかえしにも野菜がいっぱい。おじいちゃんのておしぐるまにのって畑をがたごとばんたんと進んでいって、じゃがいもやたまねぎ、いんげん、トマト、きゅうり……と収穫します。どの野菜も地面の下の根っこまでしっかり描かれているのがおもしろい。表4のそでには絵本に描かれている野菜やハーブ、果実など食べられる植物の名前とイラストがピックアップされています。ページをくって、どこに描かれていたのか確かめるのが楽しい。(ほそえ)

『ブレーメンの音楽隊』グリム兄弟原作 リスベート・ツヴェルガー絵 池田香代子訳 (2006/2007.5BL出版)
静ひつですこしものがなしいブレーメンの物語り。この童話が絵本化されると、動物たちの姿と声に、どろぼうたちがあわてふためき、部屋の中がしっちゃかめっちゃかになるシーンが山場になることが多いのだが、本書では、部屋の中など描きもせず、どろぼうたちは目や胸や耳を押さえてこそこそ逃げていくのだ。長く勤め上げた動物たちの老いと生真面目さ、その後の静かな生活に画家の目が注がれているのを感じる。この童話の今まで感じたことのなかった一面をみせてもらった。(ほそえ)

『あれこれたまご』とりやまみゆき文 中の滋絵 (2004/2007.5 福音館書店)
かがくのとも傑作集。大阪弁ではなすたまごたち、お料理上手な人に買われて、いろんなものに変身します。ホットケーキ、卵ス−プ、てんぷらのころも、オムレツにマヨネーズ、ちゃわんむし、きんしたまご……見開きで簡単な作り方を絵と卵の台詞で説明しているのが楽しい。(ほそえ)

『よじはんよじはん』ユン ソクチュン文 イ ヨンギョン絵 かみやにじ訳(1940,2004/2007.5 福音館書店)
まだふつうのお家に時計がなかった頃、1940年に書かれた詩に現代の絵本作家が絵をつけました。だいたい60年代のころをイメージして描いたと言います。小さな女の子がお母さんに、近所のお店にいって、今何時か聞いてきて、とたのみます。4時半だよと教えてもらい、帰るのですが、みちみち小さなアリやとんぼや鼻と遊んでしまい、家についたのはとっぷり日がくれてから。お母さんにとくいそうにいま、四時半だってと伝えるのだけれど……。たぶん、細く小さな明朝体で打たれた、<あっ>や<んっ>という女の子の息遣いは、訳者のかき加えた音。詩ですから、文章を大きく変えるわけにはいかないということから、このような表記になったのでしょう。なくても十分わかるかとも思いますが。幼い子どもの低い目線の豊かな時間をふんわりと描いている絵がとてもいい。(ほそえ)

『『しろいはうさぎ』クォン ユンドク文絵 チョン ミヘ訳 (2003/2007.5福音館書店)
済州島の人びとに歌いつがれてきたわらべ唄をもとに作られた絵本。描かれる黒い石を積み上げた塀や家の様子など唄の生まれた場所をきちんと描いているそうです。日本でもしろいはうさぎ、うさぎははねる、はねるはボール……とつづいていく唄がありますが、この絵本もそうです。うさぎが飛んで、飛ぶのはからす、からすはくろい、くろいはいわやま……と続いていくのですが、ラストがふかいは母さんの心、というのがこの島の歴史を感じさせます。この唄を絵とともに読みといた訳者あとがきを読むことで、この唄の心がよりせまってきます。(ほそえ)

『おかしのくにのうさこちゃん』ディック・ブルーナ文絵 松岡享子訳 (2005/2007.4 福音館書店)
『うさこちゃんとふえ』ディック・ブルーナ文絵 松岡享子訳 (2005/2007.4 福音館書店)
うさこちゃんシリーズ最新刊。『おかしのくに』ではいろんなおかしをたべるのだけれど、ラストはちゃんとおしょくじをしなくちゃいけないわ、と自分で納得する造りになっているのが、自立したうさこちゃんらしくてすてき。
『ふえ』はおじいちゃんがうさこちゃんのために木の枝をくり抜いて作ってくれたふえのおはなし。お母さんの口笛ふいている絵が今までにない表情でびっくり。頂いた思いを、ふえの音でおじいちゃんに返すのがいい。(ほそえ)

『つみき』中川ひろたか文 平田利之絵 (2007.4 金の星社)
絵本を縦にしてページをめくるとちょっと楽しくなります。そんなふうに、あらっとひきつけるのが上手な作家と広告イラストレーションで活躍するイラストレーターが組んだ絵本。つみきをただ、つんでいくのだけれど、いろんな手で積まれていきます。10まで積んでやったーとおもったら、ゆらゆらがっしゃ〜ん。ラストのシーンではあれれ?と思うことでしょう。また、ひとつ、とつみはじめて、エンドレスで楽しめる絵本。(ほそえ)

『せとうちたいこさん わらべうたうたいタイ』長野ヒデ子作 (2007.5 童心社)
わらべうたてんこもりの絵本。たいこさんとたこのたこえさんが、たまにはおんせんにいきましょうとでかけると、いろんなものに出会って、その度にわらべうたを歌いながら歩いていくのです。しっているうたもあり、しらないうたもあり。でも、しらなくったって、調子よく読んでいけば良いのではないかな。巻末に楽譜も載っているので、知らないうたも歌えるようになります。(ほそえ)

『オークとなかまたち』リチャード・メいビー文 クレア・ロバーツ絵 野の水生訳 (1983/2007.5 講談社)
西洋かしの木の一生を丹念につづり、端正なイラストで木に集う生き物たちも描いている絵本。ネイチャー系の絵本には良くあるテーマなのだが、絵本といっても文章量がかなり多い。一年目の背は40センチほど、五年目には人の背丈をこえていて、49年目の秋、初めてどんぐりをつけた……と、300年近い木の一生を丁寧に紹介している。一本の木を取りまく生き物の多様性が木の一生を豊かにいろどる。(ほそえ)

『ちびっこきかんしゃだいじょうぶ』ワッティー・パイパー文 ローレン・ロング絵 ふしみみさを訳(1930、2005/2007.4)
1930年に刊行されてからずうーと読みつがれている絵本のイラストを現代の絵本作家が描き直して刊行されたのがこの絵本。子どもたちのおもちゃなどを乗せて走っていた機関車が故障してしまう。かわりに山を越えたむこうの町まで貨車を引っぱってくれないかといろんな機関車に頼むのだが、ことわられ、やっと小さなちびっこ機関車だけが話を聞いてくれた……。繰り返しの妙と小さなもののがんばりが、長く読みつがれてきた理由かしら。昔の版はゴールデンブックスでまだ出ていたと思う。ロングの絵はおもちゃの国のあこがれの空気をよくとらえていると思う。機関車に表情をつけているのも今風。(ほそえ)

『しおだまりの一日』松久保晃作 文、写真(2007.5 小峰書店)
潮が引いて岩のくぼみなどに海水が残ってできるしおだまりで見られる生き物を写真で紹介。図鑑と違うところは、夜のしおだまりでの生き物の様子を写した写真があるところだろう。日中と夜ではこんなにも出会う生き物がちがうのかと初めて知った。小さな稚魚、小さな魚、イソギンチャクや貝、うに、えびなど時間をかけて、何度も取材されて写された生き物たちが丁寧に紹介される。潮がひき、また満ちてくる時間の過程をきちんと伝えるには写真だけではむずかしく、そこのところを上手く文章で補っている。巻末にはしおだまりを研究しようと題して、潮時表やしおだまりでの注意、準備などが紹介されている。護岸整備によってしおだまりが失われていることもきちんと指摘している。(ほそえ)

『パブロのてんらんかい』きたむらさとし(2005/2007.5 小峰書店)
象のパブロは展覧会に絵を出すのが夢。町のアートクラブで友だちと一緒に絵を描いているのだけれど、これだ!と思うものがかけないのです。スランプかしら? みんなはどこか田舎に出かけて風景でも描いておいでよとすすめます。パプロは出かけていったのですが……。夢の中でこれから描く絵があらわれるというのは、美術家のお話によく出てくるような。目で見たままでなく、感じたまま、心が見たものを描くということが、しっくりする時もあるのだなあ。(ほそえ)

『どうぐはなくても』V.ビアンキ原作 田中友子文 N.チャルーシナ絵(1952/2007.4 福音館書店)
ビアンキの物語を絵本化したものか。訳ではなく文となっているところを見ると、筋と文章の調子をビアンキのものから受け継ぎ、絵に即した形になおしたものか。家を作るには、のこぎり、鉋などの道具が必要、と人間の作る家の絵の下で説明をして、でも道具を使わないでたてられた家もあります。どんないえでしょう、と誘い込む巧みさはビアンキならでは。鳥達が巣を作る時、何を材料にどんな巣を作ったか、といくつもの例を挙げて見せていきます。チャルーシナのしっかりとした、でも動きのある鳥の絵とまわりの木々や風景のやわらかな組み合わせが素敵。(ほそえ)

『ぼくとパパ』セルジュ・ブロック作 金原瑞人訳 (1998/2007.5 講談社)
昨年翻訳された『まってる。』という印象深い絵本を手がけた画家のオリジナル。うちで仕事をしている(たぶん本人ね)パパとパパが大好きなぼくの毎日を紹介している。フランスのイラストレーターらしい軽くてユーモラスな絵。ちょっと太めのパパがぼくと一緒に楽しそうにあそんだり、ときにはおこったり。お話らしいお話もなく、なんてことない展開なのだが、幸せそう。(ほそえ)

『ちいさなこまいぬ』キム・シオン作 長田弘訳 (2005/2007.5 コンセル)
中国の作家の絵本。村の入り口のところにおいてある石の置き物。日本の神社にいるこま犬ににて、珠を前足で押さえている姿。この石像が村の移り変わりをじっと見て、静かに語っている。最初の方のページに、私の他にこの村を守るこま犬はいないと、画面いっぱいに目を見開いた絵のあとに、私はネコよりも小さいけれど……とすとんとおとす展開もチャーミング。微妙に表情があるこま犬の絵やシンプルで趣のあるテキスト(詩)がいい。(ほそえ)

『パコ』森山京作 広瀬弦絵 (2007.5 ポプラ社)
小学校二年生のヒロは小さな時から一緒だった象のぬいぐるみパコと、お父さんに会いに出かけます。赤ちゃんの頃、お父さんと別れたきり一度も会っていなかったヒロ。お父さんが急病になり、遠くの病院まで会いにいくことになりました。そこで、パコがお父さんからの別れのプレゼントだったことを知ります。1ヶ月後のお父さんの死。大きくなるヒロ。なかなかパコと話すような生活ではなくなります……。淡々と物語られるパコとヒロの日常。
それを彩るようにカラーのイラストが入り、静かなトーンの物語にくさびをうちます。パコが去っていく夢のあと、パコが仲立ちとなるボーイ・ミーツ・ガールのシーンがこれからをひろげてゆきます。絵本の形をしていますが、上質な掌編小説を読んだ感じ。(ほそえ)

『ぼく、あめふりお』大森裕子 (2007.6 教育画劇)
てるてるぼうずなのに、あめをふらせてしまう、あめふりお。いっしょにいたてるてるぼうずにも、雨になるのはおまえのせいだぞーなんて言われて、ひとりでかけます。お日さまを見てみたいなあって思いながら。雨の中、とぼとぼ歩いていると、公園で黄色いレインコートを着て、赤い傘を持った女の子に会った。一緒に遊ぼうって雨の中、きれいなクモの巣を見たり、水たまりに浮かんだり……。お家に帰ってお部屋の中でも一緒に遊び、小さな葵かさと黄色い長靴ももらいました。でもね、明日は晴になってほしいんだって。だからぼくは、でかけるの。ぼくだけのお日さまを胸にね。なんともハンサムなあめふりおくん。この男気がなかせるねえ。(ほそえ)

『まちのコウモリ』中川雄三 写真、文 (2007.5 ポプラ社)
町中をひらりひらりと飛ぶ黒い小さな影。それがコウモリだと知る人はそんなにはいないのでしょう。だから、この絵本はきっとみんなびっくりすると思う。図鑑でしかお目にかかれないと思っているような生き物が身近にしっかり暮らしているのだもの。ネオンの町にも田んぼの夜にもコウモリはいて、人の家の戸袋だとか学校の壁のすきまだとかに住んで、赤ちゃんまで育てていたりする。身近な風景の中で営まれる暮しぶりをしっかり写真で押さえているところがこの絵本の魅力。(ほそえ)

『恐竜研究所へようこそ』林原自然科学博物館著 (2007.5 童心社)
恐竜本と言うと、いろんな恐竜の種類を説明する図鑑的なものを思い浮かべるが、本書は実際の恐竜発掘の現場、化石がどのように博物館にやってきて展示されるのかまでを、写真や専門的な道具や薬品などを具体的に見せながら紹介している。臨場感のあるデザインで、じっさいに活動している様子などワクワクした気持ちで読める。恐竜に関わる仕事を説明するページでは研究者のみならず、化石を扱う技術者であるプレパレーターの仕事や、復元画やCGで恐竜の姿をあらわす仕事など、視野を広げて恐竜と関わるということを示しているのがおもしろかった。72pといううすさながら、切り口も様々でユニークな博物館本。よくできている。(ほそえ)

『ふしぎのたね』ケビン・ヘンクス文 アニタ・ローベル絵 伊藤比呂美訳 (2005/2007.5 福音館書店)
So Happy!と終るラストシーン。扉の前に馬で出かけたお父さんが戻ってきている。雨が振り不思議な種から花が咲くまでどれくらいかかっているのだろう。アニタが圧倒的な迫力で描くメキシカンな母子と風景が強く印象に残る。たね、おとこのこ、ウサギのそれぞれがどのように過ごしているのか。それぞれのお話がページの中でコマとして並列に語られ、ポンと結びつく。それが鮮やか。(ほそえ)

『雨がふったら、どこへいく?』ゲルダ・ミューラー作 いとうなおこ訳 (2002/2007.5 評論社)
マンションのお家から小川のそばのおばあちゃんの家に遊びにいくふたごといとこのお兄さん。農場で動物を眺め、ぬまであそんでいたら、雨がふってきました。雨がふったら、生き物たちはどうするか? 葉の影に隠れる虫、ぬれてもいやがらないブタや牛……。細かなイラストと適当な分量のテキストとで、雨の中それぞれに楽しみ、知り得たことを描いている。巻末にはどうして雨がふるのか、コバエを食べる鳥のいろいろなど知識を得るページも。あまりお勉強っぽくなく、雨の中歩くっておもしろいねえ、という感じで読みたい。(ほそえ)

『ねこのことわざえほん』高橋和枝(2007.6 ハッピーオウル社)
ことわざをパロディした本はたくさんあるけれど、本書は人の場合のことわざにネコの場合のパロディを対応させ、なおかつネコのしぐさや暮しなどのまめ知識がつくように出来ていて、しかもネコをかっているももこちゃん家の一日の様子がほんのりわかって、にっこりしてしまう、という4つの中身がうま〜く混ざって楽しい本になっているのがおもしろい。このバランス、デザインの妙は手に取らないとわかってもらえないかも。人の場合「目は口ほどにものをいう」がネコの場合は「尾は口ほどにものをいう」となっていて、おっぽがいかに、ネコの気持ちを表してくれるかということをイラストでも紹介してくれるのだ。飼い猫との長い時間が形になった本なのだろうなあ。(ほそえ)

『里山の一日 夏の日』今森光彦 (2007.6 アリス館)
A5の版型にきりとられた琵琶湖湖畔の里山の夏。写真の間に挟まれる短い文章が、見て寄り添う写真家の息遣いを伝えている。稲の葉に巣を張るシロカネグモ。あさつゆを抱いた巣を五線譜に見立て、クモの浮遊感に思いを馳せる。太陽がじりじり照りつける昼から夕方まで、田んぼを中心に里山の自然がさりげなく、濃い空の青、草木の緑、白い入道雲、強い影というコントラストの強い画面で閉じ込められた本。(ほそえ)

『宮野家のえほん ももちゃんとおかあさん』おおさわさとこ (2007.5 アリス館)
見返しの幼稚園からのお帰りの場面から始まり、郵便屋さんがおじいちゃんのお葉書を持ってくるところから、お話が動き始めます。おじいちゃんにお土産のリクエストのはがきを描いて、自分で商店街の入り口にあるポストに出しにいきました。ママはあとから自転車でおいかけることになっています。はじめてのおつかい、わくわくよりみち、ちょっとまいごという展開ですが、さり気なくママがあとについているので大丈夫。やわらかなタッチで丁寧に描きこまれた画面は隅々まで読む楽しみがあり、好感が持てます。自転車にひかれそうになってママにみつかるところは、アップの画面で調子をかえ、メリハリもつけました。後ろ見返しから表4はおじいちゃんたちがやってきた土曜日の様子で、ママのお腹には赤ちゃんがいるのね、というところまでよくまとまった安心して読める絵本になっています。欲をいうなら、これがももちゃんなの、というにじみでてしまうキャラクターの味みたいなものが言葉ででも表現できるといいのにな。どうしてもこれをかかなくちゃという感じがみえるといいな、新人さんなんだからと思いました。(ほそえ)

『なにしてるの、サム?』メアリー・ルイーズ・ゲイ作 江國香織訳 (2006/2007.6 光村教育図書)
ステラ・シリーズ最新刊。弟のサムは犬のフレッドに夢中。一緒におふろに入ったり、かくれんぼをしたり、いっつもふたりでいます。それをステラはわきでニコニコしながら、おもしろそうに見ています。画面とセリフのキャッチボールで進んでいく、絵本らしい読み方のできる本。どんなことも自分の思うように、フレッドにあわせて遊んでしまうサム。それを肯定するステラもいい。(ほそえ)

『ローザ』ニッキ・ジョヴァンニ文 ブライアン・コリア−絵 さくまゆみこ訳(2005/2007.5 光村教育図書)
黒人の自由獲得のための市民権獲得運動の顔になったローザ・パークスのことやバス・ボイコット事件のことを描いた絵本。アメリカにおいては重要な人物であり、良く知られている女性であるが、日本の子どもたちにとっては、ほとんど知らない人物だろう。黒人の権利獲得運動についても。大きな問題意識を持った絵本ではあるが、大上段にかまえず、ローザに寄り添うことで、静かに、シンプルに当時の黒人の状況やその他の事件などについて伝えてくれる。高学年の歴史への導入に有効だなと思うほど、よくまとまっており、絵本のもつ象徴性をローザにになわせたことで、イラストの強さ、イラストの伝える意味なども上手く作用している。コルデコット・オナー、コレッタ・スコット・キング賞を受賞。(ほそえ)

『かかし』シド・フライシュマン文 ピーター・シス絵 小池昌代訳 (1987/2007.4 ゴブリン書房)
ひとりぼっちの農夫が畑のために作ったのは頭のない、胴体だけのかかし。自分で作ったのに、その惨い姿が気になって、破けたまくらカバーで頭を作ってやりました。それからのかかしは朝、夕、農夫の声に耳を傾け、心のよりどころのようになっていきます。靴、軍手、ぼうし、レインコートと農夫のものを身につけて立っていたある日、この畑に見知らぬ若者がやってきました……。孤独な心がかかしによってなんとか人らしく保たれ、新しい出会いにおずおずと身をよせていく様が、シスの繊細なタッチで良く描かれている。孤独な者同士を引き合わせ、つなぎ止める仕事をしたかかし。(ほそえ)

『いろいろごはん』『いろいろたまご』山岡ひかる (2007.7 くもん出版)
はり絵の技法で描かれたたまごやごはん。それぞれにおなじみの料理に変身します。先に紹介した『あれこれたまご』(福音館書店)よりは小さな子ども向きに作られているので、テキストも料理法も短くシンプルでかわいらしくできている。擬音を多用し、幼い子を意識したリズミカルなつくり。(ほそえ)

『ポルカちゃんとまほうのほうき』たむらしげる (2007.5 あかね書房)
お母さんがおいしいシチューを作ってくれている間にお家のお掃除を頼まれたポルカちゃん。でも、ほうきがやなこったと空に飛んでいこうとして……。ほうきとポルカちゃんと黒猫くんの、空の冒険が始まりました。あわあわとした筆跡もみずみずしいイラストで森や雲がえがかれ、楽しくページをめくっていると竜の雲においかけれられて、雷や大雨にあってしまいます。でも、ラストの納め方がうまく、なるほど魔女だわというお話に。(ほそえ)

『なつのおうさま』薫くみこ作 ささめやゆき絵 (2007.6 ポプラ社)
薫くみこは子どもが自分で言葉にできないような、でも確実に心にもやもやとある感情を態度やしぐさで端的に表現するのが上手い。体全体で感じさせる思いを文章化して、悲しいとか悔しいとか、単純で他愛のない言葉しか出せない子どもからは想像できないような、複雑で深い思いを見せてくれる。目がいい人なんだと思う。本書では夏休みお母さんの友だちが遊びにきて、その人が連れてきた同じ年の女の子と過ごすことになった男の子が主人公。同じ年なんだから仲良く遊べるでしょといわれ、お母さんは同じ年のお米やのおじさんと仲良く遊べるのかよ、なんて毒づくところもおかしい。ふたりはとんぼという共通の話題で心を通わせ、親しくなるが、別れの時をどう迎えたら良いのかわからなくて、互いに泣いてしまう。なんだかもう二度と会えなくなるかのような悲しみに突き動かされる時、というのが子どもの時にあったような気がする。ラストの絵はそれをちゃんと受け止めているのかしら……。(ほそえ)

『漂流物』デイヴィッド・ウィーズナ− (2006/2007.5 BL出版)
本年度コルデコット賞受賞作。ウィーズナーの新作は浜辺に打ち上げられたカメラを拾った男の子の様子を描き出している。陸と海、現在と過去、それぞれを写しこんだ写真を見ているうちに、時空が混ざってしまった奇妙な感じを楽しむことになる。表紙の赤い魚の目には漂流するカメラがうつっている。圧倒的な描写力で描かれる海の世界には機会仕掛けの魚や、居間に設えられたソファやいすで和むタコや魚、亀の甲らについた奇妙な貝殻のお家に住む緑色の小さな人、タツノオトシゴの写真を撮る小さな宇宙人、山を抱いた大きなひとで……。奇想天外な海の底の写真の後には、写真を持ってうつっている人の写真が。持っている写真のなかをどんどん拡大してのぞいてみると、このカメラを持っていた人にまでたどりついた。そして、この男の子もまた
、同じような写真をとって、カメラを海へ投げ込むのだ。小説になりそうなほどの多くの情報量をつめこんで、イラストのみで展開する絵本の力技を見たような気がする。ウィズナーは本当は映画が撮りたいのではないかしら。でもこの内容を映画にするのは、莫大な資金が必要だし。絵本はローコストでできる脳内映画館なんだな。(ほそえ)

『きこえる!きこえる!』アン・ランドことば ポール・ランド絵 谷川俊太郎訳 (1970/2007.5集英社)
グラフィックデザイナーの重鎮であるポール・ランドと詩人アン・ランドが娘のために作った絵本4冊のうち、最後まで翻訳されず残っていた1冊がこれ。『ちいさな1』『ことば』(ほるぷ出版)『ぼくはいろいろしってるよ』(福音館書店)の原書は古書でも手に入る機会が多かったが、本書はなかなか見つからなかった。近年、フランスで復刊され、手に入りやすくなった。ポール・ランドのデザイン感覚溢れるイラストが人気。ぽつん、あめのしずく ばつん、塀にボールをぶつけた音 どさん!ぼくが転んじゃった音 ……というふうに見開きごとにいろんな音とそれが起きる状況を詩にしている。音をたてないのに聞こえるもの、として雪がふる音 というのが、アンらしい。『川はながれる』(岩波書店)で川の生まれ、育つところを端正な言葉で表現した人だからこそ。やっと手に入って嬉しい反面、日本語のレイアウトがもう少し親切でも良いかもな、と思った。音の絵本なのだから、音を表現する言葉(擬音)はきちんとわかりやすく、文章の中にまぎれてしまわないようにレイアウトする方が読みやすい。たぶん、デザインとしては、かなを入れると崩れやすいので、ひとまとまりに、わかちもせずに入れているのだろうけれど。(ほそえ)

『ぼくのこともわすれないでよ』シャーロット・ミドルトン作 三辺律子訳 (2002/2007.6 ほるぷ出版)
日本で紹介されるのは初めての絵本作家。犬のダドリーとアンナはなかよく暮らしていたのだけれど、そこへ、カメレオンの赤ちゃんがやってきて……。女の子の関心が新しい家族にうつってしまったようでさびしく、悲しいダドリ−。ご飯も自分でつかまえられるし、かくれんぼ遊びも上手だし、みんなを釘付けにする愛らしさ。ダドリ−が自分の位置をみつけ、二匹と一人の関係が安定するまでをしゃれたイラストと安心の展開で見せてくれる。(ほそえ)

『セーラーとペッカの運だめし』ヨックム・ノードストリューム作 菱木晃子訳 (1998/2007.6 偕成社)
「セーラーとペッカ』シリーズ4作目。今回は運だめしということで、セーラーはサッカーくじをペッカは市で射的をします。あいかわらず、奇妙な人たちが出てきて、市もいろんな怪しい感じの人や物であふれています。セーラーとペッカの一日は、流されるように過ぎていき、要所要所で二人を導くジャクソン夫人が素敵。さかさま絵の絵葉書もヨックムだとこうなるのかと、ふむふむ。子どもがサッカーくじの説明を読んで、セーラーの結果を一生懸命計算している。(ほそえ)

【創作】
『歩く』 ルイス・サッカー作 金原瑞人・西田登訳 講談社2007年
 砂漠の真ん中の少年院で、理由も目的もなくひたすら「穴」を掘らされる少年たちを描いた『穴』(幸田敦子訳 講談社)は、そのとっぴな設定と、それに輪をかけた奇想天外な大どんでん返しで、多くの読者を魅了した。その続編がこの『歩く』だ。『穴』では、ひいひいじいさんの代から不運に見舞われてきたというスタンリー少年が主人公だったが、『歩く』では同じ少年院で辛い日々を生き抜いた黒人の少年アームピットが主人公になる。
少年院を出たアームピットは、カウンセラーに言われる。「あなたはあのキャンプに入る前から、人生は不公平だと思っていたでしょうけど、あそこから出ると、その不公平さは倍になるのよ」。アームピットは人生を二度と台無しにはしまいと、カウンセラーの助言通り「小さな一歩を根気強く積み重ねて」前へ進んでいこうと決意する。
実際、アームピットは造園会社で汗水たらして働き(ここでも穴を掘る!)、高校の補習授業を受け、また、隣に住む脳性麻痺の少女ジニーの散歩にも付き添うようになる。まさに「一歩一歩前に進んでいく生き方を身につけようとしていた」のだ。
だが、そんな決意も、少年院仲間のX・レイにおいしいもうけ話を持ちかけられ、もろくも崩れてしまう。人気歌手のカイラ・デレオンのコンサートチケットを買って、高額で転売しようというのだ。つまりダフ屋。それからは小さな一歩どころか、あっという間に坂道を転げ落ちていくはめになる。チケットはなかなか売れない、黒人だという理由であらぬ疑いはかけられる、挙句の果てに恐ろしい陰謀に巻きこまれそうになって・・・そう、やっぱり人生は理不尽で不公平なのだ。
しかし、『穴』の作者が、それだけで終わらせるわけがない。あっと驚く事件、胸のすくような展開、そして笑いと感動が待っている。『穴』と同様の大逆転はあるのか? 

 少年院出の黒人少年と、脳性麻痺の純粋な少女、そして人気歌手の織り成す物語、ときけば、ついついセンチメンタルな恋愛物や安っぽい感動物を想像したくなる。だが、それを、胸躍る恋愛と友情を描く本物の感動物に仕立てあげるところが作者サッカーの才能だ。『穴』では、ほら話的なファンタジーの味付けがじわりと効いていたが、ファンタジー的要素といえば、『歩く』ではさしづめ歌姫との恋がそれにあたるかもしれない。物語の随所に、カイラ・デレオンの歌の歌詞が挟まれているが、それが物語にリズムを生み、登場人物たちの心を、時代の空気を、社会のありようを映しだす。
 そして脳性麻痺の少女ジニーとの交流。二人は出会った瞬間から馬が合う。「ジニーはアームピットを怖がらなかったし、アームピットはジニーによけいな同情をしなかった」二人の関係はこの一文に集約されると思う。
 アームピットがどんなふうにこの不条理な世界を「歩いて」いくのか。ぜひぜひ本書を手にとってほしい! (三辺)

『マチルダばあやといたずらきょうだい』 クリスティアナ・ブランド作 エドワード・アーディゾーニ絵 こだまともこ訳 あすなろ書房2007年

 物語の舞台は「むかしむかし」の「イギリスのある村」。その村で暮らしているブラウン家の子どもはそろいもそろって「それはそれはおぎょうぎの悪い、いたずらっ子ばかり」。そこへ、魔法の杖を持ったふしぎなマチルダ
ばあやがやってくる。物語の最初の数ページを読んだだけで、読者は古きよきイギリス児童文学の世界に引き込まれる。実際に作品が書かれたのは1964年だが、作者のブランドは見事に読者に期待に応えてくれる。
 ブラウン家の子どもたちは、児童文学史上でも一、二を争ういたずらっ子だ。そのいたずらにかける情熱たるやすさまじく、朝起きるのが嫌だから仮病を使う、犬を鍋のお風呂に入れるなんていうのは朝飯前で、よそゆきの服を動物に着せたり、傘をパラシュートにして窓から飛び降りたり、大変な労力を費やし、時には命までかけていたずらをしている。そんな子どもたち相手に、マチルダばあやは「七つのおけいこ」をさせると宣言する。いわく、
1.寝なさいと言われたらベッドに入る 2.ごはんをガツガツつめこまない 3.勉強する 4.起こされたらすぐ起きる 5.ドアを開けっぱなしにしない 6.よそゆきの服を嫌がらずに着る 7.うちから逃げ出さない。さて、児童文学でおなじみのいたずらっ子 対 やはりイギリス児童文学の常連である不思議な力を持ったナニー、マチルダばあやの勝負の行方は?

 物語は、作者のブランドが子ども時代、祖父母からきいた話を物語にしたものだという。そして、そのとき一緒に話をきいていた従兄弟、つまりアーディゾーニが挿絵をつけた。ブランドのおじいさんとおばあさんは、孫を有名な作家と画家に育てたことになる。
 そんないきさつをきけば、物語にクラシカルなイギリス児童文学の香りが漂うのもうなずける。物語の設定もさることながら、全編に詰めこまれたナンセンスなユーモアも、イギリス児童文学のお家芸だ。訳者あとがきにもあるように、祖父母と孫が大笑いしながら物語を紡いでいったさまが目に浮かぶ。子どもはナンセンスが大好きなのだ。ブランドの祖父母にとっては、目の前の笑ってくれる子どもが物語の面白さを計る何よりのバロメーターだっただろう。
しかし、ナンセンスは、センス(意味・意義)がないだけに、大人が評価するのは難しい。そんなことが、現在のナンセンスな物語の少なさに影響しているのかもしれない。もっとこうした物語が出てくると子どもたちが本の面白さに目覚めてくれると思うのだが! (三辺)

『20年後』オー・ヘンリー作 千葉茂樹訳 和田誠絵 あすなろ書房 2007 オー・ヘンリーといえば、短編の名手として日本でも広く知られている。教科書にも掲載された『最後の一葉』や様々なパロディを生んだ『賢者の贈り物』など知る人も多いだろう。しかし、272編の作品を残したときくと、改めて驚きを感じる。つまり、これだけ著名な作家であるにもかかわらず、日本に紹介されていない作品が多数あるということなのだ。 
 そうした未訳の作品を含め、すべて新訳でオー・ヘンリーの作品を紹介するのが、『オー・ヘンリーショートストーリーセレクション』だ。一巻目の『20年後』には表題作の「20年後」や「改心」など、オー・ヘンリー特有のどんでん返しが楽しめる人気作品が収録されている。作家は時に神にたとえられるが、オー・ヘンリーのあっと驚く結末やオチは、全知の立場にいる作者から不遇な主人公や報われない市井の人々への贈り物、粋な計らいなのだ。だからこそ、彼の作品は支持されるのだろうし、子どもの読者に納得感と満足を与えることができる。
 一方、初訳となる『カーリー神のダイヤモンド』や『オデュッセウスと犬男』などの作品は、相手の腹を探り合う記者と著名な将軍や、「お犬様」に翻弄される飼い主たちの悲哀が皮肉たっぷりに描かれ、百年前のニューヨークとそこに暮らす人々の醸し出す空気を肌で感じさせてくれる。オー・ヘンリーは、新聞の日曜版に毎週作品を掲載するなど多作で知られているため、時に粗製乱造といった批判を呼ぶが、だからこそ、モデルとなった人物や事件の存在を感じさせるエピソードも多く、当時の雰囲気が生き生きと伝わってくるのだろう。オー・ヘンリーの魅力を再発見できるシリーズだ。(三辺 産経新聞 2007年6月4日掲載)

『ファイヤーガール』(トニー・アボット:作 代田亜香子:訳 白水社 2006/2007・06 1500円)
 「ぼく」はちょっといかれた感じのジェフと親友。彼のおじさんが乗っているという格好いい車コブラに憧れています。
 まあそんな普通の学校生活。そこに転校生が。名前はジェシカ。ちょっと期待したんだけど・・・、そんなこととは全然違う。彼女は全身に大やけどを負って、治療のためにこの町に来たのです。
 遠巻きに眺めるクラスメイト。実は「ぼく」もそうなんだけど、でも気になる。
 仲良くしましょうとっても、外見に囚われてしまいますから、そんなに簡単にはいきません。この物語では結局最後までクラスとジェシカが打ち解けることはないです。それが現実でしょう。
 「ぼく」本人は何もできなかった勇気のなさに落ち込んではいますが、ジェシカをほんの少し理解し、興味を持ち、彼女にほんの少し理解され、興味を持たれます。そこがいいですね。
 今のジェシカにとって、学校で打ち解けてもらえないことなど、治療の重要さと比べたら些細なことなのですが、それでもね。って辺りの気持が巧く描かれています。
 作者が解決を示さないで、しかしある方向に光を描く。そんな物語です。(ひこ)

『最強の天使』(まはら三桃 講談社 2007.06 1400円)
 デビュー作『カラフルな闇』の志帆と周一郎が再び登場です。ただし今回は、志帆ではなく周一郎の語りで物語は進んで行きます。
 自分と母親を置いて出て行った父親のこと、偏屈な祖父。周一郎にとって、生きていきために、ひっかかることはいっぱいあります。志帆のことだって、好きなわけだけど、コクッてないし。住んでいるビルの取り壊しで、移転することになっているのに、志帆にそのこともなかなか言い出せないし。
 そんなとき、読んでしまった祖父から母親への手紙。ヤな印象しかない祖父が自分に会いたがっている。
 周一郎と祖父はどんな風に理解していくのか?
 後半の展開はいささか強引ですが、この物語が前作に続いて、家族のつながりの有り様に重点を置き、祖父のこと、母親のこと、父親のことを斜めからではなく、もう一度辿りなおす形で、極めて真っ当、真正面から描こうとしていることに共感します。
 周一郎と志帆で、もう一作リクエスト。(ひこ)

『ボーイ・キルズ・マン』(マット・ワイマン:作 長友恵子:訳 すずき出版 2004/2007.06 1600円)
 世界中の子どもたちが生きる現実を切り取った鈴木出版の「この地球を生きる子どもたち」の最新刊です。
 舞台は、麻薬密売の盛んなコロンビア。貧困の中で育った少年はやがて、密売取引をしている地域のボスの殺し屋となります。注射をされ、意識を落ち着かせて行う殺人。人を殺すとき大人はためらうが子どもはためらわない。そういうボスたち。
 ここには救いは描かれてはいません。悲惨な現実があるだけです。この地球の中にこんな状況に置かれている子どもがいることを、静かに伝えています。(ひこ)