2007.08.25

       

『超じいちゃん』(ステファニー・ローゼンハイム:文 エレナ・オドリオゾーラ:絵 青山南:訳 光村教育図書 1400円)
 マドリン・デイジーはおじいちゃんが大好き。でも、もう93歳、しわしわで元気がありません。
 そこで、マドリンは元気の出る飲み物を作ります。効くかな?
 夜、なんだか物音。
 もう、おじいちゃん元気に飛び回る、踊る、屋根を走る。
 あまりにその元気ぶりに、マドリンの方がぐったり眠ってしまいましたとさ。
 とてもリズムのいい絵本です。こっちまで元気になること間違いなし。(ひこ)

『いのしし』(前川貴行:写真・文 アリス館 1600円)
 いのししの母親とウリ坊に密着した、非常にアクティブな写真絵本。
 前川の、命に対する興味と愛着が、突撃写真のような感じの迫力で迫ってきます。
 でも、うり坊、やっぱかわいいです。
 絵本としては、言葉をもう少し切りつめて欲しいですが、想いが溢れているのは伝わってきます。『こおりにくにのシロクマおやこ』から、着実に進化しました。
 良いです。(ひこ)

『つくってみよう! へんてこピープル』(tupera tupera :作 理論社 
1600円)
 紙袋、卵の殻、はりがね、紙コップ。もうなんでもいいんです。とにかくその素材で人を作ってみる。作れるのですねえこれが。で、結構強引に作ったりもしますから、面白くなるんですねえ、これが。
 つまりはそれは、人間の色々さを醸し出してくるわけですよ。
 作り方解説もありますから、子どもたち、ぜひ作ってみてください。(ひこ)

『ぶす』(内田麟太郎:文 長谷川義史:絵 ポプラ社 1200円)
 「狂言えほん」シリーズ1作目。
 内田と長谷川で「狂言」ですよ。編集者に文句を言うなら、はまりすぎだろ! ってことくらいかな。
 もちろん、言葉は内田によって現代語に書き換えられ、狂言師の表情や動きは長谷川によってデフォルメされていますから、オリジナル絵本として立っています。(ひこ)

『ミミちゃんのねんねタオル』(アンバー・スチュアート:文 レイン・マーロウ:絵 ささやまゆうこ:訳 徳間書店 1500円)
 『シャンプーなんてだいきらい』のアンバー・スチュアート作。
 うさぎのミミは赤ちゃんの頃から一緒に眠っているねんねタオル(って呼び方がいいな)をなかなか手放せません。そろそろ卒業することが成長なのですが。さて、どうする?
 手放すまでの物語が、とても自然でなじめます。成長しなさい成長しなさいって持って行き方だと、子ども自身が納得しないまま受け入れることになってしまうおそれがありますけれど、そうではないのでいいですね。(ひこ)

『ぽっかり つきがでましたら』(内田麟太郎:文 渡部有一:絵 文研出版 1300円)
 「ぽっかり つきがでましたら」「ぽっかり かばもでるでしょう」に始まり、意味不明に色んな物が出てくるのですが、言葉のリズムに乗せられて、こちらもでなんでもありの気分になっていきます。
 これはシンドイ気分の時の子どもには、とてもいい解放感を与えるでしょうね。
 先日長さんの原画展を見ましたが、それと比べると、当たり前のことですが内田が言葉の人であるのが、改めてよくわかります。(ひこ)

『ラングリーのみみ』(ユリア・ゴシュケ:作 徳永玲子:訳 ポプラ社 1200円)
 イヌのラングリーは兄弟の中で一匹だけ何故か耳が長いので、ちょっとコンプレックス。うさぎと間違えられたりね。
 でもラングリーはラングリー。そのままがいいんです。(ひこ)

『ぼくのしっぽは?』(しもだともみ:作 教育画劇 1100円)
 「ぼく」にはしっぽがないので、しっぽのある動物から次々としっぽをもらいます。でも、くれた動物はやっぱりしっぽがないと困ります。それぞれの動物たちにとってどうしてしっぽが必要かが巧く伝わってきます。
 しっぽが欲しい「ぼく」の気持ちもよくわかる。
 だから、最後に色んなしっぽの作り方が載っています。
 子どもたち、作りましょうよ。(ひこ)

『ともだちになって』(まつおかたつひで:作 ポプラ社 1100円)
 へびくんはみんなと友達になりたいのに、怖がられてばかり。そこでやさしいへびになろうとします。
 かえるたちのウオーターライダー、ねずみたちの滑車。もうお疲れ。
 そんなへびくんの一生懸命に、みんなはともだちになることに。
 楽しいですが、そこまでへびのアイデンティティ捨ててもいいのかな? なんて思うのは大人の発想の貧しさなんでしょうね。
 でも、もうひとひねりはいると思うのです。へびくんとかえるさんがともだちになるには。(ひこ)

『ハンタイおばけ』(トム・マックレイ:文 エレナ・オドリオゾーラ:絵 青山南:訳 光村教育図書 2006/2006.10 1400円)
 ネイトくんの元にハンタイおばけが現れる。驚いて、パパに「てんじょうに ハンタイおばけが たっているんだ!」って教えたけど、ハンタイおばけなもんで、消えてしまいます。それからハンタイおばけは色々いたずらをするのですが、みんなネイトくんのせいになってしまう。さて、どうしますか?
 ユーモアたっぷりのお話が、印象深いオドリオゾーラの絵とともに描かれていきます。特に絵がいいよ。(hico)

『ぬすまれた月』(和田誠 岩崎書店 2006.10 1300円)
 40年前の絵本を基礎に、98年にプラネタリウム用に描きなおした物を絵本化しています。
 そうは言っても物語展開が懐かしいとか、時代を感じさせるとか全くないのが驚きです。
 月の満ち欠けの説明の間に小さな物語が挿入されているのですが、その寓意が効いています。見せ方の巧さにも注目。
 もっとも、過去に書かれた寓意が今も有効であることは、嬉しい事態ではないと言えますが・・・。(hico)

『うんちのちから』(ホ・ウンミ:ぶん キム・ビョンホ:え しんもとか:やく 主婦と友社 2004/2006.10 1300円)
 様々な動物の様々なうんこについて語った絵本。
 正々堂々と、というのもヘンですが、すっきりとうんこが描かれています。
 子どもはうんこ話が好きだって言うけれど、この絵本を見ていれば大人だってうんこの話をきらいじゃないことを確認できます。
 うんこが巡って巡って、作物を実らせて、最後に子どもがうんこのおかげで豊かに実ったスイカを「いただきまーす!」。
 タイトルも物語も単純な展開なのがいいのです。(hico)

『わすれても 好きだよ おばあちゃん!』(ダグマー・H・ミュラー:作 フェレーナ・バルハウス:絵 ささきたづこ:訳 あかね書房 2006/
2006.10 1400円)
 様々な障害を抱える人との交流をテーマにしたシリーズの4冊目。『わたしの足は車いす』(身障者)、『みえなくても だいじょうぶ?』(視覚障害者)、『わたしたち 手で話します』(聴覚障害者)、そして今作はアルツハイマーを採り上げています。
 一緒に暮らすことになったおばあちゃんの日々をごくごく普通に描きます。
問題意識とかが前面に出ないので、構えることなくおばあちゃんを知ることができます。おすすめのシリーズです。(hico)

『サンタの最後のおくりもの』(マリー=オード ミュライユ, エルヴィール ミュライユ :著 クェンティン・ブレイク:絵 横山和江:翻訳 徳間書店 2006.10 1200円)
 ジュリアンはもうサンタクロースを信じてはいませんが、両親に付き合って、手紙を書きます。プレゼントはTVゲーム。と、もう一つ木でできた蒸気機関車のおもちゃがあります。
 え? これは本当のサンタが忘れていった物? だったら来年のクリスマスにはサンタに返さないといけない?
 それをジュリエットと名付けてジュリアンは大切にして遊びます。さて結末は?
 クェンティン・ブレイクの絵がやっぱり良いです。(hico)

『ねむいねむいおはなし』(ユリ・シュルヴィッツ:作 さくまゆみこ:訳 あすなろ書房 2006/2006.09 1300円)
 人が眠りについた後の夜の世界をシュルヴィッツの魔法が描いていきます。
「ねむい ねむい へやには ねむい ねむい テーブル。(略)ねむい ねむい いすには ねむい ねむい ねこ。」。すべてが眠りこけたそのとき、どこからか楽しげなメロディが流れてきて、様々な物が目を覚ましていく。おどりだす。楽しいひととき。そしてまた、静かになり、しだいしだいに眠りにつく。
 夜が醸し出す気配を丸ごと味わった気分。(hico)

【創作】
『曲芸師ハリドン』(ヤコブ・ヴェゲリウス作 菱木晃子訳 あすなろ書房)
 スウェーデンのエクスプレッセン紙で「もっともよかった子どもの本」に選ばれたという本書は、1999年の出版だが、現代のものとも過去のものともつかないふしぎな香りのする作品だ。
 少年ハリドンは、親も頼れる大人もなく、幼いころから曲芸で身を立ててきた。醜い容姿が人々を遠ざけ、いっそうハリドンの孤独を深いものにしている。しかしそんなハリドンにも、心を許せる友人がいた。〈船長〉と呼ばれている元劇場の支配人だ。それまでひとりで旅をしていたハリドンに、〈船長〉は仕事を与え、温かい食事を与え、寝る場所を与え、そして〈家〉を与えてくれた。
 だが、ある日仕事から帰ると、〈船長〉の姿がない。友人のところへ行っただけだ、すぐに帰ってくる―――そうハリドンは自分に言い聞かせ、一度は寝ようとするが、どうしても寝つけない。ついにいてもたってもいられなくなったハリドンは夜の町に飛び出し、〈船長〉を探しに出かける。
 偶然出会った一匹の野良犬をお供に、ハリドンは〈船長〉行きつけのジャズ・バーから大きな屋敷で行われているパーティ、公園、埠頭などさまざまな場所を探す。もう二度と〈船長〉と会えないかもしれないという不安を抱えながら・・・〈船長〉が夢を実現させに旅立ってしまったのでないかと慄きながら・・・。ハリドンは〈船長〉を見つけることができるのだろうか?

 どこか幻想的なムードを持つこの作品を読んだとき、すぐに同じ北欧の作品であるヤンソンの『ムーミン』シリーズを思い出した。同じファンタジーでもイギリスのものとは違う、ひそやかでしんとした雰囲気が物語世界を支配している。そして、よそよそしいように思えるほど遠慮がちで、控え目な友情のあり方も。同じ友情をテーマにしていても、アメリカの作品とはまったく違う。
 そして、扉の作者紹介を見て納得した。作者は「作品のインスピレーションの源は、トーヴェ・ヤンソンの『ムーミン』にある」とはっきり言っているそうだ(ヤンソンはフィンランド人。『ムーミン』シリーズはスウェーデン語でかかれている)。絵や音楽や物語というのは、その国の空気や気配、においや佇まいを感じさせるものだが、英米の作品とは一味違う雰囲気を味わってほしい。(三辺)

『人魚姫』(アンデルセン 清川あさみ絵 金原瑞人訳 リトルモア)
 同じ北欧から、あまりにも有名な物語を。
 海の王には美しい六人の姫がいた。なかでも末娘は「信じられないほど愛らし」かったが、姉たちとちがって、無口で海の上の世界に憧れ、さまざまな想像を巡らせては、十五歳になって海の上へいく許可が出る日を心待ちにしている。そしてとうとう十五歳の誕生日を迎えた姫は、人間の王子に恋をしてしまうのだ。
 恋を成就させるため、姫は魔女のところへ行って、美しい声と引き換えに人間の「足」を手に入れる。魔女は言う。「もし王子の愛を勝ち得ることができなかったら・・・おまえの心は砕け、海の泡になってしまうんだよ」
 この恋の結末は、誰もが知っているだろう。

日本では、『人魚姫』との初めての出会いは絵本という人がほとんどだろう(ディズニーの映画『リトル・マーメイド』は『人魚姫』ではない、とすれば)。本書も絵本だが、ほかの多くの絵本とは違う点がふたつある。まずは、「挿絵」が、清川あさみの布や糸やビーズで作ったテキスタイルであること。それから、全訳だということだ。
結末をハッピーエンドに変えているようなものは問題外としても、『人魚姫』のように長さのある作品を絵本にする場合、テキストは物語の筋だけに「抄訳」されることが多い。そんな風に割愛されたしまったディテールを、本書ではたっぷり楽しむことができる。有名な『人魚姫』に、意外な描写や展開があることを知って驚く読者も多いだろう。地上の世界、つまりわたしたちにとって当然の世界が、ずっと海の中で暮らしてきた人魚姫の目にどんなふうに映るのか、アンデルセンは豊かな比喩や美しい言葉を使って描き出している。この物語は、別々の世界に住む者たちのあいだに横たわる溝の深さを描いているのだな、と改めて思う。(三辺)

『涙のタトゥー』(ギャレット・フレイマン=ウェア作 ないとうふみこ訳 ポプラ社)
 今度は一転して大都会ニューヨークが舞台の青春物語。
 といっても、主人公の15歳のソフィーは、今はやりのセレブな女の子の対極にいる。むしろ、そうした「デートにしか興味のない」派手な女の子を「セレブガール」と呼んでバカにし、自分はひたすら水泳に打ち込み、将来医学部に進むために熱心に勉強している。
 それも二年半前に弟を病気で亡くしたせいかもしれない。母さんが弟の看病にかかりっきりのときに、父さんはいつもの浮気を繰り返し、結局ふたりは離婚してしまった。仕事ができて陽気で、それなりに家族を愛している父さんを、ソフィーは嫌いではないが、どこか醒めた目で見ている。
「わたしはとうさんの頭から生まれた子どもで、フレディー(ソフィーの美人の姉)は心から生まれた子どもだと父さんはよく言う。でもそれって要するに、フレディーは頭が悪くて、わたしのことはフレディーほど愛していないってことを体裁よくいいかえただけじゃないのかな。」
 こんなふうに頭がよくて冷静で辛らつなソフィーが初めて恋に落ちた相手は、目の下に涙の形のタトゥーを入れている少年フランシスだった。これ見よがしなタトゥーを入れ、父親を「ニック」と名前で呼び、ソフィーが医学部志望ときいて「六年もあとのことなんてわからない」と言い放つフランシスはおおよそ好みのタイプではないはずなのに、なぜかソフィーは惹かれていく。

 ソフィーがフランシスとの恋を通して両親との関係を見直し、弟の死を乗り越え成長していくさまが、この物語の読みどころであるのは間違いない。だが、面白かったのは、ソフィーが徹底して「セレブガール」や、「セレブガール」の男子版である「オオカミ軍団」たちをバカにしているところだ。その一方で、変人でクラスでも浮いているが9歳でシェイクスピア全集を読破したというヘンリーや、さりげなく天安門事件についての意見を述べるフランシスを、高く評価している。「セレブ」に引け目を感じ、「セレブ」に憧れる女の子の話が多いだけに、ソフィーが、「オオカミ軍団」を「何の目的意識もない連中」と切り捨てるヘンリーと意気投合したり、「特A級のセレブガール」と実際話してみて「(意外に)感じがいい」と驚く場面が印象に残る。
もちろんソフィーの場合は「セレブ」である父親への反発もあるだろうが、「セレブ」に憧れるのも軽蔑するのも、十代の自意識の強さを表しているという点では同じなのだ。そんな設定にも作者の巧さを感じた。(三辺)


『クレイ』(デイヴィット・アーモンド作 金原瑞人訳 河出書房新社)
「アーモンドの作品はいつもフルスイング」。訳者あとがきにそう書いてあるが、本当にアーモンドの作品は読むたびにひきこまれてしまう。どうして毎回、これだけ独創的な物語をつむぎだせるのだろう?
 舞台は60年代の北イングランドの田舎町。デイヴィは親友のジョーディと、タバコを吸ったり教会のワインを盗んだり、ささやかな悪さを楽しむ「罪のない」生活を送っていた。唯一の問題は、町いちばんの乱暴者のモウルディだが、表向きプロテスタント対カトリックの体裁をとっている争いも、親たちが「ゲームみたいなもの」と言って笑う、子ども同士の小競り合いにすぎない。しかし、悪魔礼拝に関わって神学校を放校になったといううわさのスティーヴン・ローズが町に越してきてから、そんなデイヴィのささやかな日常が狂いはじめる。
 スティーヴンは、「天使を見た」と主張し、自分には粘土の人形に生命を与える力があるのだと言う。半信半疑ながらも、デイヴィはスティーヴンの言うがままに材料を集め、「儀式」を行い、等身大の粘土の男をつくりあげる。そして、信じられない光景を目にするのだ。その出来事のために、デイヴィは一生、影を背負いつづけることになる。

 スティーヴンは、クレイジー・メアリーという町の「いかれた」老女の元に引き取られたときから、さまざまなうわさの的になる。納屋で遠吠えして、墓場で泥の塊を運んでいるとか、神学校で黒ミサを行った、母親は頭がおかしいらしい、といった話がまことしやかに囁かれる。本当は単なる孤独でかわいそうな少年なのではないか? デイヴィと共に読者もそんな思いを抱えながら物語を読み進める。だがそのうち、そうしたうわさが根も葉もないどころか、真実であることを知るのだ。
 その衝撃は大きい。児童書でスティーヴンのような底知れない闇を抱える子どもが描かれることは珍しい。アン・ファインの『チューリップ・タッチ』を髣髴させるが、アーモンドは粘土男という非現実的な存在を登場させることによって、その異様さと恐ろしさをまざまざと描き出す。
アーモンドの作品はいつも、思ってもみなかったような独自の物語世界でわたしを圧倒する。(三辺)

『月蝕島の魔物』(田中芳樹 理論社 1400円)
 時は19世紀半ば。ヴィクトリア朝のイギリス。巨大貸本屋に勤めるニーダムと姪のメープルは、ディケンズとその家に逗留しているアンデルセンの世話を命じられる。折しも、スコットランドの月蝕島で氷山に閉じこめられたスペイン軍の帆船が発見されたという噂が飛び込む。その謎を解き明かすべく4人は月蝕島に向かう。
 もう、大サービス、これぞエンタメの鏡です。じっくり味わうだとか言ってられません。歴史の虚実取り混ぜた、少々やりすぎともおもえるエンタメ振りが何とも楽しい。
 虚実を選り分ける必要はあるでしょうが、ヨーロッパ19世紀、キラキラした近代をご堪能あれ。(ひこ)

『真夜中の商店街』(藤木稟 講談社 1400円)
 不思議な商店街に潜り込んだ4人は、そこで、自分たちが欲しい物を買うことができます。しかも自分たちがいらない物、嫌いな物と交換で。こんなおいしい話しに乗らないわけがない!
 ピーマン、ニンジンから、ママの小言、そして痴呆のおばあちゃん・・・・。
 が、これは究極の欲望交換ですから、リスクがないわけはない。ということとで、最終的には収まるところに無事収まるのですが、こうした設定にすることで、子どもの欲望と不満を描き出せたことには感心しました。(ひこ)

『シャイニング・オン』(ジャクリ−ン・ウィルソン他 尾高薫他訳 理論社)
 ガン患者支援のためのチャリティーブックスです。
 しかし、この豪華さはなんだ!!!
 ジャクリ−ン・ウィルソン、メグ・キャボット、アン・ファイン、メルヴィン・バージェス、セリア・リーズ、メグ・ローゾフ・・・・。
 あ〜、なんかもう、やになってきてしまった。これだけを一気に食すと、私のようなオヤジは完全にメタボへ突入ではないか。フルコース2度食べたよう。幸せ過ぎてニコニコしてしまう。
 彼らの作品を未読の方は、ここから入って、気に入った短編の作家に突入でもいいですね。
 いや〜参った。(ひこ)

『国のない男』(カート・ヴォネガット:作 金原瑞人:訳 NHK出版 1600円)
 カート・ヴォネガット人気が再燃していることはとっても嬉しい。言葉の力と、物語の豊かさを示してくれた作家だから。人間の善も悪も奥深くまで見て体験した作家ならではの包み込むような優しさと、そしてやっぱりキツーイ風刺。
 亡くなったのは仕方のないことだけど、こうして遺作となったエッセイ集を読んでいると、晩年までその言葉が力強かったのがよくわかります。晩年が、ブッシュ政権だったのは、いやだったでしょうが、言葉を衰えさせなかった一因かも知れませんね。(ひこ)

『シカゴより怖い町』(リチャード・ペック 斉藤倫子:訳 東京創元社)
 都会のシカゴに住む兄妹、ジョーイとメアリー・アリスは毎夏、田舎町の祖母の家で過ごします。最初の年が一九二九年、ジョーイが九歳、メアリが・アリス七歳。最後の年が一九三五年、一五歳と一三歳。時代背景は、大恐慌(一九二九年十月)が起こる年から続く不況期。彼らは、子ども期から思春期へと移り変わっていく年齢です。
 ひとり暮らしの祖母は、自分の暮らしに町の人が入り込むのを好まず、町のことは、どうなってもあたしは知らないと常々言っています。ならば、一切の交際を絶って、孤独に生きているのかと言えば、そんなことはありません。計七回の訪問でジョーイたちが体験するのは、祖母が人々とどう付き合っているのかというドラマです。
 最初の年、ショットガン・チータムと呼ばれる孤独な老人が亡くなったとき、その名前に何か物語を求めて、都会から新聞記者がやってきます。都会人の娯楽のために田舎で変わったエピソードを求めるその発想にカチンときた祖母は、老人を英雄にでっちあげ、うまく記者をごまかしてしまいます。ある年は他人の家のトイレや郵便受けをぶっ壊して回る若者たちを、自分の家に泥棒に入るようにし向けて、捕まえます。またある年は大恐慌で増えた放浪者を、町の有力者たちが追っ払おうとしますが、彼らの恥ずかしい秘密を握っている祖母は、困っている人たちに堂々と食料を振る舞います。働いたお金を母親に巻き上げられている娘を駆け落ちさせたときには、鉄道事故で死んだ男の幽霊の噂を利用して列車を止めて、それに乗せます。抵当物件として銀行に家を取られた未亡人のためには、その家にリンカーン大統領が訪れたことがあるという噂を広め、更地にして倉庫を建てようとする銀行家の思惑を阻止し、抵当権まで放棄させます。「それは取引じゃない。恐喝だ
」と嘆く銀行家に、祖母はケロリとして応えます。「どう違うんだい?」。
 祖母は、権威や権力を笠に着ている人々を嫌悪しています。とはいえ真正面から対決しても勝ち目はないことも分かっていますから、時には嘘をつき、大ぼらも吹き、必要ならば銃もぶっぱなすことも厭いません。一見なんだかとんでもない人のようですが、それが彼女なりのルールやモラルなのです。それを決して曲げないことが祖母のプライドです。
 彼女は偏屈ですが決して人嫌いではありません。口は悪くても孫たちのことが大好きです。そんな祖母と短い夏を過ごしながら子どもたちは、一人の大人の生き方を知っていくわけです。
 子どもに接するとき大人は、社会のルールを教えようとして、型どおりの正しいことを言いがちですが、この祖母のように自分の生き方を堂々と見せることもまた、大人から子どもへの大切な贈り物なのです。(徳間書店 ひこ)

『みんなのノート 中学生の巻』(金子由美子・橋本早苗 大月書店)
 大人だって、イライラしたりモヤモヤしたりするけれど、中学生の頃って、そういう気持が一杯あふれて、どうしていいかわからなくて、だからまたイライラ、モヤモヤしてしまうなんて悪循環に陥ることが多かった。それはきっと、社会や学校や親や、そして自分自身、それまで当たり前と思っていた物事を改めて真剣に考えて、向かい合おうとし始めるのがちょうどその頃だからだと思う。大人への最初の一歩って感じかな。
 この本は、そんな時期の色んな感情、色んな疑問が、雑記帳のように書かれている。こうしたらいい、ああしたらいいなんてアドバイスはない。ただ、生の言葉があるだけ。でも、どんな気持だって、言葉にしてみるだけで大分整理されたりはする。自分の今の気持にぴったりの言葉を見つけて、そうなんだよなあ、わかるよなあってうなづくだけで、結構すっきりするはずだよ。どこから読んでもいいし、面白くなければすぐに読むのを止めてもいい。
 そんな自由な本なんだ。(読売新聞 ひこ)

『かかしと召使い』(フィリッププルマン:作 金原瑞人:訳 理論社)
 雷に打たれたかかしが命を持ちます。ジャックという少年と知り合い、召使いにします。っても、かかいの召使いですから、もう大変。
 かかしが巻き起こす事件のおもしろさで、どんどん進んでいきます。読み始めたら止まらないプルマン世界がここでも全開です。ライラ・シリーズのように奥行や幅のある広大な世界ではありませんが、物語を読むことの楽しさはいっぱい詰まっています。(hico)

『両親をしつけよう!』(ピート・ジョンソン:作 岡本浜江:訳 文研出版 2003/2006.09 1300円)
 両親が急に、子どもの成績アップに熱心になったら、子どもはどうすればいいの?
 子どものためだって、いいことをしていると思いこんでいるからなおやっかい。しかもルーイはお笑いタレントを目指してもいますから、そのオーデションを受けたいけれど、勉強に夢中な両親が許可するとも思えず、それも大変。
 主人公ルーイは、「両親をしつける」ことにします。
 親が読んだら結構反省してしまうかも。(hico)

『ドラゴンキーパー 最後の宮廷龍』(キャロル・ウィルキンソン:作 もきかずこ:訳 金の星社 2003/2006.09 2200円)
 名前を与えられることなく、宮廷の龍使いの奴隷として生きていた少女がいる。
 皇帝の不老長寿薬の材料にと龍が狩られそうになったとき、少女は龍を連れて逃げる。龍の名前はタンザ。龍がそう言ったのだ。少女は龍と話ができる! 龍は少女の名前も教えてくれる。ピン。
 ピンとタンザの逃走劇!
 オーストラリアの作家が書いた、中国を舞台にしたファンタジー。はでなバトルはありませんが、ピンの成長物語として楽しめます。(hico)

【ノンフィクション】
『もしかして妊娠・・・そこからの選択肢 10代のセルフケア』(キャロリン・シンプソン:著 冨永星:訳 大月書店 1990/2006.101500円)
 自分自身と向かい合い、自分自身をコントロールする。というか、自分自身を可愛がることは、とても大事だと思う。そのための基礎知識となる情報が詰まっているのが、この「10代のセルフケア」シリーズ。
 「リストカット」、「デートレイプ」、「共依存」と続いて今回は「妊娠」。それを起こりうることとしてとらえて、「そこからの選択肢」を考えるスタンスに好感。きっちり書いてあるので、読んで欲しいな。(hico)

『子どもの本を読みなおす』(チャールズ・フレイ&ジョン・リフィス:著 鈴木宏枝:訳 原書房 1987/2006.10 2800円)
 副題に「世界の名作セレクト28」とあるように、名作・古典の嵐。『もじゃもじゃのペーター』、『ピノキオ』、『若草物語』・・・。子どもの頃に読んだ本が必ずあるはず。
 通り一遍の紹介ではなく、様々な文芸批評論を使って物語を分析していますが、決してわかりにくくはないです。ここに書かれた作品論を読んでから、過去に読んだ物語をもう一度読み直すと、新しい発見があるかもしれませんよ。(hico)