2007.09.25

       
 こんにちは。しばらく間があきました。令丈ヒロ子です。
 ここでご紹介する本に、新刊が極端に少なく、申し訳ありません。
 また、わたしは評論家や書評のプロではありませんので、「自分がかつて読んで面白いと思った本を紹介する」だけに徹しようと思っています。
 だから「分析」と「あらすじ紹介」は、あまりしない方向です。
 よろしくお願いいたします。

 今回は「これはいい兄弟がでてくるな」と思った話で、まとめてみようかと思います。というわけで「兄弟本」紹介始めます。

 わたしが今まで、児童書の中で一番ぐっときた「お兄ちゃん」の描写があるのは「ノンちゃん雲に乗る」です。
 石井桃子作・光文社刊。復刻版として、2005年に当時の装丁そのまま、壺井栄さんのコメント入りの帯もそのままに、出ています。昭和二十六年初版だそうです。
 このお話は、「ノンちゃんとお兄ちゃんのお話」と言っていいほど、ノンちゃんがお兄ちゃんのことを語りまくるので、お兄ちゃんの日々の暮らしや、お兄ちゃんがどんな子かわかる描写は、たくさんでてくるのですが。
 このお兄ちゃんが他のお兄ちゃんたちと大きく違うのは「目が弁慶」なのです。
 説明しましょう。
 お兄ちゃんの通っていた幼稚園の園長先生は、弁慶が大好き。
 卒園するときに、園児たちはかならずお芝居をして、みなにひろうするのですが、その演目に「京の五条の橋の上」をぜひやってもらいたいと願っています。しかし、園児たちにはなかなか弁慶をやれるような子がいません。
「いい牛若丸はちょいちょいありました。でもいい弁慶はめったに幼稚園などへはあらわれないものです。」
 で、先生の夢はいい弁慶と、いい牛若丸を見つけたら、その子らがそろって卒業するそのときには、必ず「京の五条の橋の上」をやってもらいたい、いや、やらねばならないとまで、思っています。
 そこに入園してきたのが、ノンちゃんのお兄ちゃん。
 園長先生は、入園試験に現れたお兄ちゃんの目玉を見るなり「弁慶が来た!」と思い、胸をときめかせました。
 そして、念願の、いい弁慶といい牛若丸(幸いにもお兄ちゃんと同じクラスに、トキ子ちゃんと言う牛若丸向けの美少女がいた!)がそろった劇を、お兄ちゃんの卒園のときにすることができたのです。
 この弁慶のエピソードを作者は、もうものすごく愉快そうに描いています。
 トキ子ちゃんに「負ける」役などいやだと、納得できなかったお兄ちゃんがついに弁慶役に本気でとりくむ気になった様子、本番で、ぐいっと目をむいて弁慶姿で登場したお兄ちゃんの見事な様子、そしてトキ子ちゃんの前で
「鬼のべんけい、あやまったァ…。」
 とキメのセリフを言いながら、平伏するラストシーン。幕が降りてからの割れんばかりの拍手。
 それで、お兄ちゃんのことをお父さんが「ムサシ坊」と呼ぶようになったという結び。
 枚数でいえば、弁慶のくだりは4ページ足らずなのですが、この4ページが熱い!
 ここのところを開くだけで、うわーっと喝采を浴びる小さい弁慶が飛び出してきそうな熱気が感じられます。
 ノンちゃんはこのお兄ちゃんがらんぼうだったり、いじわるだったりすることを、怒っていますが、しかし、やっぱり大事なかけがえのないお兄ちゃんだとも思っています。
 そのことが、とても感動的に描かれていますし、また子供が生きやすくなるための神様からのアドバイスもとってもリアルで、わかりやすく面白い。
 けれど、私が一番驚いたのは「弁慶」。こんなにドキッとする、印象的でかっこよくて個性的なお兄ちゃん描写は初めてでした。

 弁慶のお兄ちゃんとは対照的な、最弱のお兄ちゃんが出てくるのは「ゆめつげ」畠中恵作・角川書店刊、2004年刊です。
 畠中恵さんと言えば、「しゃばけ」シリーズ、探偵史上最弱の「若旦那」シリーズには大勢のファンがついています。
 若旦那もヘナヘナで、育ちが良すぎて、すぐに熱を出して寝込むところがイイんですが、「ゆめつげ」の主人公、神官の弓月も相当です。
 夢を見て過去や未来を人々に告げる「夢告」が得意なはずのなのですが、これが若旦那をしのぐヘタレで、役に立った「夢告」ができたためしがない上に、おっとりのんびりしすぎ。命の危険も「しょうがないなァ」と受け入れて、今にもあっさり死んでしまいそうな気配。
 おまけになにかあるとお姫様のようにすぐに気を失うのです。
 そのたびに、しっかりもので真面目な弟・信行が「にいさん!そんなことでどうするんです!」と必死でお兄ちゃんの面倒をみる…。
 周りの者からは、弟の方が気がきいていてしっかり者でよかった、この弟ならいい養子のくちがあるだろう。しかし、弓月が弟だったら、もう引き取り手はないだろうとまで思われているのです。
 なんともヘタレ好きの女性にはたまらないお兄ちゃんです。
 児童書の範疇には入らないかもしれませんが、若旦那シリーズや「ゆめつげ」は、YA好きな人にもよく読まれているようです。

 「にいちゃん、ぼく反省しきれません。」
 なんとも魅力的なこのタイトルの本ですが、柚木真理作・ポプラ社刊、1998年刊ですから、新刊だったのはもう十年前ですね。
 昭和三十年代の東京下町で、毎日を楽しく愉快に生きている兄弟の様子が、なんともとぼけた味わいの文章で描いてあります。
 ここに出てくるお兄ちゃんは、チンパンジー志望の、文句なしにおもしろいお兄ちゃんなんですが、弟のスタンスが感動的。
 お兄ちゃんのすべてになんの疑いも抱かず、どのようなおかしなことに誘われても、笑顔でそれに参加し、結果怒られたり笑われても、ずーっと穏やかです。
 だって、お兄ちゃんなんだから。
 お兄ちゃんとけんかしたり腹を立てたりまったくしない。
 ひたすらお兄ちゃんといっしょにいるだけで幸せそうな、この弟くんの「仙人」の域にまで達しているのではないかと思えるような、心の平穏と陽だまりのような幸福感がすばらしい。
 柚木さんの本が、もっと出ないかなー、この話はシリーズにならないのかなと思っていましたが、今調べたら、2005年に、「父さん、ぼく面倒みきれません」という本が出ていました。どうも「にいちゃん」のシリーズ本のようです。うっかりしていたなー。さっそく読んでみよう。

 ほんとうの兄弟ではないのですが、「これもいい兄弟だよな」と思わされたのは、「もえて!デュエット」後藤みわこ作、汐文社刊・2001年刊。
 後藤みわこさんは、ユーモラスで、じーんとくる、いい児童文学を書く人だなと思っていたら「ぼくのプリンときみのチョコ」講談社YAエンタテインメント刊で、大噴火。
 現在「ボーイズ・イン・ブラック」シリーズや「銀河へ飛び出せBOX」シリーズ(どちらも講談社)で、凄い美少年が頻出するエンタテインメントを、どかどか描かれていますが、この「もえて!デュエット」には、そういう美少年はでてきません。
 ある事情により、大声で歌えない山花少年。その山花くんといっしょになぜか、人前でアイドル「ヒカル兄弟」のものまねをしなくてはいけなくなった、関少年。この二人の、とまどい多い、デリケートな友情の物語です。
 この二人は、まったくの他人で、似ていないはず。そろいの衣装も着ていない。髪型が同じなだけ。それなのに、だれが見ても「ヒカル兄弟」と言われる、そっくりな空気を持っているのです。
  結局二人は、いろいろあったけど、舞台で「ヒカル兄弟」のものまねではなく、「オリジナル・ヒカル兄弟」となって、(「光」とむねに書いたTシャツも着て)声を合わせて堂々と歌を歌うのですが、この二人のつながりが「まさにきょうだい以上にきょうだい」で、朝日のようにまぶしい。
 この結末に至るまでの、おかしなエピソードの数々、出てくる人たちのどこかとぼけた感じが、ラストシーンのきれいさとあいまって、いい邦画を見たような印象です。

 ウルフ・スタルク作の「ガイコツになりたかったぼく」小峰書店刊・2005年刊は、洗練されたおもしろさの、読みやすくてしゃれた兄弟のストーリーです。
 八歳のウルフ少年は、ちびっこゆえに兄ちゃんにうとまれ、だまされ、ほら穴に取り残されたとき、「このままずっとほら穴にいて、ガイコツになってにいちゃんたちを後悔させる」ことを決意します。
 にいちゃんが後悔してわっと泣き出すシーンを想像するところ、また、もうすぐ凍え死ぬであろう自分がなんてかわいそうなんだろうと、自分を憐れむところ。
 リアルです。
 これを兄弟げんかの時に思い浮かべたことのない子は、いるんでしょうか?
 しかし、イマジネーションあふれる、才能いっぱいのウルフ少年は、この経験をすてきな夢に変えてしまいます。
 これは兄弟のお話なんですが、「結局はステキなぼくさ!」に結末が落ち着くウルフ・スタルクっぽい、(しかも自伝的短編ですって)ゆかいなお話にまとまっています。
 同じ本に収録されている「スカートの短いお姉さん」は、これまたおもしろい。
 セクシーな本屋のお姉さんに恋したウルフ少年は、しょっちゅう本を買いにいきます。
 文学好きで色っぽいおねえさんとの会話は、呼吸困難になるほどスリリングで魅惑的。おねえさんが赤い爪で、作家の名前が書いてある背表紙を、すーっとなでるのを見て、ウルフ少年は作家になることを決意します。
 おねえさんにはふられたけれど、本当に有名な作家になれてよかったねと、裏表紙のほら穴をのぞいているウルフ少年の絵(はたこうしろうさんの絵)に、声をかけてしまいそうになりました。

 ということでまた!
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三辺律子

『ミッドナイターズ1 真夜中に生まれし者』 スコット・ウエスターフェルド作 金原瑞人・大谷真弓訳 東京書籍 2007年

 ちょっと気弱などこといって取り得のなさそうな主人公(もちろん、後々あると判明)と、三枚目キャラの相棒、無愛想で怖いけど実は心の優しい老人に、頭脳明晰で冷酷な敵役―――そんなファンタジーに飽き飽きしていた人に朗報だ。かといって、この『ミッドナイターズ』は、映像的なおどろおどろしさや、謎につぐ謎で読者を煙に巻くタイプの"新しい"ファンタジーでもない。一万年以上前にさかのぼる伝説と、厳密な異世界の法則の上に成り立つ、案外古典的なファンタジーなのだ。龍も魔女もゴブリンも登場しないが、ファンタジーの伝統の継承者といえる。

 ビクスビー高校二年生のジェシカは、母親の仕事の関係でシカゴからオクラホマ州の田舎町に引っ越してきた。大都会シカゴからの転校生は学校でも注目の的で、すぐに友だちもでき、新しい生活は順調に滑り出したかに見えた。唯一、黒いサングラスをかけクラスでも浮いている少女デスに、「こっちにきてからヘンな夢、見ない?」と、ヘンな質問をされたこと以外は。
 ところが、実際ヘンな夢はやってきた。真夜中に目を覚ましたジェシカは、空中に青く光るダイヤモンドがびっしり浮かんでいる光景を目にする。それは、空から降ってくる途中、空中で止まった雨粒だった。
ビクスビーの町には、「真夜中(ブルータイム)」と呼ばれる時間のとまる「時間」があった。長さは一時間。そのあいだ、なにもかも凍りついた町の中を動ける人間は、ミッドナイターを自称している四人だけだ。数学の天才デスと、人の心を読むことのできるメリッサ、特別な視力を持つレックス、空を飛ぶことのできるジョナサン。ジェシカは、彼らに五人目のミッドナイターであることを告げられる。
 ブルータイムには、ミッドナイター以外の住人がいた。ダークリングと呼ばれる一万年以上前の生き物だ。かつては人間をしのぐ知性を持っていたダークリングだが、火を発見し、鋼鉄製の武器を持つようになった人間に追い詰められ、一日の二十五時間目にこの「ブルータイム」を作り、その中へ逃げ込んだ。つまり、ブルータイムには(ミッドナイターを除く)人間はもちろん、火や電気機器などのテクノロジー、すなわちダークリングが恐れているものは入れない。ほかに、ダークリングが恐れているものに、数字があった。ダークリングたちは十三という数字に極度な拒否反応を示すという。その証拠に町には頂点が十三ある星がシンボルマークとしていたるところに使われていた。
 ジェシカがミッドナイターである以上、ほかのミッドナイターと同様何か特殊な才能があるはずだ。それは、ジェシカが町にきてからダークリングたちの数が異常に増えていることと関係あるかもしれない。実際、ジェシカは何度もダークリングたちに襲われる。自分の命を守り、自分の能力を知るため、ジェシカはレックスたちと共にブルータイムの伝説の謎解きに乗り出す。

 雨粒も人もすべてのものが凍りついたブルータイムの描写や、黒ヒョウや巨大グモに次々変身するダークリングの存在も印象的だが、この作品の面白さはディテールにある。
まず、ミッドナイターの武器がユニークだ。ダークリングは火を恐れているが、ブルータイムに火は持ち込めないため、ミッドナイターたちは、金属と十三の数字を使ってダークリングと戦う。金属は、金や銀などの元素では効果はなく、ステンレススチールなどの合金でなければならない。太古の生き物であるダークリングは、人間の進歩の象徴を嫌うのだ。
 十三の数字をなぜ忌み嫌うかは、数学の天才デスが二巻目以降解明しそうだが、ミッドナイターたちは十三文字の言葉や十三個のものを用意してダークリングを退ける。物語にちりばめられたさまざまな言葉遊びや数合わせも、物語の魅力のひとつだ。一見突拍子もないが、そこには厳密なルールがあり、根拠となる伝説の存在が暗示されている。
 さらに登場人物たちもかなりユニークだ。人と違うため、学校で浮いてしまう少年少女はヤングアダルトの常連といっていいが、ミッドナイターたちは仲間同士でも決して団結しているわけでないのが面白い。人の心が読めるメリッサは、その能力がゆえに現実社会で生きていくのにかなりの困難を要するが、一方で普通の人間をばかにし、ジェシカのように学校に溶け込める子をさげすんでいる。ダークリングに襲われるジェシカを見殺しにしようとするところなど寒気がするほどで、印象的だ。デスは、メリッサが情報を独り占めしようとしているのでないかと疑っているし、レックスは主導権を握りたがり、縛られることを嫌うジョナサンと反目しあっている。さらにジェシカはジョナサンと恋に落ち、ミッドナイターたちのあいだではさまざまな思惑が渦巻く。
 発想や物語の雰囲気、登場人物のあり方など、今までのファンタジーとはちがう「新しさ」を持つ一方で、厳密なルールや制約に縛られた世界はむしろこれまでの伝統的なファンタジーの延長線上にあり、主人公がやすやすと特殊能力を手に入れ、自在に世界を変えてしまう最近の「何でもあり」のファンタジーとは一味違う。そんな両面を併せ持つところが、この作品の魅力だと思う。(三辺)

『サクランボたちの幸せの丘』アストリッド・リンドグレーン作 石井登志子訳 徳間書店 2007年

  もうひとつの「やかまし村」。この帯の文句に思わず手が伸びた読者に満ちたりた幸福感を約束するリンドグレーンらしさが溢れる一冊だ。
 物語の語り手である十六歳のバーブロと双子の姉シャスティンは、父の退役を機に、父の生まれ育った農場リルハムラに移り住むことになる。「ぜったいに何も起こらなかった」町の生活から一転して、田舎での日々は朝から晩までやることでいっぱい。まったくの素人が一から農業を始めるのだから、何も起こらないはずがない。初めての乳搾り、赤カブの間引きや農機具のせりでの騒動などが溌剌とした筆致で綴られる。農場の娘として育った作者本人の幸福な子ども時代が目に浮かぶ。
 優れた子どもの本の作家の例に漏れず、リンドグレーンは子どもの頃の感覚や思いを本当によく記憶していて、それを見事に再現する。「やかまし村」で見られた素朴で生き生きとした日常の描写はもちろんだが、本書では、バーブロが、男の子の額にぱらっと髪の毛がかかったのを見た瞬間、「好きでたまらなくなった」り、生きることの意味について何時間も考えた末、ハムの塊を食べて「自分が必要としていたのはこれだ」と思ったりする、思春期特有の感じ方が鮮やかに描かれている。
 実は子どもの本の作家には、幸福な子ども時代を送った者は少ないという。とすれば、リンドグレーンは稀有な例外ということになるが、その後、彼女は十九歳で未婚の母になり様々な苦労を重ねた。その辛い時代を経て、やがて子ども時代を振り返り、一点の曇りもない幸福に輝く世界を創りあげたのだ。作家がなぜ子どもの本を書くことを選ぶのか、その理由のひとつを、ここに見るように思う。(産経新聞9月17日 三辺)

 上記の書評を書いたとき、頭にあったのは恩師の猪熊葉子先生の『児童文学最終講義』(すえもりブックス 2001年)だった。この本の元になった講義で猪熊先生は、作家が自分の中にある内なる「子ども性」に突き動かされて書いた作品が児童文学であり、それは書き手にとっての「自伝の一形態」ではないかという、イギリスの児童文学研究者ホリンデールの説を紹介し、「生き得なかった幼年時代を物語を書くことで償う」作家たちの心性を分析した。
文字通り自伝に近い『サクランボたちの幸せの丘』は、バーブロの恋の悩みなどはあっても、書評で書いたように「一点の曇りもない幸福に輝く世界」が提示されている。一方で代表作である『長くつ下のピッピ』のシリーズは、私の子どものころの愛読書だったが、99パーセントの笑いと面白さのなかに、1パーセントの悲しさや怖さを感じたのを覚えている。ピッピが天涯孤独な身の上であることも関係しているだろうし、あまりにも奔放で、途方もないうそをつき、社会の枠組みから完全に逸脱しているのが、面白さでもある一方で子どもの私の中にかすかな不安を呼び起こしたのだ。だから少なくとも私にとっては、ピッピは「一点の曇りある世界」だったのだが、だからこそ惹きつけられたのでないかと感じている。リンドグレーンにとってピッピは「生き得なかった子ども時代」なのかどうかはわからないが、作家がなぜ子どもの本の作家となることを選ぶのか、という猪熊先生が出した「宿題」は私の興味を引いてやまない。(三辺)
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児童文学書評 2007/9月 ほそえ

◎幼年童話の楽しさは……
『おはようスーちゃん』ジョーン・G・ロビンソン作、絵 中川李枝子訳 (1953/2007.9 アリス館)
 幼年童話の楽しさは、黙読ではわからないだろうと思う。声に出して読んだ時の、せりふの愛らしさ、丁寧に端的に描写される様子は、目で追うよりも、耳にして目に浮かべる方がわかりやすい。ドロシー・エドワーズの『きかんぼのちいちゃいいもうと』シリーズがBBCのお話番組で放送されていたように、欧米の幼年童話には<聞く>ことで、その世界が見えてくるというのが多い。
 この『おはようスーちゃん』もそういう欧米の幼年童話の王道をいく作品となっている。植木鉢の土でケーキを作ったり、八百屋さんの馬車馬と友だちになったり、屋根裏部屋でいらないものをもらって遊んだり……と九つの小さなお話が入った本。ぷくぷくほっぺでお人形遊びの好きなスーちゃんは、幼稚園等に入る前の4、5歳という感じかしら。スーちゃんの世界はまだ、お家とその周囲だけでできていて、パパやママ、となりのおばさんなどという大人に庇護されている。それが、本書の最後のお話では、近所に同じ年のお友だちができるという結末に。同じ目線を持った他者と関わることで、スーちゃんの世界はもっと広がることになるのだろう。でも、それは本書では描かれない、これからのことだ。
 スーちゃんというひとりの子どもを中心とした世界を描くことで、毎日の暮しの中でのあどけない勘違いや思いつきをする子どもに対し、大人たちがどんなふうに向き合い、それを楽しんでいるかを教えてくれる。それは聞いている子どもにとっても、楽しくうれしいことだし、読んでいる大人にとっても、心和ませ、ハッと気づかされ、自分の毎日を振り返るきっかけになるように思う。 
 スーちゃんはおとなしく、機嫌のいい子だが、それはきっと機嫌よく過ごせるように周りの大人が空気を作ってくれているからだろう。子どもは自由で元気いっぱいで自分の感情を爆発させたっていいし、そういうのが子どもらしく、いい子でいるのは大人の抑圧に屈しているのだという見方をする人もいるかもしれない。けれど、自分の欲求をきちんと受けとめられている子は、たいてい機嫌の良い、いい子に見えるものなのだ。
自分のしたいことが伝えられ、それに対し、誠実に対応された時は、たとえやりたかったことができなくても小さい子も納得できる。少し時間はかかるかもしれないが、それを伝えあえる時間こそが、子どもと向き合うまさにその時なのだし、それをおっぽりだすことが子どもないがしろにすることなのだと本書を読んで得心した。
 スーちゃんのお話のような日々は実際にはそう多くはないだろう。ママも子どもも機嫌よく過ごすのは、なかなかに大変なことだし、スーちゃんにしても、お話になっていない(?)日常では、ロッタちゃんみたいにキーキーわめいたりしているのかもしれない。でも、このお話のような子ども時間は確かに毎日の中にキラリと存在していて、子どもの寝た後にふっと思い返したりする。こういう物語を読むことで、自分の日常のキラリをもっと見つけだせるようにもなるだろう。九つのお話を一緒に読んでいられたおやすみ前の15分はほんとうにほんとうに楽しかった。

◎その他の読み物
『あるひ あひるが あるいていると』二宮由紀子作 高畠 純え(2007,7理論社)
『からすと かばの 海水浴』二宮由紀子作 市居みか絵 (2007.7 理論社)
同じ文字で始まる言葉ばっかりで綴られる文章。タイトルからしてそう。あの次は、い。いつも いっしょのイカといるか、うれしくなった ウシ、えびと えんどうまめと えんとつ、お客さまはおおかみさん……というふうに、あいうえおの文字をそれぞれ使ったお話が1話づつ、1冊に5話入っているのだ。『それ ほんとう?』 (松岡享子作 長新太絵)を思い出したけれど、それよりも、この「あいうえおパラダイス」シリーズの方が徹底している。あんまり小さな子だと、頭がそろっているのがわからず、何がおもしろいんだかわからないみたいだったけれど、ほら、みてごらん!と見方を教えると、すごおい、わたしも作ってみるとやりはじめる。大きい子はこそこそ読んでグフグフ笑ってるし……。

『やまんばあさんのむかしむかし』富安陽子作 大島妙子絵(2007.7 理論社)
人気のやまんばあさんシリーズ4冊目。ももたろうならぬ、栗太郎と一緒に鬼退治にいった話や雪女の出てくるお話等、良く知られた昔話をもとにパロディというか本歌取りのような体裁で綴られる。その展開の仕方がなんともやまんばあさんらしくて楽しい。

『曲芸師ハリドン』ヤコブ・ヴェゲリウス作 菱木晃子訳 (2000/2007.8 あすなろ書房)
スウェーデンの作家としては初めて見る名前。細かな線描で描かれたモノクロのイラストが印象深く、横目でにらんでいる子どものような大人のような人物が主人公のハリドン。曲芸師としてひとりで生きてきたハリドンだが、今は船長と呼ぶ元劇場の支配人と一緒に暮している。その船長が、突然いなくなり、夜中さがすハリドンを描いたのが本書だ。夜の町を一輪車で駆け、ひとりぼっちの子犬やカジノのお客に会うのだけれど、慕い求める気持ちだけがハリドンの身を進ませる。ただひとりの人を思い慕うだけだったハリドンに思い遣る存在ができたラストにほっとし、安堵する。冷たい夜に手に入れたあたたかな思いの確かさが船長にもきちんと伝わっていることがうれしい。ハリドンの生活はしっかりと守られてあるのだと船長の姿から分かったからだ。作家の描くイラストは繊細で、寒さと不安に震える夜と子どもの目にうつる大きな世の中の捕らえ所の無さを静かに描いている。物語と絵の幸せな一体。悲しげだけど少しユーモラスで、あたたかい。

『蜜蜂の家』加藤幸子 (2007.9 理論社)
21歳のOLが、自然の中で養蜂の仕事をしながら、自分の居場所を見つけていく物語、とまとめてしまうと、なんだかなあ、やっぱり自然は良いねというお話は今どき能天気では?と思うかもしれない。まあ、主人公の心の動きだけを見ると、軽いというか、わかりやすいのだけれど、たぶん、蜜蜂の暮しやいろんな人びとの模様をかく方に気持ちがいってしまっているからだろう。『池辺の棲家』で描かれたような揺れ惑う人の心持ちの微妙な均衡をみつめるはりつめたような物語とは違い、溌溂と(主人公自身はうつうつしていると思っているけれど)、明日の自分に向かって歩いていく、まさに青春文学というものになっている。青春文学というのは、このように生きていってほしい、こんなふうにやりすごしていけるのよ、と先を生きた人からの応援歌みたいなものなのかもしれない。

『ワビシーネ農場のふしぎなガチョウ』ディック・キング=スミス作 三原泉訳 いとうひろし絵 (2003/2007.9  あすなろ書房)
ディック・キング=スミスといえば、牧羊犬ならぬ牧羊ブタが主人公の、映画にもなった『べイブ』の作者であり、こんなことあるかしら、あったらいいよねと、ハートウォーミングで、でも不思議と納得してしまう物語を書くのが上手い人だ。本書もその系統のお話。運の悪い、貧乏な農場で、ふつうのガチョウが金の卵をうみ、そこから金のガチョウがかえったのです。金のガチョウといえば、あのグリム童話を思い出すが、本書にでてくるのはローマの伝説。金のガチョウは富や幸福感を与えてくれるという。金のガチョウをなでた農場主のスカンピンさんもなんだか幸せな気分になって、にこやかに過ごしていると、思いがけなくも宝くじにあたったり、競馬で勝ったり……本業の農場の経営も上手くいくようになり順風満帆。そのあと、ディビット・アッテンボローを思わせる博物学者が出てきて、金のガチョウの秘密を探る顛末もおもしろい。お話に出てくる人は皆いい人ばかりで、読後感もよく、ほっこりしてしまう。

『耳の聞こえない子がわたります』マーリー・マトリン作 日当陽子訳 矢島眞澄絵 (2002/2007.8 フレーベル館)
耳の聞こえない女の子ミーガンと引っ越してきたばかりの内気な女の子シンディがそれぞれにぶつかり合い、自分と向き合いながら、友情を育む様子を描いた物語。著者は「愛は静けさの中に」でアカデミー主演女優賞を受賞した聴覚障がいのある女優。ああ、あの女性が子どもの本を書いたんだと、軽い気持ちで手にとったのだが、生き生きと描かれる子どもの身勝手さや純真さにほうっと感心し、ふたりの少女の関係の推移になるほどと納得した。手に取りやすい元気なイラストとなんともぶっとんだミーガンのキャラクターに見えかくれする心情の不安定さをきちんとみすえているところがいい。人と向き合うということを本書で自然と感じ取ってくれれば。

『はたらきもののナマケモノ』斉藤洋作 武田美穂絵 (2007.8 理論社)
ナマケモノは動くのが遅くてスローライフの王様……なんてことを知っている子が、このタイトルを見たら「そんなわけないじゃ〜ん」といって、へらへら読みはじめるだろう。そういう子こそがすっごくおもしろい!と思うに違いない。日曜日の朝になると、ぼくの部屋にやってくるナマケモノのミユビさん。修行で目にも止まらぬ速さで動けるようになったという。その修行の仕方というか、納得のさせ方というか、屁理屈以上の理屈をつけて、畳み掛けていくのが、この作家らしくておもしろい。<いそうでいないもの>を<いそうもないのにいるもの>として物語っていくそのスピード感。自在に語る挿絵がこのおもしろさを倍増している。

『ゆきだるまくん、どこいくの?』たむらしげる (2007.10 偕成社)
男の子がボタンの目とにんじんの鼻で顔を作り、帽子をかぶせてマフラーまで巻いてもらったゆきだるまくん。男の子がお昼ご飯を食べているうちに靴をはいて、スキーをはめて、出かけてしまいます。森でぶつかったクマに追いかけられたり、スキー競技会に参加したり、町まですべって、海辺の町で、パラセイリング。最後は飛行機にのっかって、男の子のうちに戻ってくるという、大旅行。するすると展開していくのも、なんてことないお話だけれど楽しい。

『長新太 ナンセンスの地平線からやってきた』土井章史編 (2007.8 河出書房新社)
長さんが亡くなってからいろいろな追悼号が出たけれど、長さんのイラストが初期の一枚漫画の仕事からぞろぞろぞろっと眺められるのは今まであまり出ていなかったように思う。ポキポキとした線のソール・スタインバ−グに影響を受けてるんだろうなと思わせる50年代や60年代はじめの頃のイラスト。それから柔らかい線になって、グァッシュの色ベタのイラスト、タブローまでさまざまな長さんの絵がたっぷり見られるのがうれしい1冊。一枚絵の漫画は今では政治風刺漫画でしか見ないけれど、「ニューヨーカー」なんかで描いていたようなそういう漫画も長さんは描いていたのだなあ。それが絵本を作っていく時でも、感覚として底の方に流れていたような気がする。長さんの言葉とそれを読み解くような編者の言葉。巻末には奥様に長さんの日常を聞いたインタビューがついている。なるほどなと思わされることがいっぱい。以前、湖のほとりのホテルにとまって、何日も窓からカイツブリが出てくるのを見ていたと話していらしたのを思い出す。「カイツブリって、どこからでてくるかわかんないでしょ。それをね、ここかなと、こんどはあそこにでるぞ、と思いながら、じっと見てんの。そうやってすごしたよ」その話を聞きながら、『ちへいせんのみえるところ』や『つきよのかいじゅう』など長さんの絵本の最大の主人公、姿のナイ、見ている人のことを思っていた。カイツブリじゃなくて、違うものを見てたんじゃないのかななんて。「松濤公園の池にワニがいるって話があるんだよ、タクシーの運転手が知ってる?って聞くから、散歩の時に見てるんだけどね」なんて、笑っていらしたことも思い出した。

『赤い鳥翔んだ〜鈴木すずと父三重吉〜』脇坂るみ著 (2007.8 小峰書店)
雑誌「赤い鳥」の主幹であり、文学者でもある鈴木三重吉の娘、すずに取材をし、まとめられたもの。副題にもあるように、どちらかといえば、すずが戦後、日本の既製服業界を牽引してきたという起伏のはげしい人生の節目節目に、父の面影を挿入し、父娘を対比させながら語っている。それでも、三重吉の人となりや、「赤い鳥」の興隆と衰退、それを彩る白秋や坪田譲治などの関わりなど、興味深く、初めて知ることもたくさんあった。なににもまして、娘のすずがファッション業界でこのように生きてきた方だとは本書を読むまでは全く知らず、そのバイタリティに圧倒されてしまった。

『森のこずえちゃん』松居スーザン作 松成真理子絵 (2007.6 童心社)
自然との交歓をまっすぐに描くのがこの作家のぶれない視点。山あいの原っぱの小さな家におばあちゃんとすむこずえちゃんの1年を追って書かれた、短編連作。こずえちゃんが出会う山や森の生き物との触れ合いや、自然が仕掛けた不思議にふっと入り込んでしまうこずえちゃんの姿を1話1話、しっかりとらえ、読み終えたあと、1年という時間の経過とともに、こずえちゃんの時間がもっと大きなもの、おばあちゃんたちの時間ともつながり重なっているというあたたかな拠り所を読者にぽんと見せてくれる手際が素敵だった。こずえちゃんや仲間たちがうたう、いろんなうたがとてもかわいく、発見に満ちているのも楽しい。自分で読むのも楽しいが、読んでもらい耳で味わうのもうれしいだろう。ときどき、生な感じの漢語が顔を出すところがあり、そういうところは、「えっ、どういう意味?」と聞き直したり、本で漢字を見直したりしていたが。

『わたしのおとうと』あまんきみこ作 永井泰子絵 (2007.7 学研)
なんでもまねっこして、くっつき虫の弟、たあくん。わたしは、ちょっとうっとおしくてたまりません。でもね、うさぎみたいにみみをすましてまっているのよ、キリンみたいに首をのばしてかえってくるのをまっているのよ、と母さんはいうのです。小さな弟のお姉ちゃん大好きというまっすぐな気持ちとそれをうけいれていくおねえちゃん。日常の中のなにげない行為をきちんとおはなしにして、互いの気持ちを納得させるお話作りの上手さがひかる童話。

◎その他の絵本
『黒グルミのからのなかに』ミュリエル・マンゴー文 カルメン・セゴヴィア絵 ときありえ訳(2005/2007.7 西村書店)
スコットランド民話を元に書かれたお話。母さんを連れていこうとして死に神を黒ぐるみのからの中に閉じ込めたポール。母さんは元気になったのだけれど、その日から、あらゆる物が死ななくなった。卵は割れず、野菜は収穫できず、魚は釣れない……。母さんにそのわけを話すと、私のことを大事に思うのなら、死に神を探してきて、と母さんはいうのだ。すべての命には終わりがあるのだから、と。海の生き物たちの協力をうけ、やっと黒グルミをみつけ、死に神を外に出したのです。この世の理を静謐な詩情をたたえた絵で描いた画家。とても印象深く、心にしみる。

『イエコさん』角野栄子ぶん ユリア・ヴォリえ(2007.8  ブロンズ新社)
ヘルシンキの絵本作家と日本の児童文学作家のコラボレート。住んでいたおばあさんも引っ越して、ひとりぼっちになった家、イエコさん。おいしいものたべて、エクササイズして、元気に過ごします。そこへやってきたのはちょろネズミ、それをパクリペロリと食べちゃって、つぎつぎやってくる、ネコもオオカミもブタも男の子まで食べちゃうの。でもね、イエコさん、お腹いっぱいで、パンパンにふくらんで、オナラの音が
バブーン! みんなが、楽しかったねと出てくる、なんとも豪快な遊び方。イエコさんの造型が楽しくて、こういうこともありそうねと思わせる絵もおもしろい。

『おしりしりしり』長野ヒデ子作 長谷川義史絵(佼成出版社 2007.8)
ヒデ子さんの歌遊び絵本。おしりから始まるしり取り遊びがいつの間にかトイレトレーニングになるところがおもしろくて実用的。くり返される音、リズミカルな言葉、楽しいイラスト。ラストのゴリラがトイレに座っているイラストをみれば、画家も思いっきり楽しんで描いてるんだなあとにっこりしてしまう。

『だいすきひゃっかい』村上しいこ作 大島妙子え(2007.8 岩崎書店)
なかなかねむたくならないはるなちゃん、はみがきもしたし、おつきさまにおやすみもした。あとはかあさんのむねにだきついて、大好きすればいいだけ……。元気いっぱいのお姉ちゃんだけれど、やっぱり下の子に遠慮して、がまんしてるんだなと思うことがたくさんあります。それが、おやすみまえの大好きだっこ百回にあらわれているんだろうね。お母さんでいられる時間は限りのあるものだから、ただただ、だっこで過ごせる時間が愛おしい。

『いのしし』前川貴行 写真、文(2007.8 アリス館)
かわいいうりぼうの表紙写真。イノシシをテーマにした写真絵本はあまり見たことがない。森でイノシシの運動会跡(地面を掘り返して餌を探した跡)は何回も見たことがあるけれど、どんなふうに生活しているのか、見せてくれたこの本は、とてもおもしろかった。ごわごわの毛並みの写真が見返しに使われ、年老いたイノシシの姿が迫力でせまってくる。母親のきびしさにもびっくりしたし、うりぼうたちの切実さもよくわかった。

『フェアリーショッピング』サリー・ガードナー作 神戸万知訳(2003/2007.7 講談社)
妖精や魔女たちがお買い物をする通りを、いろいろ紹介してみせる絵本。それぞれの見開きに描かれる町並みや、お店の名前や宣伝文句、売っている物たちなど、イラストの隅から隅まで、細かに描かれる物たちを読んでいきましょう。おとぎ話で良く見る者たちやそのパロディのようなイラスト等、みつかって、楽しめます。ハンプティダンプティがいたり、ちいさな赤いめんどりという名の焼き菓子屋さんがあったり、昔話、妖精物語好きにはなるほどねえ、と感心するような細密さでこの世界を作り上げている。

『つくってみよう へんてこピープル』tupera tupera (2007.7 理論社)
家の中に転がっている廃品で楽しい工作を作ろう!という本。ひとつひとつは今までの子ども向け工作本にのっていたようなものだけれど、このコンビで作った物がセンスよく、楽しく出来ているので、こんなのできたらうれしいな、ぼくも作ってみようかなと子どもをうまくそそのかす本になっているのかなと思った。作り方のページは、なんだかふつう。

『ローバー』マイケル・ローゼン文 ニ−ル・レイトン絵 しみずなおこ訳(1999/2007.7評論社)
犬の目から見た飼い主の家族の様子を描いた絵本。犬のボキャブラリーや犬の考え方で書かれているテキストと絵のずれや違いを読み取っておもしろがる、という、なかなか高度な絵本読みの技術を要求される絵本ではある。なんてことなく、子どもは読めちゃうんだけどね。ローバー(人間の女の子)はぼくのペット。でも、耳も良く聞こえないし、つめも弱いし、毛だって頭の上にしかないんだよ……なんていうのだから、子どもはとってもおもしろがった。視点を変えてみてみる楽しさみたいなものを感じてるんだろうな。

『クマノミとサンゴの海の魚たち〜ちしきのポケット5』大方洋二写真・文 (2007.7 岩崎書店)
ディズニー映画で人気者になったクマノミを中心に、サンゴと共に暮す魚たちとそのまわりの生態を自然の状態でとった写真で構成された写真絵本。みごとなのは色鮮やかな魚たちの写真ばかりではない。珊瑚礁にすまう生き物たちの生な姿や、サンゴを食べる嫌われもののオニヒトデを撮らえ、自然の中ではどの生き物も命ある物を食べているので、サンゴを食べるからと言ってよい、悪い等とは言えないと、はっきり書いてある著者のまなざしの強さだ。サンゴの混じった白い砂の秘密をブダイの生態と共に説明したり、希少なクマノミの種類の産卵、孵化を丁寧に見せてくれたりするところ。

『うさぎ小学校』アルベルト・ジクストゥス文 フリッツ・コッホ=ゴータ絵 はたさわゆうこ訳 (1924/2007.7徳間書店)
ドイツで八〇年もの間読みつがれてきた絵本。うさぎ小学校のようすを親しみ深くつづった韻を踏んだ詩と細やかに描かれた絵で人気がある。片ページにはシルエットがウサギ本来の姿が描かれ、右ページには洋服を着て、人の子どものように走り回るウサギの姿が描かれ、それは、この詩を読んでもらう人間の子どもが実際に見ているウサギの姿だという。植物のお勉強、怖いキツネのお勉強、イースターエッグの色付け、詩、音楽、はたけ、猟師にやられないための走り方の特訓とうさぎ小学校は忙しい。いたずらっこはおこられて、耳を引っ張られ、たちんぼうを言い付けられたり、昔風のしつけ方もしっかり描かれている。この古風さは今どんなふうに読まれるのだろう。ドイツではノスタルジックに読まれているのだろうか。日本では?

『ぼくのしっぱは?』しもだともみ作 (2007.7 教育画劇)
ぼくにはどうしてしっぽがないのかな?とさがしにいったぼく。出会う動物たちからしっぽをもらって、すてき!と歩いていくのだけれど、やっぱり返してしまうことになって……。ページをめくるたびに犬やうまやウシ等それぞれの動物たちのしっぽの役割がやさしく解説される。今までも科学絵本でこのようなものはあったけれど、お話におとしこんでいるところがミソ。巻末にはしっぽのつくりかたの詳しい説明付き。

『ぼくはおうさま』レオ・ティマース作、絵 ひしきあきらこ訳(2006/2007.7 フレーベル館)
ベルギーの絵本作家の新刊。動物たちのキャラクター化されたインパクトの強いイラストが人気。なぜか背中に王冠を乗せたカメがぼくはおうさまだ!と動物たちに見せると、それぞれが自分にぴったりと王冠を手にする。それが見開きごとに描かれる構成。ラストはやっぱりライオンにぴったり!となるのだが。カメの背中に王冠がのっかったわけは……とびらをみれば、ほほうとわかる。

『ミミちゃんのねんねタオル』アンバー・スチュアート文 レイン・マーロウ絵 ささやまゆうこ訳(2007/2007.7 徳間書店)
大きくなったのにねんねタオルがてばなせないミミちゃん。ライナスの毛布みたいなものですね。みんなに取り上げられないように、木のうろに隠したのに、どこに隠したのかわからなくなっちゃった。家族はお話を読んでくれたり、ぬいぐるみをかしてくれたり、気づかってくれるのだけれど、ミミちゃんはやっぱりタオルが恋しくて……でも、日にちがたつごとにその気持ちも薄れていったころ、きつねのあかちゃんが使っているのを見つけます。あなたにあげるね、とやさしく見守るミミちゃん。その過程が丁寧に書かれているのがこの絵本のいいところ。

『わたしのママはまほうつかい』カール・ノラック文 イングリッド・ゴドン絵 いづみちほこ訳 (2007.7 セーラー出版)
『ぼくのパパは おおおとこ』で人気となったコンビのお母さんをテーマにした新作。こわい夢を見てもかいじゅうをおいだしたり、けがをしてもチュッとしてくれるだけで痛くなくなったり、ママが歌うとチョウチョが集まってきたり……。大きなパパに負けないくらい、こちらのママも大きくてダイナミックに描かれるのがいい。

『超じいちゃん』ステファニー・ローゼンハイム文 エレナ・オドリオゾーラ絵 青山南訳 (2005/2007.8光村教育図書)
『ハンタイおばけ』その独特なイラストレーションで注目の画家の邦訳2作目。93歳の寝たきりのおじいちゃんに孫のデイジーがのませたのは超元気になるジュース。そうしたら、おじいちゃん、超元気で走って、飛んでとまりません……。不思議に愉快なお話をなんとも楽しい絵本にしたのは画家の力。読みようによっては、ちょっと無気味な話ですから。

『ぼくがラーメンたべてるとき』長谷川義史 (2007.7 教育画劇)
最初、ぼくはラーメンを食べていて、となりでミケはあくびをしていて、その隣ではみっちゃンがチャンネルを変えて……と、ページをめくるごとに、どんどん隣に視点がうつっていく絵本。名前のわからない子どものところにいって、隣の国の子のところへ、とどんどん場所がうつっていって、何にもない山のむこうの国で倒れている男の子へ、視点がフォーカスする。1冊の絵本の中で日本の現代のなにげない日常とあまりにも懸け離れた現実を生きる子を同じ時間できりとって、つなぐ。大きな視点が今を生きるということを感じさせてくれる絵本。倒れていた男の子が立ち上がった表4のイラストが救い。

『だいすきがいっぱい』ジリアン・シールズ文 ゲイリー・ブライス絵 おびかゆうこ訳 (2007/2007.10 主婦の友社)
おなかにオルゴールの入った白いぬいぐるみのくまが、女の子と一緒に遊ぶにつれ、帽子が取れ、毛皮がよごれ、オルゴールまでとれて、よれよれになってしまう様が描かれます。くまは自分が大事なものをなくしてしまったと悲しがるのですが……。たくさん遊ばれてくたくたになったぬいぐるみほど愛らしいものはありません。この縫い目、このシミ、どれも子どもとの時間を思い出させます。それを受け入れられるようになるまでをくまの目線で表情豊かに描き出している絵本。こんなふうにぬいぐるみたちはお話しているのかもしれないと思わせるリアルなタッチの絵が不思議な雰囲気をかもし出しています。

『ちぎはぎおばあさん きょうもおおいそがし』たかしまなおこ作 (2007.7 講談社)
講談社絵本新人賞受賞作。本作が初めての絵本となる。リトグラフの色の鮮やかさが、つぎはぎ(パッチワーク)の楽しさをよく表現している。丘の上でひとり、ぬいものをしながら静かに暮していたおばあさん。身の回りのものには全部つぎはぎしてしまって、もうするものがありません。もっとたくさんつぎはぎがしたいのに……郵便屋さんのくたびれたカバンにしてあげたらどうかしら?とどんどん想像が広がって……。お店を開くことにしました。丁寧にかかれたイラストと見返しにまでお話を見る楽しさを詰め込んだところが好感が持てる。

『マリーのお人形』ルイーズ・ファティオ文 ロジャー・デュボアザン絵 江國香織訳 (1957/2007.9 BL出版)
骨董品店のショーウィンドウにかざられているアンティークド−ル。一緒に遊べる小さな女の子がいたらいいのにと毎日ため息をついています。郵便屋さんの娘マリーは学校の行き帰りにこのお店をのぞいては、このお人形と一緒に遊べたらなあと思っていました。そのふたりがひょんなきっかけでまた出会い、一緒に過ごすようになるまでを描いています。巻末に一緒に読めるようにお人形用のミニ絵本がついています。かわいい工夫です。

『サカサマン』海老沢航平文 本信公久絵(2007.9 くもん出版)
子ども創作コンクールの最優秀賞受賞作の絵本化。カエルなのに赤いマントをつけて金の星を胸に抱いているサカサマン。彼が体の中に入ってくると、思っていることとハンタイのことをしてしまう……。良くあるパターンのお話だが、サカサになって良いことばかりじゃなく、困ったことも起きてしまうし、ぼくのためになることをしてくれたかと思えば、そうじゃないこともある。敵なのか、味方なのかわからないという設定がおもしろい。ぼくが自分で前の自分とはさかさまになったから、別の人のところにいくよ、と出ていくシーンやラストシーンなど、お話としてきちんと整合性のある物語になっているのがいいなとおもった。

『おしり』さとうあきら写真 さえぐさひろこ文 (2007.9 アリス館)
動物のおしりの写真にことばをそえた写真絵本。動物の後ろ姿はあまり見ることもないので、よくよく見るとおもしろいのだ。マンドリルのおしりも顔みたいに色鮮やかだったなんて知らなかったし、カピパラとウォンバットとプレーリードックのおしりの相似型にも笑ってしまった。さいごはみんなお顔を見せてくれて、こんにちはでおしまい。

『ねぼすけはとどけい』ルイス・スロボドキン作 くりやがわけいこ訳 (1962/1968,2007.9 偕成社)
なんともゆったりのんびりしたお話。スイスの山奥にある村の小さな時計屋。店の中は鳩時計でいっぱい。どの時計もきちんと時を合わせて鳴くのに、一つだけいつも少しおくれる鳩がいるのです。時計がボンとなっても、同じように飛び出してポッポーと鳴かないのです。インドの王様が鳩時計を買っていくときに、それが問題になり、どうしてなのか、どうしたら声がそろうのか……とお話が展開していきます。おくれる理由というのが時計の中の鳩がねぼすけだったから、というのも楽しいですが、時計屋のおじいさんが修理したその方法もかわいらしい。スロボドキンの絵柄にあったお話でほっと心和みます。

『ほっぺのすきなこ』木坂涼作 杉田比呂美絵 (2007.10 岩崎書店)
お話雑誌「ほっぺ」の巻頭を飾った詩をもとに絵本化されたもの。ほっぺのすきなこ だれですか?はーい、てをあげたのは……というリフレインでつながっていく、はるのかぜやどろんこやごはん、ぬいぐるみ……こどものほっぺばかりでなく、おつきさまのほっぺやもものほっぺ、こぶたやぞうのほっぺまででてきます。ほっぺという言葉の持つやわらかさ、かわいらしさ、あたたかさと、はーいと手をあげるものたちとの組み合わせの親しさやおもいがけなさ。大好きという言葉でつながっていく様々なものを、ほらね、世界はこんなにも愛らしさであふれていますよ、と切り取ってみせてくれる。

『おしりのサーカス』さかざきちはる (2007.9 ハッピーオウル社)
ぞうもねこもねずみもしっぽをプラプラさせ、おしりを見せて笑っています。最初はだれのしっぽかなあとといかけ、めくれば、ねずみくんとかりすちゃんとかねこちゃんとか、あてっこみたいに進んでいきます。どんどん積み上がった動物たちを一度に見せて、テキストもどんどん積み上げて読むのが大変! ラストはみんなでサーカスです。シンプルでかわいらしい1冊。

『ちきゅう』G・ブライアン・カラス作・絵 庄司太一訳 (2005/2007.9  偕成社)
以前のフレーベル館から出された『うみ』と対になる絵本。地球の動きのしくみをわかりやすく絵解きしてくれるが、それを詩的なことばと絵でイメージ深くなるようにしているのが、カラスの絵本の特色。地球という大きな乗り物にのって、ぼくたちは宇宙を旅しているんだというイメージの雄大さ。夜と昼。12の月の地球の位置、季節のめぐり、重力のこと。それぞれの意味は生活の中に溶け込ませ、科学の不思議をやわらかな言葉でしめしている。

『だいすきなもの〜ネパール・チャウコット村のこどもたち』公文健太郎写真 (2007.10 偕成社)
ネパールという日本の子供達にはなじみのない国。そこに住む子供達の暮しの写真とその子の言葉で構成された写真絵本。それぞれの子が自分の大好きなものを教えてくれます。土が好きという子。踊ること、歌うこと、勉強すること、かくことが好きという子。牛がすきという子。地面がすき、お母さんがすき、家がすき、土曜日の2時がすき……それぞれの子供達の写真の合間に、好きな食べ物や遊び等の写真も入ります。見たことのあるようなものもあれば、全くわからないものもあり、近いような遠いような暮しの一こまが見えてきます。全く遠く離れていてもこの子とわたし、好きなものが一緒だ!と発見すれば、その距離はもっと近くなるのでしょう。そういう絵本だと思います。

『ちいさいちゃん』ジェシカ・ミザーヴ作 さくまゆみこ訳(2006/2007.8 主婦の友社)
ちいさいちゃんはどんなにがんばってもおおきいちゃんにはかないません。それにおおきいちゃんはいじわるだってするのです。だから、ちいさいちゃんもおこって、おおきいちゃんのオウムを逃がしてしまったの……。ゾロトウの『ねえさんといもうと』を思い起こさせる展開。ゾロトウの描く姉妹がおとなしく良い子たちだったのに比べると、本作では、そこのところ現代っ子らしく、アクティブに描かれている。ちいさいちゃんの視点に絞って、描かれていたり、前半おおきいちゃんを影でだけ表現しているところなど工夫が見える。それぞれに姉妹が認めあい、遊ぶラストがうれしい。
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【絵本】
『だいすきなもの ネパール・チャウコット村のこどもたち』(公文健太郎:写真 偕成社 1300円 2007.10)
 ネパールの小さな村の子どもたち。
 遊ぶ姿、勉強する姿。様々な表情。
 日本から見るとそこには豊かさがあり、貧しさがあります。豊かさが多いと見えるか、貧しさが多いと見えるかはそれぞれですが、子ども読者にとって、別文化の子どもたちの姿は、自分たちの世界を見つめ直すきっかけにもなるんじゃないかな。(ひこ)

『だいすき、ママ!』(マーガレット・ワイルド:ぶん スティーブン・マイケル・キング:え さんべりつこ:やく 主婦の友社 1300円 2007.09)
 ママとはぐれてしまったこぶた。色んな動物のママが遊んでくれようとしますが、やっぱり本当のママじゃないと・・・・。
 ただ単にママ大好きってことではなくて、まず喪失があり、孤独があり、探求があり、巡り会う、その手順を踏んでいるから、妙なベタつきがないのですね、これは。
 そこに一票、(ひこ)

『とりのこもりうたーちいなさかがくのとも10月号』(木坂涼:ぶん 夏目義一:え 福音館 380円)
 鳥の鳴き声がするのに、木々のどこにいるのか分からない。どこで眠っているのかわからないと、捜したことはありませんか? 捜しても見つかることはめったにないですよね、これが。いつも、それが、なんか悔しい。
 この絵本は、そんな悔しさから少し解放してくれます。
 様々な鳥のざわめきや気配から、ページをめくると、眠っているシーン。詩人はそれをこう唱います。「ねんねんむう」。
 うん、確かに、ねんねんむうだ。(ひこ)

『サンゴの森』(なかむらこうじ:しゃしん キャサリン・ミュジック:ぶん そうえん社 1300円)
 『コブダイ 弁慶の海』で、海とそこに住む生き物の美を伝えてくれたなかむらが、今度はサンゴの世界を見せてくれます。
 といっても珊瑚礁の美しさといった側面より、生命としてのそれに迫っていく見せ方は、サンゴが危機に瀕している今、的確な判断でしょう。生々しいサンゴがそこには映されています。(ひこ)

『ジェイミー・オルークとなぞのプーカ』(トミー・デ・パオラ:再話・絵 福本友美子:訳 光村教育図書 1400円 2007.09)
 トミー・デ・パオラって、「わ! トミー・デ・パオラだあ!」って喜んでしまう作家なのですが、今回も期待を裏切らない仕上がりです。
 なまけもののジェイミー。おくさんのアイリーンは赤ん坊が生まれた妹の家に手伝いに出かけて留守に。さっそく悪友たちとどんちゃん騒ぎ。と、謎のプーカが現れてお片づけしてくれます。調子に乗ったジェイミー、毎夜毎夜楽しむのですが・・・。
 繰り返しパターンのおもしろさと、必ず来るであろうどんでん返しへの期待が膨らみます。(ひこ)

『どろぼう だっそう だいさくせん!』(穂高順也:作 西村敏雄:絵 偕成社 1000円 2007.09)
 まぬけな3にんのどろぼうが、牢屋を脱走するのですが、もちろん看守も相当まぬけでないと無理なので、そこはまあ、まぬけだらけの物語です。
 オチもまた、十分まぬけで、そうしてまぬけのまま絵本は終わるのです。それで良いのだ。(ひこ)

『いい たび ボンボン』(山下明生:作 渡辺三郎:絵 ポプラ社 1200円 2007.07)
 船長のパパは仕事に出かけ、ママはあかちゃんの世話でいそがしい。だから「ぼく」はいそがしくないママを探しに、パパのベッドを船にして旅に出る。
 親から自立していく子どもへの優しい背中の一押し的物語です。波瀾万丈冒険の旅ってわけではなくて、子どもの想像力が自分のさみしさを支えていく造り。
 山下と渡辺の相性は抜群ですね。(ひこ)

『ぼくは孫』(板橋雅弘:作 西村敏雄:絵 岩崎書店 1300円 2007.09)
 いつもうるさいパパとママ。それに比べておじいちゃんとおばあちゃんはとても優しい。
 どうして?
 それはお前が孫だからだというおじいちゃん。おじいちゃんたちだって、ママが子どものころ、口やかましかったんだよ。っていう展開がいいですね。この一ひねりが案外難しいのですが、そこは板橋。
 単に孫かわいい絵本なんてつまらない。色んな立ち位置で色んな顔を見せるものだってことを伝えています。(ひこ)

『くるみくるみ』(松岡達英:さく・え そうえん社 1200円 2007.09)
 くるみの料理から、どんな木か、どんな実か、くるみに関する様々なことが、詳しく、やさしく描かれていきます。つまり、くるみ一つに関しても様々なアプローチがあり、様々な顔があること、くるみも一つの世界であること、です。(ひこ)

『うみべの おとの ほん』(マーガレット・ワイズ・ブラウン:ぶん レナード・ワイズガード:絵 江國香織:訳 ほるぷ出版 1300円 2007.08)
 1941年の作品です。
 『おとのほん』3作目。今回こいぬのマフィンは海へ。だって海の音って知らないから。
 海を見ました。潮の香りもかぎました。でも、音は? カモメの鳴き声、汽笛、遠くの島からは羊の鳴き声。
 そうして、作者は、マフィンの目、いや耳を通して、世界を描いていきます。
 最後の音は何?
 それはお楽しみ。
 やっぱり巧いわ。(ひこ)

『ひよこの コンコンが とまらないー北欧のむかしばなし』(ポール・ガルドン:作 福本友美子:訳 ほるぷ出版 1200円 2007.07)
 ガルドンらしいシンプルですが活き活きとした画と、リズム感溢れる物語展開で楽しませます。
 ひよこがのどを詰まらせて、コンコン。母鳥は、水を汲みに行くけれど、川にカップが必要と言われます。木に頼むと、揺すってくれないと木の実は落とせない。少年に揺するように頼むと靴が必要。という風に繰り返されていく、おなじみのリズムです。その安定感がいいんですよね。(ひこ)

『うさぎ小学校』(アルベルト・ジクストゥス:文 フリッツ・コッホ=ゴータ:絵 はたさわゆうこ:訳 徳間書店 1300円 2007.07)
 1924年の作品です。
 こうさぎの初めての学校生活。その一日を描きます。なんとのどかで楽しそうなことでしょう。もちろん猟師に撃たれない訓練も授業にはあり、昔らしい厳しい仕付けシーンもあるのですが、それでも学校生活のワクワクさが、ごく自然に描かれています。
 この一日を、もう今では失われた学校生活だと懐かしんで読むのか、学校とはそういうもののはずだと読むのか。難しいところ。(ひこ)

【創作】
『レンアイ@委員会』(令丈ヒロ子 理論社)
 全10巻、ついに完結。というか最初から10巻を予定していたわけではなく、書き続けていく内に、ここを終わりとするようになったのが、「あとがき」でよくわかる。
 ひょんなことからケイタイメールでレンアイ相談に乗ることになってしまった主人公たちという設定で、子どもたちの様々なお悩みに答えていくシリーズが、応えていくシリーズとなり、やがては主人公自身の物語として、読者に開かれていく様は、子ども読者に心地よい信頼感を抱かせたでしょう。
 あ、SP版があるそうなので、楽しみにしよう。(ひこ)

『ラークライト 伝説の宇宙海賊』(フィリップ・リーヴ:作 松山美保:訳 理論社 1800円 2007.08)
 アーサーの母親は行方知れず、父親は研究に没頭。アーサーは姉と二人、仲がよいとはいえないけれど、宇宙船、ってかそれが住居なのですが、ラークライトで暮らしています。
 そこを突如襲う宇宙蜘蛛の集団。こいつらは何者だ!
 ファンタジーなんていっていられない、コテコテのSF冒険大活劇です。悪い意味ではなく映画的です。ハラハラドキドキの展開なんですが、もちろん正義が勝つのだ。(ひこ)

『ブルーバック』(ティム・ウィントン:作 小竹由美子:訳 さ・え・ら書房 1300円 2007.07)
 オーストラリア、小さな入り江で母親と二人、漁をしながら細々と暮らす少年エイベル。そんな彼に友達ができます。大きな大きな魚、ブルーバック。エイベルの毎日は豊かで楽しいものとなります。しかし、隣に住み着いた男は、海の恵みを根こそぎ奪い取ってしまおうとする。ブルーバックも見つかれば狙われる・・・。
 エコロジーと癒しの物語。というとなんだかもういいやって思う人も多いでしょう。確かにそうした「信じる」強さがここにはあるのですが、まるでノヴェライゼーションのようにサラリと物語が展開していくので、ベタつきはありません。大人にとっては物足りない作品かもしれませんが、子ども読者には印象を残すタイプです。でもこれ、本国では児童書ではなく一般書みたいですね。(ひこ)

『海のジェリービーンズ』(角野栄子:作 高林麻里:絵 理論社 1300円 2007.08)
 海の前にあるルルナさんのお店、名前は「ジェリービーンズ」。大きな街で仕入れてきた素敵な品々をルルナさんがひと手加えて売っています。ネコさんみたいなミシンだとか、ビーズをあしらった靴だとか、ちょっと心をくすぐってくれる品々。
 海辺で拾ったシーグラス。波でもまれて丸くなったガラスのかけらですが、見知らぬ女の子からシーグラス(海の草)だから、植えてあげて欲しいと言われて植木鉢に。すると芽が出て・・・。
 作者の想像力で生み出された楽しい物、ワクワクする物が一杯出てきます。こんな風にして時間を楽しむんだなって伝わればいいな。(ひこ)

『ぼく のんびりがすき』(かさいまり:作 秋里信子:絵 岩崎書店 1000円 2007.08)
 忙しいより、のんびりがいい。そんなこぐまのお話。秋里の画とともにほんわか物語が進んでいきます。そこにはちょっとした迷いや悪意も含まれていて、それが「のんびり」を際だたせます。
 こうした自己肯定の物語と、自己相対化の物語をつなぐ作品がもっと生まれるといいなとおもいます。(ひこ)

【評論】
「ルイザ  若草物語を生きたひと」ノーマ・ジョンストン 

 今ではかなり知られているエピソードであるが、オルコットの『若草物語』(一八六八)は、ひとりの編集者の「現代の少女を主人公にした、少女のための物語を」(225)提供したいという要望から誕生した。その後、幅広い年齢の読者に支持され、今日まで読み継がれる古典となったこの作品は、日本でも高い知名度をもつ。だから、作者オルコットの伝記が、コーネリア・メグスによる一九三三年のものしか訳されていないと聞けば、多少なりとも意外に感じるのではないだろうか。
 当然ながら、オルコットに関連した本は多く存在するし、日本人による多数の案内書やエッセイ、さらにオルコット論を収録した研究書などもある。その大部分は、作品の舞台や作家の生地などを紹介し、著作を手がかりとして作家としてのオルコットを読み解いている。
 今回訳されたノーマ・ジョンストンの『ルイザ』は、波乱万丈の複雑な人生を送ったオルコットという女性を、おもに家族との関係から描いた伝記である。日記や作品を手がかりにし、さらには各種資料をもとにオルコットへの解釈を行なう手法は研究書と大差ない。子ども時代からそれらの作品を愛読し、作家のすべてを尊敬していると述べるジョンストンが、小説家として培ってきた技術を駆使し、オルコットの全人生が把握できる伝記となっている。そのうえ、ジョンストン自身が感じたように、生身のオルコットやその家族と知り合っているような錯覚を覚える。
 伝記作者が被伝者の両親に言及するのはごく普通のことだが、ジョンストンは時計の針をさらに戻し、双方の祖先がそれぞれ一六三〇年と一六四〇年に渡米したことに触れ、オルコットの両親が結婚するまでの過程を三章もかけて紹介している。お金を稼げない父ブロンソンのために一家は家を転々とし、さまざまな友人知人の援助を受ける。だが、それを半ば当然のように生きるブロンソンの理想主義は、家族に大きな犠牲をもとめるものであったし、母アッバも夫を擁護する生き方を強いられた。
これらの回り道ともいえる記述を経ることで、オルコットの性格形成の鍵となる父方と母方の系譜の内容や、「克己心と仕事の価値を重んじる清教徒の伝統を受け継いでいた」(149)ことの理解がいっそう容易になる。そして、演じる才能と書く才能をもつルイザは、「裁縫、教師、家事、看病ができる娘」(131)になり、蓄えてきたそれらの経験を作品の素材として生かすのである。
 オルコットは『若草物語』で成功し、作品を売り込むのではなく、執筆を依頼される立場に変わった。それによって「いまやルイザは、『オルコット女史』でなかったらなかなか書けないようなことをずばずば書けるようになっていた」(247)。たとえば女性参政権の問題、あるいは仕事をする権利、新しい形の家族像、まともな食事と適度な運動の必要性などが、『昔気質の一少女』や『八人のいとこ』に書きこまれていくのである。もちろん個々の作品から容易に読み取れる指摘ではあるが、経歴と重ね合わせているのでわかりやすい。
 本書は訳者の谷口氏が気に入って選んだという。本の途中に分散して図版を挿入している原書と趣向を変え、訳本では前後半の二箇所に掲載するギャラリー仕立てになり、ウィリアム・アンダーソン著・谷口訳『若草物語ーールイザ・メイ・オルコットの世界』(求龍堂、一九九二)からの図版を追加している。オルコットをめぐる谷口氏の仕事の積み重ねが生きた本といえよう。(西村醇子) *2007年5月25日付け「週刊読書人」4面掲載