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2007.10.25

       

絵本に求めるもの 
―新人アーティストの目から見た日本と海外 
             
野坂悦子(翻訳家)     

2007年「イタリア・ボローニャ国際絵本原画展」が、今年もボローニャ児童図書展の会場でスタートしました。同展には、世界58カ国、2653組ものイラストレーターが応募し、日本人作家17人をふくむ23カ国85組が入選しています。プロでもアマチュアでも応募できるこの展覧会は、出版作品の原画を世界に紹介する場にもなれば、絵本作家をめざす人たちの腕試しの場でもあります。応募する人たちは、学生あり、プロの絵本作家あり、イラストレーターあり、版画家ありで、実に様々です。(こうした人たちを、本稿では「アーティスト」と総称することにします。)今年は日本では、板橋区立美術館を皮切りに西宮大谷記念美術館、高浜市やきものの里かわら美術館、石川県七尾美術館をまわります。その後、韓国にも初めて巡回し、ネヴァーランド美術館で展示されるそうです。
さて、私は本誌2006年十月号に書いた「『ボローニャ国際原画展』の歩み」という記事を、ある問いかけで締めくくりました。それは、この原画展の入選作家をはじめ、作品ファイルを持って自らボローニャを訪れ、海外で絵本作家としてデビューする日本の人たちが年々増えている反面、そういう人たちの作品が世界に通用するレベルであっても、「日本の出版社からなぜすぐに絵本が出ないのか?」という疑問でした。そこには日本と海外、それぞれの出版界において、「(文章、絵の両面で)絵本に求めるものの違い」「売り込みに対する対応の違い」など、様々な要素があるに違いありません。

この春、ボローニャを訪れた日本人アーティストたちの生の声を聞こうと、JBBYボローニャ展実行委員会・板橋区立美術館がアンケートを実施した結果、27名の声が届きました。そのうちほぼ半数が、ボローニャ国際絵本原画展に入選歴があり、2007年の入選者も9名含まれています。そして、これまでに日本で出版歴のある人が7名、海外で出版歴のある人も8名(うち2名は日本でも出版歴あり)含まれていました。出版国はイタリア、台湾、フランス、香港、スイス、韓国と世界各地にわたっています。売り込みを行った先の国々をたずねてみると、ベルギー、チェコ、アメリカ、ポーランド、スペイン、ドイツ、オーストリア、イラン・・・、さらに裾野は広がり、ボローニャという場の持つ力と、アーティストたちの積極性を改めて実感しました。
では、まず日本と海外、それぞれで絵本に求めるものの違い、テイストの違いについて、代表的な声をアンケートからいくつか抜き出してみましょう。 
*アート色の濃いものも受け入れてくれる(特にヨーロッパ)。
*日本の出版社の多くは、デザイン色の強い作品に対してはあまり興味を持ってくださるところが少なく、特にCGに対しては消極的。また海外では、黒を多く使っている絵本を多く見かける。
*日本の月刊誌のコンペで落選した作品が、フランスの出版社では「パーフェクト」との評価が得られ、おもしろいと思った。
*話の内容が、ヨーロッパ向きでないと指摘されたものがあった(スイスの出版社)。日本では、「絵が大人向けなので、子供向けに描かないとダメ」などの指摘があり、そのまま自分の絵を受け入れてくれるヨーロッパの出版社との違いを感じた。
*イソップ童話をもとに描いた作品を持っていったところ、日本の出版社はそういうのはシリーズものになってしまうのでダメだという。オリジナルストーリーのほうが受け入れやすいようだ。海外の出版社はどちらもOK。

違いを感じる回答が多かったいっぽうで、「海外でも、それぞれの国によって意見が異なるし、それぞれの出版社、編集者によっても違う。自分の作品を様々な視点から見ることができた」という声もありました。


アーティストたちへの対応という点では、どうでしょうか?
*海外の出版社では、出版歴のない無名イラストレーターでも、一人のイラストレーターとしてみてくれる気がする。
* 日本の出版社は近寄りがたく感じる。
*日本と海外の違いというより、自分の作品が版画なので、見てもらえる出版社が少なかった。自作の個性と、出版社の求める作品をしっかり見極めないとだめだとわかった。

絵本に求められるものと、出版社側の対応の両方にまたがる意見として、「(作品が)子ども向けではないかも、と日本ではいわれることが多かったが、海外ではそういう反応はなく、間口が広い気がした。しかし出版にたどりつくまでの難しさは変らない」と答えている方もいます。全体をまとめる形で、「会場では、日本の出版社はイラストレーター発掘活動に消極的。版権売買のみに来ているところも多い。海外の出版社は新人を求めている。出版へのプロセスも早く積極的。ただ、デザインやテキスト、その後の版権の行方など把握できない部分がある」と書いてあった回答が状況をよく把握しているように思いました。またアーティスト同士で「日本人の作品をこれまでに出している」出版社について、さかんに情報交換を行っています。たとえば、フランスではLirabelle社、イタリアではCorrain出版、香港ではMinedition(米国でも販売)、スペインではMedia Vaca出版などが日本人アーティストに好意的な出版社として知られています。なかでもMedia Vacaは、板橋区立美術館「第6回夏のアトリエ」受講者のイラストを集めた『21人の赤ずきん』を刊行、同書は今年、スペインで賞も受けたそうです。
また27名中、11名が何らかの形で、「言葉の壁は厚かった」とコメントを加えていました。売り込みを成功させるには、語学力はもちろんですが、相手が何を求め、どんな課題を出しているのかきちんと理解し、しかも自分がどんな絵本をつくりたいのかアピールする力が不可欠なのです。
「新人の作品を見ることに熱心ではない」といわれた日本の出版社ですが、ボローニャ児童図書展をどう位置づけて、新人発掘をどのように行っているのか、その後、数社の意見を聞いてみました。 
すると予想通り、「ボローニャは版権交渉の場であり、仕事にじかにつなげていく必要がある」「事前に海外出版社との打ち合わせを山ほど入れているので、新人の絵を見る時間がない」という声がかえってきました。ひとつには、日本の出版社がボローニャに参加するとき、ヨーロッパ内の移動とはわけが違い、交通費、ブース代などの面で大きなコストがかかっています。企業として行く以上、それだけの成果をあげねば、と思うのは当然かもしれません。とはいえ、「日本の絵描きさんは日本で発掘する努力をしている」と、前向きな声もありました。具体的には、福音館書店のように、社内にある投稿係で受付をしているところもあれば、講談社のように、新人の投稿は、「講談社絵本新人賞」への応募をうながす形をとっているところもあります。ただしそこには、(出版社の目にとまったごく少数の人をのぞくと)、人と人の出会いや、意見をかわすゆとりはありません。だからこそ、ますます大勢の日本人アーティストがチャンスを求めてボローニャへと向かうのでしょう。

 このあたりで、海外と日本で「絵本に求めるものの違い」に、いま一度たちかえってみたいと思います。たとえば長新太、片山健などは国内では大変人気があり、評価も高い絵本作家ですが、海外では受け入れにくいといいます。独特の感覚をとおして表現された形や色彩や文章は、理解されにくいということなのでしょうか? いっぽうで、安野光雅や林明子など、海外でも広く受け入れられている作家もいます。
しかし、本物のよさを見抜き、深く感じとめ、明瞭な言葉で海外に伝える人さえいれば、その国の伝統に根ざした表現が、インターナショナルな評価を得ることもあるのです。1967年にブラチスラヴァ世界絵本展でグランプリを取った瀬川康男などはその好例です。

最後に、ボローニャ国際絵本原画展をきっかけに、海外の出版社と関係を深め、出版にいたった若手アーティストの絵本をいくつかご紹介しましょう。(題名の和訳は、『ぼくは…』以外は仮題)
(1)『チェスター』(今井綾乃) 2006年入選作。版元は香港のMinedition。前の入選作も同社より出版。
(2)『今夜のメニュー』(柄澤容輔)2005年入選作。版元はフランスのLirabelle。翌年の入選作も同社より出版。
(3)『ブタのおばさんの魚釣り』(いたやさとし)入選は別作品だがボローニャで売り込みに成功。ブタのおばさんシリーズの2作目。版元はベルギーのAlice Jeunesse。
(4)『ぼくは…』(三浦太郎)2003年入選作。04年スイスのLa Joie de Lireより、05年日本のブロンズ新社より刊行。他の入選作もイタリア、米国、スペインで出版されている。

こうして見えてきたのは、国により、出版社により、絵本の絵と物語に求めるものは実に多様だということ。そこには「絵本とはどういうものか」という絵本観の違い、「子どもとはどういう存在なのか」という、それぞれの国の子ども観の違いも問われるべきだと思います。出版社側が「何が売れるか」に軸足をおきがちないま、だからこそ絵本の創り手側は「だれに何をどう伝えたいか」をいっそう真剣に考えるときがきています。自分のためにつくるのか?子どもたちにむけてつくるのか?すべての人のためにつくるのか?そして、今、世界で何が求められているのか?  
限られた調査のなかで、十分な答えを出すことの難しさをかみしめていますが、日本と世界の絵本文化の今後について考えるうえで、本稿がなにかのヒントになれば幸いです。 

(「子どもの文化」2007年9月号掲載)
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『ワビシーネ農場のふしぎなガチョウ』ディック・キング=スミス作 三原泉訳 いとうひろし絵 あすなろ書房 2007年9月

 動物物語に定評があるディック・キング=スミスの、ユーモアに満ちた楽しい「農場ファンタジー」(作家本人の造語だが、言いえて妙だと思う)。作家になる前、二十年間農場で働いていたスミスは、経験を生かした細部のさりげない描写を積み重ねていくことで、物語に匂いや手触りを与え、生き生きとした世界を提示する。どこか郷愁を誘うようなほのぼのした設定が魅力だが、一方でテレビなどの現代的な要素をうまく取り込み、今の子どもたちがすんなり入っていける作品が多い。

 そんなスミスの本領が存分に発揮されているのが本書だ。ワビシーネ農場のスカンピンさんは、その名のとおり貧乏で、さっぱり運に恵まれない。ところが、農場に最後に残ったガチョウ(ちなみに、名前はションボリとガックリ)が金の卵を産んだときから、次々と幸運が舞い込むようになる。金の卵から生まれたのは、もちろん金のガチョウ。ウレシーナと名づけられたこのガチョウに触るだけで、人間は幸せな気分になってしまう。ある日、そのうわさを博物学者のオッターベリーさんがききつけて・・・。
 幸運に恵まれるだけでなく、ガチョウに触るだけで幸せになるというのがとてもいい。読むだけでほのぼのと幸せになれる本だ。(三辺)


『ちいさな霊媒師オリビア 西95丁目のゴースト』エレン・ポッター作 海後礼子訳 主婦の友社 2007年10月

 12歳のオリビアは、管理人の父親とニューヨークの西95丁目にあるマンションに引っ越してきた。なんと四度目の引越し、つまり転校も四度目。そんなこともあって学校にはなじめなかったが、目下オリビアはそれよりもっと急を要する重大な課題で頭がいっぱいだった。それは降霊術。オリビアはどうしてもある霊と話したかったのだ。
 それにしても、新しいマンションには変人がたくさん住んでいた。海へ出たきり帰らない夫を待って、生活のために(ニセ)占い師をしているアリス、若いころ王女に仕えていたという怪しいおばあさん。なんとこのおばあさんは、家具から床からすべてがガラスでできた部屋に住んでいる。さらに、全身に夥しい数の生きたトカゲをまとった老女。十一人兄弟の長男だというブランウェルだけは気があいそうだけれど・・・。そんな妙な住人たちとすったもんだをしているうちに、オリビアは思わぬきっかけで降霊術の才能に目覚める。

 近頃ちまたでは「スピリチュアル」などと称して「霊との交流」が流行しているが、児童書の分野でも一見似たようなテーマが目立つように感じる。オリビアはタイトルにもあるように「ちいさな霊媒師」だが、同じ霊媒師ではメグ・ギャボットの『メディエーター』シリーズ(2005年〜)がすぐに浮かぶ。主人公のスザンナはメディエーター、すなわち霊能者で、霊たちの願いをかなえ、日本的に言えば「成仏」させてあげるのが仕事。オリビアが物語中で、ある霊を「成仏」させるのと同じだ。
成仏といえば、オーエン・コルファーの『ウィッシュ・リスト』(2004年)も、死んでしまった少女が成仏(天国行き)するために、老人の願いをかなえる話。遡れば、『トーマス・ケンプの幽霊』(ペネロピ・ライヴリィ作1976年)など、この世に未練や問題を抱えた霊の物語は昔から描かれていたが、日本で注目され始めたのは2002年に発売されたアレックス・シアラーの『青空の向こう』あたりからではないかと思う。この作品以降、上に挙げた作品はいずれもヒットしている。ちなみに、日本の作品でも、同じテーマの『カラフル』(森絵都作1998年)が今年、文庫化された。
 新しい「成仏もの」に共通するのは、幽霊話にもかかわらず物語のトーンが明るいことだ。おどろおどろしい雰囲気や、呪いや怨念とは無縁で、主人公たちは現代っ子らしくジョークを飛ばしながら、さばさばとした態度で課題に臨む。そこには、死の世界につきものだった神秘や影や闇のイメージはない。けれど、最後にはしっかり読者を感動させてくれる(本の売れ行きや、ネット上の読者評など見ても、読者が感動している様子がうかがえる)。
 主人公が死んだ後の話を描いたものには、『ラブリーボーン』(アリス・シーボルド作2003年)や『天国からはじまる物語』(ガブリエル・ゼヴィン作2005年)などもあるが、厳密には「成仏もの」ではなく、トーンもぐっとシリアスだ。日本では「成仏もの」のほうが幅広い人気を集めているように思えるので、それが何らかの社会背景を反映しているのかどうかという問題も含め、今後の霊たちの活躍に注目したい。(三辺)
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【絵本】
『いっちゃん』(二宮由紀子:文 村上康成:絵 エルくらぶ 2007.06 1600円)
 「飛ぶ教室」に載った二宮の短編を絵本化。
 その場合、画家選びをどうするかですが、この作品は大成功。
 二宮作品の多くはナンセンスである以前にアイデンティティものであることは、以前にも書きましたが、今回もそうした主題を追っています。
 一つ目のいっちゃんが語る、のっぺらぼうのののちゃんのお話です。自分たちは欠落しているのか、そうではないのか、様々なケースが考察されていきます。
 一つ目は一つ目だ。のっぺらぼうはのっぺらぼうだ。つまりは両目持ちは両目持ちだ、でとどまらず、考えていく。一般には考えないはずのことを考えていく。それがナンセンスに見えてしまう。見えてしまった時点で私たちは自分のナンセンスさに気づく。
 というわけですね。(ひこ)

『だいすきがいっぱい』(ジリアン・シールズ:ぶん ゲイリー・ブライズ:え おびかゆうこ:やく 主婦の友社 2007.10 1500円)
 歌うこともできるしろくまのぬいぐるみは、自尊心が高く触られるのもだいきらい。
 彼をもらった少女は、かわいがりますが、だから段々汚れていって、彼の自尊心は傷付いてしまいます。でも、そうして触られ抱きしめられ、そして汚れていくことのなかに「だいすき」があるんだということがわかってくるのですね。
 絵がすばらしい。ポップでも明るくもないです。重苦しいかもしれません。でも、点描画のような繊細さに惹かれます。

『だいすきひゃっかい』(村上しいこ:さく 大島妙子:え 岩崎書店 2007.08 1300円)
 「ももいろ荘の福子さん」でおなじみの村上しいこ、初絵本。相方に大島妙子を得たのは幸せなことでしょう。
 こちらの「だいすき」は、寝る前に母親に抱きしめられた何度も何度も「だいすき」というもの。
 安心感のお話です。
 大島の絵は、いつもどおりはね回って楽しいです。
 表紙がおとなしいのが残念。(ひこ)

『モコちゃん』(二宮由紀子:作 かわかみたかこ:絵 佼成出版社 2007.09 1300円)
 子羊のモコちゃんは、自分はわるいこなのに、いいこに見られるのがいやでたまりません。何をやってもわかいいと思われたりね。
 さて、彼女はわるいこに思われるようになるのでしょうか?
 価値のシンプルな反転によって、笑いを誘い出すのですが、そのとき「わたし」はなにものかが、揺れるさまは、さすがです。(ひこ)

『うみのしゅくだい』(ともながたろ:え なかのひろみ&まつざわせいじ:ぶん アリス館 2007.07 1400円)
 「絵本・すいぞくかん」シリーズ最新刊です。夏場に紹介しろよと怒られそうです。すみません。
 今回は、タイトル通り、海の観察記録をどう発表するか、どんなジオラマをつくるかと、目一杯楽しく教えてくれます。
 いちいちが具体的なので、これで絵本か! と驚くほど情報が豊富です。この巧みさの感心。
 しかし、宿題だから、これでこのシリーズも終わりでしょうか?(ひこ)

『しおだまりの一日』(松久保晃作:写真・文 小峰書店 2007.05 1500円)
 だから、夏場に紹介してよ、と怒らないでください。
 南紀のどこかにあるしおだまりを舞台に、様々な生き物の生息する様が描かれていきます。
 しおだまりの楽しさは、子どもの頃に海で遊んだ人は良く知っていると思いますが、こうして写真を見ていると、それが蘇ってきます。
 写真と文、レイアウトをもうスタイリッシュにして欲しいとは思いますが・・・、いや、この場合はこうしたベタがかえっていいのかも。(ひこ)

『おんがくかいのよる』(たしろちさと:さく ほるぷ出版 2007.09 1400円)
 『ぼくうまれるよ』作者の新作です。『ぼくうまれるよ』は後半がちょっと残念な展開だったのですが、今回は幸せな結末まで順調に物語が流れていきます。かえるたちの音楽会に感動したねずみたち。でも一緒に参加させてもらえません。だから、自分たちでやりくりして楽器を作り、演奏会をするのですが・・・。
 絵の活き活き度は、『ぼくうまれるよ』以上です。どっちもいいけどね。うまい作家です。それが逆に弱点になる心配もありますが。
 5匹のねずみには名前が与えられており、つまりはキャラクターが立ててあるのですが、そこをもう少し印象深く仕上げて欲しかった。が、これは贅沢な要求ですね。(ひこ)

『おひさま』(やすいけいこ:作 葉祥明:絵 フレーベル館 2007.08 1000円)
 タイトルそのままに、様々な生き物がおひさまに感謝し、トキメキ、笑います。この全肯定に引いてしまう人もいるとは思いますが、そこはおひさま、力を抜いて、ひととき身を任せてもいいのかもしれません。(ひこ)

【創作】
『スパイ・ガール Jを監視せよ』『スパイ・ガール2 なぞのAを探せ』(クリスティーヌ・ハリス:作 前沢明枝:訳 2007.07/09 800円)
 ジェシー12才。赤ん坊の頃に両親を亡くし(たぶん)、秘密組織に育てられた天才少女。子どもという有利さを活かしてスパイ活動をする。
 と書けば、子どもが活躍するかっこいいスパイもののようですが、さにあらず。ジェシーはなにもスパイをしたいわけでもなく、それ以外生きる道がないからです。彼女のそうした苦悩も書かれています。
 と書けば、くらーいもののようですが、さにあらず。1巻1ミッションの短い物語はテンポよく、ハラハラドキドキで進んでいきます。
 シリーズを貫く謎もあるようで、今後の展開が楽しみ。
 軽いエンタメでありつつ、しっかり内面も考えさせてくれる、なかなか出来のいい物語ですよ。(ひこ)

『とべ! わたしのチョウ』(安田夏菜:作 文研出版 2007.10 1200円)
 母親のいないゆりはお婆ちゃんっ子。転校先でなかなか友達もできません。元気いっぱいの石原さんは、なんだかなじめないし・・・。そんなとき、優しい野々宮さんが声をかけてくれて、ゆりは有頂天になるのですが、野々宮さんがゆりに優しくしてくれるわけは・・・。
 おばあちゃんから自立しようとする時のゆりの残酷なまでの対応など、しっかりと書き込まれています。
 友達関係も、野々宮さんと石原さんの違いが、とてもよくわかります。
 孤独なゆりが育てたチョウもシンボルとしてうまく機能しています。
 タイトルは一考の余地ありでしょうか。あと表紙がベタすぎます。もったいない。(ひこ)
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関係性の物語二つ。

                    ひこ・田中

「ドアを開けたら、お母さんがとどいていた」
 そんな言葉が始まりとなる『タイドプール』(長江優子 講談社)は、新しく母親となる女性マコさんと、えり子の物語。
 いきなり小学五年生の娘を持つことになったマコさんは、二人の関係が巧く行くようにとルールを決めることを提案します。けれど、それだけではあんまり情がないから、マコさんは、えり子のことを好きなのは、ずっと変わらないと付け加えます。
 新しい関係に緊張しつつも精一杯がんばろうというマコさんの姿が伺えます。で、それへのえり子の反応は、「なんともいえない、こっぱずかしさ」です。別にえり子は、マコさんを嫌っているわけではなくて、マコさんのノリに引いてしまっているのですが、熱くなる大人と冷めている子どもという関係がよく出ています。熱くなる大人に感動して一緒に熱くなる子どもだとか、熱い子どもを見て、ピュアな心が蘇る大人だとかの、大人と子どもの熱循環とでも言いましょうか、そうした関係性が機能していない時代がここによく現れています。
 そんなものですから、この先二人の思惑や感情はズレていきます。朝起きたら歯ブラシの位置が違うし、タオルの色も違う。良き母親としてえり子を育てようとするから、携帯電話では本当のコミュニケーションはできないと、持たせない。忘れ物はないかとカバンを覗いてしまう。「私の生活がじわじわとこわされていく」ところから、ついにえり子は、自分の心にまでマコさんが入ってこようとしていると思うようになります。
 けれど、えり子は、マコさんが朝は「ままはは」で夜は「マコさん」なのに気づきます。そうした無理がマコさんの行動をおかしくしているのです。
 学校でも、鼓笛隊のパート決めで、指揮者を任されてしまったえり子は、それをきっかけにして親友のはずのちひろ(彼女は指揮者になりたかった)との関係がぎくしゃくするのですが、ちひろの気持ちを理解していくことで、修復していきます。
 最初に書きましたように、「熱さ」に引いてしまっても、相手の気持ちを理解し、それに想像力を伸ばせば、関係性は良くなることもあるのを、この作品は巧く示しています。
 一方、『夕暮れのマグノリア』(安東みきえ 講談社)は、中学一年生の灯子の視点から、友人、クラスメイトとの関係性を描いていきます。灯子のグループの一人である凛は、物事をなんでもはっきりと言います。それは空気を読めないということでもあり、彼女は浮いた存在です。でもだからといって露骨にいじめられているわけでもなく、「みんなもともだちっていう感じをちゃんとキープして」います。そして、「何より、凛さん自身はまるで気にしてないふう」なのです。凛はとてもやせているのですが、「やせていることを自分のウリにするのもひとつの手」であり、「ときにはそれでわらいもとれる」。だから、凛もそうしています。
 彼らは、自分という存在は他者との関係性の中にあることをすでに何となく知ってしまっているわけです。その認識自体は間違っていません。ただしそれは空気を読む程度のその場しのぎではなく、微妙に変化しながらも持続していく、「信頼」とでも言うしかないもので支えられています。が、そうしたものを培うより先に、その認識を得てしまうことが、今の子どもの生きがたさの原因の一つです。
 この物語は、そこに不思議を持ち込み、風穴を開けようとします。帰りのバスの中、灯子の降りる駅は凛と同じなのですが、いつもの彼女はもう一つ先で降りる仲間たちに付き合っています。ところが不思議が起こり、バスの窓に凛の本当の気持ちが現れます。「窓にうつった凛さんは平気な顔などしていなかった」。灯子は凛と一緒にバスを降り、二人の間に「信頼」が芽生え始めるのです。
 物語は、この他様々なエピソードを描いていくのですが、そのどれもが不思議によって膠着状態から抜け出していきます。このことは、関係性を巡る問題がいかに難しいかを示しています。が、同時に、抜け出した後の心地よさを伝えてくれます。その心地よさを描くために不思議は用意されたと言ってもいいでしょう。そしてこの心地よさは、空気ばかり読んでいる日々を生きている子どもの多くが欲しいものだと思います。
 だから、最後の方に置かれた、「だれもいないと思ってはいけない。ひとりぼっちで生きているなんてけっして思ってはいけないよ」という言葉に、先の物語のえり子は引いてしまわないと思いますよ。(「飛ぶ教室」)

『としょかんライオン』(ミシェル・ヌードセン:さく ケビン・ホークス:え 福本友美子:やく 岩崎書店 2006/2007.04 1600円)
 図書館にライオンがやってきた! 大きな声で咆えてはいけませんよ、ライオンさん。図書館は静かに本を読むところですからね。
 ストーリー展開はオーソドックス。でも、さりげなく人種や男女への現代的目配りもされています。
 そしてなによりも、図書館と司書に対する愛情に満ちていること!
 読むと幸せな気分になれますよ。

『めちゃくちゃ はずかしかったこと』(リュドヴィック・フラマン:文 エマニュアル・エカウト:絵 ふしみみさお:訳 あすなろ書房 2007/2007.05 1000円)
 思い出の中には、もう恥ずかしくて恥ずかしくて仕方のないことがありますよね。それは子どもであっても同じです。この絵本は、そんな数々を描いています。
 跳び箱でおならが出ちゃった。好きな子の前でドジをした。友達の前で赤ちゃんの時のニックネームで呼ばれた。子どものプライドがちょっとだけ傷付くの。すごく判ります。
 私も一杯思い出しました。ああ、恥ずかしい。皆さんは?
 装丁も隅々まで遊びがあって楽しいですよ。

『ぜったいぜったい ねるもんか!』(マラ・バーグマン:文 ニック・マランド:絵 おおさわあきら:訳 ほるぷ出版 2007/2007.05 一四〇〇円)
 アリバーはぜったい寝たくない。眠くないんじゃなくて、寝たくない。だって、起きているほうが好きだし、起きていると色々楽しいことが起こる。車を飛ばして、ロケットに乗って宇宙へ飛んで。火星までだって行ってしまうんだ!
 ぐっすりと眠るまでの、ちょっとハイになった気分で広がる想像の世界。
 子どもたちは、この感じ判る判ると言うでしょう。

『きみだれ?』(松橋利光 アリス館 2007.04 1400円)
 ある生き物の姿が少しだけ見えていて、次にページでそれが表情と仕草豊かに姿を現す。
 そのパターンが展開していくだけなのですが、70種類を超える様々な生き物を眺めていると、自然に顔がほころんできます。
 大型絵本にせずに、コンパクトにしたことで、何度も手元に置いて何度も繰り返し見たくなる写真絵本になりました。
 見飽きないですよ、これは。

『ローザ』(ニッキ・ジョバンニ:文 ブライアン・コリアー:絵 さくまゆみこ:訳 光村教育図書 1700円)
 1955年、アメリカ公民権運動において重要な事件が起こりました。黒人女性ローザが仕事帰りのバスで、白人男性に席を譲るのを拒んで逮捕されてしまったのです。これをきっかけに黒人によるバス乗車拒否運動が起き、人権を守る戦いが広がっていきました。
 大事なことを、どのようにして次の世代に語り継いでいくか。
 この物語絵本は、その力強い答えの一つです。

『あいうえおおかみ』(くどうなおこ:さく ほてはまたかし:え 小峰書店 2007.03 1200円)
 あいうえお絵本ですが、そこは工藤直子です。ぬかりなく隅々まで、あ、い、う、え、お! です。
 「あ」行から「ん」まで文章が綴られていて、その文に即した絵が反対ページにほてはまによって描かれているところまでは普通。ところが、文章の周辺に描かれた飾り絵の一つ一つもまた「あいうえお」なのです。で、読者はそれらの絵を繋げて自由に物語を紡ぎ出すことが出来る。うんうんうなりながら自分だけの物語を作ってくださいね。

『ぼくはビースト ポークストリート小学校のなかまたち1』(パトリシア・ライリー・ギフ:作 もりうちすみこ:訳 矢島眞澄:絵 さ・え・ら書房 1300円)
 語り手のリチャード・ベストは落第して今年も小学校の一年生をやっています。あだなはビースト。絵を描くのは得意ですが物を書くのは苦手です。進学した元クラスメイトにからかわれたりして、落第したのを気にしますが、やがて新しいクラスにもなじんできて、元気に行動するようになります。小学校低学年物は絵本でも小説でもなくて、塩梅が難しいグレードですが、このシリーズはリアルで楽しい仕上がりです。

『サフィーの天使』(ヒラリー・マッカイ:作 冨永星:訳 小峰書店 1400円)
 兄弟姉妹の中で、サフランだけは両親が違います。そんな彼女におじいさんが遺してくれたのは、天使の像。でもそれはどこにあるの? というたった一つの小さなエピソードが置かれるだけで、あとは子どもたちを中心とした会話に溢れた作品。読んでいくとだんだん彼らのリアリティが増してきて、愛おしくなってきます。キャラが立っているといったレベルではありません。一人一人の心の動き、揺れが、高揚がそのまま伝わってきます。これはもうマジックというしかありませんね。

『ラブ&ランキング!』(花形みつる ポプラ社 2007.04 1300円)
 月子は、自分キャラを造るのに気を遣っているイマドキの小学6年生。友達になったのがヒナコ。運動神経ゼロだわ、ツキはないわ、場は読めないわ、クラスという集団では浮く存在。でもメゲない。ヒナコが好きになった男の子は、顔良し、頭良し、運動神経良しだけど、オレサマ男。果たしてこの恋の行方は?
 心の中でいつも突っ込みを入れている月子の目から見た真っ直ぐなヒナコの姿が愛しいユーモア小説です。

『コドモであり続けるためのスキル』(貴戸理恵 理論社)
 不登校の元当事者である著者が、「安心してコドモであり続けるためにはどうしたらよいか」を、中学生に向けて語った「よりみちパンセ」の一冊。学校制度が「平等」の名の下に「負け組を納得」させる装置であること。「多様化・個性化」という神話に、「子ども中心主義者」の言説も取り込まれてしまうことなどが伝えられていきます。今の「コドモ」は大人以上に社会適応してしまっているところがありますから、その辺りへの視線も欲しかった。

『ルーンの魔法のことば』(ブライアン・フラウド:絵 アリ・バーク:文 神戸万知:訳 原書房 2003/2007.03 2400円)
 ルーン文字の解説本です。
 この神秘的な古代文字はどのような意味を持ち、どのような力があるのか?
 ブライアンとアリは、二人の想像力をフルに発揮して、ルーン文字の世界に読者を連れて行ってくれます。
 私たちとは別の文化の文字なのに、伝説なのに、惹かれていくのはその背後にある奥深い文化故でしょうね。
(「飛ぶ教室」掲示板)

『マンガ 好きです!』(令丈ヒロ子 JIVE)
 小学校五年生のまりかは少女マンガが大好き。絵が上手くて、人気マンガ家そっくりに描けるので、クラスメイトに喜ばれたり感心されたりしていて、彼女はそれで満足しています。そこに登場するのが転校生のともや。美少年で、女の子たちは大騒ぎ。なんとそのともやがまりかに近づいてくる! 実は彼、少女マンガが大好きだったのです。「男の子らしくサッカーとか、野球とかしろって言われる。でもさ、好きなものは好きなんだもんね」。その通り。「らしさ」に縛り付けられていてはつまらない。
 ともやはまりかに、プロのマンガ家を目指すことを薦め、自分は彼女のマネージャーになると宣言します。彼は、まりかの才能を開花させようとする男の子なのです。ともやの気を引こうとしていた女の子たちからは、彼がマンガを好きなのを利用しているとか色々言われますが、「自分にとって大事なことをつらぬくのに、だれにどう思われようが関係ない!」と、まりかも決意を固めます。
 道具にはなにがあるか、その値段はどれくらいか、投稿原稿の仕上げ方は?など、本物のマンガを描くための方法を二人は一歩ずつ学んでいきます。アポを取って会うことができたマンガ家の先生からは、「大切なのはどれだけ、読む人を楽しませるために心をくだいたかということなの」というアドバイスをもらいます。マンガを描き始めたばかりの子どもですから、好きな物語を好きなように描いていれば、いつか認められますよと励ましてもいいのかもしれませんが、プロを目指そうとしているまりかに、甘い対応をしないところがいいですね。
 やがてまりかはともやのことが気になり出します。でもともやはまりかではなくまりかのマンガが好きなだけなのでは? そんな悩みを打ち明けたまりかに、保健室の白川先生は、「そう言う気持ちは、はっきり伝えなきゃ、だまってても決して伝わらないから」と言います。プロのマンガ家を目指すことと同じく、恋だって自分から動き出さないと成就しないのです。
 だからこそ、まりかはマンガに関しては、ともやに助けてもらってばかりでは良くないと気づきます。マンガ家を目指す一人の女の子として、ともやと対等の立場で向かい合いたいのです。この心意気に拍手!
 もちろん、この恋は成就しますよ。やっぱりそうでなくっちゃね。
 まりかは思います、もしともやに出会わなかったとしても、それなりに楽しい毎日だっただろうけど、もう前には戻れない。だって、「本物のマンガと、本気のカレシに」出会ってしまったから。
 やりたいことも恋もどっちも手に入れようよ! 作者から女の子読者に向けた励ましの声が聞こえてきます。(ひこ)(徳間書店「子どもの本通信」)

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以下、ほそえ

【絵本】
◎クリスマス!クリスマス!クリスマス!
『サンタクロースとぎんのくま』マレーク・ベロニカ文、絵 みやこうせい訳(2002/2007,10 福音館書店)
『クリスマスにきたユニコーン』アンナ・カーリー作 まつかわまゆみ訳(2006/2007.10 評論社)
『天使のつばさに乗って』マイケル・モーパーゴ作 クェンティン・ブレイク画 佐藤見果夢訳 (2006/2007.10 評論社)
『わすれんぼうのねこモグ』ジュディス・カー作 齋藤倫子訳(1970/2007.10 あすなろ書房)
『モグのクリスマス』ジュディス・カー作 三原泉訳(1976/2007.11 あすなろ書房)
『ふたりはなかよし』『ふたりはクリスマスで』イローナ・ロジャーズ作絵 角野栄子訳 (2005/2007.10 そうえん社)
『かっとびジャック ツリーはこびのまき』やましたはるお作 しまだ・しほ絵 (2007.10 ポプラ社)
『もめんのろばさん』わたりむつこ作 降矢なな絵 (2007.10 ポプラ社)
『きかんぼねずみのクリスマス』いまむらあしこ文 こいずみるみこ絵(2007.10 女子パウロ会)

 今年もたくさんのクリスマス絵本が刊行されている。その中から手に入ったものを御紹介。
『ラチとらいおん』でおなじみのマレーク・ベロニカの新作『サンタクロースとぎんのくま』は48Pオールカラーのしっかりしたお話絵本。やせて小鬼のお供を連れたサンタクロースというのが斬新。ハンガリーのサンタさんはこういうものなのかしら?お兄ちゃんにはぎんのくま、妹にはまりをくれたサンタさん。でも、ふたりはぎんのくまがほしくてけんかをしてしまいます。妹におんなじぎんのくまを渡してやりたくてお兄ちゃんは、ゆきだるまにおしえてもらったサンタさんの家を目指します……。ラストはにっこり。兄弟ふたりともが楽しくないといいクリスマスにはならないのね。がんばったお兄ちゃんに拍手。素朴で表情のある絵が楽しい。
『クリスマスにきたユニコーン』はおじいちゃんの家でクリスマスを過ごすことになった女の子のお話。一緒に遊ぶお友だちもいないし、お父さんもまだお家につかないし、なんだかつまんないと思っていたら、森からユニコーンがやってきました。ベッドで一緒にねて、朝は一緒にご飯を食べて、クリスマスマーケットにも出かけました。ユニコーンがきても、びっくりせずに過ごす人たちが不思議。きっとクリスマスだからですね。やわらかな水彩画がその不思議をやさしく包み込み、女の子の願いをかなえてくれたユニコーンをすてきに彩ります。
『天使のつばさに乗って』はモーパーゴのストーリテリングの才を存分に見せてくれる小さな絵本。たくさんの作家たちによって何度もかたり直されたキリスト生誕の物語を、あの聖夜の羊飼いの少年の目から描き出したサイドストーリーとも言える。羊飼いたちの元にやってきた大天使ガブリエル。大天使の話を聞いて救い主をベツレヘムに見に行く羊飼いたちのなか、ひとりだけ羊の番をするようにと残された少年がこの話を語るおじいさんであり、ガブリエルの翼に乗って、救い主に会い、杖を贈ったのだという。
<モグ>シリーズはイギリスで長く読みつがれてきた絵本。『お茶の時間にきたトラ』でおなじみのカーの人気シリーズだ。デブでおばかでだからこそ愛されている猫モグ。家に入れてほしくて、窓を引っかいたらどろぼうをおどろかしてしまったり、クリスマスツリーが怖くて屋根に上がったまま降りてこないと思ったら、煙突から落ちて暖炉から転がり出てきたり……。でも、かならず最後は家族にだっこされて、よかったねと安心の絵本。<モグ>シリーズ刊行が続きます。
『ふたりはなかよし』『ふたりはクリスマスで』はハニーという女の子とベビーシッターのおおきなねずみ、ネズおじさんのお話絵本シリーズ。細いペン画に水彩をのせた絵は少し古風で懐かしい様子。山高帽をかぶりステッキをつくネズおじさんはちょっとかわっているけど、ハニ−が楽しむことなら、なんだってやってくれるのがステキ。クリスマスにはクリスマスツリーを探しに、森へ出かけます。そこにはおもちゃがなっている大きなもみの木があり、サンタのおじいさんもすんでいました。おもちゃが実のようになって、育っていくというお話は『こうさぎましのお話』(佐々木たづ作)を思い起こさせますが、欧米にはそんな伝承があるのかしら? サンタさんと古いお知り合いのようなネズおじさん。これからも、どんなところへ連れていってくれるのか楽しみ。
『かっとびジャック』もシリーズ2作目。運び屋ジャック、今回は海を越えてクリスマスツリーを取りに行くのがお仕事。途中、たつまきに巻き込まれ、ツリーはながされ、マストもこわれてしまいます。でも、めげないジャックのはこんできたものは……。なるほどね、こうなりましたか、と納得のクリスマスツリーです。
『もめんのろばさん』はおもちゃ屋さんでのお話です。クリスマス前には不思議なことがおこります。おもちゃはみんな願っているからね。クリスマスプレゼントになって子どものところへ行くのを。けんちゃんのチョッキと同じ布で出来ているろばさんがおもちゃ屋でまいごになってしまいました。ろばさんとおもちゃ屋のぬいぐるみたちの会話やパーティの様子等小さな子なら、きっと興味津々。ラストもうれしくて、にっこりでしょう。
『きかんぼねずみのクリスマス』はいたずら好きで、両親にちょっと心配をかけるようなこねずみがひとりでやりとげた、大切な出来事を描いています。良い子だったらサンタさんがくるけど、悪い子だったら怖い猫がくるよ、なんていわれてしまうような子です。でも、誰からもプレゼントをもらえなかったサンタさんの夢を見て、きかんぼねずみは行動します。おこづかいをもって雪の中、サンタさんへのプレゼントを買って、ベッドの脇に手紙と共に置いておいたのです……。クリスマスが誰かのために何かをする日ということを、小さなねずみの男の子が教えてくれました。親しみやすい絵であたたかな家族のクリスマスをじっくり描いています。

◎その他の絵本
『ねえ あそぼ』まど・みちお文 ましませつこ絵 (2007.9 こぐま社)
同じコンビの『ママ だいすき』につづく赤ちゃん絵本。くまさんがおすもうし、うさぎさんがとびはね、タケノコが背比べする。なんとも懐かしいような様々な親子の場面がつながっている動物も植物も宇宙の星も同じ目線でえがかれるのがこの詩人らしいところ。

『いぬのおやくそく』クリス・ホーンゼイ作 グゥイン・パーキンス絵 みましょうこ訳(2005/2007,8 アールアイシー出版)
オーストラリア  受賞作。女の子と犬の会話で進むのだけれど、犬は自分のことを女の子と一緒のように思っているらしい。左ページでは犬の想像する世界が描かれ、右ページにはテキストとともに現実の犬の行動が描かれる。そのギャップを見て、読んで楽しむ絵本。どうして?と質問する犬に、おしゃまに答える女の子。さらさらっとかかれた軽いタッチのイラストがかわいらしく、犬のセリフによくあっている。

『おひさま』やすいすえこ作 葉 祥明絵(2007.8 フレーベル館)
すべてのものに降り注ぐお日さまの光。ぼくの誕生の時も、かもめの初めての飛行の時も、河のサワガニのところにも、森のリスのところにも……。様々なシュチュエーションを空の広い絵とやさしいことばで切り取っている。

『きらきら きらきら おつきさま』ディヴィッド・コンウェイ文 ドゥブラフカ・コラノヴィッチえ おがわひとみ訳(2007/2007.9 評論社)
タイトル通り、表紙にはキラキラのラメがほどこされたお月様。寒くて暗い夜空が嫌になって、お月様がおりてきてしまいました。理由を聞いた男の子が、お日さまの光を集めて夜空に放ったり、懐中電灯の光で夜空を照らしたり、空に穴を開けたり……とやってみるのですが、上手くいきません。悲しくなって、こぼれた涙が固まってひかった時、あることを思いつきました。やわらかな画面となるほどの結末にほっとする絵本。

『トゥ−トとパドル だからきみがだいすき』ホリー・ホビー作 二宮由紀子訳 (2006/2007.9 BL出版)
かわいいこぶたトゥートとパドルシリーズの10作目。本作の主人公はオパールちゃん。転校してきた女の子がオパールチャンのまねっこばかりして、先生のお気に入りになったり、クラスの人気者になったりするのだけれど……。出来事の度にトゥートとパドルはオパールちゃんをはげましたり、ほめたり。最後はオパールちゃんが、まねっこの転校生を助け、先生からも感謝されて、安堵する。良い子のオパールちゃんだけど、それはきちんといつもみていてくれる友だち、トゥートやパドル、ダフネがいるから。

『おいかけるぞ おいかけるぞ』『きゅうこうだ いそげいそげ』ベネディクト・ブラスウェイト作 青山南訳 (1995,1999/2007.9 BL出版)
まっかなちっちゃいきかんしゃのぼうけんシリーズの3、4作目。『おいかけるぞ』では、ブレーキをかけ忘れ、勝手に進んでいってしまった機関車を運転士のダフィが追いかける話。トラック、ボート、自転車、馬……とたくさんの人に協力してもらいながら、やっとのことで機関車に追いついて無事、運転を続けることができるまでを俯瞰したイラストを多用して、楽しく見せてくれる。『きゅうこうだ』では、故障した急行列車のかわりに町のお祭りまで急ぐ人たちを乗せていく話。途中、いろいろな特色ある町でとまっては、どんな人をお祭りに乗せていくのか、見ているのが楽しい。どちらもラスト近くページでは町や村の俯瞰図が描かれ、どこを通ってきたのかなと確認できたり、あのお客さんが、お祭りのどこにいるのかなと探したり、というお楽しみがある。

『かさぶたってどんなぶた〜あそぶことば』小池昌代編 スズキコージ絵(2007.9 あかね書房)
『レモン〜かんじることば』小池昌代編 村上康成絵(2007.10 あかね書房)
絵本かがやけ詩 シリーズの1、2巻目。20編の詩がえらばれ、見開きで紹介されている。1巻目はコラージュのイラストが独特の雰囲気で、絵を読み解くおもしろさがある。2巻目はぐいっと描かれたイラストが詩の本質をシンプルに見せてくれる。巻末にそれぞれの詩について編者からの手紙というタイトルで言葉が添えられている。ふっと読み飛ばしそうな言葉に目をつけたり、書かれている言葉からどんどん思いを広げていったり、短いけれどおもしろい。おのおの20編のうち、だいたいの詩が子どもの詩の本として編まれたものから選ばれており、いろんな本で紹介されているものも多いが、1巻目に藤井貞和の『ピューリファイ!』から、2巻目に山村暮鳥、高橋順子、韓国の詩人などから採られているのがこの編者らしいところだなと思った。

『あくま』谷川俊太郎詩 和田誠絵 (2007.10 教育画劇)
『がいこつ』に続く、谷川・和田コンビの詩の絵本。むかしばなしのなかのみちをあるいていった、と始まるところのイラストがなるほどな、と感心。むかしばなしのなかだから、ぼくはお話の主人公のように淡々と進んでいく。魔女にあって、レーザーガンでやっつけたり、あくまがでてきたりする。不思議なんだけどふつうの感じ。ふつうなんだけれど変な感じ。そのさじ加減を過不足なく描いているからこそ成り立つ絵本。

『帆かけ舟、空を行く』クェンティング・ブレイク作 柳瀬尚紀訳 (2000/2007.9 評論社)
見開きにたくさん載っている名前は、この絵本を作るためにアイデアや絵を出してくれた子供達の名前だという。帆かけ舟が空を飛んだら、どんなところに行くだろうか、どんなものを見るだろうか、現代の世界が抱えている問題ー環境破壊、児童虐待、戦争などを見たら、きっと助けてくれるのではないかしら……というアイデアから生まれた絵本だという。子供達のまっすぐで強い思いがページの中から問いかけてくる。それをブレイクの軽やかなイラストが現実とファンタジーを上手くつないで見せてくれる。

『ことりはことりは木でねんね〜韓国のこもりうた』チョン・スニ作 松谷みよ子訳 (2006/2007.9 童心社)
淡くけぶるような色彩で母と子のおやすみ前のひとときを静かに描き出している、言葉少なな絵本。なかなか寝ない子を抱いて、巣に眠る小鳥の姿を見たり、穴のお家で眠るねずみを見たり、牛さんもにわとりさんもねんねんよ、と語りかける。川にも海にもでかけ、最後はお家で母さんと一緒にねるぼうや。描かれる空気の色にひたりながら、静かに静かに読みたい。

『ねむれないの、ほんとだよ』ガブリエラ・ケセルマン文 ノエミ・ビリャムーサ絵 角野栄子訳(2001/2007.9 岩波書店)
インパクトのある男の子の表情が印象的な表紙。スペインの絵本。大きなカがさすからねられないよ〜という男の子にママはカよけのヘルメットやパジャマ、ハエタタキみたいなものまで渡して、「これでかんぺき、しんぱいなし」と部屋を出て行きます。男の子はベッドから落ちるのが怖いだとか、お月様がとけて真っ暗になっちゃうのがいやだとか、いろいろ言っては、ママがそのたびにいろいろ工夫をしてくれるのですが……。ママの奮闘ぶりがなんともずれてぶっ飛んでいるのがおもしろいの。ラストはベッドのそばにママがきてくれて、やっと安心。

『ゆめみるリジ−』ジャン・オーメロッド作、絵 はやかわゆか訳 (2004/2007.8 アールアイシー出版)
オーストラリアの開拓時代が舞台となっている絵本。献辞におばあちゃんをしのんで、とあるところをみると、作家が幼い頃、おばあちゃんから聞いた話が元になっているのかしら? 森の奥のちいさな家で暮すリジ−。お隣さんも遠く、一緒に遊ぶお友だちもなく、父さんはびゃくだんの木を切っては町へ運ぶ仕事をしているので、なかなか帰ってきません。お母さんと赤ちゃんとの暮しの中、リジーは想像の世界で王女さまになったり、海で遊んだり、贅沢なドレスを作ったり……。代わり映えのしない毎日も想像でどんなものにもなるのですもの。過酷だった時代に、それでもたくましく、つつましく、幸せに暮していた姿を端正な絵で教えてくれる。

『7日だけのローリー』片山健 作(2007.8 学研)
家の外にいたみなれない犬。それはまいごの犬でした。ぼくとお父さんは、7日だけこの犬のお世話をして、その間に飼い主が見つかるよう、近所の人にも協力してもらい、ポスターを作ったり、看板を立てたりしたのです。まいごの犬はおても、おすわりも上手です。いつのまにか、ぼくとおかあさんはこの犬にローリーと名前をつけ、うちで飼えると良いのにと思うようになるのですが……。少しづつ、まいごの犬と男の子の心が近づいていき、離れ難くなるのを描き出す絵が、なんとも愛おしい。たった7日だけれども、男の子の心に残る濃密な日々。犬の飼い主が迎えにくるという別れに、切なさと幸福を感じ、あたたかな読後感がひろがる。

『ゆうびんやさん おねがいね』サンドラ・ホ−ニング文 バレリー・ゴルバチョフ絵 なかがわちひろ訳(2005/2007.9 徳間書店)
おばあちゃんのお誕生日に何か送ってあげましょう、といわれたコブタくん。おもいっきり、ぎゅってしてあげたいな、と答えます。ゆうびんやさんをぎゅっとしたら、おばあちゃんに届けてくれるんじゃないかなって。郵便局の窓口で頼んで、ぎゅっとしたら、それを仕分けがかりのヤギさんに、つぎは運転手のウサギくんにそれから、それから……。コブタくんのぎゅっはたくさんの動物たちから無事、おばあちゃんのところに届きました。郵便がどんなふうに運ばれるかがわかるのも楽しいし、何より皆うれしそうにぎゅっとするのがいいですね。おばあちゃんはお返しにキスをくれましたよ。センダックが絵をつけたこぐまのくまくんシリーズの「だいじなとどけもの」を思い出させるストーリー展開ですが、郵便局のお仕事とともに描かれ、大人がみな良い笑顔でお仕事しているのが、この絵本のいいところ。

『ぼくは赤ちゃんがほしいの』シャーロット・ゾロトウ文 ペネ・デュボア絵 みらいなな訳(1972/2007.9 童話屋)
『おじいちゃんがだっこしてくれたよ』シャーロット・ゾロトウ文 ペネ・デュボア絵 みらいなな訳(1974/2007.9 童話屋)
『ものぐさトミー』で知られる絵本作家とゾロトウのコンビの絵本が2冊。『赤ちゃんがほしいの』ではおばあちゃんが、もう1冊ではおじいちゃんが活躍する。対になって考えられた絵本なのかな。
『ぼくは赤ちゃんがほしいの』はお人形をほしがる男の子ウィリアムのお話。男の子がお人形のお世話をしたがるなんでおかしいよ、と兄さんたちが笑い、父さんもバスケットボールや鉄道模型を買い与えます。けれど、どうしてもお人形がほしいウィリアムはおばあちゃんに自分の気持ちを訴え、おばあちゃんもそれを認め、お人形を買ってくれるのです。30年以上も前にジェンダ−フリーの感覚を絵本に仕立て上げたゾロトウはすごいなあと思ってしまいました。なんにでもなれ、何かを慈しみたいと思う子ども性というものをしっかりと見ていたのだろうと思います。でも、よいお父さんになる練習という落としどころは、今読むとちょっと? 30年前なら、なるほどね、とその視点を頼もしく思う人もいたかもしれないけれど、今はなんだか違う感じがする。今ならゾロトウはどんな結末にするかしら? 
『おじいちゃん〜』の方は、4年前に亡くなったおじいちゃんを孫である男の子と娘であるお母さんが思い出し、語り合う絵本。これも30数年前に刊行された時には、死や喪失感にきちんと向き会うという姿勢を絵本に仕立てるということに、現代以上に気を使わなくてはならなかったことと思う。とてもソフトに、言葉を選びながら喪失を語っている。「また、あいたいな」という男の子に、「ふたりでおじいちゃんのことを話していると、まるでおじいちゃんにあっているみたい」とこたえるお母さん。こう答えることだけでしか、男の子の願いはかなえられず、それを何度もくり返すことでしか、男の子は納得できはしないのだが……。ゾロトウにはお父さんをなくした娘を描いた絵本もあり、作家として、死に向き合う子どもにどのように語りかけるかという使命があったのではないかしら。

『どんなにきみがすきだか あててごらん〜あきのおはなし〜』
『どんなにきみがすきだか あててごらん〜ふゆのおはなし〜』サム・マクブラットニィ文 アニタ・ジェラーム絵 小川仁央訳(2007/2007.9 評論社)
世界的なベストセラー絵本『どんなにきみがすきだか あててごらん』のうさぎさんコンビが登場する小振りな絵本2冊。『あきのおはなし』では落ち葉舞う秋風の中、おいかけっこするうさぎさんたち。途中、転がってきた箱を使って、新しい遊びをチビウサギ……。最後はデカウサギにつかまって、だっこされてにっこり。『ふゆのおはなし』では雪の中、おさんぽして、目に入るものをなぞなぞにしてあそびます。絵本を見ながら、一緒に楽しさがあります。さいごのなぞなぞにチビウサギはにっこり。どちらも、だっこされて、安心、うれしい絵本。

『こわくなんかないっ!』ジョナサン・アレン作 せなあいこ訳(2007/2007.9 評論社)
『かわいくなんかないっ!』で登場したフクロウのフクちゃん。ぬいぐるみのちびフクちゃんをもって、夜の森へお散歩です。そこで出会ったのはあなぐまのおばさん、くまのおにいさん、こうもりさん。みんな「こわがらないで」とフクちゃんを赤ちゃん扱い。「こわがってるのは、ちびフクちゃんだい!」フクちゃんを迎えにきたお父さんにも、訴えます……。「ちょっとくらいこわいことがあってもはずかしがることないんだよ」というお父さんのせりふをそのままぬいぐるみにいうフクちゃん。小さな子のちょっと背伸びしたい気持ちを愉快に伝えるところ、お父さんが活躍するところがなかなか。

『べんきょうなんてやるもんか!』キム・ヨンジン絵 イ・ジェウォン作 チョン・ミヘ訳 (フ2005/2007.9 フレーベル館)
宿題をせずにさぼってばかりの男の子。おかあさんはおやつを持ってきた時に「なにもやってないじゃない、いままでなにしてたの?」とたずね、あっかんべをする子に「悪い子ね」と、宿題が終わるまで、おやつも晩ご飯もお預けということにしたのです。怒った男の子は、部屋の中の物をばりばりのびりびりにこわして……。こまごまと描かれる部屋の中の物たちは、お話が進むごとにくっきりと意志を持ちはじめ、隠していた模様や目や姿をあらわし、部屋をめちゃくちゃにした男の子に、壊された痛みを語り、不思議な森へと導きます。機嫌が悪くなって、怒りまくった男の子にモノたちが仕返しをし、反省させるという展開にはちょっと鼻白む感じはしますが、隠し絵のように動物たちが出てきてまた納まっていく絵の造りはちょっとおもしろい。アンソニー・ブラウンのようにスマートにさりげなく物語をフォローするという感じではなく、絵の造りで物語を引っ張っていった感じ。

『おつきさまとあそんだよる』神山ますみ作(2007.9 講談社)
ゆうがた、友だちとさよならした後、誰かが見ている気がする……とおもったら、お月様でした。お月様と一緒にブランコしたり、すべりだいしたり、かくれんぼしながら、お家にかえったり……。そこでお月様さよなら、という絵本はよくあるけれど、本書では、お家の中にもお月様が入ってきたみたい、というところが珍しい。眠る時もお月様と一緒。

『30かいだての30ぴき』やすいすえこ作 杉田比呂美絵 (1998/2007.9 フレーベル館)
30階建てのビルの1階に飼われていたネコ30匹が、にげだして、ビルのいろんな階に散らばってしまいます。それを探していく、探し絵絵本。ビルだけに絵本を横にして、ページを上下にめくっていくのがちょっとおもしろい。学校あり、水族館あり、レストランあり、絵描きさんもいて、発明家もいて……とそれぞれの部屋で誰が何をしているのかを見ていく楽しさもあります。

『ハコちゃんのはこ』竹下文子作 前田マリ絵 (2007,10 岩崎書店)
箱があるとすぐに入ってしまう猫だから、ハコちゃんというなまえ。そうねえ、猫って狭いところにすぐ入ってしまうものね。どんな箱でも入ります。缶ビールの箱、お誕生ケーキの箱、小さい箱、冷たい箱、入ったら怒られる箱……。ハコちゃんから見たら、部屋も家も大きな箱かもしれません、と視点がぐんとひろがって、またすぼまっていくページの展開がこの絵本の肝ですね。ハコちゃんになった気分がおもしろいな。絵もハコちゃんの気持ちが見えるようで楽しい。

『オルガの世界一周』ローレンス・ブルギニョン作 カンタン・グレバン絵 石津ちひろ訳 (2002/2007.9 平凡社)
牛のオルガは緑の牧場で草ばかり食べているのが嫌になったのです。それで、汽車に乗って旅に出ました。魚を食べるクマにあったり、竹を食べるパンダにあったり、高地を行くラマ、アマゾンのオウム、アフリカのだちょうにさばくのらくだ……。ぐるりめぐって、自分の生まれた牧場に戻ってきたのです。一緒についてきたハエとのやり取りがおもしろい。外の世界を見られたからこそ、自分のいる場所が素敵だとわかるオルガ。テキストが多めの絵本ですが、展開が早く、親しみやすい動物たちの話なので楽しめる。

『おひさまいろのきもの』広野多珂子作、絵 (2007.9 福音館書店)
昭和のはじめの頃、まだ、農村では、糸を買い、染めて、機織り機で布に織り上げ、着物を作っていたのでしょう。その様子を目の見えない女の子ふうの姿を通して、語った絵本。夜なべをしてわらぞうりを作り、町の市で売りながら、すこしづつ糸を買う様子。シュルシュルトントンと機を織る様子。丁寧に描かれた絵を見ることで、今の子どもには遠くなった生活が伝わるはず。目の見えない子が主人公だからといって、ことさら
仰々しいお話に作らないところがよかった。さりげなく支えあう暮しぶりもよい。

『なおみ』谷川俊太郎作 沢渡朔写真 (1982/2007.10 福音館書店)
月刊こどものともで刊行された時、怖くて子どもに見せられないとか、予約者を減らしたとか、まことしやかに伝えられていた知る人ぞ知る写真絵本が、単行本化された。なおみというのは日本人形。女の子と同じような髪型をして黒い着物を着ている人形だ。六つの女の子はなおみにいくつ?と聞く。一緒に遊んだり、けんかしたり、寝たり、病気をしたり、そして、なおみはある朝、しんでしまうのだ。そして、何年も経ち、わたしは自分の娘のそばに屋根裏部屋で出会ったなおみをねかす……。時空を越えた感じを写真は上手く納めているように思う。扉とラストの時計のちがい。画面が単調にならぬよう、ページ構成もきちんとされていて、とても絵本らしく作られている。雰囲気はドラ・ウェイトのLonely Dollを思わせる。カラー写真なのにセピアな感じ。

『カタツムリと鯨』ジュリア・ドナルドソン文 アクセル・シェフラ−絵 柳瀬尚紀訳 (2003/2007.10
評論社)
のっけてください、せかいいっしゅう、と書いて、やってきた鯨の尾にのったカタツムリ。そのまま鯨と氷山の海を行き、火山を見て、嵐の海も泳ぎきり、雄大な世界を満喫したのだが、鯨が岸に追われて、陸に乗り上げてしまった。その苦境をカタツムリが救う展開がいい。小さなカタツムリと大きな鯨の見事なコンビネーション。文はきちんと韻をそろえて訳され、声に出せば、その楽しさがより伝わる。

『虫のくる宿』森上信夫写真・文(2007.9 アリス館)
森の中の一軒屋の宿。夜になると灯りに虫たちが集まってくる。窓のところに這い上がってくるガの様子がコマ割りの写真で紹介され、ガラスにとまれる虫ととまれない虫のちがいを写真で見せてくれる。窓ガラスの内側にいるからこそ、見られる虫たちのお腹。それが観音開きのページいっぱいあり壮観。ふわふわのあたたかそうな腹のガたち、足の付け根までくっきりの虫たち、ハムシやバッタやカメムシやハエ……。ほほう、とびっくり。ふだんなかなか気がつかないところを見せてくれる、それだけで興味深いし、それがなじみのある光景なら、なおのことおもしろい。夏の夜、窓に張り付いてくるガをあかず見ていた子を思い出す。

『イモムシかいぎ』市居みか作絵(2007.10 小学館)
学研のお話雑誌「ほっぺ」の歌のパレットで掲載されて物語に大幅に加筆して作られた絵本。歌付き。イモムシ会議はみんなで話し合いたいことを書いた葉っぱを持ち寄り、相談します。たいていは何をいっても「ソウデスナ ソウデスナ」と答えるばかりなのですが、今回はけんかになってしまい、それを図らずも止めたのは、ねぼすけのネルチでした……。その顛末は絵本でどうぞ。なんとものんびりの絵本で、うたをうたえば、さらにのどかさが増します。

『とおいまちのこ』たかどのほうこ作 ちばちかこ絵 (2007.10 のら書店)
転校生が遠い町からやってきて、みんなはその子に遠い町ってどんなだったか教えて、と話しかけます。女の子はぽつん、ぽつんと「おかはみどり」「いろんな色のやねといろんな形の家」「みなとがあって」「がいとうのたっているひろいひろば」や「狭い路地もある」……と話しはじめるのですが、話しているうちに本当に本当にあの町から離れてしまったのだと悲しくなって泣いてしまうのです。その夜、女の子とみんなにおこった優しくも不思議な出来事は……。くっきりと描かれながらもなぜか、どこでもないような幻想的な雰囲気をたたえた絵と子どもたちの心をすくいとったファンタジーが美しく、ストント胸に落ちます。誰かのどこかを思いやる子どもにファンタジーはすてきな魔法をかけてくれるのでしょう。だからこそ、女の子は今のこの町で、一緒に気球で遠い町をながめた子らと元気に楽しく暮らせるのです。

『よにもふしぎな本をたべるおとこのこのはなし』オリヴァ−・ジェファーズ作 三辺律子訳 (2006/2007.9 ヴィレッジブックス)
本のページや書きかけのノートに描いたみたいな凝った造りのイラストに、人を食ったようなお話。本を食べてみたら、おいしくって、頭はよくなるし、良いことだらけ……と思ったら、食べ過ぎは覚えたことがごちゃ混ぜになってちゃんとしゃべることすらできなくなる。だから、今では……というオチなのだけど、本を食べるという直栽な表現がまず笑える。それで、どうなっやうの?と、どんどん話が広がっていくのがおかしい。本を読むと頭のいい人になれるかもしれないと思うところが、子ども目線なんだけどね。

『10にんのきこり』A・ラマチャンドラン作 田島伸二訳 (2007/2007.10 講談社)
インド絵本界、インド美術界の重鎮ラマチャンドランの新作絵本。カウンティング・ブックの形をとっているのが、今まで出された絵本と違うところ。絵柄はシンプルで様式化された素朴なもので、出てくる木こりたちの表情も立ち姿もあえて同じものにしているのが、画面にリズムを生んでいる。10人のきこりが森の木をまだあるまだあると言いながら切っていくと、とうとうさいごの1本になり、それも切れば、トラが森から出てきてきこりを追いかけ、食べてしまう。それで0。ラストはグーグー寝るトラの腹の中で、10人のきこりも目をとじて寝ているのが、のどかな感じ。数字に親しむだけでなく、森の木がなくなるとトラが現れるという物語をからめて、読み手に寓話的な想像をさせるところがベテランの作と思わせる。

『そんなこともあるかもね』アヴィ作 マージョリー・ブライスマン絵 福本友美子訳 (2002/2007.9 フレーベル館)
小さなお話が9つ入った大きな絵本。もともとはお話を語る前に、ちょっと子どもの気持ちをくすぐったり、すこうし時間があまった時に、こちょっと語って、おもしろかったねとおしゃべりするような小話だったのではないかなと思われる。アヴィは25年も図書館員をつとめていたし、彼のデビュー作がこのお話なのだそうだ。『公爵夫人のふわふわケーキ』を描いたヴァージニア・カールも図書館員としてのキャリアを積んだ絵本作家だったし、アメリカにはそういうストーリーテリングを学んだ作家というものが出てくる、豊かな土壌が脈々と受け継がれている。小話だからこそ、テンポよく、空想を広げ、ポンとまた戻ってくるという手並みの鮮やかさを堪能できるというもの。子どもに身近なクレヨンやアイスクリーム、動物たちが語りかけ、どんどんトンネルを掘ったら、どこに行っちゃうんだろうと思い巡らす楽しさを共有し、体が小さく小さくなってしまう男の子になった気分でわくわくする。寝る前に一つづつ読んでやっても、「つぎも」「つぎも」といわれて、結局最後まで読んでしまうはめになってしまう。

『ジェイミー・オルークとなぞのプーカ〜アイルランドのむかしばなし』トミー・デ・パオラ再話・絵 福本友美子訳(2000/2007.9 光村教育図書)
『ジェイミー・オルークとおばけイモ』でおなじみになったなまけもののジェイミーが、ふしぎなプーカという妖精に出会ってしまいます。おかみさんのいぬ間に、どんちゃんさわぎをして洗い物をどっさりこしらえたジェイミー。見ただけで疲れてしまって寝ていると、夜中にガシャガシャ洗い物や掃除をしている音が聞こえます。プーカがやってきて片付けていたのです……。プーカという不思議な耳の長いヤギみたいな様子をした妖精とジェイミーのやりとりがおかしい。なるほど、そういうことでしたか……とわかった時にはもう遅く、いつものごとく、困ったことになるジェイミー。とほほ話に笑いながら、プーカにされちゃったらどうしましょと、ちょっと心配にもなりますね。あまり知られていなかったアイルランドの昔話も、パオラの親しみやすい絵で手にとれるようになってよかった。
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【創作】
2007.10児童文学書評/読み物編
◎祝! リンドグレーン生誕100年
『遊んで 遊んで リンドグレーンの子ども時代』クリスティーナ・ビヨルク文 エヴァ・エリクソン絵 石井登志子訳 (2007/2007.7 岩波書店)
『長くつ下のピッピ』アストリッド・リンドグレーン作 ローレン・チャイルド絵 菱木晃子訳(1945,2007/2007 岩波書店)
『ペーテルとぺトラ』アストリッド・リンドグレーン文 クリスティーナ・ディーグマン絵 大塚勇三訳 (1949,2007/2007.10 岩波書店)

今年はリンドグレーン生誕100年。それを記念して、いろんなタイプの本が刊行されました。まとめて御紹介。
『遊んで 遊んで リンドグレーンの子ども時代』はリンドグレーンの子ども時代を絵や写真等の資料をふんだんに入れた評伝です。これを読むと、リンドグレーンが過ごした豊かな子ども時代が、作品のあちこちに刻み込まれていることがわかります。子ども時代のエピソードが作品のどの部分に反映されているか、紹介されているので、改めてそれぞれの作品を読み直したくなってきます。巻末にはリンドグレーン縁りの地の紹介。ハルストレム監督のとった映画「やかまし村のこどもたち」の2作が撮影されたのはじっさいのやかまし村(セーヴェーズトルプ村)だったのかと納得。
『長くつ下のピッピ』新装版は、「クラリス・ビーン」シリーズで人気のローレン・チャイルドが絵をつけた新訳。テキストは1945年のスウェーデン語版からの翻訳。200ページあまりでカラーイラスト満載の特別記念版。これもリンドグレーン生誕100年を記念しての刊行。さすがローレンのイラストはイキがよくて、お洒落で楽しい。布地のコラージュと線画のイラストの組み合わせがわくわくする。読み物だけれど、イラストを思いっきり大きく、絵本的に見せるページもあり、楽しんで描いているなあと思わせる。ピッピの造型も、ニイマンの絵よりは大きい子みたいに見えて、今まで見たピッピの中で一番、年相応に描かれているのではないかしら。「ピッピ」の世界に浸りこんで、楽しく読めるのは、小学校中学年くらいまではないかと思うが、やっと、その年齢の子が自分で読める本ができたなあと感動した。今までの訳本は、文章がまだるっこしかったり、ひっかかったりして、入り込むには少々根気がいったのだ。DVDや絵本で「ピッピ」の楽しさを知ってしまった下の子に、何度、「読んで」と頼まれては、挫折してきたことか。今、この新版を抱え込むようにして読みふけっている子に「読んであげようか」と聞くと、「自分で読みたいの」といわれてしまう。読めない漢字があっても、テンポよく、自分のペースで読んでいきたい、そして、それがちょっとがんばればできる、という期待をもたせてくれる。それは訳文の力だと思う。
『ペーテルとぺトラ』はリンドグレーンの小さなお話を絵本化したもの。『ちいさなふゆのほん』でその愛らしいイラストと自然へのまなざしの確かさを見せてくれたディーグマンが絵を手がけている。リンドグレーンの童話は絵本化され、今までも何冊も刊行されているが、ここ、2、3年はスウェーデンでも人気、実力のある絵本作家を起用している。ペーテルとぺトラは小人の兄弟。ふたりが小学校にやってきて、通いたいというところからお話は始まります。小さな小さな人が一緒に勉強するなんて! 一緒にかえったり、学校に小さな小さなコート掛けを作ったり……。最初は、そんなことあるわけないよ、という顔でお話を読んでいた子が、いいなあ、小人と一緒にいられるなんて、と思ってしまう。それがこの物語の魔法、イラストの力でしょう。濃密で忘れられない時間。不思議な、あたたかな気持ちを、結びついた心の真実として、この小さな物語に閉じ込めたリンドグレーン。大切な心の有り様をしっかりと伝えます。

◎その他の読み物
『しっぽ!』竹下文子作 長野ともこ絵 (2007.10 学研)
朝、起きたら、おしりにふわふわのりすのしっぽが生えていたゆうと。引っ張ってもとれない。けれど、母さんや他の人には見えないみたい……と思って外に出てみると、他にもきつねのしっぽやアライグマのしっぽみたいなのをつけている人が何人もいたんだ。同じクラスのあすかちゃんには見えていて、探偵みたいに、「昨日変わったことをしなかった?」と聞かれるし……。気にかかることがあると、しっぽや耳が生えてきちゃうというなんとも直栽な表現にまず笑ってしまい、それからふっと我にかえる。ゆうとくんの気持ちの流れが素直でよりそっていきやすく、ラストも気持ちよく、視点が広がっていくのがいい。わかっているけどなかなか言えない「ごめんね」を、こんな風に言えたらいいな、と子ども自身が思えるおもしろさを持っているのが、すてき。

『フ−さん』ハンヌ・マケラ作・絵 上山美保子訳 (1973/2007.9 国書刊行会)
1973年に刊行されてから読みつがれ、刊行され続けているフィンランドの児童文学シリーズの初邦訳。フーさんというのは小さくていつも真っ黒な服を着ている人みたい。でも、夜起きていて、子どもをおどかしたり、夜うろうろするのが仕事らしいし、おじいさんの残した魔法の品々や言葉を使っているし、動物たちと話もできるし、どうも、妖精みたいなものじゃないかしら。フーさんが葉をおとす木が病気になったと思い、葉が落ちないよう糸で縫い止めた話とか、子どもに出会う話とか、小さなお話が15話入っている。北欧の物らしい、不思議な静けさをもった話が多い。ムーミンより物語性が希薄で、なんとも形容し難い、微妙なオチにくふふと笑える人ならはまるかも。フーさんは社会からはずれていて、常識等も無く、そういう意味ではとても子どもに近い存在。そのフーさんが動くことで、違った目で社会を見たり、物事をとらえ直したりすることができる。寓話としてのおもしろさはあると思う。読みきかせなら3、4歳から、と書かれているが、それでは、フーさんのずれや生きにくさをわからないのではないかなと思った。

『ほおずきちょうちん』竹内もと代作 こみねゆら絵 (2007.7 岩崎書店)
ゆい子と大の仲良しだった大ばあちゃんがなくなった。その日から幽霊となって家族の前にあらわれるようになり、みな困惑する。何か心残りがあったのかしら……。大おばあちゃんの大事にしていた桐のたんすの引き出しから、日記が見つかり、その心の秘密が少しづつ明らかになっていく。幽霊がでてくるのに、怖くなく家族が思い遣る心持ちがよく描かれていてあたたかい。幽霊のことをおもしろがって言いふらされ、ゆい子がクラスで少し仲間はずれになってしまうところ等、あったけれど。大おばあちゃんの心残りが解きあかされ、上手く思いがとげられ、安心する。ちょっとあっさりし過ぎるかなあとも思うけれど。

『たのしいこびと村』エーリッヒ・ハイネマン文 フリッツ・バウムガルテン絵 石川素子訳 (2005/2007.9 徳間書店)
『おひさまホテル』のコンビの絵童話。ドイツでは絵本の形で復刊されたが、テキストが多いため、日本では絵童話の形態で刊行されている。食べ物が乏しくなってどうしようもなくなったねずみの親子が、おじいさんの話していた<こびと村>のことを思い出し、助けてもらいに出かけます。大変な思いをしながら小人村についたねずみたちは、小人たちの働きぶり、ちいさな動物たちののびのびと暮す様子にびっくりします。それぞれの小人たちの仕事を見せてもらうのはとっても楽しい。きっと、こんな風に手や体を使って、皆暮していたのだろうなと思います。本書が刊行された当初は、子供の読者への一種の啓蒙であったかもしれません。今では幼い子にはファンタジーで大人には郷愁を持って読まれるのかも。ねずみの親子はもちろん、たっぷりの食料やあたたかいコートまで用意してもらい、無事帰路へつき、大団円です。

『きつねのフォスとうさぎのハース』シルヴィア・ヴァンデン・ヘーデ作 テー・チョンキン絵 野坂悦子訳
(2000/2007.9 岩波書店)
オールカラーの挿絵のついた、小さなお話が16話もはいったオランダの童話。本国では人気のシリーズとか。第1話では会話の前に、話している動物の顔が小さく入っていて、誰がしゃべっているか一目瞭然。ページにちりばめられたイラストは、お話が見えるように、動物たちの行動や様子を描き出す。本を読むのに慣れていない子たちにも、興味を持ってもらえるように、との配慮からだとも訳者あとがきに書いてあった。きつねにしては太っちょでおまぬけなフォス。うさぎのハースはしっかりものでおねえさんっぽいけれど、ちょっとわがまま。ふたりにからむフクロウが『くまのプーさん』にでてくるフクロみたいな、キャラクターでおかしいの。この3びきが起こす出来事がそれぞれの小さなお話になっているのだが、とんちんかんなやりとりが、ヤーノシュのとらくんとくまくんにも似て(それよりももっと明るく、軽い感じ)、おもしろい。卵からかえったピヨや町からやってくるリスの奥さん等の傍役たちもひとくせあって、関係性がいろいろ変わってくると、物語のトーンも変化していき、ちょっとどきどき。小さい子ども向けに書いているのだろうけれど、嫉妬したり、どうしても気になってしまったり、違うところで違う風に生きてみたくなったり……と、人生の真実をさらりと見せてしまうところが、良いなと思った。

『お皿のボタン』たかどのほうこ作・絵(2007.11 偕成社)
飾り棚の上においてある白いお皿にはいろんな色や形のボタンが入れてありました。それはお父さんのズボンから弾けて飛んだボタンだったり、もう着られなくなった服からとって、そのまま入れっぱなしになっているボタンだったり、なんだかよくわからないけど拾ったボタンだったり、ボタンじゃないものも混じっていたりしたのです。そんなボタンが語った物語が10話。読んでいくうちに、小さなボタンたちが語る壮大な物語に大笑い。何にでもなれるのは子どもの本の作家の得意技だけれど、ボタンになり切って、ボタンたちの声を聞いた人が今までいたかしら? それくらい、それぞれのボタンのキャラクターがしっかりと描かれて、だからこそ、こういうボタン人生を歩んでいるのねえ、と納得し、ボタン人生がにじみ出たやり取りに、人間なら……と重ねて思い描いてしまうのでしょう。声を出して読んでやりながら、何度笑い出してしまったかしれない。

『エミリ・ディキンスン家のネズミ』エリザベス・スパイアーズ作 クレア・A・ニヴォラ絵 長田弘訳 (1999/2007.9 みすず書房)
エミリ・ディキンスンといって、すぐその詩が口ずさめる人は日本人には少ないだろう。けれども、この特異な詩人が町の中でとても有名で、子どもに近しい人であったことを、バーバラ・クーニーが『エミリー』という美しい絵本で描いている。お話を話して聞かせたり、ジンジャーブレッドが有名だったのは知らなかったけれど。いつも白い服を着ていたエミリは、人知れず詩を書きためていた。そこへねずみのエマラインがやってくる。エミリの詩を読んで、そこに自分の深いところにある感情を見つけた時、ねずみは返歌のように詩を書き付け、渡し、詩を共有するふたりは強い絆で結ばれ、ねずみ退治の業者やイタチからエミリはねずみをまもってくれることとなる。でも、新たな天地を目指し、ねずみのエマラインは旅に出たのだった……。ねずみと詩人のつきあいは、エミリの12編の詩とねずみの詩7編をはさんで語られる。自分の居場所を求める心は共鳴しあい、同じ方角を見るものだけが得られる信頼が、詩の形でやり取りされていく。この静かで凛とした物語は、そのままエミリの人となりを伝えるものとして、子どもにも強く印象づけられることと思う。上手く手渡してみたい。詩は、遠くにあるものではなく、自分の身近にあって、ふだん使い慣れている言葉を慈しみ、その意味の含むものの大きさに驚くこと。小さなささいなものやことを大きな目で、見直し繋げていくことといえるのではないかしら。エミリの詩は新訳で、今まで訳されているものよりも、エミリの声が聞こえるような気がする。

『そのぬくもりはきえない』岩瀬成子作 (2007.11 偕成社)
4年生の波はお母さんのいう通りに動く。学校でもなかなか自分の考えを伝えることができない。いろんなことを思いすぎて、動けなくなるということが子どもには多い。小さい頃のわたしはそうだったし、そんな自分が嫌だった。今、目の前にいる子も時々そういうことになっているみたい。今のわたしは、波のお母さんみたいだ。子どもの考えていることを言い当てて、全部わかってるんだからっていって、あなたのためよってぐいぐい迫っている。子どもに叱りながら、なんで親っていうものは、自分を棚に挙げてやんないとやってられないものかしら……と思う。本書を読んで今までに読んだいろんな子どもの本を思い出した。『魔女ジェニファーとわたし』『トムは真夜中の庭で』『星にかえった少女』……。自分を明かさない少女が出てくるし、老女が出てくるし、別の次元に生きる子との交流がある。そして、2代にわたる母と娘の話も。波と一緒に謎を、困難を、ちょっとしたウソを生きながら、いろんな要素が重層的に上手くつながったこの物語を読んでいき、最後はあたたかな思いで本を閉じることが出来た。小さな頃のわたしも、今のわたしもこの物語の中で深く息をついて、大丈夫ねと安心することが出来たのだ。

『とんぼの島のいたずら子やぎ』バーリント・アーグネシュ作 レイク・カーロイ絵 うちかわかずみ訳(1969/2007.10 偕成社)
『犬のラブダとまあるい花』で紹介されたハンガリーを代表する子どもの本の作家と画家のコンビの絵童話が翻訳された。オールカラーのイラストがかわいらしく、あたたかなこの物語を彩っているのがうれしい。とんぼ島にすむ子やぎのギダは元気ないたずらもの。お家の屋根に生えている草を食べにくるものがいたら追っ払ってね、とママにいわれたのに、自分で食べてしまったり、友だちがきれいなベルを首から下げていたら、自分もほしくてほしくてだだをこねたり……。小さな子が、わたしギダみたい邪ないもんね、ふふっと笑ってちょっと優越感を持つ、そんな幼年童話の王道のような物語。そのとんぼ島での毎日が、サーカスを退職して島に住み着くことになったトラの出現でトーンが変わってきます。みんな気になるのだけれど、怖がって誰もトラに寄り付かないのです。だけど……。40年近くも前にかれたお話だけれど、何かを誰かを受け入れるという時の心の動きをきちんと幼い人にも見せてくれ、また、親であるママやぎが自分の心の中の弱さを子どもに言葉にしてみせる、というのが、本当に深いなあと思いました。

『いのちのなぞ 上の巻』越智典子文 沢田としき絵 (2007.10 朔北社)
いのちってなんだろう? 小学校で子どもたちに問いかけられることの多い質問です。でも、大人の方は問いかけておきながら、きちんと答えを導くようなことはなかなかできないというむずかしい問題。本書のおもしろいところは、小さな質問をたくさん積み上げることで、大きな命の問題をより具体的に、より豊かに、いろんな視点でもってアプローチしているところ。たとえば、<1のなぞ>これは誰の卵でしょう、とメダカ、カメ、アゲハチョウ、ダチョウ、ゾウと、あげていき、「ゾウのたまご」なんてあるのかしら?赤ちゃんでうまれるのに……と説明していくことで、人ももともとは小さな小さな卵なのだ、卵のママで生まれるのではなく、卵のうちはお母さんのお腹の中にいて、赤ちゃんとして生まれるのだと説明します。そして、<2のなぞ>あなたはどんな卵だったのでしょう?想像して絵にかいてみましょうと、謎をつなげていくのです。え、そうなの?それからそれからと、積み重なる謎に引き込まれてしまいます。謎は進化って何?というところまで行き着き、下巻では死ぬって、どういうこと?という謎までも。(下巻はまだ未刊)下巻を読むのが楽しみだなあ。本書のもうひとつの魅力としてオールカラーのイラストがあげられるでしょう。テキストに出てくる生き物から遺伝子まで、いのちあるもの姿だけでなく、意図するところ、思考の流れをイラストレートして、なおかつ、あたたかな手触りを感じさせる絵が満載。謎が謎をよぶように、絵もページをまたいでつながり、語っていく。こういうタイプのノンフィクション、科学の本って今までみたことないなあと感心しました。

【評論】
『おえかきウォッチング〜子どもの絵を10倍たのしむ方法』なかがわちひろ著 (2007.11 理論社)
理論社のホームページに書かれていた時から楽しみに読んでいた連載が1冊になった。子どもの絵のはじまりの順に追って、その意味するところを想像し、考察していく様がスリリング。赤ちゃんの成長の観察、かくところとかくもの、かきたい気持ちがそろったら、テンテンの絵、ジグザグ描きの絵、ぐるぐるの絵、まるの絵……と、どんどん描いていく子ども。現在進行形で子どもの絵の変化を目の当たりにしているわたしは、本書を読んで、なるほどねえ、そうそうそうだったのよ、と何度深くうなずいたかしれない。赤ちゃんというものが、世界を獲得するために、いかに貪欲であるか、子どもがぶつぶつ一人で何者かとお話しながら、絵を描いたり、人形やつみきと遊んでいる時の濃密さ。手と頭と心がしっかりと結ばれている時間にできあがるものは、どれもとても尊い感じがする。つみきやお人形遊びの跡はその時で消えてしまうけれど、絵であれば、紙に残されたモノとして、あの時間を手元におけるのがうれしい。本書は、子どもの絵を読みとくだけにとどまらず、手で見るということ、耳で見るということ、一見子どもの絵みたいに見える現代絵画について、上手な絵って何だろう、と思考が広がっていくところが素敵。表現が進化することで、見えにくくなっていくものをもう一度、とりもどすために、現代絵画は素朴で力強い表現としての原始美術や子どもの絵を再発見し取りこんでいったのね。絵本にも、そういうところがあるなあと思いながらよみました。1960年代等の絵本を読み返すと、イラストレーションとして洗練され、先鋭化した現代の絵本のもろさを感じます。また、現代社会の複雑さに対して、絵本の得意技であるシンプルな世界の切り取り方が受けるというのもわかります。世界をどんなふうに獲得するか、それを絵と物語で見せるのが絵本。その絵本を見て、子どもも大人も自分の世界を何度でも新たに獲得するのでしょう。

『絵本のしくみを考える』藤本朝巳著 (2007.10 日本エディタースクール出版部)
絵本のしくみとは何か? それは絵の流れ、ページめくりの展開、片ページ、見開きページの展開の違い、イラストと文字の入り方など、絵本を語らせるために、おのずと作られてきたものを<絵本のしくみ>として説明しています。それは、絵本を実際に作っている作家や編集者であれば、しっかりと言語化することもなく雰囲気でわかっていたり、長年の経験から導き出したり、今まで出ている絵本を読み込むことで身についたりする絵本のもう一つの見方。ややもすると、絵本のページのつくりを整理することで、絵本の読みが画一化するという方向に流れてしまいそうな気もしますが、本書は、絵本は読者による参加で、<生きている>と認識している著者が書いているので、形式論には陥りません。絵本は<語り>であり、しかも、絵と文章によって語る生きものなのだ、と言い切っているからです。文章と絵の有機的な結びつき、それは、文章を読んでいて、画面にある絵以外のある種の絵が見えてくること、聞いているうちに読者の中に浮かんでくるイメージそのものが完成された絵本なのだということなのです。その絵本のしくみが<語る>という行為にいかに影響をおよぼしているかを具体的に絵本の画面を見せながら、丁寧に読みといています。絵本研究者、絵本作家を目指す人以外にも、広く手にとってもらいたい本です。この<語り>という視点で絵本を見直した時、現代の絵本のぜい弱な部分への処方せんみたいなものが見えてくるかもしれないなと、思いました。物語を内包する絵とはなにか、絵本の絵とはどんなものか、絵本の言葉とは?と本書をとじたあとも、いろいろいろいろ考えました。