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2008.03.25

       

 いやあ、もう春ですね。令丈ヒロ子です。
 うかうかしているうちにもう、4月になってしまいました。なんやかんやでしばらく間があきましたが、今回は、絵本を特集しようと思います。
 どういう括りかというと、あまりにもインパクトが強かったため、読後もしばらく頭からはなれなかった絵本、「インパクト強すぎ!」絵本特集です。

 では、サクサクと行きましょう。一冊目。
『ペラがえる』
うどんあこ作・市居みか絵・佼成出版社2007年5月刊。
 なぜ、ペラがえるなのか?
 それは、ぺランぺランにうすっぺらいかえるだから。そして、名古屋の言葉で、ぺーらぺらしゃべるかえるだから。
 タイトルが直球。剛速球。
 かえるの登場シーンの、情けない薄い様子、歩こうとしたら手足がペラペラなのでひっくり返る様子は、「ペラがえる」以外の名前は考えられないです。
 水にぬらしたら元に戻るだろうということで、ぬらすけどまだペラペラ。
 雨なら、きっと元に戻るだろうと、雨降りの呪文(これがまた「あめよふりゃあ!」がえんえん続くと言う……)を、ペラペラしながら歌う、その姿。
 どこまでも「ペラペラネタ」と名古屋の言葉で押してくる、作者の力技、そして市居さんの絵の強さに感動しました。
 クライマックスでふつうのかえるにもどったら、ほんと全然ふつう。かわいいけど、めっちゃあたりまえのかえるです。読んだ子どもは、「ふつうにもどれてよかったね」と、ほっとするでしょう。
 ここで終わったら、まだ、あっさりしてるんですが、かえるはおばあちゃんのところにもどります。その別れのシーンがすごい。
「おばあちゃんとまっとるでねー、おばあちゃんとまっとるでねー、おばあちゃんとまっとるでねー」と、画面に、これまた呪文のように繰り返し書いてある。これがもう強烈。インパクトのだめ押しです。
 おもしろさの質が濃厚な一冊でした。

 ペラペラのかえるも、脳裏にやきつきましたが、それに負けないような衝撃のシーン、「走るおもち」を、見ました。
『おもちのきもち』
かがくいひろし作・絵・講談社2005年12月刊
 第27回講談社絵本新人賞作だそうです。
 審査員の先生方に、わたしはお礼を申し上げたいです。よく、この作品を選んでくださった、と!
 絵本や幼年童話では「食べ物そのもの」が擬人化されてキャラになった話が、少なくないですね。わたしは、そういうお話が好きです。
 しかし、その手の話は、「擬人化された食べ物である主人公」が、人に食べられることについてどう思うのか? というところがポイントになってきます。
 はじめから「食べられる運命だ」と、あっさりそれをうけいれるのか。おいしく食べてもらったら、食べ物としての役目を全うしたということで、それでOKなのか。食べられるのがいやで逃げ出すパターンの話なら、逃げ切るのか。逃げ切った食べ物くんらは、その後どんな結末をむかえるのか? 
 そこのところを、幼い読者に違和感なく、おもしろく、どう納得させるのかが、とってもむずかしいと思います。そこのところを、この絵本は「おおっ」と思うような、良い結末になっています。
 この話の主人公は「かがみもち」です。彼は今はかがみもちと呼ばれ大事にされているが、いつ食べられるかと思うと、こわくてたまらない。
 で、やにわにぐわっと二本脚っぽい形になって、外に逃げ出すのですが……。
 もう、その絵! 走るかがみもちの、すがたが、口では言い表せないような、すごい形なんです! 
 頭に橙をつけ、三方をつけたまま、人っぽいのんきな形で休んだり、「それー ビロンビロンビローン」というかけ声にぴったりの、おもちでないとぜったいにありえないような形でダッシュしたりですね。
 圧巻はおなかがすいてしまったかがみもちが、自分のはしっこを食べるのですが、そのおもちののびっぷりがすごい。シュールなほどの自分食いの変形に、ちょっと怖くなってしまいそうなところです。
 しかし、おもちには必ず、実にのんきでおおらかな「かがみもちくん」の顔がついている。その表情のおかしさで、危うい異様さが、あたたかいおもしろさに変わるんですね。おみごと。「結末」も、うまいです! 
 驚くべきラストシーンを、見ていただきたいです。「おもちのきもち」というタイトルに納得させられます。
 
 『おきにいり』
田中清代作・絵・ひさかたチャイルド1998年4月刊。
 表紙を見ますと、子どもたちの中に直立している魚が仲良く立っている。絵本でこういう絵だと、
「あー、魚キャラが子供たちと仲良くなるって話だろうな」
 と、思います。しかし中を見てびっくり。
 擬人化じゃない話でした。リアルだった。ではなぜ魚が立っているのか?
 田中さんの絵本は、どれもどこか影のある、陰影の複雑なユーモアがあり、どんなかわいらしいお話でも、和風純文学のにおいがします。
 エッチングという手間のかかる、絵の表現としては古典的な手法で、すべての絵を作っているのも、その独特の空気を醸し出すのに、最適な技法なのかもしれません。
「おきにいり」の主人公は、おかあさんが作ってくれた等身大の魚のきぐるみが、ぼくのおきにいりだと、紹介します。
 彼はぴちぴちの魚になりたいらしく、その着ぐるみを着て、お弁当を持って、町を歩きます。お母さんは笑顔でそれを見送り、町の人に変ねえ、と嘲笑われたり、愉快がられたり、小さい子には泣かれたりするのですが、そのときの「魚の着ぐるみ」が、すごい表情をしているのです。
 キャラじゃないから、けして「さかなくん」的なわかりやすい表情の変化ではなく、リアルにしわがよった着ぐるみの魚の「無表情」の中に浮かび上がる、やるせない感じが、凄い。
 やがて雨が降り、着ぐるみが重くなって歩きにくくなってきた彼の所に、またしても「無表情の親玉」みたいな、異様な顔のついた大きなものが現れます。彼はのみ込まれてしまいそうな、こわさを味わいますが、それはお母さんの傘でした。
 お母さんの傘に、なぜそんな顔がついているか、どうして彼はそんなにも魚の着ぐるみを着て幼稚園に行きたかったのか、説明もヒントもないままです。
 彼はお母さんと一緒に魚のまま、幼稚園に行って、みんなの「おきにいり」になります。
 最後に着ぐるみを半分脱いだ「彼」本人の顔が見えて、(お弁当の時間ですね。彼は着ぐるみの中にお弁当を持っていたようです)読者は自分もずっと雨にしめった着ぐるみを着ているような閉塞感から解放されます。
 この絵本のインパクトは、淡い上品な色調や、少ない言葉からは想像もできないような強さがあります。
 中途半端な説明も、擬人もなし。変った設定にも頼らない。大きな事件も起きない。ただ男の子が着ぐるみを着て、幼稚園に行くだけの話で、こんなにも人の「なにか自分以外のものになりたい」気持ちの、その微妙さ、根の深さをあらわした作品はないと思います。また絵本でないとできない世界とは、こういうことかと考えさせられました。

 ではインパクト絵本・本日の目玉を紹介します。
 まず、その本は絵本なのかどうかわからないのです。
 大きな書店の絵本売場で買ったのですから、絵本なんでしょうか。それを見つけたのは、今から十八年前です。あんまりにも「けったいな」本なんで、びっくりしすぎて買ってしまいました。
 タイトルは『IN SEARCH OF シーラカンス』。
 なにがおかしいかといったら、もうおかしいことだらけの本でした。
 まず、装丁が「高級なノート(一応ハードカバー風)」で、表紙に、手書きのタイトルと作者名と絵を書いた紙が、のりでぺたぺたと貼ってあります。
 おせじにもうまいと言えないような、色鉛筆のシーラカンスの絵。一ページ目には「石井慎二 演出作品」と、映画のタイトルみたいな凝ったロゴで「シーラカンス」と刷ってあります。
 そしてぱらぱらっと、めくってみると、活字じゃない。
 石井さんの手書きの字と絵が、そのまま印刷してあるのです。
 それもボールペンと色鉛筆の、めっちゃ適当な書き方……。また、ページをめくっていくと、後半は、話が早く終わってしまったらしく、真っ白。これは手作り本ってやつ?
 発行は「株式会社リクルート」です。
 そして、最後には、ぺらっとコピーされた紙が一枚はさんであります。
「いしいしんじの本・アムステルダムの犬・講談社より好評発売中」。
 そうです。これは、いまとなっては、信じられないぐらい立派になられた作家「いしいしんじ」さんの、作家デビュー前の本なのでした。
 絵日記の内容は、忙しいリクルート社の社員生活に疲れた、石井青年がふらっと外国に旅に出て、出会った人たちとのふれあい日記なんですが、まあ、いしいさんの書くお話ですから、とぼけたような、かったるいような、おかしーな話にしあがっています。
 この本を買って十二年後に、作者にお目にかかる機会が持てました。
「いしいさん、あたし、最初のシーラカンス持ってますよ」
 と言ったら、
「えーっ! よう、そんなん買いましたねえ」
 と、作者に言われたという……。
 お話やらエッセイから察するに、いしいさんはとても良い上司に恵まれたようで、急に無断で旅に出た石井社員をくびにすることもなく、その旅日記をおもしろがって出版して下さったみたいなんですね。
 そのエッセイ通りの、初めて会った人でもすぐフレンドリーになる、味わい深いお人柄のなせる技でしょう。
(わたしは、ほぼ初対面に近い相手でしたのに、酒場で「口琴」という、当時いしいさんが凝っておられた口にくわえる楽器を演奏していただき、大阪下町の酒場が一瞬にして異国化。大変楽しい思いをさせていただきました。)
 さて、シーラカンスをさがしに行き当たりばったりな旅に出た石井青年。もちろんシーラカンスは見つからず、この本も本屋さんから消えました。
 この本は「シーラカンス」というタイトルで、ちゃんとした本として金の星社から出ています。しみずたかひこさんの版画が入っており、「文芸書」っぽくかっこよく仕上がっています。
 石井青年の色鉛筆による、ええかげんなイラストがないのと、おかしな工夫等がない分、独特の空気はかなり薄れています。
 しかし、「ぶらんこのり」から始まって、「プラネタリウムのふたご」「みずうみ」などに続く、読んだら酔ったみたいにくらくらしてしまう、「美しく繊細なガラスの糸で有機的な形に編んだような小説」のファンの方は、印刷されたほうの「シーラカンス」をおすすめします。
 内容がインパクトな絵本、というより、作者の生きる姿勢がインパクトな絵本という感じでしょうか。

 ということで、また。
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【絵本】
絵本と本読みのつれづれ(18)  「弟は電車が好き」(鈴木宏枝)

Tさん(5歳9ヶ月)、Mくん(3歳1ヶ月)

Mくんが長い絵本が好きなのは、昼間は保育園だから、夜は私の声を聞いていたいのか、姉につられているのか、本当にお話に入り込んでいるのか。まあ、それらがブレンドされているのだろう。今、彼がこよなく愛しているのが『機関車シュッポと青いしんがり貨車』である。7晩あったら7回持ってくるほどの入れ込みようだ。

年末にナルニア国に行ったときに、『機関車シュッポ』を見つけ、Mくんへのお年玉に購入した。電車好きだし、「待望の復刊」でいいかも、と安直な理由だった。この絵本、お正月に渡したときはほとんど興味を示さなかったのだが、今月に入ってから一回しっかり読んであげてから、スイッチが入ったように毎日「きかんしゃチュッポ!」と持ってくる。

1951年初版の『機関車シュッポ』は重ね塗りの色合いがなんともあたたかい絵本で、機関車としんがり貨車の一種の恋のお話である。主人公は、かなり年代物の機関車のシュッポで、新型の機関車からは軽んじられているが、実はどの機関車よりも経験豊かでたくましい。シュッポの駅のそばに、ある日やってきたしんがり貨車のルーシー。かつて「うきうきサーカス団」にいたのだがお払い箱になった。せんろ係の人たちは、彼女を自分たちの休憩所に変え、明かりをともす。シュッポは、ヘッドライトに瞬き返してきたルーシーに一目ぼれをし、せんろ係を介して花を贈る。

ある雪の日、いつもルーシーになれなれしく汽笛を投げかける急行列車が立ち往生になり、除雪の経験のあるシュッポが出動することになる。シュッポはめざましい働きで雪かきをし、無事に急行列車を通すことができた。やがて春が来ると、シュッポとルーシーは誘いを受けて、一緒に「しあわせるんるんサーカス団」に加わることになる。

ページによっては字数の少ないところもあるが、絵本で48ページというのは結構なボリュームだと思う。だけど、Mくんは、それをきちんと最初から通して丁寧に読んでいかないと(たぶん)怒る。順番通りにお話が進んでいくことが、ここでもやはり大事なのだ。

この絵本では、格好つけた急行列車が立ち往生し、見下されていたシュッポが大活躍するのがキモなのだが、Mくんにとっては急行列車のほうがかっこいいらしい。話の最初のほうの線路の絵を指さし、「みて、もうすぐきゅうこうれっしゃがくるのよ」、なれなれしくルーシーに流し目をする(絵本の中ではちょっと情けない役回りのはずの)急行列車を見て「きゅうこうれっしゃがきた!」である。肝心のシュッポはあまりMくんの目に入っていない。しかも、その大好きな「急行列車」もそれほど理解しているわけではなく、この前は二人で電車遊びをしているときに「かくえきていしゃ〜 かくえきていしゃ〜 きゅうこうでございます」というアナウンスをして、姉に大笑いされていた。もちろん、シュッポとルーシーの恋の機微など分かるわけもない。

キモははずしているが、好きならそれでいい。駅舎に戻ったシュッポをみんなが迎える場面では「あくしゅしてるねー」とうれしそうだ。「しあわせるんるんサーカス団」に入ったあとは、二台で去っていく後姿にテキストは「ばいばーい」の一言なのだが、私が何も言わずとも「ばいばーい」と本に向かって手を振り、「これから、しあわせるんるんしゃーかすにいくんだよ」と自慢げに教えてくれる(本当は、すでにサーカス団に入っていて、その中で旅に出ているのだが)。それにしても、子どもの口から「しあわせるんるん」などという語彙を聞くと、こちらまで本当に「幸せルンルン」な気分になるから不思議だ。

シュッポにどっぷり浸っているMくんに対し、Tさんは、「違う本を読んでもらう」ことが楽しい。そして、うれしそうに『機関車シュッポ』を抱えてくるMくんに「またシュッポなの〜」と苦笑している。とはいえ、Tさんもそれなりに聞いていて、時に分からない言葉を聞いてきたりする。説明しにくかったのが「時代遅れの役立たず」だ。

ロコ・ルーイやダン・ジーゼルみたいな大きな機関車は、シュッポのことを、
時代遅れの役たたずだと思っていました。

「除雪車って何?」と聞かれたときはすぐに答えたのだが、「時代遅れ」「役立たず」は、説明が抽象的だし、そんな悪口よりももっと素敵な言葉でTさんの心を満たしたく、なんとなく教えずにいた。すると、頭の中でどう理解されたか、Tさんは、ある晩、読んでいるそばで「つぎは〜つぎは〜しゅうてん○○です」と駅アナウンスの真似を始め、やがて、「シュッポがじだいおくれになりますので〜 きゅうこうれっしゃは はやくきてください〜」と続け、「って、ミッチさん(線路係)が言ってるね」とまとめた。げらげら笑いながらだったから、全部冗談なのだが、「時代遅れ」の意味がわからないなりに、何か「手を打たないとまずそうなこと」と結び付けているところがおもしろかった。

本読みの入り口に入ったTさんだが、少し前に一歩踏み出したときのような勢いでは読んでいない。就学前にどれほど児童文学を与えるか、私自身も本の手渡し方を考えてしまうあいだに、ずっと繰り返し読んでいるのは図鑑であり、これは、昨年の夏ごろからそろえ始めた、人体や春夏秋冬や恐竜の図鑑を読みふけっている。実験が好きのようで、ためしに「一年の科学」を買い与えてみたら、自転車の後ろに乗っている間も読むほどののめりこみぶりだった。物語では、『小人ヘルベのぼうけん』を読んでいるが、それほど進まない。もう少し、私が幼年童話を借りてくるなりしたほうがいいか、思案しているうちに子どもはどんどん大きくなるし、少々あせる。

さて、今日、動物園に出かけて疲れた姉弟は、いつもより短い絵本を持ってきた。Tさんは『まよなかのだいどころ』、Mくんは10日ぶりに「シュッポ」を選ばず、『バムとケロのさむいあさ』だった。Mくんに読むのを聞きながら、Tさんが「ねえ、この二人(バムとケロ)って子どもなのかなあ」と言う。いいところに気づいた、と「ケロちゃんは子どもだねえ」と答えると、「バムは、ケロちゃんの……」と考え、「えーと、見張り番だね」と続けた。後見人とか母役割とか育ての親とかより、よほど説得力のある一言。Tさんがやんちゃなケロちゃんと、見張り番(たぶん弟の)のバムのどちらに自己投影しているのだろうか。


■『機関車シュッポと青いしんがり貨車』 作:リディア&ドン・フリーマン、訳:やましたはるお訳、BL出版、1951/2007.12
■『小人ヘルベのぼうけん』作:オットフリート・プロイスラー、訳:中村浩三、偕成社文庫、1981/1995.12
■『まよなかのだいどころ』 さく:モーリス・センダック、やく:じんぐうてるお、冨山房、1970/1982.9
■『バムとケロのさむいあさ』 島田ゆか、文溪堂、1996.12

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『春の日 里山の一日』(今森光彦 アリス館 2008.03 1400円)
 もちろん、この日がくるのは、去年『夏の日』が出版されてからわかっていましたが、
 あ〜あ、とうとう四冊、出てしまった。
 完結を慶ぶべきなんですが、
 終わったなあ。
 でも、最後が春で良かった。

 写真の力を堪能させていただきました。
 自然の力も。
 今森さん、おおきにでした。(ひこ)

『トプシーとアンガス』(マージョリー・フラック:さく・え まさきるりこ:やく アリス館 2008.03 1300円)
 アンガスシリーズ、今回は、ペットショップで売られているトプシーのお話。トプシーは、いつも店に見に来るジュディを大好きになるのですが、買ったのは知らない夫人でした。愛情いっぱいに飼われますが、トプシーは幸せではありません。ジュディのことが忘れられないのです。
 いたずらばかりのトプシー。
 とうとう地下に閉じ込められ、そこを逃げ出したトプシーは、出会ったアンガスを遊びます。そしてアンガスを遊ぼうとやってきたのは、ジュディ!
 「幸せな結末」が、まだ充分有効な時代の作品ですが、それが今でも有効に思える一時を過ごせるのは、マージョリー・フラックの力ですね。(ひこ)

【創作】
『アントン-命の重さ-』(エリザベート・ツェラー:作 中村智子:訳 主婦の友社)
 ミュンヘンの北西にあるダッハウ強制収容施設跡を訪れたことがあります。拷問具や、遺体の山の写真や、亡くなった人々のプロフィールが書かれたボードなど。それらにも圧倒されたのですが、洗面用具からトイレまで、日常を垣間見させてくれるものが印象深かったです。確かにここは、隔離された特殊な場所ではあるけれど、私たちの生活と地続きでもあるのだと。
 強制収容所というとすぐにユダヤ人への迫害を思い浮かべますが、ナチスは他にも多くの人々を収容し、抹殺しました(ダッハウも、最初は政治犯、宗教者のための施設でした)。
 この物語が描いているのは、障害者抹殺計画です(ガス室を最初に試したのは、彼ら障害者に対してでした)。著者のおじさんであるアントンが、実際に体験した出来事を元に書かれています。
 アントンは交通事故によって脳に障害が残り、言葉が巧く話せません。
 彼が生まれた一年後の一九三三年に遺伝病子孫予防法(断種法)が成立し、小学校に上がった次の年、一九三九年に「帝国重度遺伝病科学調査委員会」ができます。これは、チャールズ・ダーウィンの進化論における「生存競争」を、人間に当てはめた「適者生存」概念を元にしています。
 アントンは「遺伝病」によって「障害」を持っているのではありませんが、ナチスから見れば、生きるに値しない命であり、余計な費用がかかるだけの厄介者です。
「不治の病や障害のある人たちは、役に立たない有害な人間とみなされる時代へと変わろうとしていた」のです。
 小学校での、アントンへのいじめや差別がしだいにひどくなっていく様子、友達でさえも、親に言われてアントンと遊べなくなり、去っていくことなどが描かれていきます。
 母親は、「人間は、だれでも同じだけ価値があるわ」とアントンに教えるのですが、残念ながら彼は学校でそんな風には扱われません。それにとまどうアントン。そして、彼もまた、ユダヤ人の友人へのいじめを止めることができません。「ユダヤ人を公の場所で助けようものなら反逆罪にされてしま」うからです。姉が習う「人種学」では、ユダヤ人は劣等種であると教えます。知り合いの子どもは、障害児は専用の施設で育ったほうが、友だちもできるし、もっと多くの支援も受けられると保健所から強く勧められ、連れて行かれてしまいます。
 アントンの両親は、彼を家の中に隠すのですが、それも難しくなり、理解のある親戚の元の預けることとなります。が、それでも危なくなったとき、残された道は、医者に頼んで、偽の死亡証明書を書いてもらうことでした。
 障害者への差別意識は残念ながら今も存在します。ナチスの行為はそうした意識の肥大化したものといえるでしょう。
 キツイ物語ですが、私たちの中の差別意識を問い直す意味でも、ぜひ読んでみてください。(ひこ 徳間書店)

『ジャミールの新しい朝』(クリスティーン・ハリス:作 加藤葵:訳 小倉正巳:画 KUMON 2008/03 1300円)
 トルコを舞台にしたお話です。
 ジャミールは両親を失ってひとりぼっちで生きています。もちろん貧しくて、毎日飢えをしのぐのがせいいっぱい。
 心配してくれる人もいますが、心が固くなっているジャミールにはなかなか受け入れられません。
 ある日、彼はやせ細った野良犬を見つけます。追い払わなければと思うのですが、つい、わずかな食べ物を分けてしまい・・・。
 日本では設定が難しい、一人暮らしの孤児物語です。
 ラスト、ジャミールの心が開いていくきっかけが、トルコで起こった地震であるところは展開として弱いですが、彼の心の動きが素直に描かれていて、寄り添えます。
 小倉の画は、どこを描くかで冒険をしていないところが不満ですが、タッチは好きです。(ひこ)

【その他】
『自分の気持ち スッキリ伝えるレッスン帳』(八巻香織 すばる舎 2008.03 1300円)
 自分の心えを抱きしめたり、伝えたり、そんな当たり前のことが当たり前ではなくなってきた現代(を悪しきものとして否定はしません)において、気持ちよく生きるにはどうすれば良いかを、レターカウンセリングから始まって、ずっと考え、実践してきた八巻による、読者参加型レッスンノートです。
 だから、いっぱい書き込んで、本を汚す気持ちよさも感じてくださいな。
 あ、図書館で借りた本はだめですよ。(ひこ)