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2008.05.25
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【創作時評】 やすらげる場所と、広い世界への通路と 芹沢清実 松居スーザン『旅ねずみ』(スズキコージ絵、金の星社07年7月)の始まりは、こんなふう。 主人公のねずみは冬の風雪に万全に備えるため、しっかりした家を建て食べものを蓄えて冬眠。が、春になると蓄え種が発芽して、花のパワーで家はふっとんでしまい、かれは開眼する。 「自分をただまもるような暮らしなんて、もうやめた。生きるって、もっとすごいことなんだ。この花たちみたいに、とびだして石垣をこわすようなことだよ。だからぼくは、今まで知っていたこの森をあとにする。今日からぼくは旅ねずみだ。」 冒険のトキメキと休息のやすらぎ、「ひとり」と「いっしょ」をめぐって、すがすがしい物語が明晰なことばで語られる。 まずはこういう本に出あえてよかった。ふだんなかなか手が伸びない中・低学年向きをふくめ、旅ねずみに習って果敢に新刊児童書ととりくむ半年間にしたい。よろしくおつきあいください。 ひとりの深呼吸と、異年齢集団のなつかしさと 選ばれたことばのここちよさがあったのが、かさいまり『ぼく のんびりがすき』(秋里信子絵、岩崎書店07年8月)。 ムダなく計画的にすごす友や、ちょっぴり意地悪な友にゆさぶりをかけられても、ゆるゆる続く小ぐまの「のんびりライフ」ぶりは、読むだけで腹式呼吸しつつのイメージトレーニングさながら安心な気持ちになれる。こういう本は深呼吸のように大事だとおもう。 そのうえで、この本を紹介してひこ・田中が「こうした自己肯定の物語と、自己相対化の物語をつなぐ作品がもっと生まれるといいなとおもいます」(メルマガ「児童文学評論」177−2.07年9月25日)と書いているのに共感する。といいつつ、いや、それは作品というより読む側の心の動きかも、などと考えだすとキリがないのだが、ここはまず「自己肯定」の機能をもつような、やすらげる物語のことから。 「昭和ブーム」ともあいまって、異なる年齢の子どもたちがごちゃごちゃになって遊ぶ異年齢集団がなつかしく回顧されるようになっているのだな、と思ったのは、昨夏公開の映画「天然コケッコー」(山下敦弘監督)。小中学生七人が一緒の分校にかよう海に近い田舎の物語。原作者の漫画家くらもちふさこは、東京の社宅での自身の子ども時代をふまえたという。 大人の職業生活がじかに反映されるというシビアさはありつつ、利便性と共同性をかねそなえた近代的ユートピアのひとつでもある「社宅」が重要な舞台装置として機能するのが、加納朋子のミステリー『ぐるぐる猿と歌う鳥』(講談社07年7月)。 ここでは異年齢集団といっても「登校班」というややゆるい結びつきではあるが、共同の秘密をもつ子どもたちの物語は、往時の「少年探偵団」をおもわせるレトロななつかしさがただよう。 が、本書はそこにとどまらない。冒頭に回想される幼い頃の誘拐未遂事件が伏線となり、主人公が転校先で出合う謎の数々が提示されては解かれていく構成はたくみだ。さらに、考えるより先にからだが走り出してしまう小学五年生の「おれ」を語り手にしたことで、ここちよい疾走感の印象が強くなった。 この本は「かつて子どもだったあなたと少年少女のための」と銘打った講談社「ミステリーランド」シリーズだが、理論社からの「ミステリーYA!」シリーズでも人気推理作家たちが腕をふるっていて、ミステリ好きにうれしい状況ではある。理論社のほうは「YA」に重点があり、作家もさまざまに新しい試みをしている。 偽装する楽しさと、スーパーフラットな息苦しさを相対化することと 海外の作家でも、カール・ハイアセン、マイクル・Z・リューインと、ビッグネームが次々ジュブナイルを手がけている(というか翻訳が読めるようになった)。が、手練の推理作家なら誰でもとはいかず、明らかに向き不向きがあると感じる。それが何なのかということは、「児童文学とはなにか」「YAとはなにか」と問うことに等しいので、とてもここで扱いきれない。が、そのひとつは文体だということだけは言える。 たとえば、『青春デンデケデケデケ』で知られる芦原すなおは、なんという乙女魂を持ちあわせていることか。『カワセミの森で』(理論社07年5月)の主人公は、植木屋の親方みたいな短髪で、坪内逍遥訳のシェイクスピアがお気に入り。初対面の美少女に名を呼ばれ「いかにもさようぢゃ。して、いかなる用にて、ここに来やった?」と返答するような女子高校生の、親父少女と自己ツッコミをいれながらの饒舌な一人称語りは、「少女の語りを偽装した親父」という正体をぬけぬけとあかしているのに、不思議と乙女テイストを感じさせる。語り口に抱腹絶倒するうち、夏の別荘地で巻き込まれる事件の顛末自体はどうでもよくなったりする。 まったく位相はことなるけれど、「偽装」=他人をよそおうことは、永井するみ『カカオ80%の夏』(理論社07年4月)の主題でもある。 ふたりの女子高校生がセレクトショップで夏服を選ぶシーンから始まるミステリは、失踪したクラスメイトの別の顔を探る物語として進行する。恋愛体質ですれ違いの多い母親とふたり暮らし、ビターチョコが似合う主人公はとてもクール。だが、ぎりぎり最終盤まで姿をみせないクラスメイトー真面目そうで、やや地味めで、どこか不安定で自信なげ、そんな普通さがかかえる危うさをもつーの素顔がみたくて一気読み。(ついでに。作中で主人公が読んでいるジェフリー・ディーヴァーは、勇敢で無鉄砲な女の子を書かせたらピカイチ。ぜひジュブナイルを書いてもらいたい一押し作家だ。) どんな子か知っているつもりでつきあっていても、本当のところはわからない。そんな猜疑心をメールやブログが際限なく拡張してネットいじめが生じ、逆に見知らぬ者同士を緊密につなげてネット心中が起きたりもする時代をリアルに映し出したのが、梨屋アリエ『スリースターズ』(講談社07年9月)。 それぞれちがった境遇にありながら、どこか共通もする生きづらさをかかえた三人の少女が、ネットを通じてすこしづつ関係をつなげてゆく。 彼女たちに共通する生きづらさは、携帯やパソコンの小さい画面のなかでは同等な情報として、さまざまなものが等価交換可能にみえることとも関係している。ほんとうは平等でも何でもないのに、同じ土俵で勝負させられるから、ささいなことでも他人と比べ、生き延びるために自分の優位性を主張せざるを得ない。そういう「自分をリスペクトしてくれない社会」へのいらだちから、少女のひとりは「自爆テロ」を思い立つが、敵が見えない暴走は大義と結ぶテロにはなりえない。 偶然はじまった三人の関係から新たな出会いがあり、それぞれに変化がおとずれる。が、ひとりだけは最後まで救われないことが重い読後感をのこす。このちょっとやそっとでは救われないぞ、という絶望感こそが、梨屋の書きたかったことかとおもった。 たとえば藤野千夜、『中等部超能力戦争』(双葉社07年5月)は、ゆがんだ鏡で自分を凝視するのにも似て、互いを軽んじたり見下したりすることと同居した友情のありようを相対化してブラックユーモアにつつみこむ。それに比してナイーブではあるがまずはストレートに吐き出した渾身作であることはまちがいなく、その後にくるものをじっと待ちたい。 ところで『スリースターズ』登場人物のひとり、ひたすらな前向きさでがんじがらめにされていた少女が、ラップのゆるい歌詞にふれることで、ふっと力がぬけるシーンがある。日常のことばとは別のことばによって、日常が別の顔をあらわすこともあるのだ。俳句のもつ、ことばと日常を衝突させるパワー、人と人を出会わせるパワーを教えてくれるノンフィクションというか実践記録、夏井いつき『100年俳句計画』(そうえん社07年8月)が、とても楽しく力強く、そのへんのことを伝えてくれた。 シリーズがおわるとき、たちあがるとき 小学生のレンアイという、大人には悩ましいテーマに等身大かつユーモラスに体当たりした令丈ヒロ子の「レンアイ@委員」シリーズが、十冊目の『涙のレンアイ@委員』(理論社07年9月)で完結した。 小学五年生の女の子が親友と相談しながらいっしょに匿名で相談メールに回答するシリーズで、ネタは尽きないだろうし(じっさい読者からのお便りをもとに番外編『なやみ相談スペシャル』も出る)、もっともっと読みたいとねがう読者は大勢いただろう。 だが、これは「ずーっと主人公の年齢も変わらず、取り巻く世界も大きく変わらず、今日もその世界独特のおもしろいお話が続く…読者はそのお話の世界に遊びに行くのを楽しみにしている…そういうタイプのお話」とはちがうお話なのだと思った、と著者はあとがきに書く(そうそう、このシリーズは、ストレートで笑わせてくれる「あとがき」がまたおもしろかったんだ)。 「ちびまる子ちゃん」のような安定した世界のなかに遊ぶのがシリーズものの王道だとすれば、「レンアイ@委員」はそれとは別のお話、やや長編的要素をふくむ物語だった。巻ごとに中心となる「なやみ相談」と主人公自身の友情・恋愛の悩みがあり、それと並行して主人公一家をめぐる大きな変化(働く母と三姉妹の女性ばかり家族から、子連れ再婚へ)があり、これらのからみ合いのなかで主人公の成長があった。 ここでふと本誌07年9−10月号特集「短編の力学」で、短編と連作短編集について書かれていたことをおもいだす(佐藤宗子「編まれる空白、繋げうる余白」)。むろん、緊密で簡潔なスタイルである短編(いわば純文学)と、ゆるゆる続くことが多いシリーズ作品(ほとんど娯楽作)を同列に論じることはできない。にしても、シリーズ作品についても、各巻同士をつなぐ論理というか、やり方をみていくという読みもある、とおもった。 そういう意味では、ヒット映画が続編をうみだすのと同じように、ある作品がシリーズ化するとき、というのをみるのもおもしろい。さっき「試写会のブルース・ウィリスみんなしてじっと窮地に陥るを待つ」(津和野次郎07年10月8日「朝日歌壇」)に爆笑したところだが、孤立無援で敵チームに立ち向かう「ダイハード」や古くは「水戸黄門」も、「きたっ!」というお約束の展開パターンが、シリーズをシリーズたらしめる要素だろう。 が、昨今の児童文学でシリーズを決定づける要素は展開パターンより「キャラ」だという気がする。たとえば、風野潮『テリアさんとぼく』(岩崎書店07年9月)。手芸好きの美少年で、女装してアイドルをしていた過去(前作『ぼくはアイドル?』)もある主人公だけでも、物語を立ち上げる力はたっぷり。そこへ、おじいちゃんの魂が入ってしまった編みぐるみの犬が登場すれば、即座に物語が転がりだす。 キャラ立ちでは、4作目『神出鬼没! 月夜にドッキリ』(理論社07年9月)が出た岡田貴久子の「宇宙スパイウサギ大作戦」シリーズも負けない。地球侵略を大言壮語する、ちっちゃな宇宙人が地球人の子どもを「手下」にするところは「ケロロ軍曹」にも似る。ミヤハラヨウコ描く無表情キャラもあっさりかわいいが、語り口はけっこうクールだ。大人の専売特許のような職業を子どもがやるというのは多くのシリーズがしていて、海外作品では『ストーム・ブレイカー』(アンソニー・ホロヴィッツ著、竜村風也訳、集英社文庫07年7月)のような少年版007もあるけれど、ふーふー吹き出すうち頭がぼーっとしてくるシャボン玉型探査機など、おまぬけなスパイグッズのかわいさで、こっちの勝ち。 *『日本児童文学』2008年1−2月号掲載 -------------------------------------------------------------------- 【絵本】 『いろいろじゃがいも』(山岡ひかる くもん出版 2008.04 800円) おいしい食べ物絵本シリーズ三作目。 山岡のこのシリーズの良さは、素材が本当においしそうに変わっていく様です。別にリアルに描いているわけではなくて、絵本として、おいしい絵です。 今回も、ほくほくいたしました。 こういう絵本はね、子どもと一緒に、「ほくほくじゃがいもの歌」なんてのを適当に作って楽しむのが吉。 最後のコロッケは、う〜ん、千切りキャベツが少ないぞ。(ひこ) 『きょうりゅうのめいろ』(ロルフ・ハイマン:作 神戸万知:訳 フレーベル館 2008.05 1000円) 訳者の神戸さんは、なんだかきょうりゅうが続きますが、今作は、きょうりゅうを素材に使っためいろ遊び絵本です。 簡単なのも、難しいのも色々。 きょうりゅう好きの子どもが、めいろや捜し物を解いて遊ぶのにぴったりということですね。 きょうりゅうのおとぼけ表情が好きです。(ひこ) 『おはようきょうりゅう』(木坂涼:文 福岡昭二:絵 教育画劇 2008.05 1000円) こちらは、きょうりゅうの日常を描いています。 なんだかいままでの絵本、きょうりゅうって、普通の日常を描いてもらってなかった気がする。 こちらは、詩人の言葉と、福岡の穏やかな画作りがそれを実現してくれましたよ。 きょうりゅう好きの子どもはどう反応するんでしょう。(ひこ) 『ほのぼのバジー バジーと まほうの ばんそうこう』『バジー、ともだち できるかな』『バジーの やだやだびょう』(ハリエット・ザイファート:文 エミリー・ボーラム:絵 三辺律子:訳 理論社 2008.05 1200円) 主人公のバジーはロバですが、もろ人間の子どもです。 その日常で起こるであろう普通のことが、「ほのぼの」と描かれていくのですが、バジーにとってはきっと「ほのぼの」でもないのでしょう。 が、この絵本は、バジーの目線から外れないで描かれますから、すごく安心して読めるのです。(ひこ) 『おでんさむらい しらたきのまき』(内田麟太郎:文 西村敏男:絵 KUMON 2008.03 1100円) ほんと、このシリーズ好きだなあ。一巻目が「こぶまきのまき」で、今度は「しらたきのまき」だもんなあ。 ひょっとして内田麟太郎、何も考えないでこのストーリーを書いているんじゃないか? って思わせるほど、ベター、ダラーと展開する。事件は起こるけど、ああ、やっぱり起こったのね、って感じ。だから、疲れた子どもが読めば、疲れが少し取れますよね。力入れなくていいから。 西村の絵が、リズム感も含めて、この物語世界と、これ以上ないほどピタリで、絶対に、このコンビを別れさせてはいけない。絶対に。 歌舞伎が生まれた頃はこんな感じだったんだろうなと思いますよ。 いいなあ。 先日、あるパーティーで内田さんをお見かけしましたが、恥ずかしくて、よう声を掛けられませんでした。悔やんでます。(ひこ) 『にゃんにゃん』(長野ヒデ子 ポプラ社 2008.05 1000円) 赤ちゃんと、飼い猫と、母親の日常の一こま。 ネコ好きにはフフフです。 それよりなにより、長野は今作、折り紙で表現しています。それがとてもいいのです。 紙質の柔らかな温かさと、折口や切り口の線のはしゃぎっぷり。折り曲げることで生じる立体感と違和感。様々な物が、見ている側を刺激します。 犬好きの方は『わんわん』からご入場ください。幸せな気分になれます。(ひこ) 『ケロリがケロリ』(いとうひろし ポプラ社 2008.05 1200円) しつこいようですが、アイデンティティを描き続けるいとうの新作です。 生まれたおたまじゃくしのケロリ。しっぽを武器にのし上がっていくのですが、 はい、当然のことに、やがてしっぽはなくなり……。 もちろんこれは、世界の中心にいる「私」から、世界の中の「私」への、成長物語なんですが、最後にカエルになった自分を受け入れた後、カエルの大合唱で、「もう どれが ケロリ なのか わかりません」と入れる辺りが、いとうの鋭さです。 タイトルも、いとうひろし、なんだかネタ切れですか? って最初は見えますが、最後までくると、ナルホド。(ひこ) 『おつむてんてん』『まねっこあそび』(たけいしろう:作 セキ・ウサコ:絵 くもん出版 2008.03 800円) 幼児向け仕掛け絵本です。 両手を広げたり閉じたりっていう部分が仕掛けになってます。おつむてんてんだと両手で頭をてんてん、ですね。 むちゃくちゃシンプルで、ページごとに少しの変化だけで続いていきますから、幼児絵本の展開としては王道。王道に仕掛けですから、強いです。 ただし、右手がページの外に出たり入ったりですから、どのページも確実に右手からちぎれます。その辺り、そうなったときのことにまで作り手の視線がいってればもっとおもしろかったです。(ひこ) 『こわがりやのクリス だっしゅつだいさくせん』(メラニー・ワット:さく 福本友美子:やく ブロンズ新社 2008.05 1400円) わ、メラニー・ワットだ。 訳は、『としょかんライオン』で、世の司書に幸せを届けてくれた福本友美子。 これで、幸せな絵本でないわけがない。 リスのクリスは恐がりや。どんぐりの木の中で毎日完結しています。ところが・・・・。 という、お約束の展開。 クリスの恐がり度が、まあよくわかるリアルさで、とってもとぼけてます。この辺り、作者の腕です。画の方もそれに併せて、ほんわか描いてますよ。 小さな遊びがあるのも好きです。 作者と訳者のノリが伝わるから楽しいんだよねえ。(ひこ) 『ヤンバルクイナ アガチャーの唄』(戸塚学:しゃしんとぶん そうえん社 2008.04 1300円) そうえん社の写真絵本シリーズ最新作です。 ヤンバルクイナを、車にひかれた姿まで含めて収めた力強い作品。 絶滅の危機は、もちろん人間によって引き起こされています。車、道路が出来たことで、入ってきた犬やねこ、毒蛇退治にいれられたマングース。人間の知恵が及ばなかった事態ですから、人間に知恵でしか解決は付きません。 ところで、語りがオジイである必要はあったでしょうか? そこがちょっと残念。(ひこ) 『りんごのえほん』(ヨレル・K・ネースルンド:さく クリスティーナ・ディーグマン:え たけいのりこ:やく 偕成社 2008.03 1200円) りんごとりんごの木の冬から次の冬までを描いています。 こんな風に「普通」に描かれる程、りんごとりんごの木は、スエーデンの人々の日常に存在しているのですね。 そこが伝わってくるから、りんごとりんごの木がある、その生活が愛おしくなってきます。 大きな物語はなにもありませんが、結構幸せになれますよ。(ひこ) 『てんぐのくれためんこ』(安房直子:作 早川純子:絵 偕成社 2008.03 1400円) 安房作品、絵本化計画最新作。 正直言って、「え? 安房作品に何故、早川さん?」と最初は思いました。 もちろん、『家缶』は傑作で、絵本作家としての力量は認めるところですが、安房ワールドとのコラボはイメージできませんでした。 物語の始まり、めんこがへたで、今日も負けてスゴスゴと帰るたけしの描写を絵にしている最初のページはかなりベタな感じがして、「大丈夫かな?」と不安でした。でも次のページから絵が主張を始めて、早川タッチの、早川解釈の、絵が次々と繰り出されます。時々ベタが入りますが、これはリズム作りでしょう。 新美南吉といい、この安房直子といい、絵本化計画は、絵描きの素顔がポロリとこぼれそうな、かなり勇気のいる仕事ですね。 読者はドキドキで楽しいのですけど。(ひこ) 『やっぱりしあわせ、パパブタさん』(アナイス・ヴォージュラード:作・絵 石津ちひろ:訳 徳間書店 2008.03 1100円) パパブタさんは、愛するおくさんと、七十三匹のコブタの囲まれて、まあ幸せなんだけど、けっこんしていなかったら、あの丘の小屋でのんびり夕日をながめて暮らして…。 それを聞いたコブタたち、ぼくたちもそれをしてみようと、小屋に押しかけ、七十三匹ギューギューに入って、夕日眺めて…。 それはそれで楽しいけど、やっぱりママと結婚して、幸せでしょ。 パパブタの表情に何を見るかは、それぞれにおまかせします。 しかし、七十三匹のなんと個性的なこと。小さな絵本の中で、この無茶さが嬉しいよ。(ひこ) 『ふたりでおえかき』(イローナ・ロジャーズ:さく・え かどのえいこ:やく そうえん社 2008.03 1000円) もう四作目ですね。 今回は、イースターのお話。 卵はやっぱり本物でなければという、ネズおじさんの主張で、ハニーは本物の卵に色々絵付けをします。 と、あれれ、卵がかえって、でてきたヒナたちの柄は、ハニーの描いた通り。 卵をゆでるのを、ナズおじさん、忘れていましたねえ。 もう、完全に世界が安定しましたから、どんな展開もありです。 今作は、イースターの卵がテーマなので、ネズおじさんとハニーのやりとりが少なかったのは、チト残念。 でも、ホカホカ度は相変わらず。 何度も書いている気もしますが、ネズミがきらいな人はダメかも。でも、好きではないが、怖くはないくらいの人は、ぜひぜひ。読まないと勿体ない。(ひこ) 『まじょドッコイショのごきげんなドレス』(垣内磯子:作 市居みか:絵 あかね書房 2008.03 1200円) 春だから私も魔女の格好をやめよう。名前もドッコイショはいやだから、フランス語で春を意味するプランタン。 魔法で花ビラのドレスを作って、靴だって、だれかさんのガラス製。 これでウキウキ、春気分。 あれ? どうして? 魔法が使えない、ほうきで飛べない。 魔法は、魔女服を着ることで使えていたのです。 このラストの展開は、意見が分かれるところでしょう。 でも、理屈オチとしては、子どもにもわかりやすいかな。 市居の絵は、リズム感があって、いつも本当にいいなあ。(ひこ) 『ねえ、ほんとに たすけてくれる?』(平田昌広:文 平田景:絵 アリス館 2008.05 1300円) とうちゃんとふたりでつりをしているぼくは、とうちゃんに色々聞くのだ。大きなサメが襲ってきたら助けてくれるか? 海賊は? オバケは? 本当にとうちゃんが好きなんだねえ、君は。 でも、これはベタベタではなくて、やがて独り立ちしていく子どもの不安ですから、ちょっと切なくて、暖かい。 画は、子ども絵に近い感じに仕上げてあって、これは苦労したでしょうね。もう少しシンプルに整理した方が、物語は伝わりやすいかも知れませんが、それでは、雰囲気が壊れてしまう。どちらを選択するかは、作者たちのスタンスをそのまま表します。この作品の場合は、子どもと楽しんでしまえ! ですね。(ひこ) 『へんしん! ぱんやさん』(さこももみ:作 教育画劇 2008.02 850円) ぱんが、色んな物に変身していきます。 それを、言葉のリズムで伝えながら、画で補強する。 読み聞かせている大人の声と言葉のリズムで充分楽しめますから、その意味ではこれでいいのでしょうが、せっかくパンが変身という、おもしろい素材が、画としてもう少し活かされていたらな、とは思います。赤ちゃんは全然気にしないだろうけどね。(ひこ) 『コケッコーさんとおたすけひよこ』(かろくこうぼう:作 フレーベル館 2008.04 1000円) シリーズ四作目。 立体絵本です。といっても、飛び出すんじゃなくて、シーンシーンを粘土や木で作り込んで、それを撮影してページができています。 その労力は大変で、そこまでする意味があるのか? と言えばあるのです。 もちろん大人なら、その作り込みに感心して、飽きません。でも幼児は、んなこと関係ありませんから、やっぱり無駄な労力のようですが、んなことありません。 作り上げられた物の躍動感は、また別の質感で世界を見せてくれます。ドローイングがあり、CGがあり、こうしたクレイ物がある。そうした表現の違い、質感の違いは、子どもにも分かります。それを言葉にできないとしても。(ひこ) 『さかさのこもりくんと てんこもり』(あきやまただし 教育画劇 2008.04 1000円) これももう安定したシリーズですね。あとはどんなネタと繰り出してくれるかが毎回楽しみとなります。 今回は学校です。なんでも反対に言ってしまうこもりくんたちの世界設定では、かなり難しい素材です。何でも忘れるプルプルたちの世界で学校に挑戦した二宮由紀子は、見事に「学校」世界そのものを無効化してしまい、そのことで、「学校」の顔を見せてくれました。 今作は、その二宮作品と比べると、「学校」に関しての問いかけがなく、このシリーズの中では低調な作品となってしまいました。 先生が、「おとうさんは?」と問うと生徒は「だいきらい!」と言います。つまり、「大好き」です。でも、そこに「だいすき!」って生徒がいれば、このさかさの世界は、意味をますます転倒させてくれたでしょう。他にもおしいところはありますが、これを読んでいると、「学校」は難しいと改めて思います。(ひこ) 『ゆううびんやさん おねがいね』(サンドラ・ホーニング:文 バレリー・ゴルバチョフ:絵 なかがわちひろ:訳 徳間書店 2007.09 1500円) こんなに幸せな絵本があっていいのだろうか。 遠くの町に住んでいる大好きなおばあちゃんに、誕生日のプレゼントはなにがいいかと考えたコブタくん。思いついたのが「ぎゅうー」って抱きしめること。だから、それを伝言ゲームのように伝えていきます。郵便局の窓口にいるイヌさんに「ぎゅうー」。イヌさんは仕分け係のヤギさんに「ぎゅうー」という風にね。配達にかかわるみんなが次々と「ぎゅうー」をしていくの。 あ、でも「ぎゅうー」が大嫌いな人にはおすすめしませんが。(ひこ) 『ほっぺのすきなこ』(木坂涼:作 杉田比呂美:絵 岩崎書店 2007.10 1200円) 「ほっぺ」。この言葉で、どんなことをイメージしますか? 「ほっぺ」って嫌いな人の率はかなり低いのではないかな。 この絵本は、その「ほっぺ」を詩人の言葉が描いていきます。花びらのほっぺをなぜる風、イヌのほっぺを濡らす雨、子どものほっぺの内側で遊んでいるのはあめ玉。お留守番をする子どものほっぺを好きなのは窓ガラス。誰かが早く帰ってこないかなと子どもが窓ガラスにほっぺをペタリって。 杉田の絵と木坂の言葉がちょうどいい塩梅です。(ひこ) 『ペンギンのルーちゃん』(メラニー・ワット:さく 福本友美子:やく 小学館 2007.10 1400円) ルーちゃんことルノワールは、南極から北極へと引っ越すことになります。 どんなとこ、どんなこと? ルーちゃんは不安です。 学校で、なかなかとけ込めないルーちゃんですが、やがて北極の子どもたちと仲良くなっていく・・・。 お気に入りのぬいぐるみの名前はピカソだとか、絵本の中は様々な名画に溢れています。それを捜すのも楽しいです。 ルーちゃんの表情が良い!(ひこ) 『どうして そんなに かなしいの?』(ベス・アンドリューズ:文 ニコール・ウォング:絵 上田勢子:訳 大月書店 2007.10 1600円) 親がうつ病の子ども向けの絵本です。 うつによって、親が変わってしまったように見えてしまうとき、それを理解してもらうためのガイドとなります。 絵本形式ですから親が子どもと一緒に読んでもいいですね。 うつになるとそれを説明するのもシンドイですから、でも子どもが心配だし、子どもも心が揺れるし、そんなときこの絵本がサポートしてくれます。 うつとはかかわりのない親子でも、コミュニケーションのあり方を考える一助になります。(ひこ) 『よにもふしぎな 本を たべるおとこのこの はなし』(オリヴァー・ジェファーズ:作 三辺律子:訳 ビレッジブックス 2007.09 1400円) 本が大好きなヘンリー。でも、みんなとはちょっと違う。だって、彼は食べるのが大好きなんだから。食べる、食べる、食べる。 お腹が一杯になるだけじゃないよ。ちゃーんと書かれていることも頭に入る。 どんどん、どんどん、頭が良くなるヘンリー。 でも、食べ過ぎちゃって・・・。 コラージュを多用した絵が、なんたって楽しい。ぜひご覧あれ。(ひこ) 『魔女と森の友だち』(湯本香樹実:文 ささめやゆき:え 理論社 2007.10 1200円) 魔女が魔法の鏡にたずねます。 「かがみよ、かがみ。どうしてわたしの口は、こんなに大きいのかしら。これじゃ、こわれたハンドバッグだは」 鏡はこえたます。 「だいじょうぶ。にっこりすれば、とてもすてきなお口ですよ」 鏡は色々言ってくれるけれど、魔女はどうしても納得しません。 こうした物語の始まりから、「白雪姫」を知っている人たちは、例えばディズニーのアニメで描かれた魔女像があざやかに壊されていく気持ち良さを感じることでしょう。 とうとう鏡が壊れ、魔法が使えなくなってしまった魔女。どうなっていくのか? 自分が生きてあることの幸せを、この絵本は伝えてくれています。 言葉に添っていくささめやゆきの画も暖かいです。(ひこ) 『100かいだてのいえ』(いわいとしお 偕成社 2008.06 1200円) 『おおきなおいも』のビル版です。こっちは上に上にです。一〇階(見開き)ごとに違う生き物が住んでいて、そこを細かく見ていくのが楽しいです。 そして、なんといっても100かいまでたどり着く充実感! 縦開きなので、読みにくいですけどね。 しかし、今は100かい位だと、むちゃくちゃ高いって感じがしないかもしれませんね。(ひこ) 『マカンバー・マギーがたべたソーセージ』(パトリック・ロア:作 青山南:訳 光村教育図書 2007.11 1400円) ごはんを食べ逃してお腹のすいたマカンバーは冷蔵庫をあさって、一本のソーセージを食べたところでおねえちゃんに見つかって、生のソーセージを食べたら死ぬを言われ、大パニックに! 『ナイトメアー・ビフォア・クリスマス』を思わせるようなホラータッチの絵。とっても怖いお話かというとそんなことはないですね。でもマカンバーくん本人にとってはとっても怖いのです。その辺りのおもしろさが巧く伝わってきます。(ひこ) 【創作】 三辺律子 先日、わたしの教えている大学生の一人が、「翻訳文学を読むのは、自分(日本)とはちがう生活や習慣に触れることができて面白いから」と言っていた。海外のYA作品を紹介した『12歳からの読書案内』でも、金原瑞人さんが翻訳作品の魅力を説いて「世界は広い。そして世界の想像力は驚くほどの可能性と意外性に満ちているし、なにより楽しい」と書いている。わたしが子どものころ、圧倒的に翻訳物が好きだったのも、この世には自分には思いも及ばないものが山ほどあるということを実感・体感させてくれたからかもしれない。 今回は、そんな「世界の広さ」を味わわせてくれる四作品を。 『漂泊の王の伝説』 ラウラ・ガジェゴ・ガルシア作 松下直弘訳 偕成社 風景はその土地の人々にさまざまな想像をもたらす。奥深い緑の森は妖精を、火を噴く火山は竜を、不気味な沼は妖怪を、そして漠々たる砂漠はジン(精霊)を。 「どんな道のかたすみにも」ジンたちがいたアラビアのジャーヒリーヤ(無知の時代)、誕生の時ジンに触れられたと評判の王子ワリードは、姿も心も美しく、知恵と力に恵まれた非の打ちどころのない若者だった。すべてを手にしたかに見えるワリードだが、彼には心に秘めた野望があった。それは、世界中の詩人が己のカスィーダ(長詩)を競うウカーズのコンクールで優勝すること。彼は、優れた詩人でもあったのだ。しかし、彼の夢は打ち砕かれる。それも、貧しい絨毯織りに。 自分の寛大さや公平さは、恵まれた者ゆえの余裕に過ぎなかったことを突きつけられ、ワリードの心は徐々に醜さに蝕まれていく。そしてその醜さが生み出したこの世のものならぬ絨毯のために、砂漠をさまよう盗賊から、オアシスで生きる遊牧民、そして隊商を組み砂漠を渡る商人へと、自らの運命を二転三転させることになるのだ。 砂漠を背景にした壮大な物語に、灼熱の風や、ラクダの集うオアシス、三日月刀を振りかざす盗賊、そして何より人知を超えた存在であるジンの描写が得も言われぬ魅力を添える。ジンは、旅人を助けることもあれば自滅へ追い込むこともある、気まぐれな存在だ。ワリード自身、ジンに魅入られたことがいいのか悪いのか、判断できない。そうした神秘的存在が、アラビアの風景と相まって、善悪を対立的に描くことの多い西欧的ファンタジー世界とはまた違う味わいを醸す。そう、確かに砂漠の風を感じるのだ。 (三辺 産経新聞 2008.4.28 掲載) 『シルクの花』 キャロリン・マースデン作 代田亜香子訳 すずき出版 タイの北部の村で暮らす十一歳の少女ノイは、シルクの傘の絵付けをしている祖母のような絵描きになるのが夢だ。しかし、ノイの村にも工業化の波が押し寄せ、地主が畑を売ってしまったために、農民だった父さんは工事現場で働き、四歳年上の姉ティンは工場に働きに出ることになる。自給自足に近かったこれまでの生活と違い、現金収入が必要になったからだ。朝から晩まで工場で働き続け、くたびれた様子のティンを見て、ノイは自分もいつか同じ道を歩むことになるのだろうか、画家になる夢は果たせないのだろうか、と将来に複雑な思いを抱くようになる。 すずき出版の「この地球に生きる子どもたち」のシリーズらしく、近代化の波にさらされるアジアの抱える問題を子どもの視点から描き、読者が目を世界に向けるきっかけを与えてくれる。しかし、それと同時に本書の魅力となっているのは、同じ現代でありながら今の日本とはまったく違う、タイの農村の生活風景だ。サロン(腰布)のすそを持ち上げサムロー(大きな三輪車)をこいで家に帰ると、父さんが家畜にやるバナナの木の茎をゆでている。あたりに漂うバナナの香りを吸い込みながら家に入ると、ゾウの模様が彫られたタンスがあり、上にタイの王と女王の写真が飾ってある。家の中は、今度はナンプラーの香りでいっぱい。食卓に並ぶのはトウフと豚肉のニンニク炒めやジャスミンライス、ココナッツのお菓子だ。タイの市場の様子や、物語のハイライトともなるロイクライトンの祭り(灯篭流し)の描写を通して、タイの人々が何を楽しみ、何を大切に思い、どんなふうに暮らしているのか、その土地の空気が伝わってくる。 読者である子どもが、「タイの人たちは大変でかわいそう」と思うだけではなくて、自分(日本)とは違う幸せの形があるということを、自分(日本)の価値観が唯一絶対でないことを感じ取れる、素敵な本だと思う。(三辺〉 『ホーミニ・リッジ学校の奇跡!』 リチャード・ペック作 斉藤倫子訳 東京創元社 その土地の空気を感じ、魅力を味わいたいなら、リチャード・ペックの作品は欠かせない。「古きよきアメリカ」としか言い表しようのない20世紀前半のアメリカの片田舎の一風景を、ペックは『シカゴよりこわい町』『シカゴより好きな町』と同様、独特のユーモアを交え、突拍子もないのに妙に現実感のある事件の積み重ねで鮮やかに再現してみせる(そう、ペックの作品を読むと、いつも自伝ではないかと錯覚してしまう)。 なにしろ出だしから、担任の教師が亡くなって少年たちが喜ぶ場面で幕を開ける。15歳のラッセルと10歳の弟ロイドは、担任だったマート先生が九月の始業を目の前にして突然亡くなったことを聞いて、「奇跡のよう」だと大喜びする。ロイドにいたっては、「天球の音楽をきいているような顔」でうっとりしてしまったほどだ。「学校という名の牢獄」から逃げ出し、ダゴダ州で愛する鋼鉄製脱穀機〈ケース・アジテーター〉を操縦することが唯一の夢であるラッセルにとって、学校に行かなくていいというのはまさに天の恵みだった。当時、学校といっても教室はひとつしかなく、たった一人の教師が年齢の異なる生徒を教えていたので、教師がいなくなれば当然学校も閉鎖せざるを得なかったのだ。 ところが、ふたりはすぐに、天の恵みと思っていたのが実は悪夢の始まりであったことを知る。マート先生の代わりに、厳しくて情け容赦のない「日々の暮らしの中でわたしたちの上にそびえたって」いる実姉タンジーが教壇に立つことになったからだ。家でも学校でも、タンジーに管理されることになるなんて! ラッセルとロイドは何とかしてタンジーが教師になるのを阻止しようとするが、事態はふたりの思惑とはまったく違う方向へ進んでいくことになる。 暑い太陽の下にトウモロコシや小麦の畑が広がり、素手で魚が捕まえられるほど豊かな川が流れ、メンフクロウやカミツキガメが暮らすインディアナ州の片田舎の描写もさることながら、やはり本書の魅力はペックの筆が描き出す村の人々の暮らしぶりだろう。「誰かにかけた電話は全員にかけたに等しい」共同加入線電話でどんなニュースも瞬く間に村全体に広がり、当時ようやく道路を走り出していた自動車と馬車の事故が「二十世紀初の馬対内燃機関の事故」として新聞を飾り、豚を屠る日は「感謝祭と同じくらい重要」で村中の人々が集まる社交の日となる。 物語を読み進めるにつれ、読者はラッセルたちの幸福な日々を肌で感じることができる。但し、この「幸福な日々」という言葉は、クセモノかもしれない。というのも、ラッセル本人たちは幸福だなんてちっとも思っていないからだ。むしろ、生活は決して豊かではないし、厳しい労働は待っているし、学校をはじめ、子どもには思い通りにいかない窮屈なことばかりだ。もちろん作者ペックも幸福だなんて、一言も書いていない。しかし、幸福とはあまり縁のないような事件の積み重ねから、読者は確かに彼らが幸せだということを感じ取るのだ。 物語の最後数行でラッセルたちの将来が紹介されたとき、思わずぐっときてしまった。ああ、ラッセルたちは本当に幸せな子ども時代を過ごしたのだな、と思ったから。(三辺) 最後に紹介するのは、やはりその国の現実を肌で感じさせてくれる本だが、ここで読者が知るのはむしろ負の現実である。 『あなたはそっとやってくる』ジャクリーン・ウッドソ作 さくまゆみこ訳 あすなろ書房 アフリカ系アメリカ人の女性作家ウッドソンが、特有のリリカルな文体でユダヤ系の少女エリーとアフリカ系の少年のマイアの恋を描いている。 エリーとマイアはそれぞれの親の思惑から、裕福な子どもの多いパーシー学院に転校した。はじめは気の進まなかったエリーとマイアだが、そこでふたりは運命の出会いを果たす。会ったその日からふたりは急速に惹かれあい、お互いの思いを確認し、やがてそれぞれの家庭の悩みを打ち明け、さらに深い絆で結ばれるようになる。しかし、そんなふたりを見る周囲の目は必ずしも温かくはなかった。黒人の少年と白人の少女が歩いているだけで、人々は好奇の目を向ける。そして、悲劇が訪れるのだ。 エリーは年の離れた兄と姉がすでに家を出ていることもあり、常にかすかな寂しさを抱えている。だが、「心に穴があいて」いるように感じるのは、幼いころ母親のマリオンが二回家出をしたせいだ。何年もたった今でも、「まだ母親を知らない人のように感じること」がある。 一方のマイアは著名な映画監督の父と作家の母の不仲に苦しんでいる。父は愛人と暮らすために家を出て、以来母はペンを取っていない。マイア自身は、勉強もできるし、将来を嘱望されたバスケットボール選手で、家も裕福だ。しかし、だからこそ、黒人であるために抱える問題がより複雑になっているともいえる。 単純な黒人対白人の図式に終始させないところが、ウッドソンの力量だ。さらに、この作品ではニューヨークの今の雰囲気を、現実感を持って伝えている。「だれもが急いでいる」ニューヨークでは、エリーがふざけて「うつむいてせかせか歩いているビジネスマン」のあとを2ブロックつけても、気づかれもしない。なのに、エリーとマイアがセントラルパークを歩いていると、老女がエリーに「あなた、だいじょうぶなの?」と聞いてくるのだ。「今は差別なんてない」と信じていたエリーは、マイアと付き合うことでそうした周囲の空気を敏感に察知するようになる。そして読者も。 それは言葉で説明されるよりも、ずっと強く頭と心に響いてくる。空気を感じること―――物語を読むというのは、そういうことなのだと思う。(三辺) -------------------------------------------------------- 『あまんきみこ童話集』(全五巻 ポプラ社 2008.03 各1200円) あまんの全貌とまではいかなくとも、あまんの世界がたっぷりとわかる童話集がでました。 あまん世界は「不思議」がたくさん起こりますが、その不思議の多くは「リアル」に根ざしていて、別世界へと簡単には逃がしてはくれません。 あまんは現実だとか人生だとかをしっかりと見据えいて、その上に立って、「不思議」へ誘い、そこに「幸せ」な一時を探っているのでしょう。 併せて、随筆集『空の絵本』(童心社 2008.03 1300円)も出ました。あまん世界の源がほの見えます。(ひこ) 『真夜中の学校で』(川端裕人:作 鈴木びんこ:絵 小学館 2008.05 1300円) かつて「学校」に様々な思いを残してしまった人たちの「子どもの気持」をすくい取っていく少年の物語です。 勇樹は、「助けて!」という女の子の声を聞いて、「不思議」に飛び込みます。彼女は過去の女の子らしい。で、彼女は、「学校」に心を残した子どもを救っていますが間に合わないので、勇樹が手伝うことに。女の子はワコちゃんやミワちゃん。年齢は違うけれど、同じ子どものような…。 子どもが「学校」に心残すものが描かれていく展開はいいですね。それが「真夜中」なのも、子ども読者のドキドキ感を誘います。 舞台が「庭」か「学校」かの違いはあるものの、少年が未知の少女に出会う。同じ少女が違う年齢で現れる。彼女は実は、少年が知っている大人の女性であった。それは異世界ではなく過去の時間だった。大人の女性は少年を少年とは知らずに彼女の心の中で出会っていたなど、『トムは真夜中の庭で』に似ているのは、タイトルがパロディのようにそっくりなことも考えると、意図的なのかもしれません。 が、ラスト、二人の女の子が同じ子で、校長先生で、彼女と勇樹が年齢を超えて思わず抱き合うシーンは、う〜ん。 ここもOKだとしても、それを見ていた先生たちが、勇樹のそんな態度を「まるで小さな子にするみたいに」「自分の方が大きいみたい。」って話すのは、OKでしょうか? これ、トムがバーソロミューおばあさんを抱きしめるシーンを見た、トムのおばさんの言葉と重なりすぎませんか? 「トムは、相手がまるで小さな女の子みたいに、両腕をおばあさんの背なかにまわして抱きしめていたのよ。」(高杉一郎:訳)。 テーマが違っても、人物配置が似ていると、物語の締めが重なってしまうことはあります。物語のパターンは無限ではありませんし、そうした類似性があるからこそ、文学理論は成立します。極端な話、ほとんどの物語はラストシーン前にテーマ的にはピークを迎えていますから、ラストは、物語は終わらないといけないので用意されるだけとも言っていいです。だからこそ、そこに作り手の職人芸が活かされるわけですが。 『トム』の場合だと、トムが扉の向こうの庭を失って、絶望の叫び声を上げるところがピークです。そして『トム』の場合、この「絶望」はとても深いので、残されたラストでピアスは彼をその「絶望」から回収するために、作り手として全力を尽くします。それが、あのラストシーンなわけです。 もちろん、『トム』以前にもそうしたシーンで物語を閉じた作品はあるかもしれず、私が知らないだけなのかもしれませんが、私は、あのラストによって『トム』は児童文学になっていると思っています。 ですから、もし同じようなラストにたどり着いてしまったとき、私の場合は先行作品と同じシーンにたどり着いたことを誇りに思い、敬意を表し、でも、心に中では悔しさいっぱいでピアスに毒づきながら、それを放棄し、別のシーンを必死でひねり出すだろうと思うのですが……。(ひこ) 『マハラジャのルビー』(フィリップ・プルマン:作 山田順子:訳 東京創元社 2007.05 2200円) プルマンが『ライラ』シリーズの前に書いた冒険物語。舞台はビクトリア朝のロンドン。孤児となってしまった16歳の少女サリー。いかにも陰険そうなおばと暮らすことに・・・。 彼女は意味不明の悪夢を時々見ます。そして、ある日彼女の元に見知らぬ男から、危険が迫っているとの手紙が! 『ライラ』シリーズほどの濃密な構成はないものの、ハラハラドキドキな展開は、さすがプルマン。続きが楽しみです。(ひこ) 『インディゴの星』(ヒラリー・マッカイ:作 冨永星 小峰書店 2007:07 1500円) 『サフィーの天使』で、子どもの心の動きをとても丁寧に追っていくおもしろさを堪能させてくれたマッカイの新作。今度はサフィーの弟インディゴと末娘ローズの視点に寄り添っています。 大きな事件が起こるわけではないので、最初は退屈な物語に思えるかもしれません。でも、ちょっとねばって読み進め、この家族が見えてくれば、たちどころに止められなくなりますよ。日常には、些細に見えながら大事なことや楽しいことや、悲しいことが一杯溢れているのがわかってきますから。(ひこ) 『きつねのフォスと うさぎのハース』(シルヴィア・ヴァンデン・ヘーデ:作 テ・チョンキン:絵 野坂悦子:訳 岩波書店 2007.09 1900円) くいしんぼうのフォスと、しっかりもののハースは仲良く、時にはちょっとだけ喧嘩をしたりしながら、森の中で暮らしています。 二人に、友達のフクロウ、彼があたためた卵からかえったピヨなどの楽しくおかしい毎日。 現代版プー横町です。でも、クリストファーはいないので、子ども時代を卒業! なんてしません。 テ・チョンキンの絵は素朴ですが、仕草の描き方が巧くて、フォスたちのなんと活き活きしていること!(ひこ) 『西95丁目のゴースト』(エレン・ポッター:作 海後礼子:訳 主婦の友社 2007.10 1200円) オリビアは、父親が管理人をしているマンションに住んでいます。 ある日カギを忘れてしまって部屋へ戻れなくなり、マンションのどこかで仕事をしているはずの父親を探しに建物をさまよい、奇妙な人々と出会っていきます。 床一面ガラスの部屋に住んでいる謎の老嬢、体にトカゲを纏った怪しげな歌うたい。 マンションという限られた空間での冒険物語ですから、ちょっと怖い。 オリビアの背景には家族問題があって、それがこのエンタメに奥行きを与えています。(ひこ) ------------------------------------------------------------------- 子どもに寄り添う物語たち。 ひこ・田中 子どもの側に寄り添って描き続けている作家四人のコラボレーションが『フラジール』(石崎洋司 長崎夏海 令丈ヒロ子 花形みつる ポプラ社)。「子どもの側」と書いたのは、子どもに仮託して自分の思いを描く(ことが悪い訳ではない)というよりも、常にその時々の子どもが置かれている状況や想いを言葉にしていくことを優先しているとの意味です。表題作でもある「フラジール」(石崎)の語り手中学一年生のユミは、「勉強が好きだ。ビー玉と同じくらいに」。「いい成績をとるのが楽しいわけじゃない」。ただ好きなだけなのに、でも結果成績は上がるわけで、それは「危険なこと」なのを知っています。目立つこと、ひととは違うことによってクラスではたやすくはじかれてしまう現実の中で彼女は生きていて、もちろんそれを納得しているわけではないし、受け入れてもいないですが、なくせないのも知っています。そんな彼女にとってビー玉は、やすやすと割れたりしない存在として大事なわけで、「数学とビー玉。それがあれば、いつでもどこでもなにがあっても、あたしは頭をすうっとさせることができ」るのです。 ユミは数学に特化された塾で横山と知り合います。彼はあることが引き金となって、感情やコミュニケーションといった揺らぎを生じさせる物を排除しています。それらをつまらない物語と呼び、ぶっこわしたいという。「数学にストーリーは必要ないです。美しければそれでいいんです」。彼自身がコペルニクスとケプラーを例に挙げてユミに説明しているように、そしてニュートンが神の摂理の偉大さを証明するために研究をして、結果神を引きずりおろしてしまったように、科学や数学ほど物語豊かな分野はないわけですが、近代的見方とまで言わなくても、この国の受験的発想において数学は「美しい」。 生き延びるためのアイテムとして数学だけでなくビー玉も持っているユミは、つまらない物語をぶっこわすといった排除の方法だけでは自分たちの今を支え切れないことを知っていて、「横山くんだってつまらない物語なんだよ。だってそうじゃない。数学に意味なんかない、美しければいいって勝手に信じている人は、ほかにもいっぱいいるんだよ」と伝えます。自らを特化するのではなく立ち位置を自覚すること。そこに石崎は賭けています。「忘れ物」(長崎)は、「フラジール」で使われたビー玉を拾った有沙の物語。彼女たちがたむろするので万引きが増えたと思われていることに有沙は、「疑われることで熱くなったりしなかった。あたしもみんなも、否定しただけであとはへらへらしていた。反抗すれば、疑われるようなことをしているのが悪いとかなんとか始まるだけだというのが、それまでの経験からわかってい」ます。と同時に、友達とつるんでいる日々にも潮時が訪れるのを知っており、自立への道を模索し始めます。その真っ直ぐさが気恥ずかしくなくまぶしく伝わるのは、長崎が子どもに寄り添った言葉を良く知っているからでしょう。「あたしのボケのお姫様。」(令丈)は、相方と別れ新しい相手を捜している少女水口がついに見つけた「ボケのお姫様」るりりと漫才コンビを組む物語。とはいえそこは令丈。笑わせる才能と笑われてしまうことの違いを踏まえつつ、「あんたがお笑いをどう思おうが、そんなことは関係ないねん。あんたは、ほんまにおもしろいんや」と、一人の子どもが持つ特性へのエールを送ります。「アート少女」は美術部長の節子が、部員減少を理由付けに部室退去を命じる学校と戦う、パワー全開の物語。そこまでして大丈夫かい? と思わせる展開に子どもへの信頼感が溢れています。最後に置かれた「流星群」(石崎)も含めそれぞれの子どもたちのそれぞれの事情と生き方が切れ味のいい一冊なのですが、「あとがき、のようなもの」(石崎)の「この本に眠る5つのお話は、どーでもいいお話ばかりです、大人たちからすれば」に始まる、大人排除的物言いは、「怒れる若者」や「ヒッピー」のような立ち位置を取りがたい時代の子どもたちのつながりを描いた作品群を、子ども対大人の構図に戻してしまう危うさがあります。そこがちょっと残念。 一九七九年、少年四人の暑くて少し痛い夏を描いた『クレイジーカンガルーの夏』(誼阿古 GA文庫)は日本版『スタンドバイミー』。一九七九年とは、『ガンダム』の年。それは、この物語のキーでもあります。作者自身はガンダム世代より若いようですが、それが時代の分岐点であると考えている辺り、なかなか鋭いです。舞台は宝塚市。本家や分家といった区別がまだ生きている地域。分家の子ども広樹と、親の離婚で本家の祖母に預けられることになり東京からやってきた冽史を中心に物語は進みます。母親に会いたい冽史。広樹は彼と共に家出を決行し東京へと向かうのですが・・・。大人になった現代の広樹の回想といった枠物語になっているところが作りすぎかなとは思いますが、『ガンタム』と自分たちを重ね合わせて思考していく広樹たちの姿や、はっぴぃえんどの使い方など、子どもが自分にフィットする様々なものを参照しながら大人になっていく様子をとても巧みに描いていて、楽しみな新人が現れました。ジャンル的にはライトノヴェルズ作家になるのでしょうか。でも児童文学もぜひぜひ書いて欲しいです。(「飛ぶ教室」ひこ) 『スパイ・ガール』(全四巻 クリスティーヌ・ハリス:作 前沢明枝:訳 岩崎書店) 主人公ジェシーは、秘密組織で育てられた天才児。三歳で百科事典を読み、五カ国語を操れます。その上彼女は、ある手術をされていて、能力がパワーアップしています。 かっこいいみたいだけど、組織から逃げると、体を維持できず死んでしまう。だから常に監視、管理されていて、自由はほとんどありません。 彼女は、子どもだと敵が安心するという理由で、スパイとして働かされています。つまり、子どもなのを利用されているわけ。子どもだから優しく扱われるのではなく、いつも命をかけた仕事を命じられ、それを断ることはできません。 大人並みに扱われるって、いいことばかりじゃないのです。 ジェシーは本当の家族を捜していますが、果たして見つけることはできるのか? 物語は、危機また危機で、読み出したら止められないおもしろさですが、そんなジェシーの境遇が切ないです。 設定はとてつもなくなっているけど、大人から監視、管理されていると感じている子は、リアルに読めると思いますよ。 軽いけど上質のエンタメです。(読売新聞 ひこ) 『マイカのこうのとり』エンノー・プルードラ作/上田真而子訳/いせひでこ絵/岩波書店 こうのとりが、マイカの家の古い納屋の屋根の上に初めて巣を作ってから七年。今年もつがいがやってきました。こうのとりは卵を三つ生み、白いひながかえりますが、その中の一羽だけが灰色です。 他の二羽が初めて飛んだとき、灰色こうのとりは地面に降りることしかできません。父親が巣に戻してやっても、翌朝にはまた地面にいました。親鳥に追い出されたんだ、という父親。「なにか、できなくちゃ、だめなの、こうのとりとして?」とたずねるマイカに、「生きていくってのは、そういうことなんだから」と答える父親。母親は、「早くあのこうのとりをもういちど巣へもどしてやればいいのに」といいます。 三人の、灰色こうのとりへの態度の違いが、よく現れています。 灰色こうのとりは、マイカの後をついて歩くようになります。もう飼うしかありませんね。父親は、飛べるようになれば親鳥も受け入れるだろうと訓練をしますが、マイカの気持ちは複雑です。ずっと、そばにいてほしい…。 渡りの時期を迎え、親鳥たちは、灰色こうのとりだけを残して飛び立ちます。「あれはふつうじゃない。変種というか、種からの落ちこぼれだ」と父親はいいますが、これで、灰色こうのとりは、本当にマイカの鳥となるはず! しかし父親は、この鳥に興味を持った生物学者を連れてきます。そして、マイカは大反対したのに、灰色こうのとりを預けてしまいます。二、三日という約束だったのですが、なかなか戻ってきません。しょげているマイカを連れて、母親は研究所へ向かいます。大きな檻の中でじっと動かない灰色こうのとり。マイカが檻に入ると、灰色こうのとりは、以前のように走ってきます。 ですが物語は、灰色こうのとりが戻ってきてめでたし、とはなりません。もう少しくわしく調べたい学者。くわしくとは、解剖することも含んでいるのでしょう。 家に帰った母親は、こうのとりを連れ戻そう、といいますが、父親は「あの人はいいお得意さんなんだぞ。それなのに、おまえたちったら、さっさと灰色こうのとりをとりあげようとしたりして」と怒りだします。彼にとって、あの鳥は「種からの落ちこぼれ」ですから、何故それほどまでにマイカたちが守ろうとするのか理解できないのです。 物語は、マイカが明け方目覚め、庭から灰色こうのとりが飛び立って行くのを見たところで閉じられます。おそらくそんなことは現実には起こらず、マイカの願望だったのでしょう。 作者プルードラは東ドイツ出身で、訳者によれば、この物語はおそらくドイツ統一前に書かれています。ですから、灰色こうのとりを抑圧された自由のシンボルとして考えることも可能です。また、望みが叶えられない現実を初めて知った子どもの物語ととらえると、読みにはもっと広がりがでるでしょう。 作者は、子どもにおもねることなく、けれど温かい目線で描いていますから、哀しいけれど、そこに絶望はありません。 *徳間書店 子どもの本だより2008年5/6月号掲載 (ひこ) ------------------------------------------------------------------- 『ジョン・バーニンガム わたしの絵本、わたしの人生』(ジョン・バーニンガム:著 灰島かり:訳 ほるぷ出版 2007.09 2800円) バーニンガムが自分の作品を示しながら、自分の人生を語っていく一冊。 厳しい時代、きつい時代もありますが、それでもユーモアを忘れない姿勢は、この作家らしい。 ああ、やっぱりバーニンガムはバーニンガムだったんだと、わけのわからないことを考えました。 お宝の資料と絵が、こんなにたくさん載っていいのかしらと思うほど満載! バーニンガムファンはお手元に。ファンでない人も絵本の資料として役立ちますよ。(ひこ) |
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