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【絵本】
『トム』(トミー・デ・パオラ:作 福本友美子:訳 光村教育図書 2008.06 1400円)
 トミー・デ・パオラが大好きなおじさんトムとの思い出を絵本にしました。
 トムは、自分のことをおじさんではなくトムと呼んでくれといって、トミーと友達のように接してくれます。
 トムは食料品店を営んでいるので、トミーにとって、そこはとても楽しい場所。
 ある日トムは切り落としたニワトリの足をくれます。トミー、それの爪に母さんのマニキュア塗って、学校の友達を驚かせて遊んでいるのですが、友達と間違えて、先生を驚かせ……。
 トミー・デ・パオラの原点全開。この作家がなぜ、楽しい作品を描けるかが、よーくわかります。(ひこ)

『ぼくと おじいちゃん』(みやもとただお:作 くもん出版 2008.07 1300円)
 宮本忠夫の画の優れた無国籍性は、デビューの頃から文化的アイデンティティのあいまいさ故の居心地の悪さ(要するに、日本っぽくない)として感じられるであろうと思っていましたが、このシリーズの仕事などを見ていると、そんなところはとっくにすり抜けて、世界を形作っています。
 帯にあるように「家族の愛情絵本」とされると、作品世界が狭まってしまう気もするのですが、これはまあ、宣伝だから良いでしょう。
 この作品は、「ぼく」と「おじいちゃん」の心の交流を描いてはいますが、それ以上に面白いのは、楽しく生きるってことの一つの方法がとてもわかりやすく伝わること。まごはそのための聞き役です。(ひこ)

『いのちのカプセル まゆ』(新開孝:写真・文 ポプラ社 2008.06 1200円)
 昆虫写真家、新開の最新作。
 まゆですから、命の守りと育ちです。
 もちろん、守れない(ハチなどに卵を産み付けられる)ケースもちゃんと示されています。それがいいですね。
 表紙、見返し、みんなきれいです。
 まゆの作り方も、様々で、楽しいです。
 まゆの説明が終わると、それぞれの生き物を巡る小さな出来事が、次々示されていきます。ですから、真ん中をどういう順で見せていくか。これは読む側の持っているリズムしだいで印象が変わってしまうところなので、難しいです。順が変わると、言葉も変わりますし。そこが編集の腕の見せ所。
 最後辺り、誕生シーンはやはり感動しますね。
 まゆを探しに行ってくださいな。(ひこ)

『まよなかのもりで』(ドロテ・ド・モンフレッド:作 ふしみみさお:訳 ほるぷ出版 2008.06 1400円)
「ちいさなファンタンは たったひとりで、くらいもりをあるいていた」とありますから、これはもちろん、ファンタン(子ども)の想像上の、ちょっと怖くて楽しいお話です。
 さて、もりを歩いていると、怪しげな音が。あわてて木のうろに隠れると、オオカミがたき火にあたっています。
 どうしよう。
 と、オオカミが逃げだした。トラがやってきたの。
 でも、トラが逃げ出した。ワニがやってきたの。
 どうしよう。
 木のうろに扉を発見。そこから地下の部屋に入ると、ウサギがいて、怖い動物たちをおびえさせる方法を教えてくれます。
 センダックの『かいじゅうたちの〜』的な子ども心の風景に、現代的なちゃっかりが加味されて、とてもよい仕上がりです。(ひこ)

『巨大昆虫探検図鑑』(山口進 岩崎書店 2008.07 1600円)
 いやあ、「ちしきのぽけっと」シリーズが、またやってくれました。いいっす。
 私は、昆虫を好きでも嫌いでもないのですが、巨大昆虫をこんなにきれいに実物大で、どどーっと見せられると、怖くて泣きそうです。お腹側からの写真がないから、泣くところまではいかないけどね(その角度の写真も欲しかった)。
 アバケトビナナフシ、どうぞ一生近寄ってこないように。
 でも、本物だったら、絶対に近寄りたくない、こいつらですが、この図鑑のおかげで、安心してじっくり眺めることができます。動かないから怖くないもん。でも、怖いけど。
 子どもだからって、みんながみんな昆虫好きではないと思いますが、生き物の細部に興味を示す子どもは多いわけで、その場合、これはもう最高ですよ。(ひこ)

『こんな町、つまんない!』(マーク・ローゼンタール:作・絵 徳間書店 2008.07 1500円)
 少年は退屈な町だと思っているけれど、実は様々なことが起こっている。というのを、画面の中で見せていくタイプの絵本(たとえば最近では、『ケーキをさがせ!』 テー・チョンキン:作・絵 徳間書店)、のように見せかけながら、そのおもしろい出来事を全く見ないで町を歩いていく少年のおもしろさを描いた絵本です。
 おもしろい出来事は、日常ではめったに起こらないこと、というか、マンガや初期のミッキーマウスアニメのギャグで埋められていますから、日常のおもしろさを訴えているわけではありません。ここにあるのは、マンガ的おもしろさと、それに気づかない、気づこうともしない少年のズレです。
 マーク・ローゼンタールの画はスヌーピー的な洗練以前の、実にノスタルジックな雰囲気を再現しています。(ひこ)

『パパにあいたい』(ビーゲン セン:作 オームラ トモコ:絵 アリス館 2008.07 1300円)
 海外赴任のパパに会いたいターくん。
 高いところから見れば、パパの様子が見えるだろうと思い、それを知った友達や子どもたちがどんどん、いろんなものを持ってきて、積んで、積んで、積んで、上って、上って、上って……。
 高く、高くなるところから、絵本を九十度傾けて見るパターンや、話の段取りは絵本的喜びの典型でしょうが、それはやはり、楽しいです。
 今作の場合は、それがターくんの願いという動機によって成り立っていますので、よけい応援したくなります。
 もう、なんだか、飛行機まで積んでしまって、政府規模の粗大ゴミみたいな、行け行けのノリで、よいですね。
 オームラに画も勢いがあって、物語に合っています。ただし、子どもの表情にもっと個性が欲しいです。でないと、だた、「子ども」に見えてしまいます。そんなにみんな笑顔でなくていいですよ。(ひこ)

『かえるといっしょ』(松橋利光:写真・文 こばようこ:絵 アリス館 2008.07 1400円)
 『ずら〜りカエルをならべてみると』のカエル写真家松橋利光の「いきもの絵にっき」シリーズが始まります。
 松橋の写真とエッセイを、こばが絵本として完成するという段取りです。
 松橋カエル写真のパワーは圧倒的ですから、それを絵本に落とし込んでいく作業は大変だっただろうなと思います。その意味では、まだ絵本なのか図鑑的エッセイ本にイラストをつけたのかはっきりしない感じもします。
 もっと大胆に絵本にしてもいいと思います。
 表紙は、このシリーズのテーマを巧く表しています。(ひこ)

『トトとライヨ じてんしゃ のれた!』(さこ ももみ:さく アリス館 2008.07 1300円)
 家族が出かけるとき、トトは一人でお留守番をすると言います。
 実は、自転車に乗る練習をこっそりしているのです。サポーターは大好きなライオンのぬいぐりみライヨ。ライヨが後ろで自転車を支えてくれて、練習に励むトト。
 家族みんながそれぞれのぬいぐるみを持っているところは、『ライラの冒険』のダイモンみたいで、楽しいです。
 表紙はタイトルそのままで、もう一工夫はほしいところかな。(ひこ)

『ドロレスとダンカン もっとりっぱなネコがきた!』(バーバラ・サミュエルズ:さく 福本友美子:やく さ・え・ら書房 2008.06 1400円)
 ドロレスは三毛猫のダンカンが大好き。名前だってりっぱなように、もうとっても役に立つし、かわいいし。と、飼い主のドロレスは思っているから、まあいいでしょう。
 ところが、転校生のヒラリーが飼っているのは、シャムネコのハロルド。
 え、ダンカン、ちょっと負けてる?
 学校で、それぞれのペットを持ち寄るイベントが。
 さて、ダンカン、どう出る?
 ネコ好きは、どんなネコだって、ネコだから好きって人と、自分のネコがすきって人があると思いますが、この絵本は前者(私)のための絵本。
 シリーズ全部出してくださいよ!(ひこ)

『知って楽しい 花火のえほん』(冴木一馬:作 あすなろ書房 2008.07 1200円)
 花火の「花」になる丸い火薬の固まりを、星火薬って言うんだって。なんか、いいでしょ。で、これを作る機械の名前は「星かけ機」。わ〜、いいなあ。
 って風に、この絵本、花火がどんな工程でできていくかから、花火の歴史まで、丁寧に丁寧に教えてくれます。
 じっくりこれを学んで、来年の花火大会では、友達に、余裕で解説してあげましょう。(ひこ)

『かたつむり 狂言絵本』(内田麟太カ:文 かつらこ:絵 ポプラ社 2008.06 1200円)
 『ぶす』、『かきやまぶし』に続く、内田の狂言絵本三巻目。『蝸牛』です。
 主の長生きのために、かたつむりをとってこいと言われた太郎冠者。かたつむりを知らないので教えてもらうのですが、勝手な想像を巡らせてしまいます。
 探し求めて見つけたのは、やまぶし。かたつむりに間違われていると知ったやまぶしは、おもしろがってかたつむりのふりをして……。
 かつらこは、明るいトーンでまとめつつ、画面隅々で絵本的遊びを散らして、「狂言」世界を絵本に近づけることに成功しています。(ひこ))

『5ひきのこぶたのミュージカル まるまるまるごと いただきます』(岡本颯子:作・絵 ポプラ社 2008.06 1200円)
 『いつでも おなかが ペッコペコ』に続く、子豚を食べるの大好き生き物の、せつない(おもしろい)お話第二弾。オオカミの次はワニさんですよ。
 ビーチで遊んでいる5匹の子豚を見て、丸焼きやシチューなど、いろいろ幸せな想像を巡らすワニくんですが、世の中そんなに甘くなく、子豚たちのノリにまんまとはまって、涙涙。こりゃもう、踊るしかないわ。
 さ、お次は誰だ?
 待ってます。(ひこ)

『わらいかたをおしえてよ』(ラルフ・イーザウ:さく おおさわ ちか:え さかより しんいち:やく 長崎出版 2008.06 1500円)
 イーザウが娘に話したという短い物語に、おおさわ ちかが絵をつけた物語絵本。
 カラスの子どもブラックスは、母さんの羽がキラキラきれいなので、どうしたらそうなるかをたずねます。すると、「心から笑う」ことだと教えてくれます。
 そこでブラックスは、笑い方を覚えようと世界中の動物に会いに行くのですが……。
 少し哲学っぽさが前に出ているのが難点ですが、出会いと経験の意味をストレートに訴える物語です。(ひこ)

『バロチェと くまのスノウト』(イヴォンヌ・ヤハテンベルフ:作 野坂悦子:訳 講談社 2008.06 1500円)
 イヴォンヌ・ヤハテンベルフの画は、登場人物の姿や表情がもう、何かを語ってしまえる力があります。ですから、背景はいつもとてもシンプル。
 今作は、「バロチェ」って女の子のシリーズ第一作です。
 バロチェはたくさんのくまのぬいぐるみを持っていますが、また一つもらいました。名前はスノウト。
 でももうベッドはいっぱい。そこでいろんな人に、くまさんたちの寝場所を提供してくれるようにお願いしていきます。
 最後に一匹残ったのは、スノトウ。大切な新しい友達ですね。
 いい、発想の物語。ってか、これを思いつけるのがすごい。
 『バロチェのなつやすみ』もいいぞ。(ひこ)

『おおきくおおきくおおきくなると』(佐藤ひとみ:文 谷口靖子:絵 福音館 )
 ゆうきは一年生で一番背が低い。そのことにコンプレックスを抱いています。
 影法師が声をかけ、ゆうきはどんどん、どんどん大きくなっていく。
 それが、物語として展開していくのではなくて、様々な物の大きさを、実感してもらうために描かれている、科学絵本です。
 「自分」という単位を大きくしていくので、電車も、山も、地球もとらえやすくなっています。こうした空想を抱く子どもは多いと思う(私がそうでした)ので、自分と世界の関係を捉えるには、なかなか良いです。(ひこ)

『どうぶつもようで かくれんぼ』(いしかわこうじ ポプラ社 2008.07 880円)
 「かたぬきえほん」です。
 左側に動物の絵が描いてありますが、輪郭がありません。右側には言葉と、型抜きされた輪郭。
 次にページを繰ると、ページが重なって輪郭を描き、動物が浮かび上がります。
 もちろん、んなことしなくたって、たいていの動物はわかるのでしょうが、わかることの方より、輪郭がないとどんな感じになるかと、輪郭だけだとどうなのかの二つが楽しいのです。(ひこ)

『火』(関根秀樹:文 狼林:絵 月刊たくさんのふしぎ 福音館 2008.09 700円)
 「たくさんのふしぎ」ですから、「火」と人間の関わりに歴史を見せていきます。
 何のてらいもなく、絵本は進んでいくのですが、それでも、様々な火の熾し方、文化による違いなどを眺めていると、やはり「火と人」の深い関わりについて改めて感じ入ります。友人の陶芸家も縄文焼きといったイベントで子どもたちに人と陶器の関わりを通じて、生きていることの実感を伝えたりしていますが、「火」は人間を考える上で外せません。(ひこ)

【創作】
                           三辺律子
 世の中は夏休み。夏休みといえば、絵日記を連想する人も多いと思う。私もその一人。
 というわけで、今回は夏休み前に出た「日記」二冊を紹介したい。片や現代のアメリカの小学生の日記、片や昭和20年代の日本の田舎の小学生の日記。書かれている内容も、取り上げられるテーマも、雰囲気や味わいもまったくちがう。大人の視点から比べると、つい「むかしはよかった」と言いたくなるのだが、周囲の実際に読んだ子どもにきいたところ、両方とも「身近に感じる」と言うから、面白い。

『悪ガキ絵日記』 村上勉作 イメージクリップ 2008年6月
 表紙を一目見ればわかるように、画家の村上さんが但馬(兵庫県)の小さな町で過ごした少年時代を振り返って描いた絵日記だ。昭和27、8年ごろの農村の風景が、春を迎える3月から、夏、秋、冬を経て、また春を迎える翌年の3月まで、いきいきとした絵と文で綴られている。
電器屋に町で唯一のテレビがきた話や、味噌汁をスープに、コロッケをステーキに見立てて「西洋料理の作法講習」をしたこと、コウモリを追い払いながらの広場での映画上映会や、夜逃げした一家の話など、当時のようすを忍ばせる日記も多い。
 しかし、読者の子どもがもっとも共感するのは、タイトルにもあるように、勉少年をはじめとした子どもたちの「悪ガキ」ぶりだろう。金魚すくいでズルをする、映画館にただでもぐりこむ、禁止されている「瓶つけ」という漁法で魚をごっそり取る、貨物列車に無断で乗り込む、あげればキリがない。いたずらの数だけ失敗もあるということで、大人たちに怒鳴られたり殴られたりはしょっちゅう、元軍馬に追いかけられたり、ハチに刺されたり、「日記」に記すような小さな事件には事欠かない。
 それを受け止める大人の側も実におおらかだ。「瓶つけ」の現場を発見した巡査は、「ワイロじゃ」といって口止め料代わりに鮎をもらっていくし、無銭乗車を発見した駅員は「ドあほ!」とげんこつを食らわすが、それで放免してくれる。勉少年の母親は、ふんどしをほしがる息子に「そんなもん、フリチンでええ」と取り合わないし、友人のタカシの父親にいたっては、漆でかぶれたタカシのため勉たちがわざわざ持っていった沢ガニを(つぶして塗ると、かぶれに効くらしい)酒のつまみに食べてしまう。
 いたずらの内容はちがっても、悪ガキはいつの時代も存在するし、隙あらば大人を出し抜こうとするのも、今もむかしも変わらないだろう。しかし、次の『グレッグのダメ日記』を読むと、大人のほうはだいぶ変わってきているような気がする。
【注:『悪ガキ絵日記』は一般書店で取り扱いはないので、ご興味のある方はhttp://www.imageclip.co.jp/top.html(イメージクリップHP)から購入できるそうです。】

『グレッグのダメ日記』 ジェフ・キニー作 中井はるの訳 ポプラ社 2008年5月
 母親に勧められてしぶしぶ日記をつけることになったグレッグは、最初にはっきり宣言する。「ママは、ボクがマジで自分の気持ちをすなおに書くとでも思ってるのかな? だったら、どうかしてる」。
 日記は9月の新学期から始まるが、最初からグレッグの苦労はたえない。ヘンな子と席がとなりにならないように、「えんがちょ」にならないように、いじめられないように、クラスでイメージダウンしないように―――日々、「**しないように」気をつけなければならないことが山のようにあるのだ。
 親の目を盗んで友達の家でテレビゲームをやる方法を考えたり、いじめから身を守り、かつ算数の授業をサボるために安全パトロール委員に立候補したり、学校新聞のマンガを描いて人気者になろうとしたり、グレッグの毎日も日記に書くことには事欠かない。そうした画策がすべて裏目に出るのも、お決まりのパターンだ。気を使わなければいけないことの多い学校生活は、ストレスでいっぱいに思えるが、案外グレッグはたくましくおおらかに乗り切っているように見える。
 しかし、親たちには、『悪ガキ絵日記』の大人のおおらかさはない。学芸会で犬役になった子どもが手と足で歩くのは下品だ、と文句をつけてきた「モンスターペアレント」や、息子のテレビゲームはすべてチェックして「戦い」「暴力」のキーワードがあるものはすべて禁止する父親、「ゆたかな人間性を育てる」ために劇のオーディションを無理やり受けさせる母親などが、日記のあちこちに登場する。モンスターペアレントは極端な例としても、ゲームを禁止したり、積極性を身につけさせようとする親たちは、今の時代なら模範的で立派な親と評価されるだろう。だが、グレッグの目を通してみると、そして『悪ガキ絵日記』を読んだあとだと、そうした親たちが単なる過干渉で、ピントが外れていると感じるからふしぎだ。読者の子どもがこの作品を「身近だ」と感じるのは、そんなところにも理由があるのだろう。

 ともあれ、子どもは今もむかしも常に全力で遊んで、全力でいたずらをし、彼らなりの論理で精一杯生きている。そんな子どものたくましさを感じられる二冊だ(三辺)。
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【創作時評】
ヒトを補完する自然、コミュニティ         芹沢清実

え、これって京極夏彦?
まずはドカベンサイズの外見にびっくりの、
今江祥智『ひげがあろうが なかろうが』(解放出版社08年1月)。
ぶあついのも道理で、新作長編の前身である長編「ひげのあるおやじたち」(一九七〇年に出版、のちに作家自身の判断で絶版に)を併録している。いくつかのいきさつをへて"三十七年ごしの「完結」にこぎつけられた"一冊は、旧作・新作ともに読み応え十分なだけでなく、両者を比較する楽しみもあってうれしいかぎり。
おおざっぱな印象を言えば、旧作が「椿三十郎」ふう活劇なのにたいして、新作はイタロ・カルヴィーノ「蜘蛛の巣の小道」をおもわせる静けさと白土三平のダイナミズムか。
「ひげのある…」の構図は快活で明瞭だ。かたや人命をむしけらのように扱う「わかとの」をいだき、町衆の楽しみにしていた祭りを中止して城の土木工事にかりたて、年貢を二倍に引き上げる非道な藩政。たいする被害者同士が身分による差別意識をのりこえてたたかう。本作は初読の遅れてきた読者(七〇年には中三だった)には、安保闘争や学生運動の残照も感じとれる。
「ひげがあろうが…」に引き継がれた太い筋といえるのは、非農業民スペシャリストの活躍と、異なる出自の者が連帯して権力者を追い落とすうねりだろう。竹で精妙な筥(はこ)を作る細工師をはじめ、川や海に生業をもつ者、芸能民に薬売り、はては夢を自在にあやつる異能の者までが、通常の生活をおくる者には見えないやりかたでつながる。そのふしぎに巧妙なネットワークをたどる父と子の冒険に胸躍らされる。

<地勢が物語をうごかす>
「ひげがあろうが…」で浮上した物語の魅力のひとつは、なぞめいた地形である。『山のむこうは青い海だった』で出発した今江は、なるほど地勢と深くむすびついた作家でもあったか。
主人公父子が暮らすのは、「この世のいきどまり」と呼ばれる切り立った崖で世間と隔てられた山中の竹林。どこからか来訪する客が、しばらく滞在しては各種技術を研鑽していく。つまり世間と隔絶した避難所=アジールを提供することも、この住みかの役割(そういえば『指輪物語』でもアジールを提供するのは超越者でもある妖精で、たえまない苦難や戦闘に息も絶え絶えに読み進んでエルロンド館に着いたら、なんともほっとしたものだった)。
子の成長とは安全な場所である生家から出て行くことでもあり、往還の技を身につける学習も必要になって、これは普通の家庭でも同じ(たいてい崖や急流はないけど)。しかしこの主人公父子の住みかは特殊な技能をもつ民のネットワークの結節点でもあり、その安寧をおびやかす者とのたたかいが物語をうねらすのだ。

<山野河海のなつかしさ>
ところで、全四巻のうち半分までが出た
三田村信行『風の陰陽師・一・きつね童子』(ポプラ社07年9月)『二・ねむり姫』(07年12月)。
主人公の安倍晴明といったら、夢枕獏だし岡野玲子だし野村万斎だし少年少女はもっといろいろ消費してるだろうし、の人気キャラ。なのに新鮮で、わくわく読みすすめられるのはなぜ?
ひとつには「今昔物語」など説話や史料に裏づけられて、キャラ造形や舞台設定の叙述がぶあつい(長い、ではなく。念のため。むしろ表現は簡潔)ことだが、具体的には、ひとつ手がかりになるのが、アジールとの往還という要素。
主人公は、父の死により天涯孤独となり、陰陽師になるべく陰陽寮長官宅に身を寄せた十四歳の少年晴明。将来への不安におびえる彼が、母・葛の葉の「恋しくば尋ねきてみよ」の歌に呼ばれて、信太(しのだ)の森をたずねるところから物語は始まる。
信太の森はキツネたちの住む異界で、内部に争闘もないではないが、異類婚で生まれた晴明にとっては、なつかしい母の里である。兄弟のように晴明を助ける子ギツネの真比古・矢比古もいて、森は晴明にとっての家庭でありアジール。ここでくつろぎながら力を身につけたのち、「平和で居心地がいいけれども、なんといってもここはせまい世界です。そなたにはもっと広い世界で思う存分活躍してほしいのです」という母のことばで、晴明は修羅の巷へ。
晴明の卓越した力の源泉は、ヒトとキツネの間に生まれたことにある。その力は、人間と自然、ふたつの世界を行き来することで強まり、あるいは回復する。
ここでいう自然、つまり野生動物がすむ里山である信太の森は、人を寄せつけない神のごとき「大自然」ではなく、人に養われペットや家畜のようになった「小自然」でもない。人間社会からは自立した、別の論理をもつ「他人のような」「中自然」からパワーを受けとることを、古人はさまざまなかたちでしてきた(上田篤『庭と日本人』新潮新書)。そういうこととのつながりを、いろんなところで感じさせる物語だということ。たんに素材を古典にもとめたからでなしに。
だから、超越的な力を語ることに説得力がある。つまりは、そのあたりがこの作品の最大の魅力といえるかもしれない。
主題も手法もまったくちがうけれど、
岩瀬成子『「さやか」ぼくはさけんだ』(佼成出版社07年12月)
でも、心を解放しパワーを与える自然との交感場面が印象的。
こじれた友人関係に傷つき、しかし逃げない決意をした「ぼく」は、風の強い晩に出るという「おごうさあ」を見るために、友を呼び出して夜の山小屋へむかう。
「おごうさあは森にすむクマタカのようだろうか。それとも、ツキノワグマのようだろうか。それとも、夕方、二またの分かれ道に立っているという、猫の顔の人さらいのようだろうか。おごうさあが、おそろしいか、とぼくはぼくに聞いた。おごうさあを見てみたい、とぼくは思った。」
ぞくぞくするくだりである。

<セイフティーネットを機能させる力>
こちらは伝奇ファンタジーではないが、歴史素材をあつかった力作が出た。史料を読みこんで設定や描写に活かした筆力もさることながら、それにとどまらない今日性がある。
久保田香里『氷石』(くもん出版08年1月)
の舞台は、天平九年の平城京。
天然痘の流行におびえるひとたちが行きかう市の熱気、立つほこり。そのなかで、大人相手にいんちきな護符を売りさばく少年の張りつめた気配。いきなり物語にひきこまれる。
母を亡くし自力だけで生き抜こうと決意している少年は、遣唐使として海を渡ったまま帰ってこない父への不信から、将来への希望も社会への信頼も失っている。鬼神めいた疫病が都に接近するなか、彼が出会うのは、下働きの少女に、施薬院で働く僧形の男。自分は断念した学問を大学寮で続ける従兄との関係も、物語をゆさぶる。
超自然的なことが語られているのではないのに、どこかファンタジーにも似た感触があるのは、「文字を書く」ことの意味が当時と今ではちがうことに起因するのかとおもう。言霊信仰が生きていた時代、木札をけずり、墨をすって、文字を書く行為はまじないにも似ていたことだろう。実際に出土した疫病退散の呪符木簡が、ストーリーを支えている。
もうひとつ重要な要素が、光明皇后が設けた医療・福祉施設である施薬院。いわば古代社会のセーフティネットが、さまざまな人の思いによって機能していくさまが、とてもリアルに描かれるのだ。そこに現代に通じる主題がある。

<子どもを支えるコミュニティ>
『氷石』の少年のように保護遺棄された子どもは、形態はちがえど、現代にもいる。かれらへのセイフティーネットのひとつ、「里親」を描くのが、大谷美和子『愛の家』(国土社08年2月)。
自分のルーツがわからない不安や周囲との信頼関係に悩む少女を中心に、自立をめざすシングルマザーら、紆余曲折しながら支えあって生きていく人たちの息づかいを伝える。
あかねるつ『キャンセル未来図』(岩崎書店07年11月)
では、それぞれの事情で「必要のなくなった飛行機のキップ」のように親から「キャンセルされた」子どもたちが、南の島での自立生活めざして冒険の旅へでる。ずーんと重い主題なのに、「崖っぷちのお笑い芸人」の母をもち、「いない」ことにされた息子、という人情ユーモア系な主人公の設定が絶妙なのと、スピーディな展開でぐいぐい読ませる。こちらは公的なものではなく、南の島の共同体を土台としたきずなが、子どもたちを支える。
早見裕司『となりのウチナーンチュ』(岩崎書店07年12月)
は、作者自身も移住した沖縄の話。「癒しの島」とむやみに美化する傾向には批判的だが、それでもここには現代人に必要な何かがある、というメッセージが感じられる、少女の友情物語。
十六歳で高校には行かない彩華は、貧乏ライターの父と二人暮し。ある朝、置物のカエルがしゃべったので、これはまずいかもと神経科を受診する。アパートの隣室に引っ越してきたのが同い年の夏海。こっちは東京の学校で「いろいろあった」うえ、離婚した母親の生き霊におびやかされる。
こう書くとなんだか大変なふたりだが、周囲のゆるゆるした大人たちがかもしだす空気にも助けられ、きずなを結んでいく。
しかし共同体のきずなを保つことは、ときにしがらみともなる。
大学への米軍ヘリ墜落事件を告発する
白川タクト『墜 沖縄・大学占領の一週間』(新日本出版社07年12月)
は、若い移住者である著者の発見や高揚を熱く伝え、濃いしがらみにしばられてなかなか動けない現地の若者にもふれる。
逆にしがらみのない、利益を交換するだけの「友だち未満」と互いをみなす少年ふたりが、自転車で日帰り冒険旅行にでる
高森千穂『風をおいかけて、海へ』(国土社08年1月)
では、趣味がとりむすぶゆるやかな共同性があたたかい。子育てや教育といった、従来コミュニティがもっていた機能を現代に再建するうえで、ここに描かれたような趣味を介した世代間交流も、ひとつのキイワードだろう。

<落語という語り口の魅力>
ところで、匿名性や読者とじかに反応することなどから、ケータイ小説は「小説以前の口承文芸に近いのではないか」という鈴木謙介の言(朝日新聞08年2月16日)に、なるほどと思った。口承文芸なら、落語が小ブーム。朝ドラ「ちりとてちん」は上方落語入門でもあったが、大学サークル活動をめぐる連作推理
大倉崇裕『オチケン!』(理論社07年9月)
の付録エッセー「落語ってミステリー!?」も、とても親切便利なガイド。
児童文学と落語、相性よさそうだ。
村上しいこ『かめきちのなくな! 王子様』(岩崎書店07年11月)
の間合い絶妙なやりとりなど、まさに落語の楽しさである。
そういう呼吸やユーモアだけでなく、ひとりの話者がさまざまな人物の身になりかわって語るという話法も落語の魅力。だとすると、加害者・被害者・傍観者を疑似体験することで「いじめ」の相対化に成功した小学生たちの記録、
今関信子『ぼくらが作った「いじめ」の映画』(佼成出版社07年11月)
の人物の心情にぐっと入り込む話法も、どこか共通性があるかもしれない。
と、ここまでなのだが、ただ走るのがすきだった無垢な少女が、アスリートとしての成長と引き換えに苦悩や嫉妬などダークな心を育てていく過程がスリリングな
増田明美『カゼヲキル(1)助走』(講談社07年7月)
の続きが、どうにも気になる。

*「日本児童文学」2008年5−6月号掲載
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『おばけかぼちゃ』(たちのけいこ:作・絵 あかね書房 2007.10 900円)
 ぶたさんの親子が、大きな大きなかぼちゃを収穫します。転がして行くと、止まらなくなって森の中へ。
 それを見つけたおばけたちは、かぼちゃの中に入って、おいしいかぼちゃのお菓子や料理を作り始めます。
 そんなことは知らないぶたの親子。やっとみつけたかぼちゃを家まで転がして行くと、なんだかとってもいい匂い。
 かぼちゃに穴を開けると、かぼちゃのお菓子と料理が飛び出した!
 いやあ、これいいなあ。おもしろいなあ。
 最後はおばけも幸せになるしね。
 レベル高いです。(ひこ)

『魔女ネコ日記2 おてんば魔女ガールズバンドで大スター』(ハーウィン・オラム:作 サラ・ウォーバン:絵 田中亜希子:訳 ポプラ社 2008.07 950円)
 ハギー・バギーは「魔女らしく」生きるのが大嫌いなもので、人間の普通の女の子みたいのオシャレもしたいし、楽しく生きたい。
 今回はガールズバンドに目覚めてしまったハギー。
 あんまし、ハギーの意のままに動くと、魔女たちから怒られそうで、魔女ネコニャンウィックも大変です。
 メンバーを揃えるためになんと議員魔女をカワイイ女の子に変える計画をハギーが立てました。
 どうする、ニャンウィック!?
 日記形式を巧く活かして、話をテンポ良く進めていきますから、このはしゃぎっぷりに引かなければ、楽しめます。(ひこ)

『ランちゃんドキドキ』(角野栄子:作 スギヤマカナヨ:絵 ポプラ社 2007.07 950円)
 ランちゃんは、子犬を拾います。
 飼うことになりましたが、これまでのぬいぐるみの友だちたちとは、チト違います。生きていますからね。
 角野は、命の有り様を、明るく楽しく、でもちゃんと伝えています。
 後半は、ランちゃんと子犬の大危機!!
 短い物語の中に、狭苦しくなくたくさんの情報を埋め込む技は、やはり一流です。
 シリーズかな。楽しみ。
 でも、やはり、ぬいぐるみは必要になるんですね。(ひこ)

『おばけ屋の おばけすいか』(あわた のぶこ:文 ただよしはる:絵 小峰書店 2007.07 1100円)
 おばけ屋シリーズです。
 おばけ屋、今回は海の家を開きます。
 子どもたちは、海で泳ごうとおおはしゃぎ。そこに、色々おばけがやってきて、そりゃもう大騒ぎ。
 と、楽しい場面が続いていきます。
 ただの絵と相まって、ストーリーもテンポ良く進んでます。が、そのテンポが単調になり気味なのが、残念な所。どこか一カ所ひねりが欲しいです。そうすると、おばけ屋の安定した世界が、より際立つと思います。(ひこ)

『おおおもりこもりてんこもり』(藤真知子:作 とよた かずひこ:絵 ポプラ社 2008.02 900円)
 「もり」でだじゃれになっていて、そば屋のやへいさんが、様々な森に出前ワープしてしまいます。そこで、自然のことなど考えます。
 とよたの絵もあって、なんだかほんわか心地良いようなのですが、実は深刻な自然破壊が描かれているわけです。
 主張が少し言葉に成りすぎていますけれど、小さな子ども向けに、こんなメッセージがあるのはすてきです。(ひこ)

『いきてるよ』(森山京:作 渡辺洋二:絵 ポプラ社 2007.12  900円)
 なんともストレートなタイトルですが、この幼年童話はまさにそのような物語を展開していきます。生と死です。
 早起きしたぶたのこは、お日様や自然の目覚めていく中で、くまの老人と話をします。その帰り、白いチョウチョにもご挨拶。
 ゆうがた、遊んで帰る時、ぶたのこは白いチョウチョが死にかけているのを見つけます。
 何日かして、くまのじいさんに背中を見つけ、声を掛けるのですが返事がありません。ひょっとして、白いチョウチョのように……。
 子どもの不安と、生きていてくれることへの安心感が、巧く伝わってきます。
 でも、疑似動物物で描かれる限界は、やはりあるでしょう。(ひこ)

『かわいいこねこをもらってください』(なりゆきわかこ:作 垂石眞子:絵 ポプラ社 2007.10 900円)
 ちいちゃんは、子ネコを拾うのですが、アパートは動物を飼えず、でもなかなか飼い主は見つからず、大家さんからは期限を切られ……。
 といった、どうしようもない状況の中の子どもの心を描いていきます。
 いつの時代でも通用しそうな物語。最後はホッとします。
 ただ、今の時代の物語としての何かを入れて欲しいのですが。(ひこ)

『ルナとレナのアイドルダイアリー』(ありたかずみ:作・絵 ポプラ社 2007.12 950円)
 十三歳、二人のアイドルによる日記という設定のシリーズ物。歌手デビューの四巻目までが出ています。
 着せ替えマグネットのキャラの物語化なのですが、日記とすることで、キャラに欠けている「成長」が伴われて、キャラがキャラクターとなるわけです。
 日記という設定だからかもしれませんが、ルナとレナとそしてファンにとって、気持ちの良いことしか書かれてはいませんので、これを物語と呼べるかは難しいのですが、着せ替えのサブ資料としては使えますね。(ひこ)
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『あなたはそっとやってくる』(ジャクリーン・ウッドソン作/さくまゆみこ訳/あすなろ書房)
エリーとマイア。有名進学校のパーシー学院に転校してきた十五歳。教室を探していたエリーはマイアとぶつかり、出会います。
 エリーは、マイアを一目見て思います。「彼の髪にふれてみたい。彼の顔にふれてみたい」だって、「初めて会ったという気がしなかったのです」
 恋におちるって、こういうこと。
 マイアだって同じです。「その子のことはわかるような気がするんだ。心の中が見えて、なんでもわかるみたいな」
 二人とも、家族の問題で悩んでいます。
 エリーが幼い頃、母親は二度、家出をしました。主婦業と母親業だけの人生に満たされず、このままでは心が死んでしまうと思ったのです。もう十五歳ですから、その時の母親の気持ちがわからないわけではありません。でも、エリーは思っています。母親を「一〇〇パーセント信頼することは、もうない」と。
 マイアは父親が有名な映画監督、母親が小説家。父親が恋人を作ったために両親は離婚しました。以来、母親は小説を書いていません。父親は罪悪感からマイアをパーシーに入学させてくれました。彼は父親を喜ばせるため、それを受け入れました。そのかわり、一緒に暮らすのは母親に決めました。それでも行ったり来たりは気が重い。そして、マイアにとって何より大変なのは、いつも有名監督と作家の息子と見られてしまうことです。パーシーへの転校は、マイアがただのマイアになるためでもありました。
 そうして二人は出会ったのです。
 でも、二人はなかなか近づきません。それは、エリーが白人で、マイアが黒人だったから。
 マイアは思っています。「白人ばかりの中で、自分はいったい何をしているんだろう?」
 エリーは気づきます。どうして今まで黒人は、「私たちのまわりにはいなかったのでしょう?」
 彼らは恋の魔法だけに身をすことはできません。一歩をみ出すには、自分のスタンスをはっきりさせないといけないのです。
 でも、恋は恋。二人はついに近づきます。
「彼の手が私の手をりました。(略)あたたかくて、やさしくて、いい気分です」「やがてマイアのくちびるが私のくちびるに重なりました。その感触は、彼の手と同じようにやさしくてあたたかでした」「その瞬間、すべてが静かで、世界は完璧なものになっていました」
 ドキドキしますね。ちょっとうらやましいかも。
 しかし、人々の視線は、言葉は、二人に突き刺さります。二人はその原因を自分たちのこととしても受け止めます。マイアは、自分の肌の色が黒いのを常に忘れたことがないのに、エリーは自分の肌の色を日頃気にしていない点などを。
 この現代の『ロミオとジュリエット』もまた悲劇で終わるのですが、困難な恋に船出した、この二人の姿を通して、差別の意味を考えさせられる一冊です。
*徳間書店 子どもの本だより2008年6/7月号掲載 (ひこ)
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『この子を救えるのは、わたしかもしれない』(ワールド・ビジョン・ジャパン:編 小学館)
 貧困、紛争などに苦しむ六人の子どもが紹介されています。
 カンボジア。良い働き場所があると言われ、プノンペンにやってきた十三歳のカリアヤン。彼女が送り込まれたのは売春宿でした。一年後に救い出されますが、彼女はHIVウィルスをうつされていました。
 ウガンダ。無理矢理連れて行かれ、兵士にされた十三歳のスティーブン。命令されるままに人を撃ちます。拒否すれば自分が殺されるからです。
 助け出されたスティーブンですが、人を殺してしまった心の傷は癒えません。
 その他、親をエイズで失った七歳のベアトリス、紛争で故郷を追われた十二歳のサラ、地雷地帯に住む十四歳のアドゥ、貧困でなかなか学校に行けない十歳のアスマが描かれています。
 彼らにはなんの責任もありません。大人の欲望やエゴが、子どもたちを傷つけているのです。
 それぞれのエピソードの最後には、百円使ってその国では何が買えるのかが記されています。というのは、この本を買うと百円が、子どもたちのために寄付されるからです。
 世界と繋がるために、こんなところから初めてもいいですね。
 酒井駒子や荒井良二などが挿絵を描いています。(読売新聞 ひこ)