130号
2008.11.20

       

『おはなしのもうふ』(フェリーダ・ウルフ&ハリエット・メイ・サヴィッツ:文 エレナ・オドリオゾーラ:絵 さくまゆみこ:訳 光村教育図書 2008.10 1500円)
 まず、なんて素敵なタイトルでしょう!
 これだけでもう、ドキドキ。
 しかも、エレナ・オドリオゾーラの絵ですから、ちょっと奇妙でおもしろいお話が始まりそう。
 期待違わず、良いですね。
 北の村の子どもたちは、ザラおばあちゃんのお話を聞くのが大好き。そのとき座る毛布をおはなしの毛布と呼んでいます。
 ザラおばあちゃん、子どもの一人の靴下に穴が開いているのに気づき、新しいのを編んでやることにしますが、そのための毛糸を、おはなしの毛布からちょっといただきます。今度は、雪の中配達をしてくれる郵便屋さんにマフラーを。
 こうしておはなしの毛布は少しずつ小さくなっていって……。
 ね、ドイドキといいでしょ。(ひこ)

『オリビア クリスマスのおてつだい』(イアン・ファルコナー:さく 谷川俊太郎:やく あすなろ書房 2008.11 1600円)
 考えれば、オリビアのクリスマス物がいままでなかったのが不思議。真っ赤な表紙です。
 さて、オリビアは、クリスマスの準備を手伝うわけですが、そううまくことが運ぶはずもありません。
 マイペースでとぼけたオリビアが今回も、色々、力の入らないボケをかましてくれます。
 でも本人はいたってマジメなのが、相変わらずいいんですよ。(ひこ)

『クリスマスの人形たち』(ジョージ・アダムス:文 カーチャ・ミハイロフスカヤ:絵 こだまともこ:訳 徳間書店 2008.10 1600円)
 人形作りのペーチャは、たくさんのあやつり人形を作りましたが、中でも気に入っているのはたいこたたきの兵隊とピエロ。
 クリスマスには町で子どもたちに人形芝居を見せるのがペーチャさんの楽しみ。
 ところが今年、風邪を引いてしまい、中止に。
 魔法使いがやってきて、人形たちだけで行けるようにしてくれます。ただし時間は十二時まで。
 さて、無事に帰ってこれますかどうか?
 昔話のキモを押さえた物語展開の巧さ。そして、カーチャ・ミハイロフスカヤの、軽妙でありながら深い絵作りで、クリスマスに相応しい一品となっています。(ひこ)

『森を育てる生き物たち』(谷本雄治:文 盛口満:絵 岩崎書店 2008.10 1300円)
 小さな生き物たちを子どもに伝え続ける谷本の新作。
 森の植物と共に生きる姿を、本作では盛口の精細で生き生きとした絵を得て、自由に展開しています。
 多くの子どもが、小さな生き物を好きなのは、もちろんそれが小さいこともありますが、彼らの生活に、小さくても、一つの世界を感じることができるからです。
 そんな感受性を大人になっても保つのは難しいかもしれませんが、世界とつながっている感触は残るはずです。そこがとても大切。だから、こうした絵本は意味があるのです。
 森へ行くことがない子どもにも、絵本の中の森を感じて欲しいですね。(ひこ)

『うまれてきたんだよ』(内田麟太郎:文 味戸ケイコ:絵 エルくらぶ 2008.10 1600円)
 児童虐待で殺された子どもからの言葉として描かれた絵本です。
 「ぼく うまれたんだって」の次は、「さんねんで しんだんだって」と展開します。
 こうして内田は一気に、「ぼく」の側に立ち、語りはじめます。
 その後、「ぼく」が知っている、三歳児までの生活が語られ(「いつも なぐられていたんだって」)、その後、「ぼく」が知らない生活(「わらうって どんなこと?」)が、問いかけの形で語られます。
 味戸の画が、不安や不安定な気持ちを、柔らかく包みながらも、真っ直ぐに描き出します。
 これは、子ども向けの絵本というより、子どもの側から大人へ向けての絵本ということになるでしょう。
 というのは、この絵本を読んでもらう環境にある子どもが児童虐待にあっているとは思えませんから、彼ら自身にとって、この絵本は「恐ろしいもの」、「理解できないもの」として機能します。ちょうど「ぼく」が、知らない生活(「わらうって どんなこと?」)のように。その場合、「ぼく」と、この絵本を読んでもらう子どもの環境が、形こそ違え等価であれば別世界のファンタジーとして楽しめますが、等価であるとはこの絵本も言っていませんから、この世界は、読む子どもにとって負荷として働いてしまいます。
 死を扱った作品はあります。が、死は、世界を肯定するための現実として伝わりますが、児童虐待はそうではありません。これから世界を受け入れ、世界に受け入れられる子どもに向かって、世界とその子を否定しているのですから。
 とはいえ、じゃあこの絵本はなければいいのかといえばそんなことは全くなく、あった方が良いし、書かれてうれしい絵本です。
 子育てをする大人やそれに関わる大人、そして、世界を受け入れ、世界に受け入れられたと思っている年齢以降の子どもに対して、そこに存在する事実を、「ぼく」の側から伝えてくれるからです。これはフィクションの持つ力です。
 ラスト、内田はこう書きます、「ようこそ あかちゃん」と。タイトルの「うまれてきたんだよ」からこの言葉につなげれば、なんのこともない、子どもと大人の幸せなやりとりとなります。その間(隙間)に、内田は児童虐待を刻印したわけです。
 それが存在しないかのようにふるまうな、と。(ひこ)

『うさこちゃんの だいすきなおばあちゃん』(ディック・ブルーナー:ぶん・え 松岡享子:やく 福音館 2008.09 600円)
 ブルーナーはなぜ日本で、これほど人気があるのか? と本国でも不思議がられているようですが、なぜなんでしょうね、野坂悦子さ〜ん。今度、ご意見訊かせてください。
 それはともかく、というか、この作品を読めば、うさこちゃんシリーズが、単に「カワイイ」シリーズではないことがよくわかるでしょう。
 うさこちゃんのおばあちゃんが亡くなって、おじいちゃんもないて、棺の中におばあちゃんが横たわって、葬式が始まって、というお話です。
 さりげなく、でもちゃんと伝えています。喪失感を。(ひこ)

『夜ごと消えるお姫さま』(喜多伽也子:文 蟹江杏:絵 アスラン書房 2008.11 1600円)
 タイトルが、いいですね。蟹江のコラージュも何かを予感させますし。
 入り口でのポイントがとても高い絵本です。
 夜ごと、三人のお姫さまはどこかへ出かけていきます。困った王様は、その行き先を突き止めたなら、一人を嫁にやると約束。ただし失敗したら首を切られます。男たちは次々挑戦して、99の首が飛び、百人目……。
 ただ、男は四人なので、チト、バランスが悪いかな。(ひこ)

『こわがりやのクリス ともだちだいさくせん』(メラニー・ワット:さく 福本友子:訳 ブロオンズ新社)
 メラニー・ワットのユーモアや遊び心が楽しい、リスのクリスくん絵本です。
 クリスくんは超こわがりですから、ともだちもいません。彼が考える「かんぺきなともだち」と、そのかんぺきなともだちと安全に会うための装備について語られます。
 これって、人見知りの子どもにはとってもよくわかりますよ。
 もちろん最後は幸せに!(ひこ)

『キツネ』(竹田津実:文・写真 アリス館 2008.09 1400円)
 北の大地で添う物を観察し続ける竹田津の新作。
 キツネの子育てから、子別れまでですが、今作では父親キツネにも焦点が当てられていて、ホノボノとします。(ひこ)

『したのすいぞくかん』(あきびんこ くもん出版 2008.11 1200円)
 『したのどうぶつえん』の続編です。
 だじゃれで作った、水族館の生き物満載。
 あほくさいやら、情けないやら。
 腹を立てても良し、ガハハと笑っても良し。
 しかし、三作目はどうするんでしょう? と心配になってます。(ひこ)

『マーロンおばさんの むすこたち』(穂高順也:作 西村敏雄:絵 偕成社 2008.10 1000円)
 『どろぼう だっそう だいさくせん』で、脱力ユーモアを展開してくれたコンビによる新作です。
 マーロンさんは三人の息子に手作りの服とズボンとマフラーを贈ります。
 そして、彼らの誕生日に、それらを着てごちそうを食べに来るように指示。
 おおよろこびの三人ですが、これがみんなあわてもの。何かを身につけるのを忘れています。
 忘れられた一枚のセーター、一本のズボン、一つのマフラーはそろって追いかける。
 だから、この四人(?)目だけが、ちゃんとひとそろいを着ている(?)わけ。
 理屈オチのおもしろさですね。(ひこ)

『にげだした てじなのたね』(田中友佳子:作・絵 徳間書店 2008.10 1500円)
 手品には必ずたねがあります。
 昔、ハンドパワーがブームになっていた頃、引田天功が皮肉混じりに、「手品とはたねがあるものを言います。ハンドパワーにたねがないなら、ハンドパワーでしょうけれど、たねがあるから手品でしょうね」と言っていましたが、この物語では、そのたねである「たねぼうず」が、手品師とけんかをしてしまいます。「たねぼうず」は上手に手品はできても手品師はたねがないと手品はできない。
 王様の前で手品を披露しなければならないのですが、これでは罰を受けてしまいそう。
 さてどうなりますか。
 『かっぱのかっぺいと おおきなきゅうり』の田中が、アラブ世界を舞台に描きます。
 なぜアラブかは、イメージ的にはわかりますが、どうしてもという感じではなく、そこで少し引っかかってしまいます。(ひこ)

『ペネロペ こわいゆめをやっつける』(アン・グッドマン:ぶん ゲオルグ・ハレンスレーベン:え ひがしかずこ:やく 岩崎書店 2008.10 1600円)
 次はどんな仕掛けでくるかが毎度楽しみなペネロペですが、今作は、表紙に魔法の粉が付いている物語。
 怖い夢を見て眠れないペネロペ。でも、フランス人は、んなことで、両親のベッドへ入れてなんかはくれません(そこは大人の男女の楽しい場所ですからね)。あくまで自分の部屋で眠らせます。
 そこでママが取り出してきたのが魔法の粉の付いた絵本。その粉を指に付けると、恐い夢なんか見ないというわけ。
 ペネロペはぐっすり眠り、楽しい楽しい夢を見ますよ。
 もちろん、その魔法の絵本が、この絵本という設定です。(ひこ)

『ヘンなあさ』(笹公人:作 本秀康:絵 岩崎書店 2008.10 1300円)
 「ぼく」が朝目覚めたら、校長先生のはずの人が召使いで、「ぼく」はお金持ちのぼっちゃんで、でもそれは夢で、目が覚めたら「ぼく」は宇宙船の乗組員で……。
 と、どれが本当の「ぼく」かわからない展開をしていきます。
 オチはわかりやすいので、クスっと笑えるでしょう。(ひこ)

『ポーリーちゃんのポケット』(小林ゆき子:さく・え 教育画劇 2008.10 1100円)
 こぐまのポーリーは、母親から暖かなダッフルコートを着せてもらい、雪の中に飛び出していきます。
 うさぎやリスと遊びましょう! 寒いのでダッフルのポッケに入る小さな動物たち。
 という、楽しい展開なのですが、こぐまの名前がチト唐突です。Pだから、プーを思い浮かべました。と、雪の足跡の話がいきなりきて、とても損をしています。プーの有名なエピソードとは違う物なのですが、それでも連想してしまいますし、その場合比べてしまいます。すると、やはり、勝のはなかなか難しく、作品全体のトーンを落とす結果になるのです。もったいない。
 ここは、雪の足跡のシーンを何か別のに差し替えた方が良かったと思います。(ひこ)

『トンネル ねるくん くるま なにかな?』『てっきょう てっちゃん でんしゃなにかな?』(やまもと しょうぞう:さく いちはらじゅん:え くもん出版 2008.10 800円)
 「はじめてであうえほんシリーズ」最新刊です。
 車と列車。二つが通り抜けるものとして、トンネルと鉄橋を擬人化して、楽しく描いています。
 こういう絵本はリズムが命なところがありますから、『ねるくん』の次々に色んな車がやってきて、通っていくのはそれにかなっていて良いと思います。最後のオチもね。
 ただ、『てっちゃん』の場合、鉄橋が擬人化され、特定の「てっちゃん」という鉄橋になっている場合、そこをSLも新幹線も走るというのは、いかがなものでしょう。
 私はまずいと思いますが。(ひこ)

『ゆかいなさんにんきょうだい きえたおかしのまき』(たかどのほうこ アリス館 2008.10 950円)
 たかどのの新しいシリーズが始まりました。
 ゆかいな三人兄弟の話です。って、そのままか。
 彼らが巻き起こす様々な出来事がこれから届けられることでしょう。
 1回目は、きえたお菓子の話です。って、そのままか……。
 タンスのなかに長兄がこっそりしまったお菓子。見ていた次兄がちょっと食べる。見ていた末っ子がちょっと食べる。食べたな、弟たち! と起こる長兄。
 しかし、弟たちは、あれ? こんなに食べたかなあ?
 さて結末は?
 スタートにしてはチトおとなしめのお話ですが、たかどのですから、これから世界が広がっていくことでしょう。(ひこ)

『しんかんくんのパンやさん』(のぶみ あかね書房 2008.10 1300円)
 新幹線のしんかんくんシリーズ最新作。
 幼稚園でパン作りのイベントがあり、しんかんくんも参加するのですが、上手に作れなくて……。
 このシリーズ、しんかんくんの魅力が第一です。最初、違和感がなかったとは言えないのですが、慣れてみると、ナルホド。これ、子どもは、いや私も、好きだわ。列車ってだけでも魅力的な絵本キャラ(たくさんありますよね)なのに、700系とおぼしきこの新幹線の顔はなごみ系だし、どでかいしんかんくんが子どもより幼い感じなのも、子ども心をくすぐります。
 のぶみの展開は、結構マジメにちゃんと終わる(まとめる)ので、そこをもっと奔放にすれば、いっそう楽しくなると思います。(ひこ)

【創作】
「子どもの可能性を伸ばすきっかけを与えてやりたい」。親や先生など、子どもの教育に関わる人がよく口にする言葉だ。しかし、言うのは簡単だがど、実行するのは難しい。子どもをお稽古事漬けにすればいいというわけでもないだろう。でも、確かにちょっとしたきっかけで、子どもの人生が輝きだすときがある。そんな瞬間をとらえた本と映画をひとつずつ。

『あの犬が好き』シャロン・クリーチ作 金原瑞人訳 偕成社 2008年10月
 『めぐりめぐる月』や『ルビーの谷』などの物語で高い評価を受けた作家シャロン・クリーチが、ほんのちょっとしたきっかけで、詩の魅力にとりつかれてしまった男の子の物語を「詩」で綴っている。
 ジャックの新学期が始まった。ストレッチベリ先生の授業では、毎回、いろいろな詩が紹介される。ジャックの最初の反応は、「いやだ/だって、女の子のもんだよ。/詩なんてさ」「よくわかんないよ、/あの詩」。それでも、先生の朗読をきいているうちに、すこしずつ、詩はジャックの心をとらえていく。「あのさ/よくわからなかったんだ。/虎よ虎よって詩。/だけど、ことばが/かっこいいよね。(中略)虎よ/虎よってことばが/まだ耳の中で/ドラムみたいに/がんがん、ひびいてる」
 そうしたジャックの感想を、先生は掲示板に張り出す。最初、恥ずかしがって匿名にしてもらっていたジャックだが、いつしか感想は詩になり、やがて照れながらも名前入りで掲示板に張り出すことにも同意する。そのころには、すっかり詩の魅力にとりつかれている。
     ぼく、あの詩がほんとに好きだな。
     ウォルター・ディーン・マイヤーズさんの
    「あの男の子が好き」
     って詩。
 そして「ウォルター・ディーン・マイヤーズさんの詩に感動して」という詩をかくのだ。物語(詩)の最後に用意された、ジャックへのサプライズもすてきなので、ぜひぜひ本書を手にとってほしい。
 シャロン・クリーチ自身、ウォルター・ディーン・マイヤーズのこの詩が大好きで、本書に登場させたことも、マイヤーズに了解をとったそうだ。(三辺)

『未来を写した子どもたち』 監督:ロス・カウフマン&ザナ・ブリスキ 編集:ナンシー・ベイカー&ロス・カウフマン
 インド・カルカッタ(現コルカタ)の売春窟に生まれ育った子どもたちの人生が、カメラを与えられたことをきっかけに、輝きだす瞬間をとらえたドキュメンタリー映画だ。
 登場する少年少女は、アヴィジット(11歳)、ゴウル(13歳)、プージャ(10歳)、コーチ(10歳)、マニク(10歳)、シャンティ(11歳)、スチートラ(14歳)、タパシ(11歳)。親は売春婦で、子どもたちは学校も行かず、女の子は大きくなれば親のあとを継ぎ、男の子も売春宿で働くことが運命づけられている。
売春婦を撮るために売春窟で暮らし始めたフォトジャーナリストのザナは、いつしか、そうした売春窟の子どもたちに目を向けるようになる。「子供たちと出会って一緒にすごすうちに、どうにかしてあげたいと思った」。
 ザナは子どもたちにインスタントカメラを与え、写真の撮り方を教えはじめる。このささやかな写真教室が、子どもたちの日常を変化させる。実際に、学校へ通いだしたり、その才能を認められ、海外へ飛び立った者もいる。だが、そうした生活の変化はなくても、写真を撮ることによって、子どもたちは意欲を持ち、自信を持つようになる。カメラは子どもたちの心に変化をもたらしたのだ。子どもたちが、カメラを持って海辺へ出かけるシーンで見せる笑顔は、忘れられない。
 だが、ドキュメンタリーであるこの映画は、子どもたちを取り巻く厳しい現実もきっちりと伝える。売春窟の子どもを快く受け入れる学校は少なく、そもそも入学手続きに必要な出生証明書や配給カードを手に入れることさえ、想像を絶するような労力を要する。周囲の大人たちの無知と無理解も克服しなければならない。売春窟で暮らす彼らにとって、「息子さんには写真の才能があり、アムステルダムへ招待されました」と言われたところで、「息子さんは魔法の才能があり、ファンタジー王国へいって修行することになりました」と言われたに等しいのだ(映画でその場面を見て、思わずファンタジーの物語によくあるシーンを思い浮かべてしまった)。映画のパンフレットに子どもたちのその後が紹介されているが、ザナが必死になって入れた寄宿学校を退学してしまっている子どもたちも少なくない。それを読むのは、身を切られるようにつらい。
 85分の映画が、どれだけいろいろなことを教えてくれることか。11月22日から銀座シネスイッチ他で上映予定。ぜひ観にいってほしい。(三辺)

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『ルイーザ・メイ・オールコットの日記――もうひとつの若草物語』
「日記は人生の縮図」だと述べたのは、ルイーザ・メイ・オールコット(一八三二−一八八八)の母アビゲイル・メイだった。第三者にとっては書き手の素顔を解読する手がかりとなるが、オールコットのような著名作家の日記となると、創作の秘密や、作家と作品の関係を解明できるという期待感も加わり、読みたくなる。
編者の「日記を読むまえに」によると、現存する手書きの日記を優先させ、手書きがない期間や箇所は、一家と交流のあったエドナ・チェイニーがオールコットの死後に編集した印刷物(『ルイーザ・メイ・オールコット、その生涯、手紙、日記』)で補完した。それにオールコットによる「メモと覚書」を加え、再構成して注釈もつけ、通読できるようにしたのが本書だという。
オールコットが十歳のときから五五歳で亡くなるまでの現存する日記をすべて収録し、一冊で生涯をたどれるというから驚く(たとえばL・M・モンゴメリの日記は四巻本)。分量が少ないのは、オールコットが数度にわたり過去の記述を要約しておいたことも影響するだろう。だが分量が少なくても、新たな発見はそれなりに大きい。
日記本文の後にマデレイン・スターン(一九一二−二〇〇七)の解説が続く。匿名で雑誌に発表されていたオールコットの扇情的小説群を一九七〇年代に「発見」し、再評価に導いたスターンの解説は(書評子の出番がないほど)充実している。オールコットにとって、日記とは主体と客体の両方を演じる「自分だけの部屋」だったのだと、スターンはいう。自分のことだけ書いていると父に評されたのも、オールコットが「自制や抑圧を美徳とする一九世紀半ばの風潮」と、生来の活力あふれる自己との板ばさみに苦しんだからだし、早くから名声に憧れたのも、裏を返せば一家が貧しかったからだと、指摘する。
事実、オールコットは毎年、収入を丹念に記録しているが、それはそのまま、オールコットが売り込む側から依頼される側に転換するまでの苦闘を物語っている。雑誌一篇の原稿料が五ドルや十ドル程度だった一八五〇年代、針仕事は大事な収入源で、年間二〇から四〇ドル稼ぐことができた。だが短編を書き続けたおかげで、『病院のスケッチ』(一八六三)を出版したころには執筆で六百ドルぐらい稼げるようになる。その状況が劇的に変わったのは、一八六八年『若草物語』出版以降で、一躍有名作家となったオールコットのもとにはいくつもの出版社から依頼が殺到する。だがその後も「支出はどんどん増えるけれど、稼ぎ手はわたしひとり。だから(中略)他の人のためにせっせとひき臼をまわさざるをえない」(八六年六月)。
日記が伝えるのは経済面だけではない。何よりも心打たれるのは、家族一人一人へのオールコットの献身ぶりだろう。「概して不愉快なことや辛辣な言葉は削除」(スターン)してあるとはいえ、丹念に読めば、オールコットが喜んで父や妹メイなど家族を支えているなかに、時折あきらめや憤りなどの複雑な思いが混じっていることも見えてくる。
またエマソン、F・H・バーネットや英国のキングズリーといった同時代の文化人と交流し、講演などから刺激を受け、奴隷解放や女権拡張活動へ尽力していた様子や、演劇への深い傾倒、読書歴、闘病の様子なども読み取ることができる。一方で服装については少なく、絹のドレスをもらった喜びや夏のボンネットを整えた嬉しさが描かれるぐらい。こうした欠落も含めて、作品との対比でオールコット像を膨らませることも可能だろう。(西村醇子)
週刊読書人9月26日(金)4面
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『囚われちゃった お姫さま』(パトリシア・C・リーデ:作 田中亜希子:訳 東京創元社)
 お姫さまが龍に囚われたのなら、救い出さないと! と、誰でも思ってしまいますが、このお話のシモリーンの場合は、少し事情が違います。彼女は自分で囚われの身になったのです。
 文武が大好きだから、温和しいお姫さま役は遠慮したい。
 ところが、顔がハンサムなだけの王子さまと婚約させられそうになり、ついに城を脱出。
 行き着いた先はドラゴンの洞窟。食べられるのはごめんだし、ドラゴンとの生活も楽しそうなので、女ドラゴンの「囚われの姫」になることに決めたのです。
 ドラゴンは、魔法使いと協定を結び、彼らの森に入ることを許可しています。しかし、近頃彼らが怪しげな行動をしていることに、シモリーンは気づきます。そんな折、ドラゴンの王が謎の死を遂げて……。
 これはきっと何かある。シモリーンはドラゴンを守るために行動を開始します。
 なのに、各国の騎士たちは、そんな事情をちっとも理解せず、シモリーンを我が姫にしようと、ドラゴンを倒しにやってきます。
 んもう、こっちは忙しいから、退屈な騎士なんかにかまっているヒマはないんだってば!
 元気が全開の、お姫さまらしくないお姫さまファンタジーの幕開けです。(読売新聞 ひこ)
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『きみといつか行く楽園』(アダム・ラップ:作 代田亜香子:訳 徳間書店)
 物語は、十一歳のブラッキーが早朝に素裸で家に戻ってくるところから始まります。足はまだ、だいじょうぶ」。「うん、手はちゃんとある」。自分の存在を確かめるように心の中でつぶやくブラッキー。
 姉のシェイは、部屋に入ってきた彼を見て、すぐに気づきます。母親の恋人アルに性的虐待を受けたと。
 彼は医者の検査を受け、児童福祉司に質問されます。
「目が覚めたら、アルの指がぼくのなかに入ってた」と答えながらも、「アルにひどいことしたら、もうなにも話しません」と心配するのは、アルが母親と結婚すれば、おまえの父親になれると言ってくれたからです。本当の父親は家を出て行ってしまいました。
 幸いアルは逮捕されますが、それですべてが解決するわけではありません。
 母親は、仕事にも子育てにも疲れ切っています。シェイは、薬物やアルコールにおぼれたこともあり、十七歳で人生を見限っているようです。弟のチードルは天才少年で特別な学校に通っていますが、頭にため込んでいく知識だけで生きていて、現実世界とアクセスしているとは思えません。
 みんな自分のことに手一杯で、ブラッキーが抱えている問題を受け止めてはくれないのです。
 性的虐待によってでしょうか、ブラッキーは周りの人を性的な存在として見たり、接したりしてしまうようになっています。女の子のくちびるだと思って、チードルにキスをしたり、学校の先生を見ながら、彼女は郵便屋と結婚していて、「郵便屋さんはけっして制服をぬがない。セックスをするときも、ズボンのチャックを開けるだけだ」と妄想したり、工事現場の男性に、「ぼくにさわっていいよ」と誘ってみたり、髪を染めた母親に「売春婦みたい」と言ってしまったり、緊張すると勃起しそうになったり。
 学校でアルとのことが知られ、ブラッキーはいじめの対象となります。
 同じようにいじめられているメアリー・ジェーンと親しくなるブラッキー。二人はいじめっ子に赤いペンキをかけられるのですが、メアリーの発案で、そのTシャツのままでいることにします。彼らの行動に落ち着きをなくす子どもたち。校長からも着てこないように言われますが、彼らは従いません。それは二人でする抵抗の意思表示ですから。
 そうした行動がブラッキーに、性的なものだけではないコミュニケーションの仕方を少しだけ取り戻させます。
 だからといって、ブラッキーを取り巻く状況が一気に変わるわけではありません。彼は、手に入れた拳銃を使ってしか、いじめっ子を撃退できないですし、母親は彼を更正施設に入れようとしています。
 夜中、家を出たブラッキーが、降り始めた雪の中、たった一人で森へと入っていくところで物語は閉じられます。
 希望があるラストではないので、読者は少し居心地の悪い思いをするかもしれません。けれど、ブラッキーという少年の心に寄り添い、彼の側から世界を眺めた記憶は強く残るでしょう。
 物語にできるのはそこまでです。が、それができるのもまた物語なのです。(徳間書店 子どもの本便り ひこ)
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