No.133(ほそえさちよ・創作編)2009.03.06日号

       

◯子どもに書くということ ほそえさちよ

『かりんちゃんと十五人のおひなさま』なかがわちひろ(2009.1 偕成社)

『おつきさまのやくそく』いとうひろし (2009,2講談社)

おひなさまが登場するお話はお人形話のなかでも独特な雰囲気を持つものが多い。長い間箱のなかにしまわれて、春の初め、まだ寒さの残る日に取り出され、すぐにまた箱のなかへ戻っていく。まれびとのような姿に、子どもの毎日に寄り添う人形やぬいぐるみとは違った思いを乗せて、語りたくなる存在なのだろう。代々受け継がれる人形には女たちの思いが重ねられることも多い。『かりんちゃんと十五人のおひなさま』では、今までのおひな様物語の流れを感じさせながらも、今の子どもを意識した作者の思いを感じさせる。かりんちゃんのおひなさまはひいおばあちゃんから今年の春いただいたもの。それまでは「あ」「ん」という形の口をした小さな犬の置物2体が外国に住んでいるときも一緒に来て、おひな様の時には飾られていたのだ。仲良し3人組の女の子たちのおうちにいるおひな様と女の子たちの気持ちのざわざわした揺らぎが物語を押し進めていく。つ離れしたかしないくらいの(9、10、11歳くらいかしら)女の子たちのぶつかったりすれ違ったりする気もちをふんわりと受け止めて、落ち着いたその子らしさが認められる関係へとつなげていくサブストーリーに、かさこそと動き回る闊達なおひな様たちの様子やそれぞれの宮のおひな様たちとの交流、かりんちゃんとおひな様たちの半分夢のような不思議なやり取りがうきうきとした華やいだ物語の楽しさを伝える。どの子も見守られ、愛される<守り子>であるということ。おひな様を見ることで、そこにこめられた思いを感じ、思いをかけられる存在であるともだちの姿を見ることで、お互いを自分を見直すきっかけになるところが、すてき。おひな様が動き語る物語の不思議はお話の世界に入り込む子どもにはちっとも不思議ではなく、おひな様が子どもの身代わりになって痛みや病気を受けるところでは、息を詰めて、身体をこわばらせる。ともだちや主人公に自分を重ねあわせては、少し自分の毎日を思い返す。物語のなかで日常を見直し、日常を物語でふくらませる。それが出来る物語こそが子どもの文学といえるのだ。

『おつきさまのやくそく』は2色使いのイラストが全ページに描かれた、ちょっと引っ込み思案なたたずまいの本。ひとりぼっちでお留守番の夜、おつきさまがぼくのうちにあそびにきてくれたというファンタジー。ぼくはおとうさんとふたりだけですんでいるらしい。子どもっぽいおつきさまとぼくのお留守番は、おつきさまがひと手間かけてくれた夕ご飯を食べ、かくれんぼやトランプをしてあそび、おふろに一緒に入って、ゆらゆら気分を楽しみ、ベッドに入ってお話を聞きながら眠ってしまう……。そこにおとうさんが帰ってきて、おつきさまが話してくれたお話の途中で寝てしまったことをはなす男の子とおとうさんの時間が描かれているのが、たくさんあるお留守番絵本と違うところ。なぜか、おとうさんはおつきさまの話してくれたお話の結末を知っていて、きちん最後までおはなししてくれる。そしてラストのページに描かれる小さな男の子の姿。その絵の意味をきちんと読み取れた子どもは、見守られて在ることの幸せを言葉にせずとも感じることができるだろう。『おつきさまのやくそく』というタイトルが男の子ととおとうさんをつなげるものであることも発見できるはず。おつきさまと遊ぶのは楽しそうだな、わたしのところには来ていないけれど、きっと誰かのうちには来てるのかもしれないし、もしかしたら家にもくるかも……と想像する楽しさ。不思議なカエルの親子のお話にきょとんとし、おとうさんとのやり取りに、支えあう暮らしの目配せを感じて、にっこりする。この作家の描く物語は子ども目線で語られながら、ふっと子ども自身から目が離れ、ちょっと外から自分を見ているような感覚をもたらしてくれる。本作で描かれる、おとうさんのなかに小さな男の子の姿を見る子どもという存在は、よくYAで描かれる子どもっぽい親を支える子どもという図式とは全く違い、ナイーブな心象でつながっている大人と子どものあり方を見せているのだ。人の心の原型を物語に乗せて見せていく。だからこそ、幼い子から大人までに響く1冊となる。

子どもに書くということは、人のあり方のもともとを物語のなかで、子どもの手の届く世界のなかで見せていくということとおもう。そういう思いが感じられる2冊。


◯そのほかの読み物

『この犬が好き』シャロン・クリーチ作 金原瑞人訳 (2001/2008.10偕成社)

原書でこの犬の表紙を見てから、どんなに翻訳が待たれたことだろう。サインペンでがさごそ描いたみたいなスタイグの犬のイラスト。その表情と立ち姿にまずまいってしまい、少年が大好きな犬に向かい合うのと同じように、言葉と向かいあって、じゃれたり笑ったり、そして、今まで思い返さないようにしていた出来事に少しずつ近づいて、立ち向かうところが好きになった。詩を書くなんて女の子みたい、と言っていた少年が、先生の読んでくれる詩を聞いて、意味わかんないって言いながらも、詩は言葉で絵を描いてるんだって発見し、自分も詩人の言葉の形を借りながら言葉で絵を描くようになっていく。その変化が先生への手紙として提示される。先生の返事は、少年の手紙から想像するしかないのだが、少年が変わっていく道しるべになっていく詩は、そのあとから紹介されるのがうれしい。「言葉は連呼すれば詩になる」と書いていたのは詩人の藤井貞和だったか。少年の言葉の連呼は最初はぎごちなく、小さな声だったが、自分の言葉が頭からそのまま出てくるようになってくるとともに、その声はしっかりとしたものになっていく。大好きになった詩を書いた詩人に出会うことで、少年は自分の息づかいを絵にすることができたのだ。この本が好き。


『ありのフェルダ』オンドジェイ・セコラさく/え 関沢明子やく (1936/2008.11福音館書店)

チェコアニメの上映会で一度見て忘れられなくなったキャラクター・ありのフェルダにまた会えてうれしいな。絵童話だからいつでも会える。チェコでは70年以上も読み継がれあいされてきたキャラクターだという。この童話以外にも、いろんな形の本で刊行されているのを見たことがある。虫たちの小さな世界を童話にしたものはたくさんあるけれど、ハサミムシやらコオロギやらハナムグリ、カメムシ、コメツキムシなどいろんな種類の虫たちがそれぞれにかかわり合ってくらしている世界を、こんなにいきいきと想像力豊かに描き出しているのはないのではないかしら。仲間から1匹だけ連れ去られてしまったありのフェルダは、男の子の手から逃れ、くさはらで何でも屋としてくらしていくことになりました。頭が働き、手先も器用なフェルダ。認めてくれる虫もいれば、逆恨みする虫もいて、とうとう裁判にかけられることに……。小さな虫たちのはなしなのに、なんだか人間の世界にも通じるようなところもあり、新聞記者やラジオのレポーターなどしていた人らしい視点が効いています。愉快な挿画もふんだんに入れられ、楽しく手に取りやすい本になって良かった。


『ハンスぼうやの国』バルブロ・リンドグレーン文 エヴァ・エリクソン絵 木村由利子訳 (1987/2009.2 あすなろ書房)

ハンスぼうやと坊やがお世話しているぬいぐるみたちの毎日が描かれる。作家自身が言及しているように、『くまのプーさん』を思わせる設定や舞台を作りながらも、その雰囲気はなんともアンニュイで哲学的でもあり、ちょっとダークな感じ。エリクソンの描く挿絵の愛らしさにだまされて、かわいいふわふわしたお話だと思ったら大間違い。ハンスぼうやは乳母車に乗って自分で車輪をまわし爆走するし、編みぐるみの鳥・ノークはたいていぼうやのポケットに突っ込まれていて、ほころびて詰め物がこぼれてしまうような赤犬やゾーシャン、いつも蓄音機をぶら下げているオジクマ、全身ゴムでできているバイクに乗ったさるのマック、ころころどこにでも転がっていって辺り構わずしゃべりまくるビーだま、ロシアの地に思い焦がれるジャコウネズミ……。とんちんかんなやりとりや思わせぶりな言葉遣いにくすっとしたり、たがいの弱みを逆なでするような扱いにとまどってしまったり。ちょっぴり残酷でうっとおしいんだけれど、いとおしい。そんなキャラクターたちが巻き起こす小さな事件はしみじみとおかしいのです。


『椿先生、出番です!』花形みつる作 さげさかのりこ絵 (2009.1理論社)

山間の谷間にあるお寺がひらいている小さな幼稚園、きんかん幼稚園の15人の園児とふたりの先生、園長先生、村の大人たちの暮らしの1年を描いている。園児の1年を童話にしているのは『ケイゾウさんは四月がきらいです。』(福音館書店)をはじめ、園物語(?)の定番だけれど、主人公の先生を地元でブイブイいわせていた若い女の先生というキャラクター設定にしているところが、この作家らしいところ。若い椿先生もベテランの南天先生も少々困ったちゃんなところがあり、それで子どもたちがちょっと迷惑したり、おもしろがったりして、楽しい毎日が繰り広げられる。お茶目な大人たちに比べ、園児たちはしごくまっとうで、物知り博士ののびるくんや一番強い万作くんなどがおはなしをひっぱっていくキャラとして目立つが、そのほかの子は子ども全般のイメージをそれぞれに分担していると言った感じか。でも、小さな子の目がキラキラすることを存分にやらせてくれる、きんかん幼稚園や大人たちの姿はとてもいい。そうそう、こんなことあったねえと懐かしんだり、こんなことになっちゃって……と笑ったり、子どもってこんなことを気にするのよねえと思い返したり。ちょっぴり先生目線で読めるのが、子ども読者にもおもしろいのかも。


『永遠に生きるために』サリー・ニコルズ作 野の水生訳 (2008/2009.2 偕成社)

サムとフェリックスは学校に行かず、週に3回、家に先生に来てもらっている。ふたりとも白血病と癌にかかっている。先生はふたりに自分のことを書いてみないかと持ちかけ、サムはほんとうのことを書き綴っていく。それが本書という構成になっている。難病物語と言うと苦しみに苛まれながらも天使のような微笑みで周りの大人をいやす……なんてお涙ちょうだいの展開を笑い飛ばすような、真摯さで<死>に肉薄していく。なぜ人は死んでしまうのか、死んだらどこへ行くのか、どうしたら自分が死んだのかわかるのだろう……サムの問いはインターネットで調べても、本を読んでもわからない。最後には自分が死んだときの様子をチェックするシートをつくり、死んでからしてほしいことリストの用意までして、自分の物語を語り尽くそうとしている。親友の死に打ちのめされたり、妹と心通わせる一瞬をもったりしながらも、確実に迫ってくる死まで、しっかりと自分の目と心を開いている。見られるものは全部見て、感じられる思いは全て感じておこうとするかのように。こんなにも敢然とあれるものかしら?と思ってしまうが、サムの思考が深くなっていくさまやそれを支える大人たちの姿には説得力がある。実際に病院や子どもたちに取材をし、たくさんの人の目に触れさせて作り上げてきた物語だと言うが、このデビュー作の力量には驚かされた。次作もぜひ。


『不幸な少年だったトーマスの書いた本』フース・コイヤー作 野坂悦子訳 (2004/2008.12あすなろ書房)

2005年オランダ金の石筆賞受賞作。トーマスは9歳の時に、「あらゆることの本」というノートを作り、少しづつ書き記すようになる。それを作家が受け取り、トーマスに話を聞きながら、まとめていったという体裁をもつ。トーマスは不幸な少年だ。だからこそ、大きくなったら幸せになる、と宣言する。大きくなったらとはこの家を出たらということと同義であろう。父は原理主義的なキリスト教徒で、聖書のみが真実を語り、それ以外の本は認めず、家族を教育するという名目で、暴力を振るう癖があった。それがおかしいと思いはじめるトーマス。自分なりのやり方で反抗をしはじめる姉。子どもたちを思い忍従していた母が、周囲の女性の力を借りながら、自分の思いを伝えようと行動するまでを描いている。なかには神さまとトーマスとのやり取りが挟まれ、神さまの孤独や頼りなさが示されるのがおもしろい。魔女と近所の子どもたちに恐れられているアーメルスフォールト夫人の荷物を持ってあげることでトーマスは自分の家族の特異さを確信し、夫人との会話や貸してくれる本を読むことで、父の支配から逃れようと思いめぐらしたり、行動したりできるようになるのだ。神という存在の強さを知らぬ日本の子どもにはトーマスの家族の鬱屈がよく理解できないかもしれないが、強権を振りかざし支配しようとする家族のすがたはDVや過保護などで肌で感じられる恐怖ではある。そういう恐怖に立ち向かうには自分が幸せになること。幸せになるためには怖がらないことだと夫人はトーマスに伝えた。その強さを得る方法を本書は教えてくれる。


『ビーバー族のしるし』エリザベル・ジョージ・スピア作 こだまともこ訳 (1983/2009.2あすなろ書房)

18世紀半ばのアメリカ。白人が土地を求めて森を切り開き、奥へ奥へと進んでいた時代。父とふたりで森の中に丸木小屋を建て、畑暮らしを始めようとしていた13歳の少年がたった一人で、小屋に残される。父は残りの家族を呼び寄せにマサチューセッツへ出かけたのだ。大切な銃を怪しい来訪者に盗まれ、小麦を熊にとられたマットは、蜂蜜をとりに木のウロに手を突っ込んだ。ハチに追われ、川に飛び込んだところ、インディアンの老人に助けられた。老人はマットの暮らしを支えるかわりに孫に文字を教えよと言う。白人の少年マットとインディアンの少年エイティアンはぶつかりあいながらも互いに認めあい、マットは森で生きる知恵を体得していく……。訳者もあとがきで書いているように異文化に接して、互いに認めあいながら交流することの難しさは、現代こそ深く感じさせる。それ故に本書のふたりの少年の姿は現代に通じ、また自然と折り合って生きる知恵や大人への通過儀礼もしっかりの描かれている。インディアンへの民俗的な興味も満たされ、そこでの女性のあり方もしっかりと見据えられている。コンパクトな物語のなかにこれだけの内容と視点を盛り込みながらも、わくわくとしたストーリーテラーぶりを見せつけられ、さすがスピアの作品と感嘆した。


『ルール』シンシア・ロード作 おびかゆうこ訳 (2006/2008.12主婦の友社)

デービッドは自閉症。だから、上手く自分の気もちを言い表せないし、みんなにも伝わらない。よくローベルの『がまくんとかえるくん』のセリフを使ってお姉さんのキャサリンとおはなしする。原書のタイトルが『FROG AND TOAD』となっているのは、そういうわけだ。日本語版のタイトルはふたりの毎日を普通にしてくれるはずの8つのルールからきている。キャサリンの一人称で語られる毎日はデービッドに振り回され、ともだちともうまくいかず、もんもんとしている感じ。デービッドの通院先でいつも会う車いすで言葉が出せない少年ジェイソンとしゃべるようになったり、近所に越してきた同じ年のかわいい少女クリスティと遊んだりするなかで、自分のくらしぶりを、弟の姿を受け入れ、認めていけるまでをテンポよく、からりと描いている。本作がデビュー作となるのだが、我が子の一人が自閉症で、自分のよく知っていることから物語を紡ぎだしたと語っている作者は、ユーモアと決めつけない目をもって、毎日を真摯にくらしてきたのだろう。それが上手くストーリーにちりばめられ、説得力のある物語を作り上げている。


『ラッキー・トリングルのサバイバルな毎日』スーザン・パトロン作 片岡しのぶ訳 (2006/2008.10あすなろ書房)

2007年ニューベリー賞受賞作。砂漠のなかに取り残されたような町ハードパンに住むラッキーは10歳半。サバイバルキットの詰まったバックパックをいつも身につけているこの少女は、亡くなった母のかわりに自分を育ててくれているフランス生まれのブリジットが本当にずうっとそばにいてくれるのか、心配でたまらないのだ。子どもはいつも無力で、大いなる力を得て、自分の場所を確固たるものにしたいと願うラッキーは、とうとう家出を決行する……。過酷な少女の立場におろおろと読み進めなくてはならないのかとおもいきや、この砂漠の町に住む大人たちの奇妙に明るくしたたかな姿にほっとしたり、愛されている子どもの姿に納得したり。不思議に元気の出る物語。


『トランプおじさんとペロンジのなぞ』たかどのほうこ作 にしむらあつこ絵 (2008.12偕成社)

トランプおじさんは哲学者で動物の言葉がわかる少々変わり者のおじさんです。犬1匹とともに村はずれのガタピシした家に住んでいるし、ちょっと理屈っぽいところもあります。人間の新聞を5紙、動物の新聞も3紙もとっていて、朝、新聞を読むだけだって大変なのです。そんなとき、もぐらクラブの集金にきたもぐろうから、新聞の字をなめとってしまうペロンジの話を聞いて、にわか探偵としてトランプおじさんが謎に立ち向かいました……。のんびりと進んでいくお話。チャーミングでおっとりとしたイラストの魅力にも引っ張られ、読み進むと子どもたちの仕業とわかったあとにまたどんでん返しが。謎解きとしてはあっさりとしているが、物語の語り口を楽しむ本と言えようか。新聞に夢中で話を聞いてもらえないのがさびしくて、新聞が来ても読めないようにしてしまおうとするもぐらの子どもたちの気持ちは、うちの子にはわかるだろうな。しょっちゅう猫みたいに新聞のうえに乗っかって、ちょっかいだしてたもの。


『ひらがなだいぼうけん』宮下しずか作 みやざきひろかず絵 (2008.11偕成社)

もじがおしゃべりしたり、ぼうけんしたりする物語3編が入った連作集。開きっぱなしになったページから、もじが夜中に飛び出して、おしゃべりしているうちに、なんだかけんかみたいになっちゃって、くがひっくりかえってへになったり、さだかちだかわかんなくなっちゃったり。ひらがなを純粋に形として見て、おはなしにとりこんでいったのがおもしろい。鏡文字を書いたり、上下がひっくり返ったりしていた幼い子のひらがなの愛らしさを思いだすとともに、そういう子どもの感覚を物語の核にもってきたのが楽しい。本にかかったジュースやこぼれたクッキーのかけらをとりにきたありたちに、文字まで連れて行かれてしまったり、「へのへのもへじ」といっしょにいろんなかおになるかおもじをさがしたり、ひらがなでこんなにたのしくあそべるなんて、びっくり。イラストの入り方も工夫されていて、低学年の子どもが楽しく手に取れるようになっている。子どもと一緒に読みながら、じを探したり、読んだあと、じを落書きしたりしてあそびたくなってしまう。


『フングリ コングリ 図工室のおはなし会』岡田淳 (2008.10偕成社)

図工室にやってくる小さな生き物たちに学校での不思議なお話をするわたし。6つのお話はそれぞれ1年生から6年生の子どもが主人公となっている。「フングリコングリ」は人差し指と親指を使って順番に指を伸ばしたり、くっつけたりしていくと手がどんどん上へのぼっていく手遊びのこと。どんどんのぼっていって身体まで浮いてしまう不思議体験を出来るかも、を思わせるような親しみやすさで物語る。同様にからだがすきとおって透明人間になってしまった2年生のはなしや膝かっくんをするはめになった3年のかっくんのはなし、不思議な場所にはいってしまった4年生の寺西くんのはなし……。学年があがるにつれ、不思議の後味は少々メッセージ性が強くなり、フングリコングリのあっけらかんとした楽しさは減ってしまうのだけれど、それもまた学校を舞台にしているからか。


『シェイクスピア物語集 知っておきたい代表作10』ジェラルディン・マコックラン著 金原瑞人訳 ひらいたかこ絵(1994/2009.1偕成社)

優れたストーリーテリングで毎回、驚かせてくれる著者が、シェークスピアを語りおろす。上手く物語のなかに組み込んで、有名なセリフを印象深く記憶させ、現代の子どもにもシェークスピアの時代が思い浮かべることができるように言葉を補い、キャラクターをしっかりを見せつけるように物語を削り込んでいる。ロミオとジュリエット、ヘンリー5世、夏の夜の夢、ジュリアス・シーザー、ハムレット、十二夜、オセロ、リア王、マクベス、テンペストの10作はなるほどイギリス人の教養の芯となるものだろう。だからこそ子どもに手に取りやすい形で手練が刊行するわけだ。これを日本語で手にするのは高学年から中学生くらいか。大人だって、しっかりこの10作を観たり読んだりしている人は多くはないだろう。物語仕立てのものにしては、舞台の雰囲気を味わうことができる本書は大人にもお勧め。


『トビー・ロルネス2 逃亡者』ティモテ・ド・フォンベル作 フランソワ・プラス画 伏見操訳 (2006/2008.10岩崎書店)

大きな木一本を全世界と思って暮らしている小さな人たちの物語。両親をとらえられ一人、大木の下枝でひっそりと生きているトビー・ロルネスは、追っ手を避けて、洞穴に4ヶ月もすみ続け、両親を助けるために刑務所に忍び込むことになった。そして、それが無駄に終わったとわかったとき、唯一の世界と思っていた大きな木から、落ちてしまう……。ロルネスの物語には、彼自身の謎の他に、大きな木の謎、他の民の謎、ともだちの謎など語られるほど、謎がいくつも出てくる。異文化との出会いとそこで自分の居場所を見つけるさまなど、1作目とはまた違った観点で物語が動いていく。1作目の舞台となった大きな木では状況がまた変化していて……、次へ次へと気になってしまう物語の力強さが心に残る。


『ハロウィーンのまじょ ティリー』ドン・フリーマン作 なかがわちひろ訳 (1969/2008.9 BL出版)

サーフボードほうきに乗って、にっこりしていると、ダメ魔女なんですって。満月のきれいな夜にうっとりにっこりしていたティリーはにっこり顔が戻らなくなってしまい、ワッホー島のワヒワヒ先生に見てもらってもなおらず、魔女学校で勉強し直すことに……。楽しいハロウィーンになるためには、恐ろしい魔女が不気味にくらい夜をほうきに乗って飛び回らなくならないのに! と思い至ったティリーは、このままではハロウィーンの女王とはいえないと、イメージどおりの意地悪でコワ〜イ魔女に戻れました。魔女もいつも恐くて意地悪じゃないんだな。もし、魔女がにっこりしていたら……というちょっとした想像から、こんなにおかしな物語を作ってしまうフリーマンの力技。MOP TOPなどの愉快なお話が楽しめる絵童話もこれを機会に翻訳してほしいな。


『フェリックスとお金の秘密』ニコラス・ピーパー作 天沼春樹訳 (1998/2008.7徳間書店)

12歳の男の子2人と女の子1人が夏休みに芝刈りやパンの配達を手伝ってお金を儲けたり、それを元手にして鶏を買って、卵を販売したり、株の売買をしてお金を増やしていく。その過程を経済の法則にのっとって具体的に説明し、物語に落とし込んでいるところが本書の特徴。けれども、子ども向けの経済書というよりは、一夏の冒険物として、また家庭の問題をきちんと子どもに開いている児童文学としてのおもしろさを感じさせる。いろんな大人が登場し、彼らがきちんと子どもに向き合っているところがよい。そこが、オーソドックスなドイツの児童文学の流れを汲んでいるように思われる。


『危機のドラゴン』レベッカ・ラップ作 鏡哲生訳 (2005/2008.5評論社)

『孤島のドラゴン』の続編。マヒタベルおばさんの所有する島を再び訪れた3人きょうだい。3つの頭の竜に、また会えてうれしい子どもたちだったが、見知らぬ者たちが上陸し、何かを探している様子を目にする。もしかして竜を探しているのでは……と子どもたちは、おばさんと連絡を取りながら、その危機をのりこえていく。3つの頭の竜がそれぞれお話ししてくれた3つの出会いは、子どもたちの指針となり、ドラゴンの言葉は読者にも納得される。


『おばけのジョージーのハロウィーン』ロバート・ブライト作・絵 なかがわちひろ訳 (1958/2008.8 徳間書店)

はずかしがりやでかわいいおばけジョージーのお話3作目。日本でも最近馴染みの出てきたハロウィーンのお話。アメリカではおばけがつきものの季節のお話だけれど、今だからこそやっと訳せたという作品といえるだろう。今回ジョージーは、ハロウィーンの仮装をした子どものたちの前に姿を現す。みんな、本で見たジョージーがいたと大騒ぎするのだが、家主のホイッティカーさんだけは気がつかない。読者の子どもたちは、見つからないかしらとドキドキしたり、ネズミたちとこっそりお祝いする姿にニコニコしたり、毎日のお仕事を忘れない姿に安心する。


『はるは はこべの はなざかり』二宮由紀子作 村上康成絵 (2008.7 理論社)

「あいうえおパラダイス」の6冊目。は、ひ、ふ、へ、ほ、を頭にした言葉でそれぞれ書かれている5話を収録。ハリネズミくんがハツカネズミちゃんと結婚したり、へっぴり虫がヘビ大王をへでやっつけてしまったり、何ともナンセンスなお話がおかしい。ページのめくりがお話の展開とぴったり合っているから、ひょんな風にお話が転がっていったり、同じ言葉が繰り返されたりというリズムがおもしろい効果を上げている。こんな風に言葉と遊ぶことができるってことを、子どもたちに知ってもらいたいな。


『ゼルダとアイビー』ローラ・マギー・クヴァスナースキー作 小島希里訳 (2006/2008.7 BL出版)

オールカラーのイラストで小さなお話が3つ入った幼年童話。キツネの姉妹の日常からちょっとした出来事を物語にしている。おとうさんの作るきゅうりサンドを食べるのがいやになって、庭のしげみに家出してしまうお話。タイムカプセルに自分の一番大切な物を入れようとして、やっぱり気になって取り出してしまうお話。適当に作っていた魔法の薬がひょんなことからお姉ちゃんのひらめきジュースになって、役に立ったお話。たいした出来事ではないのだけれど、ちょっとしたきっかけで、気分が変わって、物事が進んでいくようになる様子を楽しく描いている。


『いぬうえくんがわすれたこと』きたやまようこ作 (2008.7 あかね書房)

のんびりやのくまのくまざわくんとしっかりしたいぬうえくんの毎日を描いたシリーズ5作目。本作では記憶というものを真摯に考察している。記憶のしまい方が人それぞれであることや、同じことを記憶しているようだけれど、大事に思って良く覚えている点が違ってしまうことがあること、夢を覚えているのはなかなかに難しいこと、覚えている約束のことなど、くまざわくんは困りながら、いぬうえくんはクールに自分の方法を全うしながら、説明してくれる。かみ合っていないようで、お互いに自分の大切な記憶を増やしていけるような生活をしている2匹は幸せ。この2匹の対話から、日常の中から考察される記憶の不思議さにはっとさせられる読者も。


◯ガイドブック

『キラキラ応援ブックトーク 子どもに本をすすめる33のシナリオ』キラキラ読書クラブ編 (2009.3 岩崎書店)

学校での読み聞かせのガイドブックはずいぶん刊行されてきたが、ブックトークだけで1冊のガイドになっているのは、初めてではなしかしら? しかも、テーマを決め、本を選び、お話をしていくという、ブックトークそのものをシナリオ化して33例ものせ、絵本から読み物まで396冊の紹介までされている。学校によっては高学年で読み聞かせはなんだから、ブックトークでもお願いしますよ、なんて簡単にふってくるところもあるとか。そういう状況のなかでは、本書のような手取り足取りのガイドブックも必要になってくるというものでしょう。シナリオはそのまま使っても良いし、これをもとに自分の言葉にしていったり、実演しながら改良していったりしてほしいと書かれているのが良いと思った。

ブックトークをするのは荷が重いと思う方にも、本書は有効。テーマや対象年齢に合わせ、たくさんの本を知ることができるからだ。第1章の「ブックトークとは」では、いかにして本を選んでいくかというコツが書かれている。読み聞かせをするにあたって選書の難しさを挙げる人が多いが、そういう人への指針になるだろう。

15ページに書かれている「ブックトークは言葉の力で子どもたちに本の世界をかいま見せることです」という項には、<本について語るには日常のくだけた言葉では十分ではありません。その本に見合っただけの言葉や表現が求められます。それにはアドリブで話すのではなく、じっくり考えたシナリオが必要なのです。>という一文がある。これは、深く読むということを大人にうながしているのだと受け取った。ざっと読んだ印象で、簡単にお話をまとめ、コメントしていくのではなく、どこがいいのか、何を語ろうとしているのか、しっかり読み取って手渡してほしいということなのだろう。読み手が浅くなれば、作られる本も浅く、軽くなるものなのだ。

ブックトークというと集団への語りかけというイメージが強いが、目の前の一人の子のために、本を紹介するということも多々あるだろう。図書館で、お家で、クラブで……

そういう視点で選ばれたリストも掲載されている。絵本はどうしてもイメージ重視で、特に最近のものはストーリーを軽視しているか、極端にテーマ性が高いか、大人のノスタルジーに乗っかって作られたものが多いので、純粋に幼い子どもが楽しめるものが少ないように思われる。そういう時期こそ、耳で聞く幼年童話を一緒に読みたい。聞く耳の出来た子なら、字を不自由なく読める学齢になれば、字から声が聞こえてくるようになるだろう。中学年、高学年とどんな本に出会わせたら良いのかわからないという声を聞くにつけ、本書3章の「個人に向けたブックトーク」を読んでもらえればと思う。

ガイドブックがいかに優秀でも、これにおんぶにだっこでは、実際の活動はすすまない。この本を踏み台にして、目や手や耳を使って、コツや知恵を自分の手で獲得してくことが大事。

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