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『きつねフォスとうさぎのハース 南の島へ』出版に寄せて、野坂悦子さんから原稿が寄せられました。(ひこ)

皆様へ
Vos en Haasシリーズの第三弾、『きつねフォスとうさぎのハース 南の島へ』が6月に上梓されました。今回、2ひきは、冬をさけるために南の島をめざし、商売上手のロブと出会います。「ただで のぼってくれるのは、お日さまだけ」といった言いまわしには、昔から商売熱心なネーデルラントの横顔がちらりと見えますし、「人魚さん」(?)や、「もしもしのはこ」(携帯電話??)まで、にぎやかに登場するこの物語を、どうやってしめくくるのかは、読んでのお楽しみです。日常と非日常を行ったり来たりする、現代のおとぎ話「フォスとハース」の魅力を、潮風とともに存分に味わっていただければ幸いです。

 なお、以下は、ベルギーに住む作者を訪問したときの印象記です。こちらも、あわせてお読みいただければ、うれしく存じます。皆様方の、ますますのご活躍をお祈りして。(野坂悦子)

2008年10月X日 曇天、そして霧雨。

今日は、『きつねのフォスとうさぎのハース』(岩波書店)の作者、シルヴィア・ヴァンデン・ヘーデさんのお宅を訪問する日。アントワープを出た列車は、フランドルの農村風景の広がる曇天のもと、一路、古都ブルージュへ・・。

駅で待ち合わせたシルヴィアさんは、ショートカットの、紫色のセーターがよく似合う人だった。黒っぽい髪、黒っぽい瞳の顔には東洋的な雰囲気がある。1961年生まれだという。初めてお会いしたのに、学校の親友に再会したような、懐かしい気持になった。

「子ども時代には、あまり読むものがなく、とにかく漫画をたくさん読んだの。『タンタン』のシリーズとか、オランダ語圏で長く人気のある『ススケとウィスケ』とか」と、シルヴィアさんはいう。

確かにベルギーは、漫画文化の伝統で知られる国。シルヴィアさんの生まれ育った背景が、歯切れのいい会話が重なる、スピード感ある文体を生んでいるのかもしれない。

ベルギーは、カトリック信者の多いことでも知られる国だ。シルヴィアさんもさまざまな宗派を経て、今はカトリックの教会に通っている。

「子どものころは、自分のことよりまず人のことを考えるように、しつけられたものよ。カトリックの伝統かしら。でも今のベルギーの子どもたちは、“私、私”って、自分のことばかり考えている。それがまだ身についていないせいで、自己中心的に見えるわね。オランダの人たちは、昔から“私、私”だったから、子どもたちの主張がとても自然。ただ、オランダ人はまず自分のことが頭にあって、とにかく率直だから、思いやりがないように感じられることもあるの」

「オランダとベルギーのオランダ語圏は、むかしは表現にずいぶん違いがあった。でも、最近は言葉の差があまりなくなっているわ。インターネットの影響もあるし・・・オランダとベルギーだけじゃなくて、世界中の子どもたちの感覚が近づいているんでしょうね」

お話好きで、きびきびと動きながらお茶をいれる姿が、どこかのだれかに似ていると思ったら・そうか、わかった、作品に出てくる「うさぎハース」に似ている! 初対面なのに、懐かしく感じられたのには、そんな理由もあったようだ。

『きつねのフォスとうさぎのハース』の原書には、言葉遊びがとても多い。同じ発音なのに、オランダ語では二つ表記がある「ei」(“たまご”の意味がある)と「ij」の違いを、「日本語ではどう表現したの?」と、シルヴィアさんは興味津津だ。「フランス語版では、同じ発音にしようと、mon oeuf(私のたまご)をmon neuf(わたしの9)にしたのよ」といって、ほほえんだ。アイスランド語版も出ているそうで、それぞれの言語の翻訳を集めたら、言葉遊びの苦労話があふれるほど集まるはず。どうしてもその場で「遊べない」ときは、少し離れた箇所でも工夫して言葉遊びを入れるように、私は心がけている。三巻目に登場する「ゆうびん」は、たまたま、その場でうまくいった例だ。オランダ語では、flespost(ビン+郵便、ビンに入った手紙のこと)だったので、これだけは、なんの苦労もなく和訳することができたのだけれど・・。

居間で話をしたあと、今度は3階の仕事部屋へ。ドアをあけると、正面に机、机の前にはブルージュの町をみおろす小さな窓。「よい仕事をする人の仕事場には、机の前に窓がある」と、作家のお宅を訪問するたびに、いつも思う。シルヴィアさんも、その例にもれないようだ。

整理ダンスの上の、小さなガラスのショーケースがおいてあった。シルヴィアさんが電気のスイッチを押すと、鏡張りのケースのなかの蛍光灯がパッとつき、著作や銀の石筆賞などの賞品が、ずらりと並んでいるのが見えた。

そんなコレクションのなかに、自分で絵を描いたというカップがひとつ、まじっていた。きつねとうさぎの絵のうえに、書いてあった文章は「dit is vos, dit is haasこれがフォス、これがハース」・・たしか、これは物語の冒頭の一文! シルヴィアさんは、日本から来た私に、このカップを見せたかったのだろう。「この文が、『Vos en Haas』を生み出すきっかけになったの」と、うれしそうに話してくれた。

フォスとハースの、品の良いユーモアのある絵は、テー・チョンキン(http://www.thetjongkhing.nl/)が手がけている。テー・チョン・キン、テー・チョン=キンとも記されることもあるこの画家は、インドネシア系のオランダ人だ。日本ではエルス・ペルフロムが文を書いた『ちいさなソフィーとのっぽのパタパタ』(徳間書店)『わたしのほんとの友だち』(岩崎書店)の絵で知られ、最近、字のない絵本『ケーキをさがせ!』(徳間書店)でも人気が高まっている。

フォスとハースのお話を書いている最中に、版元のラノー出版のほうから、「絵はテーさんにたのみましょう!」と提案があったそうだ。ベルギー在住のシルヴィアさんは、オランダ在住のテーさんとはまったく面識がなかった。だから、くいしんぼうの「フォス」と働き者の「ハース」がこの姿で生まれてきたのは、実に幸運なことだった。そして、2000年に始まったこのシリーズが10年近く続き、HP(http://www.vosenhaas.be/)はもちろん、絵本版、DVD、月刊『フォスとハース』ほどの好評を博すことになるとは、当初だれも思ってもいなかった。

余談になるが、テーさんは、シルヴィアさんがカップに描いたきつねのイメージを生かして、その後の巻で登場する「どろぼうの甥っ子きつね」を造形してくれたそうだ。長年、オランダの美術アカデミーの教壇に立ち、大勢の絵本作家を育ててきたテーさん。フォスとハースに出てくる動物たちの優しさは、作家の人柄はもちろん、画家の人柄も反映しているにちがいない。

シルヴィアさんは、「犬」と「オオカミ」の出てくる新しい物語を、こんどは別の画家と組んで執筆中だという。どんな作品になるのだろう? これからも子どもの心に根ざし、本の世界をますます豊かに、楽しいものにする作品をたくさん創ってほしい。 

参考リンク:『きつねのフォスとうさぎのハース 南の島へ』―岩波書店 編集部だより
http://www.iwanami.co.jp/hensyu/jidou/j0905/115626.html

【絵本】
『とっても とっても あいたいの!』(シムズ・タバック:作 木坂涼:訳 フレーベル館 2009)
 これはこれは、なんとも素敵な絵本です。
 女の子が一人。
 毎日毎日思っています。遠くの人にあいたいなあって。
 だから、自分を郵便物にして届けます。
 おかしなお話っではなくて(おかしいけど)、人が人を好きだってことの暖かさを伝えます。
 誰に会いたいかより、まず、人と会いたい気持ちです。
 タバックの絵はもちろん、物語は本当に良いなあ。(ひこ)

『おとうさんの ちず』(ユリ・シュルヴィッツ:作 さくまゆみこ:訳 あすなろ書房 2009)
 原題は「How I Learned Geography」。
 シュルヴィッツの自伝的絵本。この原題はベタの意味でもありますが、その背後には歴史的必然が横たわっています。
 一九三五年にポーランドで生まれたシュルヴィッツ。三九年、戦争から逃れるために家族は現カザフスタンまで逃れます。
 これはその頃のお話です。
 難民として貧しく、食料調達もままならない日々なのに、ある日父さんが買ってきたのはパンではなく世界地図でした。みんなおなかがすいているし、お母さんにしてみれば子どもたちに何でもいいから食べさせてあげたいのに、お父さんときたら!
 でも、この地図が少年の日々を豊かにしてくれます。まだ知らない異国の町の名前。それよりなにより世界の大きさ! 少年は夢中で、使い古された便せんの裏に世界地図を写し描いて行くのです。
 これは自伝絵本でもありますかれど、反戦絵本にもなっています。
 なにも戦中の苦しい生活が描かれているわけでも、一番の犠牲者は子どもだ! と叫ぶ声もありません。いやむしろ、そんな時代だからこそ父さんは世界地図を買ってきて、そしてそのおかげで、「How I Learned Geography」なのですから、シュルビッツは戦時下であったからこそ絵本作家として誕生したともいえるでしょう。
 しかし、それでもやはりこれは反戦を訴えてきます。一人の子どもが世界地図のおかげで飢えや恐怖から空想逃避できたお話として。
 そして、そのことは、空想やその具現化である物語がいかに、人を救うかを端的に示していて、シュルヴィッツもまた、そのことを肌身で知っているから、作品を生み続けていたのだとわかります。(ひこ)

『いじわるな ないしょオバケ』(ティエリー・ロブレヒト:作 フィリップ・ホーセンス:絵 野坂悦子:訳 ぶんけい 2009)
 人は、特に近代以降は、自分という輪郭を必死に作って生きているのですが(キャラ立てを気にする昨今は特に)、そのための要素として「秘密」は欠かせません。でも「秘密」は輪郭を作ってはくれますが、本質的には「隠す」行為ですので、何を「秘密」にするかで、輪郭が変わってしまいます。ですから個々人が立脚するモラルが重要になってきます。そのために必要なリテラシーとは何か?
 この絵本は「秘密」に関するリテラシーを扱っています。
 といってもお堅い絵本ではありません。
 主人公のサラはママの大切な真珠のネックレスをバラバラにしてしまいます。怒られないかと、サラはそれを隠します。と、「ないしょオバケ」が現れるようになり・・。
 「秘密」はいけないとかの脅しではありません。むしろ「秘密」はもっていいのですよと、わかるように描かれています。そこがいいですね。(ひこ)

『むこう岸には』(マルタ・カラスコ:作 宇野和美:訳 ほるぷ出版 2009)
 チリの作家が描く、境界線絵本です。
 大人たちは「わたし」に、川の向こうには変わった人たちが住んでいるから、渡ってはいけないという。
 ちゃんと向こう岸が見えるのに、近づいてはいけないという。
 ある日、向こう側に男の子。「わたし」も彼も気になる。毎日毎日、声はかけなくても心は通じていく。
 男の子がロープのついたボートをこちら岸へ流してくれる。「わたし」はそれに乗って川を渡る。
 知らない国の知らない人たちのいる岸へと。
 大人が、どうしても境界線を越える勇気がないなら、せめて子どもたちにはその勇気を教えてください。その勇気をサポートしてください。あとは子どもたちがきっと、新しい橋を架けて、境界線を消してくれるでしょう。
 絵本ならではのメーッセージの伝達方法をごらんあれ。(ひこ)

『リンカーンとダグラス』(ニッキ・ジョヴァンニ:文 ブライアン・コリアー:絵 さくまゆみこ:訳 光村教育図書 2009)
 『ローザ』のコンビによる新訳絵本です。
 今回はリンカーンとフレデリック・ダグラスのお話です。
 といっても、私、フレデリック・ダグラスを知りませんでした。こういうとき、読書ってありがたいなあって思います。
 元逃亡奴隷で、黒人解放運動に黒人側から強く運動した人で、リンカーンの友人となった人でもあります。
 そんなにややこしい展開があるのではなく、歴史の一片をちゃんと伝えてくれる作品です。(ひこ)

『ないしょの おともだち』(ビバリー・ドノフリオ:文 バーバラ・マクリントック:絵 福本友美子:訳 ほるぷ出版 2009)
 絵本の楽しい機能をなんて存分に活かした絵本でしょう。
 文の発想は絵がなくても成立するものですが、絵がないとおもしろさは百減してしまいます。
 どこにでもある女の子とその家族が左ページ。どこにでも住む女の子ネズミとその家族が右ページ。両者の窓となるのが床辺りに空いた穴。偶然一人と一匹は顔を見合わせることとなり、意識し合います。
 時は流れ、女の子は大人になり家を出て行き、ネズミの女の子も家を出て行きます。
 また時は流れ、女の子には娘が生まれ、ネズミの女の子にも娘が生まれ・・・・・・。
 バーバラ・マクリントックの絵は、五〇年代アメリカイラストの香りを漂わせつつ、友達と時間について、語っていきます。隅々まで遊び心いっぱい。楽しいですぞ。(ひこ)

『あめ じょあじょあ』(イ・ミエ:文 田島征三:絵 おおたけきみよ:訳 光村教育図書 2009)
 韓国発の田島が絵を担当した絵本です。
 雨は何故降るか、それは何をもたらすのかといった、科学絵本かと思えそうな雨の解説文に、まず驚きますが、田島の絵はそこに楽しさを発見したように青を基調にして、雨と子どもの姿を描いていきます。
 ここでの力の抜け方は、とても好きです。(ひこ)

『なきすぎては いけない』(内田麟太郎:作 たかすかずみ:絵 岩崎書店 2009)
 殺された子どもの想いを描いた内田が、今作では「私」の「死」を孫に語りかける言葉を綴ります。
 自分を好きだった孫は、自分の死の知らせを聞けばきっと泣くだろう。それは弱虫だと思う。でも自分は弱虫が好きだ。
 と語り始める内田の言葉は、初めて「死」と遭遇する子どもへの慈愛に満ちています。静かな、そして静かな。(ひこ)

『ソルティとボタン うみへいく!』(アンジェラ・マカリスター:さく ティファニー・ビーク:え 木坂涼:やく 理論社 2009)
 『ファーディ』シリーズのティファニー・ビークの絵は、相変わらず変にかわいくなく、かといって濃くもなく、淡々とかわいいです。
 ひっかからない人にはひっかからない淡泊な絵ですが、表情と仕草の豊かな表現をどうぞゆっくり堪能してください。
 犬のソルティとねこのボタンは仲良しで毎日遊んでいます。中でも海賊ごっこが大好き。で、ついに本物の海の冒険へと乗り出すのですが・・。
 ごっこあそびを本物の冒険へと変貌させる絵本の楽しさ。(ひこ)

『てのひら おんどけい』(浜口哲一:文 杉田比呂美:え 福音館 2009)
 パパとおさんぽ。
 道すがら色んなものにさわってみると温度が違う。暖かいの、ひんやりしているの。
 そうして物の温度について子どもが自然と興味を示していく段取りです。
 その意味でこれは確かに科学絵本なのですが、それ以上に優れているのは、自然から人工物まですべてが温度によって感知できることを描いている点です。
 つまり子どもはそうした方法でも世界を感知できることを理解できます。これ大事。(ひこ)

『はなおとこ』(ヴィヴィアン・シュワルツ:作 はむらひろし:訳 ジョエル・スチュアート:絵 偕成社 2009)
 「鼻」といえばゴーゴリの作品を思い浮かべますし、ゴーゴリに強く影響を受けた芥川のそれも思い出されます。
 記号としての鼻は私たちにとって愛憎半ばする存在です。おいしい匂いもいやな匂いも区別なく反応しますし、なれてくるといやな匂いもそうではなくなってきて、自分の好みが揺らがされることもあります。しかもその位置と形は、機能上仕方がないとはいえ、いかにも余計な存在として鎮座ましましています。
 ですから、先の鼻を巡る有名2作品は風刺に満ちているのでしょう。
 さて、この作品。何の説明もなく、鼻の穴から足が出ているだけの、まさしくはなおとことして登場します。そこが嬉しいですね。彼は風刺の道具ではなく、彼自身として振る舞ってくれます。
 ただし、鼻は鼻ですから、その落ち着く場所を探しています。
 物語は彼が居場所を探す旅を描きます。それをジョエル・スチュアートはちょっと表現主義風に不安を醸し出しつつ、とても愉快に表現します。これは見ないとつまらないので書きません。
 さて、彼の落ち着くところは?
 オチはきわめて現代的な物です。いやポスト現代か。
 「はなおんな」との出会いを読みたいなあ。(ひこ)

『びょういんに おとまり』(バラージュ・アンナ:文 ダーノッシュ・ユディット:絵 うちだひろこ:訳 風濤社 2009)
 病院に怖いイメージを持っている人は子どもに限らず多いと思います。私のように病院好きはかなりヘンなやつでしょう。
 この絵本は、扁桃腺の手術をすることになった子どもを主人公にして、病院ではどんなことが行われるかを「興味津々」をかき立てながら描いて行きます。
 これを読めば病院は怖くなくなるとは申しませんが、それでもこれだけ微細に紹介してもらうと、安心はできるでしょうね。
 八二年のハンガリー作品です。
 絵柄はチト古めですが、病院好きの私はとても楽しめました。
 そういえば、扁桃腺の手術して、お泊まりもしたなあ。(ひこ)

『山からきたふたご スマントリとスコスロノ』(乾千恵:再話 早川純子:絵 松本亮:監修 福音館 2009)
 ジャワ島の影絵芝居を、乾が再話し、早川がその味わいを版画で描きました。
 乾の物語は、反芻され咀嚼され整えられたであろうことがよく伝わる楽しい仕上がりです。
 また、絵は、インドネシアの影絵のすばらしさは近年よく知られるようになりましたから、その影絵と、早川の版画表現とを比べて楽しむことができます。
 早川は影絵に近い表現、たとえば表情はどのページもほぼ同じ(影絵だと全く同じ)ように描きますが、ほんの少し、ほんの少しだけ目や口元を変えて物語のダイナミズムを演出しています。(ひこ)

『ふしぎなナンターラ』(イルソン・ナ:作 小島希里:訳 光村教育図書 2009)
 『ぐーぐーぐー みんなおやすみ』で、その絵力を見せてくれたイルソン・ナの新訳です。今回も楽しいです。
 ぞうが見つけた物は、なんのための道具かわかりません。だからナンターラ。絵本は、ぞうが考えるナンターラの使い方を次々と描いて行きます。どれもこれもどうやら違うらしい。さて、ぞうは本当の使い方を見つけられるのか?
 ナンターラが傘なのを読者はみんなわかっていますから、正解を見つけるまでのぞうを応援したくなります。時にイライラします。そうした感情の動きを楽しんでください。決してぞうを馬鹿にしてはなりませんぞ。馬鹿にするとあなただって、何かのナンターラで馬鹿にされるよ。(ひこ)

『ピアノは夢を見る』(工藤直子:詩 あべ弘士:絵 偕成社 2009)
 家にあるノイマンのアップライトピアノの語りを工藤が詩化して、それをあべの絵が歌います。
 詩の絵本上ライブです。
 楽しいことこの上なし。でも、読み聞かせじゃあもったいないし、読書にはチト読書力がいりますから、どう見せるか、どう見るかは工夫がいるかな。
 絵本という表現メディアの拡がりと、その使い方を考えさせてくれます。
 ピアノのみならず、周りのさまざまなブツをこんな風に感じることができたなら、世界はもっと楽しく思えるでしょう。(ひこ)

『とりとわたし』(ケビン・ヘンクス:作 ローラ・ドロンゼック:絵 風木一人&ひびのさほ:訳 あすなろ書房 2009)
 「わたし」がタイトルで先にきてしまうのはいかがなものかとは思いますが、様々な鳥を「とり」としか呼ばないことで、様々な鳥、それは絵で表されるのですが、その様々な鳥が、まさに様々であることを強く印象づける発想は見事です。
 そのことによって、様々な鳥を知っている私たちは、それぞれの鳥についての想像を巡らせてしまいます。(ひこ)

『うちの近所の いきものたち』(いしもりよしひこ ハッピーオウル社 2009)
 四月から一年間、毎月都会で見ることのできる昆虫から鳥まで、様々な生き物をわかりやすくイラストで解説しています。
 なんの外連もなく、ただ地道にわかりやすくを心がけていますので、今なら七月のページをじっくり読んで、外に飛び出せるでしょう。(ひこ)

『かとりせんこう』(田島征三 福音館 こどものとも 2009)
 かとりせんこうは、蚊を落としてくれるのですが、これがまあ、蚊だけじゃなくて次から次へと色んな物を落としていくのが愉快愉快。
 最後は月まで落ちかけて、ちょうどかとりせんこうが燃え尽きて良かった良かった。
 これは子どもの発想を拝借して発展させた作品だそうです。
 でも、もちろん田島ワールドが横溢していて、田島と子どもの相性がいいのがよくわかります。そのことは昔から変わっていないなあ。
 この伸び伸び、伸びやかさが本来の田島なんでしょうけど、デビュー当時は他の期待をされて大変だったでしょう。岡林信康がそうであったように。(ひこ)

『黒い太陽のおはなし 日食の科学と神話』(寮美千子:文 佐竹美保:絵 小学館 2009)
 七月二二日に日本でも見られる皆既日食の科学絵本です。初版が一三日ですからなんかもうギリギリに出ているのですが、文を寮が、絵を佐竹が描いていて、なかなか魅力的な組み合わせです。
 読んでみると、寮は科学と神話を過不足なく融合して科学絵本+創作絵本の趣き。
 佐竹も、まず表紙からして今風の「科学」らしい描き方ではなく、科学が子どもの間でまだかっこよかった頃の、つまりはそこに物語が感じられた頃の雰囲気をたたえています。
 で、中には写真がゼロ。というのもこのコンビの姿勢が良く出ていておもしろいですね。(ひこ)

『うみべの くろくま』(たかいよしかず くもん出版 2009)
 「おはなし・くろくま」シリーズ三作目です。色合いも赤(一巻目)、緑(二巻目)ときて今作は青と、だんだん世界ができてきました。
 話はたあいのないものです。今回もくろくまくんがイルカに乗って南極でペンギンと遊ぶ、それだけです。ただ、ここには、潔くキャラクターを立てない、キャラのみ勝負の雰囲気があって、そこをどう育てていくかが今後の行方を決めるでしょう。(ひこ)

『ぴよぴよ』『かっきくけっこ』『あっはっは』(谷川俊太郎:さく 堀内誠一:え くもん出版 2009)
 三七年ぶりの復刊です。
 といっても、言葉の音をを楽しむ絵本ですからちっとも古びてはいません。堀内の絵も、それぞれで変えているのですが、どれもがポップアートとしての先見性があり今でもOKです。
 詩人谷川の資質がよくわかる三冊です。(ひこ)

『6わのからす』(レオ・レオーニ:作 谷川俊太郎:訳 あすなろ書房 2009)
 一九八九年に佑学社から出ていたものの改訂版。
 農民は、ミギをカラスの食べられるのを困っています。そこでいろいろ防御を。カラスはカラスでそれに対抗手段。
 農民は疲れ果てて、農作業を放棄します。すると麦ができないのでカラスは困る。
 両者困ったところで、フクロウが知恵を出して・・。
 甘い理想には違い有りませんが、たまにはこんな理想に触れてみるのも必要な時代かもしれませんね。(ひこ)

『あめかな!』(U.G.サトー 福音館 2009)
 グラフィックデザイナーであるU.G.サトーの、ポップな絵本です。
 カラーインクを白紙に垂らして雨粒やその流れなどを描きます。まあ、雨と思わなくてもいいのですが。ようは、見ていて楽しいならそれでOKです。自然にできるインクのにじみなどを小さな子どもがビビと感じてくれたなら、大OKです。(ひこ)

『また あした』(さかぐち えみこ 小峰書店 2009)
 さかぐちの画は、その浮遊感とベタ絵感がなんといってもすばらしい。それは、方向感を意識させる画とは違い、どこまでも決定を先延ばしにしたまま進んでいきます。
 考えて見れば子ども時代の日常とはこういうものでした。
 構造主義や、シュルレアリスムの画は、心理の不確定さを描くために、むしろ表現はそれまでの画と違って輪郭のはっきりしたものでしたが、さかぐちの画はその逆をいっています。
 子ども時代の日常(リアリズム)を留め打ちするために、浮遊感を出しています。(ひこ)

『願いごとのえほん 幸せを呼ぶ世界のおまじない』(ローズアン・ソング:文 エリサ・クレヴェン:絵 椎名かおる:訳 あすなろ書房 2009)
 一五カ国の願いを叶える行事を紹介しています。日本からは七夕です。
 一五カ国という数は、絵本のページ数の関係でそうなっているのでしょうけれど、読んで行くと、もっともっと知りたくなってきます。
 異文化への興味の入り口としては良い仕上がりの絵本です。
 こういうのを見ていると、絵本を中高生も気軽に読める環境を作って欲しいと思います。(ひこ)

『オルゴール誕生』(名村義人:文 風間憲二:写真 新谷雅弘:レイアウト 「たくさんのふしぎ292」 福音館 2009)
 今、日本中に結構あるオルゴール博物館を最初に始めた名村による、オルゴールの歴史語り文と、風間による美しい写真を新谷がレイアウトしています。
 かつてフランスでは『百科全書』が作られましたが、それは世界を整序して見渡すための近代的方法でした。その後、地球を緯度と経度で線引きし、北極から赤道までの千万分の一を一メートルとしたのも、フランス革命による旧秩序とは別の秩序を顕在化するためでした。
 とはいえ、それらは国や社会だけではなく、個人が物や事を把握する方法としても使われます。私たちはそうして物事と自分の距離を取り、他者との距離もわかり、理解し合います。
 この写真絵本は、オルゴールという物を知る道具なのですが、読んで行けば、それは歴史を知ることであり、人の発想の豊かさや変化を知ることでもあるのがわかります。
 たとえば私は、オルゴールのことを人並みに知っていて、そして時計の歴史も知っていますが、両者を結びつけて考えることはあまりしてこなかったのに気づかされました。
 言われてみれば、当たり前に気づくはずなのに。
 何故考えなかったかを考えることは、自分を知ることでもありました。(ひこ)

『じゃぐちをあけると』(しんぐうすすむ 福音館 2009)
 水をどう描き、そのおもしろさをどう伝えるかは、決して優しくはないのですが、この作品はごく身近な素材を使ってそれを表現してくれました。
 蛇口を開け、流れる水に手を、スプーンを、色々かざして、水が様々な流れ方をする様を描いています。
 地の文字をクレヨンにした効果も良いです。
 ただ、これを実践すると、この夏場、間違いなく怒られるなあ。風呂場で水を貯めながらいたしましょう。(ひこ)

『こんちゅって なんだ?』(アン・ロックウェル:さく スティーブ・ジェンキンス:え あべ けんいち:やく 福音館 2009)
 もう、タイトルそのまんまの絵本です。
 説明もシンプルに整序されていて、とてもわかりやすく、好感度大です。
 ここから色々想像たくましくしていくのですよ、子どもは。
 くもやサソリは昆虫ではないという指摘の仕方のもって行き方も良いので、間違っていた子どもは、え? となるでしょうね。そうした「え?」が好奇心の源泉。
 様々な紙素材を使って作る挙げた昆虫も見事です。(ひこ)

『とくべつなよる』(岡島秀治:ぶん 稲田努:え 福音館「ちいさなかがくのとも」2009.08)
 せみが長い長い地中生活から地上に出て、成虫になるまでの時間を描いているのですが、写真ではないので、ドラマチックにアングルを変えて、稲田は描いて行きます。土から這い出て、無事木の幹までたどり着くか、けっこうドキドキです。
 これはあくまで「かがくのとも」ですから、フィクションではないのですが、フィクションの萌芽をそこに見て取れますから、小さな子どもにはフィクションへの入り口としても使える作品です。(ひこ)

『おぼん ふるさとへ帰る夏』(吉田智彦:文・絵 福音館「たくさんのふしぎ」2009.08)
 吉田が小学四年生の夏休み、母親の故郷である山形へ旅したときの思い出を描いています。
 東京っ子が初めて見た山形は、不思議世界です。
 もちろんそれは、今、描かれていますから、読者にとっては過去の風景としての不思議世界でもあるので、二重に不思議世界でしょう。
 山形の子どもにとっては、過去の山形の風景です。
 場所や時を越えると違った物が存在するというのは当たり前ですが、子どもの頃は案外気付かずにいたものでした。
 そうした発見があるのがいいですね。
 ただ、文章が多すぎはしまいか?(ひこ)
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【児童文学】
『おり姫の日記帳』(チョン・アリ:著 花井道男:訳 現代メディア 2009)
 韓国の現代児童文学を十冊紹介してくれた現代メディアが、今度はYAを出してくれました。
 嬉しいです。
 ソウルに行ったとき、大手書店に児童書売り場で子どもたちが立ち読み、しゃがみ読みをしている姿に、「おお、日本ではもう見ることのできない風景じゃわい」と感動したことがありますが、YAなんかはどうなのでしょうね。その年齢まで読み続けているのかな?
 高校生女子チンニョの卒業までの日々を、一人称で描いて行きます。骨太の物語があるわけではなく、ただダラダラと流れる日常と、チンニョの思いや行動が綴られていて、メリハリのある物語になれている人にはチト辛いと思いますが、ダラダラ系が好きでしたら、お隣の国の若者風景を知るのに、良い作品です。
 チンニョの性格からも来ていますが、まあ何とむき出しの個性でしょう。日本の作品にはちょっといないですね。『猟奇的な彼女』に高校生の残酷さと繊細さと無神経さと傲慢さと可愛さと気の強さを加味してブースターをかましたような感じです。
 タイトルはもう一工夫欲しいです。(ひこ)

『アーサー王ここに眠る』(フィリップ・リーヴ:作 井辻朱美:訳 東京創元社 2009)
 アーサー王が出てくる物語ですが、伝説物語でも、騎士物語でもありません。気が荒いだけで山賊まがいの地方の一司令官アーサーを伝説の王へと仕立て上げていく男の姿を、従者となった少女グウィナの目を通して描いています。
 吟遊詩人のミルディンは、アーサーがイングランドを統一できる器であると見込んで手助けをします。彼はグウィナを水の精にでっちあげて、部下の前でアーサーが選ばれし者であるかのように剣を授けたり、詐欺まがいのことも平気でして、それを神話のように人々に語り聞かせます。物語はミルディンの武器なのです。
 アーサーをまだ知らない人々はもちろん、知っている人たちでさえ、本物のアーサーの行状より、たとえ嘘であってもミルディンが聞かせる心地よい物語の中の英雄アーサーの活躍を信じたがり、やがては本当に信じていきます。人は事実よりも、そうあってほしいと願う事の方を受け入れやすいのです。
 これは物語の持っている魅力や力について語った物語ですから、アーサー王伝説を知らない人でも楽しめますよ。興味を持ったら伝説の方もぜひ読んでください。(ひこ 読売新聞 2009.06)

『夢見る水の王国』(寮美千子 理論社 2009)
 新人オペラ歌手のマミコが海辺の小さな町に訪れます。少女時代、マミコは祖父さんと二人、ここにある別荘で暮らしていました。その縁で、新ホールのこけら落とし公演をすることになったのです。
 懐かしい別荘での一夜、マミコは不思議な夢を見ます。一人の少女が父王に捨てられ、泣き叫ぶ姿。彼女を守ろうとする謎の少年。いったい何?
 翌日、コンサートは大成功しますが、そのことより気に掛かるのは、少女の記憶です。
 マミコの祖父は妻が亡くなった後、残された娘を育てる自信がなく、全寮制の学校に任せてしまいました。今度はその娘が、まるで自分を育てなかった代わりに、孫娘を育てなさいとでも言うかのように、マミコを祖父に預けたのでした。そして祖父は昔、子育ての喜びを放棄したのが、なんと愚かだったかを知ります。
 一見幸せそうに暮らす祖父と孫娘。しかし・・。
 ここから物語はマミコをファンタジー空間へと連れて行きます。記憶を失ったまま彼女はミコとなり、彼女から分離したマコ(魔子)を追う旅が始まるのです。なぜ、マミコはミコとマコに分離してしまったのか? マコは何を探しているのか? ここは本当に別世界なのか? 失われた記憶と、この世界の関係は?
 謎は謎を生み、どんどん膨らんでいきます。導いてくれる魔法使いも、助けてくれる騎士も出てきません。読者はミコと一緒に、時にはマコと一緒に、この旅を続けていくしかないのです。
 謎解きがつまらなくなりますから、ヒントは「愛の記憶」とだけ言っておきましょう。
 様々な神話・伝説・昔話の断片や、想像力によって生まれた鮮やかなイメージが、これでもかこれでもかと押し寄せてきます。決して読者に親切な物語ではありませんので、転覆しないための舵取りには、多少の腕が必要でしょう。ですから、シンプルな冒険ファンタジーを好みの人は手を出さない方がいいです。
 でももうすぐ夏休み この急流を乗り切って、河口までたどり着けるか、挑戦してみる?(ひこ 2009.07)
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【資料】
『学校から見える 子どもの貧困』(藤本典裕・制度研:編 大月書店 2009)
 児童文学とは直接関係はないのですけれど、この国の子どもの置かれている現状を知るための軽いデータ本としてお薦めです。
 格差の生じたこの一〇年では、たとえば高校の授業料免除は三倍に増えています。つまり、教育費が払えない家庭が増大しています。と同時にこの国が教育にかける予算は経済協力機構三〇カ国で最低水準です。
 「子どもの貧困」ですが、これは「大人の心の貧困」そのものです。
 しかも、橋下大阪府知事に代表される、学力重視と、子どもの自己責任論の蔓延は、愚民政策ではないかしらんと疑ってしまいます。(ひこ)

『瀬田貞二 子どもの本評論集 児童文学論』(福音館 2009)
 様々な場所で書かれた瀬田の文章、インタビューを集め、記録と記憶に留めるべく刊行された本書は、なにより編集者の労作として賛辞を贈りたい。
 良くも悪くも『指輪物語』の訳者としてその名が知られてしまっている瀬田を、英米の児童文学と、日本のそれとに架橋するための思考を重ねた研究者の一人の位置に置き直すために、この書物は一つの役割を果たすでしょう。
 しかしまあ、瀬田さん、やっぱり色んなこと書いてるなあ。これを機会に『落ち穂ひろい』もぜひお読みください。(ひこ)