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絵本篇 ほそえ ○子どもってやつは・・・・ 『オルガ ストロングボーイTシャツのはなし』『ソフィー ちいさなレタスのはなし』イリヤ・グリーン作 ときありえ訳(2008/2009.3/5講談社) 『コンスタンスとミニ』『コンスタンス、きしゅくがっこうへいく』ピエール・ル・ガル文 エリック・エリオ絵 ふしみみさを訳(講談社2007/2009.4/6) 「すごいぞプンナちゃん」シリーズ『へそをまげてもピクニックのまき』『あっちこっちでへびさがしのまき』『ぼうけんダ・ダーンのひみつのまき』いとうひろし作 (理論社 2009.4/7/11) 子どもって純真でかわいらしくて大好き!また子ども時代に戻りたい、なんて、いけしゃあしゃあという人にあうと、この人のそばにはあんまりいないようにしよう、と思ってしまう。自分の小さかった頃を思い出しても、楽しかったことなど瞬間やぼんやりとした感じでしかおぼえてなくて、思い出すのはしょうもない失敗やらうつうつとした気分で、あんまりとくいでない状況からさっさと逃げ出すことのできる大人になって、なんと楽になったことかと思う。身近な子どもを見ても、かわいらしい、愛らしいと思う面ももちろんあるけれど、ああ、なんでこうなっちゃうかなあ、とか、頭ちっちゃいから、こんな風にしか考えられなかったんだな、とか、やっぱ、おばかさんなんだねえ、と思うことのほうが多い。それが、かわいくみえるといえば、見えるところでもあるのだけれど。 この3シリーズに出てくる子ども達は、まったく、子どもってやつは、ほんとにまあ、と思う子たちばかり。だからこそ、生き生きと生命感にあふれている。 オルガは自分だけが着ているTシャツをみせびらかしては、まわりの子どもに言うことを聞かせようとする。まわりの子もTシャツを手に入れたら、着てない子に強圧的に振る舞おうとする。だけどね・・というオチにぷふふっと笑えたら、みんな心に小さなオルガが住んでいるということになるだろう。ソフィーにいたってはどうしても芽のでない自分の畑に隣の子のレタスをとって植え替えてしまう。隣の子には嘘レタスの葉(プラタナスの葉)を差し込んで。こちらには良かったねえと安心のラストが用意されているが、それまでのソフィーの心の軌跡に親身に反応してしまうのが、子どもってやつだ。 コンスタンスの世界は、思っているものと実際とが彼女の目の中で全く合っていない。何もかも気に入らないってときは、世の中がこういう風に見えているんだろうなと思わせる絵本だ。こんなに良いご両親や、こんなに良い学校なのに・・・・と見られてしまうことこそ、コンスタンスには耐えられない。相反する絵とテキストを読み合わせ、そのギャップを楽しむ以上に、現在、子どもをしている人たちには、笑いながらも身につまされる所の多い絵本ではないか。 プンナちゃんはじぶんの思いが上手く伝わっていかない状況にあっても、えいっと行動してしまって、あららとなることが多いけれど、反省はしない。そのときは、それで良いと思ったんだから。そういう潔さが、子どもってやつは、と思う。ともだちの姿はカリカチュアされ、男の子は口さきばかりで情けなく、いっしょにいたいと思うともだちは、なんだか嫌いな子のそばにばかり寄って行く。ちっちゃくくじけてしまうことは毎日の中にたくさんあるけど、その場その場でえいっと反応してしまうおう! 子どもってやつの毎日はそういう風にできてるんだと思うし、そういう毎日ならうっすらと記憶にある。自分とまわりの状況との軋轢を感じつつ、精一杯対応していく中で、暮らしというものは実を伴うものになっていくのだろう。そのときの精一杯を、良い子でないとか、子どもらしくないなどと言われてしまっては、子どもは暮らしていきにくかろう。本シリーズは小さなお話がはいった幼年童話の体裁だが、絵の入り方は絵本的なので、こちらで紹介した次第。 絵本が良い子でない子ども像を描いたのは『もじゃもじゃペーター』が最初だけれど、教訓で押さえ込むのではなく、素直な良い子じゃない等身大の子どものそのままを認め、その心のエネルギーを発散させた絵本が描かれるようになったのは、ここ2、3年のことではないか。 ●そのほかの絵本 『雪の結晶ノート』マーク・カッシーノ/ジョン・ネルソン作 千葉茂樹訳 (2009/2009.11あすなろ書房) 雪はどのようにできるのかを豊富な写真と絵で教えてくれる科学絵本。一つとして同じものはないと言われる雪の結晶が、どのようなプロセスを経て、様々な形になっていくのかを簡潔でわかりやすく説明しています。ラストに雪の結晶を観察するノウハウがまとめられています。ノートと称される、軽やかさがなかなか良い感じ。これからの季節にぜひ、この本を持って観察してみたいもの。 『きぼう こころひらくとき』ローレン・トンプソン作 千葉茂樹訳 (2008/2009.11 ほるぷ出版) 写真家がテーマを定め撮影した写真絵本ではなく、絵本のテキストライターであり、編集者でもあった著者がセレクトした写真とそこに添えられたことばがこの絵本を構成している。希望の定義をして、その力の表れる先を写真で示すページ展開。タイトルにもなっている「世界に向けて開かれた心」という定義が一番作者の伝えたかったものではないか。いわゆるメッセージ本とはちがい、骨太に感じられるのは、選ばれている写真に負うところが大きい。何気ない日常を写しているように見えるものが多いが、その日常がどのような現実に裏付けられたものであるかを教えてくれるラストの文章を読めば、納得するはず。 『むこう岸には』マルタ・カラスコ作 宇野和美訳 (2007/2009.5 ほるぷ出版) 川の向こう岸には私たちとちがう人が住んでいるから、絶対行っちゃダメといわれている女の子。あるひ、向こう岸に黄色い髪の毛の男の子がてをふっているのが見えた。わたしも手をふって応えたら・・・・。ちがっているけれど、同じところもたくさんある。ちがうことばだって、なんとか通じることもある。そんな経験をした子らは、いつの日が川に大きな橋を架けること夢見るのだ。言葉少なな文章、この寓話をわかりやすく、暖かく描き出した絵。シンプルなメッセージをひそやかに、さりげなく伝えているのが好感が持てる。 『かしこいモリー』ウォルター・デ・ラ・メア再話 エロール・ル・カイン絵 中川千尋訳 (1927,1983/2009.10 ほるぷ出版) 没後20年経っても人気の衰えない絵本画家ル・カインの新たな絵本が読めるなんて! 森で道に迷い、大男の家にたどり着いたモリーと二人の姉。かしこい末娘のモリーの知恵で、三人は人食い大男の家を脱出し、お城に逃げ込みます。モリーのかしこさを見てとった王はモリーに大男の宝物をとってまいれ!と命じる。お姉さんと王子たちの結婚をちらつかせて。剣、さいふ、指輪と3度も大男から宝物を手に入れたモリーの活躍と繰り返される大男とのやり取りが、読んでもらう子どもにとっては楽しくうれしいシーンだ。オーソドックスな昔話絵本だが、モリーの現代的な造形と、自分と結婚する王子さまを見た時の逡巡がおもしろく、それはル・カインのイラストの力に負うところだなと思う。 『おくりもの』公文みどり (2009.10 玉川大学出版部) 切り絵で描かれた絵本。ご飯を食べることも、泣いたり、笑ったりすることも、学校へ行くこともできなくなってしまった少女のそばに、いつも寄り添っていたモルモットのみけちゃん。それでも、ある日、爆発したように泣き出して、そこからわたしはゆっくりと毎日の暮らしの中へともどっていった。長い年月をただただいっしょにいてくれた小さな命が、どんなに少女の支えとなっていたことか。いきづらさを抱える人に取って、無防備に寄り添って頼ってくれる者がいる暖かさこそ、<おくりもの>であるといっているのが、この絵本の救い。拙いとも思える切り絵だからこそ、固くなった心を持った人の動きのなさ、表情のなさが表現され、少女の切実が伝わってくる。 『1つぶのおこめ〜さんすうのむかしばなし』デミ作 さくまゆみこ絵 (1997/2009.9 光村教育図書) インドの昔話をインド細密画の手法で描いた絵本。デミはお話に合わせて、画風を変えるのが特徴の絵本作家。中国、インド、中東などアジアの民俗画を取り込んだ絵本を多数手がけている。欲張りな王さまはほとんどの米を召し上げていたのだが、「飢饉の年には、必ず皆に分け与えよう」と約束していた。けれども飢饉の年がきても米蔵を開けようとはしない。そこにこぼれた米を拾って、王さまへとどけた賢い娘がいました。褒美をとらせようと王がいうので、最初の日はひとつぶ、2日には2つぶ、3日には4つぶ・・・・というように前の日の数の倍、米粒をもらえるようにしたいと王さまにいったところ、快諾されて、さいごには10億粒に! 倍々に増えていく量のすごさ、見開きページの使い方のうまさ。4年生の読み聞かせに使ったら、ドンドン子どもが前のめりになってくるのがおもしろかった。 『かぜをひいたケイティ』シャーロット・コーワン文 ケイティ・ブラタン絵 にしむらひでかず訳(2005/2009.10 サイエンティスト社) 『おねつをだしたピーパー』シャーロット・コーワン文 スーザン・バンタ絵 にしむらひでかず訳(2005/2009.6 サイエンティスト社) アメリカの小児科医がホームケアで対処できることはどういうことか、病気の知識を親子で持つことで病院へのかかり方を見直すことができるのではないかと、思い刊行した絵本シリーズ。アメリカでも日本同様、診療に忙殺される小児科医の現状を変えるには、患者を減らすか、医者を増やすかしないと解決しない状況にある。子どもの様子を日頃からどのように見たら良いか、子どもの様子の変化をどのように伝えたら良いか、子どもの病気にあわてないで対処する方法を絵本というツールで伝えることで、子どもを取り巻く生活、子どもを見守るということの意味を自ずと保護者が知ることになるのが、絵本の強みである。いわゆる医療情報にアクセスするだけだとその場その場の状況に振り回されがちだが、子どもというものは(そのほかのものでもそうだけれど)断片ではなく、流れの中でより見えてくることの多いものだから、そういう目を日頃から持つことが大切なのだと思う。発熱のはなしはカエルが、風邪はシロクマが登場して、病気の経過とそのときの対処を教えてくれる。巻末には日本の実情にあった病気に対するQ&Aつき。 『ネズミちゃんとおまつりのふうせん』バレリー・ゴルバチョフ作絵 なかがわちひろ訳(2009/2009.10 徳間書店) 幼い子の気持を大切に描くゴルバチョフの絵本。今回は小さなネズミちゃんがどんなにお祭りにわくわくし、その楽しい気持をみんなを分かち合おうとして、びっくりに巻き込まれてしまうかを、丁寧に描いています。表情豊かな動物たち、のんびりゆったりとしたお祭りの様子、ラストのどきどきと安心がこの作家の持ち味を存分に発揮して楽しい。 『ブルンディバール』トニー・クシュナー再話 モーリス・センダック絵 さくまゆみこ訳(2003/2009.11 徳間書店) センダックがナチスのテレジン収容所で子ども達によって演じられたというオペラを絵本化している。センダックのオペラ好きは有名で自ら舞台美術や衣装を手がけたものもあり、それを絵本化したものに『くるみわり人形』(ほるぷ出版)がある。本作では子ども達や大人たちのセリフを吹き出しに入れ込むことで、画面を愉快でポリフォニックなものにしている。このオペラ自体はCDで聞いた限りでは、子ども達の合唱パートが楽しくいきいきとしたものなので、それはセンダックの描く子ども達の姿によく表れていると思った。子ども達が力を合わせ、どうぶつが知恵を出し、それに大人が協力して、悪者を退散させる展開は痛快。でもラストページで、テレジン収容所での催し物チラシに上書きされたブルンディバールの手紙を読めば、悪いやつが消えても、また別のやつが現れるということが、舞台の上でのはなしでなく、現実と地続きであることを読者に伝えている。これはこの絵本の作者たちのメッセージだ。迫害されたり、搾取されたりすることは、まだ世界中に残っている状況だから。 『ラストリゾート』ロベルト・インノチェンティ絵 J.パトリック・ルイス文 青山南訳 (2002/2009.9 BL出版) 想像力をなくしてしまったという絵描きが迷い込んだのは海辺にぽつんと一軒建っている小さなホテル。そこにはお話の中から抜け出したかのような不思議な人々がとまっていた。片足が義足の宝探しに夢中な船乗りや木の上にすむ紳士、墜落した飛行士などなど。すぐ、あの人か、とわかる登場人物もいれば、なじみのない人もいる。それは巻末にあるあとがきを見てみると良い。精緻なイラストレーションで魅了するイノチェンティならではの遊びのある絵本。 『はなおとこ』ヴィヴィアン・シュワルツ作 ジョエル・スチュアート絵 ほむらひろし訳 (2002/2009.6 偕成社) 鼻が自分の意志で動き出す話といえばゴーリキーの「鼻」を思い出してしまうが、この絵本の「はなおとこ」は自分にぴったりの場所を探しに世界中に出かけていく。図書館に行ったり、レストランに行ったり、うみのそこにもぐったり・・・・でも、どこにも自分の場所がないような気持がして、お医者さんにいくのです。お医者さんに「あなたのいるところがせかいのまんなかになるんです。あなたははななんだから」といわれて、納得するはなおとこ。振り返ってイラストを見直してみると、はなおとこのいる場所はいつも真ん中で、きちんと人の顔としてみられるように描かれていたのです。なんと、絵本的なアイデアでできた本でしょう。こたえはいつも身近なところにあるのだけれど、その結末を驚きとして納得できるように作るのが作家の腕の見せ所。 『願いごとのえほん〜幸せを呼ぶ世界のおまじない絵本』ローズアン・ソング文 エリサ・クレヴェン絵 椎名かおる訳 世界15カ国に伝わる願掛けの方法を見開きで教えてくれるいままでにない知識絵本。おまじないはその国の信仰や民俗風習に深く関わってくるもの。クレヴェンの暖かみのある優しいイラストと端的に説明した文章が興味を引きます。さらに詳しい説明は巻末にまとめられています。世界中の子ども達が願い事をして、良い日を暮らせますように、幸せでありますようにと思う、その気持は皆同じであること。それはどういう世界を目指していけば良いのか、ということまで思いめぐらせるようになる、きっかけとなれば良いなと思います。 『うちの近所のいきものたち』いしもりよしひこ (2009.6 ハッピーオウル社) 都会に生きている身近な虫、鳥、カナヘビやかえるなど、見すごしていたり、見ていても種類までは知らなかったりする生き物について、1年を通してどんな風に観察できるかを紹介した絵本。こういう本で自分の身近な自然を再発見することが、自然に親しんだり、大事に思ったりするきっかけになるのだと思う。いなかに行かないと生き物に出会えないと思っている人たちすべてに見てもらいたい。イラストできちんと描かれているからこそ、その特徴がはっきりわかり、自分の目で見つけやすくなっているところも見逃せない。子どもといっしょ散歩する大人には必携の書。もちろん、子どもが読んで楽しいし、わかりやすく作られている。蝶、てんとう虫、カメムシ、トンボの観察のようすや飼い方、冬には冬の観察の仕方など、自分の目で発見することでより深く知りたいと思う気持も育つはず。 『学校はカラッポにならない』鉢&田島征三 絵本と木の実の美術館 (2009.7 えほんの杜) 流木に色を塗り、組立てた立体物。良く見ると人のかたちみたい。それが学校の教室の中に座っているのが表紙。これは昨年の妻有アートトリエンナーレで注目された美術館の1部だ。十日町市の鉢集落にある廃校となった小学校の建物をそのまま使った美術館。生徒がいなくなって空っぽになった小学校に学校おばけがたくさんいて、学校の思い出を語り始める。それをつぶそうとする怪物が出てきたり、畑の野菜が育ってみんなのおいしい食事になったり、学校には生徒はいなくなったけど、たくさんの思い出やそれを形にしたアート、食事のできる場所などができて、人がたくさん集まるようになった。だから、最後の生徒だった子ども達、ここから飛び出していきなさい、と伝えている。この絵本の中で語られていることは、この美術館に展示されている物たちをつないでいる物語だ。実際に美術館に出かけ、展示されている物たちを見てから、この絵本を読めば、作者の思いがより強く伝わってくる。現代アートでは、そのものだけの喚起するインパクトだけでなく、なぜ、それが此処にあるのか、成り立ちを読み解くところから、アートとの付き合いが始まる。そのことにとても自覚的で、なおかつ個々の展示物をつないでみせるコンセプトの強さ(物語を作り出す力)が他の美術家と征三さんのこの美術館との違いだと思った。 『ホットケーキ できあがり!』 エリック・カール作 サーサー・ビナード訳 (1979/2009.9 偕成社) ホットケーキができるまでを絵解きした絵本。まず、小麦を刈り取り、粉にして、雌鳥に卵を産んでもらい、雌牛からぎゅうにゅうをしぼって、バターを作って、まきを持ってきて・・・・。ベスコフの「ペレのあたらしいふく」のように、材料の調達から見せてくれるのが楽しい。原書ではパンケーキとなっており、巻末にはエリック・カール自らフライパンを持った写真とともに究極のパンケーキレシピが載っていたのだけれど、それがなくてちょっと残念。 『みみかきめいじん』かがくいひろし (2009.9 講談社) ひょうたんが耳かき屋をしていて、耳かき草を育てているという設定でまずにっこりしてしまう。やってくるお客さんにあわせた耳かき草をとってきて、耳かきをするひょうたん先生。耳かきをされたお客が良い気持ちになってトロトロになってしまうのも良い感じ。この作家の持ち味はモノが動くところ。人形劇では、日常に使われるものに目鼻を付け、それを人形に見立ててお話を進めるという手法がある。そのアニメーション的な発想を絵本の形に上手く落とし込んだところにこの作家の特徴があった。アニメーションではモノが動き、変形するだけで驚きがあったけれど、絵本にする時にはモノが動き、変形するところに必然がないといけない。その必然が物語となるのだが、デビュー作にはお餅が動かざるを得ない必然が物語にきちんと描かれていた。必然をあまり必要としない赤ちゃん絵本での、その後の作者の活躍はよく知られている。いわゆる物語絵本ではある程度、展開がパターン化してきたきらいがあり、必然が飛躍して、納得するところまで持っていく、そういうものをこれから作っていくのではないか、作っていってほしいと思っていた矢先の急逝が残念でならない。 『かあさんをまつふゆ』ジャクリーン・ウッドソン文 E.B.ルイス絵 さくまゆみこ訳 (2004/2009.11 光村教育図書) 第2次世界大戦の最中、シカゴに働きにいった母さんを待つ女の子。黒人の女性が働くには大都会のシカゴに出なければ行けないという事情。そういうところはあっさりと、最愛の母さんを待つ、その心の動きに焦点を合わせる。しとしと降る雨の季節に出かけていった母さんは、何度手紙を書いても何にも連絡をよこしてくれない。季節は巡りさむい冬になった。わたしは小さな黒い猫を世話し、おばあちゃんはそれに軽く文句を言いながらも、つましい暮らしを続けていく。ラストはお母さんからのうれしい手紙が届くのだが、ページを彩る誠実な絵、詩的なことば、広がりを持った視点が印象に残る。しっかりとした読後感の残るあたたかな絵本。しっかりと人生というものを描いている絵本だ。 『ないしょのおともだち』ビバリー・ドノフリオ文 バーバラ・マクリントック絵 福本友美子訳 (2007/2009.5ほるぷ出版) まずタイトルが良い。ないしょの、と聞くだけで、なになにと耳と目をそば立ててしまう。マリーがすんでいるおうちには小さなドアがあって、ネズミの家族が住んでいました。その女の子とマリーが偶然目を合わせたところから、ないしょが始まります。二人が成長し、また家族を持ったとき、そこのむすめたちがまた・・・・。この絵本の楽しさは繰り返されることばと状況、細やかに描かれる二組の暮らしぶりにあります。同じようだけれど、ちがう絵。工夫に満ちた暮らしぶり。小さなところまでしっかりと見て楽しみ、そのリアリティが物語の驚きを支えてくれます。こんなともだちがいたらいいな、いるかもなと思わせてしまうのが、この絵本の魅力。 『ふしぎの国のアリス』メアリー・ブレア画 ジョン・シェスカ文 アーサー・ビナード訳 (2009.7講談社) 『シンデレラ』メアリー・ブレア画 シンシア・ライラント文 おかだよしえ訳 (2009.7 講談社) 2009年の夏に東京都現代美術館で開催されたメアリー・ブレア展にあわせ刊行された絵本。どちらもブレアがディズニー映画のために描いたコンセプト・アートを再構成して作った絵本なので、いわゆる絵本の作り方となっていない。登場人物の描き方はそれぞれのページによってちがうし、ページ数も50pをこえている。だからアニメ名作絵本と思って手に取ると、首をかしげる読者もいるだろう。物語もディズニーのアニメーションをもとにしているので、原作とはちがった場面展開になっているところもある。けれども、今回、絵に合わせて物語を再話したアメリカを代表するふたりの児童文学作家は、それぞれにこの物語はどういう物語であるか、と再定義しているところがいい。シンデレラは一度は失われ、また見つかった愛の物語だとライラントはいう。アリスではシェスカはチシャ猫に、だれでもどこかいかれていることろがあるんだ、と言わせている。再話の場合、よく知られてた物語のどこに力点を置いて語るか、何をそこから読み取るのかが作家の腕の見せ所といえるだろう。そういう意味では、この絵本は画集的な要素が強いとはいえ、きちんと再話絵本として読まれるに値する作品になっている。ブレアの絵はその色使い、勢いのある筆遣い、空間処理のすばらしさに目を見張る。ディズニー映画のアニメーションの描き方とはちがった絵にびっくりするはず。 『マクドナルドさんのやさいアパート』ジュディ・バレット文 論・バレット画 ふしみみさを訳 (1969/2009.9 朔北社) 「どうぶつにふくをきせてはいけません」「くもりときどきミートボール」で知られるコンビが描いたびっくりアパート。アメリカでマクドナルドさんと言えば農場の歌で有名だけれど、この絵本のマクドナルドさんは古いアパートの管理人をしている。奥さんの買ってきたトマトの苗がしおれてしまったのをみて、光が射すように生け垣を取り払ったのを手始めに、庭を畑にし、空き部屋に土をしきつめ野菜を育て始めてしまうのだ。とうとうクローバー畑を作って牛を飼うまでになってしまい、びっくりした住人たちは誰もいなくなってしまって、アパートは農場に! 工場育ちの野菜が売られている現代では、この絵本のアイデアは既に実現済みだけれど、天井からのびる人参の絵や人より野菜が好きになってしまったマクドナルドさんののめり込み具合はインパクト大で、絵本らしい驚きがある。野菜や植物のみ色付けされているのも楽しい。 『ヌーヌーとフローレンス』ヌーヌーおはなし アンヌ・マリー・ベロー写真 (1057/2009.7 カラーフィールド) ぬいぐるみのくまヌーヌーが語るお話に女の子とクマのぬいぐるみの生活を撮った写真がよりそうモノクロの写真絵本。ヌーヌーと女の子の毎日はいつもいっしょの楽しい日々なのだが、ある日、森へお散歩に行ったとき、ヌーヌーが一人で歩いていってしまったため、一晩迷子になってしまう。そこにずっとしてくれたのが野うさぎ。つぎの日、無事に女の子が探しにきてくれるのだが、こんどは野うさぎとの別れがつらくなってしまう。他愛のないお話だけれど、写真で語られるところが、日常と地続きのファンタジーとしておもしろい説得力を持つ。最近の写真絵本といえば、自然科学ものが多いけれど、むかしはこのような物語写真絵本が多かった。イーラの写真絵本も自然科学ものというより、物語絵本だったし、翻訳はされていないが、人形とぬいぐるみの写真で有名な「The lonely doll」もモノクロの物語写真絵本だ。写真で絵を描くという志向がアニメーションではなく、絵本というかたちで表現されていた時代というものがこの50年代から60年代にあったと思われる。 『エリーちゃんのクリスマス』メアリー・チャルマーズ作 おびかゆうこ訳(1956/2009.10 福音館書店) 「にいさんといもうと」の絵で知られるチャルマーズのデビュー作。エリーちゃんが森でモミの木を見つけ、家に帰って、ともだちのイヌや猫やウサギとツリーのかざりつけをします。すると、てっぺんにつける星が見つからず、エリーちゃんが一人で探しにいくことに。女の人に会ったり、森で迷ったりするのですが・・・・。絵もお話もシンプルで、愛らしい。このてらいのない、まっすぐな展開が小さな子の心にすとんと収まるのだろう。著名な編集者ノードストロームにあてたクリスマスカードがもとになった絵本という。 『ぼくとおにいちゃん』マレーク・ベロニカ文と絵 うちだひろこ訳 (1988,2008/2009.11 風涛社) ハンガリーの子ども新聞に連載されていたという漫画19話が入った絵本。漫画といってもセリフは隣ページに書かれていて、コマ絵とセリフを交互に見ながら読むのは、なかなか大変。セリフを読んでもらいながら、絵のページだけ見るというのがよいかも。お兄ちゃんとぼくの他愛無い毎日の出来事を愉快に切り取った小話でちょっとしたオチが楽しい。 『あいうえたいそう』木坂涼文 スギヤマカナヨ絵 (2010.1 偕成社) 今年もあいうえお絵本はたくさん刊行されたが、こちらはお口の体操から、頭の体操、からだの体操まで、まんべんなく筋肉を使うところがおもしろい。演劇部の滑舌練習のような意味のない音の羅列の楽しいこと。何度も声に出して遊んでしまう。次のページにはそれぞれの音を頭に持つことばが絵にかかれており、<あ>がつくのはなにかしら?と頭をひねる。(このページは自分でどんどん増殖させるのもおもしろい)わをん、できれいに終わったと思ったら、見返しでは振り付けが描かれていて、もう一度、最初のページを開いて、からだを動かし読むはめに。こんなに健康的な絵本もめずらしい。 『おばけやしきにおひっこし』カズノ・コハラ作 石津ちひろ訳(光村教育図書 2008/2009.9) おばけの住む家に引っ越してきたマージョリィとねこのオスカー。マージョリーは魔女だからおばけのつかまえ方を知っていて、みんなつかまえ洗濯機で洗ってしまう!きれいになったおばけたち、カーテンになったり、クロスになったり・・・・。オレンジに墨色で刷られたイラストは版画の手法で描かれている。英国在住の日本人作家のデビュー作。ポップで愛らしい絵本。 『ふゆのようせい ジャック・フロスト』カズノ・コハラ作 石津ちひろ訳(光村教育図書 2009/2009.12) 冬になると霜を運んでくるという妖精ジャック・フロストと冬中いっしょに楽しく遊ぶ女の子とイヌ。ゆきがっせんや雪だるま作りなど毎日、冬の遊びをしていると、春の使者スノードロップの花が咲いて、「もうはるなんだね」と声をかけたとたん、ジャックはふっと消えちゃった。ブルーと白の版画が凍てつく森の冬を美しく、すっきりと見せてくれます。 『まいごになった子ひつじ』ゴールデン・マクドナルド作 レナード・ワイスガード絵 あんどうのりこ訳(1945/2009.10長崎出版) マーガレット・ワイズ・ブラウンの別名義での作品で1946年コルデコット・オナー受賞作。あまりにもたくさん絵本のテキストを書いてしまうので、4つもの名前を使って、刊行していたワイズ・ブラウン。小さな黒い子羊が一人で出かけていく冒険心、お母さんや仲間が心配する鳴き声、羊飼いの少年が自分は役目をきちんと果たしたはずだと思いながらも、悩む姿。夜、どうしても黒い子羊が気になって、イヌと様子を見にいき、無事、ピューマから黒い子羊を救い出すまで、オーソドックスに展開されている。少年の歌う歌がお話の前と後ろに配され、導入と余韻を感じさせるように工夫されている。美しいが古風なイラストなので、なかなか子どもから手に取るのはむずかしいかも。よんであげれば、すぐ、子羊や羊飼いの少年に心を重ねるはずだが。 『いなかのネズミとまちのネズミ』イソップえほん 蜂飼耳文 今井彩乃絵 (岩崎書店 2009,10) 『ライオンとネズミ』イソップえほん 蜂飼耳文 西村敏雄絵 (岩崎書店 2009,10) 『オオカミがきた』イソップえほん 蜂飼耳文 ささめやゆき絵 (岩崎書店 2009,10) 誰でもがきいたことのあるイソップの寓話がそれぞれ1話1冊の絵本に。シリーズとしては5巻の予定。今までもイソップの絵本は翻訳物などではワッツのものがあったが、日本の作家でのものはなかったかも。あまりにもシンプルなお話で、絵本にするには場面数が足りなかったり、何か前後に付け加えないとお話として時間軸が見えなかったり、というところが絵本化のむずかしいところか。本シリーズではとりわけ、物語になにかを付け加えたりすることはなく、あっさりすっきり、こくこくとのむお水のような文章がきれい。イラストレーターのカラーの違いがシリーズを彩る。ことばだけでとんとんとんと進むスピード、あたまのなかで自分の絵がぱたぱたと動いていく様をおもしろがるのが、こういう小話の楽しみ方ではないかなと考えていたので、どうとらえたらいいのかなあと思ってしまった。しかし、はじめてイソップのお話に触れる子にはお話の種類によっては、絵本化は親切かと思う。 『いそっぷのおはなし』降矢なな絵 木坂涼再話 (2009.5 グランまま社) 1冊に「きつねとつる」「うさぎとかめ」「よくばりないぬ」「うしとかえる」「ひつじかいとおおかみ」「きこりとおの」「からすときつね」「ありときりぎりす」「きたかぜとたいよう」の9話が入っている。画家お得意のきつねを狂言まわしにして、9つのお話をゆるやかにむすびつけているのが絵本的でおもしろい。お話の構成(並べ方など)の妙と言えよう。1話は2見開きで構成され、テンポよくお話が語られる。今まで子どもと読んできたイソップのテンポというのはこういうかんじ。カラーのイラストとスクラッチのモノクロイラストが交互に入るのもメリハリが効いている。絵で見せるところとことばで運ぶところがよく考えられているのが、この絵本の強み。岩崎書店のシリーズを見てから考えると、絵本という形式はどうしても物語ってしまうものであり、時間の経過を必要とする。それは文章の量というよりは、絵のもつ情報量を読み取る時間がそれなりに必要になってしまうという理由もあるように思う。イソップの寓話は、やはり物語を語る時間をみせるのではなく、状況を切り取ってみせるコントみたいなものが多いのではないか。だからコマ漫画みたいなかんじのほうがテンポがあってるのかもしれないなと思った。 『トイちゃんとミーミーとナーナー』どいかや文 さかいあいも絵 (2009.10 アリス館) 白い子猫ミーミーと黒い子猫ナーナーがトイちゃんのうちにやってくることになったお話とトイちゃんのお家でのお話2つが入った小さな絵本。ふわふわのネコの毛みたいなフェルトアップリケや細かな手仕事が暖かみのある小さなお話と似合って、優しい読後感。小さないのちと丁寧に暮らす毎日。トイちゃんの小さくなったお気に入りのセーターが子猫たちのベッドにリフォームされるお話がすき。おかあさんもおばあちゃんもしっかりとトイちゃんを見ているのも。手芸的な手法で描くイラストが増えているここ2、3年ですが、絵本ではお話と技法がきちんとあっていて、必然であるのはこの1冊がはじめてではないかしら。 『けいとのたまご』いしいつとむ (2009.10 童心社) お気に入りのセーターが小さくなって着れなくなっちゃったというのは、小さな子を主人公にしたお話にはよくある設定。この絵本では、おかあさんが毛糸玉から靴下やセーターなどを作り出すのを知っているルリちゃんが、「けいとだまってたまごみたい。いろんなものがうまれてくる」と思ったところが絵本の芯になって、成立している。だから、一度はいやがったのに、お気に入りをほどいて毛糸玉にしていく様子に読者はほっとする。毛糸玉になればまた、新しい形になってルリちゃんのところへ戻ってくるのは、予想通りだからだ。良く見ている風景、よく知っている気持ちをきちんと描きながら、あっ、そうだね、と気づかせる表現があるかどうか。それが芯をもった絵本かどうかの分かれ目だと思う。 『とべ! ひこうきかぜにのって』北沢優子(2009.10アリス館) ぼくがはじめて作って飛ばした竹ひごグライダーが、思わぬ旅をしてしまうすがたをやわらかな水彩画のコマ割で描いていく。風景がどんどん変わり、木の枝に引っかかって数か月を過ごし、落ちて、拾われて、修理され、またぼくのところへ飛んで戻ってくる。せりふは見開きに、一言二言で、すべてグライダーのきもち。描き文字で人間や動物などの声がかかれる。右ページのの3分の1にはグライダーの飛んでいる位置をしめす地図が。むかし富山房で千住博が描いた『星のふる夜に』で子鹿の歩いている位置を地図で示していたのを思いだした。作者がこんなこと、あったらいいなというあたたかな気持ちを込めて、丁寧に描いた絵本。 『みつけたね、ちびくまくん!」デイヴィッド・ルーカス作 なるさわえりこ訳 (2008/2009.10 BL出版) 『かくれんぼジャクソン』の作家のもう一つの画風。クレヨンで一筆書きをしたようなシンプルこの上ない絵。なんにもすることがないやとつまんながっているちびくまくんは、おとうさんをおこして、お散歩に。ぼうを見つけて、ぽきんとおって、ふたりでそれぞれにペンにして、描いて冒険するのは「はろるどのふしぎなぼうけん」のよう。でもおとうさんと二人だから、もっと安心感のある感じ。そこがよいとみるか、物足りないと見るか。 『あかちゃんにあえる日』キンバリー・ウィリス・ホルト作 ギャビ・スヴァトコフスカ絵 河野万里子訳 (2006/2009.9 小峰書店) ポーランドの注目のイラストレーター、はじめての邦訳絵本。おばさんが赤ちゃんを産むことになったときいて、いつになったら会えるのかなと、近くの大人たちにきく女の子。おばあちゃんはキャベツの下から生まれるというし、おじいちゃんはコウノトリが空から落としてくれるって言うし、おじさんは高い高いはしごの上の方にいかないといけないなんて言う。一緒にしたいこと、教えてあげたいことをつみかさねて、季節がめぐり、やっとあかちゃんがうまれ、会える日がやってくる。あかちゃんを待ちわびる絵本は今まで何百冊も描かれているだろうが、本書ではユニークであたたかみのある大人たちの姿とそれをしっかりと描写することばが印象的。 『こうえんのかみさま』すぎはらともこ作(2009.8 徳間書店) おとなりのけんちゃんとあそびたくて、おかの上公園に虫取り練習に来たまあちゃん。すごく大きなトンボをつかまえたと思ったら、なかに小さな泣き虫のおじさんが座っていたのです。そのおじさんは公園の生き物たちを守っている<こうえんさま>なんだって。そのへんてこな小さなおじさんの話を聞いたまあちゃんは・・・・。こんなふしぎなことあるかしら? あったらいいなと思えてくるのは精巧なトンボ型飛行機の造形や泣き虫でいばりんぼの小さなおじさんのキャラクターがすっと心に入ってくるからでしょう。 『リンゴのたねをまいたおひめさま』ジェーン・レイ作 河野万里子訳 (2007/2009.7 徳間書店) お妃さまがなくなったあと、土地がやせ、乾いて草木も枯れてしまった国には3人の王女さまがいました。荒廃した国を治めるにふさわしいすばらしいことをした王女を跡継ぎとすることにする、と王さまが言いましたーー昔話のスタイルを借りて語られる国と心の再生の物語。なくなった王妃の残した宝箱に導かれて、小さな取り柄のない末のおひめさまがリンゴの種をまき、その姿に国民も続きます。緑がひろがり、王の心も晴れ、国は末のおひめさまに。最後はおねえさんたちも仲良く木の下で寝転がって夜空を見上げているのがさっぱりしていて、すてきです。 『こんた、バスでおつかい』田中友佳子作 (2009.6 徳間書店) 今回はバスに乗っておじいちゃんの家までおいなりさんを届けにいくこんた。乗るバスを間違えてしまい、お化けがどんどん乗ってきてしまいます。五つ目のバス停でおりると五つ目のおばあさんが出てきて・・・・。前作で人気者となったきつねのこんたのキャラクターを生かした2作目だが、物語の設定(おつかい)も出てくるもの(妖怪)もおんなじでは少し芸がないような。せっかくのキャラクターなのだから、こんたの暮らす世界をつかって、もっと物語を作って、どんどん展開していければいいのに。 『ともだちのしるしだよ』カレン・リン・ウィリアムズ、カードラ・モハメッド作 ダーグ・チャーカ絵 小林葵訳 (2007/2009.9岩崎書店) ペシャワールの難民キャンプでの体験をもとに書かれた物語。古着などをわけてもらおうと出かけた先で、青い花飾りのついた黄色いサンダルを片方だけ手に入れたリナ。気がつくともう片方をはいた女の子が。二人はこのサンダルをかわりばんこにはくことにしました。「ともだちのしるしだよ」と言って。難民キャンプでの子どもの暮らし。キャンプからよその国へ避難して安全な新しい家を手に入れる夢・・・・。物語は淡々としていますが、難民とはどういう人たちなのか、どのような暮らしをしているのかを、子どもにもしっかり伝わる言葉で綴っています。絵もとても誠実に描かれている。 『大きな大きな船』長谷川集平 (2009.8ポプラ社) 母さんを亡くし、父さんと二人暮らしのぼく。まだ二人の暮らしは浅く(父さんは長く単身赴任をしていた様子)、料理も上手くない。ぼくは大人びた物言いで「父さんに母さん役までやってほしいと思わないよ」とか「今の時代を好き?」とかいう。父と子の二人が話しているだけなのに、不在の母さんのいろんな姿やこれまでの家族の時間、これから二人が生きていく時代まで広がりを持って描かれているこの絵本の大きさは何だろう。近年、ワンアイデアをやっとこさっとこ形にしていたり、パターンに乗っ取って決まりきった展開をキャラクターが見せているにすぎない絵本が多いなか、32ページで短編映画を見ているような鮮やかな時間を切り取ってみせる本作は久々に絵本表現の大きさを感じさせた。<時代>なんていう言葉をこんなにもてらいもなく使える絵本作家はこの人だけだろう。 『少年の木〜希望のものがたり』マイケル・フォアマン作 柳田邦男訳(2009/2009.9 岩崎書店) 鉄条網で区切られたこっちは爆撃で破壊された町、向こう側は整然とした建物が並んでいるのが、パレスチナを思わせる。がれきのなかで見つけた緑の芽に水をやりつづけると、つるをのばし、葉を茂らせて、小鳥や蝶、子どもたちがやってきて緑の遊園地のように。ブドウには生命と豊穣のイメージがあり、それがこの絵本で描かれるブドウの木の不思議さを支えている。また聖書では神の慈悲を象徴するものとしてブドウは描かれており、そういうイメージをうっすらともって読むことで、鉄条網を見えなくするまで茂げ広がり、ついには永久になくしてしまえばいいのに、という少年の希望がかなえられるようにという作家の祈りにもにた気持ちを感じることができる。隔てられた二人が、互いに木を育てることで、二人の気持ちにも橋を架けていく。だからこそ、町に緑が戻り、鉄条網もなくなるのだとラストの絵が教えてくれます。 『マジック・ラビット』アネット・ルブラン・ケイト作 岡田淳訳 (2007/2009.9 BL出版) セピアの絵に山吹色の挿し色が効いたイラストレーションがおしゃれ。ぼうしのなかから飛び出す役のバニーが、手品の最中に町中に飛び出して、迷子になってしまった。いろんな足を見上げても、手品師のレイはいない。夕闇が迫り、道ばたに落ちていたキラキラ星を道しるべに走っていくと・・・・。他愛無いストーリーだけれど、愛らしく、切実なバニーの表情や細やかに描かれたイラストが優しい気持ちにしてくれる。 『リタとナントカ』『リタとナントカ うみへいく』ジャン=フィリップ・アルー=ヴィニョ文 オリヴィエ・タレック絵 こだましおり訳(2006/2009.7 岩崎書店) 鉛筆でシャラシャラ描いた線画にポイントカラーの赤を効かせたイラストがしゃれたテイストのフランス絵本。リタという女の子の誕生日に届いたプレゼントのナントカ。二人の出会いの日を描いたのが1作目で、2作目ではビーチでゴッコ遊びをする二人を描きます。ナントカが自立していていい感じ。シリーズ続行中。 『ソルティとボタン うみへいく!』アンジェラ・マカリスター作 ティファニー・ビーク絵 木坂涼訳(2009/2009.7 理論社) 犬のソルティは海賊のお話が大好きで、ネコのボタンは海賊のぼうしや旗を縫うのが得意。ふたりはいつも海賊ごっこをして遊んでいたのですが、ある日、海に向かい、貝殻の船に乗って冒険の旅に出ることになりました。ボタンはこわがっていたのですが・・・・。海が荒れ、ソルティはボタンに助けられたり、帰途の方法を考えてもらったりして、なんとか家に帰り着く安心のラスト。愛らしいビークの絵だから、二人の冒険もふんわりと互いを受け止める機会となっていて、ほっとさせる。 『はしるチンチン』しりあがり寿 (2009.5 岩崎書店) 3才のコウキくんのパジャマを着替えさせようとしたら、フルチンのまま外に駆け出してしまいました。お父さんも町の大人たちもみんなコウキくんをつかまえようとしますが、みなつかまえられず、ずんずんずんずんはしっていくのです。野原を抜け、大きな町を抜け、海を越え、外国に行き、戦地も超え、夜空の星とともに、大きな光の中へ・・・・。子どものバイタリティを走るフルチンの男の子に造形している。この展開のスピード感はさすがと思われたが、本作はテキストだけでも成立する作品ではないか。テキストのスピード感があればこそのラストなので、あまり絵本的なものとは思えなかった。子どもの何ともいえない底なしの生命感なら『どんどんどんどん』(片山健・作)のほうがラジカルでパワフル。 『どうしてどうして?』トニー・ミトン文 ポール・ハワード絵 アーサー・ビナード訳 (2008/2009.8 小学館) 目にするものなんでもを不思議に思うこぐまくん。「どうして、たいようはあっちもこっちもあかるくしちゃうの?」「どうしてもりのこみちはくねくねしてるの?」・・・・朝起きてから夜寝るまでのこぐまくんの質問に答えるのはおかあさん。よくあるパターンの展開なのだが、なかなか詩的なこたえもあり、哲学的な問いもあるのがおもしろい。丁寧に描かれた親しみやすいイラストと優しい語り口。 『ぼくのものがたり あなたのものがたり〜人種についてかんがえよう』ジュリアス・レスター文 カレン・バーバー絵 さくまゆみこ訳(2005/2009.8 岩崎書店) アフリカ系アメリカ人である作家が人種について子どもたちに語りかけるように書いた文章にカレン・バーバーが力強く鮮やかなイラストをつけている。皮膚の色や髪の毛の色や洋服などとっぱらい体の内側の骨だけになってみたら、みんなそっくりさんになってしまうよ。そんな包み紙で判断せずに、その人の名前や物事の好き嫌いなどその人自身の物語に耳を澄ませようよ。自分の物語を語りかけようよと作家は呼びかける。人はそれぞれに物語を持っているのだし、それを尊重する関係性はたがいに聞き合い、語り合うことにあると伝えようとしている。人種についてあまり意識をすることのない年頃の子どもたちにも、この作家の語りかけは伝わることと思う。人とコミュニケートすることの根本を語っているから。 『いいこだ、ファーガス!』デイビッド・シャノン作 小川仁央やく(評論社) かわいい子犬ファーガスと飼い主のやりとりがおもしろい。どんなにやんちゃをしても、いいこだね、と声かけられるファーガス。やりたい放題のファーガスを描くイラストに、手書き文字で飼い主の声が重ねられ、その状況のギャップに笑ってしまう、という風に作られているのがとても絵本的。絵本の中の存在に、あらあら、まあまあと困ったり、笑ったり、こんなことしないよと優越感を持ったりさせて、楽しませるシャノンらしい絵本。 『人間』考える絵本3 河合雅雄文 あべ弘士絵(2009.7 大月書店) サル学の大家が人間がいつ、どこで、どうして生まれたのかをサルの行動、社会、生態から考え導きだした物語に、あべ弘士がカラーのイラストをつけた絵本。人間であることの原点は家族という集団を作り、2本足で立って歩き、言葉を持つ霊長類だと著者は語ります。けれど、この3つは文明が進むにつれ、弱まってきているけれど、人間らしく生きるためにはこれを大事にしなくてはともいいます。ヒト化の問題を哲学でも宗教でもなく、生物学の目で語るところが新鮮。進化や文化についての視点をコンパクトにまとめている。 『子ども・大人』考える絵本6 野上暁+ひこ・田中文 ヨシタケシンスケ絵(2009.10 大月書店) 大人と子どもが対話して進んでいく絵本。本を進行していく役の大人の声。それに対応する子どもの声。他にも絵に合わせて発せられる大人や子どもの声。いろんな人の声(意見、考え、思い)が同時に聞こえるように構成しているポリフォニックなところが、いままでの「子どもと大人本」(五味太郎さんの一連のものとか児童文学畑のものとか)とは一線を画している。デザインでそのいくつもの声を聞き分けられるように工夫しているのだが、ちょっと混線してしまうページもあり、自分の中の子どもと大人を立ち上げて、ゆっくりじっくり、読むのがよい。この声たちをテキストに入れ込んで作ったら、この軽やかさは出なかっただろう。そういう意味では構成の妙ともいえる。巻末の「作りながら考えたこと」に書かれているように、寄り添いすぎないイラストが入ったおかげで、声たちが相対化され、開かれたものとなっていったのだろう。このなかに結論がある訳では決してなく、ここから歩き出せというエールを送っている絵本といえよう。 『ブンブン ガタガタ ドンドンドン』かんざわとしこ・たばたせいいち 作 (2009.6 のら書店) 良くできた三題噺みたいな絵本。おふとんに入る時間になっても帰ってこないパパが気になるカナちゃん。ブンブンする音が聞こえる、ガタガタいう音がする、ドンドンいう音も聞こえるみたい。と、起きだしては、ママに訴えます。そこのところは、おやすみをしたくないフランシスのよう。それでもなんとかカナちゃんを寝かしつけてからが、急展開。ブンブン、ガタガタ、ドンドンドンがきちんと伝わっていて、なるほど、ここにおちつきますか、とにっこりしてしまうラスト。読者の予想に寄り添いつつ、そこから、うれしいラストにまで突っ走るリズム感。なんてことないお話をこんなにも豊かな気分で読ませてしまうのはどうしてかな。ふくよかなことばの魔法? それとも体温の感じられる人の描き方? 『あめ ぽぽぽ』ひがしなおこ作 きうちたつろう絵 (2009.5 くもん出版) 雨の日のお出かけで、ぽぽぽ、というのは傘にぶつかる、雨の足音。砂場についた雨の足跡。みずたまりにも雨は足跡を付けている。幼い子の目線で雨の日の音、かたち、色を追いかけて、それを美しいイラスト、親しみやすいことばで構成している。赤ちゃん絵本のサイズだが、その絵の広がり、あまったるくないことばづかいが素敵。 『ぴよぴよ ことばのえほん1』 『かっきくけっこ ことばのえほん2』 『あっはっは ことばのえほん3』谷川俊太郎さく 堀内誠一え (1972/2009.6 くもん出版) 『ぴよぴよ』は生まれたてのひよこが一人でお散歩していて、出会ったどうぶつやものや人の出す音だけで構成されています。『かっきくけっこ』は平仮名50音を音で遊んで、色とかたちで表現した絵本。堀内誠一のイメージ豊かなグラフィック感覚を存分に楽しめます。「あいうーえーお」は丸いお口を開けたような色のグラデーションで、「かっきく けっこ」はカクカクした形の色面構成で・・・・。共感覚全開の絵本。プッシュピンスタジオ的なイラストもあって70年代的なところも。『あっはっは』では男の子と女の子が正面を向いて描かれる。あっはっは、いひひ、うふん・・・・と変わっていく男の子の笑い声と表情とそれに合わせて変わる女の子の表情。笑い声の違いが表情の違いになって、コミュニケーションがはじまっていく。37年ぶりに復刊という絵本。今もってコンセプトもイラストレーションも古びていないのがさすが。ことば、おと、コミュニケーション、色、かたちが小さな子たちのおどろきや発見をひきだすように、きちんと絵本の形にまとめられている。見ても、声を出しても、すごく、楽しい。当初はフォノシートがついていて、波瀬満子とぐるーぷソネットが声で参加していたといいます。 『うわさのようちえん かくれんぼのうわさ』きたやまようこ (2009.7 講談社) 「うわさのがっこう」の幼稚園版の絵本。うわさのがっこうでおなじみのキャラクターたちが、みどりせんせいのもとかくれんぼをして遊ぶのだが、通常のかくれんぼ絵本とはわけがちがう。幼稚園に登園する時からかくれんぼ遊びの気分は始まっている。だから、まず、かくれているものをさがしだしてしまうのだ。棚にかくれているゴミ、机の中のハンカチ、カバンにかくれていたクレヨン1本、ボックスくんの頭の中にいたカブトムシはかくれていたのではなく、しまってあったんだって。それからかくれんぼをはじめます。なにかのうしろにかくれたり、なかにはいったり。自分に似ているもののそばにいたら、もっとみつかりにくいかも・・・・と子ども達の思考は広がっていきます。それがおもしろい。そして、みつけてもらえないのもつまんないから、ちょっと動いちゃったりして。というところも、そうそう、とにっこりしてしまいます。かくれんぼあそびもこの作家の手にかかると2度も3度も発見があります。深いです。 『っぽい』ピーター・レイノルズ文・絵 なかがわちひろ訳 (2009.4 主婦の友社) 『てん』で一躍注目された絵本作家の続編ともいえる作品。絵を描くのが好きなラモンが、ご機嫌で花瓶の絵を描いていると、お兄ちゃんがきて大笑いして「ぜんぜんにてないじゃん!」っていった。それからは、本物そっくりに描かなくちゃと、描いても描いても気に入らなくて、紙をぐしゃぐしゃにしてしまうラモン。そこでいもうとが・・・・。「っぽい」というタイトルからして思わせぶりで、さすが才人レイノルズ。「っぽい」絵で気持ちが伝わってくればいいじゃないの、実物のないものだって描いちゃっていいじゃないの、言葉で書いたって良いじゃないの、とぐんぐん間口を広げていくところがおもしろい。でもなんてったって、ラストのラモンが素敵だ。なんにもしないでいい気持ちを味わったり、世界を丸ごと感じたりしているから。感じること。それがきちんとできなければ、表現だってついてこないんだ。表現しないとダメな子とばかりに思われがちな風潮に、一矢報いてくれているのかなとうれしくなった。 『ホネホネどうぶつえん』西澤真樹子監修・解説 大西成明写真 松田素子文 (2009.7 アリス館) 『ホネホネたんけんたい』に続く第2弾。本作ではシマウマ、ゾウ、カバ、コウモリ、ゴリラ、パンダ、カンガルー、キリンの骨が紹介される。巻末ではその動物たちの解説も。特徴ある動物や人気の動物たちの体の秘密がわかるのは楽しい。 『マグロをそだてる〜世界で初めてクロマグロの完全養殖に成功!』熊井英水監修、江川多喜雄文 高橋和枝絵 (2009.7 アリス館) 黒マグロの完全養殖とは海からつかまえてきて育てた魚が生んだ卵をふ化させ育て、その魚が大人になって生んだ卵を人口ふ化させて育てること。40年の研究を研究者から話を聞いてまとめたという形にして絵本にしている。次々を起こる問題をひとつずつ解決していくさまをみていくのはわくわくする。身近な魚にこんな不思議があったのかと子どももびっくりするだろう。親しみやすい絵とよく整理されたレイアウトで、読みやすかった。今年は研究者を取材して作る科学絵本におもしろいものが多い。人を主眼に作ると<プロジェクトX>的になり、興味を持ってもらえる点が増えるようだ。 『ぶんかいきょうだい』西平あかね作 (2009.8 アリス館) ぶんにいちゃんとかいくんは、分解するのが好きな兄弟。ゴミ捨て場でワゴン、扇風機、掃除機、ポンプ、破れ傘、時計などを拾ってきては裏庭の研究所で分解します。そうして、いろんな発明品を作るのです。時計と扇風機を組み合わせて作った時計扇風機では、時間がどんどん過ぎておじいさんみたいになっちゃった! 掃除機で化石吸い込み機を作ったり、竜巻自転車を作ったり、最後は宇宙船を。分解する楽しさとものを作り出す楽しさ。それはわかるのだけれど、カタログ的に、こんなのも、あんなのも作れるよとアイデアをぽんぽんみせるのではなく、その過程をきちんと物語に落とし込むことができれば、もっとしっかりとした読後感がのこる絵本になったのに、と思う。 『ダーウィン 日記と手紙にかくされた偉大な科学者の努力と夢』アリス・B・マクギンティ文 メアリー・アゼリアン絵 千葉茂樹訳 (2009.8 BL出版) 『雪の写真家ベントレー』の画家がえがくダーウィンの生涯。伝記絵本だが、ダーウィン自身の手紙や日記を折り込み、その言葉をそのままに読むことができるのがいい。ダーウィンの生涯とその研究が時代のなかでどういう表れ方をして来たものかを知ることができる。他の学者とのやり取りやダーウィンをビーグル号に乗船させるためにかいた先生のお手紙など、資料を絵に取り込んで描いていく方法がおもしろかった。 『ぶんぶんむしとぞう おおきいものとちいさいもの』マーガレット・ワイズ・ブラウン作 クレメント・ハード絵 中川李枝子訳 (1938/2009 福音館書店) 「むかしむかしあるところに・・・・」とはじまれば、フェアリーテールや民話が始まるものなのだが、「おおきなおおきなぶんぶんむしがいました。ちいさなちいさなぶんぶんむしがいました。」と続くところが、実際の子どもの生活を絵本に、と考えたワイズ・ブラウンらしい。本作では大きいものと小さいものが並列されているだけだが、子どもにとって同種の大小はそれだけで親子を思わせる。どこにもおとうさん、お母さん、などの言葉は入っていないが、この作品に親しみ深さ、安心感があふれているのは、大きい小さいの関係性に知らず知らず親子を見いだしているからだろう。「あなたのしってるおおきいおおきいものはなあに?」という問いかけに、子どもは読んでくれている大人と自分をすぐに目にするはず。本を真ん中にしたその関係を、ワイズ・ブラウンは読者に一番感じてもらいたかったのではないか。子どもの生活を絵本にする、という意味は、どこかにお話の国があるのではなく、目の前の実際に生活を共にしている子どもの感覚を取り込み、広げたいという意識の現れだと思う。 『リンカーンとダグラス』ニッキ・ジョヴァンニ文 ブライアン・コリアー絵 さくまゆみこ訳 (2008/2009.5 光村教育図書) 『ローザ』でアメリカ公民権運動の母ともよばれるローザ・パークスを描いたコンビが、奴隷制度廃止運動をになったふたり、リンカーンとフレデリック・ダグラスの交流を絵本化した。リンカーンはまだ知られているだろうが、ダグラスに至っては、日本にいるどれくらいの人が知っているだろうか。奴隷の身から逃亡し、学んでいた文字を使って、自伝をかき、それがベストセラーになって、ヨーロッパでも刊行され、講演会を通じて、奴隷制度反対の運動を支え、黒人の参政権の獲得のために力を尽くした人物。巻末の二人の生涯の年表を読めば、アウトラインはかろうじてわかるけれど、絵本のなかでは、リンカーンとダグラスの生い立ちを重ね、リンカーンの再選を祝うパーティでのふたりを描いている。細かな伝記的な事実をしらなくても、絵本のなかのふたりの困難にも負けない行動と隠喩に満ちたイラストを読むことで、きずなの強さと歴史は人であることを感じられるだろう。日本語版に関しては年表を補足するような、奴隷解放から公民権運動への流れをコンパクトにつなげる解説があっても良かったかもしれない。 『モモのこねこ』やしまたろう・やしまみつ作 やしまたろう絵 (1961,1981/2009.5 偕成社) 『からすたろう』などでよくしられるやしまたろうが自分の娘をモデルに描いた絵本。モモが拾ってきたみすぼらしいちっぽけなねこがおかあさんになって、子どもを育てるようす。子ねこたちの愛らしい仕草、子ねこたちをあげてしまわなくてはならない悲しさ。素直にスケッチされる子どもと子ねこたちの日々が、何ともいとおしく見える。 『たからものはなあに?』あいだひさ作 たかばやしまり絵 (2009.6 偕成社) 自分の小さいときの思い出をお家の人からきくのが子どもは大好き。たくやくんとなつかちゃんはそれぞれの小さかった時のお話をおかあさんから聞く。なつかちゃんは<あかちゃんのいえ>からもらわれてきたこと。どんなふうに家にやって来て、家族になるようになったかをあたたかな絵とことばで表現されている。あとがきにあるように、里親や特別養子縁組に限らず、家族の始まり方は様々であってよいし、家族とは、どんな始まり方でも互いに思い合って築いていくものであることを忘れないようにしたい。こういう形もあることを広めていける絵本の力を感じる。 『よるとひる』マーガレット・ワイズ・ブラウン文 レナード・ワイスガード絵 ほしかわなつよ訳 (1942/2009.1 童話館出版) 夜の好きなくろいねこと昼が好きなしろいねこ。しろいねこのすきな昼の世界。くろいねこのすきな夜の世界。それを見事にとらえるワイズ・ブラウンの言葉。黒と黄色の2色だけで描かれたワイスガードの絵の豊かさ。くろいねこの孤独はしろいねこを得ることで解消される。ひるとよるのそれぞれの美しさを伝えつつ、孤独な二ひきがよりそうまでを描いていくサイドストーリーをからめているのが、ワイズ・ブラウンらしい。 『ペトロニーユと120ぴきのこどもたち』クロード・ポンティさく やまわきゆりこ訳 (1990/2009.6 福音館書店) フランスのカトゥーンの感覚あふれるコマ割り絵本。120ぴきものこどもをもったねずみのペトロニーユが子どもをおいて買い物に出かけると、様々な災難が身に降り掛かり、子どもたちも怪物が吸い上げてしまう。この怪物をやっつけて子どもたちを助け、そろって家に帰るまでが、色鮮やかでキッチュな風景の中に繰り広げられる。大きな岩とトランプしたり、雨のカーテンをひらいて進んでいったり・・・・。この絵本のたのしさはただ筋を追うだけではなく、細かく描き込まれてた、本筋にはあんまり関係ないものたちのすがたをみつけだし、そのうごきをおもしろがるのがいいのだろう。あまり見なれないタイプの絵本だけれど、小さな子にはおもちゃ箱みたいに楽しめるのではないか。 『ありがとう、しょうぼうじどうしゃ』内田麟太郎文 西村繁男絵 (2009.7ひかりのくに) 乗り物絵本といえば、働く消防自動車は一番人気だが、この絵本もその路線。けれど、内田+西村コンビならではのひねりわざがきいている。山火事で消防自動車が出動するのだが、山の動物たちを誘導したり、蓮池の生き物たちを気にかけるのはかっぱさん。人と動物とが、土地を分け合って生きているのびやかさがいい。消防自動車のはたらきぶり、山火事で活躍する消防ヘリコプターもきちんと登場。 『きらいさ きらい』中川ひろたか文 工藤ノリコ絵 (2009.6理論社) 詩を絵本にすることは、ずいぶん増えてきたように思う。詩を見開きの絵の中に閉じ込めて、いくつもの詩を紹介する詩集タイプの絵本ではなく、一つの詩を32ページの絵本展開に割り振っていくタイプのもの。ねじめ正一の詩がおおいかな。本作も詩を割り振った絵本タイプ。アイスクリームのきらいなもの、せっけんのきらいなもの、よるのきらいなもの・・・・嫌いの2面性を見せてくれる詩は、機知にとんでいて、ほほーっとおもわせる。親しみやすいイラストで視覚化されることでノンセンスなたのしさをはっきり見せることができた。 『おいで、フクマル』くどうなおこ作 ほてはまたかし絵 (2009.6小峰書店) 小さな子犬フクマルが、誰かに「おーい おいで」とよばれて、うまれた。この世界に呼んでくれたのは、だれ?という疑問からはじまる絵本。家に連れてきてくれたおとうさん、しっかりだいてくれたおかあさん、いつもあそびたがっているようなありんこ、スコップ、そよかぜ、はなびら、わたぐも・・・・ちきゅうとも、おひさまともあそぼう、あそぼう。ゴムまりみたいにぴょんぴょんはずんでいる、命そのもののフクマル。その命をよんだ、この世界そのものとの交歓。「あえてよかったよ、みんな」という気持ちは、この作者は何度も詩の形で伝えているけれど、フクマルという表情豊かなこの子犬を得て、より実感を伴って読み広げられる。フクマルの描き方の緻密さに比べ、人の描き方がちょっとおざなりなかんじがした。 『あら、たいへん! こんなじかん くるみちゃんはおおいそがし』おおしまたえこ作 (2009.5 ポプラ社) 屋根裏部屋でたくさんのおもちゃや雑多なものと暮らしているお人形のくるみちゃん。ココのお家の娘さんが小さいときにたくさん遊んだお人形です。くるみちゃんは他のおもちゃのお世話をしたりして、忙しく暮らしていました。そこへ娘さんが女の子を二人つれて帰って来て、くるみちゃんは女の子と遊ぶことに。遊びながら、くるみちゃんは昔のことを思い出します。子どもと離れたお人形さんの暮らしぶりの密やかな親密さを描いた傑作絵本に『やねうらベやのお人形さん』がありますが、本作はまた違った雰囲気ーにぎやかで元気いっぱい。女の子たちに連れて行かれそうになって、けんか仲間のカラスが屋根裏にまた運んでくれるところなど、わくわく読むことでしょう。 『むしむしでんしゃ』内田麟太郎文 西村繁男絵 (2009.6 童心社) 『がたごとがたごと』『おばけでんしゃ』で人気のコンビのでんしゃ。こんどは「いもむし」型のでんしゃです。いもむしだから、ののたん ののたん・・・・とはしります。この音を聞くだけで、なるほど「いもむし」だなあと思えてしまうのがさすが。虫も動物もお話の世界の住人も、でんしゃにのります。あっ、こんなところに、こんなひとが・・・・というふうに細部を楽しむのもよし、のどかに変化するパノラマを楽しむのもよし。いもむしらしく、さなぎからちょうになって、空へとんでいくラストが今までにない展開。次にとまる駅名が、ちょこっと隠されていて、何かなあと想像させる細やかさなど、息の合うコンビらしい、小さな遊びがちりばめられています。 『山からきたふたご スマントリとスコスロノ』影絵芝居ワヤンの物語 乾千恵再話 早川純子絵 松本亮監修 (2009,6福音館書店) ワヤンの物語の絵本化。物語には語り継がれてきたもののみがもつ力強さがあり、それをワヤンの影絵芝居の雰囲気を良く伝えるようキャラクター化して木版でかいているのが素晴らしい。揺れる黄色の布に映る黒い影絵のイメージそのままに、墨でキャラクターが刷られる。表情細かに彫られた人物とおおらかにのびのびと刷られた木や庭などの自然物。その対比が鮮やかで絵本に良いテンポを与えている。大部の物語自体を絵本のサイズにまとめきるのも一苦労であったろうし、それでも多いテキスト(文字)に絵としてどのように対峙するか、よくよく構成やレイアウトなど考えられたものと思われる。ワヤンの物語を絵本化したものは、アメリカに2、3冊あったかとおもったが、これほど絵と文が有機的につながって一つの物語の雰囲気を伝えているものはなく、世界に誇れると思う。この物語のすごいところは、姿形の良いところ全てをもった兄と見にくく親にまで疎まれたけれども自力で生き抜き、自然の中で学び育った弟というひとの育ちの光と影、そのどちらも価値あるものとしていること。ジャワ、バリの物語には、物事の2面性を対抗ではなく、融和するものにしていきたいと願う力が大きいように思う。善と悪がいれかわり、たちかわりして、さいごは全きものとなる物語。その感覚がこの絵本から伝わってくるのがうれしい。 『くさをはむ』おくはらゆめ(2009.4 講談社) しまうまの男の子の暮らしぶりをのんびりゆったり描く絵本。くさをはむ くさをはむ ぼくらのいちにち こんなかんじ とリフレインがたのしい。草ごっこをして、草の気持ちになって立っているだけのぼくが太陽にむかってのびていくシーン。シマウマに食べられちゃったらどうしようと思って、母さんがそっとほっぺを食んでくれる幸せ。みずをのんだり、くさをはんだり、とりあったり、食べられたりの毎日の満ち足りた暮らし。ぼくがぼくであること。シマウマがシマウマであること。それ以上でも以下でもないこの絵本のなかの暮らしは、まさに満ち足りた子どもの1日。のびのびとおおらかな絵が絵本世界とよくあっている。 『みんながおしゃべりはじめるよ』いとうひろし(1987/2009.3絵本館) いとうひろしデビュー作の改訂復刊。表紙デザインや本文デザイン、構成、テキストを一部変更して、復刊された。復刊の際、童心社に持ち込んだ形(初版のまえのかたち)を一部踏襲している。新人が絵本を持ち込むときは、ラフだけではなく、ほとんど本番同様に描き込んだ絵を持って歩くことが多い。絵本コンペや講談社絵本新人賞に応募するときのように。そして、その企画が絵本化されるとき、その持ち込んだ絵をそのまま原画にすることはまずない。もう一度、同じような絵でも書き直すのだ。よって、この「みんなが〜」にも初版の原画と持ち込み用の原画の2種類あることになる。それを組み合わせ、テキストを修正したのが本作。復刊にあたっての作者の言葉にこの絵本に込められた思いが語られ、この作家ならではの視点が最初からぶれていないことがよくわかる(「絵本館通信34号 絵本はごちそう」参照)。最初のテキスト「かくれんぼのまっさいちゅうに」「ぼくはいしのこえをきいた。」が童心社版の導入にくらべ、いかに端的に詩的に絵本の世界へ読者を連れていってくれるか。いろんなものに寄り添って、そのものの声を聞けば、きっと世界が広がるよ、耳を澄ませてごらんというぼくの誘いは、それからあと、刊行されるこの作家の作品世界に通底音のように流れている。 『栄光への大飛行』アリス&マーティン・プロヴェンセン作 今江祥智訳 (1983/1986/2009.3 BL出版) 1984年のコールデコット賞受賞作、1986年福音館書店刊行『パパの大飛行』の改訳復刊。プロヴェンセン夫妻には実在の人物に材をとった絵本が何冊があるのだか、一番読まれていたのがこの絵本だろう。ルイ・ブレリオつい英仏海峡横断に成功という見出しの新聞記事が最初のページに入っていたのが福音館版。今回の復刊ではこの見事な新聞記事のページがなくなっていたのが残念。これがあることで、実際の人のお話であることがよくわかったのにな。「パパの〜」という視点があった方が、なじみのない人の実際のお話には、入りやすかったかもしれません。 『いまなんさい?』ひがしちから (2009.4 BL出版) お誕生日の日に、いま何歳?とみんなに尋ねる女の子に、保育園の園長さんや先生たちは、やさいだの、はくさいだの、ぼんさいだのとだじゃれでこたえるので、そのたびに女の子の姿が変化するのが絵本的におもしろい。最後は5歳のお誕生日おめでとう!という安心のオチ。かわいい盛りの子をちょっといじってみたくなる大人の姿とそれに反応する子どもの関係が安定しているからこその物語。 『皇帝にもらった花のたね』デミ作・絵 武本佳奈絵訳 (1990/2009.4 徳間書店) 景徳鎮の絵のような緻密に描かれたイラストが美しい絵本。皇帝は世継ぎを選ぶために子どもたちに花の種を与えます。1年後そだてて見せにくるようにとつげたのですが、ピンのもらった種はどうしても芽を出しません・・・・。花を咲かせて意気揚々と皇帝の前に出る他の子どもたちと工夫しても手をかけても芽を出させることすらできなかったピン。それはどうしてか・・・・というラストのどんでんがちょっと教訓的ですが、民話的な終わり方と思えばこれでもいいのかなと。アメリカでは東洋風なイラストレーションで人気のベテラン絵本作家、日本で初めて紹介された絵本。 『しでむし』舘野鴻 (2009.4 偕成社) 森の掃除屋さんとよばれるしでむし。死んでしまったあかねずみの体がいかに土にかえっていくか。森の片隅でいつも行われている小さな命の営みを繊細な線描と主な生き物への色付けで淡々と見せていく。生態画にあらたな見せ方を提示した科学絵本として注目したい。埋葬虫として知られているが、実際の生態は詳しくはない小さな虫の生と死が、他の動物の生と死に密接につながっているのを説得力あるタッチで描かれている。言葉少なで美しい絵本。 『たま、またたま』星川ひろ子、星川治雄(2009.5 アリス館) まあるいシャボン玉から始まって、里芋の葉にたまるみずたま、スイカ・・・・とまるいものが順々に写真でつながっていく。月も卵も虫もまるい玉のような形という視点で並列化され、連なっていくおもしろさ。次のページは何が出てくるのだろうと想像する楽しさ。最後はたんぽぽのまあるいわたげがばらばらに飛んでいって、玉つなぎがはじけてしまう。カメラだからこそとらえられる美が提示されている。 『コレでなにする? おどろきおえかき』大月ヒロ子 構成・文 (2009.5福音館書店) 紙や刷毛、ボクシングのグローブなど何に使うのかしら、という道具をつかって、描かれた絵と描いた人を紹介する。筆を振って、たらして絵を描くポロックやボクシングのグローブに絵の具を注入し、ドスどすっと画面をたたいて絵を描いた篠原有司男、足でグニュグニュと絵の具を伸ばして描いた白髪一雄・・・・あまり子どもに絵を紹介する本で取り上げられることのなかったタイプの作品や画家を「おどろきおえかき」というくくりで見せてくれたのがおもしろい。こういうのも絵なんだ!と素直にびっくり、感心し、まねしてみようなんて思ってくれるといいな。 『ちがうけどおんなじ』メラニー・ウォルシュ作 木坂涼訳(2002/2009.5コンセル) 体の形や模様が違っても走るのが好きな犬たち、うみをおよぐさめと金魚鉢のなかの金魚、泳ぐ場所は違うけど、どっちもあぶくをプププとだすよ。という風に、相違と共通を動物たちの姿を通して伝えてくれる。この絵本には対になる絵本があり、そちらでは人間の子どもたちが、違うところも在るけれど、一緒のこともこんなにあるよ、と語りかける。メラニーのイラストのシンプルであたたかなタッチがこういうメッセージにぴったりだ。 『きんぎょ』ユ・テウン作 木坂涼訳 (2007/2009.5 セーラー出版) 『かさの女王さま』(セーラー出版)で紹介された新進絵本作家のデビュー作。森の奥の図書館に出かけた男の子がすごした不思議な時間。おじいさんがお仕事をしている間、寝てしまった男の子は起きたあと、一緒に連れてきた赤い金魚に、月明かりのなか本を読んであげようとします。ふっと気がつくときんぎょは赤い本の中へ。金魚を追っていく男の子も本をひらき、中へ。不思議な本の中の冒険はイラストだけで表現され、金魚を捕まえ、本から出てきてからは、言葉がふたたび絵によりそいます。繊細なペンとセピアカラーで描かれた図書館の様子。そこに赤が効果的に配され、物語をうごかしていきます。夢と現実のあわいにとびこみ、無事きんぎょと生還した男の子の満足そうなこと。まえ見返しから後ろ見返しまで存分に使って描かれ、1冊の絵本として、いかにこの密やかな冒険を成立させるかをきちんと考え抜いて作られている。ユ・テウンの今後の活躍に期待したい。 『ミリーのすてきなぼうし』きたむらさとし (2009/2009.6 BL出版) ミリーがすてきと思った羽のついたぼうしは、少し高くて買えませんでした。そこで、店員さんが勧めてくれたのは、想像次第でどんなぼうしにもなる素晴らしいぼうし。ミリーが想像すると、はねをひろげたクジャクぼうしにもなるし、ケーキぼうしにもなる・・・・。ここで終わればよくある「想像力って素敵ねえ」的な絵本になるだけなのだが、本作では、ミリーが他の人もみんなそれぞれ特別な帽子をかぶっていることに気がつくところがミソ。そして、ミリーが微笑みかけると、ぼうしから他の人のぼうしへ鳥や魚が移っていくというエピソードもおもしろい。こんなふうにものの見方が変わる瞬間を描いた本にコリン・マクノートンの文章に絵をつけた『ふつうに学校にいくふつうの日』があったけれど、それをもう少し広げた感じ。 『ほら、あめだ!』フランクリン・M.ブランリー作 ジェームズ・グラハム ヘイル絵 やすなりてっぺい訳(1963,1983,1997/2009.4福音館書店) 雨のふる仕組みを生活に密着した事例と具体的でわかりやすい文章、親しみやすいイラストで解き明かす絵本。空気に含まれている水蒸気が、冷やされてみずになったり、氷になったりすること。雲のなかの水がひょうにや雨になり、雨やひょうがやむと雲がなくなって太陽が出てきて、また、水が蒸発して冷やされ雲になる・・・・この循環をお話に組み込んでいるからわかりやすい。 『せかいはなにでできてるの? こたい、えきたい、きたいのはなし』キャスリーン・ウェドナー・ゾイフェルド作 ポール・マイゼル絵 ながのたかのり訳 (1998/2009.1福音館書店) なんだか大きな質問だなあとくらくらしたけれど、世界のすべては固体、液体、気体のどれかで出来ている、ということをわかりやすく、教えてくれます。単に知識として名称を覚えるのではなく、具体的に生活に即して説明されているのがおもしろい。導入の壁を通り抜けられる人を見たことがありますか?積み木を飲んだことは?牛乳の靴下をはいたことはありますか?という問いかけで、ぐいっと子どもを引きつけてしまう。お勉強ぽい説明もあるけれど、身近なものばかりを取り上げて、自分でもやってみたくなるように書いてあります。こういう科学絵本を作るのはアメリカは本当に上手。60年代からずうっと作り続けているのです。お話を楽しむみたいに気楽に読めて、科学的な目を日常に向けられるようにするには、とても良いシリーズ。 『エンザロ村のかまど』さくまゆみこ文 沢田としき絵 (2004/2009.6 福音館書店) 「たくさんのふしぎ」で刊行され、ハードカバー本を切望されていたものがやっと刊行。ケニアで活動する岸田さんとケニアの女性たちがどんな風にして自分たちの暮らしを変えていったか。まず、水をきれいにする濾過装置を自分たちで作り、澄んだ水を手に入れる。その水を煮沸して使う、ということを始めました。水を沸かすには手間がかかったので、エンザロ・ジコというかまどを作り、食事の用意をする時に一緒に、水も沸かせるようにしたのです。また、衛生を考え、ぞうりを手作りし、トイレではそれを履くようにした結果、けがや病気がへったとのこと。電気や水道もないエンザロ村のようなところでは、最新の機械や技術を持っていくのではなく、むかしの人が持っていた知恵や手作りの技術のほうが役に立つし、人々の意識もかえやすいのでは、と伝えています。 『あいうえおカメレオン』文・写真 増田戻樹 (2009.6 偕成社) ペットとしてよく知られるカメレオンだが、自然のなかでののびのびとした姿をみてもらいたいと作られた写真絵本。親しみやすく、リズミカルにあいうえおを組み込んでテキストを作っている。図鑑っぽくしたくないけど、カメレオンのことも知ってほしいという気持ちがテキストと巻末の豆知識ページにあふれている。いろんな頭飾りでいろんな場所(森にも砂漠にも)に住んでいるカメレオンの姿そのものが愉快でたのしい。 『らくちんらくちん』高畠純 (2009.6 アリス館) ゴリラが歩いていて「あっ」とみつけたのはきりんさん。きりんさんの首にぶら下がって「らくちん らくちん」コアラの親子も、ペンギンたちもみんな「あっ」とみつけます。ページをめくって、なるほどとにっこりしたり、あらまあとびっくりしたりが楽しい絵本。 『めしもり山のまねっこの木』椎名誠文 及川賢治絵 (2009.1 国書刊行会) 子どもたちが遠足にいって大きな木の前に立つと、消防自動車やロケットや車付きのじょうろなんかに見えてきて・・・・。テンポよく展開されるお話は、こどもと一緒にうそっこ話をどんどん作っていくような感じ。これは耳で聞きながら、自分の頭で絵を作り、動かしながら体験するのにむいた作りになっているのだ。こういうタイプのお話は絵がつくことでとたんに陳腐になってしまう。どんなに愉快な絵をつけたとしても、お話には絵がつかない方が存分に楽しめるというものがあるのだと思う。 『ほらそっくり』ふくだとしお+あきこ(2009.2 教育画劇) 動物の親子が出てきて、ほらママにそっくり、パパにそっくりと見つめあう。うさぎ、ぞう、ぶた、かめ、しまうまなどがかわいらしく描かれ、耳やしっぽ、からだのかたちなど特徴的なところがよくわかるような言葉掛けと繰り返しが楽しい赤ちゃん絵本。ラストの「きみはどっちににてる?」という言葉掛けはちょっとわかりにくいかも。だって、ページで展開される時はママ、パパと順番にくりかえされるが、そっくりの内容はパパ、ママのどちらにも当てはまること(長い耳、大きな耳、くるっとまるまったしっぽなど)だけど、人間の場合はちょっと意味合いが違ってくるでしょう? この本の構成ではラストの言葉はない方が良かったように思いました。 『どんなおと』tupera tupera 作 (2009.4教育画劇) てをたたいたら? りんごかじったら? はをみがいたらどんなおと? と生活に密着したところからはじめ、ページをめくるごとにいろんな音を想像させる展開。走るものの音や天気の音といった聞いたことのある音や、わにのはぎしり、もぐらのいびき、むかでのはくしゅ・・・・など聞いたことがないけど想像できそうな音、たいようがふっとんだら?と誰も聞いたことのない音まで。色鮮やかで楽しい絵に誘われて、いろんな音を口に出して楽しめそうな作り。『ほらそっくり』と同形の小さな真四角な絵本だけれど、赤ちゃんよりももっと大きな4、5歳、小学校低学年以上のこどもの方が楽しめるだろう。太陽が吹っ飛んだら・・・・という想像がおもしろいもの、すごいもの、という認識が持てるのは、どの年齢のこどもだろうかと作り手がどの程度考えたかしら。子どもの本を作るということは、こどもが物事をどのように認識していくのかをきちんとわかった上で、そのロジックを上手く使って新たな世界を作り上げていくことだ。マーガレット・ワイズ・ブラウンやルース・クラウスのように。音と絵本の組合わせならワイズ・ブラウンのNOISY BOOKシリーズのほうが、こどもの想像を広げ、ナンセンスで楽しい。 『ミニカーミュートだいかつやく』福田利之作 (2009,4 アリス館) 最近男の子が遊んでくれず、ほこりをかぶっているミニカーミュートが、外を動物をのせて走っていくトラックの仲間に入りたいと外へ飛び出していきました。どのトラックも小さすぎてなんにも出来ないよというのですが、うさぎの子どもたちを助けて・・・・。小さなものが活躍するはなしはこどもが大好き。トラックやいろんな動物が出てきて、イラストもかわいらしく楽しい。が、おはなしの展開はあまりにもご都合主義。それに遊ばなくなってもこどもにとって自分のおもちゃは自分のもの。それが勝手に家を飛び出して、動物園でお仕事するようになるのは、うれしいのかな? 動物園の飼育係が自分のお世話するどうぶつが赤ちゃんを産んだと気がつかないなんて・・・・。視覚的にきれいで楽しいイラストのおしゃれな感じの絵本が多いけれど、こどもの心によりそってお話を作るということに丁寧に向き合ったものが少ないのでは。 『とってもとってもあいたいの!』シムズ・タバック作 木坂涼訳 (2007/2009.4 フレーベル館) とってもとっても会いたい時は自分を郵便小包にして送ってしまいたいくらい・・・・。表紙の女の子の悲しそうな顔が印象的で、ページをめくると、自分を包装紙に包んで、宛名を貼って郵便で送ってしまう大胆さ。ダイレクトで愉快な展開に、タバックのコラージュを多用したイラストがよく合っている。こんなに会いたい人って誰なのかしら? 離れて暮らしているパパなのかな? そう読むと自分を小包にして送りたいと思うこの子の気持ちの深さにうちのめされる。 『うさぎこわーい』いきもの絵にっき2 松橋利光写真・文 こばようこ絵 (2009.2 アリス館) 『かえるといっしょ』に続く、いきもの絵日記は「うさぎ」。しかも、こわーいだって。うさぎといえば、ふわふわでかわいくて、人気者と思っていたのに、動物写真家がこわがるなんて・・・・。でも、小学校でウサギやニワトリを飼っているところでは、扱い方がわからなくてこわーい、とか、かわいいぬいぐるみみたいなイメージで手を出したら、かまれてこわかったあ、などの経験がある子どもが多いもの。かわいいかわいいだけではない、いきものとしてのうさぎの姿を目、足、耳、毛と写真家の思いにのせて、部分を写真で見せていったり、うさぎの気分屋のところやまんまるでふわふわのかわいいところなど、文章と絵でお話仕立てで読ませたり。図鑑的な写真絵本だとどうしても知識偏重になってしまうけれど、このシリーズではいきものとの距離の取り方、つきあい方など、いきもの同士のかかわり合いを疑似体験できるのが良い。 『里山のおくりもの』今森光彦写真/文 (2008.12 世界文化社) 里山とよばれる、山や田んぼ、雑木林、ため池など人と自然が密接にかかわり合いながらくらしている場所の1年をまとめている。棚田の変化を軸に、そこに住む小さな生き物の姿をとらえ、端的でありながらあたたかな視線を感じさせる文章で紹介している。大きく田んぼの広がりを捉えるワイドな写真と小さな生き物たちの命の輝きを捉えるアップの写真。その視点の移動がテンポよくつながり、1冊の本として、めくっていく楽しみと視点の変化の楽しみとが心地よくリンクしているのがうまい。 『グラファロのおじょうちゃん』ジュリア・ドナルドソン文 アクセル・シェフラー絵 久山太市訳 (2004/2008.11評論社) グラファロは大きな角とでっかい口、背中のとげとげに鋭い爪でおそれられている森の怪物みたいないきもの。そのグラファロが小さな娘のチビグラちゃんに、大きなわるーいネズミのはなしをします。雪の夜、チビグラちゃんはひとり夜の森に出かけていって、しっぽの跡みたいなものを見つけたり、足跡を見つけたりして、もしかしてわるーいおおねずみ?とどきどきするのですが・・・・。小さなネズミの機転を利かせたオチは、よくあるものだけれど、愛嬌のあるシェフラーのイラストが安心して楽しめる絵本にしている。 『おそとがきえた!』角野栄子文 市川里美絵 (2009,1 偕成社) 大きな町の背の高い建物に囲まれて、年取ったチラさんの住む小さな家がありました。日も当たらず、窓を開けても、隣りの建物の壁しか見えません。チラさんと猫は仲良く小さな家で支え合ってくらしていましたが、やっぱり空が見え、お日さまのあたるお家が良いと、「おばあさん住宅抽選」のはがきを出すのですが、なかなか当選しません。霧の深い冬の日、お外が見えなくなって心細くなったとき、チラさんは「おそとなんてきえちゃったっていいわ」といいます。この一言の寂しさにはっとしました。外を拒絶してしまうかのようなトーンの厳しさのあと、お話は自分でお外を作っちゃおうと湯気で曇った窓にお花や太陽など描く楽しいページへと展開していきます。寒々としたくらしを鼓舞するかのように楽しげに歌をうたい、絵を描くチラさん。ゆかいな姿にほっとしたら、春になり、すてきなお知らせが届きます。ラストの色鮮やかであたたかな風景に、作家の思いと画家の願いがこめられているようです。 『くもりガラスのむこうには』あまんきみこ作 黒井健絵 (2009.1岩崎書店) 子どもが一人でいる時、ちょっと心細かったり、つまんないなと思ったりしている時を、この作家はやさしい時間に変えて、子どもをはげまします。本作でも風邪をひいて一人でお留守番していた女の子のところに、ちいさなかわいらしいお客様がやってきました。湯気で曇った窓ガラスをくいくいってこすったところから見えたのは、木の下で震えていた小さな女の子二人。 二人をお家に入れてやり、甘酒を振る舞って、窓ガラスの向こうを眺めてみると・・・・。春本番の手前で一度寒くなる気候。それを乗り越えてチョウチョは本当の春を手に入れるのね。日常のすきまを支えるファンタジーを丁寧に描き出すふんわりとした絵もすてき。 『のはらのスカート』赤羽じゅんこ作 南塚直子絵 (1998/2009.3岩崎書店) おかあさんの作ってくれたスカートには、チョウチョの刺繍がいっぱい。みんなに見せてこようと野原に出かけたのですが、だれもいません。でも、そこで刺繍のチョウチョが声をかけてきたのです。くるっとまわってスカートをふくらませると、ちょうちょが一斉に飛び立ちます。その文字なしのシーンの柔らかな夢のような絵がすてき。でも、そのあと犬がやって来て、チョウチョを追いやってしまいました・・・・。チョウチョのスカートがおはなのスカートになって、チョウチョとおはなでいっぱいの野原のスカートになる変化。そのファンタジーをきちんと受け止めてくれるおかあさんのセリフ。やさしい春の絵本。 『ワニくんのアップルパイ』みやざきひろかず (2009.2 BL出版) アップルパイが食べたくてたまらなくなってしまったワニくん。ケーキ屋さんにいったら売り切れ。もう一軒はおやすみ。とうとう自分で作ることに。鼻をつぶしたり、指を切ったりしながらも、なんとか完成!とおもったら黒こげ。どうにも食べられなくて、夢にまで出てくるしまつ。ここのところは絵本らしい展開が続き、なさけないやらおかしいやら。次の日も・・・・というオチもきれいにまとまって、くふふとわらってしまいます。 『たっくんのおてつだい』おおさわさとこ (2009.1アリス館) もうすぐ赤ちゃんが生まれるおかあさんを手伝おうとお兄ちゃんのたっくんは大はりきり。ふとんをたたんだり、大きな洗濯物を干そうとしたり、買い物に行ってもたくさん荷物を手に持って帰ろうとします。でも、うまくいかなくて、はんたいに手間を増やすばかり。てつだってくれる?ときいても、きっとうまくいかないもん、としょげてしまいました。そんなとき、おばあちゃんがお手伝いにやって来た次の日、おかあさんはいよいよ生まれそうになり、車で出かけていき・・・・。たっくんの気持ちと行動がぴったりと合った頼もしいしっかりとしたものになるまでを家族のくらしの変化とともにあたたかく捉えているところが良い。手伝いたいという思いがおもいやりであることをおばあちゃんがたっくんにおはなしし、そこからたっくんが自覚的に変わっていくように見えるのだが、このセリフがお話の流れの中で若干ずれているように思われた。思いを形にするちょうど良いやり方を覚えていく(たくさん失敗しながらね)というお話としては、ドロシー・マリノの『くんちゃんのはたけしごと』の方が子どもを支えるやり方をきちんと提示しているように思えた。マリノの方がプラグマティックだけれど、そういうものの見方を教える方が情緒に訴えるより、こどもにとってはわかりやすいのではないかしら。 『ストーン・エイジ ボーイ おおむかしにへいったぼく』きたむらさとし (2007/2009.1 BL出版) 森のなかを歩いていて、突然穴の中におちてしまったぼく。気がつくとふしぎな言葉をしゃべる見知らぬ女の子に出会った。それはおおむかし(石器時代 ストーン・エイジ)の暮らしのようだった皮で出来たテントや服。石や木で出来た道具。火をおこしたり、料理をしたり、道具を作ったりする様子を説明するページもある。洞窟にはたくさんの動物たちが描かれ、女の子もそこに絵を描きはじめた。そこへホラアナグマが襲ってきて・・・・。何年もたち、ぼくは考古学者になった。調べていくうちに自分が会った女の子たちの家族にまた出会えるかもしれないと思っている。お話の中に大昔の暮らしぶりをうまくおとしこんでいて、魅力的に描き出している。知識とともに、大昔の暮らしへの憧れや尊敬などがみてとれるところがいい。 『すごいはたきのまき』ゆかかいなさんにんきょうだい たかどのほうこ (2009.1アリス館) 魔法みたいに自由に布を動かしてしまうはたき。たろうとじろうがしかけた、たねもしかけもある手品だったのですが・・・・。1回目、2回目と繰り返させて、3度目、というところでどんでん返し。まあ、こんなことがあったらなんてうれしいことやら、という楽しいページもあり。布を張り込んで描かれたはたきが愛らしく、こんなはたきなら不思議な力もあるかもね。何とも愉快な小さなお話。 『ひみつのカレーライス』井上荒野作 田中清代絵 (2009.4 アリス館) 「かりっ」「あれ?」家族でカレーライスを食べていたら、小さな黒い粒がでてきました。早速おとうさんが大きな不思議な本で調べてくれて、「カレーの種」だと判明します。庭に埋めて、ヘンテコな歌とおどりをしはじめて、たくさんたくさんお水をやって、さいごはカレーの実がなるのです! なんてことない日常から「おっ」とひきこまれ、あれよあれよと不思議がおこります。ラストの「あれっ」でまた最初から読みたくなる。おどりのシーンは作者の父、井上光晴をとったドキュメンタリー映画『全身小説家』を思い出してなんだかしみじみ。こんな愉快なウソで楽しませてくれていたのでしょうか。ちょっとレトロな感じとカレーが特別なごちそうだった感じとが合わさって、なんともふしぎで楽しく、懐かしさ、あたたかさのある絵本。 『きずついたつばさをなおすには』ボブ・グラハム作 まつかわまゆみ訳 (2008/2008.12 評論社) 都会の高い高いビルにぶつかって翼をいためた鳥。地面に落ちても気がつく人はいない。ちいさなウィルがみつけて、家につれて帰り、お世話をする日々を言葉少なに描いた絵本。家につれて帰った日にはテレビや新聞で戦争の姿を映していた。ゆっくり少しづつよくなっていくにつれ、窓の外には希望の象徴としての鳩の姿も。ボブ・グラハムは声高に訴えることはしない人だけれど、いつも大事なことを平易に伝えようとする作家なのだ。 『アンデスの少女 ミア』マイケル・フォアマン作 長田弘訳 (2006/2009.3 BL出版) 作家がサンディエゴからアンデスの山に向かった時に見た粗大ごみでいっぱいの荒れた土地、その土地に暮らす人々の様子をミアという少女に託して描いている。旅先でスケッチしたかのようなえんぴつのさらさらしたラインの絵。スケッチブックを破って貼付けたようなページもある。それが単なる物語絵本には見えないような、ノンフィクションな手触りを醸し出し、フォアマンの今までの絵本とはちょっと違った感じ。ミアの夢はひとつかなった。もう一つの夢もかなうだろう。粗大ごみでいっぱいの土地は今はどうなっているのかしら。 『ファーディのはる』ジュリア・ローリンソンさく ティファニー・ビーク絵 木坂涼訳 (2009/2009.3 理論社) 『ファーディとおちば』のコンビによる絵本第2作目。小さなきつねの子ファーディは貼るの果樹園を歩きます。そこで見つけた白くて空からふわふわ降ってくるもの。それを雪と勘違いして、また寒くなるんだよとともだちに伝えていきます。きっとこの絵本を読んでもらう子たちはファーディの思い違いに気がついていて、もう、ファーディったら・・・・とお兄さん、お姉さんぶって見ているはず。でもラストの花びら遊びはきっと一緒にしてみたくなるよ。 『おいでよ ルイス!』レスリー・エリー作 ポリー・ダンバー絵 もとしたいづみ訳 (フレーベル館) 『くらべっこのじかん』のコンビニよる2作目。ルイスはちょっと変わった子。話しかけても、言葉をおうむ返しするだけだし、絵を描いても何を描いているのかよくわからない。サッカーのルールだってわからないみたい。だけどね、ボールに少しでもルイスがさわったら、サムは「うまいぞ、ルイス!」っていったんだよ。ルイスは自閉症の子どもらしいけれど、そういう子が普通の教室で暮らすこと、そのなかでみんなそれぞれ違いのある個性を主張しているのだということを絵が楽しく物語ります。巻末に丁寧な解説もあり、考えさせられます。 『エレンのりんごの木』カタリーナ・クルースヴァル作 ひだにれいこ訳 『うみのともだち』『エレンのプレゼント』(共に文化出版局)の主人公エレンがずいぶんお姉さんになって登場。エレンのうちの庭には立派なりんごの木が立っている。春は真っ白な花でいっぱいになり、夏は緑の洞穴のよう。木にのぼっていると外でおきていることは何でも見えるのに、外からは見えないのだ。秋にはたくさん実がなって・・・・1年中りんごの木と一緒に遊んでいるエレンとオッレの生活が丁寧に描かれている。細やかに描かれる室内の様子、親しみやすい絵。遠い国の絵本だけれど、自然と親しみ、草木を愛で、DIYを楽しむ人々の暮らしぶりは、のんびりしていてちょっとうらやましい感じ。この作家の新キャラクター・フィアの絵本もぜひ、翻訳を。 『だって春だもん』小寺卓矢 文・写真(2009.4 アリス館) 山の春のはじまりを写真と短い言葉で綴ってみせた絵本。まだ雪で凍てついたように見えていても、とつとつとつららがとけ、光が入り、みずがうごきだす。アップになったり、ひいたり、視点は自在に、小さないきものの姿はしっかりと。ちょっと言葉が軽いかなと思うところもあるけれど、季節の息吹を伝えてくれる。 『あそぼ!ティリー』ティリーとおともだちブック ポリー・ダンバー作絵 もとしたいづみ訳 (2008/2009,1フレーベル館) ティリーという女の子とそのともだちのブタやうさぎ、ぞう、にわとり、わにがでてきます。それぞれが主人公になる絵本がつくられ、6さつのおともだちブックが刊行される予定。本作はその第1作目となり、みんなの紹介をするような内容になっています。ティリーがお話を読んでいると、まずうさぎが「あそぼ!」とやって来て楽器遊び。その音を聞いて、ぶたがダンスをおどりにやってきます。ページをめくるごとに登場動物が増え、遊びの内容も変わっていくのが楽しい。ラストは「わたしがおはなしをよんであげる」と本を読むティリーの姿に戻っていくところもまとめかたがうまい。ダンバーの描く子どもは本当に愛らしく、ぬいぐるみのおともだちたちもキュート。この姿のまま、お人形になって、子供部屋にきてほしいくらい。 『しあわせヘクター』ティリーとおともだちブック ポリー・ダンバー作/絵 もとしたいづみ訳 (2008/2009.1フレーベル館) ティリーのことが大好きなぶたのヘクター。他のお友達はみんなそれぞれ好きな遊びをして幸せっていっているのに、ヘクターはティリーのお膝に座っているのが一番幸せなんだって。みんなもティリーの膝に座りたがったり、一緒に遊びたがったりすると、ヘクターは一人寂しく違うお部屋に行ってしまいます・・・・。ティリーに自分だけを見ていてほしいのに、みんながじゃまするのと思い込む時期ってありますね。そんな子どもの気持ちを丁寧に愛らしく描いています。 『うたうホッペくん!』キム・ヨンジン作・絵 星あキラ、キム・ソンミ訳(2006/2009.6 フレーベル館) ホッペくんは音楽の先生にうたをほめられたことを、両親やだいすきなおじさんに教えたいのですが、ちゃんと聞いてもらえません。でも、おじさんの部屋にはいると、不思議な世界に連れ込まれてしまいました。そこではホッペくんは大観衆の前で歌い踊りまくるのです! たとえ誰も聞いてくれなくても、僕は歌が大好き!と納得してにっこりのホッペくん。前作の『べんきょうなんてやるもんか』では、身の回りのものがいつの間にか変容して、不思議な空間になっていく様が印象深かったのですが、本作では、ファンタジーへの移行がちょっと唐突で、その後の展開の力技でなんとか成立させているような感じ。絵の中に小さなキャラクターがいて、それをさがしたり、ものに目鼻がついて何かに見えたりという遊びが隠されているのだが、それが物語につながる訳ではなく、ただのお遊びにしかなっていないのが気にかかる。細かな遊びが気になって、お話に集中しづらいからだ。 『海のむこうのずっとむこう』きゅーはくの絵本8朱印船絵巻(2009.4 フレーベル館 江戸時代時に描かれた「朱印船絵巻」を絵本仕立てになおして、描かれる人々の台詞を想像して吹き出しに書いたり、文章を添えたりしている。絵本の始まりは絵巻物なのだから、ぺーじでくぎったり、細部をアップにしたりして構成し直して絵本化してもおかしくはない。アップにすることで、隅々にまで目を凝らして絵を読み込むことができ、絵巻物を見る手だてとしては、良い手引きになっていると思われる。巻末には歴史的な事項がまとめられ、舞台となっているベトナム・ホイアンに残る朱印船時代の面影を写真付きで紹介している丁寧さ。 『あめ、じょあじょあ』イ・エミ文 田島征三絵 おおたけきよみ訳 (2008/2009.6 光村教育図書) どうしてあめがふるの?という疑問に答える科学絵本。日本の画家が描いているが韓国で出版されたものの翻訳。お話の展開には新味はないけれどのびのびとした絵、愛らしく抽象化されたしずくや蒸発し空へとのぼるさま、天と地をめぐりめぐる地球の大いなるいのちをかんじさせるさまがいい。いわゆる科学絵本然としておらず、科学をお話として日常につなげているのが好ましい。じょあじょあ、ちろちろ、びちり ぽろんなど擬音も楽しい。 『どうしてちがでるの?』ソ・ボヒョン文 田島征三絵 おおたけきよみ訳 (2008/2009.8 光村教育図書) 転んで血が出てしまった男の子。どうして血がでるの?という疑問に答える科学絵本。日本の画家が描いているが韓国で出版されたものの翻訳。体のなかを駆け巡る血。その動きを作り出す心臓のはたらき。血が運ぶものを説明したあと、かさぶたになって皮膚が再生するところまで説明している。説明の内容にはとりわけ新味はないけれど、勢いのあるイラストが生命感にあふれていてテキストに合っている。 『あかちゃんがうまれたら なるなるなんになる?』スギヤマカナヨ(2009.4 ポプラ社) あかちゃんがうまれて,変わっていく生活を、「なんになる?」 という呼びかけの言葉で、その変化を、自分の立場や行動で「どうなるか」見せていくのが、今までの兄弟ものの絵本と違って,楽しい。あかちゃんがうまれると わたしは「おねえちゃんになる」し、おかあさん、おとうさんも「わたしとあかちゃんのおとうさん、おかあさんになる」。おかあさんは「おおいそがしになる」けれど、おとうさんが「とってもやさしくなる」から、だいじょうぶ。みみもはなも「よくなる」のも、あかちゃんがきたからだね。お姉ちゃんの大変さも、赤ちゃんの変化もきちんとおさえ、みんなでゆっくり、家族になっていくんだってことを描いているのがすてき。 『はなとひみつ』星新一作 和田誠絵 (1978.3/2009.4 フレーベル館) もぐらをならして、花のお世話をしてもらったら、面白いだろうな,と思ったはなちゃん。そのはなちゃんの描いたもぐらの絵が、風に飛ばされて、秘密の研究所についたところ、モグラ型ロボットを作ることになりました・・・・。誰も種をまいていないところに,どうして花が咲くのだろう? 枯れかかった花が急に元気をとりもどすのをみて、どうしてだろう?と思ったのが、このおはなしの思いつきの始まりになっているのでしょう。ショートショートの星新一がこんなにも愛らしい絵本を作っていたなんて。 『シズカくんとクーちゃん』ジョン・J・ミュース作、絵 三木卓訳 (2008/2009.6 フレーベル館) パンダのシズカくんと3人の子どもたちの絵本の第2弾。本作ではシズカくんの小さな甥っ子クーちゃんとお年寄りのホイテカーさんが登場します。クーちゃんは俳句が好きで,口に出す言葉も俳句みたいに五七五のリズムになってしまう子。ホイテカーさんは体の調子が悪く、耳が遠いせいか、いつでも怒ったような怒鳴り声でお話するので、子どもたちに恐れられています。シズカくんがホイテカーさんのお家に連れて行ってくれたので、マイケルは書き取りについてホイテカーさんに教わることができたし、ホイテカーさんもアディにアップルティーの作り方を教えることができました。師匠と弟子の姿、教えること教えられることの意味を、絵本の中にとけこませているのは、さすがに禅や東洋思想に関心の深い作家ならではと感心した。 *このところの絵本雑感 気になっていることをすこし。 ワンアイデアを、同じ土俵にのっけてバリエーションをつけた絵本が短いスパンで刊行される状況がここ数年続いている。それは作家を疲弊させ、読者をスポイルし、これから刊行される絵本のレベルを低くしてしまうのではないかとおそれる。おお、このアイデアで1冊の絵本を作ったか、このキャラクターがこうなるのはおもしろい!と読者に受け入れられ、読み広げられる本は幸せだ。けれども、だからといって、つぎつぎと同じアイデアのヴァリエーションで新作を出すということは、次も読もう、おもしろいよ、次も次も、ということになり、最初の1冊で心に住み着いたキャラクターやアイデアが読者の中で広がり、つながり、深まっていく機会を奪っているのではないかしら。読者は目の前で展開されるものを、ただ見つめ、おもしろがり、次を求める。それでは、受け身のメディアだと言われるテレビとどうちがうというのだろう? きちんと向き合い、自分から読みを獲得しなくてはならない絵本、自分の心もようを振り返らせる絵本など能動的に読み進めるべき絵本を楽しめない読者を作りだしてはいないか。長い目で見れば、読者のレベルが本のレベルを作ってしまうのだということ、もう少し心にとめていたい。読み方の問題なのか、作り方の問題なのか・・・・。また、絵本にすることで子どもの想像力をそいでしまうアイデアというものもあるのではないか、とも思う。昔の幼児雑誌だったら3見開きくらいで作っていたアイデアを12見開き、15見開きで展開する意味をきちんと検討しているか。それを豊かになったと見るか、薄くなったと見るかで、ずいぶん本の評価が変わってしまう。何を絵本にするのか、どうしてそのアイデアを絵本にするのか、それは読者(子ども)にとって、どういう意味を持つのか。今年はそれをよく考えて見ていきたいと思う。 読み物編 ほそえ ○あたりまえのことをあたりまえにする<力> 『いちばんに、なりたい!』ジェニファー・リチャード・ジェイコブソン作 武富博子訳(2006/2009.7講談社) 『ひとりたりない』今村葦子作 堀川理万子絵(2009.7 理論社) 子どもと話していて、自分がどうしても子どもに何者かになってもらいたいと思い込んでいるのをぼんやりと指摘され、はっとする。夏休みに子どもと二人して読んだ2冊には、特別って何だろう? 当たり前に暮らすことが、なんと大変な能力を必要とすることか、と考えさせられた。 『いちばんになりたい』は『バレエなんかきらい』『キャンプでおおさわぎ』と書き継がれてきた仲良し3人組のシリーズ3作目。本作ではともだち二人が、ミュージカルに出演したり、単語つづり大会で学校代表になったりと、その才能を発揮しているのに、自分だけ「これ」といえるものがないと落ち込んでしまうウィリー。絵を描くのは好きだけれど、それがみんなに才能として認められるのかどうか・・・・。そこに本の読みきかせで知り合った幼稚園の男の子も絡んできて、ウィニーはいろいろとなやんだり、自分の嫌な面に気がついたりします。でも、子ども心にもなるほどなという結末を用意してくれるのがこの作家のうでの見せ所。みな、子どもも大人も何かで認められたいと思っています。でも、誰もが一番になれるわけではないし、いつでも1番になれるわけでもないということ。大変な状況の時に、何を1番大事に思えるか、それがその人の人となりを決定するということなど、子どもに伝えたいと思うことが、きちんと物語の中で素直に受け取れるようにかいてあるのが、このシリーズの素敵なところ。誰もが目を見張る特別な才能をほこるより、当たり前だけれどなかなか出来ない決断を、適切なときに適切にできることこそ、特別な大切な<人としての力>だということが伝わるといいな。 『ひとりたりない』は3人きょうだいが一瞬で2人きょうだいになってしまった家族の物語。サッカーボールを弾ませていた弟が道に飛び出したのを、一番上のお姉ちゃんが引っ張ってもどしたとたん、弾みで自分が道路に出てしまい、トラックにひかれてしまいます。お姉ちゃんのお葬式が終わった時から、弟は赤ちゃんみたいに指をすって、おねしょをして、いつもベッドで丸くなって寝ているだけになってしまう。お父さんもお母さんもお酒を飲むようになって、わたしはこのままでは家族が壊れてしまうと絶望していました。そんなとき、電話口で泣き崩れてしまったわたしの声を聞いてすぐ、おばあちゃんはやってきました。家を整え、皆がそろわない夕食も朝食も手を抜かず作り続け、あかちゃんみたいになってしまった弟のそばでは歌をうたってからだをさすったり、物語を読んでやったりしていました。「ひとり」たりなくなった家族がいかにして再生していくか、喪失を回復しようとする物語はたくさんあります。喪失を埋めてくれる物語の力を皆が欲しているからです。そのなかで本書はあくまでも小学校5年生の女の子の目線にこだわり、おばあちゃんがいかに語ろうとも、わたしにはわからないと思った時には、そう言わせる。けれども、おばあちゃんの語りは読者の心には届き、また女の子にもゆっくりと日々の生活を通して伝わっていく。最後、家族はおばあちゃんを囲み、初めて夕食のテーブルにつくのだけれど、少女は心の中で「ひとり、たりないんだよっ!」とはげしく思うのです。傍目から見れば、穏やかな家族の夕食風景ですが、なんとキワドーッな壊れやすい風景か。家族というものは皆、ガラスの家のようにこわれやすいものであり、わたしたちひとりひとりも細い綱を渡っているのだと二人に言わせています。だからといって、この物語はただただ暗く悲しいだけではないし、単に喪失を埋めるためのものではありません。埋められるものではないからです。女の子が考えグセを身につける、自分や他者との関わり方をとらえ直す。毎日毎日規則正しくご飯を食べる。ご飯作りや家事を手伝う。些細なことの積み重ねで毎日は支えられ、細い綱はぴんと張られているのです。 ○そのほかの読み物 『むねとんとん』さえぐさひろこ作 松成真理子絵(2009.10 小峰書店) ずいぶんとしをとったので、くまくんたちのいえでいっしょにくらすことになったおばあちゃん。時々、自分のしたことを忘れてしまうことがあります。それをみて、おこってしまうくまくん。それから、おばあちゃんは、忘れたくないことがあるたびに、自分の胸をとんとんしていました。胸にきちんとしまっておけるように。老いていく大好きな人の姿をなかなか認めることができないのは大人も子どもも同じです。けれど、そこから一歩進んで、おばあちゃんのぶんまでぼくがおぼえていてあげる、そして何度でもお話してあげるよ、というくまくん。そこにいたるまでを素直に納得できるように、おばあちゃんとくまくんの毎日とふたりの心の動きを丁寧に描いています。 『トゥルビンとメルクリンの不思議な旅』ウルフ・スタルク作絵 菱木晃子訳 (2005/2009.8小峰書店) トゥルビンとメルクリンは年の離れた兄弟。飛行機に乗っていってしまったパパを待って待って、二人で暮らしている。二人の暮らしはちょっと間抜けで不思議な感じ。隣に住む時計屋のおじさんは時間の最初の1秒をさがしている。不在を抱えて生きている兄弟二人は、それを埋めようと旅に出る。街に出て、砂漠をいき、サーカスと巡って。不思議な寓意に満ちた物語。 『靴を売るシンデレラ』ジョーン・バウアー作 灰島かり訳(1998/2009.7小学館) 背が高くて太っていて、全然いけてない高校生ジェナ。でも、靴を売っているときは、自分が必要とされていると思える。免許取りたてのジェナをドライバーにして、テキサスまで行こうとする老女社長。子の二人の道行きと会社の乗っ取りと靴を売るということ、アルコール中毒の父親とのかかわりなどがぐるんぐるんとミックスされ、ユーモラスで元気の出る物語になっている。ジェナがいろんな大人との関わりのなかで自分の魅力を自信に変えていくさまは、まさにシンデレラがおひめさまになっていくよう。日本語のタイトルが秀逸で、地に足をつけていきていくということはどういうことなのか、をしっかりと伝える生きのいい警句も愉快。現代をきちんととらえ、現実とどうかかわっていけばいいのかわからないと逃げ腰になってしまう子たちに、こんなふうに立ち向かってみなよと勇気を与えてくれる。とっても気持ちのいいYA小説。ぜひに。 『ザグドガ森のおばけたち』やえがしなおこ文 大野舞絵 (2009.7 アリス館) ザグドガ森に住む青おばけ、黒おばけ、白おばけは仲良く暮らしていましたが、カンクラ山にすむ赤ひげ王のかっている大きな犬に追いかけ回されるのだけが嫌でした。この赤ひげ王の犬に青おばけはつかまえられてしまってから、3人のおばけの関係がすこしづつかわっていくのです。青おばけは絵、白おばけは本、黒おばけは冒険ーそれぞれに心躍るものを見つけたり、新しい隣人ともつきあうようになり、物語が動いていきます。どこかにありそうな、どこでもない場所で楽しそうに暮らすおばけたちの姿に、自分を重ね合わせることができる子は、この物語にわくわくするはず。 『ネコのホームズ』南部和也作 YUJI絵 (2009.7 理論社) 動物病院を舞台にした探偵物語。開業していたモーガン先生がなくなった後、すべての財産を受け継いだホームズのもとにたよりなさそうな獣医師の青年ダニーがやってきたところから物語が動き始めます。ネコのホームズはどうぶつらしい観察眼と変装術でダニーを助手に事件を解決します。動物が関わる事件が3話入って、どの事件もそんなに複雑ではないので、お話を読み慣れていない子には手に取りやすいだろう。 『かんぺきな人なんていない』マーリー・マトリン作 日当陽子訳 矢島眞澄絵 (2006/2009.7 フレーベル館) 前作『耳の聞こえない子がわたります』で元気で生き生きしたキャラクターを印象づけた耳の聞こえない女の子ミーガンのクラスに、勉強も運動も出来る転校生アレクシスがやってきた。ミーガンは早速仲良くなろうとするのだが・・・・。障害を個性の一つだといいきるミーガンの両親。転校生には自閉症の小さな弟がいるのだが、それを皆に知られたくないという気持ちやこういう弟がいるから自分は完璧でないといけないという思い込みがアレクシスの態度をかたくななものにしているのだとミーガンは知る。2作目では障害を持つ子の家族や兄弟にまで視点を広げ、その問題をきちんと見据えながらも、ミーガンのストレートな性格と対峙させて、解決の道筋を示そうとしている。お説教臭くせず、愉快な学校生活の中で、このような問題を提示して読ませてしまう筆力がなかなか。 『トレッリおばあちゃんのスペシャル・メニュー』シャロン・クリーチ作 せなあいこ訳(2003/2009,8評論社) 目の見えない幼なじみの男の子ベイリーとのことをおばあちゃんにきいてもらう。おばあちゃんはわたしの話を聞きながら、自分の若かった頃のお話をかたり聞かせる。おいしいスープを作ったり、パスタ作りをしながら。クリーチの作品の最近の特徴である短い章をたたみかけるような構成でテンポよく、主人公のわたしの心情にそった形でおばあちゃんの過去と現在のわたしたちの関係が対比される。料理上手で語り上手のおばあちゃんはわたしの家族とベイリーの家族、引っ越しをしてきた2家族を大きな家族としてむすびつけてしまうのが素敵。 『クグノタカラバコ』いとうひろし (2009.7 偕成社) しっぽを燃やしてかかり火をかかげ、襲ってくるワニ。どんなものも食パンではさんで、そのものの力を存分に発揮させようとする男。誕生の時にいっしょに生まれてくる幽霊。迷子にならないとみつからない博物館。どれも、なに、それ?と思うようなものばかりでてきて、何となく読み進むうちに、こんなことあるかもねえ、なんて思わされてしまうへんな話が4つ。奇想の人というのはこういう作家のことを言うのではないか。ただ単に「へんなのー。こんなことあるわけないじゃん。でもおっかしいねえ」と笑って読み進む子も、「これって、どういうことだったんだろ」とふっと思いめぐらすこともありそうな、ふしぎな吸引力を持っている。わたしの好きなはなしは生まれた時にいっしょに生まれる幽霊のはなし。『詩の風景・詩人の肖像』(白石かずこ著 書肆山田)で紹介されているヤーン・カプリンスキというエストニアの詩人を思い起こす。彼の「死は外側からやってくるのではない、死は内側にいるのだ/死は生まれ育つ、わたしたちと一緒に・・・・」と書き出した詩を。少しばかりシニカルで、でも暖かみのあるユーモアを感じる彼の詩。それは本作のトーンに似ている。 『ジェミーと走る夏』エイドリアン・フォゲリン作 千葉茂樹訳 (2000/2009.7ポプラ社) アメリカ南部を舞台に、12歳の少女キャスと隣に越してきたアフリカ系アメリカ人のジェミーとの友情物語。走るのが好きで才能もある二人とそれを支える大人たち。二人の家族は互いに偏見を持ち、なかなか心を許せないが、熱中症になったキャスの妹をジェミーのお母さんが適切な処理をして助けてくれたことからゆっくりとかわっていく。ジェミーとキャスが互いに歩み寄っていくのは同学年で同じ趣味を持つからだけれど、今は亡き隣人のおばあさんミス・リズ(ジェミーの引っ越してきた家のもとの持ち主)がくれた本『ジェーン・エア』を読み合うことでより深く結びついていったのだと思う。本書には公民権運動の時期を乗り越えてきたジェミーのおばあちゃんやUSAストアのインドからの移民の店長ミスター・Gなどの大人が自分の思いを良く伝え、ジェミーとキャスを支えてくれるのがいい。低所得層の白人と教育を得て自分の能力で専門性を獲得し、ある程度の所得を持てた黒人との溝を描いているのがアメリカの一面を示しているようで興味深かった。 『トビー・ロルネス3 エリーシャの瞳』 2007/2009.2 『トビー・ロルネス4 最後の戦い』ティモテ・ド・フォンベル作 フランソワ・プラス画 伏見操訳 (2007/2009.3 岩崎書店) 1本の木を一つの世界と考えてその木から降りることなく過ごしてきた小さな小さな人たちのお話もこれで完結。木の世界を支配する独裁者との対決、最愛のエリーシャとの再会、とらわれの身の老いた人たち、シム・ロルネスやマイアは知恵をしぼって、抜け道を掘り進んだり、木からカビを取り除き、自治の力を手に入れた木こりたちの知恵とその頭領の果たした大きな役割。小さな伏線が物語を大きく動かし、見事に大団円にと収束していく見事さ。訳者あとがきにもあるように、1本の木の上での小さな人たちの生活はそのまま地球という大きな生命体に寄生するちっぽけな人間たちの姿に重なって読めます。独裁者の姿も、欲望に突き動かされ身動きが取れなくなってしまう人の姿も木を傷つけ掘り返す人の姿も。フランス児童文学の特色ともいえる、寓話的でアフォリズムにみちた物語。その流れをくみつつ、テンポの良い場面展開、脇役に至るまで魅力的に描き出したキャラクターの多彩さなど現代的な良さもプラスしている。ぜひ4冊続けて手に取ってほしい。 『キップコップどこにいるの?』マレーク・ベロニカ文と絵 羽仁協子訳 (2008/2009.3 風濤社) 西洋トチノミのこども、キップコップが主人公の絵童話シリーズ最新作。キップコップとティップトップ、キピコピたちが森で仲良くくらしていると、ある日、荒っぽい大風が吹いてきて、みんなを吹き飛ばしてしまいました。みなをさがしにいったキップコップがいつまで待っても家に帰ってこなくて、みんな心配していると・・・・。いつもおとうさん的な役まわりのキップコップがみんなに助けられるのが今までとちょっと違う感じ。小さなキピコピたちと一緒にドキドキしながら読んでいくことでしょう。 『ぼくだけの山の家』ジーン・クレイグヘッド・ジョージ作 茅野美ど里訳 (1959/2009.3 偕成社) アメリカで50年も読み継がれてきた児童文学。ニューヨークに住む少年がひいおじいちゃんが開墾した農場のあとにいき、たった一人で1年以上暮らすという物語。大自然の中のサバイバルものはたくさんあるけれど、都会育ちの少年が本からの知識だけで自然に立ち向かうというのはなかなかない。この本を読んで本当に森のなかで一人暮らしをしようとする少年がいたとかいなかったとか。それほど、リアリティを感じてしまういきいきとした描写なのだ。ハンターから鹿を失敬してしまうところや、ハヤブサを飼いならして獲物を捕らせるところ、野生の草や木の実を上手に使ってバラエティに頓阿食事をしているところなど、こんな風に暮らせたらなんと楽しいだろう、と思ってしまう。最後には、森に暮らす少年のもとに、家族がやってくるという結末なのだが、そこに至るまでにまた騒動があり、読者を引きつける。 『おばけのジョージー てじなをする』ロバート・ブライト作、絵 なかがわちひろ訳 (1966/2009.3徳間書店) 牧場の牛小屋か火事で焼けてしまったために、村のホールでお楽しみ会を開き、そのチケットの売り上げで牛小屋を再建するときめたのですが、ホイッティカーさんは手品をするはめに。むかし簡単なものを習っただけなのに、みんなの期待がつのって大変なさまになりました。それを助けたのがおばけのジョージーなのです・・・・。ねこのハーマンとフクロウのオリバーのおなじみのめんめんが、夜も眠れなくなってしまったホイッティガーさんを心配して、ジョージーに手伝ってと頼んだのでした。本作でもはずかしがりやでびっくりしてばかりのジョージーは、きっと小さな心配性の子(小さい子はたいていいろんなことを心配しているもの)を知らず知らず励ましているのですよ。 『やさいぎらいのやおやさん』二宮由紀子作 荒井良二絵 (2008.12理論社) 『らったらった らくだのらっぱ』二宮由紀子作 佐々木マキ絵(2009.1理論社) とうとう「あいうえおパラダイス」シリーズ完結です! らりるれろは今まで通り5話でそれぞれの音が頭につく言葉でお話が作られていて、テンポよくヘンテコなお話展開になるのを、グフグフ笑いながら読んでいけます。やゆよわをん、は「をん」というとんでもない音が入っていてどうすることやら、と思ったら、こんな変化球できましたかと頭が下がりました。 『もういいよう』あまんきみこ作 かわかみたかこ絵 (2009.6 ポプラ社) 入院しているお母さんに、お見舞いにいったみっこちゃんが話す不思議なお話7つ。子どもが一人でいるときにでてきてくれる心優しい動物たちやなにものか。みっこちゃんを心配して空に戻るのをのばしてくれていた雲の羊さん。一人でボール遊びをしていたあっこちゃんの前に、思わずお母さんの姿で現れたタヌキの子の思い。どのお話にも、あっこちゃんを思いやる気持ちがあふれていて、だいじょうぶだよ、ひとりじゃないよ、いつでも見ているよと作者が語りかけてきます。それは、入院しているお母さんの思いそのものでしょう。ラストはお母さんの病気を持っていってくれたかのようなしだれ桜の女の子があっこちゃんの前に現れます。ものがたることで納得する思いを文字にする。祈りのような物語。 『日曜日島のパパ』ペッテル・リードベック作 菱木晃子訳 杉田比呂美絵 (1999/2009.6 岩波書店) 離婚して日曜日島に暮らすパパと、夏休みのあいだ一緒に過ごす少女の日々を描く1冊。パパは本についての記事を書くライターの仕事をしている。ちょっと偏屈な人に思えるけれど、日曜日島でヴィンニと暮らしている様はおまぬけで、生活者としては大変そう。短いお話が42はいっていて、ヴィンニがおとなたち(パパを中心にした)の姿を観察して、割と辛辣にスケッチしているのがおもしろい。大人と子どもの関係がクールで、さばけているのが、日本の離婚ものとテイストが違う感じ。日本のだとしょうがない親(大人)を支える子どもという関係が痛々しいのだが、ヴィンニとパパはそれぞれにそういう人だからと認めているようにおもえる。それがなかなかいい。 『ぼくのネコにはウサギのしっぽ』朽木祥作 片岡まみこ絵 (2009.6 学習研究社) 子どもと身近な動物たちを描いた3話のはいった短編集。「ぼくのネコにはウサギのしっぽ」では出来のいいお姉ちゃんとふうつのぼく。おねえちゃんは拾ってきたネコを飼うことになった後、ぼくはしっぽがウサギみたいに短くて、がにまたで不細工のネコがほしいといいはった。このネコはネコ狩りから生き残った小さな臆病なネコだった。家にいてもなかなか人間に慣れないし、ご飯がなくても鳴きもせず、どこかから拾ったビニール袋をくちゃくちゃかんでいるような子だ。出来の良くないと思い込んでいるぼくが、この不細工なネコと自分を重ねているのを感じた、おかあさんのそれとないひとことがいい。弟としてやってきた子犬のダンとの留守番での出来事を描いた「毒物110番」、おさななじみの卓ちゃんの犬、平吉と私の犬、ハリーの散歩と平吉がいなくなった後の日を描いた「おたすけ犬」。どの話でも小さな犬やネコと一緒にいることで気づける人の姿をきちんととらえている。 『六月のリレー』伊沢由美子作 (2009.6 偕成社) 中学2年生の運動会で走ることになった5人のメンバーそれぞれに焦点を当てた章立て。准は転勤した家族のところに運動会が終わったら出かけることになっているし、走るのが速いユキは夜中に家を出て行ってしまうおばあちゃんにつきそっている。全然速くないのにリレーに手を挙げた葉の思い、施設で暮らしているひろし、離婚した父の家でかたくなな心をもてあましている楷。5人はそれぞれの思いをリレーで走るということで決着を付けたり、折り合いを付けたりしようとしているのだ。その姿を真摯に描いていく方法は確かにその子なりの存在を物語の中にきちんと浮かび上がらせている。YA小説のような軽やかさはないけれど、少年や少女を見つめる目はたしかで、本作を読む子は自分の胸の中のもやもやしたエネルギーのかたちのひとつをこのなかに見いだすかもしれない。 ○研究書、ほか 『フランス子ども絵本史』石沢小枝子、高岡厚子、竹田順子、中川亜沙美著 (2009.2 大阪大学出版局) 英米の絵本の歴史については研究書もたくさんあるが、フランスの絵本について、これだけの大部の研究書が刊行されたのは初めてではないか。16世紀末から出回り始めた民衆本(絵がたくさん入った小型の冊子)からはじめ、ラ・フォンテーヌ寓話、ペロー童話などに描かれた挿画、子どものための雑誌へと子ども文化が広がっていった様子を押さえた後、フランス絵本の到達点のひとつである『ジャンヌ・ダルク』を描いたモンヴェルやカトゥーンに大きな影響を与えたラビエ、愛らしいアンドレ・エレ、アルザスを愛し抜いたアンシ、「ババール」のブリュノフなどの紹介や位置づけが、多数の書誌画像とともに書かれている。長く読み継がれ日本でも翻訳の多いカストール文庫について、ショヴォー、アンドレ・フランソワ、サンペ、ジャクリーヌ・デュエーム、漫画(タンタンの作家、エルジェやベカシーヌのパンションなど)まできちんと紹介されているのはありがたい。フランスの子どもの本、絵本での日本の描かれ方まで1章が割かれ、北斎漫画を転載したものや藤田嗣治が日本の伝説にカラーの挿絵をつけたものなど書誌画像が大変面白い。全体として今まで児童文学の中の一分野としてしか紹介されていなかったフランス絵本を歴史的に一目で見渡し、挿画、絵本、漫画という大きなヴィジュアル表現形態をひとまとめにしてみせてくれた点が本書の特色。絵本史としては1980年あたりまでの本しか紹介されていないので、現在の活況を呈するフランス絵本の特色など考察があっても良かったのになと思われる。が、これだけのたくさんの画像をカラーですべて見られるだけでも本書を手にする価値は大きいと思う。 『小さな生きものたちの不思議なくらし』甲斐信枝 (2009.9 福音館書店) 『たんぽぽ』や『雑草のくらし』などで知られる絵本作家が絵本の差し込みに書いていた文章や、ラジオで語ったことを1冊にまとめている。どのように小さな虫たちや草たちを見つめ続けてきたか。植物の姿を見続けるうちに、ただそこにとどまっているにすぎないか弱い存在と思っていたものが、動的な意志を持った生き物としてたち現れてくるところがすごい。見続けるという意志が新たな発見をもたらし、絵本に輝きを与える。それぞれの文章に添えられた絵本の見開きページを見れば、ああ、この絵本も読んだ。子どもと一緒にページをめくったと思い返せる。 『越境する児童文学〜世紀末からゼロ年代へ』野上暁著 (2009.12長崎出版) 児童文学の世界が80年代後半から拡大し、拡散していっている現状をこれほど見事にとらえた評論集はないだろう。時代の流れ、新たな作家の台頭・・・・ちょうどこの年代に児童図書出版社にいたわたしにとっては、そうそう、こういうことだったのよ、とふりかえり、今後を考える指針となる書だった。児童文学を学んだり、語ったりする人、必読の書。 YAというジャンルがなぜこんなにも興隆したか、児童文学から出発した作家がなぜ、文芸書の世界でも人気を得るようになったのか。幼年文学の新たな流れを作った作品から読み取れること、などなど。的確に作品を取り上げ、同時代に書かれた主要な評論もしめし、時代状況とともに変化する読書の傾向やそれをひきおこした子どもの姿まで視野に入れて書かれている本書では、児童文学は子どもと大人の境界を越え、子ども文化として成熟し、大人にまで読者を拡張した漫画やアニメと同様に海外にまで広がっていく可能性を内包していると述べている。 それを良しとする現状もたしかにあるけれど、じゃあ、児童文学って何? 子どもの文学って何よ。子どもってだれよ。という問いも本書を読んだ後、どうしてもでてきてしまう。10歳以下の子どもの感覚、生活、思いをとらえ、共感し、広げ、暮らしていく心の支えになるような文学、本は今、どれだけ書かれているのか。そういうものを誰がどう読んで、どう評価し、手渡せているのか・・・・。と、いろいろと思いめぐらすことのできる、刺激的な本。 『ぼくらの言葉塾』ねじめ正一 (2009.10 岩波新書) 詩のことばを扱って軽く書かれたエッセイと思って読んではいけない。シンプルなことばで表現というものの核になることをぐいっと引っ掴んでみせてくれる。本書の半分は日本児童図書出版協会が毎月刊行している冊子『こどもの本』に連載されていた文章をまとめているので、絵本についても書かれている。それも絵本のことばをきちんと読み込み、それと絵をつきあわせ、絵本を読み解いている。だから、長新太の『ゴムあたまぽんたろう』や『ごろごろにゃーん』を読んでも、今までに書かれたどんな絵本評ともちがって、新しい。長新太のことばの飛び出すスピードの速さ、落ち着かない結末のむずむずとしたおもしろさ、繰り返されることばによって、絵もまた立ち上がり、ことばを支え、そのことばが絵のすごさを引き出していく様など、指摘されて「ほう」と納得するばかりでなく、それを知ることで、よりこの絵本を読みたくなってしまう。そういう力を持った絵本評だ。まどみちおや谷川俊太郎の詩について書いている文章でうんうんとうなずくのは、あたりまえ。いとうひろしの絵本について書いている文章を読んだとき、この作家の身体性に言及した評を書いた人は今までいなかったのではないかとびっくりした。そうなのだ、絵本についても、この詩人は正確なことばでその魅力を新たにひらいてみせてくれる。絵本ってこんなふうに読むものなんだよなあって思う。おすすめ。 |
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