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2010.04.25
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【絵本】 『ぶたにく』(大西暢夫:写真・文 幻冬舎エデュケーション 2010) 表紙に柵から顔を覗かせる可愛い黒豚の子ども。裏表紙にはたくさんのソーセージ。そしてタイトルが「ぶたにく」。作者は『おばあちゃんは木になった』の大西。 とくれば、期待は膨らみます。 今作でも大西は冷静に距離を置いて母豚の出産から始めます。四年間で八〇頭を産むこと、妊娠から集散までの日数。やろうと思えば簡単に「命の尊さ」に「感動」させられるであろう写真に、そうした数字が淡々と添えられていきます。この距離感は、ノンフィクションとしての写真の距離感とか、ジャーナリストとしての対象物との距離感といったものではありません。いったん熱く寄り添ってから、ゆっくりと撮れる距離まで離れたといったものです。ですからそれは客観的だとか、主観的だとかとは別の、関係性が生み出す距離感です。そうすることで大西は、読者にも彼の隣に座る場所を空けておきます。 こうした大西の距離は『おばあちゃんは木になった』での格闘から生まれたものですが、そのたたずまいは、物語との距離をつかめない現代の読者にとって、大切なことを教えてくれているようにおもいます。 生まれてから十ヶ月。一〇〇倍の体重、一二〇キロになった子ブタは出荷されます。百二十キロの内、売れる肉となるのは七〇キロであることも大西は記述します。一つの生命百二十キロで売れるのが七十キロ。 種豚としてだけ生きている雄豚。そして、捌かれた肉。加工されたソーセージ。 どれもが同じ距離で語られ、同じ距離で撮影されます。 そこにあるのは、「真実」といったとりとめのない「感動」の生成物ではなく、「事実」という、密度の濃い何かです。 すばらしい!(ひこ) 『ともだち くろくま』(たかいよしかず くもん出版 2010) シリーズ四冊目。これで四季がそろいました。 今作では黄色のきいくまくんが登場。 黄色と黒がベースの画面の中で、黄色いチョウチョを追ったり、黄色い花畑にもぐりこんだり、お互い見え隠れしながら遊びます。この辺りの無理のない展開はさすが。 今作でも、「アート」や「アイデンティティ」などよりむしろ「キャラ」を前面に押し出し、そこで何ができるかに力を注いでいる、たかいよしかずの腰の据わり方が良く出ていて好感度が高いです。(ひこ) 『うっかりもののまほうつかい』(エヴゲーニイ・シュワルツ:作 オリガ・ヤクトーヴィチ:絵 松谷さやか:訳 福音館書店 2010) 機械を作る名人のイワンは魔法使いでもあります。 ペットの犬もロボットです。 通りすがりに出会った荷馬車を引いた子どもから、この馬をネコに変えられるかと聞かれ、小さくする魔法のレンズを使って見事ネコに変えるのですが、大きくするレンズがなくて馬はネコのまま。でも力は馬のままなので、子どもはそのまま連れて帰るのですが・・・・・・。 といったうっかり魔法使いを描くユーモラスな展開の絵本です。 1945年初頭、ソ連作品ということを考慮すれば、ここに寓意を読み取ることも可能でしょうが、オリガ・ヤクトーヴィチによる現在の絵は、あくまで軽やかに、物語の面白さを描き出します。(ひこ) 『ぼくと おにいちゃん』(マレーク・ベロニカ:文と絵 うちだひろこ:訳 風濤社 2009) ハンガリーで八〇年代以前の子ども新聞(いつ頃のかをもっと詳しく書いて欲しかったです)の連載されていた作品です。マンガのようにコマ割りされた絵に文章が添えられています。 兄弟の喧嘩や遊びや助け合いの姿を通して、子どもの世界を描いています。 おにいちゃんがテレビを切ってもう寝ようと言うけれど、ぼくはまだ寝たくない。だから自分がテレビになって遊ぶ。本物のテレビよりおもしろいやと笑うおにいちゃん。 といった、シンプルなお話が語られていきます。 訳者の言葉に「当時はコンピューター、携帯電話、MP3プレイヤーなどはありませんでしたが」とあって、そこに今とは違う素朴さを感じてもいいのですが、しかし当時の「今」であるに代わりはなく、ちゃんとテレビはあるのでした。(ひこ) 『重さと力 科学するってどんなこと?』(池内了:文 スズキコージ:絵 「たくさんのふしぎ」2010・04 福音館書店) いよいよ301号に突入した「たくさんのふしぎ」。 その節目にふさわしく、直球です。 池内が重力という概念について、そのややこしさも含め、できるだけわかりやすく語っています。 重力と質量の概念は、科学だけではなく物語にも大きな影響を及ぼしてきました。空を飛ぶことからテレポートまで、そしてアイデンティティそのもののイメージまで(アイデンティティは質量とも言えます)。要するに近代小説は、重力と質量から逃れられません。 今作では、例によってスズキコージがイメージの赴くまま、ちゃんと計算もしながら、科学で遊んでいます。池内の直球言葉との乖離が楽しい。(ひこ) 『チコちゃん こまったこまったね』(たんじあきこ ほるぷ出版 2010) まず、チコちゃんがとてつもなくすごい子であるのを、作品は絵本らしく見せていきます。ワニを飛び越えるジャンプ! ゴリラすら熟睡させる子守歌、ネズミを追い払うネコの声。どんな困ったときも、チコちゃんは大丈夫。まるでピッピのようです。が、にんじんだけはいけません。にんじんだけは。 この作品が優れているのは、苦手を克服するのではなく、苦手を受け入れる方向で描いている点です。たんじあきこの視線はあくまで子どもに寄り添っています。 なんでもかんでも出来るようになるなんて無理。苦手があってちょうど良いのです。私なんか、苦手だらけだ。(ひこ) 『ネズミちゃんと おまつりのふうせん』(バレリー・ゴルバチョフ:作・絵 なかがわちひろ:訳 徳間書店 2010) 世界一幸せをくれる『ゆうびんやさんおねがいね』を作ったバレリーの新作です。おまつりで、ネズミちゃんは風船を買うのだけど、自分のだけじゃなくて、友達や家族のも買うの。でね、だからね、ネズミちゃんは風船をたくさん持っているものだから、空に浮かんで行って、さあ大変! おまつりのわくわく感から、ふわふわ浮遊感へと、バレリーは読者の子どもを日常から巧く誘い出し、最後はちゃんと日常に着地します。見事だなあ。(ひこ) 『はなげばあちゃん』(山田真奈未:作・絵 パロル舎 2009) はなげのとても長いおばあちゃんは、そいつを使って何でもできる! でも、ちょっと意地悪、人を困らせて喜んでいます。 という、ほとんど反則のようなおかしい設定の絵本です。 絵もまあ、その鼻毛の活躍振りを余すことなく伝えております。でもやらしい笑いじゃないのです。なかなかウイットにとんでいて、憎めませんよ。 シリーズ化希望!(ひこ) 『ほらふき じゅうたん』(デイヴィッド・ルーカス:作 なかがわちひろ:訳 偕成社2009) 女の子は毎日、窓辺で開いたままの本を膝に乗せながら移りゆく外の景色を眺めていました。フェイスって名前はわかっているのですが、ここはどこ? トラのじゅうたんが話しかけます。君は石像だと。そしてそれは魔法をかけられているからだと。 魔法が解けるまで、じゅうたんは、かつて空を飛んで見てきた話を語ってくれるのですが・・・・・・。 本当に彼女は魔法にかけられているのか? それとも石像なのか? 物語は本当か? 物語ることと、物語られることを巡るめまいに誘い込まれます。 デイヴィッドの絵は、もちろん完璧。(ひこ) 『2ほんの木』(エリザベト・ブラミ:作 クリストフ・ブラン:絵 小林繁夫:訳 上野与志:文 ひさかたチャイルド 2010) 大きな木と小さな木は感化をしながらも仲良し。なのにある日、人間はその間に壁を作り、二本は互いの姿を見ることができなくなります。 しょげる大きな木。小さな木は大きな木を励まして、お互いもっと大きくなれば壁より高くなって、会えることが出来るといいます。 やがて月日は流れ、二本の木の枝は伸びてふれあいます。もう誰も二本を話すことなんかできません。 シンプルな寓意です。でも、子ども読者にどう説明するかは結構難しいかもしれません。読み聞かせの場合だと、大人の方が自分の考えを持っていないと、子どもは混乱するでしょう。 絵は親しみやすくて良いですよ。(ひこ) 『コドリーのおやつ』(ロベルト・アリアーガ:文 ちばみなこ:絵 宇野和美:訳 光村教育図書 2009) ワニのコドリーくんはお腹がすいている。でもおかあさんは自分で探しなさいっていう。 だから、コドリー、おやつを探しにでかけます。 シマウマでもゾウでも、なんでもかんでも噛みついちゃうコドリー。みんなは、自分より草が美味しいだの、木の皮がおいしいだの言いますが、ワニのコドリーとしてはそんなものちっともおいしくないし。さて、どうしましょう? お話のおとぼけ具合も良しですが、なんと言っても、ちばみなこの画の、洗練されていながら、親しみやすい姿に共感。輪郭線の表情がいいんですね。好きです。(ひこ) 『ニャゴマロのコンテスト』(サム・ロイド:さく 久山太一:やく 評論社 2010) ペットのコンテストに参加することになったニャゴマロ。本当は参加したくなかったけれど、優勝カップを見たとたん俄然やる気に。ところが、ツンとすましたプードルにまんまとはめられて・・・・・・。 速い展開と、ちゃんと報酬が与えられる安心感がエンタメの基本を押さえた仕上がりとしています。(ひこ) 『ぐっすりメーメさん 夜のおさんぽ?』(マウリ・クンナス:作 いながきみはる:訳 猫の言葉社 2009) やぎにメーメさんは毎夜熟睡。でもね、眠りながら街をさ迷っています。もちろん本人は全く気づいていない。で、眠ったままですから何にも怖くないメーメさんは事件や問題を次々解決していきます。間が覚めると、なんだか知らないものが家に置いてあったりはするのですが・・・・・・。 何にもしてないのに解決していく様は、とても痛快であり、楽しいです。(ひこ) 『ほわほわ さくら』(ひがし なおこ:さく きうち たつろう:え くもん出版 2010) 『あめ ぽぽぽ』に続く「きせつのおでかけえほん」シリーズ二作目。 今作も「ほわほわ」といった音の妙味でページを繰らせていきます。 父と息子らしい二人が満開の桜の下を歩きながらの季節感。きうちはアングルを切り替えまくって、そのめまいのような浮遊感を巧く表出しています。(ひこ) 『パックン! おいしいむかしばなし』(ルーシー・カズンズ:さく・え 灰島かり:やく 岩崎書店 2010) 「メイシーちゃん」シリーズでおなじみのルーシー・カズンズによる、おなじみの昔話8作まとめて絵本です。 「あかずきん」「おおきなかぶ」「ブレーメンのおんがくたい」など、これ一冊で楽しめます。 ルーシー・カズンズの絵を賞味するにはぴったりの一冊でしょう。 でも、最近どの社も、昔話絵本ばかり出しているなあ。近代(語りではなく書かれた昔話は、近代が発見、加工した最初の物語の一つです)の終焉のに臨んで、近代回顧なのかしらん。(ひこ) 『どこでもない場所』(セーラ・L・トムソン:文 ロブ・ゴンサルヴェス:絵 金原瑞人:訳 ほるぷ出版 2010) セーラとロブによる、不思議な世界三作目です。クラインの壺のような空間が拡がります。画風はシュールレラリズムです。ドールハウスに部屋がいつの間にかそれをのぞき込んでいる子どもたち自身の部屋へとつながっていたり、雪山スキーが桜の枝の上を滑っていたり、相変わらず、めまいの度数の高い仕上がりです。 ルネサンスの時代、遠近法が取り入れられてから、それを逆手に取った異空間はたくさん描かれてきましたが、このシリーズはそれの優れた絵本版と言えるでしょう。 中性の宗教画が2D(結構好きです)だとすると、ルネサンス以降それは3Dとなったのですが、映画が3Dへと変わろうとする現在は、ルネサンスが近代を準備したように、あたらしい時代への橋渡しをするデジタルなルネサンス時代なのかもしれません。(ひこ) 『ステラが うんとちいさかったころ』(メアリー=ルイーズ・ゲイ:作 江國香織:訳 光村教育図書 2010) ウキウキと登場した赤毛のステラとその弟トムのこのシリーズももう10年ですか。早いですね。 今作では幼かった頃のステラの目から、世界はどう見えていたかを描いています。 読んだみなさんもきっと、うんうんと納得される事でしょう。確かにそうだったと。 そうして現在のステラがあるというわけです。 ここには成長への不安はみじんもありません。ちょっとうらやましい。(ひこ) 『このあいだに なにがあった?』(佐藤雅彦+ユーフラテス 福音館書店「かがくのとも」2010・04) 毛がフサフサの羊と、皮膚がむき出しの羊。「このあいだに 何があった?」という趣向です。 おたまじゃくしとカエル。湯船におもちゃを浮かべて遊ぶ子どもと、おもちゃが洗い場に出てしまっている状態の子ども。 二つの時間の間、その流れの中で何があったかを想像していきます。でもそんなに難しい想像ではありませんから、佐藤の思惑はそこにありません。プロセスを理解してもらうことがキモです。 これも絵本ならではの方法で、なかなかおもしろいですね。(ひこ) 『めっちゃくちゃの おおさわぎ』(K.チュコフスキー:作 F.ヤールブソヴァ:絵 田中潔:訳 偕成社 2009) かつての必読書『2歳から5歳まで』(理論社)のチュコフスキーが文を担当する絵本です。 様々な動物が自分と違う生き物の鳴き声をマネし始めたから、誰が誰かわからなくなって、もう大騒ぎ! という楽しい展開。ニャーニャーなくネズミに、ネコが捕らえられてしまったりね。 日本語訳も、言葉のリズムがよく考えられていますが、きっと原文はもっともっとおもしろいんだろうなあ。(ひこ) 『めんどりさんは ごきげんさん!』(ジャック・ティックル:さく ゆり よう子:やく ひさかたチャイルド 2009) 非常にシンプルなポップアップ絵本です。 ニワトリ、牛、豚など様々な生き物が、ページを開くと楽しそうに声を上げてポップアップ! 近頃の凝りに凝った仕掛けと比べると負けてしまうのでしょうけれど、でもこの、開けたらバァ!的なノリは大切ですね。好きです。(ひこ) 『うんちしたのは だれよ!』(ヴェルナー・ホルツヴァルト:文 ヴォルフ・エールブルック:絵 関口裕昭:訳 偕成社 2009) ご存じ『うんちしたのは だれよ!』がなんと、仕掛け絵本として帰って参りました! もう、なんというか、仕掛けられるのを待っていたのでしょうか。 ああ、すごい。しばらく遊びそう。(ひこ) 『水おとこのいるところ』(エーヴォ・ロオザーティ:作 ガブリエル・パチェコ:絵 田中桂子:訳 岩崎書店 2009) 蛇口がちゃんと閉まっていなくてたまった水。主は留守。そこで水は水おとことなり、さ迷います。 青をベースとしたパチェコの画はなんともユーモラスでありながら、そこに怖さを秘めています。 物語もまた、この異形の人への差別、そして彼の苦しい放浪を物語っていきます。 さて、水おとこのたどり着くところは? 幻想的ではありますが、リアルな感情が渦巻いています。(ひこ) 『おおかみようちえんに ようこそ』(ひがしあきこ 偕成社 2009) そんなに難しい展開ではなく、わかりやすく、そして読者の子どもたちは大笑い間違いのない、優れた物語です。 おおかみの夫婦は、子どもが大好きなのでようちえんを開園するのですが、やってきた草食動物の親子はびっくり仰天逃げていく。 でもでも、彼らは本当に子どもが大好きであるだけで・・・・・・。でも、おおおかみが大好きってことはそれは、食べたいから? 逃げろ! でもでも、違うんです。本当に二人は子どもが好きで。 さてどんな幸せな結末が待っていますことか。(ひこ) 『いぬとくま やっぱりふたりは』(L.V.シーガー:作 落合恵子:訳 クレヨンハウス 2010) 仲良しシリーズ三作目。いつものように仲良く遊ぶ二匹ですが、いぬのはしゃぎっぷりに、お片付けもままならず、くまは少々困った。そしていぬが、大好きな縫いぐるみがなくなったというのですが・・・・・・。 実はこのいぬとくまもぬいぐるみなんですが、だから彼らの他愛もない遊びや、仲良し具合が、ホノボノするんですね。(ひこ) 『ちゅうしゃなんか こわくない』(穂高順也:作 長谷川義史:絵 岩崎書店 2010) 人気コンビによる新作です。 内容は、まあ、タイトルまんまです。 じゃあ、本当に注射嫌いが治ったかというと、ホンマかいな? くれぐれも信用してはなりませんぞ。(ひこ) 『がんばったね。ちびくまくん』(エマ・チチェスター・クラーク:作・絵 たなかあきこ:訳 徳間書店 2010) 母子物です。 母親は家事にメールにと色々忙しい。かまってもらえないちびくまくんは、一人遊び。それもだんだん夢中になって、とうとう一人で遊べた! という段取りです。 変わることのないパターンですが、ママが育児以外のメールや電話をしている雰囲気は、今の時代の匂いが少しするでしょうか。(ひこ) 『ぼくが まもって あげるね』(アーサー・アレクサンダー:作 ふしみみさお:訳 あすなろ書房 2010) こちらは、子どもがテディベアを子どもに見立てて、その面倒を見る趣向です。 夢の中でしょうか、子どもはテディを抱いて森の中。不安なテディを勇気づけながら進みます。でも自分が段々不安になってきて、それにつれてテディの方が大きくなっていき、最後はテディに守られて無事ベッドへたどり着きます。 シンプルな構成ですが、独り立ちまでの端境期の気分を巧みに描き出していて見事です。(ひこ) 『テスの木』(ジェス・M・ブロウヤー:文 ピーター・H・レイノルズ:絵 なかがわちひろ:やく 主婦の友社 2010) テスは庭の古い木が大好き。いつも抱きしめ、いつも遊んでいます。ところが嵐の夜、老いた木は枯れてしまいました。悲しむテス、怒りをぶつけるテス。そんなテスの心を家族は近所の人たちはハどういやしてくれるのでしょう。そして、戻せないこの事態、そうした体験からテスはどう一歩踏み出していくのでしょう。 何かを受け入れることで、次へと進んで行くテスの姿は共感を誘います。 でも、日本でこんな環境にいる子はまずいないだろうなあ。大事なのはそっちかもしれない。(ひこ) 『アンナのあたらしいじてんしゃ』(カタリーナ・クルースヴァル:作 菱木晃子:訳 光村教育図書 2010) アンナが買ってもらった自転車の前かごに、友達のウサギや犬やネコたちはみんな乗りたがります。楽しく走り回るアンナと動物たち。が、キリンだけは大きすぎて乗せてもらえませんでした。悲しい。でもね・・・。色んな動物はもちろん、色んな友達の寓意です。見方によってはかなりキツイ設定ですが、そんなテーマも今絵本に必要なのです。(ひこ) 『あっぱれ ぱんつ』『りっぱな うんち』(きたやまようこ あすなろ書房 2010) どちらもお尻関係の、幼児絵本です。 『ぱんつ』は、様々な動物がそれぞれの特徴あるぱんつを次々履いていきます。ウサギはしろしろぱんつ、サルは赤いぱんつってな感じで最後は人間。さあ、何だ! 人間は色んなぱんつがあるのだあ! すごいだろ! 『うんち』も同じ趣向。人間のうんこはいろいろな素材で出来ているのだあ! 参ったか。(ひこ) 『どんなときも きみを』(アリスン・マギー:ぶん パスカル・ルメートル:え のざかえつこ:やく 岩崎書店 2010) ベストセラー『ちいさな あなたへ』のアリスン・マギー作品。『ちいさな あなたへ』と構造や趣旨はほぼ同じ、大丈夫系絵本です。 本作では、犬の語りで、「きみ」をいかに大切に思っているか、「きみ」を守ろうとしているかが語られています。 これらの作品が大人に「感動」を引き起こしやすいのは、「きみ」に語る姿勢によって、読者自身に語られているかのような錯覚と、作品内での「きみ」が子どもなので、大人読者自身が語り手と一緒に語り得ているかのような錯覚、この正反対の視点を同時に有することができる故です。大人読者は語る側と語られる側、どちらの位置に座ることも可能なので、都合でどちらにも移れますし、共存(いわば3D効果)も可能です。 それは詩や歌詞が得意とし、文学が苦手とした構造ですが、アリスンは絵本というメディアに巧く乗っけたと言えるでしょう。(ひこ) 『チリとチリリ ゆきのひのおはなし』(どいかや アリス館 2010) 人気シリーズ五作目です。 今回二人は雪の中を出かけます。氷のグラスで暖かいお茶をいただいたり、花のつぼみを凍らせたビー玉で遊んだり。このビー玉を温泉に浮かべれば花が咲いてきれい。 雪と氷の世界でもこの二人ならもちろん暖かい!(ひこ) 『ことば 観察にゅうもん』(米川明彦:文 祖父江慎:絵 福音館書店 2010) 一つの意味に、地域、年齢、時代、様々なレベルで多くの言葉が対応していることをわかりやすく描いています。また、言葉のいじくり方も描いています。 要するに、言葉の楽しさを伝えてくれているのです。それは個性を伝える道具にもなります。と同時に身分だとかを表す指標にもなってきました。その辺りには触れていないのは、これが、まず言葉の楽しさを知って欲しい企画だからですね。(ひこ) 『ぼくとかれんの かくれんぼ』(あきびんご くもん出版 2010) あほくささで一級品である、あきびんごの新作。 今作はアップリケ絵本。布絵なのですが、そのヘタ度はなかなかのものです。そして、なにより内容のベタさです。 「ばく」と「かれん」で「かくれんぼ」から始まって、「ジャガー の じゃがいも」などといったものが連発されます。しかも、「ジャガー」の「じゃがいも」が布絵で、そのまんま描かれるわけです。 大人にとってこの連発は、おやじギャグ以上の耐えきれない、あほくささなのですが、子どもはベタが好きなので受けることでしょう。(ひこ) 『ことばかくれんぼ』(山口タオ:文 田丸芳枝:絵 岩崎書店 2010) 出前授業で人気の出し物だそうです。 クマの子どもが「まま みるく まだあ?」。言葉の中からクマを探しましょう。という段取りです。『ぼくとかれんの かくれんぼ』と同じ方式ですが、あきびんごが強烈な個性で進めるのに対してこちらは、テンポよく展開していきます。 これも言葉の楽しさを伝えます。 言葉が痩せてしまっているから、こうした絵本が増えるのですかね。もう一ひねり欲しいですが、おそらくそうしてしまうともう、分からなくなるのでしょう。(ひこ) 『カクレクマノミは大きいほうがお母さん』(鈴木克美:作 石井聖岳:絵 あかね書房 2010) わかりやすいタイトルですね。帯も親切で「オスがメスに変身?」とありますから、もうだいたい話はわかるでしょう。 ですから後は、それをどう見せていくかです。 図鑑的要素と絵本的要素を混ぜ合わせて、その辺りをクリアしていきますが、両者のタッチが似ているので、少し分かりづらいところが残念です。 でも、こういう話を子どもの時に読むともう、絶対に忘れませんので、しかもこのテーマは、子どもたちがこれからインプリンティングされていくであろう性差への疑問の種を渡しておく意味でもいいですね。おすすめします。(ひこ) 『ゴリララくんの しちょうさん』(きむらよしお 絵本館 2010) 『ねこガム』などもそうですが、きむらよしおの良さは、シュールな設定をたった一つで最後まで押し通してしまう力技。「もっと展開しろよ!」という人には向きません。今回は噴水に何故かクジラが直立不動でいて、その理由は不明のままの四季を描きます。何がおもしろいかわからないけど、なんかおもしろそう。だからたぶんそれは、絵本より絵画のおもしろさに近いのですが、それを絵本(時間の流れ)にしてしまうのです。 タイトルをご覧下さい。工夫などという言葉は拒否でしょ。 ひょっとしてきむらは、物語なんて信じていないのかもしれません。(ひこ) 『サカサかぞくの だんなキスがスキなんだ』(宮西達也 ほるぷ出版) 回文シリーズ第二作。 今回は、読者から募集した回文も使っています。 ロケットで宇宙に飛び出した家族のお話を、ダジャレもありの回文で綴っています。 確かに苦しい。苦しい。 でも、その苦しい様を楽しむのが吉。(ひこ) ------------------------ お姫様が主人公の絵本には、王子様と結ばれるお話が結構あるのですが、王子様が主人公で、お姫様と結ばれる絵本はほとんどありません。それでは、お姫様は結婚のことしか考えていないみたいですね。そんなお姫様絵本たちにちょっと怒ってもいいと思いますよ、お姫様。 今回は王子様の登場しないお姫様絵本です。 『あざみ姫』(ヴィヴィアン・フレンチ:文 エリザベス・ハーバー:絵 中川千尋:訳 徳間書店)。子どもが欲しい王様と王妃様のために、あざみが赤ん坊になります。あざみ姫を大切にする余り、二人は彼女を城内に閉じ込める。外にいる子どもたちと遊べない彼女は段々元気をなくし……。淡く澄んだ色彩で描かれるのは、愛情という名のエゴですから、印象に強く残ります。 『あくびばかりしていた おひめさま』(カルメン・ヒル:文 エレナ・オドリオゾーラ:絵 宇野和美:訳 光村教育図書)は、タイトル通りで、両親は心配。なんとかしようと色々試みますがだめ。お姫様業に退屈仕切っていたのです。彼女が求めていたものは? オドリオゾーラの絵は輪郭線がうねってめまいを覚えそう。一度見たら忘れられないでしょう。 最後は、『リンゴのたねをまいた おひめさま』(ジェーン・レイ:作・絵 河野万里子:訳 徳間書店)。王様は三人のお姫様に、国民の役に立つことを七日七晩で行うようにと課題を出します。一番優れていたお姫様に国の行く末をまかせようというのです。つまり女性に跡を継がせるのです。細部まで描き込まれたイラストが目を奪います。 ね、本当のところお姫様たちは王子様を待ってばかりじゃないのですよ。そこんとこ、誤解しないで、王子様。(ひこ・田中 読売新聞 2009) 日本はアジアの一員ですが、私たちはアジアの絵本をあまりよく知りません。でも、すてきな作品がたくさんありますよ。 中国発の『ウェン王子とトラ』(チェン・ジャンホン:作・絵 平岡敦:訳 徳間書店)をご覧あれ。伝統的な中国の墨絵に西洋画をミックスした、この作品のリアリズムには一目惚れしました。 子どもを殺された怒りから村人を襲う母トラの怒りを鎮めるため、王様は赤ん坊のウェンを差し出すことになります。母トラは王子の無邪気さ魅せられ、殺さず育てます。一方王様は王子を救うために軍を従えてくるのですが、たくましい少年に育ったウェンは母トラをかばい・・・・・・。神話のように骨太な物語に圧倒されます。 韓国発の『あめが ふる ひに・・・』(イ・ヘリ:文・絵 ピョン・キジャ:訳 くもん出版)は、いらないものを徹底して取り払った力強い線画で、迫ってきます。 雨を眺めながら子どもは想像します。こんな日にチーターはどうしているだろう? ライオンは? チョウチョは? そしておとうさんは? 描かれているのは冷たく強い雨ですが、暖かさが心を包んでくれるでしょう。 最後は、イラン発、『ごきぶりねえさん どこいくの?』(M.アーザード:再話 モルテザー・ザーヘディ:絵 愛甲恵子:訳 ブルース・インターアクションズ)。 ごきぶりのおじょうさんが、幸せを探して旅をするという、愉快な昔話を再話しています。ペン画に水彩を施したイラストは、ごきぶりねえさんの可愛さを余すところなく伝えてくれます。これを読めば、きっとあなたもごきぶりが好きになるでしょう! とは申しませんが。 文化の違いを理解することで、アジアの国々に、もう少し近づいてみませんか?(ひこ・田中 読売新聞 2009) 「KY」って言葉が流行りましたね。でも、誰かを「あいつはKYだ」と非難したとき、気持ちが良かったですか? 何か嫌な感じが残りませんでしたか。それは、相手を受け入れなかった自分への後ろめたさです。 想像してください。もし、全員がその場の空気を気にしていたら、そこには百%嘘の関係しかできあがりません。 だから、友達に空気を読ませるより、面倒くさがらずに自分から近付いた方が絶対に楽しいと思いますね。 『あの子』(ひぐちともこ 解放出版社)は、子どもの顔の周りに「あの子といっしょに、おらんほうがええで」といった、排除の言葉が次々に浮かんでいきます。子どもたちの顔も増えていくのですが、みんな「あの子」と同じ顔。誰も「あの子」から直接何も聞かないから、悪い噂だけが拡がっていくのです。ドキッとします。 『ゆいちゃんのエアメール』(星川ひろ子:写真・文 小学館)。聴覚障害のゆいちゃんの日々を切り取った写真絵本です。親友の恵美子ちゃんがアメリカに行ってしまい不安なゆいちゃん。ゆいちゃんから聞いた言葉を元に、星川が二人の往復書簡を創作しました。友達になかなか理解してもらえないとき、「泣けるといいのに。私って、泣かない女なんだ」って綴るゆいちゃんに近付いて。 『学校つくっちゃった!』(エコール・エレマン・プレザン 佐藤よし子 佐久間寛厚:写真・文 ポプラ社)は、ダウン症の子どもたちがマンションの一室で、自分たちの理想の学校を作っていく姿を撮った写真と、彼らの画をコラージュしています。どんな子どもだって、こうならいいなと思うに違いない学校の姿です。カラフルな色、使いやすく便利な、そして何より楽しそうな学校! ダウン症を知らない人は、彼らの表情を見て。近付きたくなるでしょ。(ひこ・田中 読売新聞 2010) 私たちは学校を、ごく普通の場所だと思っています。でも一つの部屋で同年齢が数十人、長い時間を過ごすのは、かなり異様な風景です。そこでは年齢で差を付けられないから、力や言葉や学力で必要以上に上下関係を築こうとしてしまうし、一人では不安なので強固なグループを形成しがちです。それでは自由な空気が失われてしまう危険があります。ですから学校は生徒の個性を認め、活かす工夫が常に必要なのです。 『とくべつないちにち』(イヴォンヌ・ヤハテンベルフ:作 野坂悦子:訳 講談社)は、転校生の不安感を描いています。お遊戯で彼に与えられた役は「赤頭巾」のオオカミ。つまり余所者です。みんなが怖がるから、彼は不安感を忘れて楽しくなる。もっとオオカミでいたくなる。けれどみんなが会いたいのはオオカミじゃなく君だよと展開します。最初の実に情けない表情から、最後のほっとした姿への変化が楽しい。 『ふつうに学校にいく ふつうの日』(コリン・マクノートン:文 きたむらさとし:絵 柴田元幸:訳 小峰書店)は、普通で退屈な学校生活に突然、普通じゃない先生が現れて普通じゃない授業を始めるお話。その普通じゃない授業こそ普通になって欲しいのですけどね。絵は実に普通のタッチから始まって奔放な想像力へとどんどん飛翔しますよ。 『ダンディーライオン』(リズィ・フィンレイ:作 木坂涼:訳 幻冬舎)は、鮮やかな黄色で描かれた、ちょっと風変わりな転校生が出てきます。みんなの顔にひげを書いたりしますから、子どもたちは大喜び。でも、先生には困った生徒です。叱られた彼女は学校に行かなくなり、クラスは明かりが消えたよう・・・・・・。彼女を呼び戻そう! 変わった子どもも居た方が楽しい、というか、みんなが変わっていた方が楽しいでしょ!(ひこ・田中 読売新聞 2010) 本を読めと大人から言われると思います。私もまた、本を読むスキルは持っておいた方が絶対にいいよとあなたを誘惑します。 人は物語なしには生きていけません。というのは、架空の物語世界の中で時々遊ぶことで、現実世界をリアルに感じられるからです。『モン・ハン』を『ONE PIECE』を『プリキュア』を楽しんだあと、現実世界と向き合う力が湧きませんか? 本はゲームやマンガやアニメより古くからあるので大量の物語を蓄積しています。これを摂取しないでどうする! 『エリザベスは本の虫』(サラ・スチュアート:文 デイビット・スモール:絵 福本友美子:訳 アスラン書房)。本オタクのエリザベス。子どものころから本の世界だけに生きています。でもちょっとのめり込みすぎ。さて、そこからの脱出方法は? どのページの絵も本の山が描かれていますから、本アレルギーの方はご用心。 『としょかんライオン』(ミシェル・ヌオヂセン:さく ケビン・ホークス:え 福本友美子:訳 岩崎書店)。ある日、図書館にライオンがやってきます。館長は、図書館の規則にライオン禁止とは書いていないので許可します。読み聞かせが気に入ったライオン。もちろん子どもたちも大歓迎。でもライオンが図書館にいるのを快く思わない人もいて……。人とライオンの表情の豊かさが見所です。 『よにもふしぎな 本を たべるおとこのこの はなし』(オリヴァー・ジェファーズ:さく 三辺律子:訳 にいるぶっくす)。『文学少女シリーズ』の井上心葉と同じく、本を食べるヘンリーくん。食べるだけで知識はどんどん溜まりますが、とうとう脳には収まらなくなってしまう。ヘンリーはどうしたか? フォントもいろいろ変えて凝った絵作りです。 読書はほどほどに。でもほどほどは読んでね。(ひこ・田中 読売新聞 2010) 【小説】 『はこちゃんのおひなさま』(丸田かね子:文 牧野鈴子:絵 銀の鈴社 2010) はこちゃんは、縁戚疎開するとき大好きなおひなさまを持って行けませんでした。親とも兄とも離れひとりぼっちの生活は寂しく、せめておひなさまたちが居てくれたなら・・・・・・。家族がみんな疎開してきたのは東京大空襲の日。おひなさまも一緒です! でもそれから食事もままならない苦労の連続で母親も亡くなり・・・・・・。 時は流れ、今は孫もいるはこちゃん。今日は大切なおひなさまを人形館へ運ぶ日。寂しくもあり、でも多くの人に見てもらい戦争の悲惨さも知って欲しいはこちゃん。 丸田のおそらく自伝的要素を含んだ物語。戦争、疎開、飢餓など、忘れ去られようとしている時代に、過去を刻む試みです。思い出し、言葉にすることの辛さはいかばかりでしょうか。しかし、作家ですから言葉にします。 それはとても貴重な仕事なのですが、「戦争と子ども」を語るとき、犠牲や悲しみを中心にして描かれる日本の児童文学の傾向がここでも見られます。 日本の大人社会は戦争の加害者ですから、その子どもを描くとき彼らの立ち位置をどうすれば良いのか? という問題です。そこがはっきりしないから、被害者の側面がやや過剰に描かれてしまうのです。 ドイツの場合、内部の敵としてのナチス。被害者としてのユダヤ人。この構造がありますから、子どもをどこに置くかは、作者次第であり、どこに置くかにかかわらず「子ども」を描くことが可能でした。『あのころにはフリードリッヒがいた』もまた自伝的作品ですが、リヒターははっきりと主人公をナチスにかぶれていく少年として描きました。もちろんそれは相当に痛みを伴う作業であることは読めばわかりますが、それでも立ち位置は定められます。『走れ、走って逃げろ!』のユダヤ人オルレブもまたしかり。ところが日本の場合、戦争責任も(とりあえずの政治的決着はともかく)大人社会は取らないまま過ぎていきましたから、加害に荷担した子どもも、無関心に楽しく遊んでいた子どもも描くことが困難になりました。なぜならそれを描けば、大人社会の責任の所在を明らかにしなければならなくなるからです。 それを回避した場合、一番描きやすい子どもの立ち位置が、犠牲者であったのです。もちろん子どもは犠牲者なのですけれど。でも、子どもの風景はそれだけではないでしょう。『機関銃要塞の少年たち』(ウエストール)の子どもは、空襲で逃げ惑う大人を尻目に、ドイツ軍をやっつけようと、ドイツ機から奪った機関砲をぶっぱなそうとしますし、今江の『ぼんぼん』は戦時下の初恋を描きます。 戦争を語りはじめた丸田は、悲しみだけではない戦時下の子どもの日常も知っているし、書けるはずです。この作品で悲しみに一区切りを付け、この奥もぜひ描いて欲しいです。(ひこ) 『エミリーの記憶喪失ワンダーランド』(ロブ・リーガー:作 西田佳子:訳 理論社 2010) 九十年代アメリカで生み出されたキャラ、エミリーを主人公にした破天荒な物語です。 記憶を失った「あたし」は、見知らぬ街の奇妙なカフェに出入りしてかろうじて生きている。カウンターで働いているカラスは真実を知っているのかいないのか、よくわからない。集まる連中も一癖もふた癖もある。やがて「あたし」は自分が誰だか突き止めてもらうのだが、どうもそれも違うらしい。わかってきたのは「あたし」の記憶喪失は、どうやら「あたし」自身が仕掛けたらしいこと。でも、なんで? 今の日本風の若者言葉の使用は賛否分かれるところでしょうが(おそらく一年後には古くなる)、これでいいと思います。ページ数が間で飛んでいたり(だいたい、始まりが13ページだ)と楽しく凝っていて、もちろんその謎は最後には明かされるのでいいのですが、この早口の「あたし」の思考スピードと奇妙な展開に今の日本の子ども読者がどれだけついてこられるかが心配なところ。ライトノヴェルズだけ読んでいる人にはきついかもしれません。というのは、ライトノヴェルズは読者にとても親切だから。そこがいいのですけどね。 全体の雰囲気は六十年代から七十年代初めのヒッピー文化で、それの九十年代版クールアレンジです。(ひこ) 『山のとしょかん』(肥田美代子:文 小泉るみ子:絵 文研出版 2010) 山の中、子どもも街に出て行って一人暮らしのおばあさん。ある日畑仕事から返ってくると、押し入れにしまってあった絵本を詰めた箱が、何故か出ています。不思議な気持ちのまま取り出して見ると、子どもたちが小さい頃に読んで聞かせた絵本たち。 それからおばあさんは畑仕事の休憩中に、木陰で声を出して読むようになります。 するとどこからか男の子がやってきて聞いています。絵本を貸してあげると喜んだその子は、とっかえひっかえ借りていくのですが、どこの子どもでしょう? 予想はすぐにつく展開です。へたにオリジナリティを構築しようとしないところが、作者の覚悟。 ただし、このパターンの作品が日本にはやたら多い気がするのですが、それはこの国の児童文学の歴史と関係しているのでしょうか?(ひこ) 『クロニクル 千古の闇』(ミッシェル・ペイヴァー:作 さくまゆみこ:訳 酒井駒子:画 評論社) 全六 巻がついに完結しました。圧倒的な密度の物語。ファンタジーというよりもう少し大きな枠、「物語」として語る作品でしょう。長丁場を乗り切ったさくまゆみこと編集の岡本稚歩美、両氏に乾杯!(ひこ) |
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